
営利の追求を敵視するピューリタニズムの経済倫理が実は近代資本主義の生誕に大きく貢献したのだという歴史の逆説を究明した画期的な論考。マックス・ウェーバー(1864-1920)が生涯を賭けた広大な比較宗教社会学的研究の出発点をを画す。
あらゆる「逆説」は、面白さと発見の源泉である。「こうだろう」という常識をくつがえす痛快さは、人を学問に駆り立てる。壮大な「逆説」を論理的に描きだした本は、多少難解でも多くの読者を惹きつけるものだ。
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、まさにそんな本であろう。営利を敵視し禁欲を志向したプロテスタンティズムが、結果として「カネがカネを呼ぶ」資本主義の土台を築いたという。途方もない「逆説」である。
100年前の書物であるがその面白さは色褪せず、肥大化した資本主義の「歯車」と化しつつある現代人に多くのことを考えさせてくれる。一読の価値がある論考であろう。
▽予定説による逆転
免罪符を発行するなど、腐敗したカトリック教会への反動として起こった宗教改革。そこで生まれたプロテスタントの教義は、「救済」のいっさいを神に委ねるものであった。つまり、予定説である。
予定説とは「その人が救われるか救われないかは、すでに神によって決められている」というもの。何をしようと、救われる者は救われるし、そうでない者は救われない。教会といえども、人間を救済し助けることはできない。
予定説によって人々が教えられたのは、人間は永遠の昔から定められた運命に向かって、一人で孤独に歩まなければならないということだった。
では、はじめから運命が定められた人間は、どのように救いを求めればよいのか。ウェーバーは、ここでひとつの逆転現象を描き出す。
「現世でよいことをするから、来世で救われる」という従来の論理は、神の独立した絶対性とは相容れない。著者によれば、予定説を信奉する人々は「救われる人間は、現世でもそれに相応しい生き方をする」と考えたという。
プロテスタントの人びとは、救いを求めて信仰することをやめた。かわりに、「救われている」という確証を得るために世俗を生きることにした。勤勉さや禁欲主義は、「神に愛されている」徴候として人々の目に映りはじめた。これによる変化を、ウェーバーは「生活態度の合理化」と表現している。
▽天職
職業という語には、神から与えられた使命であるという観念が含まれるのである。
ウェーバーはここで、「天職」という、やや古色蒼然とした概念を重視する。プロテスタントたちは「自分は救われる人間である」という確証を得るために、各々の世俗的な仕事に大きな力を注ぎだした。
この世で「天から与えられた仕事」を全うすること。「私悪すなわち公益」の市場経済で、職業を通じて社会を支えること。これらは「神の栄光を高める行為」として考えられた。
こうした文脈で、それまで決して正当化されてこなかった富は「後ろめたいもの」から「救われていることのしるし」へと昇華したのだった。
「宗教は必ずや勤労と節約をもたらすのであり、この二つは必ずや富をもたらさずにいない」
▽精神のない専門家、魂のない享楽的な人間
勝利を手にした資本主義は、かつては禁欲のもたらした機械的な土台の上に安らいでいたものだったが、今ではこの支柱を必要としていない。
ウェーバーの観察はここに止まらない。彼は、最終的に近代の資本主義から「精神」が失われ、システムのみが独立していることを指摘する。
先ほど、僕は「天職」という言葉について「古色蒼然」という単語を用いた。今日、「天職」という言葉はなかなか使われない。それは、人びとの「仕事」から、少しずつ「神」や「天」への哲学や精神が失われている徴候かも知れない。
ウェーバーは本著の中で「鉄の檻」という言葉を用いた。鉄の檻は人間の手によってつくられるが、人間をそこから解放することを許さない。今日なお肥り続ける資本主義も、それに近い。
精神なきシステムが、世界を覆っていく。終章で著者が危惧していたのは、まさにそこであった。
数日前の毎日新聞コラム「水説」を思い出す。今日の金融市場を支配しているのは、「アルゴリズム」を組み込んだコンピュータであると述べた中村秀明氏は、「長期的な視野に立って投資を続けること」こそが人間に出来ることだと結んでいた。
拡大する「非人間性」を前に、屈してはならない。さもなくば、私たちの精神世界はあっという間に破壊されつくしてしまうだろう。20世紀初頭にウェーバーの慧眼が捉えた問題は、依然として克服されるべき課題として残っている。
「精神のない専門家、魂のない享楽的な人間。この無にひとしい人は、自分が人間性のかつてない最高の段階に到達したのだと、自惚れるだろう」
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あらゆる「逆説」は、面白さと発見の源泉である。「こうだろう」という常識をくつがえす痛快さは、人を学問に駆り立てる。壮大な「逆説」を論理的に描きだした本は、多少難解でも多くの読者を惹きつけるものだ。
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、まさにそんな本であろう。営利を敵視し禁欲を志向したプロテスタンティズムが、結果として「カネがカネを呼ぶ」資本主義の土台を築いたという。途方もない「逆説」である。
100年前の書物であるがその面白さは色褪せず、肥大化した資本主義の「歯車」と化しつつある現代人に多くのことを考えさせてくれる。一読の価値がある論考であろう。
▽予定説による逆転
免罪符を発行するなど、腐敗したカトリック教会への反動として起こった宗教改革。そこで生まれたプロテスタントの教義は、「救済」のいっさいを神に委ねるものであった。つまり、予定説である。
予定説とは「その人が救われるか救われないかは、すでに神によって決められている」というもの。何をしようと、救われる者は救われるし、そうでない者は救われない。教会といえども、人間を救済し助けることはできない。
予定説によって人々が教えられたのは、人間は永遠の昔から定められた運命に向かって、一人で孤独に歩まなければならないということだった。
では、はじめから運命が定められた人間は、どのように救いを求めればよいのか。ウェーバーは、ここでひとつの逆転現象を描き出す。
「現世でよいことをするから、来世で救われる」という従来の論理は、神の独立した絶対性とは相容れない。著者によれば、予定説を信奉する人々は「救われる人間は、現世でもそれに相応しい生き方をする」と考えたという。
プロテスタントの人びとは、救いを求めて信仰することをやめた。かわりに、「救われている」という確証を得るために世俗を生きることにした。勤勉さや禁欲主義は、「神に愛されている」徴候として人々の目に映りはじめた。これによる変化を、ウェーバーは「生活態度の合理化」と表現している。
▽天職
職業という語には、神から与えられた使命であるという観念が含まれるのである。
ウェーバーはここで、「天職」という、やや古色蒼然とした概念を重視する。プロテスタントたちは「自分は救われる人間である」という確証を得るために、各々の世俗的な仕事に大きな力を注ぎだした。
この世で「天から与えられた仕事」を全うすること。「私悪すなわち公益」の市場経済で、職業を通じて社会を支えること。これらは「神の栄光を高める行為」として考えられた。
こうした文脈で、それまで決して正当化されてこなかった富は「後ろめたいもの」から「救われていることのしるし」へと昇華したのだった。
「宗教は必ずや勤労と節約をもたらすのであり、この二つは必ずや富をもたらさずにいない」
▽精神のない専門家、魂のない享楽的な人間
勝利を手にした資本主義は、かつては禁欲のもたらした機械的な土台の上に安らいでいたものだったが、今ではこの支柱を必要としていない。
ウェーバーの観察はここに止まらない。彼は、最終的に近代の資本主義から「精神」が失われ、システムのみが独立していることを指摘する。
先ほど、僕は「天職」という言葉について「古色蒼然」という単語を用いた。今日、「天職」という言葉はなかなか使われない。それは、人びとの「仕事」から、少しずつ「神」や「天」への哲学や精神が失われている徴候かも知れない。
ウェーバーは本著の中で「鉄の檻」という言葉を用いた。鉄の檻は人間の手によってつくられるが、人間をそこから解放することを許さない。今日なお肥り続ける資本主義も、それに近い。
精神なきシステムが、世界を覆っていく。終章で著者が危惧していたのは、まさにそこであった。
数日前の毎日新聞コラム「水説」を思い出す。今日の金融市場を支配しているのは、「アルゴリズム」を組み込んだコンピュータであると述べた中村秀明氏は、「長期的な視野に立って投資を続けること」こそが人間に出来ることだと結んでいた。
拡大する「非人間性」を前に、屈してはならない。さもなくば、私たちの精神世界はあっという間に破壊されつくしてしまうだろう。20世紀初頭にウェーバーの慧眼が捉えた問題は、依然として克服されるべき課題として残っている。
「精神のない専門家、魂のない享楽的な人間。この無にひとしい人は、自分が人間性のかつてない最高の段階に到達したのだと、自惚れるだろう」
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