
先日『車輪の下』を読み終えた後に、「ヘッセならこれを読め」という声が方々からかかった。そのうちのひとつがこの『シッダールタ』である。この場を借りてお礼を言いたい。素晴らしい本だった。
ヘッセの綴る文章は、比類なく美しい。美しいだけでなく、感覚に直接訴えてくる。埃っぽい風、汗と香辛料の匂い、今にも止まってしまいそうな時間感覚。数年前に旅したインドの情景が、脳裏にありありと浮かんでくる。
無駄のないことが美しい文章の条件であるとすれば、ヘッセの詩的文体はその極致である。一を書いて十を伝える。論理より強く読者を揺さぶる。感性と技巧を磨き上げなければ到底できない。
ひとつのお手本のような作家である。文章は冗長さのない美しさをもち、読めばその場の空気が薫ってくる。物語は面白いうえに、完結していて美しい。この著者と訳者から学べることはたくさんある。
▽ふつうのひと
この著作は、悟りを開くまでのシッダールタ(ゴータマ・シッダールタではない)の道のりを描いている。単に仏教の精神を説いただけの本ではない。あくまで小説である。小説としての面白さがある。
どんな教えにも満足せず、独り真理を求めたシッダールタ。彼はあらゆるものに教えを乞い、一時は愛欲や金銭などの快楽にまみれた生活を送る。
中盤における彼の堕落は、物語に二つの効果を与えている。ひとつは、世俗的なものに浸かることで、シッダールタを悟りの境地に近づけたこと。もうひとつは、主人公の「ふつうのひと」としての側面を読者に提示していることだ。
作品の肝は、「天才が、天才的な発想によって全てを理解した」という話に終始しないところにある。彼には「ふつうのひと」と同じ弱さがある。そのことが小説を劇的にし、面白くしている。
苦行にも、酒にも、女にも、豊かさにも答えを見出せない。快楽を追いかけながら、常に「渇いて」いる。シッダールタの思い煩いに、読者はどこか共感を覚えるだろう。彼が欲にまみれた生活を棄てたとき、僕は心の中で喝采をあげた。
自分の中にふたたび真我を見いだすために、自分は痴人にならねばならなかった。ふたたび生きうるために、罪を犯さねばならなかった。
快楽や情愛など、人間を動かす大きな力を知って、シッダールタの思索には一層の深みがでてくる。快楽を知らぬ禁欲に意味はない。世間を知った悟りだけが、世間のための思想となり得る。
あらゆる「教え」という権威を退け、独り求道し、一度は世俗に入って快楽を追いかけたシッダールタ。その道は、彼の発想が私たち「ふつうのひと」に寄り添ったものであることを示している。
▽生きることへの答え
ヘッセは、決して仏教の教えを押し付けているわけではない。ただ、この小説の中で「生きる」ということはある形をもって完結しているかのような印象を受ける。
少々突飛かもしれないが、僕はこの小説を考えたときゲーテの『ファウスト』を思い出した。ファウストもまた、悪魔と契約を結んで「生きる」ことへの答えを求めた人物である。
両作に共通するのは、「生きる」ことについて究極的な問いを立てた点と、回り道を経てその答えを見出した点だ。彼らは快楽の道や堕落の過程を「自ら経験して」、答えに辿りついている。
『シッダールタ』を読み、『ファウスト』を想起し、なんとなく思う。
生きることへの答えを求めて、本を読む人がいる。おそらく、僕もその一人だろう。でも、もしかしたらそれは間違いなのかもしれない、と。
本に答えを求めるより、精一杯生きて、心の声に耳を傾けること。真実を探して活字を追いかけるより、真摯に自分を引き受けること。そうかもしれない。その方が正しいかもしれない。
とりとめもない。だが、ここにきて読書を「悪徳」と断じたニーチェの言葉が分かってきた気もする。いつか僕も書を棄てなければいけないかもしれない。悪徳に染まる必要があるかもしれない。
人生を真摯に生きて悟りを開いた男、シッダールタ。彼の道のりを振り返ってみると、そんな不思議な予感がするのである。
◆気に入ったフレーズ
シッダールタの前には一つの目標が、ただ一つの目標があった。それは、むなしくなること、渇きから、願いから、夢から、喜びと悩みからむなしくなることであった。
「僕は長い時を要したけれど、人は何も学びえないということをさえまだ学び終えていない!」
「自分は自分自身について学ぼう。自分自身の弟子となろう。自分を、シッダールタという秘密をよく知ろう」
「だれだって目標を達成することができます。考えることができ、待つことができ、断食することができれば」
「書くことは良い。考えることはなお良い。賢明さは良い。忍耐はなお良い」
「愛しているとしたら、どうして愛を技巧として行うことができよう?」
「私は金持ちだった。だが、今はもうそうではない。明日何になるか、私にはわからない」
自分の中にふたたび真我を見いだすために、自分は痴人にならねばならなかった。ふたたび生きうるために、罪を犯さねばならなかった。
真の探求者は、真に発見せんと欲するものは、いかなる教えも受け入れることはできなかった。
「たとえおん身が十度彼のために死んだとしても、それで彼の運命のいちばん小さい部分でさえ、取り除いてやることはできないだろう」
そういうもののため人間が生きているのを、彼は見た。そういうもののため、はてしもないことをし、旅に出、戦争をし、はてしもないことを悩み、はてしもないことを忍ぶのを見た。
「さぐり求めるとは、目標を持つことである。これに反し、見いだすとは、自由であること、心を開いていること、目標を持たぬことである」
「世界は不完全ではない。完全さへゆるやかな道をたどっているのでもない。いや、世界は瞬間瞬間に完全なのだ」
「私のひたすら念ずるのは、世界を愛しうること、世界をけいべつしないこと、世界と自分を憎まぬこと、世界と自分と万物を愛と賛嘆と畏敬をもってながめうることである」


