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本と6ペンス

The writer should seek his reward in the pleasure of his work. ("The Moon and Sixpence" Somerset Maugham)

262.愛するということ (エーリッヒ・フロム)

私たち現代人は、愛に渇えつつも、愛する技術を学ぼうとはしない。愛とは、孤独な人間が孤独を癒そうとする営みであり、愛こそが現実の社会生活の中で、より幸福に生きるための最高の技術である。人間砂漠といわれる現代にあり、〈愛〉こそが、われわれに最も貴重なオアシスだとして、その理論と実践の習得をすすめた本書は、フロムの代表作として、世界的ベストセラーの一つである。


▽愛は能動である
愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏みこむ」ものである。
不躾にも、引用文から書評を始めさせてもらおう。この革命的な一節に、フロムによる考察の本質が宿っている。

エーリッヒ・フロムは、精神分析学者および社会学者として知られる。大衆の精神構造を浮き彫りにした著作、「自由からの逃走」が特に有名だろう。そんな彼が歴史や哲学、心理学などの広範な知識をもとに、愛について学問的な考究を重ねたのが本稿である。

先の引用にあるように、「"与えること"が愛の本分である」というところから、彼の議論は出発する。だから、現代でよく聞かれる「愛がほしい」という要求には、彼は答えない。

他者からの愛を求める限り、人間は幸福になれない。「無条件の愛」は論理的には母親からしか受けることができないし、交換や見返りなどを通じた「条件付きの愛」も、かえって人間を不安に陥れ、不幸にするからである。

フロムは言う、能動的に愛を与えることは、愛の本質であると同時に、生きる喜びでもあると。現代人は「報酬」や「見返り」を先んじて考える習慣を持っているが、愛の領域にはそれが当てはまらないのだと。

幼稚な愛は「愛されているから愛する」という原則にしたがう。成熟した愛は「愛するから愛される」という原則にしたがう。
損得ではなく、ただ「与える」ために、与える。その態度によってはじめて、愛は成熟したかたちをとるとフロムは訴える。


▽愛の凄み
以上の概観を見て、フロムの言う「愛」を実践することの困難を想像した人も多いだろう。現代人の"本能"と言っても差支えない「損得勘定」の意識を克服せよというのだ。

そのためには、愛する対象への信頼、そして自分自身への信頼が求められる。だから、フロムは「人を愛するためには、まず自分自身を独立させ、愛さなければいけない」と説く。人間の「成熟」や「信念」は、この文脈で鍵になってくる。

愛するという行為について語るとき、フロムの筆致は鬼気迫るものすら感じさせる。愛そのものに潜在する「凄み」が、そうさせているのかもしれない。

愛されるには、そして愛するには、勇気が必要だ。ある価値を、これがいちばん大事なものだと判断し、思い切ってジャンプし、その価値に全てを賭ける勇気である。

愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。


商品化され、疲弊しきった愛のかたちを彼は力強く否定する。その言葉は、メロドラマや恋愛小説、そして市場経済に毒されて、「愛するということ」への不感症になってしまった現代人のツボを突いてくる。

愛を"与えられる"ことに、現代人はあまりに憧れるようになってしまった。欲求不満をともなった愛への需要は日を追うごとに積み重なり、現代社会を侵食している。反面、周囲に愛を与えながら生活できている人間の、どれほど少ないことか。

愛をめぐってハイパーインフレが起こっているいま、あらためて「愛するということ」を捉え直したい。愛は、誰でも供給できる。それは限られた資源ではなく、人間の心から生まれる無尽蔵のものである。

フロムの言葉に従って、私たちも「愛するということ」自体の喜びに目を向けるべきだろう。与えれば与えるほど豊かになっていく、「愛」というふしぎな資本。出し惜しみすることなく、豊かに生きていけたらいいと思う。

与えることは、自分のもてる力のもっとも高度な表現なのである。


◆気に入ったフレーズ
自分の人格全体を発達させ、それが生産的な方向に向くよう、全力をあげて努力しないかぎり、人を愛そうとしてもかならず失敗する。

生きることが技術であるのと同じく、愛は技術であると知ることである。

心の奥底から愛を求めているくせに、ほとんどすべての物が愛よりも重要だと考えているのだ。

人間のもっとも強い欲求とは、孤立を克服し、孤独の牢獄から抜け出したいという欲求である。

現代では平等は「一体」ではなく「同一」を意味する。

この世に愛がなければ、人類は一日たりとも生き延びることはできない。

愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない。そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏みこむ」ものである。

愛は何よりも与えることであり、もらうことではない。

与えることは、自分のもてる力のもっとも高度な表現なのである。

たくさん持っている人が豊かなのではなく、たくさん与える人が豊かなのだ。

愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである。

子どもにとって問題なのはもっぱら愛されること、つまりありのままの自分を愛されることだけだ。

幼稚な愛は「愛されているから愛する」という原則にしたがう。成熟した愛は「愛するから愛される」という原則にしたがう。

無条件の愛は、子どもだけでなくすべての人間が心の奥底から憧れているものの一つである。

愛とは、特定の人間にたいする関係ではない。世界全体にたいして人がどう関わるかを決定する態度、性格の方向性のことである。

自分の役に立たない者を愛するときにはじめて、愛は開花する。

利己的な人は、自分を愛しすぎるのではなく、愛さなすぎるのである。

もし、自分の足で立てないという理由で、誰か他人にしがみつくとしたら、その相手は命の恩人にはなりうるかもしれないが、二人の関係は愛の関係ではない。

忍耐力がどういうものかを知りたければ、懸命に歩こうとしている幼児を見ればいい。

客観的に考える能力、それが理性である。理性の基盤となる感情面の姿勢が謙虚さである。

安全と安定こそが人生の第一条件だという人は、信念をもつことはできない。

愛されるには、そして愛するには、勇気が必要だ。ある価値を、これがいちばん大事なものだと判断し、思い切ってジャンプし、その価値に全てを賭ける勇気である。

愛するということは、なんの保証もないのに行動を起こすことであり、こちらが愛せばきっと相手の心にも愛が生まれるだろうという希望に、全面的に自分をゆだねることである。


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261.オリバー・ツイスト 上下 (ディケンズ)

救貧人の孤児として育てられたオリバーは、食べ物も満足に与えられず、煙突掃除屋や葬儀屋に「貸出」される仕打ちに耐えきれず、9歳のある日そこを抜け出してロンドンへ向かう。若きディケンズが、19世紀初頭のロンドン貧民街を舞台に、ストーリー・テリングと社会風刺の才能を存分に発揮して描き上げた長編。逆境の中で純真さを失わない「オリバー・ツイスト」の名は、世界の人びとに永遠に記憶された。


イギリス文学に大きな足跡を残したディケンズ。彼が一躍名をはせるきっかけとなった作品が、この「オリバー・ツイスト」である。

生まれながらの孤児であり、誰からの庇護も受けることなく育ったオリバーは、無力なまま社会と対峙し、悪と正義の狭間を翻弄されながら生きていく。苦しみながら純粋さを失わないオリバーと、彼のために戦う大人たちの姿が、実に印象的だった。


▽歴史的背景
著者ディケンズが生まれたのは、ナポレオン戦争末期の時代だ。「思想」や「精神」といった抽象の力がかつてなく強かった。本の中身を検討するにあたって、少しばかり時代背景を見てみるのもいいだろう。

フランス革命思想は、王政に対する不満がヴァスティーユで火を噴いて以来、瞬く間にヨーロッパを席巻していった。社会に蔓延る不平等・不公正などあらゆる悪徳が、自然状態の想定によって「不可」の烙印を押されたのである。

「革命」の本質を一言で表すなら、「人間の理性の手によって世の中を作り上げる」という発想になろう。それも、一夜にして、大胆な制度改革にして。革命によって世の中は明るくなる、旧弊を廃すれば民衆は救われると、純粋に信じた人びとが大勢いた。

そんな革命への夢、希望を強烈に捉えた作品といえば、ユゴーによる「レミゼラブル」だろう。ロンドン留学中に映画とミュージカルを見たが、登場人物たちが高らかに歌うエンディングは、革命ごしの「明日」を予感させるものだった。

さて、フランスからヨーロッパ中に広がっていった「革命」の旗に、公然と立ち向かった二つの国があった。ロシアとイギリスである。ロシアは皇帝のもとに一致団結し、ナポレオン遠征軍を破った。そのさまを綴った叙事詩が、トルストイ「戦争と平和」である。

イギリスも、革命思想に批判的だった。成文法をもたず、経験論を重んじる彼らは「一夜の革命で社会がよくなる」とは信じなかった。歴史の集積を重んじたイギリスは、保守主義という思想を生み出す。エドマンド・バーク「フランス革命の省察」によって、その強烈な第一歩が踏み出された。

イギリス人は革命思想にある程度の理解を示しつつも、制度改革によって社会を抜本的に良くすることはできないと知っていた。正義は制度によってではなく、人間の手によって実現すると考えたのだ。

こうした歴史の文脈は、本作にも強い影響を与えている。父親の不実から生まれたオリバーが虐められ、そして救われるシナリオは「人間はその出自によって不当に苦しめられてはならない」という革命思想の核心を、イギリス流に上書きしたものであった。


▽オリバー・ツイストと正義
この作品を、以上のような歴史的背景に沿って考えてみたらどうなるだろうか。解釈が政治的になりすぎるのを恐れずに、分析してみたい。

「親の罪」に由来する虐待に堪え忍びつづけ、それでも純粋さと寛容さを失わないオリバーは、「正義」の象徴だ。無力さゆえに、往々にして悪者たちの掌中に落としこまれてしまうところも、オリバーと正義とは通じるところがある。

彼を虐げる悪役たちは、腐敗、不寛容、偏見などを含む、あらゆる悪徳一般を象徴している。彼らはオリバーの出自を見下し、いじめ、都合よく利用しようとする。

オリバーが生まれた救貧院の官吏たちが彼をいじめたことも、象徴的であろう。貧しい人間を救うための「制度」が、そこに勤める「人間」のために腐敗している。このあたり、ディケンズの描写は非常にリアリスティックで、かつ、イギリス人的だ。

作中、オリバーは逃げこそはするものの、闘うことはない。その代わりに、彼を庇護し、悪者を糾弾する善良な紳士淑女たちが登場する。正義を支えるイギリス国民像ということになるだろう。

この本の悪者はとことん悪く、善良な人は一貫して善良である。いわゆる「愛すべき悪役」が不在の状態だ。悪く言えば一面的すぎるのだが、この歯切れの良さは、革命の熱風を受けた小説に相応しいとも言えそうである。


▽正義はどのように実現されるか
この物語のイギリス人らしいところは、法律や制度にのっとって問題が解消されなかったことだ。すべて、善良な紳士・淑女たちの善意と力によって、解決された。

ここに制度や法律、ひいては革命に対する不信が垣間見える。正義を実現するのは革命や制度ではないと、イギリス人は考えていた。正義を実現するのは、正義を求める人びとの行為に他ならない、と。

制度を腐敗させるのも人間であり、古臭い制度の中で正義を実現するのもまた、人間である。登場人物たちに「正義」への強烈な信念が宿っていたからこそ、「オリバー・ツイスト」は読み継がれてきたのではないか。

「ぼくは逃げ出すところなんだ。どこか遠いところへ行って、運だめしをしようと思っているんだ」
改めて俯瞰すれば、この物語は、悪徳から抜け出した正義(オリバー)が、逃げて逃げて、人びとの善意に支えられることで辛うじて救われる物語である。

ひるがえって見れば、今日でも、社会の至るところで「正義」は危機に晒されていると気付かされる。職場で、学校で、街角で。「正義」はいつも悪徳に取り囲まれ、虐げられて、逃げ回り、泣いているような気がする。

私たちは、果たしてそれに気付いてやることが、できているだろうか。救いの手を差しのべることが、できているだろうか。それが出来る人にだけ、紳士・淑女の肩書は相応しい。ディケンズの紡いだ高潔な物語は、正義への力強い意志を感じさせるものだった。


◆気に入ったフレーズ
「とてもさびしいんです。誰もみなぼくを憎みます。ああ、おねがいですから、ぼくに腹を立てないで」

「ぼくは逃げ出すところなんだ。どこか遠いところへ行って、運だめしをしようと思っているんだ」

人間の胸奥には何かを追いかけるという情熱が深く根ざしている。

「あの子には悪くとられるところだけ証拠があって、よく見えるところに証拠があげられない」

殺人者は法の裁きを免がれ、神は眠りたもうと思うなかれ。

この世は失望の世である。往々にして、われわれが最もいとおしみ抱いている希望、われわれの人間性に最も大いなる名誉をあたえる希望に対する、失望の世の中である。

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260.人間の絆 上下 (サマセット・モーム)

幼くして両親を失い、牧師である叔父に育てられたフィリップは、不自由な足のために、常に劣等感にさいなまれて育つ。いつか信仰心も失い、聖職者への道を棄てた彼は、芸術に魅了され、絵を学びにパリに渡る。しかし、若き芸術家仲間との交流の中で、己の才能の限界を知った時、彼の自信は再び崩れ去り、やむなくイギリスに戻り、医学を志すことに。誠実な魂の遍歴を描く自伝的長編。

自分が深く感銘を受けた本について、筆舌の限りを尽くしてその魅力を綴ることは、書評を書く人間の最大の喜びである。

僕にとって、ドストエフスキーの「罪と罰」や「虐げられた人びと」がそうであり、ゲーテの「ファウスト」がそうであり、司馬遼太郎の「峠」がそうであり、沢木耕太郎の「テロルの決算」がそうであった。

そして、いま、モームの「人間の絆」もまた、書評をめぐる「幸福な記憶」の一つとして数えられるような予感がする。生きることの喜びに満ちた、実に素晴らしい作品だった。


▽「絆」
分析を始める前に、まず表題について述べておきたいことがある。

2011年の「今年の漢字」にも選ばれた「絆」という語であるが、意外というべきか、これはもともと否定的なニュアンスが強い。古典においては、出家をするうえで妨げになる「しがらみ」や「束縛」などを指す概念として使われている。

同様に、「人間の絆」という表題の字面も、「人間を縛るもの」として受け止める必要がある。小説の解説は言う、これは、主人公が生きていくなかで彼の魂を束縛していたもの――コンプレックスや、愛への渇望――から徐々に解放されていく物語である、と。

イギリス文学の白眉とされる作品を考えるにあたって、これはひとつの大きなポイントである。ミスリーディングをしないため、これを念頭に置きながら内容を考えていきたい。


▽主人公を苛む「絆」
「無償の愛」としての親の愛を知らないこと、足に不自由があること。それが主人公・フィリップに課せられた最大の「絆」だった。この点、物語の幕開けが母の死の場面であることは、象徴的である。

フィリップは神父を勤める叔父のもとで聖職者になるべく育てられるが、やがてその道と決別する。その後、彼はドイツ留学やロンドンでの職業体験を経て、パリで画家を目指して奔走するなど、実にさまざまな経験を積んでいく。

「いろんな経験が、してみたいのだ。人生への準備には、もううんざりだ。今こそ、生きてみたいのだ」
フィリップの偉かったのは、強い内省力を培っただけでなく、行動力にも富んでいたことだった。行く先々で彼は「絆」に阻まれ、辛酸を舐めさせられながら、それでも行動することをやめなかった。

「いったい君は、なんのために、この世に生まれてきたと思っている?」
夢に敗れ、コンプレックスに苛まれ、恋にも報われないフィリップ。苦しみ、もがきながら、彼は悩み続ける。こんなにつらいことだらけなのに、なぜ人は生きるのだろうか?と。


▽「絆」からの解放
多くの人が、彼の人生を通り過ぎていった。ある人は彼に屈辱を与え、またある人は彼に優しさをもって接した。社会の荒波に揉まれ、医学生として数多の不幸を目の当たりにするうちに、彼は少しずつ人生に対して醒めた目を向けはじめる。

これもまた、この人生の不思議の一つだろう。ある人間と、何ヶ月間も、文字通り毎日顔を合せ、一度はほとんど彼なしには、人生を考えられないまでに、親しくなったものが、やがては、はっきり別れてしまっても、一向なんの痛痒も感じないという。

結果として、この視点が良かった。彼は人生に意味を求めることを止める。幸福や愛への渇望は、つまるところコンプレックスの裏返しに過ぎない。それらを受け容れ、一笑に付してしまう強さを手に入れたとき、彼を縛る「絆」は断ち切られた。

苦しみに縛られ続けた物語が、生きることの喜びに満ちた終幕へと辿りつく。長編におけるこのダイナミックな転換は、名状しがたい感銘を与えてくるものであった。


▽人生
この長編には、主人公を含めたあらゆる人間の「人生」が詰まっている。それぞれの軌跡は互いに交錯しあい、その度きらり、きらりと言葉が閃く。こぼれ落ちる「人生」の雫の一つひとつが、深く心を突いてきた。

様々な生き方があった。そして、おそらく、その中のひとつとして、特別な生き方はなかった。どの生き方もある程度正しく、ある程度間違っていた。そして等しく、無意味であった。

一切は過ぎ去ってゆく。今もたえず過ぎ去りつつあるのであり、結局なにもかも、どうでもよいのだ。

この小説の素晴らしいところは、主人公の生き方だけを肯定しているわけではない点にある。どの生き方をしても良い。ただ、生きていく以上、真摯に悩み続けること。人間に出来ることといえば、つまるところ、それしかないのではないか。

これだけ大きなスケールの小説を評するのは、たいへん難しい。おそらく何万という言葉を費やしても、その魅力を伝えるには足らないだろう。だから、あえて、ここで書評を終わらせたい。

「夜と霧」の著者ヴィクトール・フランクルの言葉を、最後に添えておこう。僕の稚拙な文が伝えきれないところを、ずっと端的に表現してくれているから。

我々が人生の意味を問うてはいけません。
我々は人生に問われている立場であり、
我々が人生の答えを出さなければならないのです。



◆気に入ったフレーズ
この人生において、幸福なといわれるものは、あたかも蜜蜂箱における蜜蜂のように、ほとんど自己を意識しない人間である。

「それを背負い切るだけの強さがあるために、与えられた十字架、いわば神様の恵みの兆だという風に、考えればだな、それは不幸の原因どころか、むしろ幸福の源になるはずだ」

「むろん学校というものはね、普通の人間のためにできているのだ。普通の人間以外のものに、そう、かかずらっている時間は、ないからな」

「いいか、人生には、二ついいものがある。思想の自由と行動の自由だ」

「人間ってやつはね、それぞれその像の如くに、神をつくり上げるものなんだよ」

「もし本当に、神があって、僕が、正真正銘、信じられないからといって、それを罰するというのなら、これはもう仕方がない」

「いろんな経験が、してみたいのだ。人生への準備には、もううんざりだ。今こそ、生きてみたいのだ」

青春を幸福だなどとは、一つの迷妄、それもすでに青春を失ってしまった人間の迷妄なのだ。

「人生一番大事なことは、一か八か、やってみることなのだ」

「天才ってのは、要するに、無限に努力する能力なのよ」

「人生ってものはね、生きるためにあるのだ。なにもそれについて書くためにあるんじゃない」

「後世に残るかって?…後世なんて、糞食らえさ」

「いったい君は、なんのために、この世に生まれてきたと思っている?」

魂の志向を描くという、それは結構だ。だが、人間そのものが、こうひどい矛盾の塊りだとしてみると、いったい、それは、どういうことなのだ?

自信などというものが、ほとんど三文の価値もないものであることは明らかだ。

器用さなどというものは、およそなんにもならぬ。

画家ってものはね、その眼で見る物かや、一種独特の感動を受ける。すると、それを、なんとかして表現しなければいられないのだ。

批評なんてものが、いかに無意味か、もう一つ理由をいってやろう。本当に偉大な画家ってものはね、彼が見るままの自然を、世間に向って、押しつけるものなんだよ。

おそらくは、できるだけ多くの人生経験をすること、そしてまた自己の能力を、十二分に発揮するということなのではなかろうか。

「金銭というものは、いわば第六感みたいなもんだ。こいつがなければ、ほかの五感も、とうてい安全に使えるものではない」

「もう手おくれになってしまってから、自分の凡庸さに気がつくなどというのは、君、残酷なもんだよ」

「ねえ、君、もしパリに行かなかったら、僕には、あの空の美しさは、ついにわからなかったろうと思うんだ」

賢い知恵は、いくらでも物の本で読んだ。だが、結局判断の根拠となりうるものは、自身直接の経験だけだった。

「人間唯一の生き方は、死ぬということを、忘れることなんだ」

これもまた、こと人生の不思議の一つだろう。ある人間と、何ヶ月間も、文字通り毎日顔を合せ、一度はほとんど彼なしには、人生を考えられないまでに、親しくなったものが、やがては、はっきり別れてしまっても、一向なんの痛痒も感じないという。

雨は、正しい人間にも、悪い人間にも、一様に降る。

人生の意味など、そんなものは、なにもない。

失敗も言うに足りなければ、成功もまた無意味だった。

幸福という尺度で計られていた限り、彼の一生は、思ってもたまらないものだった。

それにしても、人間、禽獣でないという、ただそれだけのために、なんという大きな代償を払わなければならないのだろう!

一切は過ぎ去ってゆく。今もたえず過ぎ去りつつあるのであり、結局なにもかも、どうでもよいのだ。

世代、世代が、それぞれ空しい遊びを、くりかえしているにすぎないのだ。それにしても、あの頃の級友たちは、どうなったろう?

興奮も倦怠も、快楽も苦痛も、すべては明るい心で、受け容れなければいけない。

空想の力で、時間と空間という二つの国を、領有している人間にとっては、人生の現実など、一切問題ではないのだと。

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259.赤頭巾ちゃん気を付けて (庄司薫)

学生運動のあおりを受け、東大入試が中止となるという災難に見舞われた日比谷高校三年の薫くん。そのうえ愛犬が死に、幼馴染の由美と絶交し、踏んだり蹴ったりの一日がスタートするが…。真の知性とは何か。戦後民主主義はどこまで到達できるのか。青年の眼で、現代日本に通底する価値観の揺らぎを直視し、今なお斬新な文体による青春小説の最高傑作。


▽若者の思惟と、その時代
自意識過剰気味な「あたまでっかち」さは、若者特有のものである。「無限の可能性がある」などと言われるから、「そうなのか」と思い込んで考えて、やってみて、やっぱり現実とぶつかる。そんな面倒くさい思索をめぐる営みは、なかなか止むことはない。

東大を入試中止に追い込んだ学生運動は、そんな若者の特性が「世相」となって表れたものだった。形而上の「理想」を無邪気に崇拝した学生たちが、ゲバ棒を手に「現実」と闘ったのである。

主人公の庄司薫は、そんな時代を「どっちつかず」のまま過ごしている受験生。自分が「エリート」だと分かっているものの、開き直ることもできず、かといっていわゆる「自己欺瞞」を捨てることもできない。そんな「つまらないヤツ」としての葛藤を、彼は赤裸々に語っていく。「優等生」も、けっして楽なわけではない。

頭の良さが滲み出るなかで、ちょっと背伸びをしてもいるような、独特の口調。「鼻につくけど癖になる」文体には、まさに「在りし日のインテリ」という感じを受ける。反面、とびきり優しくて感受性の強いところもあり、愛嬌のある主人公だったと思う。


▽自由になった思惟
羨望、軽蔑、期待など様々な視線が向けられるなか、エリートコースを歩む日比谷高校の学生たちは思い悩む。運動に身を投じていなくても、身を切るような切実さで自己を見つめ直そうとする「どっちつかず」な学生たちは大勢いた。

主人公は、その典型だ。彼は「エリートになりたいから」というより、「みんなを幸福にしたいから」東大法学部を志した。ところが、周囲はそのまま受け取ってくれない。反体制を掲げる若者には軽蔑され、教育ママな保護者からは変に好意的に解釈されてしまう。

彼の志を理解してくれない社会の方がおかしいのだが、ともかく薫は思い悩んでしまう。そうして彼は「入試中止」をひとつの機会として、知性と自分について、そして社会について深く考えてみることを決意する。
この入試中止をむしろ一つのチャンスのように考えて、ぼくは僕自身を自分の力でどこまで育てることができるかやってみよう、と。

受験勉強をいったん止めて、彼は余った時間を思索に向けはじめる。自意識過剰気味な思考は、序盤から軽快に早とちりやヘマを引き起こしていく。もともと頭がいいのだから、それが暴走しはじめるまでにはそう時間もかからなかった。


▽思惟の暴走
幼馴染とのケンカなどトラブルが重なって、ツイてない彼は少しずつ苛立ちはじめる。それが最高潮に達したのが、銀座での一幕だ。通り過ぎる家族連れ、恋人たち、カンパを募る学生団体、彼は皆から軽蔑されているように感じはじめる。

「みんなを幸福にしたい」と考えているだけの彼に、なぜ災難が重なってくるのか。なぜ、だれもかれもが勝手なレッテルを貼ってくるのか。自意識によって「世界をひとりで抱え込んだ」ような気分になった思惟の歯車は、少しずつ緩んでいく。

誰もひとのことなどほんとうに考えはしない、ましてやみんなを幸福にするにはどうしたらいいかなんて、いやそんなことを真面目に考える人間が世の中にいることさえ考えてもみないのだ。

僕はお前たちの幸せを考えてやっているのに、この仕打ちはなんだ。なぜ僕だけがこんなに苦労しなきゃいけないんだ…。周囲の人間をすべて軽蔑したくなる衝動に襲われて、彼は座り込んでしまう。

ぼくはもうほんとうにすっかりダメになりかけていたのだった。


▽赤頭巾ちゃんの登場
孤独な自意識の暴走から彼を救ったのは、彼の怪我した足を踏んずけてしまった小さな女の子だった。彼女と他愛ない会話を交わし、絵本を選んでやることを通じて、彼は自分自身を取り戻すのである。
ぼくはこのちっちゃな道草好きのやさしい女の子に、素敵な赤頭巾ちゃんのお話を選んでやりたかった。かわいい素直な赤頭巾ちゃんを。

この女の子の登場を、どう考えたらいいだろう。

不運が続いていたせいか、彼は極度な悲観主義者なっていた。絶望的な気分に陥るあまり、彼は自分を邪魔する「敵」を、つまり「苛立ちのはけ口」を、無意識に探していた。

だれもかれもが足を引っ張ってくるように思えたのは、そのためだろう。シュプレヒコールを叫ぶ学生も、都合よくレッテルを貼る大人も、その他大勢の人間も、みんなが彼の行く手を阻む「敵」として彼の瞳に映った。

彼の足を踏んだ女の子は、そんななかで唯一の「絶対的に弱い存在」だ。彼の眼前に現れた、敵にはなり得ない女の子。そんな彼女の優しい気づかいは、彼を取り巻く「フィクションの絶望」を簡単に打ち砕いてしまう。

彼は気付く。「みんなを幸せに」するために闘う必要などなく、ただ「守るべき人を守る」だけで十分だったのだと。自意識過剰気味な思惟の暴走はかくして、「守らなくちゃいけない存在」としての女の子によって、食い止められた。

あれこれ考えていた彼も、「優しさ」という自身の本性に立ち返ることができた。改めて彼は、何よりまず優しくあろうと自身に誓う。

主人公のインテリぶりが目につくが、これは本質的には「優しさ」の物語なのだろう。小さな女の子に「気を付けて」と声をかけてあげる優しさには、どんな権力やどんな大義よりも、人を「幸せ」にする力がある。そんな単純なことに、頭がいい人ほど、気付かないものなのかもしれない。

ドストエフスキーの「罪と罰」を思い出した。暴走する自意識が、取り返しのつかない罪を犯してしまう物語。もしラスコーリニコフの前にもあの女の子が現れていたなら、きっと殺人なんかコロッと止めてしまっていただろう。

優しさとは、おそらく、思惟で乗り越えてはいけなものなのだ。どんなに頭が良い人でも、どんなに良く考えられた論理でも、そこに優しさが介在しない限り、それはついに「ホンモノ」にはなり得ない。200ページにわたる薫くんの奮闘は、読者にそんなことを教えてくれる。


◆気に入ったフレーズ
困るのは世の中にはそうどっちでもいいではすまないことも沢山あるってことだ。

「なんでもそうだが、要するにみんなを幸福にするにはどうしたらいいのかを考えてるんだよ」

知性とは、ただ自分だけではなく他の人たちをも自由にのびやかに豊かにするものだ。

この入試中止をむしろ一つのチャンスのように考えて、ぼくは僕自身を自分の力でどこまで育てることができるかやってみよう、と。

すべての知的フィクションは、考えてみればみんななんとなくいやったらしい芝居じみたところがあって、実はごくごく危なっかしい手品みたいなものの連続で辛うじて支えられているのかもしれない。

「おれは、そんなあさましい弱点や欠点暴露競争にも参加する気にはどうしてもなれないんだ」

「ちょっとでも知的であろうとすると、すなわちそのことだけでもう感性やら芸術性やらがないってことになるんだ。これじゃあ狂気の時代になるのは当たり前だ」

そうだ。でもそうやって、どうでもいいどうでもいいと棄てていって、いったい何が残るのだろうか?

誰もひとのことなどほんとうに考えはしない、ましてやみんなを幸福にするにはどうしたらいいかなんて、いやそんなことを真面目に考える人間が世の中にいることさえ考えてもみないのだ。

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258.トム・ソーヤの冒険 (マーク・トウェイン)

ポリー叔母さんに塀塗りを言いつけられたわんぱく小僧のトム・ソーヤ。転んでもタダでは起きぬ彼のこと、いかにも意味ありげに塀を塗ってみせれば皆がぼくにもやらせてとやってきて、林檎も凧もせしめてしまう。ある夜親友のハックと墓場に忍び込んだら…殺人事件を目撃!さて彼らは…。時に社会に皮肉な視線を投げかけつつ、少年時代をいきいきと描く名作。

▽子供であるということ
大人たちにとって、「子供である」という状態は一つのロマンである。周囲を見上げていたあの頃の感覚は、どの大人も必ず経験し、喪失してきた。そして失ったが最後、二度と手に入ることはない。

今日も読み継がれている「トム・ソーヤの冒険」は、そんな大人たちが抱くノスタルジーのど真ん中を突いてくる。トウェインは、まえがきで以下のように書いている。
この本を書くにあたっては、大人たちに、かつての自分がどんなであったか、どんなことを感じ、考え、話していたか、そして時にはどんな変てこな企てに身を投じたか、それを快く思い出してもらうことも目論見の一環だった。

誰もが知っている児童文学を、大人になって読み返す人はそう多くないのではないか。「大人」として本を開いてみたが、著者の柔らかく諧謔に満ちた世界観に浸っているうちに、自然と「少年」に逆戻りさせられていた。

「子供が読むには勿体ない」という、奇妙な感想を抱いた。そこに綴られていたのは、いまの僕が失くして久しいものたち。豊かな想像力と、それを信じこむ無邪気さ。喜怒哀楽すべてが新鮮だった日々。そうだった、そうだったと自分の過去を振り返り、時に重ね合わせつつ読み進めた。

この物語は、ふたつの「ロマン」の結晶として大人の目に映る。「少年・少女」に対するノスタルジックなロマンと、「冒険」に憧憬するロマンの、ふたつ。だからだろうか、何でもないエピソードでも眩しく感じる。実に味わい深い小説だった。


▽「遊び」
〈仕事〉とは人が強いられるものであり、〈遊び〉とは強いられないものだ。

ある人からこの本をいただいたとき、こんな一節も併せて教えてもらった。物語の序盤、有名な「塀塗り」のシーンでトムが行き着いた一つの真理である。

重要なのは、それが物語全体を貫く精神でもあったことだ。その人の慧眼であると思わされた。

作中のトムは、女の子を庇って罰を食らったり、無実の囚人に恵んであげたり、じつに様々なことをする。しかし、考えてみるとそれらはすべて「遊び」だった。彼は一度として「仕事」をしなかったのである。

そんなトムの「遊び」の精神を象徴する一幕が、物語のエンディングにもある。

「冒険」で大成功を収めたトムとハック(ハックルベリー・フィン)は、子供ながらに大変な金持ちになる。そこで終幕とならないのが、いかにも児童小説らしい。名誉と豊かさを手に入れて退屈し始めるハックに、トムはこう語りかけるのである。
「おいハック、俺は金持ちになったって、盗賊やめる気はないぞ」

読んでいて、息を呑んだ。「冒険」とは成功のためではなく、それ自体の面白さのためにあったのだ。財宝を手に入れたからといって、面白いことをやめる理由など、彼らには一つもない。

〈仕事〉とは人が強いられるものであり、〈遊び〉とは強いられないもの…。どんなに苦しくても、そこに強いられない面白さを見出している限り、それは「遊び」なのかもしれない。つまらない、嫌だ、という表情で忙殺されている大人たちを、トム・ソーヤはさぞかし不思議そうな顔で見上げていることだろう。

すっかり大人になったものと思い込んでいたが、本を読むうちに心が疼き出すのを感じた。まだまだ遊んでいたい。一生、面白いものを見つけながら、生きていきたい。

僕がしたいのは、仕事じゃないんだ、遊びなんだ。いつまで続くか分からないけれど、もう一度、ロマンを胸に抱きながら生きてみよう。

かつて読んだ物語の輝きに中てられて、いつのまにかそんな気持ちが芽生えていた。


◆気に入ったフレーズ
相手が大人であれ子供であれ、何かを欲しがらせるには、それを手に入れるのを困難にすれば事足りる。

〈仕事〉とは人が強いられるものであり、〈遊び〉とは強いられないものだ。

伝統的な習慣というものは、しばしばその正当性がないほど廃するのが難しかったりするものである。

「そういう子なのよ…年がら年じゅう飛び回って、なぁんにも考えないのよ」

ありのままの真実は不快なものである。

何かをしませんと約束することは、正にそれをやりたくて仕方なくなるための一番確実な手段なのである。

少しのあいだ、希望が蘇ったように思えた。それを支える根拠はなかったけれど、希望とはそういうものだ。

「手に入れるのに苦労しないものなんて持つ気しねえから」

「おいハック、俺は金持ちになったって、盗賊やめる気はないぞ」

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257.ペスト (カミュ)

アルジェリアのオラン市で、ある朝、医師のリウーはネズミの死体をいくつか発見する。ついで原因不明の熱病者が続出、ペストの発生である。外部と遮断された孤立状態のなかで、必死に「悪」と闘う市民たちの姿を年代記風に淡々と描くことで、人間性を蝕む「不条理」と直面した時に示される人間の諸相や、過ぎ去ったばかりの対ナチス闘争での体験を寓意的に描き込み圧倒的共感を読んだ長編。


▽ペストの仮面をかぶった貴族
「偶然」ーーこれは、この世で最も古い貴族の称号である。
「ツァラトゥストラはかく語りき」(ニーチェ)の、こんな一節を思い出す。カミュの作品における「不条理」というテーゼも、この「偶然」と同じようなものではないか、と。

人は、必然に迫られることなく、死ぬことがある。偶然、死ぬ。災難は、理由なく降りかかってくる。何の罪を犯さなくても、人は不幸になる。

「運命」「偶然」といった不条理は、世界を統べて、きょうも暴虐の限りを尽くしている。「こんなことがあっていいのか」と、人類は何度も煩悶してきた。

この小説において、「不条理」はペストの形を借りている。それは無辜の人々を突然襲い、肉体と精神の平静を蝕む。忍び寄る病魔に怯える街は、まさに「貴族の気まぐれ」を恐れる平民のようだ。

ペストという、未来も、移動も、議論も封じてしまうものなど、どうして考えられたであろうか。彼らは自ら自由であると信じていたし、しかも、天災というものがあるかぎり、何びとも決して自由ではありえないのである。
ペストの仮面をかぶった「不条理」という名の貴族。これが、物語における最大の敵なのである。


▽不条理とどう向き合うか
沈黙を守る不条理と対峙する人びとを、カミュは鮮やかに描き出した。「異邦人」の難解な印象が強い著者だが、この本は読みやすく、強いメッセージも感じ取れる。

閉鎖された街の中で、医師や神父、役人、犯罪者、よそ者などが、それぞれまったく異なった過ごし方をする。迫りくる絶対的な不条理を前に、人間そのもののあり方が問われる。

なかでも特に重要なのが、主人公であるリウー医師のそれだろう。大勢の患者の苦しみを目の当たりにしながら、彼は危険と隣りあわせで診療をつづけた。葛藤や無力感に何度も打ちのめされても、最後まで奮闘をやめない姿は、多くの人に感銘を与えただろう。

「ペスト」に「圧倒的共感」が寄せられたというのも、こうした主人公の姿勢によるところが大きいだろう。彼の言葉の端々からは、「人間は不条理とどう向き合うべきか」が読み取れる。

「この世の秩序が死の掟に支配されている以上は、おそらく神にとって、人々が自分を信じてくれないほうがいいかもしれないんです。そうしてあらんかぎりの力で死と戦ったほうがいいんです」

「なぜ」「どうして」…。頭に湧き上がってくる疑問を留保して、とにかく戦う。不条理に屈することなく、逃避もせず、ただ目の前の仕事に没頭する。それが、人間の勝利に繋がる唯一の道なのかもしれない。
「ペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです」


▽不条理を前に
ペストは、たくさんの無意味な死をもたらした。多くの人びとが病魔に蝕まれ命を奪われたが、そこに「理由」が介在することはなかった。

「なぜ」「どうして」と、人は問わずにはいられない。理由がなければ、いつ自分にふりかかってくるかも分からないからだろう。そんな状況に、人は耐えがたいものを感じる。

では、不条理が牙をむいて襲いかかってきたら、どうすればいいのか。「ペスト」を読む限り、カミュは「一切の疑問を放棄してただ戦うこと」を要求しているように思われる。

怯えながら、泥まみれになりながら、見えない希望のために戦う。それは人間にとって惨めで辛いことかもしれないが、同時にもっとも人間らしい姿でもある。

闇のなかを、やや盲滅法に、前進を始め、そして善をなそうと務めることだけをなすべきである。
死の危険に晒されながら戦う市民の姿を描いた「ペスト」。この小説を通じて、カミュは不条理に屈しない人間に最大の賛辞を送ったのだろう。


◆気に入ったフレーズ
ある町を知るのに手頃な一つの方法は、人々がそこでいかに働き、いかに愛し、いかに死ぬかを調べることである。

天災というものは、事実、ざらにあることであるが、しかし、そいつがこっちの頭上に降りかかってきたときには、容易に天災とは信じられない。

ペストという、未来も、移動も、議論も封じてしまうものなど、どうして考えられたであろうか。彼らは自ら自由であると信じていたし、しかも、天災というものがあるかぎり、何びとも決して自由ではありえないのである。

ペストがわが市民にもたらした最初のものは、つまり追放の状態であった。

不幸のなかには抽象と非現実の一面がある。しかし、その抽象がこっちを殺しにかかって来たら、抽象だって相手にしなければならぬのだ。

同情がむだである場合、人は同情にも疲れてしまうのである。

「それがもたらす悲惨と苦痛とを見たら、ペストに対してあきらめるなどということはできないはずです」

「この世の秩序が死の掟に支配されている以上は、おそらく神にとって、人々が自分を信じてくれないほうがいいかもしれないんです。そうしてあらんかぎりの力で死と戦ったほうがいいんです」

世間に存在する悪は、ほとんど常に無知に由来するものであり、善き意志も、豊かな知識がなければ、悪意と同じくらい多くの被害を与えることがありうる。

歴史においては、二たす二は四になることをあえていうものが死をもって罰せられるという時が、必ず来るものである。

「愛するか、あるいはともに死ぬかだ、それ以外に術はないのだ」

「ところでまさに、われわれはもう愛というものをもちこたえられなくなってしまったんです」

「ペストと戦う唯一の方法は、誠実さということです」

個人の運命というものは存在せず、ただペストという集団的な史実と、すべての者がともにしたさまざまの感情があるばかりであった。

絶望に慣れることは絶望そのものよりもさらに悪いのである。

彼らは結局、僥倖にかけていたわけであり、しかも僥倖は誰の味方でもないのである。

「自分一人が幸福になるということは、恥ずべきことかもしれないんです」

「自分の愛するものから離れさせるなんて値打ちのあるものは、この世になんにもありゃしない。しかもそれでいて、僕もやっぱりそれから離れてるんだ、なぜという理由もわからずに」

「子供たちが責めさいなまれるように作られたこんな世界を愛することなどは、死んでも肯んじません」

闇のなかを、やや盲滅法に、前進を始め、そして善をなそうと務めることだけをなすべきである。

「もちろん、人間は犠牲者たちのために戦わなきゃならんさ。しかし、それ以外の面でなんにも愛さなくなったら、戦ってることが一体なんの役に立つんだい?」

「だめだよ。聖者になるには、生きてなきゃ。戦ってくれ」

ペストと生とのかけにおいて、およそ人間がかちうることのできたものは、それは知識と記憶であった。

罪を犯した人間のことを考えるのは、死んだ人間のことを考えるよりもつらいかもしれない。

不条理の体験においては、苦痛は個人的なものである。反抗の衝動が起った瞬間から、その苦痛は万人の出来事となる。

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