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本と6ペンス

The writer should seek his reward in the pleasure of his work. ("The Moon and Sixpence" Somerset Maugham)

290. プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (ウェーバー)

営利の追求を敵視するピューリタニズムの経済倫理が実は近代資本主義の生誕に大きく貢献したのだという歴史の逆説を究明した画期的な論考。マックス・ウェーバー(1864-1920)が生涯を賭けた広大な比較宗教社会学的研究の出発点をを画す。


あらゆる「逆説」は、面白さと発見の源泉である。「こうだろう」という常識をくつがえす痛快さは、人を学問に駆り立てる。壮大な「逆説」を論理的に描きだした本は、多少難解でも多くの読者を惹きつけるものだ。

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、まさにそんな本であろう。営利を敵視し禁欲を志向したプロテスタンティズムが、結果として「カネがカネを呼ぶ」資本主義の土台を築いたという。途方もない「逆説」である。

100年前の書物であるがその面白さは色褪せず、肥大化した資本主義の「歯車」と化しつつある現代人に多くのことを考えさせてくれる。一読の価値がある論考であろう。


▽予定説による逆転
免罪符を発行するなど、腐敗したカトリック教会への反動として起こった宗教改革。そこで生まれたプロテスタントの教義は、「救済」のいっさいを神に委ねるものであった。つまり、予定説である。

予定説とは「その人が救われるか救われないかは、すでに神によって決められている」というもの。何をしようと、救われる者は救われるし、そうでない者は救われない。教会といえども、人間を救済し助けることはできない。

予定説によって人々が教えられたのは、人間は永遠の昔から定められた運命に向かって、一人で孤独に歩まなければならないということだった。

では、はじめから運命が定められた人間は、どのように救いを求めればよいのか。ウェーバーは、ここでひとつの逆転現象を描き出す。

「現世でよいことをするから、来世で救われる」という従来の論理は、神の独立した絶対性とは相容れない。著者によれば、予定説を信奉する人々は「救われる人間は、現世でもそれに相応しい生き方をする」と考えたという。

プロテスタントの人びとは、救いを求めて信仰することをやめた。かわりに、「救われている」という確証を得るために世俗を生きることにした。勤勉さや禁欲主義は、「神に愛されている」徴候として人々の目に映りはじめた。これによる変化を、ウェーバーは「生活態度の合理化」と表現している。


▽天職
職業という語には、神から与えられた使命であるという観念が含まれるのである。

ウェーバーはここで、「天職」という、やや古色蒼然とした概念を重視する。プロテスタントたちは「自分は救われる人間である」という確証を得るために、各々の世俗的な仕事に大きな力を注ぎだした。

この世で「天から与えられた仕事」を全うすること。「私悪すなわち公益」の市場経済で、職業を通じて社会を支えること。これらは「神の栄光を高める行為」として考えられた。

こうした文脈で、それまで決して正当化されてこなかった富は「後ろめたいもの」から「救われていることのしるし」へと昇華したのだった。

「宗教は必ずや勤労と節約をもたらすのであり、この二つは必ずや富をもたらさずにいない」


▽精神のない専門家、魂のない享楽的な人間
勝利を手にした資本主義は、かつては禁欲のもたらした機械的な土台の上に安らいでいたものだったが、今ではこの支柱を必要としていない。

ウェーバーの観察はここに止まらない。彼は、最終的に近代の資本主義から「精神」が失われ、システムのみが独立していることを指摘する。

先ほど、僕は「天職」という言葉について「古色蒼然」という単語を用いた。今日、「天職」という言葉はなかなか使われない。それは、人びとの「仕事」から、少しずつ「神」や「天」への哲学や精神が失われている徴候かも知れない。

ウェーバーは本著の中で「鉄の檻」という言葉を用いた。鉄の檻は人間の手によってつくられるが、人間をそこから解放することを許さない。今日なお肥り続ける資本主義も、それに近い。

精神なきシステムが、世界を覆っていく。終章で著者が危惧していたのは、まさにそこであった。

数日前の毎日新聞コラム「水説」を思い出す。今日の金融市場を支配しているのは、「アルゴリズム」を組み込んだコンピュータであると述べた中村秀明氏は、「長期的な視野に立って投資を続けること」こそが人間に出来ることだと結んでいた。

拡大する「非人間性」を前に、屈してはならない。さもなくば、私たちの精神世界はあっという間に破壊されつくしてしまうだろう。20世紀初頭にウェーバーの慧眼が捉えた問題は、依然として克服されるべき課題として残っている。

「精神のない専門家、魂のない享楽的な人間。この無にひとしい人は、自分が人間性のかつてない最高の段階に到達したのだと、自惚れるだろう」



◆気に入ったフレーズ
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290. プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 フレーズ集

このように経済的に発達した地方が、宗教改革を受容しやすい素質をそなえていたのは、どういう理由によるのだろうか。11

資本主義の「倫理」の最高善は、あらゆる無邪気な享楽を厳しく退けてひたすら金を儲けることにある。54

正当な利潤を組織的かつ合理的に、職業として追い求めようとする心構えを、ここでは「資本主義の精神」と名づけておきたい。87

この答えが意味するのは、人間が存在するのは仕事のためであって、人間のために仕事があるのではないということである。98

かつて資本主義は、興隆しつつあった近代的な国家権力と手を結ぶことで、昔ながらの中世の経済的な規制の形式を破砕することができたのだった。101

人生の究極の問題にたいして合理主義の原理に基づいた姿勢をとることによって、資本主義の精神が生まれたと考えるべきだということになる。115

職業という語には、神から与えられた使命であるという観念が含まれるのである。121

世俗的な職業に従事しながらその義務をはたすことが、道徳的な実践活動そのものとして、最高のものと高く評価されたことだけは、無条件に新しいことなのである。142

予定説によって人々が教えられたのは、人間は永遠の昔から定められた運命に向かって、一人で孤独に歩まなければならないということだった。210

世界におけるカルヴァン派の信徒の社会的な労働は、ひたすら「神の名誉を高めるため」に行われるのである。223

(救われているという)自己確信を獲得するための優れた手段として、職業労働に休みなく従事することが教え込まれたのである。241

カルヴァン派の信徒はつねに、自分が選ばれているか、それとも神に見捨てられているかという二者択一の問いの前に立ちながら、みずからをたえず吟味しつづけることで、救いを作りだすことができるのである。251

禁欲の目的はたんなる欲望の抑圧ではなく、覚醒し、自己を意識した明朗な生を送れるようにすることにある。273

信徒の倫理的な生活を組織的かつ合理的に構築することこそが、禁欲的なプロテスタンティズムのもたらした産物であった。294

現世の徹底的な脱呪術化のために、もはや内面的に世俗内で禁欲するほかには道が残されていなかった。377

禁欲はもはや自分が救われていることを確信したいと望むすべての信徒に要求された行為だった。386

現世のうちで来世を目指して行われる生活態度の合理化こそが、禁欲的なプロテスタンティズムの天職概念を作り出した。387

労働の意欲に欠けているということは、恩寵の地位が失われていることを示す兆候なのである。411

富が危険なものとみなされるのは、怠惰な休息や罪深い生活の享受の誘惑となる場合だけなのである。419

職業の義務を遂行することによって富を獲得することは、道徳的に許されているだけでなく、まさに命じられているのである。420

プロテスタンティズムの職業倫理は、禁欲的な生活をもっとも真剣に信奉する信徒たちを、資本主義的な営利生活に奉仕させる結果となったのである。427

財産が大きいほど、神の栄誉のためにこの財産を維持し、休む間もなく働いて、この財産を増やさねばならないという責任感が、ますます重くなるのである。458

禁欲の精神が求めたのは、所有者に苦行を強いることではなく、必要で、実際に有用なものごとのために所有物を利用することだった。462

「宗教は必ずや勤労と節約をもたらすのであり、この二つは必ずや富をもたらさずにいない」475

近代の労働者の特徴は、労働を「天から与えられた職業」と考えることであり、近代の実業家の特徴は、営利を「天から与えられた職業」と考えることである。486

何らかの「業績」をあげるために何らかのことを「放棄」するのは、どうしても避けられないことなのだ。491

禁欲が世界を作り直し、世俗の内部で働きかけようとしているうちに、これまでの歴史においてかつて例がないほどに、世俗の外的な事物が人間にますます強い力を及ぼすようにかり、ついに人間はこれから逃れることができなくなったのである。492

勝利を手にした資本主義は、かつては禁欲のもたらした機械的な土台の上に安らいでいたものだったが、今ではこの支柱を必要としていない。493

「職業の義務」という思想が、かつての宗教的な進行の内容の名残を示す幽霊として、わたしたちの生活のあちこちをさまよっている。493

「精神のない専門家、魂のない享楽的な人間。この無にひとしい人は、自分が人間性のかつてない最高の段階に到達したのだと、自惚れるだろう」494

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289. 城 (カフカ)

測量士のKは深い雪の中に横たわる村に到着するが、仕事を依頼された城の伯爵家からは何の連絡もない。村での生活が始まると、村長に翻弄されたり、正体不明の助手をつけられたり、はては宿屋の酒場で働く女性と同棲する羽目に陥る。しかし、神秘的な"城"は外来者Kに対して永遠にその門を開こうとしない…。職業が人間の唯一の存在形式となった現代人の疎外された姿を抉り出す。


▽パノプティコン
パノプティコン、という建造物システムを知っているだろうか。刑務所向けに発案したもので、中心に一本の監視塔が立ち、その周囲を牢屋の棟がぐるりと囲っている。

看守は塔から囚人棟を覗いて監視する。そこからはすべての牢屋が見える。一方、囚人たちから中央塔の中は見えない。結果、「見られている」かは分からないが、「見られている」と感じる状態がつづくのである。

この物語の舞台も、そんな状態に近い。

村人たちは常に"城"の目を気にしながら生きている。彼らのうえに暴政が布かれているわけでも、理想的な統治が行われているわけでもない。ただ誰もが"城"を畏れ、それに従おうとしている。

その中でどんな役人がどのように働いているのか、誰にも分らない。分からないからこそ、村人は畏れている。「見られてる」かは分からないからこそ、彼らは「見られている」と感じながら生活している。

彼らは何かと"城"への恭順を示そうとする。「仕事」や「役職」を重視し、中央の意に沿わない者には村八分を食らわせて糾弾する。そういう命令が下されるわけでもなく、すべては村人の間で自発的に行われる。

支配者の意図が見えないのに、被支配者の方が懸命に「支配されようとする」。そんな奇妙な状態に、"異邦人"の主人公Kは馴染めない。読んでいる方も、なんとなく気味が悪いなと感じる。

ところが、やがて読者は悟る。村人とは私たちのことであると。


▽架空の視線と社会秩序
「世間の人たちは、一定の考えにとりつかれてしまうと、どんなに手管を弄したところで、もういつまでもその考えを変えることはできないものです」。

ミシェル・フーコーという学者によれば、パノプティコンにおけるようなメカニズムは私たちの間でも働いているという。

私たちが違法行為を犯さないことは、「見つかったら処罰される」という恐怖心と強く結びついている。私服警官がいるか、監視カメラが作動しているかは分からなくても、私たちはどこかで「見られている」と思いながら行動している。

難しい言い方をすれば、「監視者の視点が個々人に内在化されている」。神や権力者の「視線」を感じながら人びとが暮らすことは、社会秩序の維持にも一役買っている。それはパノプティコンや『城』で起こっていることと、まったく同じだ。


▽未完という終わり方
『城』は、未完の作品であるとされる。カフカは書きながら次第に行き詰り、放棄したらしい。それでもこうして出版されて読み継がれているのだから、尋常なことではない。

ページを繰りつつ、僕は自分なりに『城』のラストを考えていた。上に書いた「パノプティコン」的な考察に基づいたら、どのようなラストが面白いだろうか、と。

たとえば、「城の中には何もなかった」というラストもいいだろう。村人が畏れて従ってきた権力の中枢が、実は真空だった。なかなか皮肉が利いている。

しかし、いろいろ検討するにつれ、この物語に限って「未完」に如くはないように思われてきた。

カフカは『城』を途中で終えることで、村人やKはおろか、読者に対しても永遠に"城"の門を閉ざした。城の不気味さと人間社会の不条理は、それによって最も強烈なかたちで表現されたのかもしれない。


◆気に入ったフレーズ
「あなたは、何者でもいらっしゃらない。でも、お気の毒なことに、あなたは、やはり何者かでいらっしゃる。あなたは、つまり他国者なのです」104

「どこへいらっしゃろうと、当地ではあなたがいちばん事情を知らない人間だということをいつも忘れないで、よく用心してください」118

日常生活とは、職務とは別な日常生活とは、いったいなんであろうか。122

「あなたが考えていらっしゃるのは、ご自身の仕事のことだけだということが、ありありとわかりました」318

「あの子は、クラムと話をします。でも、はたしてほんとうのクラムなのでしょうか」366

お昼にちょっぴり疲れていたら、その日が幸福によどみなく経過しているということなのだ。542

世間の人たちは、一定の考えにとりつかれてしまうと、どんなに手管を弄したところで、もういつまでもその考えを変えることはできないものです。580

あなたは、なにほどかのことを習って身につけていらっしゃるわけね。でも、それでもってなにもすることができなければ、やっぱりまるっきしの無だわ。583

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288. 春にして君を離れ (アガサ・クリスティー)

優しい夫、よき子供に恵まれ、女は理想の家庭を築き上げたことに満ち足りていた。が、娘の病気見舞いを終えてバグダッドからイギリスへ帰る途中で出会った友人との会話から、それまでの親子関係、夫婦の愛情に疑問を抱きはじめる…。女の愛の迷いを冷たく見据え、繊細かつ流麗に描いたロマンチック・サスペンス。

この主人公は、僕の一番苦手なタイプだ。思考や認識に「バイアス」がかかるのは仕方ないとしても、そのことにあまりにも無自覚でいる。考えの矛先を、決して自分自身に向けようとしない。

ジョーン・スカダモア。彼女の眼は見えているが何も正しく捉えず、耳は聞こえているが何ひとつ届かない。彼女が認識するのは、「かくあれかし」という彼女の内面と合致するものだけで、他の一切は捻じ曲げられる。

人間や社会は、いつも細やかな「サイン」を送りながら生活している。自分のことを相対化できないと、それらを虚心に見つめられず、その意味するところも正確に掬い取れない。


▽「かわいそうな・リトル・ジョーン」
あぁ、「プア・リトル・ジョーン」、主人公の独白ほど僕にとって腹立たしいものはなかった。なぜあれほど多くのことを見落とすのか、自分は嫌われ、疎まれているのだと、なぜその可能性を見ようとしないのか!

幸福、人生、喜び…。ジョーンは彼女の固定観念に基づいてそれら設計し、周囲に押し付けていた。口では綺麗事を並べたてながら、やっていることは強権政治。しかも本人も無自覚だから、なお性質が悪い。

自分にとっては「不幸な境遇」に、静かな満足を覚える人もいる。自分の価値観だけが全てでないということを認識するのは、誰にとっても愉快ではない。一部の人にはそれがどうしても受け付けられない。

彼女もそうだ。知ろうとしない。自分が社会の中でとるに足らない存在であるということを。自分の掲げる「成功」や「現実主義」は、体面への配慮でしかないことを。その「幸福」が、周囲に苦痛を与えていることを。


▽真実に対して
わからなかったのだ、何一つ! はっきりいって、知りたくなかったのだ。
旅の途中で独りきりになったとき、彼女はそれまで蓋をしてきた現実を見つめはじめる。一時は思い乱れ、打ちひしがれたような気分になる。

ところがロンドンに戻った彼女は、暗い考えを「気の迷い」として捨て去ってしまう。容器の中身はあまりに恐ろしく、酷い腐臭を発していた。だから彼女は蓋を閉めた、ほとんど本能的に。

その蓋を、夫はさらにきつく締める。君には直視できない、君は気づかなくていいのだ、と。彼女は真実を永遠に失った。しかし、それでいい。夫の判断は賢明だったと思う。

ところが主人公と同様の心当たりがあるらしい解説者は、この夫の態度を詰る。なぜジョーンに真実を突き付けないのか、これは彼の責任でもある、と。

しかし、それは違うだろうと思う。真実は人を傷つける以上、それを知るには覚悟がいる。「不都合な真実を認めることができるか」というのは、機会ではなく、本人の能力如何にかかっているのではないか。

夫に責があるなら、それは彼女と結婚したことだ。彼女の「蓋」に触れることなく夫婦生活を営んだ彼は、その点でも立派に責任を果たしていると思われるが、それは所謂「男の論理」かもしれない。


▽「孤独のススメ」
僕は真実が見えているなどと思いあがるつもりもない。ただ、自分に不快な現実や、不都合な真実が世の中に存在することへの覚悟はしているつもりである。

子どもの頃から、ときどき一人で考え事をする癖があった。そうすると「自分」が分からなくなり、足元の地面が崩れていくような感覚に陥る。昔はそれが怖かったが、そこから「自分を作り上げる」という心構えをしてからは、平気になった。

「孤独のススメ」という曲がある。有名な曲ではない。B'zのボーカル・稲葉浩志が、ソロのアーティストとして歌っている。

たまにはひとりで
深い海を潜っていってみてよ
新しい言葉を
息も絶え絶えに手に入れてごらん


もし真実の中を生きたいと思うのなら、息も絶え絶えになって、ひとりぼっちになってみるといい。自分に対して嘘をつき通すことは、誰にもできないのだから。


◆気に入ったフレーズ
「あなたはどうなのよ? やりたいことは残らずやってきたんじゃないの?」29

男と違って、女の考え方には安定性があり、ずっと現実的だ…51

「人生は真剣に生きるためにあるので、いい加減なごまかしでお茶を濁してはいけないのです。なかんずく、自己満足に陥ってはなりません」137

「自分の望む仕事につけない男、自分の天職につけない男は、男であって男でないと。ぼくは確言する」190

わからなかったのだ、何一つ! はっきりいって、知りたくなかったのだ。266

けれども彼は自分の言葉の虚しさに気づいていたのだった。
君はひとりぼっちだ。これからもおそらく。しかし、ああ、どうか、きみがそれに気づかずにすむように。326

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287. リア王 (シェイクスピア)

老王リアは退位にあたり、三人の娘に領土を分配する決意を固め、三人のうちでもっとも孝心のあついものに最大の恩恵を与えることにした。二人の姉は巧みな甘言で父王を喜ばせるが、末娘コーディ―リアの真実率直な言葉にリアは激怒し、コーディーリアを勘当の身として二人の姉にすべての権力、財産を譲ってしまう。老王リアの悲劇はこのとき始まった。四大悲劇のうちのひとつ。

シェイクスピアによる四大悲劇、『リア王』はその最後の作である。王位を退くリアの悲劇を中心に、女の野心、男の裏切り、そして一部の家臣の忠誠などが渦巻く。まさに「大作」という表現が相応しい。


▽「悲劇」
「悲劇」の定義を調べると、主人公となる人物の行為が破滅的結果に帰着する筋を持つ物語とある。リア王はなぜ破滅的な結末を導いてしまったのか、それがこの作品を読み解くカギになりそうだ。

この物語の場合、その根源は娘たちの孝心を父が試した冒頭に見出すことができる。上の二人の姉は言葉巧みに父への愛を語るが、末娘コーディ―リアにはそれが出来なかった。

コーディ―リア 申し上げる事は何も。
リア 何も無い?
コーディ―リア はい、何も。
リア 無から生ずる物は無だけだぞ、もう一度言ってみろ。
コーディ―リア 不仕合せな生まれつきなのでございましょう、私には心の内を口に出す事が出来ませぬ。


そもそも娘の愛を測るということ自体が無粋というものだが、「言葉では足りない」という末娘の真心もリアは解することが出来なかった。娘の言葉を聞いて、王は前後を失うほどの怒りに駆られてしまう。

彼は怒りに身を任せ、コーディ―リアを勘当する。驚いたのは、一部始終を見ていた二人の姉である。気まぐれになった父の逆鱗に、いつ触れてもおかしくない。彼女たちはリアを陥れる計略を図り、物語は破局に向かいはじめる。


▽怒り
悲劇の要素はたくさんある。決して単純な物語ではない。手許を離れて斜面を転がる雪玉が大きくなっていくように、リア王がつき動かしたストーリーは周囲の野心や権謀によって加速していく。

ただし、重要なのは、悲劇のトリガーを引いたのがリア王の理不尽な「怒り」であったという点だ。王の怒りは彼自身の目を曇らせ、周囲の人々の頭にも靄をかけてしまった。それが物語のひとつの核心であることは、間違いないだろう。

老王の怒りは彼の心身を燃やしつくし、ついには命を奪ってしまう。怒りによってつき動かされ、その感情の死とともに終局を迎えた悲劇は、セネカのこんな言葉を僕に想起させた。

怒りは余りにも急激で狂暴であるから、自分で自分の行く手をふさいでしまう。
(『怒りについて』)


◆気に入ったフレーズ
「私には心の内を口に出すことが出来ませぬ」14

「弓は引絞られた、矢面に立つな」16

「万事、良かれしと務めて、その結果、良い事まで打毀してしまう事がのくあるものだ」57

「立腹には特権が附きものにございます」72

「人間、有るものに頼れば隙が生じる、失えば、かえってそれが強味になるものなのだ」135

「どん底などであるものか、自分から『これがどん底だ』と言っていられる間は」136

「人間、忍耐が肝腎、己れの都合でこの世を去る訳には行かない」179

「人間、外から付けた物を剥がしてしまえば、皆、貴様と同じ哀れな裸の二足獣に過ぎぬ」

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286. デミアン (ヘッセ)

ラテン語学校に通う10歳の私、シンクレールは、不良少年ににらまれまいとして言った心にもない嘘によって、不幸な事件を招いてしまう。私をその苦境から救ってくれた友人のデミアンは、明るく正しい父母の世界とは別の、私自身が漠然と憧れていた第二の暗い世界をより印象づけた。主人公シンクレールが、明暗二つの世界を揺れ動きながら、真の自己を求めていく過程を描く。

「自分を持つ」というのはたいへん困難な作業である。そのことは昨日読んだ『自由からの逃走』でも指摘されている。人が「自分の意見」を言うときですら、ほとんどの場合、それは知り合いや新聞の意見などの「借りもの」に過ぎないのだ。

人は他人なしに生きてけない。でも、他人に縛られ振り回されてばかりの生き方でいいのか。世間は明るい美徳を讃え、暗い悪徳を非難する。だからといって、人は悪徳を正視せずに生きていいのだろうか。

この小説の主人公シンクレールは、はじめは人目を気にしながら生きていた。不良少年の目を気にするあまり「俺だって盗んだりするんだぞ」という武勇伝をでっちあげ、自縄自縛となって苦しんでしまう。

「デミアン」は、そんな彼の前に現れた少年だった。彼はシンクレールに悪徳から目を逸らさないこと、そして自分と向き合うことを教える。ちいさな哲学者に導かれた主人公は、少しずつ自己の運命を見出すようになる。


▽明るい世界と暗い世界
この世には、華やかで上品な、明るい世界がある。誰もがその世界を褒め称え、そこへ至らんと欲する。反対に、陰湿で品がなく、暗い世界も存在する。人びとはそこに視線を落とすことを厭い、批難の矛先を向ける。

暖かい陽光が差し込む豊かな家庭、敬虔な祈りを捧げる優等生ばかりの学校。そうした「明るい世界」に、少年シンクレールはどこか違和感を感じていた。日の当たる道を歩むことだけが人生なのだろうか、と。

窓のない暗い部屋での思索、酒と快楽を追う放蕩の日々、聖書を独創的に解釈していくことの歓び…。こういった「暗い」ものが、彼を惹きつけた。明るい世界を歩むことを期待する家族や世間とのギャップが、彼を苦しめた。

デミアン、彼の名前は「悪魔(=デーモン)」から来ているというが、彼は悩めるシンクレールに悪魔的な囁きを吹きかける。「君自身の望みから目を逸らしてはいけない」、と。

彼は主人公に「アプラクサス」という神を教える。それは天使でありかつ悪魔でもあり、善であると同時に悪でもある。「神的なものと悪魔的なものを結合する」それは、まさにシンクレールの心の内奥を表象したものだった。

明るい世界だけを生きることも嘘だし、暗い世界だけを生きるのも嘘だ。デミアンは社会の価値観に自らの道を委ねることなく、自らそれを模索することを教える。

「その夢を生き、それを遊び、それに祭壇を立てたまえ!それはまだ完全なものではないが、一つの道だ」


▽ヘッセの転換点
解説が指摘しているが、『デミアン』はヘッセの著述活動の転換点だった。物語のなかでも取り上げられている大戦が、彼の内外における「平和」と「明るい世界」を破壊してしまったのである。

人と人が殺し合う時代に、ヘッセは否が応でも「暗い世界」を認識しないわけにはいかなくなった。その「暗さ」をどう考え、どう受け入れていくべきか。その悩みが、1919年に発表された『デミアン』をつくりあげた。

悪を直視し、暗い悩みに身を焦がすようでなければ、本物の思想は生まれない。解説は、ヘッセが『デミアン』の執筆を通じて成長を遂げたと指摘している。ヘッセが獲得した「深み」は、後年の『シッダールタ』にも反映されている。

良いことでも悪いことでも、目を逸らさずに生きること。辛いけれど、そうすれば人はもっと強くなれる。主人公が愛読したというニーチェの言葉を、締めとして書いておこう。

善にも強ければ、悪にも強いというのが、もっとも強力な力である。


◆気に入ったフレーズ
すべての人間の物語は、重要で不滅で神聖なのだ。8

「きみには、恐れをいだいている事柄もあれば、恐れをいだいている人もある。そんなものがあっちゃならない」58

「ある人を十分精確に注視してみたまえ。そうすると、きみにはその人のことがその人以上にわかるんだ」85

「いつも質問し、いつも疑わなくてはいけない」86

「きみがだれかに対しなにか思いを通そうと思ったら、だしぬけに相手の目をじっと見つめることだ。相手が全然平気だったら、断念したまえ!その男に対してはなにもなしとげることはできない、けっして!」89

私は思い乱れながら、みじめさのただ中で、解放と春のようなあるものを感じた。112

「運命と心とは一つの観念を表す名称である」126

「生まれようと欲するものは、一つの世界を破壊しなければならない」136

「その夢を生き、それを遊び、それに祭壇を立てたまえ!それはまだ完全なものではないが、一つの道だ」166

「ぼくたちは、きみの考えるように、豚じゃない。ぼくたちは人間だ。ぼくたちは神々を作り、それと戦うのだ」181

だれでと孤独のつらさをいかほどか感じなければならない。183

彼は私をある道に導いたが、その道は指導者である彼を越え、彼から離れねばならなくなったのだ。187

各人にとってのほんとの天職は、自分自身に達するというただ一事あるのみだった。191

肝要なのは、任意な運命ではなくて、自己の運命を見いだし、それを完全にくじけずに生きぬくことだった。191

新たに生まれるために、狂い殺し滅ぼし死なんと欲する、内的に分裂した魂の放射にすぎなかった。巨大な鳥が卵から出ようと戦っていた。卵は世界だった。世界は崩壊しなければならなかった。242

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285. 自由からの逃走 (フロム)

ナチズムに傾いていくドイツ国民とそれを先導した独裁者の心理状態を詳細に説明した一冊。「~からの自由」が拡大することで、人びとがその重みに耐えきれずそこから逃避していく過程を描き出した。国家のあり方という問題に対してだけではなく、現代に生きる個人がその人生を充足させるためにはどう生きるべきかという問題に対する重要なヒントとなっている。

『自由からの逃走』というタイトルが、すべてを物語っている。大学受験の世界史で目にして、「いつか必ず読もう」と思っていた一冊だ。

自由は怖い、ひとりぼっちは嫌だ。そのことから目を逸らして「自由」を掲げることは、空虚である。本書はファシズム研究として有名だが、現代人の深層心理に鋭くメスを入れた一冊として、今日もなおその価値を失っていない。

ナチスに追われてアメリカへの帰化を余儀なくされた心理学者、エーリッヒ・フロム。1941年に彼が発表したこの本は、世界中で猛威を振るうファシズム、そしてその台頭を許した現代への渾身の叫びだった。


▽問題意識
われわれはドイツにおける数百万のひとびとが、かれらの父祖たちが自由のために戦ったと同じような熱心さで、自由をすててしまったこと、自由を求めるかわりに、自由からのがれる道をさがしたことなどを認めざるをえないようになった。

人類は闘争を繰り返し、「自由」を拡大してきた。封建制からの自由、政治的権力からの自由、宗教的権威からの自由…。歴史とは「自由の獲得」の過程であるとも考えられていた。

その観方を根底から覆したのが、第二次世界大戦であった。ファシズムの勃興期、大衆は自ら進んで自由を投げ棄て、(積極手あるいは消極的に)指導者に服従し、不条理な怒りや破壊衝動に身を任せていったのである。

なぜ、そんなことが起こったのか。指導者は彼らの何を「くすぐった」のか。その根本を探るべく、フロムは宗教改革時代以来の政治・経済・宗教的な背景をみつつ、心理学者としての分析を展開する。


▽自由からの逃走
先ほど述べた通り、人類史とは人間が自由を獲得していく過程だった。人は宗教や政治権力、身分階級、家族などの束縛から少しずつ解放されていった。

しかし、それは個人がその基盤や他者との絆を喪失する過程でもあった。個人は伝統的な共同体や価値観から切り離され、「ひとりぼっち」にされた。そのことが、現代人の「自由からの逃走」の強烈なモチベーションになったのである。

人間はかれを精神的にしばりつけているあらゆる絆から自由になるが、しかしまさにこの自由が、孤独と不安感とをのこし、無意味と無力感とで人間を圧倒するのである。

社会の「歯車」として埋没することは、誰も望まない。誰もが個性を欲しがっている。しかし、現代社会でアイデンティティを獲得することはたいへん難しい。

ここから2つのタイプの「反動」が起こる。ひとつは、弱者を憎み「強い者」に憧れること。もうひとつは、諦め、無関心でいること。それらは結果的に、ファシズムが跋扈する温床となった。

かれは孤独にたえられないので、自我を失う道を選ぶ。このようにして、自由は新しい束縛へと導く。


▽個性
近代人は個性という観念に絶望的にとりすがろうとしている。

フロムやアーレントなどのファシズム研究者が直面したのは、「大衆」という概念の中に埋没しつつある現代人の苦悩であった。

人間のための「システム」は強大化して独り歩きしはじめ、私たちを押し潰そうとしている。巨大化しすぎたデモクラシー、専門化しすぎた言論、強くなりすぎた企業…。それらに包囲された現代は、「私を見て!」という悲鳴に満ちている。

人間は孤独のうちに生きていけない。でも、人間は無個性でいることにも耐えられない。そこで、互いに認めあいながら個性を発揮できる、そんな《場》が必要になってくる。でないと、私たちは遠からず窒息してしまうだろう。

人間がこんにち苦しんでいるのは、貧困よりも、むしろかれが大きな機械の歯車、自動人形になってしまったという事実、かれの生活が空虚になりその意味を失ってしまったという事実である。

残念ながら、そうした《場》が戦後になって確立したとは言いがたい。フロムが本書で鳴らした警鐘は、半世紀を経たいまも、不吉な響きをもって私たちに聞こえてくるのである。


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285. 自由からの逃走 フレーズ集

(第一次)世界大戦は最後の戦いであり、その結着は自由のための最終の勝利であると、多くのひとびとは考えていた。11

われわれはドイツにおける数百万のひとびとが、かれらの父祖たちが自由のために戦ったと同じような熱心さで、自由をすててしまったこと、自由を求めるかわりに、自由からのがれる道をさがしたことなどを認めざるをえないようになった。12

服従することのうちに、一つのかくされた満足があるのだろうか。その本質はなんであろうか。14

家族というものは、特定の社会や階級に典型的な特徴をすべて具えているのである。25

たとえもっとも平凡な行動様式であっても、それと関係を結ぶことは、孤独であるよりもはるかにましである。26

人間の生物学的弱さが、人間文化の条件である。42

個人はひとりぼっちにされた。すべてはみずからの努力にかかっており、伝統的な地位の安定にかかっているのではない。68

指導者は、その支持者がすでに心理的に準備している思想を、よりはっきり率直にのべているのである。74

人間はかれを精神的にしばりつけているあらゆる絆から自由になるが、しかしまさにこの自由が、孤独と不安感とをのこし、無意味と無力感とで人間を圧倒するのである。89

ルッターの「信仰」は、自己を放棄することによって愛されることを確信することであった。90

予定説はもっともいきいきとした形で、ナチのイデオロギーのうちに復活した。97

個人は疑いと無力さの感情を克服するために、活動しなければならない。98

たえまない努力や仕事への衝動は、人間の無力さについての根本的な確信と矛盾するどころではない。むしろそれは心理的な当然の結果である。100

われわれは外にある力からますます自由になることに有頂天になり、内にある束縛や恐怖の事実に目をふさいでいる。122

プロテスタンティズムは個人をただひとり神に向わせた。125

愛はある「対象」を肯定しようとする情熱的な欲求である。131

かれらは行為することはできる。しかし独立や意味の意識は消えている。148

力は、その力が守ろうとする価値のゆえにではなく、それが力であるという理由によって、かれを夢中にする。186

宿命を変えるとではなく、それに服従することが、権威主義的性格の英雄主義である。190

あらゆる神経症の核心は、人間の正常な成長のばあいと同じように、自由と独立とを求める戦いにある。196

合理化は、現実を洞察する手段ではなく、自分自身の願望を、存在する現実と調和させようとする事務的な試みである。214

近代社会において、個人が自動機械となったことは、一般のひとびとの無力と不安とを増大した。そのために、かれは安定をあたえ、疑いから救ってくれるような新しい権威に、たやすく従属しようとしている。225

思想を表現する権利は、われわれが自分の思想をもつことができるばあいにおいてだけ意味がある。267

われわれの社会では、感情は一般に元気を失っている。270

「感情的」とは、不健全で不均衡のいうことと同じになってしまった。この基準を受けいれたため、個人は非常に弱くなった。270

かれらは自分の追求している目標が、彼ら自身欲しているものであるかどうかということを考えない。277

近代人は個性という観念に絶望的にとりすがろうとしている。281

もしわれわれがいわゆる「正常な」人間の経済的要求だけをみるならば、またもし一般に自動人形化した人間の無意識的な苦悩をみおとすならば、われわれはわれわれの文化をその人間的基盤からおびやかしている危険をみぬくことに失敗するであろう。282

かれは孤独にたえられないので、自我を失う道を選ぶ。このようにして、自由は新しい束縛へと導く。283

自由の実現の唯一の標識は、個人が自分の生活および社会の生活の決定に積極的に参加しているかどうかということである。299

人間が社会を支配し、経済機構を人間の幸福の目的に従属させるときにのみ、また人間が積極的に社会過程に参加するときにのみ、人間は現在かれを絶望にかりたてているものを克服することができる。302

人間がこんにち苦しんでいるのは、貧困よりも、むしろかれが大きな機械の歯車、自動人形になってしまったという事実、かれの生活が空虚になりその意味を失ってしまったという事実である。302

思想が強力なものとなりうるのは、それがある一定の社会的性格にいちじるしくみられる、ある特殊な人間的欲求に応える限りにおいてである。310

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284. 天平の甍 (井上靖)

天平の昔、荒れ狂う大海を越えて唐に留学した若い僧たちがあった。故国の便りもなく、無事な生還も期しがたい彼ら…。在唐二十年、放浪の果て、高僧鑑真を伴って普照はただひとり故国の土を踏んだ…。鑑真来朝という日本古代史上の大きな事実をもとに、極限に挑み、木の葉のように翻弄される僧たちの運命を、永遠の相の下に鮮明なイメージとして定着させた画期的な歴史小説。


▽地上の星
風の中のすばる
砂の中の銀河
みんな何処へ行った 見送られることもなく


本を読みながら音楽を聴いていて、「これは」と思う組み合わせに偶然出会うことがある。この『天平の甍』には、中島みゆきの「地上の星」がよく似合っている。

天平の時代、乱れつつある日本の政治と宗教を正すため、若き僧たちが海を越えて唐に入った。彼らの使命は、彼ら自身が研鑽を積んで学問を日本へ持ち込むこと、そして戒律を定められる高僧を連れて帰ることの二つであった。

成功はおろか、生きて帰れるかどうかも覚束ない。それでも彼らは危険と困難に満ちた海を渡る、未だ見ぬ知識を求めて。言わば、これは天平の時代における「プロジェクトX」なのである。

「地上の星」における中島みゆきの力強い声は、ひたむきに努力し続ける僧たちの輪郭をなぞる。壮大さを感じさせる演奏や「風」「砂」といった単語は、広大で深遠な黄河文明への想像力をかきたてる。

つばめよ 高い空から
教えてよ 地上の星を


唐へ赴いた僧たちは、思い思いの方法でその大国と向き合う。ある者は写経に没頭し、ある者は鑑真の招来に奔走し、またある者は托鉢僧として土地から土地を行脚する。留学僧という立場を棄て、妻子を持った者もあった。

すべて、実るか分からぬ「プロジェクト」に身を捧げようとした男たちだ。かたちこそ違えど、彼らはまさに天平時代の日本を導く「地上の星」だったのである。


▽ヘッドライト・テールライト
「一国の宗教でも学問でも、何時の時代でもこうして育って来たのだ。たくさんの犠牲に依って育まれて来たのだ」

小説の大きなポイントのひとつは、「彼らの努力が実ることは稀であった」ということであろう。業行という僧がもっとも象徴的な人物だ。彼は数十年間をかけて膨大な量の写経を行っていた。それらが日本で読まれることを夢見て。

ところが、最後の最後で、彼と彼の巻物を載せた船は難破してしまう。彼の生涯も、その取り組みも、文字通りすべて水泡に帰してしまった。

ここで浮かんでくるのは、「プロジェクトX」のエンディング曲「ヘッドライト・テールライト」。中島みゆきは、心血を注いだ努力が報われなかった「無名」たちを掬い上げるように、歌う。

語り継ぐ人もなく
吹きすさぶ風の中へ
紛れ散らばる星の名は
忘れられても


業行のように「語り継がれなかった人」もいる一方で、鑑真のように「語り継がれた人」もいる。何が彼らの明暗を分けたのか、私たちは知らない。

ひとつだけ言えることがある。そうした人々の営みによって、学問や国家は少しずつ前進してきたこと、そして、これからも前進していくであろうということだ。「ヘッドライト・テールライト」は、そうした悠久の歩みをこう歌いあげている。

ヘッドライト・テールライト
旅はまだ終わらない

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283. 未完のファシズム (片山杜秀)

天皇陛下万歳!大正から昭和の敗戦へ、時代が下れば下るほど、近代化が進展すればするほど、日本人はなぜ神がかっていったのか。皇道派vs統制派、世界最終戦論、総力戦体制、そして一億玉砕…。第一次世界大戦に衝撃を受けた軍人たちの戦争哲学を読み解き、近代日本のアイロニカルな運命を一気に描き出す。

どんなに硬いテーマでも、面白く語ることのできる人がいる。彼らは巨視的に、歴史の流れを「大きな物語」としてダイナミックに語る。異論・反例はいくらでも挙げられるだろうが、そのことは話の面白さを損ねない。

僕は、片山杜秀とは、そういう人のひとりだと思っている。むかし彼の『国の死に方』を読んだとき、そんな印象を受けた。『日本辺境論』の内田樹などと同じタイプの著述家ではないかと考えている。

読みやすくて面白い彼の語り口は、第二次世界大戦に至る日本の軌跡を辿った本著でも遺憾なく発揮されている。よく調べられた研究書であると同時に、読者を引き込む物語文でもあるように見える。


▽合理的帰結としての非合理
本著が浮き彫りにした巨大なアイロニーとは、簡単にいえば「合理的だったはずの日本のエリートが、非合理的な結末を生み出した」ということである。

第一次大戦を目の当たりにした日本の軍人たちにとっての最大の教訓は「これからの戦争は物量で優っていないと勝てない」ということだった。白兵戦の時代は終わり、物量戦の時代がはじまったのである。

現代の戦争では、気迫溢れる歩兵より、射程が長く正確な砲弾の方が役に立つ。人海よりも、最新の戦車や船舶、飛行機の方が頼りになる。こうした軍人たちの認識は、非常に合理的なものであった。

それなら、なぜ彼らの考えが昭和の敗戦を導いたのか。そこのストーリーが、この本では明らかにされている。

大きくふたつの要因が挙げられている。まず、「物量で圧倒しなければならないが、日本は物量を『持たざる国』である」という現実。もう一つは、「一部のエリートの考えたことが、必ずしも正確に伝わらなかった」ということ。

前者は物量不足を補う精神論や奇襲による殲滅論の台頭を許し、後者では「『持てる国』と戦争してはならない」という暗黙の前提を風化させてしまった。日本人の「神がかり」、そして敗戦は、その結末として位置づけられる。


▽正論が重なって、間違いが起こる
上手に背伸びさせることも、無理な背伸びを止めることも、近代日本の政治機構にはできなかった。荷が重すぎた。きちんと統率する仕掛けがついに作れなかった。

著者は『未完のファシズム』をこうまとめている。国民の統合を平時に適用することは「持たざる」日本に不可欠だったが、上手くいかなかった。克服できない物量不足、その軋みがエリートを焦らせ、大局観を損なったのかも知れない。

筋の通った論のことを、私たちは「正論」と呼ぶ。しかし、本書で見られたのは「正論」同士が無理に合わさって、そこから巨大な非合理が生まれる過程であった。

いまの世の中にも、形而上的なものから現実的なものまで、さまざまな「正論」がまかり通っている。それらを話し合わせ、折衷することは、ほかならぬ「政治」や「言論」と呼ばれるものの役割なのだろうと思う。

本書が示すように、最も危険なのは「正論」を「正論」として絶対視することである。「正論」のあいだのディスコミュニケーションが続くと、やがて大きな衝突や災禍をもたらす。政治の機能不全による危険は、まさにここにあると言っていい。

『未完のファシズム』にあえて教訓を見出すとすれば、以上のようになるだろう。もっとも、やはりこの一冊は本来的に「面白い読み物」である。引き込まれるように読んで、「あぁ、面白かった」という方が、正しい消費の仕方かも知れない。


◆気に入ったフレーズ
「戦って血を流している人間だけに『戦争』があるばかりです」

国家の20世紀化とは総動員体制国家化のことである。

歴史の趨勢が物量戦であることは明々白々。しかし日本の生産力が諸列強になかなか追いつきそうにない。このギャップから生じる軋みこそ、現実主義をいつのまにか精神主義に反転させてしまう契機となったのです。103

持たざる国は思わぬ方向からの機動性に富んだ奇襲でないと勝てない。113

歩兵や騎兵の突撃で一気呵成に終われる戦争の牧歌的古典時代は完全に終焉した。117

玉砕は殲滅のウラ概念、つまり被殲滅なのです。154

いわゆる強力政治は明治憲法体制を墨守するかぎりはほとんど不可能に近かったのです。223

上手に背伸びさせることも、無理な背伸びを止めることも、近代日本の政治機構にはできなかった。荷が重すぎた。きちんと統率する仕掛けがついに作れなかった。332

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282. 赤と黒 上下 (スタンダール)

華奢な体つきとデリケートな美貌の持ち主、ジュリアン・ソレルは不屈の強靭な意志を内に秘め、ブルジョアに対する激しい憎悪の念に燃えていた。僧侶になって出世しようという野心を抱いた彼は、たまたま町長レーナル家の家庭教師になり、夫人を誘惑してしまう…。実在の事件をモデルに、恋愛心理の鋭い分析を基調とした、19世紀フランス文学を代表する名作。

▽「女は一日中愛していられるが、男はときどきしか愛せない」
スタンダールを高く評価したイギリスの作家、サマセット・モームはこんな言葉を書いている。『赤と黒』で展開される恋愛模様を追っているうちに、ふと頭をよぎった。

人が愛する対象は恋人だけでない。人は権力を愛する。金を愛する。名誉を、仕事を愛する。それらのなかで恋人の存在だけが特権階級でいられることは、むしろ稀である。モームに倣えば、この傾向は男性において特に顕著かもしれない。

あの女が惜しいのじゃない。女なら、いくらでもいる!…だが、名誉は一つしかない!
19世紀のフランス社会をのし上がっていく主人公・ジュリアンは、モームの言葉を地でいくような男だ。打算的な彼は名誉や権力というコンテクストを度外視することなく、巧みに恋愛をしている。

この小説の中心は、青年と二人の女をめぐる恋愛劇だ。その狡知や心の揺動を、スタンダールの筆は実に精緻に描写した。フランス文学を代表する作家の、まさに面目躍如といった観がある。

一方で、この本はフランスの情勢を描いた政治小説とも読めるし、時には王政復古社会への風刺小説のようにも思われる。政治や思想、権力に揉まれながら主人公が恋愛をしていく過程は、非常にリアリスティックでもある。

そんななかで物語に終止符を打ったのは、権力闘争でも政治的陰謀でもなく、恋愛だった。このあたり、やはり『赤と黒』は恋愛小説なのだと思わされる。

彼の生涯は、かつて愛し合った人妻からの手紙によって崩れる。階級社会を着実に登りつめていたはずのジュリアンは、一転、死刑囚としての最期を迎える。ここの急転直下ぶりと激しさは、実に恋愛小説らしい。


▽ギャンブルとしての人生
(十時が鳴りだすと同時に、やってのけよう。一日じゅう、今夜やろうときめていたじゃないか。でなけりゃ、部屋にひき返して、ピストルで頭をぶち抜くんだ)

「赤と黒」の由来はルーレットのように「一か八か」で世を渡っていく主人公の生き様を表したものと言われている。なるほど、彼は冷徹なほどに打算的だったが、その生涯を俯瞰すれば、それは命を掛金としたひとつのギャンブルであった。

20代半ばで断頭台の露となって消えたジュリアン・ソレル。愛を、権力を、金を命懸けで追いかけた男。彼の物語から何を学ぶかは、読者次第だろう。

僕と同い年とは思えない奮闘ぶりであった。彼がなぜ死んだのかを考えたとき、「疲れたんじゃないかな」となんとなく思ったが、あながち間違いでもなさそうだ。

「わたしが自分を軽蔑するようになったら、なにが残るんです?わたしは野心家でした。そういう自分を責めようとは思いません」

個人的には、天晴な男だったと思う。もちろん、そう思うのは少数派だろうが。


◆気に入ったフレーズ
【上巻】
完全な美しさというものは、生まれつきそなわっていて、とりわけ当人がそれを意識しない場合には、こういう効果を生むものなのだ。56

(十時が鳴りだすと同時に、やってのけよう。一日じゅう、今夜やろうときめていたじゃないか。でなけりゃ、部屋にひき返して、ピストルで頭をぶち抜くんだ)99

二十のころは、世界ということと、その世界でどういう成果をあげるべきかということが、なにごとにもまさる関心事なのだ。123

教育などを受けると、青年は二十で心のゆとりを失ってしまう。ところが、心のゆとりがかければ、恋愛は往々にしておよそわずらわしい義務にすぎなくなる。144

(なんだ!幸福になるとか、愛されるとかいっても、あれだけのことか!)158

待つあいだの二時間は苦しみの二世紀。161

その恋はなんとしても野心から出ている。それは女を手にいれたという喜びだった。164

(旅行者はけわしい山を登りつめて、頂上で腰をおろすと、そこで一息つくのが、なによりの楽しみかもしれないが、いつまでも休んでいろといわれたら、幸福でいられようか?)286

りっぱな議論というものは他人の気をそこなう。352

「道ばたの垣根に棘があるからといって、道がそれだけ美しくないというわけにはならん。旅人はどんどん道を続けるもんだ」357


【下巻】

まことの情熱というものは、すべて自分のことしか考えない。15

「罪を犯すくらいなら、せめて興味をもってやるべきです」132

(おれはいったいどんなむずかしい事業をなしとげたというのだ?それでいて、あわれな連中のことをとやかくいう権利があろうか?)139

「地上から無知と犯罪を追い払おうとするものは、嵐のように通りすぎ、まるで行きがかりに悪事を働くといった具合にふるまうべきでしょうか?」143

「今生きている女のひとで、斬られた恋人の首に、平気で手をふれることのできるひとがいるでしょうか?」154

偽善は隠しておかなければ、役にたたない。154

幸福の予感というものは、すぐれた知能をかねそなえた勇気のある人間に絶対的な力をふるう。199

(あの女が惜しいのじゃない。女なら、いくらでもいる!…だが、名誉は一つしかない!)212

(きっと、自尊心がこのひとの恋心を消してしまったのにちがいない)248

不幸のどん底までつき落されると、人間は勇気を出す以外に手はない。261

(おれが命を奪おうとした、ほかならぬあのひとだけが、心からおれの死を悲しんでくれるだろう)517

「わたしは、ずっとあなたを愛していたんですよ。あなたしか愛さなかったんです」520

(ひとりぼっちで生きる!…なんという苦しみだ!)540

(かげろうは夏の暑いさかりに朝の九時に生まれて、夕方の五時には死んでしまう。どうして夜という言葉が理解できよう? あと五時間の生命があれば、夜というものを見もし、理解もするだろうに)541

「わたしが自分を軽蔑するようになったら、なにが残るんです?わたしは野心家でした。そういう自分を責めようとは思いません」550

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281. エミール (ルソー) 【フレーズ集】

【上巻】

第一編
だれでも知ってることで一冊の書物をうずめるようなことはしたくない。

人は子どもというものをしらない。

よい方法を中途半端に採用するよりは、いままでの方法にそのまま従っていたほうがいい。

万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる。

植物は栽培によってつくられ、人間は教育によってつくられる。

教育はその人の運命が両親の地位と一致しているかぎりにおいて有効なものとなる。

人生のよいこと悪いことにもっともよく耐えられる者こそ、もっともよく教育された者だとわたしは考える。

死をふせぐことよりも、生きさせることが必要なのだ。生きること、それは呼吸することではない。活動することだ。

子どもは命令するか、命令されなければならない。

世界でいちばん有能な先生によってよりも、分別のある平凡な父親にとってこそ、子どもは立派に教育される。

人間をつくるには、自分が父親であるか、それとも人間以上の者でなければならない。

子どもはときに老人にこびることもあるが、けっして老人を愛することはない。

ふつうの人間のほかには教育する必要はない。

肉体は弱ければ弱いほど命令する。強ければ強いほど服従する。

人間の教育は誕生とともにはじまる。話をするまえに、人の言うことを聞きわけるまえに、人間はすでに学びはじめている。


子どもにつけさせてもいいただ一つの習慣は、どんな習慣にもなじまないということだ。

子どもの最初の泣き声は願いである。気をつけていないと、それはやがて命令になる。

抑揚は話の生命である。

子どもは権力などふるうべきではない。

観念よりも多くのことばを知っているというのは、考えられるよりも多くのことがしゃべれるというのは、ひじょうに大きな不都合である。

かれは生きている。しかし、自分が生きていることを知らない。



第二編
けがをしたばあい、苦しみをあたえるのは、その傷であるよりも、むしろ恐れなのだ。

子どもを苦しめないためにあらゆるもので武装しようとして、かれのまわりに寄せ集めるおびただしい道具についてはなんと言ったらいいのか。

一日に百回ころんでもいい。それだけはやく起きあがることを学ぶことになる。

人間よ、人間らしくあれ。それがあなたがたの第一の義務だ。

肉体の痛みと良心の悩みとを除けば、わたしたちの不幸はすべて想像から生まれる。

苦しんでいるがいい、死ぬか、なおるかするがいい。しかし、なによりも、最後の瞬間まで生きるのだ。

自分の意志どおりにことを行うことができるのは、なにかするのに自分の手に他人の手をつぎたす必要のない人だけだ。そこで、あらゆるよいもののなかで、いちばんよいものは権力ではなく、自由であるということになる。

涙に負けてなにかをあたえることは、子どもにさらに涙を流させることになる。

大きな幸福を知るためには小さな苦しみを経験しなければならない。

子どもを不幸にするいちばん確実な方法は、いつでもなんでも手に入れられるようにしてやることだ。

子どもには特有のものの見方、考え方、感じ方がある。そのかわりにわたしたちの流儀を押しつけることくらい無分別なことはない。

熱心な教師たちよ、単純であれ、慎重であれ、ひかえめであれ。

悪い教育をあたえることにならないように、よい教育をできるだけおそくあたえるがいい。

子どもにはけっして罰を罰としてくわえてはならないこと、それはいつもかれらの悪い行動の自然の結果としてあたえられなければならない。

人は子どもに美徳を教えているようにみえながら、あらゆる不徳を好ませるようにしている。

子どもの状態を尊重するがいい。そして、よいことであれ、悪いことであれ、早急に判断をくだしてはならない。

あなたはまず腕白小僧を育てあげなければ、賢い人間を育てあげることにけっして成功しないだろう。

見かけはあくまで自由に見える隷属状態ほど完全な隷属状態はない。



三編
欲望をへらせばいい。そうすれば力がふえたのと同じことになる。

かれは学問を学びとるのではなく、それをつくりださなければならない。

子どもに学問を教えることが問題なのではなく、学問を愛する趣味をあたえ、この趣味がもっと発達したときに学問をまなぶための方法を教えることが問題なのだ。

学問的な空気は学問を殺す。

あなたがたは、子どもが小さいときは従順であることを望んでいる。それは、大きくなって、信じやすく、だまされやすい人間になることを望んでいることになる。

困るのは、理解しないことではなく、理解したと考えることだ。

まだ感じていない利害にたいしてどうして情熱をもつことができよう。

人間がつくったものはすべて人間がぶちこわすことができる。

王冠を失ってもそんなものを必要とせずにいられる者は王者よりも高い地位にあることになる。

必要のために働かなくてもいい。名誉のために働くのだ。



【中巻】
人生は短い。わずかな時しか生きられないからというよりも、そのわずかな時のあいだにも、わたしたちは人生を楽しむ時をほとんどもたないからだ。

わたしたちは、いわば、二回この世に生まれる。一回目は存在するために、二回目は生きるために。

自分自身に対する愛は、いつでもよいもので、いつでも正しい秩序にかなっている。

人間を本質的に善良にするのは、多くの欲望をもたないこと、そして自分をあまり他人にくらべてみないことだ。

判断をしたあとではじめて人は恋をする。

顔を赤らめる者はすでに罪を犯しているのだ。

なんにも必要としない者がなにものかを愛することができるとは考えられない。

家柄も健康も富もあてにしないように教えるがいい。

有名になるのは悪人だけだ。善良な人間は、忘れられているか、笑いものにされている。

天性が明らかにされるのはつまらないことによってなのだ。

すべてを語る者はわずかしか語っていない。

臆見が勝利を占めるのはなによりも宗教の問題においてなのだ。

抽象的な観念は人間のもっとも大きな誤りの源だ。

自由がなければほんとうの意思はないのだ。

すこしばかりの苦しみにも耐えられない者は、多くの苦しみをうけることを覚悟しなければならない。

理解されなければされないほど、ますますわたしは神を尊敬する。

理性はわたしたちをだますことがあまりにも多い。

正義にたいするもっとも大きな報賞は正義を行なっていると感じることなのだ。

ほんとうのことを言い、よいことをするのだ。

欲望は知識から生じる。

愛しているひとを正確に、あるがままに見たとすれば、地上には恋などというものはなくなるだろう。

教養のある人は容易にかれの持ち物を公開しない。かれには語るべきことがありすぎるし、自分に言えることのほかにもまだ多くのことが言えることがわかっている。だからかれは口をつぐんでいる。

ほんとうの礼儀とは人々に好意を示すことにある。

幸福になるのは、幸福らしく見せかけるよりはるかにやさしいことなのだ。


【下巻】
人々の意見というものは、男性にとっては美徳を葬る墓場になるのだが、女性にとっては美徳の光栄の座になるのだ。

顔は流行とともにかわるものではないし、形はいつでも同じなのだから、よく似合うことがわかったものは、いつまでも似合うのだ。46

わたしたちは人に喜ばれる才能をあまりにも技術的なことにしている。53

感激がなければ本当の恋愛はない。99

運命がどうであろうと、人格的な関係によってこそ、結婚は幸福にもなり不幸にもなる。124

良心はいちばん賢明な哲学者だ。149

美しい妻が天使でないかぎり、その夫は男のなかでいちばん不幸な男だ。152

人生は短い、と人々は言っているが、わたしの見るところでは、人々は人生を短くしようと努力しているのだ。155

かれは自分のいのちを半分やっても、彼女がなにか一言話してくれる気になれば、と思う。167

だれでもみんな、愛する者のうちに、自分が尊重している美点を愛している。215

「エミール、幸福にならなければならない。これはあらゆる感覚をもつ存在の目的なのだ」248

「しなければならないことがわからないあいだは、なにもしないでいるというのが賢いやりかただ」249

「勇気がなければ幸福は得られないし、戦いなしには美徳はありえない。」255

「美徳は、その本性からすれば弱いが、その意志によって強い存在だけにあたえられているのだ」255

「人間であれ。きみの心をきみにあたえられた条件の限界に閉じこめるのだ」259

幸福感は人間を圧倒する。人間はそれに耐えられるほど強くない。339

「夫婦になってからも恋人同士でいることだ」342

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281. エミール 上中下 (ルソー)

ルソー一流の自然礼賛、人為排斥の哲学を教育論として展開した書。ある教師がエミールという一人の平凡な人間を、誕生から結婚まで、自然という偉大な教師の指示に従って、いかに導いてゆくかを小説の形式で述べてゆく。

エミール、それは世界でいちばん幸福な男の子の名前である。ジャン=ジャック・ルソーに導かれ、良心の声に耳を傾けることを学び、自然とともに心身を育み、ソフィーという最上の伴侶と結婚する。

教育とは、己のすべてを注ぎ込む営みである。ルソーはそれを、この『エミール』において行った。本書には、学問、政治、宗教、愛、結婚にいたるまで、彼の思想の一切が盛り込まれている。

ルソーは架空の男の子を、彼の信念にしたがって導いていく。そう、この本は絵空事である。しかし、これほど美しく、よく考えられ、幸福に満ちた絵空事があるだろうか。

「エミール、幸福にならなければならない。これはあらゆる感覚をもつ存在の目的なのだ」
エミールに向けられた師の声、その優しい響きは読者にも届く。ひとりの人間を愛するように書物を愛することができるとするなら、『エミール』は読者にそうさせる稀有な本の一つである。


▽ルソーの教育方針
書評の中で、『エミール』に綴られたルソーの思想を一切説明しないのはアンフェアだろう。手短に、そのもっとも核となる部分だけを取り上げる。

万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる。

これがルソーの掲げる根本原理だ。社会、しきたり、政府などの「反自然」が、善いものであった「自然」や「人間」までもを堕落させた。それは『人間不平等起原論』『社会契約論』でも明らかにされている。

彼の教育は消極的だ。教育によって子供に「自然的でないもの」が植え込まれることを恐れながら、子どもを導いている。自然こそが偉大な教師である。ルソーの役割は、人間のつまらぬ知恵にそれを邪魔させないことにあった。

理屈を捏ねるよりも、良心の声に従うこと。書物から知識を得るよりも、自分の五感と頭で学問をすること。付け焼刃の礼節を弁えるより、単純に相手へ好意を伝えること…。本著で展開される思想は、すべて上の一節に帰着する。


▽人間を愛すること
ルソーがこれほどの大著を書いたのも、彼が人間の根底に横たわる善性を深く信じていたからである。彼の筆致には信念が宿り、人間への大きな愛情を感じさせる。

この本は自然を愛でる本であり、「ありのまま」の人間を讃え、人間の幸せを祝福する本である。人間は美しい。素晴らしい。善良である。そのルソーの迷いのなさが、とても眩しかった。

この本から受けた感銘をどう表現すべきか。人間への愛で満たされた本に、読了後しばらく呆然とさせられた。

考えがまとまらず筆が進まないので、哲学者イマヌエル・カントの逸話に助けを求めたい。

厳格な哲学者で規則正しさを好むカントは、毎日同じ時間に散歩に出ることで有名だった。ところが、ある日、彼はなかなか出てこない。何かあったのか、と周囲は騒ぎだす。

実はカントが出てこなかったのは、この『エミール』を読みふけっていたからだった。ここまでなら単なる面白い話なのだが、その後にカントの綴った言葉が素晴らしい。

「無学の愚民を軽蔑した時代もあったが、わたしの誤りをルソーが正してくれた。目をくらます優越感は消えうせ、わたしは人間を尊敬することを学ぶ」

『エミール』、それは人間を愛し、尊敬し、信じぬいた思想家のすべて。それは単なる教育論を超えて、人を愛することを私たちに伝えているのである。

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280. シッダールタ (ヘッセ)

シッダールタとは、釈尊の出家以前の名である。生に苦しみ出離を求めたシッダールタは、苦行に苦行を重ねたあげく、川の流れから時間を超越することによってのみ幸福が得られることを学び、ついに一切をあるがままに愛する悟りの境地に達する。成道後の仏陀を賛美するのではなく、悟りに至るまでの求道者の体験の奥義を探ろうとしたこの作品は、ヘッセ芸術のひとつの頂点である。

先日『車輪の下』を読み終えた後に、「ヘッセならこれを読め」という声が方々からかかった。そのうちのひとつがこの『シッダールタ』である。この場を借りてお礼を言いたい。素晴らしい本だった。

ヘッセの綴る文章は、比類なく美しい。美しいだけでなく、感覚に直接訴えてくる。埃っぽい風、汗と香辛料の匂い、今にも止まってしまいそうな時間感覚。数年前に旅したインドの情景が、脳裏にありありと浮かんでくる。

無駄のないことが美しい文章の条件であるとすれば、ヘッセの詩的文体はその極致である。一を書いて十を伝える。論理より強く読者を揺さぶる。感性と技巧を磨き上げなければ到底できない。

ひとつのお手本のような作家である。文章は冗長さのない美しさをもち、読めばその場の空気が薫ってくる。物語は面白いうえに、完結していて美しい。この著者と訳者から学べることはたくさんある。


▽ふつうのひと
この著作は、悟りを開くまでのシッダールタ(ゴータマ・シッダールタではない)の道のりを描いている。単に仏教の精神を説いただけの本ではない。あくまで小説である。小説としての面白さがある。

どんな教えにも満足せず、独り真理を求めたシッダールタ。彼はあらゆるものに教えを乞い、一時は愛欲や金銭などの快楽にまみれた生活を送る。

中盤における彼の堕落は、物語に二つの効果を与えている。ひとつは、世俗的なものに浸かることで、シッダールタを悟りの境地に近づけたこと。もうひとつは、主人公の「ふつうのひと」としての側面を読者に提示していることだ。

作品の肝は、「天才が、天才的な発想によって全てを理解した」という話に終始しないところにある。彼には「ふつうのひと」と同じ弱さがある。そのことが小説を劇的にし、面白くしている。

苦行にも、酒にも、女にも、豊かさにも答えを見出せない。快楽を追いかけながら、常に「渇いて」いる。シッダールタの思い煩いに、読者はどこか共感を覚えるだろう。彼が欲にまみれた生活を棄てたとき、僕は心の中で喝采をあげた。

自分の中にふたたび真我を見いだすために、自分は痴人にならねばならなかった。ふたたび生きうるために、罪を犯さねばならなかった。

快楽や情愛など、人間を動かす大きな力を知って、シッダールタの思索には一層の深みがでてくる。快楽を知らぬ禁欲に意味はない。世間を知った悟りだけが、世間のための思想となり得る。

あらゆる「教え」という権威を退け、独り求道し、一度は世俗に入って快楽を追いかけたシッダールタ。その道は、彼の発想が私たち「ふつうのひと」に寄り添ったものであることを示している。


▽生きることへの答え
ヘッセは、決して仏教の教えを押し付けているわけではない。ただ、この小説の中で「生きる」ということはある形をもって完結しているかのような印象を受ける。

少々突飛かもしれないが、僕はこの小説を考えたときゲーテの『ファウスト』を思い出した。ファウストもまた、悪魔と契約を結んで「生きる」ことへの答えを求めた人物である。

両作に共通するのは、「生きる」ことについて究極的な問いを立てた点と、回り道を経てその答えを見出した点だ。彼らは快楽の道や堕落の過程を「自ら経験して」、答えに辿りついている。

『シッダールタ』を読み、『ファウスト』を想起し、なんとなく思う。

生きることへの答えを求めて、本を読む人がいる。おそらく、僕もその一人だろう。でも、もしかしたらそれは間違いなのかもしれない、と。

本に答えを求めるより、精一杯生きて、心の声に耳を傾けること。真実を探して活字を追いかけるより、真摯に自分を引き受けること。そうかもしれない。その方が正しいかもしれない。

とりとめもない。だが、ここにきて読書を「悪徳」と断じたニーチェの言葉が分かってきた気もする。いつか僕も書を棄てなければいけないかもしれない。悪徳に染まる必要があるかもしれない。

人生を真摯に生きて悟りを開いた男、シッダールタ。彼の道のりを振り返ってみると、そんな不思議な予感がするのである。


◆気に入ったフレーズ
シッダールタの前には一つの目標が、ただ一つの目標があった。それは、むなしくなること、渇きから、願いから、夢から、喜びと悩みからむなしくなることであった。

「僕は長い時を要したけれど、人は何も学びえないということをさえまだ学び終えていない!」

「自分は自分自身について学ぼう。自分自身の弟子となろう。自分を、シッダールタという秘密をよく知ろう」

「だれだって目標を達成することができます。考えることができ、待つことができ、断食することができれば」

「書くことは良い。考えることはなお良い。賢明さは良い。忍耐はなお良い」

「愛しているとしたら、どうして愛を技巧として行うことができよう?」

「私は金持ちだった。だが、今はもうそうではない。明日何になるか、私にはわからない」

自分の中にふたたび真我を見いだすために、自分は痴人にならねばならなかった。ふたたび生きうるために、罪を犯さねばならなかった。

真の探求者は、真に発見せんと欲するものは、いかなる教えも受け入れることはできなかった。

「たとえおん身が十度彼のために死んだとしても、それで彼の運命のいちばん小さい部分でさえ、取り除いてやることはできないだろう」

そういうもののため人間が生きているのを、彼は見た。そういうもののため、はてしもないことをし、旅に出、戦争をし、はてしもないことを悩み、はてしもないことを忍ぶのを見た。

「さぐり求めるとは、目標を持つことである。これに反し、見いだすとは、自由であること、心を開いていること、目標を持たぬことである」

「世界は不完全ではない。完全さへゆるやかな道をたどっているのでもない。いや、世界は瞬間瞬間に完全なのだ」

「私のひたすら念ずるのは、世界を愛しうること、世界をけいべつしないこと、世界と自分を憎まぬこと、世界と自分と万物を愛と賛嘆と畏敬をもってながめうることである」

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