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本と6ペンス

The writer should seek his reward in the pleasure of his work. ("The Moon and Sixpence" Somerset Maugham)

256.孤高の人 上下 (新田次郎)

昭和初期、ヒマラヤ征服の夢を秘め、限られた裕福な人々だけのものであった登山界に、社会人登山家としての道を開拓しながら日本アルプスの山々を、ひとり疾風のように踏破していった"単独行の加藤文太郎"。その強烈な意志と個性により、仕事においても独力で道を切り開き、高等小学校卒業の学歴で造船技師にまで昇格した加藤文太郎の、交錯する愛と孤独の青春を描く長編。

人のいない冬山、一面雪に覆われて「白」に支配された世界。「道に迷いでもしたら」と考えると、足が竦む。かつて、そんなところの中へ自ら分け入って歩き続ける人がいた。主人公、加藤文太郎である。

「単独行の加藤文太郎」と呼ばれた伝説的な社会人登山家だった。この小説は、孤独な道を歩まなければいけなかった幼少期から、初めてパーティで挑んだ登山で遭難死するまでの彼の生涯を、力強いタッチで描いている。


▽孤高と孤独
孤高と孤独は、似て非なるものだ。孤独とは「ひとりぼっちで、寂しいさま」、孤高とは「ひとり超然として高い理想と志を保つこと」。すべての孤独な人が孤高であるわけではないが、「孤高の人」になるためには孤独に打ち克たなければいけない。

この「孤独」と「孤高」の論理こそ、物語を読み解くカギとなる。この視点を用いながら、主人公に訪れる主要な変化を辿ってみよう。

物語の序盤、彼は半ば運命の力、半ば自分のせいで「孤独」だった。山を知ってからも、ヒマラヤに登るという夢を抱いてからも、その苦しみは続く。やがて、彼はひとり志を掲げて生きることを受け容れて「孤高の人」へと脱皮する。「山」と「仕事」の二つに視野を絞り、それぞれの領域で抜群の功績を残していった。

ところが、花子との幸福な結婚をきっかけに、そんな加藤も「孤高」から引きずりおろされる。家庭をもつことで人とともに歩む幸せを知った彼は、少しずつ「人並み」の男になっていく。

そんなとき、加藤の「孤高」に心服して独行登山を続けてきた若輩者の宮村が、パーティを組むことを切望する。山から気持ちが離れつつあった加藤は「これが最後」のつもりで誘いに乗り、命を落とす。

加藤は「孤独」を克服して「孤高」にいたり、結婚を機に「人並み」になった途端に死んだことになる。決して長くはないものの、変化に富んだ生涯。いったい、なぜ彼は死ななければいけなかったのか。以下では、彼の最期が物語においてどんな意味を持つのか、大きく捉えて考えてみたい。


▽「孤高」の苦しみ
多くの人が憧れる「孤高」だが、小説を読む限り、そこにはひとつの宿命が見て取れる。「孤高の人は必然的に孤独である」ということだ。よく「孤高の人」は孤独に苛まれないかのようなイメージが語られるが、それはまやかしに過ぎないだろう。

「孤独」の苦しみから目を逸らさず、それを受け容れてはじめて人は「孤高」になる。「孤独はつらい」という当たり前の感覚を捨て去るような人間に、厳しい「孤高」の道を歩む資格はない。つらい、つらいと思いながらひとり登り続けたからこそ、加藤は偉かったのだ。

そうして「孤高の人」のまま名を成した加藤文太郎だが、その成功は副作用的に「無理」を蓄積させるものだった。彼の内部に「無理」が募り、人間関係にもそのしわ寄せがきた。

「人間」とは「人の間」と書く。本来「孤独」あるいは「孤高」というのは、人間にとってイレギュラーな状態だ。加藤が周囲と協調することを学んだことからは、彼が「本来的な人間」に回帰したかのような印象を受ける。

彼の死は、そこに訪れる。「孤高」でなくなっていく加藤を死出の登山に誘った宮村は、蓄積されていた「無理」の結晶のようなキャラクターだった。「孤高の人」加藤に、亡霊のようにつきまとっていたのである。

誰かを真似る人がいつだってそうであるように、宮村は「孤高」の光に憧れるだけの、弱い人間に過ぎない。加藤の生き様が、そんな彼の目を眩ませ、酔わせ、心服させたのである。「孤独」であるはずなのに不思議と人を魅了するところに、「孤高」のふしぎがある。

宮村に誘われた登山で加藤が命を落としたことは、何を意味するか。それは「孤高」でやってきた加藤の前半生に対する清算だったのではないか。たまりにたまった「無理」が、最後の最後で、「孤高」から足を洗おうとする加藤に清算を求めたのである。

「できるものならやってごらんなさい。え、加藤さん、そんなことが許されると思いますか。不世出の登山家とうたわれたあなたがですよ、自分の都合で、勝手にパーティーを解消するなんてことができるはずがないじゃありませんか」。
悪状況を見て取って登頂を断念しようとする加藤に、宮村はこう詰め寄った。ひとりの人間の上に等身大以上の像が投影されてしまう、ここに「孤高」の哀しみと宿命がある。

彼は「孤独」を受け容れて成功をおさめ、「孤高」になった。その「孤高」は世間でひとり歩きし、かえって彼を圧し殺した。ずっと独りで口を閉ざしてきたことが、彼を「世間」というものに対してきわめて不利な状態へと追いやっていた。

読了直後、僕は感想として"「孤高」の怖さは、「孤高」にあるときにはない。「孤高」を捨てたときにこそ、そのしわ寄せが襲いかかってくる。"と書いた。彼の死は、まさにそんな宿命を感じさせるものだった。

孤独の恐怖に心が震え、孤高の重さに呆然とさせられる。本当にものがわかっている人は、孤高になどなりたがらないのかも知れない。


◆気に入ったフレーズ
近づいた友が必ず離れていくという現実は、加藤にとっておそるべき恐怖だった。

「ほんものの登山家というのは、すべてを自らの力で切り開いていく人間でなければならない」

「放っておくことだ。ああいう大物は下手な先生をつけずに置いた方が、素直なかたちで伸びる。ただ、誰かが常に見守ってやっていることだけは必要だ」

「偏屈にも思われるほど、妥協性を欠く、あの独立精神が、結局は山における人間に通ずるのだ」

冬山の寒さは、孤独感から来るものではなかろうか。すると、冬山に勝つにはまず孤独に勝たねばならない。

戦いであると考えていたところに敗北の素因があった。山に対して戦いの観念を持っておしすすめた場合、結局は負ける方が人間であるように考えられた。

「おれは、ひとりでしか、山を歩けない男なんだ。だからひとりで歩く」

「英雄の存在するかぎり、その英雄の踏み台になるものが必ずある。だからおれは英雄というものが好きではない」

「行きたくて行ってもね、男というものは、ほんとうは、行ってしまったことを悔いているものですよ」

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255.ペスト大流行 (村上陽一郎)

十四世紀中葉、黒死病とよばれたペストの大流行によって、ヨーロッパでは三千万近くの人びとが死に、中世封建社会は根底からゆり動かされることになった。記録に残された古代いらいのペスト禍をたどり、ペスト流行のおそるべき実態、人心の動揺とそれが生み出すパニック、また病因をめぐる神学上・医学上の論争を克明に描く。

エボラ出血熱が伝播している。もともとアフリカ西部の小さな集落に感染が止まっていたものが、人の移動が激しくなることで広範囲に広がっていったようだ。

ウイルスや病原菌を伝えていく媒体は、人間と動物だ。人類が栄え、新たな地を拓き、人口が増えるほど、感染症のリスクは大きくなっていく。

神出鬼没という言葉があるが、まさにそんな様相だろう。アフリカで流行が始まったかと思えば、ヨーロッパ、アメリカで次々に感染者が発見される。見えないウイルスがいつの間にか侵入してきて、牙をむく。憶測まぎれの情報が錯綜し、パニックは容易に起こる。

理不尽な死をあたえる「見えない脅威」に対して、人類はほとんど「お手上げ」に近い。人が増えるほどリスクが上昇するため、神による人口調節だという捉え方もされる。

感染症に直面した世界はどうなるのか。それを知りたくて、本書を繙くことにした。14世紀半ばにヨーロッパに激震を与えたペストを、巨視的に分析した一冊である。


▽世界史のひとつの切り方
「茶の世界史」「砂糖の世界史」という本を読んだことがあるが、この本はさしづめ「ペストの世界史」といったところか。ペストがどこからやってきて、人と社会にどのような影響を与えて去ったのかを考察している。

人間は苦しい時にその真価を問われるが、それは社会全体でも同じだと言えそうだ。疫病の流行や災害などの異常事態では、人々の隠れた欲求や行動原理が顕在化されやすい。政府や社会といった「ソトヅラ」が何らかの理由で崩れると、人間の本性がむき出しになり、盗みや暴力などの不法行為が横行する。

たとえば、人々の反感を買っている社会集団がスケープゴートになり迫害される。関東大震災における朝鮮人への迫害という事例がある。ペストが流行したヨーロッパでも、ユダヤ人への迫害が展開された。

たとえば、人生や宗教に対する極端な態度がとられる。ある人びとは信仰に救いを求め、ある人びとは神の裏切りに絶望し、またある人は現世的な享楽に耽るようになる。「不合理な死」に対して答えを出してくれる宗教への態度が、社会的に大きな論点として現れる。

たとえば、社会変化の傾向をさらに急進化させる。もともと潜在的に進んでいた変化が、天災によって加速させられたものだ。日本でいえば、被災地域になかなか若者が戻ってこず、地方の過疎化・高齢化を促進している。ペストの場合も、農業人口の激減をもたらすことで領主の経営を困難にし、封建社会解体の引き金となったとされる。

そうした興味深い例に満ちたこの本の結論は、以下の二つの引用にまとめることができる。

黒死病そのものは、時代の担っていた趨勢のなかから、次代へ繋がるものをアンダーラインした上でそれを加速させ、その時代に取り残されるものに引導を渡すという働きをした。
異常事態の上に映し出されたものは、良かれ悪しかれその時代そのものであって、その時代の要素が、いささか拡大されて見えるにとどまる。


現代について考えてみる。70億人を超える人口、科学技術に支えられた流通の発達、地球環境の変化…。そうした特徴が、疫病の流行にも映し出されるのだろうか。

エボラ出血熱の伝播は、アフリカ大陸の開発と大いに関係している。また、地理的に近いはずの中東地域よりも先にアメリカで感染が確認されるあたり、きわめて「現代的」な現象だろう。

代々木公園付近で数十年ぶりに見つかったデング熱も、地球温暖化現象と少なからぬ関係があるという。「蚊」が恐怖の対象になる時代も、あるいはそう遠くないかもしれない。デング熱ウイルスは代々木公園付近にある製薬会社が作ったものだというデマがSNS上で流布したのも、記憶に新しい。

21世紀には21世紀なりの災厄があり、悲しみがあり、混乱がある。「封じ込めは不可能」という新聞の字面を眺めるにつけ、14世紀から変わった社会と、変わらない人間のあり方が感じられる。


◆気に入ったフレーズ
今日でさえ、一体何があのような激烈な流行を惹き起こすのか、また、一体何が相応の犠牲者を要求したあとペストの流行を自然に終息へと向かわせるのか、という点に、明確な解答を与えることは難しい。

われわれは、伝染病やその流行という概念を、病原体に感染する、という現象と結びつけることになれている。むしろ慣れ過ぎていて、ときに大きな過誤を犯すことさえある。

ペストの流行に一種のパニック状態になった人びとの間には、日頃憎しみを抱いている相手をスケープ・ゴートに仕立て上げる風潮が生れたのである。

無意識に蠢動する一般の人びとの熱い信仰への憧れが、黒死病という避けることのできない災厄によって触発されたことだけは確実である。

黒死病そのものは、時代の担っていた趨勢のなかから、次代へ繋がるものをアンダーラインした上でそれを加速させ、その時代に取り残されるものに引導を渡すという働きをした。

異常事態の上に映し出されたものは、良かれ悪しかれその時代そのものであって、その時代の要素が、いささか拡大されて見えるにとどまる。

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254.遠い声 遠い部屋 (カポーティ)

父親を探してアメリカ南部の小さな町を訪れたジョエルを主人公に、近づきつつある大人の世界を予感して怯えるひとりの少年の、屈折した心理と移ろいやすい感情を見事に捉えた半自伝的な処女長編。戦後アメリカ文学界に彗星のごとく登場したカポーティにより、新鮮な言語感覚と幻想に満ちた文体で構成されたこの小説は、発表当時から大きな波紋を呼び起こした記念碑的作品である。


▽若き天才
カポーティが「早熟の天才」として脚光を浴びたのは、1948年に「遠い声 遠い部屋」を刊行したときのことだった。刊行当時の彼は24歳、作品を書き上げたときは22歳。ちょうど今の僕と同じ歳だ。

焦るわけではないが、色々と感じるものがある。年齢というのは、多くの例外が存在するものの、「成熟の度合い」を示すもっとも一般的な指標である。一体、カポーティはデビューまでの22年間で、どうやって成長してきたのかと思わされる。

カポーティの自伝としての側面も持つ「遠い声 遠い部屋」は、父親探しの旅をする少年の成長を綴った物語だ。著者と主人公はと少なからぬ共通点を持っており、カポーティ自身の「成長」を考えるうえでも少なからぬ意義を持つ。

一般に「登場人物の成長・変化」はどの物語でも必要だが、カポーティはそれををより高度かつ巧妙に表現した。少年の成長を発言や思考・行動といった目に見える変化で顕在化させることなく、精巧な心理描写の集積によってうっすらと浮き彫りにしたのである。

どの年齢期もそうであるように、「少年であること」というのは一つの「バイアス」であり、「歪み」である。ひとりの少年は、屈折しながらも感受性に満ちた認識を通じて世界と向き合い、そこから少しずつ脱皮していく。見えなかったことが見えるようになり、考えられなかったことが考えらえるようになる。その新鮮さと恐怖が、瑞々しい。

ただ、小説の全体的な難解さは否定できない。この本は「大人が少年の思考・行動を説明する」形式をとらないからだ。物語には「大人による説明」はなく、あるのは錯誤と断絶だらけの、舌たらずな「少年の認識」だけである。

思い出してほしい、これを執筆しはじめたカポーティは20歳だったということを。大人には理解できない心象世界を描くにあたって、著者自身の「若さ」が極めて重要な働きをしたであろうことは、想像に難くない。


▽成熟の哀しみ
「今は小さい男の子たちでも、いずれは大きく成長しなけりゃならないでしょ、あたしはそれを考えて、ときどき泣くことがあるの」

成長する、という。成長してしまう、ともいう。私たちは大人になるにつれて、たくさんのことを見、考えられるようになるが、同時にそれはたくさんのことを見、考えられなくなる過程でもある。

私たちと同様に、作家も歳を取る。書けなかったことが書けるようになり、書けたことが書けなくなるだろう。そう考えると、カポーティの20歳という年齢とこの作品も、ますます不可分なものに見えてくる。

彼の生涯を見てみよう。デビュー以降「大人」として社会から注目を浴びた彼は、「ティファニーで朝食を」や「冷血」などの名作を執筆する。ところが、晩年になるとアルコール・薬物中毒に苦しみ、心臓発作を起こして急死している。

彼の死について「薬物によって自らの内側にある"少年"を取り戻そうとしていたのではないか」という解釈があるが、どこか納得させられるものがある。解説が示唆するように、「遠い声 遠い部屋」は「少年カポーティ」による創作活動の出発点であると同時に、完成でもあったのではないか。

おそらく22歳のカポーティは、すでに彼の内なる「少年」が消えかかっていることを感じていたのだろう。猛烈な成熟の速さを自覚した彼は、自分の中に残されていた「未熟」の部分をなんとか抉り取って、後に残るかたちにしたのではないか。

この小説の締めくくりの一文は、あまりにも鬼気迫っている。カポーティは最後に、主人公と自己を重ね合わせたように思えてならないのだが、そう考えるのは感傷的すぎるだろうか。

彼はふとそこで、何が置き忘れてきたように足をとめ、茜色の消えた垂れ下がりつつある青さを、後に残してきた少年の姿を、もう一度振り返って見るのだった。


◆気に入ったフレーズ
ジョエルはあまり神様が好きではなかった、あまりにもたびたび神様に裏切られたからだ。

「世間にはなんでも知ってるくせ、まるきりわけのわかんない連中がいっぱいいんのよ、うようよしてるわ」

「賢人の言葉を聞いたことはないかい? 未来のすべては過去に存在する、って」

生まれる前。そうだ、それはどんな時だったのだろう?それは今のような時だったのだ、そしてわれわれが死んでも、なお今のままの時がつづくだろう。

「むずかしい音楽はすべて一度以上聞かなきゃならないからね。今僕の話していることが無意味に聞こえても、後でふり返ってみれば、ずっとずっとはっきりわかるはずだよ」

「愛情が思いやりだということを知っている者は、ほとんどいないからね。それにまた思いやりというものは、多くの連中が考えているように憐れみではないんだ」

「若い連中は死ぬなんていうことを信じないんだな…」

「だれでも一生のうちには、自分が故意に織られた模様の、ただ一本の糸にすぎなくなるような事態が起こるものなんだ」

ジョエルは券を革紐で腰に結びつけた。それは世界じゅうと戦うための武器であった。

「今は小さい男の子たちでも、いずれは大きく成長しなけりゃならないでしょ、あたしはそれを考えて、ときどき泣くことがあるの」

怒りはどちらかと言えば、愛情よりも危険に思えたからだ…ただおのれの身の安全を知る者のみが、その両者をもつことができるのだ。

ジョエルは木からすべり降りた、てっぺんまで登りきってはいなかったが、もうそんなことはどうでもよかった、なぜなら彼には、自分のだれであるかがわかっていたし、自分の強いことがわかっていたからだった。

彼はふとそこで、何が置き忘れてきたように足をとめ、茜色の消えた垂れ下がりつつある青さを、後に残してきた少年の姿を、もう一度振り返って見るのだった。


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253.蠅の王 (ゴールディング)

未来における大戦のさなか、イギリスから疎開する少年たちの乗っていた飛行機が攻撃をうけ、南太平洋の孤島に不時着した。大人のいない世界で、彼らは隊長を選び、平和な秩序だった生活を送るが、しだいに、心にすくう獣性にめざめ、激しい内部対立から殺伐で陰惨な闘争へと駆りたてられてゆく…。少年漂流物語の形式をとりながら、人間のあり方を鋭く追及した問題作。

なぜ人は争うのか。なぜ戦争はなくならないのか。

最も伝統的なこたえは「人間がもともと不完全で、好戦的だから」というものだろう。神に似せられたかたちで創造され、理性も備えた動物が争うとき、もっとも醜悪な闘争が現出する。地球上で、数千年ものあいだ繰り返されてきた光景だ。

ノーベル賞を受賞したゴールディングの「蠅の王」も、そんなペシミスティックな人間観に裏打ちされてつくられている。少年たちを無人島に漂着させる思考実験を展開し、人間に潜む悪性を暴き出そうとした。

少年漂流ものだと思って読み進めていると、いつのまにか血なまぐさい臭いが漂いはじめる。少年たちは「何がいけないのか」と何度も問うが、回答を用意する大人はいない。次々と襲いかかってくる悲惨な展開は、回避できたようにも思われる反面、回避不能な宿命だったようにも思われる。

原因がわからぬまま事態は悪化の一途を辿る。打ち棄てられ蠅がたかった豚の首、「蠅の王」が、静かに悲劇を笑う。悲惨と血と暴力が支配する物語に、読んでいて呆然とさせられた。


▽思考実験
「この島は、ぼくらのものなんだ。いい島だよ。大人たちが連れにきてくれるまで、おもしろく遊んでいようよ」
孤島に流れ着いた少年たちは、はじめは立派に振る舞おうとする。皆でおもしろく、楽しく暮らそう。当初、そこに争いの種が入り込む隙はなさそうだった。

ところが、少しずつ彼らの関係は軋みはじめる。大人たちに気付いてもらうための「狼煙」の管理をめぐって。狩猟を通じて影響力をもちはじめた少年の叛旗をめぐって。そして、夜の闇にまぎれて少年たちを怖がらせる「獣」をめぐって。

そうした些細なことの蓄積が、やがて大きな亀裂となり、殺し合いにまで発展する。理性は軽んじられ、規則は踏みにじられる。力の論理が彼らを支配し、血に飢えた狂気が島を覆い尽くした。

重要なのは、その過程ではない。争いを望んでなかった無垢な少年たちの集団が、こんな醜悪な結末を導いてしまった点だ。しかも、この島に少年たちを争わせるような「欠乏」は、ひとつとしてなかった。明らかに、彼らの闘争は不必要だったのである。


▽蠅の王
少年たちを恐怖させ、闘争に駆り立てるようなものは、存在しない。が、確かに、見えない強い力が事態を暗転させていたようにも思える。

「ぼくがいおうとしたのは…たぶん、獣というのは、ぼくたちのことにすぎないかもしれないということだ」
ある少年は、徐々に破滅を導いてくるそれの正体を、彼ら自身の内側に潜在する「悪性」だと喝破した。彼はこの発言で嘲笑の的になるが、それでも自らの内側に眠る「悪」を自覚して恐怖するようになる。

「蠅の王」は、そんな彼の目の前に現れた「豚の首」だ。打ち棄てられたそれは、少年に潜む「悪性」の代わりに饒舌に話し始める。
「わたしはおまえたちの一部なんだよ。おまえたちのずっと奥のほうにいるんだよ?どうして何もかもだめなのか、どうして今のようになってしまったのか、それはみんなわたしのせいなんだよ」

そこまで頻繁に出るわけでもない「蠅の王」がタイトルになっているのは、その存在とセリフが本質をついたものであるからだろう。人間の内側に抑えられているはずのものが、いつのまにか豚の首を借りて語り、状況を支配している不気味さ。「おまえたちのずっと奥のほうにいる」という絶望的な宣告。それらが、読者に拭いがたい印象を刻み付ける。

「蠅の王」は最凶の悪役だ。それは驚異的な力で破滅をもたらすが、実体を持たないために誰にも斃すことができない。地上から人間を一掃しないかぎり、彼の高笑いは止まらないのである。


▽「救い」を笑う蠅の王
殺し合いに発展し、もうどうしようもなくなったとき、戦艦に乗った大人たちが救出にやってきて物語は終わる。一見、少年たちは救われたように思える。

ところが、解説も示唆しているとおり、それは「闘争からの救い」ではない。彼らが乗せられるのは大戦中の戦艦であり、その先にはもっと大きな「大人たちの闘争」が待ち受けている。後味が悪い小説だ。少年たちは、殺し合いからやっと抜け出せたと思ったとき、すでに次の殺し合いに組み込まれている。

「イギリスの少年たちだったら、そんなんじゃなくて、もっと立派にやれそうなもんじゃなかったのかね」
救助に来た大人たちは、知った風な口をきく。少年たちは自らの行いに打ち震え、うつむいて涙をこぼす。本当はもっと立派にできたんだ、殺し合いなんかしなくて良かったんだ…。

そんな彼らも、いつかハッキリ理解する。大人たちも決して「立派」になどできていないと。むしろ武器を高性能化させ官僚制を発達させ、より大規模に闘争を展開するようになっているのである。

こんなはずじゃなかったのに…と思いながら、人々は敵に銃口を向ける。そんな彼らの煩悶を見て、「蠅の王」は高らかに哄笑し続ける。どうすれば争いを避けられるのか、人間の勝利はどこにあるのか…。答えはどこにも示されないまま、物語は幕を下ろすのである。


◆気に入ったフレーズ
「この島は、ぼくらのものなんだ。いい島だよ。大人たちが連れにきてくれるまで、おもしろく遊んでいようよ」

「君たちは、ぼくを隊長に選んだんだ。だから、ぼくのいうことに従ってもらいたいんだ」

「ぼくがいおうとしたのは…たぶん、獣というのは、ぼくたちのことにすぎないかもしれないということだ」

「ぼくらが今もっているのは、規則だけなんだ!」

「わたしはおまえたちの一部なんだよ。おまえたちのずっと奥のほうにいるんだよ?どうして何もかもだめなのか、どうして今のようになってしまったのか、それはみんなわたしのせいなんだよ」

「大人たちは暗闇を怖がらないものな。集まって、お茶を飲んで、議論なんかするだろう。そうすると万事がうまくゆくんだ」

最も偉大な考えというものは、最も単純なものなのだ。

「ものの道理なんて忘れるんだよ。そんかものもうなくなってしまったんだよ」

「イギリスの少年たちだったら、そんなんじゃなくて、もっと立派にやれそうなもんじゃなかったのかね」

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252.スターリン (横手慎二)

「非道の独裁者」、日本人の多くが抱くスターリンのイメージだろう。1920年代末にソ連の指導的地位を固めて以降、農業集団化や大粛清により大量の死者を出し、晩年は猜疑心から側近を次々逮捕させた。だが、それでも彼を評価するロシア人が今なお多いのはなぜか。ソ連崩壊後の新史料をもとに、グルジアに生まれ、革命家として頭角を現し、最高指導者としてヒトラーやアメリカと渡り合った生涯をたどる。

▽スターリン
21世紀を生きる我々も、「スターリン」という名前には独特の響きを感じる。大粛清の断行、農民を犠牲にした計画経済、そしてヴェールに包まれた冷戦時代。不気味に横たわる超巨大国の指導者、共産主義社会の「不幸な」帰結の象徴。西側社会に属していた日本人には、どこか触れてはいけないような感じがする。

どうも暗すぎて、見通すことが出来ない。彼を理解するためには、不慣れな暗がりのなかを奥へ、奥と進んでいかなければいけない。未だに国交正常化がされていないロシアを、その前身たるソヴィエト連邦を、その背骨である共産主義を、知っていく必要がある。我々にとって、スターリンとは光の届かぬ洞窟の深部のようだ。

冷戦の終結から約20年が経ち、私たちは以前より簡単に「洞窟」の手前まで達することが出来るようになった。イデオロギーの霧は薄れ、隠れた史料も少しずつ出てきているという。そんななかでスターリンの生涯を振り返り、その実像をいち早く捉えようとしたこの作品は、まさに意欲作だと言えそうだ。

1878年から1953年までの彼の生涯は、日露戦争、二つの世界大戦、ロシア革命、米ソ冷戦初期という現代を形作る出来事の連続だった。まさに激動の時代を、諸国と渡り合いながら生き抜いたということになる。尋常でない、偉大な人物であることは間違いないだろう。


▽偉大
世界史にその名を拭いがたく刻み、いまでもロシア国民から篤く慕われるというスターリンは、間違いなく偉大な指導者と呼ぶことができる。それにしても、この「偉大」というのもつくづく不思議な言葉である。

「これは偉大である!」と歴史家たちは言う、すると、もはや善も悪もなく、「偉大なもの」と「偉大でないもの」があるだけである。
「戦争と平和」からの引用だ。ヨーロッパに激震を与えたナポレオンを指して言ったのだが、奇しくもそれは当時から数百年後のロシアの指導者にも当てはまった。本を読めばわかるが、スターリンの指導者としての評価も「偉大」というほかは極めて難しいのである。

たしかに彼は無辜の農民たちを犠牲にし、「五か年計画」で無理な工業化を図った。自らに反対する者やその嫌疑にかけられた者たちを容赦なく抑圧し、粛清した。血なまぐさい当時の歴史を前に、スターリンを「無能」だと糾弾したくなるのも当然である。

ただ、他にロシアが生き残る道があったのか、という視点もある。「戦争の世紀」を通じてあれだけの超大国を維持し続けたのは、並大抵のことではない。第二次大戦でナチスに勝利を収め、冷戦下ではアメリカと拮抗、対峙した。スターリンが無能だとすれば、この歴史的事実をどう考えればいいのだろうか。

本の中では、両方の視点が書かれている。読者に判断を任せる形になるが、誠実な結論だとも言えそうだ。最後の方では、こんな学者の言を引いている。
スターリン主義とは、「犯罪と失敗、それに歴史的勝利の不可分の一体」だ…。

指導者の成功とは何なのか、国の成功とは何なのか。結局、そうした哲学への判断を抜きにして、スターリンを評価することはできないのかもしれない。


▽スターリンの意識
スターリンがあれほど長く最高指導者としての地位を保持したのは何故だったのか。本の中で引用されていた彼の論文は、それを饒舌に物語っていた。

旧ロシアの歴史の一面は、ロシアが立ち遅れのために絶えず打ち負かされていたことにある。蒙古の汗に打ち負かされた。トルコの豪族に打ち負かされた。スウェーデンの封建領主に打ち負かされた。以上、すべての者は、ロシアが立ち遅れていたので、ロシアを打ち負かしたのである。
我々は先進諸国に50年から100年立ち遅れている。我々はこの距離を10年で走りすぎなければならない。


ロシアは絶えず周囲の先進的な文明への羨望とコンプレックスを抱えて発展した国家だった。僕はその「影」が好きでロシア文学にとりつかれたのだが、スターリンこそは、それを拭い去ろうとした指導者に他ならなかった。彼は、絶えず打ち負かされてきたロシアを、世界でもっとも強力な国家にしようと試みたのだった。

おそらく、彼ほど抽象的な「ロシア」というものを愛した指導者はいなかったろう。いまだに少なからぬ国民が彼を敬愛するのも、こうしたことと関係がありそうだ。

ニクソンによる「指導者とは」の一節を思い出した。
指導者を偉大ならしめる必須の条件は、三つある。偉大な人物、偉大な国家、そして偉大な機会である。

ロシアがアメリカと世界を二分した時代。もしかすると冷戦期はロシアにとって単に「苦しい暗黒時代」というばかりではなく、偉大な、栄光に満ちた時代でもあったのかもしれない。

「犯罪と失敗、それに歴史的勝利の不可分の一体」…。
「スターリン」を読み、不気味で魅力的な北方の大国が、またひとつその深さを増した。


◆気に入ったフレーズ
ロシア国民の少なからぬ人々が今もなおスターリンに思いをはせ、愛着の気持ちを抱くのはなぜなのか。

彼は、社会主義運動で必要なことは何よりも行動だと確信していた。

スターリンは、党組織論とロシア帝国の他民族性という個別の問題に強い関心を示した。

彼らは急進的工業化政策の成功に国の将来を賭けていた。

「すべての者は、ロシアが立ち遅れていたので、ロシアを打ち負かしたのである」

「我々は先進諸国に50年から100年立ち遅れている。我々はこの距離を10年で走り過ぎなければならない」

共産主義と愛国主義が合体し、新たなソ連イデオロギーがスターリンを中心にして生まれてきた。

スターリン主義とは「犯罪と失敗、それに歴史的勝利の不可分の一体」だ

冷戦時代のさまざまな政治的思想的対立から解放され、歴史学の対象として彼を捉えることが可能になった。

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251.ティファニーで朝食を (カポーティ)

名刺の住所は「旅行中」、かわいがっている捨て猫には名前をつけず、ハリウッドやニューヨークが与えるシンデレラの幸運をいともあっさりと拒絶して、ただ自由に野鳥のように飛翔する女ホリー・ゴライトリー。彼女をとりまく男たちとの愛と夢を綴り、原始の自由性を求める表題作をはじめ、華麗な幻想の世界に出発し、多彩な作風を見せるカポーティの作品4編を収める。


▽くわせ者
「ティファニーで朝食を」で検索をかけてみると、1961年の映画でヒロインを演じたオードリー・ヘップバーンの写真が出てくる。映画と原作ではストーリーが大幅に違うようだが、それでもヒロインの性格がよく表れた、いい写真だと思う。

黒いドレスに身を包んで頬杖をつき、空いている方の手には長い煙管。挑発的に輝く瞳は、「次はどうやって私を楽しませてくれるの」と問いかけてくる。そこに「媚び」の色もなく。

くわせ者。こういう女性は、何を捧げても、どこに連れて行っても、決して満足してくれない。そんな彼女は「自由」の象徴であり、「資本主義」の象徴。うっとりするほど可憐な容貌は、彼女の貪欲を粉飾し、覆い隠す。私は誰にも屈しないし、誰のものでもないわ、でも、私のために何かくれるというのなら、もらっておくわね…。

あっぴろげで、挑発的で、自分勝手。物語に登場する男たちは、ホリーをなんとか振り向かせたい。お金ならあるよ、宝石をあげよう、なんでもするよ…。ありがとう、あなたっていい人ね、じゃあまたね…。

あれはくわせ者じゃないです。というのは、あの娘は本物のくわせ者だからですよ。
こういうセリフがあった。分かっていても、男たちは彼女の一挙手一投足に希望を、あるいは絶望を見出さずにはいられない。そんななか、物語は進んでいく。


▽競争社会のヒロイン
ヒロインは、「自由」と「資本主義」の象徴だと言われる。たしかにホリーをとりまく男たちの環境は、すぐれて競争社会的だった。

ただひとつ違う点は、彼女はお金では落とせないところ。種々の宝石にも、巨万の富にもなびかない、満足しない。まさに彼女は、何者からも縛られない「自由」そのものとなっている。

このことが、彼女をめぐる競争を一層おもしろくする。すべては「ホリーの見えざる手」にかかっている。彼女の掌の上で男たちは手練手管を操り、スリリングな競争を楽しむ。

競争社会を生きる男の、「いい女を手なずけたい」という欲望がそうさせるのか。それともホリーのもつ「自由」の匂いが、彼らをどうしようもなく魅了するのか。いずれにせよ、単なるスケベ心によるものではないだろう。

この競争原理を巧みに利用して、彼女はひとり高らかに自由を謳い、旅をつづける。男どもの欲望を「燃料」にして自らの欲望を満たしていくさまは、この上なくアイロニカルで、同時に幻惑的だ。もしかすると、カポーティは競争社会にとって最も魅力的なヒロインを作り上げたのかもしれない。


▽自由
ある晴れた朝、目をさまし、ティファニーで朝食を食べるようになっても、あたし自身というものは失いたくないのね。

ホリーは誰にも干渉を許さない人格を備え、まさに「自由」だった。どんな境遇でも「自分」を失わない強い自我を抱え、美貌の彼女は肩で風切るように男たちの社会を渡り歩いていく。

彼女は縛られてはいけないヒロインだった。だから、訳者の龍口氏がホリーと主人公が結ばれる映画のシナリオに憤ったのも、当然のことかもしれない。原作のように「今度はアフリカに行っちゃったそうだよ」という方が、物語としては収まりがいい。

そんな彼女について、ひとつ印象的な箇所があった。物語の最後、ホリーがブラジルに旅立とうという場面でのセリフだ。

「あたし、なんだかとてもこわくなってきたのよ。だってこんな心細い気持ちがいつまで続くか知れないもん…」

怖いものなしに見えた「自由」のヒロインが、最後の最後で「自由」そのものにたいする恐怖をちらつかせた、非常に象徴的な場面だ。生き方を決める「自由」と対峙する、緊張と恐怖。この場面で、ヒロインの人間像にぐっと「深さ」がでた。

「サイコロを振ってみて初めて自分の気持ちがわかるのね」。
上のセリフは、こうつづく。強気一辺倒でなく、最後に不安を吐露するところもやっぱり彼女の魅力になっていて、つくづくズルいというか、なんというか。

それにしても、オシャレな言葉だ。恐怖していてもセリフには格調を欠かさない、気高い女。そんなヒロインを見事に描き切ったカポーティの筆致に、改めて感じ入らされた。


◆気に入ったフレーズ
あれはくわせ者じゃないです。というのは、あの娘は本物のくわせ者だからですよ。

自我などすっかり捨ててしまわないことには、スターになどなれっこないのよ。

ある晴れた朝、目をさまし、ティファニーで朝食を食べるようになっても、あたし自身というものは失いたくないのね。

強いて愛そうと思えば、だれだって愛することができる。

醜さというものは真の美しさよりも人を喜ばすことがよくあるものだ。

男の人って美しい動物よ。みんなとはいわないけど、そういう人はたくさんいるわ。

だれでもだれかほかの人に優越感を感じないではいられないもんよ。

サイコロを振ってみて初めて自分の気持ちがわかるのね。

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250.ふしぎなキリスト教 (橋爪大三郎・大澤真幸)

キリスト教がわからないと、現代日本社会もわからない――。イエスは神なのか、人なのか。GODと日本人の神様は何が違うか?どうして現代世界はキリスト教由来の文明がスタンダードになっているのか?知っているつもりがじつは謎だらけ……日本を代表する二人の社会学者が徹底対論。

この本のあらすじを探そうと思ってインターネットの検索をかけたところ、相当な数の批判が上げられていることがわかった。どうも間違った箇所が多いらしく、帯にあった「最強の入門書」という言葉は誇張のようだ。

些事を省いた「大きな物語」は、読んでいて面白い。そのかわり、数多の反例も出てくる。この本もその類らしい。もちろん僕のような門外漢が「眉に唾をつけて」楽しむ分には、問題はないだろう。


▽「無理解っぷり」への理解
キリスト教を踏まえないと、ヨーロッパ近現代思想の本当のところはわからない。現代社会もわからない。
あとがきで、橋爪氏がこう語っていた。これまで日本が必死に輸入してきた西欧の数々の発明は、キリスト教の強い影響下で生まれたものばかりだった。それらをテコに、わたしたちは民主主義を標榜する経済大国にまでのし上がってきた。

西欧に対する本質的理解を置き去りにしたまま、表層だけをうまく模倣したのである。丸山眞男は「哲学からの派生」を無視した日本の諸学問体系を「タコツボ型」と表現したが、それに近いことが社会のあらゆるところで行われた。まさに「辺境人」の成せる技かもしれない。

しかし、その誤魔化しも通用しなくなりそうだ。「文明の衝突」という言葉もあるが、冷戦下に支配的だったイデオロギー対立にかわって、今日では文化的アイデンティティの差異に基づく対立が顕在化しつつある。日本人のような「辺境人」も、これまで見習ってきた文化のもっと深層にまで思索を伸ばす必要があるかもしれない。

そういうなかで、キリスト教への理解は重要だ。いや、正確には「われわれのキリスト教への無理解っぷり」への理解が重要になってくる。

私たちは学校教育やさまざまな場面を通じて「西欧文明」を知った気になっている。民主主義を学び、人権の尊さを学び、キリスト教の歴史を学ぶ。そのうち、「キリスト教とは、こんなものだろう」とタカを括るようになる。

ところが、この「タカを括った態度」ほど異文化理解で邪魔になるものはない。偏見は相手に対する認識を歪め、感情の測り間違いにも繋がる。元来、「新しい人に会う」というのは自分自身をも書き換えるほどの体験だ。バックグラウンドが全く違うなら尚更、とってつけの知識を捨て、虚心に接しなければならない。

そういう意味で、僕のような「分かったつもりの素人」には、この本は刺激的だし、有益だった。

「一神教とはなにか」を知らずに、キリスト教は理解できない。キリスト教が数々の矛盾を内包していることを知らなければ、西欧社会の近代化を考えることはできない。「理性」がキリスト教のなかでどう位置付けられているかを考えないと、それに基づく諸科学の発展は説明できない…。

どれも、僕は本を読むまえから「知っているつもり」のことだった。もちろん、この本で「100%分かったつもり」になるのも、第二の誤謬に繋がる危険がある。少なくとも、「キリスト教」という系が想像を絶した複雑さと数々の自家撞着を孕んでいることは、感じることが出来た。これは結構な収穫だろう。

この本に「日本人はそうじゃない」とか「教会によればそうじゃない」とか批判を加えることは可能だ。だが、キリスト教に対して「知らなかった」という感覚を読者に植え付けるうえでは、かなり有効な本ではないかと思う。

キリスト教徒は世界で20億人。これだけ広く信仰されている以上、分かりやすい宗教なのだろうと思っていた。それが、こんなに複雑だったとは。ヨーロッパ旅行では数多の教会の門をくぐってきたが、こんどは聖書の扉を叩かなければいけなくなった。僕の心に「ふしぎ」を植え付けた、この本の勝ちである。


◆気に入ったフレーズ
イスラム教は勝ち組の一神教。ユダヤ教は負け組の一神教。

世界が不完全であることは、信仰にとってプラスになる。

一神教には、この考え方しかない。つまり、試練です。試練は、原因がないのに悪い出来事が起こること。

神に関しては、その存在を確認するうえでのあらゆる方法が禁じられている。

偶像崇拝がいけないのは、偶像だからではない。偶像をつくったのが人間だからです。

ヤハウェは、民主主義的平等を可能にする、絶対的な例外的な差異ですね。

イエスは、旧約聖書を「解釈」しているんです。歴史的存在としてのイエスはそうだと思う。

自分の言葉でしゃべる。はっきり言えば、自分自身が神のようにしゃべっている。

神が誰を救うかは、神自身が理解していればよく、それを人間に説明する責任もないし義務もないし。だいたい、説明しない、説明したくない。こういうものです。これをまるごと受け入れないと、一神教にならない。

前提として、日本人は現状に満足していて、いじめられ民族じゃないんだ。

社会が近代化できるかどうかの大きなカギは、自由に新しい法律をつくれるか、です。

人間は罪深く、限界があり、神よりずっと劣っているけれど、理性だけは、神の前に出ても恥ずかしくない。数学の証明や論理の運びは、人間がやっても、神と同じステップを踏む。

理性は、神に由来し、神と協働するものなんです。

ふつう世俗化というと、宗教の影響を脱することを言うわけです。しかし、キリスト教は、世俗化において一番影響を発揮するという構造になっている。

宗教とは、行動において、それ以上の根拠をもたない前提をおくことである。

日本人の考える無神論は、神に支配されたくないという感情なんです。

キリスト教を踏まえないと、ヨーロッパ近現代思想の本当のところはわからない。現代社会もわからない。

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249.死の家の記録 (ドストエフスキー)

思想犯として逮捕され、死刑を宣告されながら刑の執行直前に恩赦によりシベリア流刑に処せられた著者の四年間にわたる貴重な獄中の体験と見聞の記録。地獄さながらの獄中の生活、生産目を覆う笞刑、野獣的状態に陥った犯罪者の心理などを、深く鋭い観察と正確な描写によって芸術的に再現して、苦悩をテーマとする芸術家の成熟を示し、ドストエフスキーの名を世界的にした作品。

ドストエフスキーの名を一躍有名にした「死の家の記録」は、シベリアの獄中における彼自身の経験を克明に綴っている。他の長編のようなダイナミックな展開があるわけではなく、どこかルポルタージュの短編集のよう。物語としては、退屈なほうかもしれない。

でも、この本は彼の文学を考えるうえで非常に重要なものだ。そのことを、ちょっと書いてみたい。


▽天才への脱皮
「天才になるにはどうすればいいか」という、IQ170の少年による公演がインターネットで話題になった。その結論は、意外と言うべきか、「学ぶことをやめなさい」というものだった。

日本語で考えると、「学ぶ」の語源は「まねぶ」だという。上手い人を真似して技術・知識を吸収する過程が、「学ぶ」ことの本質だとされる。しかし、それではいつまでも「お手本」を超えることができない。秀才は育っても、天才は生まれないだろう。

少年は、その点を指摘した。学問における発見や産業における発明は、往々にして「学ぶ」というインプットの道が断たれた環境で起こっているという。「学ぶ」ことに汲々とする状態から脱してはじめて、人は自ら思索し、自由に発想できるようになる。そういう条件のもとで各々の「天才」は発現する、と。

「頭のいい人向け」の乱暴な議論に見える反面、正鵠を得ているとも言えそうだ。過度なインプットへの傾倒がアウトプットや柔軟な発想の阻害になるという観方は、今日ではわりあい広く受け入れられている。

早朝、一日がしらじらと明け染める頃、あたり一面すがすがしく、自分の力も曙光と共に輝きを加えているとき、本を読むこと――これを私は悪徳と呼ぶ!
読書家を批判したことで有名なニーチェは、「この人を見よ」でこう書いていた。思考が研ぎ澄まされているときに、「読書」をして他人の思考に憑依する…。たしかに、ある程度の素養を備えた人には勿体ないことかもしれない。

回り道が長くなった。結論から言えば、ドストエフスキーの才能の発露においても、おそらくシベリアの監獄という「インプットを禁じられた環境」が大きく作用したと考えられる。本書において後年の傑作の片鱗をいくつか見出すことができるのは、その予想を裏打ちする。

加えて、ドストエフスキー自身もこんな一文を書いていた。
本のない生活を送りながら、わたしはやむをえず自分の内部に思索を向け、自分に問題を課し、その解決につとめ、ときには苦悶したものだった…

シベリアという特殊な環境下で、彼ははじめて存分に民衆と触れ、人間の深層を子細に観察し、自分自身の思想を覗くことができたのではないか。これは許される想像に思われる。監獄は彼の思索を鍛え、万巻の書物にも勝るほどの刺激を与えただろう。ロシア社会の中でもっとも暗い場所で、ロシア史上もっとも輝かしい才能が目覚めたのだ。

賢人たちのほうこそまだまだ民衆に学ばなければならないことが多いのである。
囚人という「亡び去った民衆たち」に交じって寝食を共にしたドストエフスキー。彼はさまざまな人と会い、さまざまな苦悩のかたちを目の当たりにし、それらと自らの思惟を格闘させた。民衆から学んだ賢人は、世界文学史に名を刻んだ「文豪ドストエフスキー」へと脱皮したのだ。

「死の家」たる監獄を描写するなかでもきらりと光る、人間の機微をついた言葉、苦悶する者への優しい眼差し。シベリアで得た着想のひとつひとつが彼の中に根をはり、不朽の名作たちへと成長していくさまが、行間から感じられた。


◆気に入ったフレーズ
人間は生きられるものだ!人間はどんなことにでも慣れられる存在だ。わたしはこれが人間のもっとも適切な定義だと思う。

金は鋳造された自由である。

この自分はえらいのだという傲慢な気持、この自分は正しいという誇張された考えが、どんな従順な人間の心にも憎悪を生み、最後のがまんの緒を切らせるのである。

どんな刻印、どんな足枷をもってしても、自分が人間であることを囚人に忘れさせることはできないのである。

人間らしい扱いは、いつか昔に神を忘れてしまったような者をさえ、人間にひきもどすことができるのである。

賢人たちのほうこそまだまだ民衆に学ばなければならないことが多いのである。

人間愛、やさしさ、病人に対する親身の同情は、ときとして、病人には薬よりも必要なことがある。

暴逆は習慣である。

何かの目的がなく、そしてその目的を目ざす意欲がなくては、人間は生きていられるものではない。

自分の環境でないところに住むことほど、おそろしいことはない。

「あなた方がわたしたちのどんな仲間なんです?」

わたしたちの監獄の全貌と、この数年間にわたしが体験したことのすべてを、一枚の明瞭な絵にあらわしたいというのが、わたしの意図であった。

本のない生活を送りながら、わたしはやむをえず自分の内部に思索を向け、自分に問題を課し、その解決につとめ、ときには苦悶したものだった…

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