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本と6ペンス

The writer should seek his reward in the pleasure of his work. ("The Moon and Sixpence" Somerset Maugham)

200.戦争と平和 一~四 (トルストイ) ①

19世紀初頭、ナポレオンのロシア侵入という歴史的大事件に際して発揮されたロシア人の民族性を、貴族社会と民衆のありさまを余すところなく描きつくすことを通して謳いあげた一大叙事詩。1805年アウステルリッツの会戦でフランス軍に打ち破られ、もどってきた平和な暮らしのなかにも、きたるべき危機の予感がただようロシア社交界の雰囲気を描きだすところから物語の幕が上がる。

【前置き】
「数は物事を偉大にする」という言葉がありますが、いまそれを痛感しています。個人的な趣味のつもりで立ち上げた書評のブログ記事が、2年4か月にして200記事に到達しました。
ブログタイトルにあるように徹頭徹尾「自己満」のためだけに続けてきたので、こういうのも変な話ですが、いま物凄く厳粛な気持ちでパソコンに向かっています(笑)。まぁこういう自意識過剰気味なところが、僕の「一人きりでこつこつやるのが大好き」という性分に影響しているのでしょう。

200記事目の書評は世界文学史の中でもひときわ燦然と輝く、トルストイの「戦争と平和」です。
自分が好きなロシア文学をキリ番で読みたいなぁという思いと、登場人物が559人出てくるという話を聞いたので、歯応えがありそうだなと思って選びました。

今回は二本、書評を書きます。
一本目は「大叙事詩」ということで、日本を代表する叙事詩である司馬遼太郎の「坂の上の雲」なんかも引きながら、「国民国家と叙事詩」について考えてみたいと思います。まぁこれは雑談の延長みたいなもんです。
二本目は、最終巻と解説で語られたトルストイの歴史観について少し考えた後、それを「戦争と平和」の物語と絡めて考察します。



【国民国家と叙事詩】
▽叙事詩と国家
「戦争と平和」の歴史的位置づけを理解するうえで鍵となるのが、冒頭のあらすじ部分にある「叙事詩」という言葉である。辞書では以下のように説明されている。

歴史的事件、英雄の事跡、神話などを題材に、民族または国民共同の意識を仮託した長大な韻文。

すなわち、叙事詩について重要なのは以下の二点ということになろう。
・歴史的事件が題材であること
・国民共同の意識を浮き彫りにすること

これらの性質から見れば、叙事詩は「国家」の重要な基盤たる物語だと言えそうである。叙事詩のような物語は人々に「国家的なできごと」の体験を語らせ・共有させることで、「想像の共同体」へのナショナリスティックな感情を生起させる。
叙事詩とはちょっと違うが、最近の日本の例でいえば3.11が相当するだろう。「国家が被った苦難」や「国家が歩んだ栄光」などにまつわる話は、読者が勝手に主語を「国家」から「国民」そして「わたしたち」へと変換していくことで、彼らと国家の心理的な距離を縮めていく。

「叙事詩」と「国家」は非常に密接な関係を持つ。
たとえば、日本における叙事詩は「日本が経験した歴史的事件」を題材にし、それを通じて「日本人らしさ」を浮き彫りにする。さらにそこで語られる内容は「日本のイメージ」を大きく規定し、小説の題材であるはずの「日本」という共同体のあり方を再生産してしまう。
より抽象的に言えば、叙事詩は国家を題材にすることで、国家のイメージを再生産する。そして後世の人々はこれを読むことで、勇ましく美しいその国民像に憧れを抱き、国民としての誇りと自覚を獲得するのである。

もちろん、叙事詩が以上のような政治的な文脈で常に理解されるわけではないし、むしろそういう場合はごく少数である。ほとんどの場合、今回の僕が読んだように「興味深い文学作品」として咀嚼される。
ただし、このような「国家的出来事を物語る・読む」という行為は理論上すぐれて政治的なものだとは、言うことができる。そして今回の記事では、そのことがちょっとした鍵になるのである。


▽国民国家と「戦争と平和」の時代背景

(フランス革命に端を発する政治状況は)もし政治指導者が国民大多数の支持を獲得できるほどの手腕を発揮できるならば、その政府は旧体制の指導者たちにはおよびもつかないほど強大な権力を手中におさめられるということを実証した。
「世界史・下」(マクニール)



詳しく語るときりがないが、一般に国民国家ないし「主役としての国民」概念はフランス革命によって生み出され、広まったとされる。
国民を主役に据え、彼らの忠誠心・愛国心をその原動力とすることで、国家は爆発的な実力を発揮する。戦時中の日本人を考えるといい。その評価は措いておくとして、人は「お国」という(理論的には)曖昧模糊とした共同体の実感に支えられれば、いくらでも苦境に耐え、力を発揮することができる。
引用部分で書かれているように、国民国家が生み出した威力は、当時にしてみれば驚異的なものがあった。フランス革命戦争でフランス勢力がヨーロッパの大半を掌握できたのも、国民国家の力によるところが大きいと考えられる。

さて、そろそろ「戦争と平和」に話を戻したい。
この作品が描く時代は、1805年から1812年まで続いたヨーロッパ革命戦争だ。国民国家が誕生して間もないころの戦争である。

そこで作品の主役たるロシアが相手取った強敵こそ、ヨーロッパ秩序をことごとく破壊し、民衆を混沌と殺戮の世界へと追いやったフランス革命軍であった。
その指揮官は、軍事・外交・政治への類いまれな才能を持ち、かつその冷酷非道さから当世では畏怖の対象であり、後世からは輝かしい「革命の時代」の代名詞として語られることになる、あのナポレオンである。

歴史的に見れば、ナポレオン戦争においてロシアは、当時怖いもの知らずのフランス軍に対して立ち上がり、相次ぐ敗北を喫しながらも、ついにその破滅をもたらした。「戦争と平和」はこの一連の経過を辿りながら、展開していく。
確かに、ロシアという国家の栄光と美しさを際立たせる上で最高の題材だと言えそうだ。アレクサンドル一世率いるロシアは、フランス、というよりも歴史の巨大なうねりとがっぷり四つ組んで、戦ったのである。


▽「国民国家」と叙事詩「戦争と平和」

「われわれはロシア人だ、正教と帝位と祖国防衛のために、惜しみなく血を流そうではないか。いやしくも祖国の子なら、世迷い言はやめるべきだ。いまこそ、ロシアがロシアのためにいかに立ち上がるかを、ヨーロッパに示そうではないか」

彼は、この人(アレクサンドル一世)の一言で、この巨大な全集団が、水火の中へも、犯罪へも、死へも、あるいは偉大なる英雄的行為へも邁進するのだ、と感じていた。

「ただ死あるのみだ、皇帝のために死ぬだけだ!」



ここまで考察を進めることで、本を読むうえでの一つの軸が見えてくる。「'国民国家'にはじめて触れる人々」という視点だ。
フランス革命をきっかけに歴史の主役に躍り出たフランス国民は、自由と平等や革命思想の美しさを誇り、それを実現したフランスという国に愛と忠誠を誓い、破竹の勢いでヨーロッパ諸国を破った。

しかし、見逃してはならないのは、国民国家の概念の目覚めは、絶対君主制下のロシアでも同様にあったということである。ロシア人たちは、「ヨーロッパを救うために立ち上がる」自国と皇帝アレクサンドル一世の姿に心酔し、そしてフランス人がするのと同じように、ロシアという国に愛と忠誠を誓う。
先ほどの引用は、みなロシアに対して「国民としての」激しい愛情に駆られた登場人物たちの言葉、様子である。歴史的に「愛国心」なるものが主要な役割を果たしつつあった時代、当時の人々が抱いた感動はどれほど大きかっただろうか。
そしてこの感動こそが、彼らという人間の内部に「国家」を反映させる原動力となるのである。「戦争と平和」の舞台は、「国家」が個人にこれ以上ないほど明確に、強烈に影を落としている時代だったと言える。


▽叙事詩を読むときに欠かせない視点とは何か
ここで、日本における叙事詩と評される司馬遼太郎の「坂の上の雲」を絡めながら考えてみたい。ハッキリ言えば、今回はこの話がしたかっただけである。
両作品の舞台は1世紀ほど前後するが、これは歴史的な前後関係を見れば大きな問題でないことが分かる。ロシア人がフランス革命から直に「国民国家」に触れたのに対して、日本人が「国民国家」という発想に触れるには、少なくとも開国から戊辰戦争、廃藩置県と明治維新あたりまでの近代化のプロセスを待たなければいけなかった。

さて、「坂の上の雲」のなかに、「戦争と平和」を読むときにも通じるこんな一節がある。


不馴れながら「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者としてその新鮮さに昂揚した。このいたいたしいばかりの昂揚がわからなければ、この段階の歴史はわからない。


国民として愛国心に打たれた人の、いたいたしいばかりの昂揚。
この昂揚が人々を支え、その行動原理の中に「国家的なもの」を忍ばせるのである。
叙事詩を読むときに最も魅力的な点の一つは、これではないかと思う。
決して愛国的になれと言うのではなく、人々の行動や思想の中に見えてくる「国家的なものの影」「○○人らしさ」を楽しむことができるという意味である。

国家的な出来事を歩む人々が偉大に見えるのは、彼らの中に「国家」という偉大な概念が息づいているからである。
「坂の上の雲」で描かれた当時のエリートたちは「自分達の努力がそのまま国家の成長につながる」という信念に基づいて、「雲を見つめながら、坂道を登っていった」のだった。
「戦争と平和」の中で登場するロシア人たちにも、その一挙手一投足に常に「ロシア人である」という何かが反映されている。

国民国家が発明されたばかりの時代だからこその現象だろう。私たちは叙事詩の登場人物に、国家を見ることができる。
登場人物の美徳はつねにロシアの美徳であり、彼らの絶望はつねにロシアの絶望であり、彼らの欲求はつねにロシアの欲求として見ることができるのである。

ロシアは彼ら一人ひとりの人物像でもある一方で、彼らの総和でもある。「戦争と平和」は、彼らを通じてロシアの美徳も悪徳も、すべて描きつくした。だからこそ、ツルゲーネフは「〈戦争と平和〉という作品こそ、真のロシアである」という評価を下したのではないか。



もちろんこうした興味深い符号、そして人々の輝きは、ナショナリズムというものに複雑な意味が付与される前の時代ならではのものである。
だからこそ、それらは私たちの時代にはない魅力として、読者の眼に映るのだろう。



さて、一本目の本論はここで終わり。
ナショナリズムのあり方について論じてもいいが、それは「叙事詩」という主題から離れるし、なにより面倒くさい。

単に「坂の上の雲」と「戦争と平和」を絡めて書いてみるのが面白そうだったので、やってみたかっただけだ。
厳密に時代背景を見れば、結構な共通点が存在するはずである。たとえば、両者ともに挑んだのが「当時の最強と目された勢力」(対ロ/対仏)であったこと、ともにギリギリのところで勝利をおさめたこと、ともにイギリス側について戦ったこと(笑)、など。

まぁそこまで厳密に書いても仕方がないので、今回は「国民国家と叙事詩」の範囲内で軽く触れるだけで、一本目はこれで終わり。
最近文章を書いてなくてフラストレーションが溜まっているので、そのまま書き続けたい。
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niksa1020 | URL | 2014-04-19(Sat)08:55 [編集]