人の世の無常を感じ出家遁世した長明。しかし方丈の草庵でも安住できない。この苦渋にみちた著者の内面が、和漢混淆・対句仕立ての格調ある文章によって表現され、古来人々の愛読する古典となった。 大晦日に、筆をとる。2014年の書き納めである。 俯瞰してみれば、留学からの帰国や秋の就職活動などがあったものの、上手く進んでこれた一年だった。その2014年もいよいよ暮れようとしている。 円満に年末を迎えたかったところであるが、生まれて初めてインフルエンザに罹ってしまった。数日間、ずっと家で臥せっている。どうやら「帳尻合わせ」というのは、本当にあるものらしい。▽ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず 日本三大随筆に数えられる方丈記の冒頭は、無駄がなく、それでいて核心を突いた美文だ。世の無常さを流れゆく川に託す感性は、どこか日本人の心の琴線に触れてくる。 特に、大晦日という日は、人をそんな感傷に浸らせる。今年もいろいろあったなぁ、というぼんやりした感慨がふと口から出たとき、「ゆく河の流れは絶えずして」の言葉は私たちの心に寄り添ってくる。 どれほど思い出を大切にしても、どれほど強く一瞬を噛みしめても、私たちは立ち止まることを許されない。立ち止まって振り返りたくなる12月31日にこそ、私たちはそれを意識する。 2014年が流れ行けば、2015年が流れ来る。来年も、きっと色々なことが起こる。きっと私たちも苦しみ、思案にくれ、喜びに触れながら過ごしていくことだろう。 浮き世の思い出を、どうしても忘れられない。辛いことに溢れた社会から抜け出たはずなのに、どこか心が報われない。方丈記に綴られた鴨長明の思い煩いは、きわめて普遍的なものであった。私たちと同じような悩みを、昔の人も抱いていたのである。もうすぐ「来年」がやってくる。辛いことも楽しいことも沢山乗せて、これからの地球を回していく。 誰もが期待と不安を抱きつつ、「2015」へと眼差しを向ける。その先に見えるものが、楽しく明るいものでありますように。何より、そんな自分でいられますように。 絶えることのない流れを感じながら、そんなことを誓ってみる大晦日。「方丈記」から時間への感性を読み取ることは、そんな日にこそ相応しい。 ◆気に入ったフレーズゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。 朝に死に、夕に生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。 人のいとなみ皆おろかなるなかに、宝を費やし、心を悩ます事は、すぐれてあぢきなくぞ侍る。 勢いあるものは貪欲深く、独身なるものは人に軽めらる。財あれば恐れ多く、貧しければ、うらみ切也。 世にしたがへば、身苦し。したがはねば、狂せるに似たり。 程狭しといへども、夜臥す床あり、昼居る座あり。一身を宿すに不足なし。 魚は水にあかず。魚にあらざれば、その心を知らず。鳥は林を願ふ。鳥にあらざれば其の心を知らず。閑居の気味も又同じ。住まずして誰かさとらむ。
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1937年、東京帝国大学教授の矢内原忠雄は、論文「国家の理想」が引き金となり、職を辞した。日中戦争直後に起きたこの矢内原事件は、言論や思想が弾圧された時代の一コマとして名高い。本書は出版界の状況や大学の内部抗争、政治の圧力といった複雑な構図をマイクロヒストリーの手法で読み解き、その実態を抉り出す。 「言論抑圧」という言葉は、ときどき耳にするだろう。多くの人は、それを「ある偉い人(=権力)が、物事を自由に論じられないように抑えつけてしまうこと」だと捉えている。間違ってはいない。だが、その実相はもっと複雑である。 この点、特定秘密保護法 に関する議論が記憶に新しい。「言論抑圧」に繋がりかねない立法に多くの人が憂慮を示し、警鐘を鳴らした。 確かに、透明性の担保に欠け、抜け穴があるまま可決された同法は批判されてしかるべきかもしれない。だが、「本当の言論抑圧の怖さはその比ではない」ということも、頭に入れる必要がある。▽矢内原事件 この本は、日中戦争直後に起こった「矢内原事件」という事件を題材として扱っている。東京帝大経済学部の教授であった矢内原忠雄が、自身の執筆した論文によって辞職を迫られた筆禍事件だ。 政府による一連の「言論抑圧」の嚆矢ともされる事件である。筆者はこれに「マイクロヒストリー」という手法を用いることで、学生、教授陣、論客、総長などの当時の考えを明らかにし、事件の実相に肉薄していく。 読んでいくうちに、「言論抑圧」の構図は決して「権力―非権力」という簡単な図式で表せるわけではないことが分かってくる。 出版界、新聞、そして学問の府において、それは人知れずじわり、じわりと忍び寄ってくるのである。▽忍び寄る権力 最も巧妙な宣伝というものは決して正面からは宣伝しない。 丸山眞男の言葉であるが、これは「権力」というものの諸相を考える上でも通じる考え方でもある。「権力」はもはや可視的な概念ではなく、社会のいたるところの「裏側」に潜んでいるものとして考えられている。 現代における権力は、大上段に構えて「こうしろ」と命令を下しはしない。そうではなく、それは社会の「価値観」や「空気」のなかにそっと紛れ込み、個人を動かす。 人びとは権力の影に気付くことなく、それの思惑通りに行動してしまう。 たとえば、近ごろ喫煙者への風当たりが強い。これは「喫煙にメリットはない」という言説が社会に広く受け入れられたためだ。「反喫煙」的な考え方が権力を握ったいま、「煙草はいいもんだ」という声は自然と小さくなっている。平たく言えば、これも一種の「言論抑圧」である。 社会というものは、知らないうちに誰かの声を封殺してしまう力と危険性をはらんでいる。それに自覚的であることが、現代を生きる人には求められるだろう。 もちろん批判すべき政策は批判するべきだ。ただ、「言論抑圧に反対!」と言える段階は、実のところは「まだマシ」ですらある。本当の言論抑圧は、誰も知らないうちに遂行され、誰もそうとは気付かぬままに完遂されてしまうのだから。 消えていった人の声は聞くことができない。沈黙させられている人は、沈黙させられているという事実についても発言することができない。 ◆気に入ったフレーズ大学教授という知識人が政治的現実と対決するうえで、あくまでも学問のなかに立て籠り、そこで批判を展開するか、あるいは、象牙の塔を出て公の場で自説を表明するか。 正義が国家の命令するところであれば、何でも正義になってしまう。したがって、正義は国家を超えるものでなければならない。 「国家の理想に自己の立場を置く時、その正邪の判断は国民中最も平凡な者にも可能である」 「無批判は知識の欠乏より来るのではない。それは、理想の欠乏、正義に対する感覚の喪失より来る」 文部省からの一撃に大学総長があえなく屈したということ、それが矢内原事件の核心だったのである。 「学問本来の使命は実行家の実行に対する批判であり、常に現実政策に追随してチンドン屋を勤めることではない」 「暴力のために正義が、権力のために真理が、かくも事もなげに蹂躙されていくのを、今この眼でみたのだ。だが、しかし、一言の抗議もできず、黙っているのが一番よい方策だというのは、なんという悲しいことであろう」 ある時間を歴史的に評価する場合、歴史家はその事件に対して時間的に距離をとっている。 言論抑圧が激化すればするほど、それに対する告発は公の場から姿を消していったのである。 消えていった人の声は聞くことができない。沈黙させられている人は、沈黙させられているという事実についても発言することができない。 不正権力への抵抗とその正当性に関する理論は、理屈としてわかっても、実際問題としてこれを行動に移すことは容易ではない。
前穂高の難所に挑んだ小坂乙彦は、切れる筈のないザイルが切れて墜死する。小坂と同行し、遭難の真相をつきとめようとする魚津恭太は、自殺説も含め様々の憶測と戦いながら、小坂の恋人でもあった美貌の人妻八代美那子への思慕を胸に、死の単独行を開始する…。完璧な構成のもとに雄大な自然と都会の雑踏を照応させつつ、恋愛と男同士の友情をドラマチックに展開させた長編小説。 井上靖による長編小説。とにかく面白い。インターネットでは様々な意見が語られているが、誰もが一様に「あっという間に読み終えてしまった」とコメントしている。先へ先へと読者を誘う、物凄い牽引力がこの本にはある。その一点で、この小説は傑作と評されてしかるべきだろう。 色々な要素を内包しているこの小説を貫くものは、いったい何だろうか。そんなことを考えながら筆を進めていきたい。▽理解を必要としない生き物 この小説は山と世俗をまたいだ人間関係が中心になっている。山岳小説と呼ぶことは難しいかもしれないが、それでも確かに「山」は作品全体に重くのしかかっている。 登山家とは、自然と格闘する生き物である。彼らは社会の中で生活しているが、心の中に孤独な一面を備えている。彼らは他人に理解されることを必要としない。心の底にあるのは、「山と自分」という対峙だけ。 主人公の親友・小坂が惚れこんだヒロイン、美那子は「世俗」の象徴である。その慕情は彼の登山家としての「ゆらぎ」を意味する。「山―自分」という構図の中に、第三者が入り込む。小坂が彼女を「山に連れていきたい」と発言したことも、それを裏付ける。 こうして「他人の理解」を必要としないはずの登山家が「世俗」を求めたとき、事件は起こる。切れる筈のないザイルが切れ、小坂は命を落とす。 あってはならない事態に対して、世間では様々な憶測が飛ぶ。主人公は「ザイルは自然に切れたのだ」と訴え続ける。主人公が社会の疑惑と戦いつづける姿勢を貫けたのは、ひとえに彼が登山家だったからだろう。 やがて小坂の遺体は見つかり、主人公をとりまく人間関係も複雑化する。美那子と主人公は徐々に惹かれあっていく。登山家としての「ゆらぎ」が主人公の中で芽生えるなかで、もう一度、彼は山へと赴いていくのである。 こうして俯瞰すると、この小説は、他人の理解を必要としない「登山家」という生き物の生態が構成全体に通底していることが分かる。物語の冒頭が、山から下りてくる主人公が意を決して都会の雑踏へと足を踏み入れる場面であることも、この点、象徴的である。▽登山家という生き物 未開人は自分自身のなかで生きている。社会に生きる人は、常に自分の外にあり、他人の意見の中でしか生きられない。 先日読んだルソーの「不平等起原論」の一節が思い浮かんだ。奇しくも、この一節は登山家という生き物にはぴったりと当てはまる。自然と対峙し格闘する彼らは、どこか「自分自身のなかで生きて」いる。 社会は彼らにさまざまな疑問や憶測を投げつける。死の真相は、社会に明らかにされることなく、物語は終わっていく。読者はどこかモヤモヤした気持ちを抱かせられる。 この物語は死人が饒舌にならない。「死の真相」という類のものが明かされない。それでいい。彼らは「理解されること」を決して求めていない。社会がどれほど注目しても、結局その死は「個人的体験」の域を出ない。 「氷壁」に挑みかかった二人の登山家。その死は、社会および読者に対してあらゆる憶測や推察を許さない。「登山家」という生き物のあり方自体もまた、「氷壁」のような冷たさで我々の前に屹立しているのである。
かつて人間は不平等のほとんど存在せぬ自然状態にあったが、歴史的な進歩という頽落の過程をへてついには「徳なき名誉、知恵なき理性、幸福なき快楽」だけをもつ存在に堕する。それが専制社会における人間の悲惨なのだ、とルソーは論じ、同時代の社会と文化を痛烈に批判した。いまも現代人に根元的な思索を促してやまなぬ書。 「人びとの間における不平等の起原はなんであるか、そしてそれは自然法によって容認されるか」というテーマに対するルソーの論文である。もともと懸賞のために書かれたもので、その時は落選の憂き目にあったらしい。 「社会の発展こそが、不平等を作り出し、固定化したのだ」という彼の論旨は、当時では斬新だったのだろう。ヴォルテールは彼にあてた手紙で「人類に文句をつけた著作」と皮肉っている。慧眼な彼のことだから、おそらくこの論文のすごさはどこかで感じていたのだろうが、とにかくこの論文、はじめはあまり歓迎されなかった。 それがいまでは世界中で翻訳され、製本されているのだから、面白い。ルソーの皮肉はヴォルテールのそれより数枚上である。▽ルソーの考える「自然状態」 ここで書かれているのは、人間の不平等が生まれる前の状態、すなわち「自然状態」 のあり方についての考察が主である。 ルソーの考える「自然状態」とは、非常に平和な状態である。あらゆる悪徳や不平等は存在せず(なぜなら未開人はそうした考え方自体を持たないからである)、自己保存だけを目的に過ごしている。善悪の発想もなく、他者に危害を加えることなど、想像だにしない。私は心が平和で、身体が健康である自由な存在の惨めさとは、いったいどんな種類のものか説明してもらいたいと思う。 ルソーは、そんな「自然状態」を決して悪いものだと考えていない。そこでは人間は互いに没交渉であるが、それぞれ幸福に暮らしているのである。▽人間の発展と没落 そこからルソーが描き出していくのは、一般的に言う「歴史の発展」、そして彼の言う「人間の堕落」である。彼は、両者が不可分のものとして考えた。 たとえば、共同生活を始めることで、人々は他者を評価しはじめる。彼らは尊敬されることを学び、そうされないことを「侮辱」だと感じる。 また、社会が高度に発達しはじめると、「より巧みな者」「より強い者」「より美しい者」が得をし始める。だけではなく、次第に彼らはその構図を固定化するようになる。 さらに、鉄の鋳造や貨幣、農耕の技術が発展すると、「些細な不平等」は「大きな結果の不平等」へと変貌する。それは世代を超えて引き継がれ、より強固になっていく。 こうした過程については、ルソーの総括をそのまま引用した方が分かり良いだろう。これらのさまざまな変革のなかに不平等の進歩をたどってみると、われわれは、法律と所有権との設立がその第一期であり、為政者の職の設定が第二期で、最後の第三期は合法的な権力から専制的権力への変化であったことを見出すであろう。 富者と貧者との状態が第一の時期によって容認され、強者と弱者との状態が第二の時期によって容認され、そして第三の時期によっては主人と奴隷との状態が容認されるのである。 ルソーの基本的な発想は、「人間社会の発展が生み出したものは、強い者に有利なように働く」 というものであった。技術も、知識も、貨幣も、権力も、法律も、みんな強い者が恣意的に作り上げ、運用した。それらは、つつましい幸福が続く自然状態では必要ないものだった。一切のわれわれの自然の傾向を変化させ、悪化させるものが、もっぱら社会の精神であり、また社会が生みだす不平等である。 ▽強烈な悲観 自然状態から離れ、人間社会が発展するほど不平等は強固に人々を縛っていく。「社会の発展=人間の堕落」という、逃れ難い呪縛。ルソーが導きだした結論は、あまりに悲惨だ。 その文脈では、「専制政治」すらも、人類史が導き出した一つの答えであった。不平等の固定化を強者が図った結果、永遠に続く支配と服従が保障されてしまったのである。われわれが文明化されたのは、いずれにしても良かったのですが、そうならないほうが、われわれにとって確かにいっそう良かったでしょう。 しかし、ここで彼が抱いたそのような強烈な悲観は、やがて革命によって覆される。「アンシャン・レジーム」に対して人類が挑戦を突き付けたとき、ルソーは「社会契約論」を執筆し、それを思想的に支える役割を担った。この「人間不平等起原論」が書かれてから7年後のことだ。 おそらく、彼は本稿を書いているうちに、人間と社会に絶望したことだろう。しかし、彼はそれを乗り越えて「社会契約論」を生み出し、革命思想の確立にまでこぎ着けた。ここに、ルソーの偉いところがある。決して絶望してはならない。絶望したら、絶望のうちより始めよ。 イギリスの政治家、エドマンド・バークの言葉を思い出す。そんな胆力が、ルソーにはあった。だからこそ、彼は偉大な思想家の一人として、今日も多くの人々に記憶されているのではないか。 ◆気に入ったフレーズ 第一部人間悟性は情念に多くのものを負っており、情念もまた、人間悟性に多くのものを負うている。 死とその恐怖についての知識は、人間が動物的な状態から遠ざかるときに最初に獲得したものの一つなのである。 私は心が平和で、身体が健康である自由な存在の惨めさとは、いったいどんな種類のものか説明してもらいたいと思う。 もし自然が人間に理性の支柱として憐みの情を与えなかったとしたら、人間はそのすべての徳性をもってしても、怪物にすぎなかったであろう。 人間を孤立させるものは哲学である。 人々を区別する差異のうちで、いくつかのものは、自然的な差異として通っているが、それらが単に習慣と社会の中で人々が採用するさまざまな生活様式との産物であることは見やすいことである。 第二部ある土地に囲いをして「これはおれのものだ」と宣言することを思いつき、それをそのまま信ずるほどおめでたい人々を見つけた最初の者が、政治社会(国家)の真の創立者であった。 人々がお互いに評価しあうことをはじめ、尊敬という観念が彼らの精神のなかに形成されるやいなや、だれもが尊敬をうける権利を主張した。 一人の人間が他の人間の援助を必要とするやいなや、またただひとりのために二人分の貯えをもつことが有効であると気づくやいなや、平等は消えうせ、私有が導入され、労働が必要となった。 人類を堕落させたのは、詩人からみれば金と銀とであるが、哲学者からみれば鉄と小麦とである。 腐敗も変質もすることがなく、常に正確にその目的に従って運営されるような政府は、必要もないのに設立されたようなものである。 だれも法網をくぐったりせず、為政者の職を濫用することもないような国は、為政者をも法律をも必要としないだろう。 未開人は自分自身のなかで生きている。社会に生きる人は、常に自分の外にあり、他人の意見の中でしか生きられない。 一切のわれわれの自然の傾向を変化させ、悪化させるものが、もっぱら社会の精神であり、また社会が生みだす不平等である。 私は、人類に文句をつけたあなたの新しい著作を受けとりました。(ヴォルテール) われわれが文明化されたのは、いずれにしても良かったのですが、そうならないほうが、われわれにとって確かにいっそう良かったでしょう。
日露戦争直後、前人未到といわれ、また、決して登ってはいけない山と恐れられた北アルプス、劒岳山頂に三角点埋設の至上命令を受けた測量官、柴崎芳太郎。機材の運搬、悪天候、地元の反感など様々な困難と闘いながら柴崎の一行は山頂を目指して進んでゆく。そして、設立間もない日本山岳会隊の影が。山岳小説の白眉といえる作品。 ▽不動の矜持 人間が困難を引き受けるときには、ふたつの場合が考えられる。ひとつはその困難自体が好きだから、という場合。もうひとつはそれが仕事だから、という場合。 大雑把に言ってしまえば、なぜ山に登るのかと問われて「そこに山があるから」と答えたジョージ・マロリーは前者であり、この小説の主人公・柴崎芳太郎は後者にあたるだろう。柴崎は測量士であった。 前人未到と恐れられた劒岳の登頂を成し遂げて、測量を行う。上意下達な組織の命令を彼は引き受け、命懸けの奮闘をする。小説はその様を「もうひとつの戦争である」とまで表現した。 いつの時代でも、誠実な人間というのは画になるものだ。日々の雑務や面倒を乗り越えながら、難攻不落の劒岳に挑む主人公の姿には、強く心惹かれるところがある。そこに「矜持」 が感じられるからだろう。 かつて、太宰治は「富士には月見草がよく似合う」と言った。それは日本一偉大な山を前に、微塵もたじろぐ様子をみせずに対峙する月見草の健気さを讃えた一説だった。 急峻な劒岳と、矜持をもって任務を遂行する主人公の対比にも、これと似たものを感じさせられる。柴崎はプロの登山家ではない。だが、粛々と仕事を進める精神には、劒岳の山容に引けを取らない立派さがある。 測量のプロとしての彼の姿勢は、どんな困難を前にしても揺らぐことがなかった。山を登る前も、登ったときも、その後に測量をするときも、彼は一貫して「測量士」であり続けた。その矜持の強さに、読者は知らないうちに深く打たれる。「嵐にあおうが罰が当たろうが、われわれ測量隊は登らねばならない。そうしないと正確な地図ができないからだ」 一般に小説とは人間の変化を描くものであるが、この点、「劒岳」はいかなる困難を前にしても変わらぬ主人公の矜持に焦点が当たっている。▽矜持が支える社会 「地図などというものは、山の中をごそごそ歩いている間に自然に出来てしまうものだぐらいにしか世間では理解していない」 測量士の苦労は想像を絶するものであった。僕たちが普段何気なく目にする地図、それが尋常でない努力の集積の産物であることを、改めて突きつけられた。 かつて「目の前に何かがあるということは、それを陰で準備した人がいるということだ」 と教わったことを思い出す。想像力を「見えない誰かの仕事」に向けて働かせようとすることは、社会で生きていくうえで大切なことだ。 僕の知らないところで、大勢の人が、自分の仕事を全うしている。そうして社会は成立し、僕の生活も成り立っている。それらはすべて、「矜持」の二文字によって支えられている。 矜持。自分のすることに誇りを持ち、堂々とすること。無数のそれらに支えられた社会は、天に聳える山岳のように偉大である。主人公と劒岳が対峙する画に、そんなことを感じさせられた。 ◆気に入ったフレーズ 「嵐にあおうが罰が当たろうが、われわれ測量隊は登らねばならない。そうしないと正確な地図ができないからだ」 「誰だって、歩きやすいところ、歩きやすいところと選んで歩くものです。永い間にはそれが道になるのでしょう」 「地図などというものは、山の中をごそごそ歩いている間に自然に出来てしまうものだぐらいにしか世間では理解していない」
ある夕食会で出会った、冴えない男ストリックランド。ロンドンで、仕事、家庭と何不自由ない暮らしを送っていた彼がある日、忽然と行方をくらませたという。パリで再会した彼の口から真相を聞いたとき、私は耳を疑った。四十をすぎた男が、すべてを捨てて挑んだこととは…。ある天才画家の情熱の生涯を描き、正気と狂気が混在する人間の本質に迫る、歴史的大ベストセラーの新訳。 イギリスに留学していたとき、はじめて原文で通読した小説だ。才能だけが雄弁たりうる世界の厳しさと、すべてを犠牲にしてそこに果敢に挑む男の姿に胸を打たれたのを、今でも覚えている。 素敵な一節ともそこで出会った。 "The writer should seek his reward in the pleasure of his work" 、邦訳には「作家の喜びは、書くという行為そのものにあり、書くことで心の重荷をおろすことにある」とある。序盤にあるこの一文で、僕はサマセット・モームという作家に並々ならぬ関心を抱くことになった。 タイトル「月と六ペンス」には、ある意味が込められている。「月」はストリックランドが追い求めた「夢」 や「狂気」 を意味し、「六ペンス」は彼が捨てた「生活」 や「現実」 を表すとされている。 僕のブログのタイトル「本と6ペンス」も、このタイトルを踏まえたものだ。 日常生活から離れて、本という別の時空に浸り、ひとりで思索に耽りたい。現実を生きる傍ら、どこかで文章を書く人としての理想を追求する自分でいたい。そんな願いをストリックランドの姿にダブらせて、このブログを続けてきた。▽「天才」の論理 ストリックランドが妻子のいる安定した生活を捨てて飛び込んだのは、絵画の世界だった。そこには特殊な道徳律が存在する。 すなわち、「才能があるかどうか」 だけが問われるのである。この小説は、そんな芸術の世界の厳しさと狂気を、「一般人」としての筆者の目を通して描き出している。 「美を描きたい」という理想に囚われたストリックランドは、現実を棄て、才能のない人間を踏み台にした。彼に必要だったのは、「美」の名を冠せられた神との対話だけ。彼はなんの痛痒も感じることなく一般道徳を踏みにじった。 天才だから、できたのだ。大勢の人間を殺したナポレオンが「英雄」と讃えられたように、ストリックランドも「天才」だったからこそ、多くの犠牲を強いることができたのである。「才能は苦しみの種でもある。僕たちは才能ある者たちに対して寛容でなくてはならないし、辛抱強くなくてはならないんだ」 。 後にストリックランドにすべてを奪われることになる、哀れな画家はこう語った。この世には才能だけが雄弁たりうる世界が存在し、そこでは他の道徳論は口を閉ざさなくてはいけないのである。 ▽血みどろの才能と人生 才能がある状態と、天才であることの間には大きな違いがある。天才になるには、様々なものを犠牲にして才能を磨かなくてはいけない。ストリックランドの矯激な人生は、そのことをよく示している。 勤め人を続けながら片手間に絵を描いていたなら、彼が天才になることはついになかっただろう。血みどろになって描き続ける厳しい環境に自分を追い込むことで、やっと彼は本物になった。 自分の才能とどう向き合うか、というのは非常に難しい。筆者はストリックランドにこんな質問をぶつける。「どうして自分に才能があると思ったんです?」 おそらく、ストリックランド本人もわかっていなかったのだろう。彼はただ答える、「描かなくてはいけないんだ」、と。「描かずにはいられないんだ。川に落ちれば、泳ぎのうまい下手は関係ない。岸に上がるか溺れるか、ふたつにひとつだ」 結果、彼には才能があった。そしてその才能を血みどろになって試そうとする気力もあった。だから彼は天才になれた。そのどちらが欠けても、彼は「月と六ペンス」の主人公にはなれなかったであろう。 当初はストリックランドに反発していた筆者も、彼を追ううちに考え始める。人生とは、才能とはいったい何なのか、と。彼は本当にしたいことをしたのだ。それが人生を棒に振ることだろうか。 才能と人生とをめぐる深い問いを後に残して、小説はクライマックスを迎えるのである。▽「六ペンス」の日常の中で これを読み終えた僕たちもまた、「6ペンス」の日常生活に戻っていく。 しかし、現実を過ごすうちに、かつての読者たちはなにかが自分の胸を叩いてくるのを感じるだろう。俺を試してみろ、俺を磨き上げてみせろと、なにかが囁いてくるのを聞くだろう。 それは、四十になって画家を志した天才の物語が、読者の心に「才能への情熱」の火を灯させた証しなのである。絵からようやく目を離したとき、わたしは思った。ストリックランドは秘密を墓場まで持っていってしまったのだ、と。 ◆気に入ったフレーズ 作家の喜びは、書くという行為そのものにあり、書くことで心の重荷をおろすことにある。ほかには、なにも期待してはいけない。 義憤を感じる人間が罪人に制裁を与える力を持っていないのは珍しいことではない。 「どうして自分に才能があると思ったんです?」 「描かずにはいられないんだ。川に落ちれば、泳ぎのうまい下手は関係ない。岸に上がるか溺れるか、ふたつにひとつだ」 世間に認められたいという欲望は、おそらく、文明人にもっとも深く根差した本能だ。 幸福は時によって人を立派にすることもあるが、おおかたの場合、労苦は卑劣で意地悪な人間を作り出すだけだ。 「美を理解するには、芸術家と同じように魂を傷つけ、世界の混沌をみつめなくてはならない」 「才能は苦しみの種でもある。僕たちは才能ある者たちに対して寛容でなくてはならないし、辛抱強くなくてはならないんだ」 義憤には必ず自己満足がふくまれていて、ユーモアのセンスがある人間ならだれでもきまり悪さを感じるものだ。 「足音を忍ばせて、人生を生きなければならないんだ。運命に目をつけられないように」 「ほれぼれするような出来だった。触ることもできなかった。怖かった」 作家は断罪しようなどと思わない。ただ知りたいと思う。 「女は自分を傷つけた男なら許せる。だが、自分のために犠牲を払った男は決して許せない」 「男の魂は宇宙の果てをさまようが、女はその魂を家計簿の項目に入れたがる」 女は一日中愛していられるが、男はときどきしか愛せない。 彼は本当にしたいことをしたのだ。それが人生を棒に振ることだろうか。
6月のある朝、ダロウェイ夫人はその夜のパーティのために花を買いに出かける。陽光降り注ぐロンドンの町を歩くとき、そして突然訪ねてきた昔の恋人と話すとき、思いは現在と過去を行き来する。生の喜びとそれを見つめる主人公の意識が瑞々しい言葉となって流れる画期的新訳。 ▽「斬新な手法」 イギリスの女性小説家、バージニア・ウルフの出世作と言われている。僕はこの本を紹介されるまで知らなかったのだが、20世紀半ばに入水自殺を遂げるまで「イギリスのエリート階層出身の女性知識人」として人気を博した作家だという。 本の著者紹介に「斬新な手法で人間の心理を深く追求し…」と書かれていて、思わず頷く。この小説では一人称が次々と移ろっていく。街を歩く夫人から、そこを通りかかった若い男、その妻、そしてまたそこを通りかかった男…という風に。これが「斬新」でなくて何であろう。 登場人物たちの考えていることは、読者に筒抜けになる。彼らの「意識のレンズ」は、いっとき読者を支配しては去り、また不意に乗り移ってくる。この本を堪能するにはまず、そんな独特の叙述に慣れることが求められる。▽齟齬のうえに立脚した世界 物語だけを見ると、ダロウェイ夫人がパーティを開くだけの一日。彼女の身に特筆すべき出来事は何も起こらない。そのかわり、本は人々の心理の深層に入り込み、そこに潜在する長大な物語をすくい上げる。 一日のあいだ、人間はさまざまなことを考える。鋭く核心を突くことから、ナンセンスなことまで、実にさまざまなことを。社会のいたるところで、そんな「意識のストーリー」は展開されている。いま筆者の隣に座っている人も、読者であるあなたの隣に立っている人も、皆一様に何かを考えて過ごしている。 膨大な量の思考が、常に人間を取り巻いて存在している。コミュニケーションは、他者の思考の一端をちらと見せる程度の役割しか果たせない。人間は、彼が話すことの数千、数万倍も考えている。この本で表現されているのは、人間関係のそんな現実、すなわち人間がいかに他人を理解できていないか、そしていかに齟齬に満ちた状態で生きているかということである。 ジェイン・オースティンの「高慢と偏見」を思い出す。人間は、他者を解釈するうえで常に多少の「誤解」をしている。それでも人間関係は進展するし、社会は動いていく。 このリアリズムこそが、小説の持つ大きな魅力だ。彼らの意図は必ずしも伝わらない、それでも、その意図は彼の内側に、確かに存在した。この「客観では見えない主観的事実」を、ウルフは繊細な感性で浮き彫りにしている。 リチャード・ダロウェイが夫人に花束を渡す場面などが象徴的だ。彼は妻に「愛している」と口にしようと思ったが、結局伝えられない。そんな夫の心中などつゆ知らず、夫人の関心は花に注がれる。世の中では、こんな「ちょっとしたすれ違い」がしょっちゅう起こる。 さまざまな齟齬と、汲み取られなかった数々の意図。それらを踏み台にして、ダロウェイ夫人の「平凡な一日」は成立している。現実世界がいかに複雑かつ微妙な諸関係の上で動いているか、この小説はそれを印象的に描き出している。▽一日は短い単位の一生である 明るい社交界を生きるダロウェイ夫人。この作品は彼女を通り過ぎるさまざまな人の心理に潜っていく。コンプレックスに苦しむ人、ねたむ人、昔を懐かしむ人、戦争で心を病む人…。小説の深みは、そこからもたらされている。 ただよう彼らの思考は不意に合わさり、不意にほつれる。彼らは同じ空気を吸い、同じものを見る。しかし、まったく違うことを感じ、考える。 人生というものは、一瞬一瞬に宿っている。本に綴られている彼らの意識は、それぞれの人生に裏打ちされている。誰もが、それまで何年と生きてきた経験をもとに、今を見、今を考えている。 この本には一日分のストーリーしか書かれていない。しかし、そこにはすべてが宿っている。生と死も、戦争と平和も、愛と憎しみも。「一日は短い単位の一生」とはよく言ったものだ。 これだけ雑多な要素を含みながら、あくまでダロウェイ夫人の一日は「平凡」なのである。考えてみると、「平凡である」ということは、凄まじいことなのかもしれない。 日が昇って日が沈むまでのあいだに、数々の人生が万華鏡のように現れては消え、また現れてを繰り返す。その様を知ってか知らずか、ダロウェイ夫人はページの間隙から、我々にうっとりと微笑みかけるのである。みな生きることを愛してやまない。人々の眼差しに、その足取りの軽さ、重さ、心細さに、わたしの愛するものがある。 ◆気に入ったフレーズみな生きることを愛してやまない。人々の眼差しに、その足取りの軽さ、重さ、心細さに、わたしの愛するものがある。 世間にああ思ってほしい、こう思ってほしい…ばかげている。一瞬だってだまされる人なんて、いやしないのに。 ダロウェイ夫人というこの感覚。もうクラリッサですらなく、リチャード・ダロウェイの妻というこの感覚。 「これがわたしの生きた人生です、これが」と言った。でも、わたしはどんな人生を生きてきたというの。そうよ、どんな? 感じることを言わずにおいたら千の後悔を残す。 生きるとはいいとのだ。太陽は熱い。ただ、人間は…人間はいったい何を望むのだろう。 人に必要なのは友ではなく敵だもの。 わたしたちはみな囚人よね。とても面白い戯曲を読んだことがある。囚人が独房の壁を爪でかりかり引っ掻くという…これが人生の真実だと思ったわ。 他人のことなど何もわからないという君の意見に、おれは反対だよ。ほんとうは何もかもわかるんだ。少なくとも、おれにはわかる。
その花を愛するゆえに"椿姫"と呼ばれる、貴婦人のように上品な、美貌の娼婦マルグリット・ゴーティエ。パリの社交界で、奔放な日々を送っていた彼女は、純情多感な青年アルマンによって、真実の愛に目覚め、純粋でひたむきな恋の悦びを知るが、彼を真に愛する道は別れることだと悟ってもとの生活に戻る…。ベルディ作曲の歌劇としても知られる恋愛小説の傑作である。 ▽報われない「真実の愛」 多くの文学作品では、「真実の愛」は独特なかたちをとる。エゴイズムを排して見返りを求めず、ただ相手のために相手を愛するという感情にだけ、「真実の愛」という称号が冠せられるのである。 その文脈では、自ら身を引こうとする自己犠牲の精神もまた、愛の「真実性」を保証するものだと解される。だから、極めて純粋な愛を描くために、あえて二人に別れを強いる物語も少なくない。 この「椿姫」も、「相手を思うゆえに別れる」という愛を主題につくられている。冒頭ではヒロインの死が報じられ、やがて青年の独白がはじまる。二人の愛は結晶をつくりあげることこそ出来なかったが、散り散りになった愛情が後に残されて、きらきらと随所に光るのである。「あたしは、あなたのおかげで、一生のうちたった一度だけ、楽しい思いをさせていただいたのですものね」 青年アルマンと恋仲になった娼婦マルグリットは、相手の将来や家族のことを慮って別れを選択する。生まれて初めての本物の恋を自ら断ち切るとは、どんなに苦しいだろう。彼女の苦しみと愛の純粋さに感じ入らされる作品だった。▽「椿姫」 感動の涙とともに読み継がれ、歌劇も楽しまれてきたデュマ・フィスの「椿姫」。娼婦でありながら高潔さを失わず、椿の花をこよなく愛するヒロインの美しさと純真さを表現した、まことによくできた表題でもある。マルグリットは芝居の初日にはきっと欠かさず見に行った。必ずと言ってもいいほどに、三つの品がそろえられてあった。観劇眼鏡と、ボンボンの袋と、椿の花束が。 この椿の花は、月の25日のあいだは白で、あとの5日は紅だった。どんな理由でこんなふうに色をとり変えるのかだれにも分からなかった。 これ以外に「椿の花」についての言及はほとんどないのだが、どこか象徴的な匂いを感じさせる。なぜ彼女は椿の花を愛でたのか、なぜ彼女は「椿姫」と呼ばれたのか。 椿の花言葉を調べると、「控えめな優しさ」 「完全なる美しさ」 と出てくる。正確に言うと、紅色の花言葉が前者、白色のそれが後者だという。「控えめな~」というのは、椿の花にほとんど香りがないことに由来するらしい。 こうして考えると、ふたつの花言葉はマルグリットの人間像と重なる部分があることが分かる。 パリ中の耳目を集めるほどの美貌を持ち、気品にもあふれていた彼女は、まさに「完全なる美しさ」を備えていた。これが白の椿の花言葉。 また彼女は、アルマンのために自ら身を引き、苦しみを引き受けもした。恨まれるものと知りながら、真実の愛で彼に報いた。「控えめな優しさ」、紅の椿の花言葉。 若くして命を落としたマルグリットの生涯を俯瞰したとき、「25日が白、5日が紅」という色の変化についても合点がいく。娼婦として豪奢の限りを尽くしていた彼女は、人生の大半を「完全なる美しさ」、白の椿姫として生きていた。 ところが、病による死期が迫るなかで出会ったアルマンとの純愛が、その白をぱっと、紅く染めた。真実の愛を知った彼女は、「控えめな優しさ」というのも同時に理解する。紅い椿姫、月が終わるまでの5日間。 彼女は「白い椿姫」から「紅い椿姫」へと色を変え、花を落とした。それは「完全なる美しさ」の喪失ではなく、むしろその超越だと考えられる。「控えめな優しさ」を備えたことで、美しいマルグリットは文学史にいつまでも残るヒロインへと昇華したのである。 マルグリット、美しくて、穢れを知らず、至上の優しさを備えた女。彼女の愛の物語が広まるにつれ、椿にはもう一つの花言葉が付加された。「私の運命は、あなたの手に」 。 ◆気に入ったフレーズ 「女の方に対してはいつでも遠慮をしてはしなければなりません」 「あたしを好いてくだすった若い男の人たちは、みんなすぐに離れて行ってしまいましたわ」 「殿方って、聞けばいやな思いのするにきまったことを一心に聞きたがるのね」 世間では女優や娼婦ゆえに財産をなくした人たちのことを笑います。しかしわたしには、そういう人たちがそうした女のためにもっともっと無分別なまねをしないのが不思議なくらいです。 「世間には、あたしたちからなに一つ手に入れないうちに破産する男もあれば、花束一つであたしたちをものにする男もあるわ」 ああ!わたしたちは大急ぎで幸福になろうとしました。まるでいつまでも幸福でいることはできないのを見ぬいていたかのように。 「理想的な生活のそばには、ちゃんと物質的な生活ってものがあるのよ」 「真実の恋というものは、たとえ相手がどんな相手でも、つねに男の心を向上させるものです」 「あたしは、あなたのおかげで、一生のうちたった一度だけ、楽しい思いをさせていただいたのですものね」 「浮き世には、人情からすればずいぶんひどいが、しかしどうしてもそうしなければならないような事柄が、往々にしてあるものだ」 「情熱の時代の次には、男として人から尊敬されるために、まじめな地位にしっかりと腰をすえねばならない時代がくる」 ただわたしは、そうした女たちのうちのひとりが、一生涯に一度まじめな恋をし、そのために悩み、その恋ゆえに死んだということを知ったまでである。