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本と6ペンス

The writer should seek his reward in the pleasure of his work. ("The Moon and Sixpence" Somerset Maugham)

295. 大いなる遺産 上下 (ディケンズ)

貧しい鍛冶屋のジョーに養われて育った少年ピップは、クリスマス・イヴの夜、寂しい墓地で脱獄囚の男と出会う。脅されて足枷を切るヤスリと食物を家から盗んで与えるピップ。その恐ろしい記憶は彼の脳裏からいつまでも消えなかった。ある日彼は、謎の人物から莫大な遺産を相続することになりロンドンに赴く。優しかったジョーの記憶も、いつか過去のものとなっていくが…。


▽人間関係の妙
人生と人生が出会うことの面白さ、不思議さ。ときに悲劇をもたらし、ときに喜劇を生む、人と人との邂逅。小説家は、それらを巧みに組みたてることで物語を編んでいく。

そういう点で、ディケンズ(1812-70)は第一級の作家であると見ていい。彼が50歳に差し掛かろうという頃に書かれた『大いなる遺産』は、実に見事に設計されていた。「世界最高の小説百選」にも選出されている。

上巻で覚えきれないほど敷かれた伏線が、下巻ではことごとく、しかも少なからぬ驚きをともなって回収される。隠された過去や真実が徐々に明るみになっていく筋の面白さに、読者は本を手放せなくなる。

生命を吹き込んでいるかのように瑞々しい人物描写の数々も、この本の魅力のひとつだ。様々な型の人物が登場するが、見事に描き分けられている。もともと新聞記者だったディケンズの、人間一般への深い洞察が感じられる。

こういう本は、ストーリーを楽しんで読むのがいいだろう。教訓を汲み取ろうとして、力む必要はない。物語で登場する人生の諸相が、そのまま読者に多くのことを教えてくれる。


▽富貴と艱難
敢えて解釈すれば、これは主人公のピップが富貴と艱難を繰り返しながら、人生で大切なものを見つけていく物語だと言うことができるかもしれない。

「人間は艱難を共にできるが、富貴は共にできない」という、高杉晋作の言葉がある。逆境にある人は団結して敵を破ろうとするが、困難を乗り越えると私欲に走りはじめ、その結びつきは壊れてしまう。

「金の切れ目が縁の切れ目」という、これと反対の言葉もある。富み栄えていれば、人は自然と集まってくる。ところが逆境に陥ると、彼らはすっと姿を消してしまう。

どちらが正しい、という話ではない。二つの言葉に共通するのは、人生の浮沈こそが、その人にとって大切なものを教えてくれるという捉え方だ。

私たちにとって最も大切なものは、苦しいときも、喜ばしいときも、つねに私たちに寄り添ってくれている。蒸留と濾過をくりかえす実験のように、私たちを囲う環境がどう変わっても、「それ」は掌の中に残ってくれる。

この視点から物語を見ると、どうなるか。

惨めな幼少時代を送ったピップは、何者かから莫大な遺産の相続人に指名される。一躍、紳士としてロンドンに居を構えた彼だが、中盤の「逆転」を迎えてふたたび苦境へと立たされていく…。

転変する彼の周囲をぐるぐる回る、人びとの追従、信頼、嫉妬、誠実…。人間関係の諸相が目まぐるしく巡るなか、輝きを失わなかったもの。それこそが、主人公にとって一番かけがえのないものなのである。


▽ハッピーエンドの余韻
物語を考えるうえで、その幕切れについても言及しておきたい。

けっきょく彼に遺産は相続されず、かつて手放したもののうちに幸福が宿っていたことを知る。物語の終幕、気付けばピップは冒頭とおなじ素寒貧の状態に逆戻りしてしまっている。

ところが、物語の幕切れは不思議と明るい。静かな光がピップを照らし、ハッピーエンドのそれのような情景が浮かび上がる。

夕霧がはれかけていた。そして、はれわたる夕霧とともに、ひろびろと果てしなくひろがる静かな月明かりのうちには、彼女との二どの別離の陰影はすこしも見えなかった。

物質的な観点で言えば、「大いなる遺産」は、ピップになにひとつ恵まなかった。ヒロインとの別離とともに物語が終わるのも、この点で示唆的である。

一方、精神的な観点から見ると、ピップは物語を経てひとつ成長している。「大いなる遺産」こそ持たないが、彼は信頼のおける、大切なものを見出すことができた。

「すべてを手に入れながら、何が本当に大切なのか分からない状態」と、「何も持っていないが、自分にとって大切なものを自覚している状態」。はたして、どちらが「幸福」に値するだろう。

『大いなる遺産』がもたらす、ハッピーエンドの余韻。その裏には、そんな静かな価値判断が潜んでいるようにも思われる。


◆気に入ったフレーズ
「ぼくのことなんか、気にかけなくっていいんだよ、ジョー」
「ところが、わしはおまえのことを気にかけたんだよ、ピップ」102

子供は、小さな不正にしかさらされないかもしれない。だが、子供は小さいものであり、その世界も小さいものである。134

「嘘はどうして生まれたにせよ、やっぱり生まれちゃいけないものなんだ」。151

「おまえがずばぬけた物知りになるには、まずそのまえに平凡な物知りにならなくちゃならん」152

「もしおまえがまっすぐなことをやってえらい人間になれんのなら、曲がったことをやったからって、えらい人間になれるもんじゃけっしてない」153

およそ家庭を恥ずるということは、この上もなくみじめなことである。226

世界中のいっさいの欺瞞家も、自己欺瞞家にくらべたら、もののかずではない。477
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