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本と6ペンス

The writer should seek his reward in the pleasure of his work. ("The Moon and Sixpence" Somerset Maugham)

264. ダロウェイ夫人 (バージニア・ウルフ)

6月のある朝、ダロウェイ夫人はその夜のパーティのために花を買いに出かける。陽光降り注ぐロンドンの町を歩くとき、そして突然訪ねてきた昔の恋人と話すとき、思いは現在と過去を行き来する。生の喜びとそれを見つめる主人公の意識が瑞々しい言葉となって流れる画期的新訳。


▽「斬新な手法」
イギリスの女性小説家、バージニア・ウルフの出世作と言われている。僕はこの本を紹介されるまで知らなかったのだが、20世紀半ばに入水自殺を遂げるまで「イギリスのエリート階層出身の女性知識人」として人気を博した作家だという。

本の著者紹介に「斬新な手法で人間の心理を深く追求し…」と書かれていて、思わず頷く。この小説では一人称が次々と移ろっていく。街を歩く夫人から、そこを通りかかった若い男、その妻、そしてまたそこを通りかかった男…という風に。これが「斬新」でなくて何であろう。

登場人物たちの考えていることは、読者に筒抜けになる。彼らの「意識のレンズ」は、いっとき読者を支配しては去り、また不意に乗り移ってくる。この本を堪能するにはまず、そんな独特の叙述に慣れることが求められる。


▽齟齬のうえに立脚した世界
物語だけを見ると、ダロウェイ夫人がパーティを開くだけの一日。彼女の身に特筆すべき出来事は何も起こらない。そのかわり、本は人々の心理の深層に入り込み、そこに潜在する長大な物語をすくい上げる。

一日のあいだ、人間はさまざまなことを考える。鋭く核心を突くことから、ナンセンスなことまで、実にさまざまなことを。社会のいたるところで、そんな「意識のストーリー」は展開されている。いま筆者の隣に座っている人も、読者であるあなたの隣に立っている人も、皆一様に何かを考えて過ごしている。

膨大な量の思考が、常に人間を取り巻いて存在している。コミュニケーションは、他者の思考の一端をちらと見せる程度の役割しか果たせない。人間は、彼が話すことの数千、数万倍も考えている。

この本で表現されているのは、人間関係のそんな現実、すなわち人間がいかに他人を理解できていないか、そしていかに齟齬に満ちた状態で生きているかということである。

ジェイン・オースティンの「高慢と偏見」を思い出す。人間は、他者を解釈するうえで常に多少の「誤解」をしている。それでも人間関係は進展するし、社会は動いていく。

このリアリズムこそが、小説の持つ大きな魅力だ。彼らの意図は必ずしも伝わらない、それでも、その意図は彼の内側に、確かに存在した。この「客観では見えない主観的事実」を、ウルフは繊細な感性で浮き彫りにしている。

リチャード・ダロウェイが夫人に花束を渡す場面などが象徴的だ。彼は妻に「愛している」と口にしようと思ったが、結局伝えられない。そんな夫の心中などつゆ知らず、夫人の関心は花に注がれる。世の中では、こんな「ちょっとしたすれ違い」がしょっちゅう起こる。

さまざまな齟齬と、汲み取られなかった数々の意図。それらを踏み台にして、ダロウェイ夫人の「平凡な一日」は成立している。現実世界がいかに複雑かつ微妙な諸関係の上で動いているか、この小説はそれを印象的に描き出している。


▽一日は短い単位の一生である
明るい社交界を生きるダロウェイ夫人。この作品は彼女を通り過ぎるさまざまな人の心理に潜っていく。コンプレックスに苦しむ人、ねたむ人、昔を懐かしむ人、戦争で心を病む人…。小説の深みは、そこからもたらされている。

ただよう彼らの思考は不意に合わさり、不意にほつれる。彼らは同じ空気を吸い、同じものを見る。しかし、まったく違うことを感じ、考える。

人生というものは、一瞬一瞬に宿っている。本に綴られている彼らの意識は、それぞれの人生に裏打ちされている。誰もが、それまで何年と生きてきた経験をもとに、今を見、今を考えている。

この本には一日分のストーリーしか書かれていない。しかし、そこにはすべてが宿っている。生と死も、戦争と平和も、愛と憎しみも。「一日は短い単位の一生」とはよく言ったものだ。

これだけ雑多な要素を含みながら、あくまでダロウェイ夫人の一日は「平凡」なのである。考えてみると、「平凡である」ということは、凄まじいことなのかもしれない。

日が昇って日が沈むまでのあいだに、数々の人生が万華鏡のように現れては消え、また現れてを繰り返す。その様を知ってか知らずか、ダロウェイ夫人はページの間隙から、我々にうっとりと微笑みかけるのである。

みな生きることを愛してやまない。人々の眼差しに、その足取りの軽さ、重さ、心細さに、わたしの愛するものがある。


◆気に入ったフレーズ
みな生きることを愛してやまない。人々の眼差しに、その足取りの軽さ、重さ、心細さに、わたしの愛するものがある。

世間にああ思ってほしい、こう思ってほしい…ばかげている。一瞬だってだまされる人なんて、いやしないのに。

ダロウェイ夫人というこの感覚。もうクラリッサですらなく、リチャード・ダロウェイの妻というこの感覚。

「これがわたしの生きた人生です、これが」と言った。でも、わたしはどんな人生を生きてきたというの。そうよ、どんな?

感じることを言わずにおいたら千の後悔を残す。

生きるとはいいとのだ。太陽は熱い。ただ、人間は…人間はいったい何を望むのだろう。

人に必要なのは友ではなく敵だもの。

わたしたちはみな囚人よね。とても面白い戯曲を読んだことがある。囚人が独房の壁を爪でかりかり引っ掻くという…これが人生の真実だと思ったわ。

他人のことなど何もわからないという君の意見に、おれは反対だよ。ほんとうは何もかもわかるんだ。少なくとも、おれにはわかる。
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