
安倍晋三首相の悲願といわれる集団的自衛権。武器輸出の解禁や日本版NSCの創設、国家安全保障基本法をめぐる議論などを背景に、今、日本が急激に変わろうとしている。政府で何が議論されているのか。それはリアルな議論なのか。自衛隊はどう受け止めているのか。長年日本の防衛を取材してきた著者による渾身の一冊。
自分の書く文章は、半分は自分のものであり、半分はそうでない。夢中になって文字を打ち込んでいるあいだに、いつのまにか自分が気付かなかった考え方まで活字化させていることもある。
昨日の書評(http://niksa1020book.blog.fc2.com/blog-entry-282.html)がそうだった。本自体に感銘を受けたわけではなかったので、2000字くらいの書評にしようと思ったものの、つい筆が滑って5000字近く書いていた。おまけに、最後の最後でいちばん重要なことに気付いてしまった。
今回は一から理路整然と書こうとは思っていない。ただ、最後の章を書いているうちに、自分が中盤まで4000字ほど費やして書いてきた内容が、ちょっと恥ずかしくなってしまった。そのことについて、自戒の意味を込めて、書いてみたい。
▽昨日の書評
昨日、僕は「集団的自衛権=戦争なのか」について論じた。書評のボディー部分で、4000字ほどあっただろう。立憲主義をあえて措き、国際政治的に考えようとした。首相の「抑止」という言葉を使い、「地球儀俯瞰外交」やニクソン政権の例を出し、東アジアの緊張緩和への見通しを自分なりに語った。
ところが、最後の章「もうひとつの焦点」で僕はこう書いてしまった。
自衛隊を戦地に派遣するとはどういうことか、これについては外交論以上によく考える必要があるだろう。彼らの命は「外交カード」ではない。東アジアの緊張緩和のためだといって、自衛隊員が命を落としでもしたら、何になるだろう。
もしかすると、この国では「戦地に人を送る」という意識が圧倒的に足りていないのではないか。
よく「これまで自衛隊員は人を殺したことがない」と誇らしげに言う人がいる。そして「彼らが人殺しのできる軍隊になってしまう」と訴える。ピントがずれている。自衛隊員が人を殺す前に、まず我々は彼らを死地に追いやっているのである。戦場に向かわせるとは、そういうことではないか。
僕たちと同じ日本人が、異郷の地で血を流す。そのこと自体への異議も、覚悟も、驚くほど耳にしない。ここまで書いてみて、不安になる。おそらく僕たちは、自分が思っている以上に戦争や外交の現実に対して盲目で、視野狭窄なようだ。
これは、そこに至るまで僕が書いてきた「空想をこねくり回した外交論」への痛烈な批判だ。集団的自衛権がどう転ぶか云々のまえに、「国民や政治家にその覚悟があるのか」を考える必要があったと気付かされる。
家族をもち、友をもつ「一人の人間」たる自衛隊員に対して「死になさい」と言い放つ覚悟があるのか。くりかえしになるが、戦地に赴かせるとは、そういうことに他ならない。
たとえば、「集団的自衛権を容認して、アメリカの派兵要求を断り切れませんでした。戦地に行ってください」と言えるか。「中国の膨張政策を抑えきれませんでした。戦地に行ってください」と言えるか。それで、自衛隊員は納得して働けるのか。
そういう視点での考えは、不十分だったと感じる。だが、とても重要なことだ。
隊員に「死になさい」と言えるか。最低でも、政治家や外交官さらに国民が死力を尽くして「武力によらない平和的解決の道」を探り、それがすんでのところで失敗してしまった…それくらいの努力を示さなければ、申し訳が立たない。
「武力」や「軍事力」という言葉によって、兵士の命は潜在化されてしまう。それで外交や安全保障を論じても、ちっとも重みがない。これは、いわゆる「平和ボケ」の悪弊かもしれない。
気軽に外交政策を語ってもいいが、そこには「自衛隊員が死地に追いやられる」という風景が埋め込まれていることを忘れてはいけない。今回も、本の最後の部分を引用して終わりにしたい。
集団的自衛権の行使に踏み切っても、犠牲になるのは自衛官であって政治家ではない。「人命軽視」「責任回避」は現代の政治家にも当てはまるのかも知れない。
昨日に続いて、もう一度書こう。あらためて考えなくてはいけない。「日本は戦争をするのか」と。
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安倍晋三首相の悲願といわれる集団的自衛権。武器輸出の解禁や日本版NSCの創設、国家安全保障基本法をめぐる議論などを背景に、今、日本が急激に変わろうとしている。政府で何が議論されているのか。それはリアルな議論なのか。自衛隊はどう受け止めているのか。長年日本の防衛を取材してきた著者による渾身の一冊。
社民党の土井たか子氏が亡くなったという。個人的に思い入れがあるわけでもないが、「護憲」の立場を貫いて日本政治を生き抜いた常人離れした人であることは、知っている。「改憲」を党是とする自民党の前に立ちはだかる姿を、すこし見てみたかった気もする。
さて、憲法。
民主党政権の時代に終止符が打たれる前から、自民党は衆院選の圧倒的勝利を見越して改憲案を出すなど「改憲」にむけて活発に活動してきた。昨年には96条の改憲を試み、今年7月には集団的自衛権行使容認の閣議決定がなされた。安倍政権によって「憲法」は半ば無理やり争点化され、変容を強いられている。
こうして思いがけず開いてしまった「集団的自衛権」の扉を前に、考えさせられる人も増えてきているだろう。「日本は戦争をするのか」、と。まさに、この表題のとおりである。
著者は集団的自衛権の行使容認に反対する立場だった。冒頭から「安倍政権が長く続けば続くほど、戦争をする可能性は高まる」と断言しており、ちょっと露骨すぎる。タイトルもそうだが、あまり旗幟鮮明すぎる文章は読者に警戒感を抱かせる。内容は興味深かったので、そこは少し残念だ。
▽「集団的自衛権、どう思いますか」
数日前、大学でアンケートへの回答を求められた。見れば学生運動団体の「生き残り」と噂されているサークルだった。暇だったので、連絡先は伏せたまま応じてみた。
「最近の政治的トピックのなかで、興味のあるものを選んでください」とあったので複数チェックをつけると、「そのなかで一番興味のあるものは」と訊かれた。僕が「集団的自衛権」と答えると、彼らは少し突っ込んできた。「集団的自衛権、どう思いますか」と。
難しい。そもそも「集団的自衛権の行使容認」だけで切りとること自体、おおきな困難だ。外交、安全保障、憲法観、政局、などに横たわる問題である以上、ひとつずつそれを検証しなければいけない。
そのときの僕の回答は、おおむね以下のとおりだった。
・そもそも軍事と外交っていうのは車輪の両輪なわけだから、集団的自衛権の行使容認だけで判断は出来ない。今回の行使容認は、安倍首相の外交いかんによって特効薬にも、劇薬にもなる。
・閣議決定という手法は立憲政治を破壊するものであり、到底正当化はできない。
・「我が国を取り巻く安全保障環境が厳しくなっている」というのは正しいようで、正しくないようでもある。具体的説明がいる。
・なぜ・どのように厳しくなっているのか、集団的自衛権を容認して、それをどう役立てるつもりなのかを知らないと、論じようがない。
ボーっと坐っていた男がいきなり饒舌に話し始めたので、彼らも驚いたらしい。アンケートが終わったら、すごすごとどこかに行ってしまった。最近の学生運動団体は根性がない。…というのは冗談で、要するに、真面目に考えても素人には限界がある問題だ、ということだ。
集団的自衛権の行使は、「何を念頭に置いているのか」によって全く違う問題になりうる。PKO活動か、中国の台頭か、テロとの戦いか、資源の争奪か…。こうした可能性を内包しているがために、建設的な検討もしにくい。抽象度の高い議論の悪弊だろう。
▽集団的自衛権=戦争か?
こうした状況下で、私たちは「集団的自衛権」そのものについて考える必要に迫られている。立憲主義に反するのは事実だが、そこはあえて措いて考えてみたい。
護憲派を標榜する人は、「教条主義」に陥りやすい。「憲法にないからダメ」という論は、いざ「改憲」という段になると役に立たない。現政権が舵を切っている以上、「集団的自衛権は安全保障政策として適当なのか」をリアリスティックに考えなければ、土俵に立てない。
色々な反論がある。行使容認への反対意見は、思いつくままに書くと以下の通りだ。
・自国と関係ない戦争に巻き込まれやすくなる
・アメリカから参戦を求められて、拒みにくくなる(イラク戦争のイギリスの例)
・「平和主義」に基づいた自衛隊のPKO活動が、理解されにくくなる
・強硬的に出ることで、アジア情勢の緊張を高める
等
対する安倍政権の説明は、はっきりいって不十分だ。「地球の裏側に行くのか」という質問への返答も政権内で統一されていないし、「国際情勢が厳しさを増している」というのも、きわめて曖昧な表現に見える。首相がよく使った具体的事案も恣意的につくりあげた感が強く、はたして個別的な立法で対処できないのかと思わされる。
そんななか、僕をふと立ち止まらせた言葉があった。安倍首相が「抑止」という概念を持ち出したのだ。
抑止。①相手が攻撃を仕掛けてきたら十分に反撃できる力を持ち、②そのことを相手が理解しているとき、相手は攻撃を思いとどまる。学術的にはそう説明される。
冷戦時の「核抑止」が代表例だ。米ソともに「一度核兵器を使用したら世界は滅ぶ」という認識を共有し、その均衡の上で平和が成立した。相互確証破壊、マッド(MAD=Mutual Assured Dstruction)と表現される。
日本が集団的自衛権の行使を解禁することで、国際社会における「実力による現状変更」を許さないというアピールになるというのが、安倍政権の論法だと考えてよさそうだ。日本は本気だと思わせることで、逆に相手の膨張主義を抑えて戦争を防ぐ。素人目には、これも一理あるように見える。
実際、そうした例はあった。「ニクソンとキッシンジャー」の書評で書いたが、ニクソン政権は軍備拡張をする一方でソ連首脳と連絡を密にとり、デタントを実現させている。ニクソンの軍事に強硬的な姿勢も、当時は左派から大いに批判されたらしい。
要するに、「集団的自衛権=戦争」は必ずしも成り立たない。さらに重要なことには、それが戦争を導くかさらなる安定を導くかは、ひとえに外交にかかっているということだ。外交が効果的に動いてはじめて、その後ろにある「軍事」が効果的な影となって相手の眼に映るようになる。
安倍首相は「地球儀俯瞰外交」を掲げて多くの国を外遊している。「世界の安定に積極的に貢献する日本」というイメージを広めることは、大いに意義がありそうだ。「積極的平和主義」というのは耳触りがいいだけの空疎な単語にすぎないが、やっていることには期待が持てる。
こうして諸外国との連携が強まると、膠着状態の東アジアの展望も開けるかもしれない。地球儀俯瞰外交が上手くいけば、中韓を逆に包囲するかたちになる。彼らは対話のテーブルにつかざるを得なくなるかも知れない。
安倍政権も、それが分かっているのか。首相は8月15日の靖国参拝を見送った。だけでなく、外相などを通じて日中首脳会談の道を模索している。緊張緩和に向けて、非常に良い傾向にあると言えそうだ。
アベノミクスや集団的自衛権の閣議決定で、日本の安倍政権が「本気」であると伝わったのかもしれない。こうして再び東アジアに対話の橋が架かるようなことがあれば、それは紛れもなく「立憲主義を踏みにじった首相」の功績になるだろう。左派の人は、そのあたりを理解しなければいけない。
▽もうひとつの焦点
長大な脱線になってしまった。本の前半はほとんど「お決まり」の安倍政権批判だったので、それに対する返答として以上のように綴った。
ただ、本書の面白いところは後半にあった。防衛省にある「次の朝鮮戦争」を想定した戦術を記した文書についてや、実際に派遣される自衛隊の活動についての箇所は、とても興味深かった。
自衛隊を戦地に派遣するとはどういうことか、これについては外交論以上によく考える必要があるだろう。彼らの命は「外交カード」ではない。東アジアの緊張緩和のためだといって、自衛隊員が命を落としでもしたら、何になるだろう。
もしかすると、この国では「戦地に人を送る」という意識が圧倒的に足りていないのではないか。
よく「これまで自衛隊員は人を殺したことがない」と誇らしげに言う人がいる。そして「彼らが人殺しのできる軍隊になってしまう」と訴える。ピントがずれている。自衛隊員が人を殺す前に、まず我々は彼らを死地に追いやっているのである。戦場に向かわせるとは、そういうことではないか。
僕たちと同じ日本人が、異郷の地で血を流す。そのこと自体への異議も、覚悟も、驚くほど耳にしない。ここまで書いてみて、不安になる。おそらく僕たちは、自分が思っている以上に戦争や外交の現実に対して盲目で、視野狭窄なようだ。
特に面白いと感じたこともなかったこの本だが、自衛隊についての部分はよく書かれていた。彼らの命について考えることは、外交論をこねくりまわすことよりもずっと「現実的」だし、「必要」だろう。その一点が学べただけでも、有益であったと感じる。
集団的自衛権の行使に踏み切っても、犠牲になるのは自衛官であって政治家ではない。「人命軽視」「責任回避」は現代の政治家にも当てはまるのかも知れない。
私たちも、あらためて考えなくてはいけない。「日本は戦争をするのか」と。


1985年、御巣鷹山に未曾有の航空機事故発生。衝立岩登攀を予定していた地元紙の遊軍記者、悠木和雄が全権デスクに任命される。一方、共に登る予定だった同僚は病院に搬送されていた。組織の相剋、親子の葛藤、同僚の謎めいた言葉、報道とは…。あらゆる場面で己を試され篩にかけられる、著者渾身の傑作長編。
▽記者の時間軸
日付が変わる。今日とはちがう「今日」が、顔をのぞかせる。新聞記者にとっては、まったく新しい戦いの幕開けを意味するものだ。いまごろ次の記事のために、夜討ち取材をしているだろう。
記者とは、そういう奇妙な生き物だ。彼らは待ったなしで「今日」と対峙し、24時間以内に結果を出さなければいけない。「日々」という流れのなかを生きてはいるものの、そこには〆切という名の絶対的な断絶がある。
「一本特ダネを書いても偉そうにできるのは3日間だけ」と聞いたことがある。過去の栄光にしがみつくには、現場を走る記者は忙しすぎる。
無意味な、内輪だけでの競争に見えるかもしれない。特ダネが欲しかったり、抜かれるのが怖いからといって、許されざるモラル違反も起こる。でも、彼らはその奇妙なレースから降りられない。
ひとつには、矜持がある。新聞は商品だ。商品を買ってくれた人に、特別な情報を知らせる。それはひとつの「差別化」であり、そこに「新しいものを見聞きして記す者」としてのプライドが宿る。
また、スクープ競争は独自調査への大きな誘因となる。「スクープ競争は、往々にして真の意味でのスクープに繋がる」と読んだことがある。競争に乗っかることで、記者たちは全力で仕事にあたり、その力量を鍛えられる。記者にとっても、「日本で自分しか知らないモノ」を掴んだという興奮はたまらないものらしい。
こうした理由から、報道の世界における競争はなくなりそうにない。立ち止まることもできず、そもそも立ち止まることを考える暇もなく、記者という生き物は「今日」のために駆けずり回るのである。
クライマーズ・ハイは、1985年の日航機墜落事故を題材にしている。世界最大の飛行機事故を前に、地元紙である北関東新聞の記者たちは否応なく熾烈な競争に巻き込まれていく。
たまたま墜落したのが群馬県だった「もらい事故」だという意識もある反面、「全国紙に後れを取るわけにはいかぬ」という焦りが、同新聞社に湧きおこる。「現場を見て記事にしたい」という記者の本能が烈しく燃え上がり、彼らの矜持は「組織の論理」と激しく衝突する。混迷を極めた状況で、時計だけがいつも通りに時間を刻んでいく…。
そんな修羅場に「全権デスク」として挑んだ主人公は、少しずつ事件や記者という職業、そして自分自身と向き合っていく。奔走を続ける「ジャーナリスト」たちの群像をを軸にして、巧みに人間模様を展開した一冊だ。
▽クライマーズ・ハイ
生まれてから死ぬまで懸命に走り続ける。転んでも、傷ついても、たとえ敗北を喫しようとも、また立ち上がり走り続ける。
クライマーズ・ハイ。一心に上を見上げ、脇目も振らずにただひたすら登り続ける。
物語のもっとも大事なところを書いてしまったが、この小説はそうした主人公の生きざまを描いたものだ。昨日の勝利や敗北に囚われていては、「今日」と向き合うことが出来ない。つねに登っていなければいけない。それが、日々ゼロから紙面を作り上げる人間の宿命である。
もっとも、これは記者に対してやや肩入れをしすぎた読み方だ。記者以外の人間も、やはり真摯に「今日」や「仕事」と闘わなければいけないことには変わりないだろう。
同じ場面を与えられることは二度とない。その一瞬一瞬に、人の生きざまは決まるのだ。
反省はしても、悔いてはいけない。そうしているあいだに、新しい「今日」が私たちに容赦なく降りかかってくる。過去の決断に囚われすぎると、次の決断ができなくなる。ちょっと失敗したと思っても、命ある限りは岩壁を見上げ、次の一手を考えなければいけない。
真摯に生きる人は、誰もが「クライマーズ・ハイ」になる。迷いが生じてもいい、降りたいなら降りて別の道を選んでもいい。ただ、降りないと決めたのなら、上を見つめ続けなければいけない。
▽個人的所感
本は、読む人の性格や状況によって様々な感銘を与える。もちろん、一般的にも「クライマーズ・ハイ」は登場人物の息遣いが感じられるような臨場感を備え、ストーリー構成も完成された傑作であることには違いない。
だが、この本はそれ以上に特別な意味を僕に投げかけてきた。来年からこんなところで働くんだという実感が芽生え、全身の血が逆流するような興奮を覚えた。ページを繰る指は止まらず、登場人物たちの力強い言葉に出会うたび、背筋が震えた。
感情移入は本を味わううえで不可欠な過程に違いないが、それが過ぎると客観的に読めなくなる。優秀な医師でも身内の手術の執刀はできないように、あまりにも自分に重い感傷を与えた作品について、僕は上手に語れる自信がない。
いま言えることは、「クライマーズ・ハイ」という作品が好きだということだけだ。大の大人が汗と泥にまみれて、罵声の応酬をし、そのかたわらで彼らは静かに煩悶する。そんなナマな環境が、正義や理想が叩かれ篩にかけられる雰囲気が、どこかで僕の琴線に触れた。
「青くささ」が懸命に闘う小説が、どうやら僕は好きらしい。司馬遼太郎の「峠」も、「燃えよ剣」も、そうだった。いずれも僕にとって最高の「座右の書」だ。「クライマーズ・ハイ」も、その列に並ぶことになる。
「いっておくが青くささのない人間はだめだ。枯れて物わかりがよくなった人間が幾千万おっても、いまの世はどどうにもならぬ」
「峠」の主人公、河合継之助はこう言った。青くささをもって、悲惨な現実に体当たりで挑む。青くささを失わずに、いつまでも登り続ける。記者が世の中を切り開いていくは、これしかない。そんな確信が、僕の胸に烈しく迫ってきた。
◆気に入ったフレーズ
心に火が点いていた。
現場に飛びたい。
〈世界最大の航空事故がすぐそばで起こってるんですよ。ウチであろうが長野であろうが記者なら現場を踏むでしょうが〉
現場なのだ。
命令や指示を幾ら出そうが、事件をやったことにはならない。記者職が染みついた人間は、自分が現場で体感したことしか語ることも誇ることもできない。
山も深く傷ついていた。引き受けたのだ。他のどの山でもなく、世界最大の事故を、あの御巣鷹山が引き受けたのだ。
「我々の想像を超えた現場だと思います。わからないものを取材させるからには、器を大きく構えるしかないということです」
「八十行でも百行でも書きたいだけ書け。お前が見てきたものをちゃんと読ませろ」
同じ記者の原稿を二度殺したデスクについて行く兵隊など一人もいやしない。
「新聞は生き物ですからね」
「読者が読もうが読むまいが、書いて、作って、配るのが新聞だろうが。五百二十人死んだら五百二十本泣かせを書く。そういう仕事じゃねえか」
「日航をトップから外すわけにはいきまけん。五百二十人は群馬で死んだんです」
わからないことを想像で埋めていいのなら、そもそも記者という職業は不要だろうと思った。
意思ある人間はロープなどなくても必ず這い上がってくる。
最上級の抜きネタに贅肉はいらない。骨格だけをひたすら際立たせるのだ。
同じ場面を与えられることは二度とない。その一瞬一瞬に、人の生きざまは決まるのだ。
「ひょっとしたらこれがこの世で最後の会話になる。無意識にそう思っているからですよ。山って、そういう場所ですから」
「逃げるわけにはいかないよ。ジャンボ機は間違いなく群馬に落ちたんだからね」
生まれてから死ぬまで懸命に走り続ける。転んでも、傷ついても、たとえ敗北を喫しようとも、また立ち上がり走り続ける。
クライマーズ・ハイ。一心に上を見上げ、脇目も振らずにただひたすら登り続ける。そんな一生を送れたらいいと思うようになった。


平安の巨人空海の思想と生涯、その時代風景を照射して、日本が生んだ最初の人類普遍の天才の実像に迫る。大陸文明と日本文明の結びつきを達成した空海は、哲学宗教文学教育、医療施薬から土木灌漑建築まで、八面六臂の活躍を続ける。構想十余年、著者積年のテーマに挑む司馬文学の記念碑的大作。
数日前、「日本辺境論」という本を読んだ。日本人は地理・歴史的に「辺境の人」であり、その枠から逃れることができないという。
平安時代、そんな辺境が一人の天才を生んだ。その器量は唐の都・長安でも広く認められ、強靭な思惟は普遍的世界を自在に旅し「辺境」を克服した。だけではなく、巨大な密教の体系を日本文化に植え付けた。その人、真言宗の開祖、空海である。
筆者は、空海において、ごくばく然と天才の成立ということを考えている。
司馬遼太郎は、「空海の実像」に迫るというより、もっとひろく「空海のいる風景」のようなものにかすることさえできれば、という心境だったようだ。そんな気分は、表題にも表れている。
▽見えない巨人
大きなもの、というのは往々にしてその本質を見せようとしない。別に隠しているわけではなくても、人類が自らの足元にある大地を「球形である」となかなか喝破できなかったように、卑小すぎる観測者たちが勝手に見誤ってしまうのだ。
かれは、日本文化のもっとも重要な部分をひとりで創設したのではないかと思えるほどにさまざまなことをした。
司馬にこう評されている空海もまた、そんな巨大な存在に違いない。日本文化に計り知れない影響を及ぼした巨人は、その大きさゆえに、正確な観測を許さない。
彼が密教という世界をきわめた人間であったことも、その「捉えがたさ」を助長させただろう。密教は言葉を超越した体験や思念を通じて悟りを開くものであり、書面による教えを軽視していた。この点、顕教の世界と比して資料が残りにくいことは容易に想像がつく。
この物語に登場する「空海」は極めてぼんやりしている。司馬のたくましい想像力をもってしても、その輪郭すら捉えきれていない。
空海とは、一途に仏教の道を歩み続けた僧であり、巧みに智略をめぐらせた山師であり、それと同時に詩作・作文や語学、灌漑などあらゆる分野に精通した天才であった。それらすべてが本物の空海のようで、すべてが偽物のようでもある。
一例をあげてみる。「弘法も筆の誤り」という言葉がある。「弘法大師」とはたぐいまれな書道家で知られた空海の別名だが、そんな彼の筆跡もまた、実に捉えがたいものだった。手紙を送る相手や場所によって、彼の書体は自在に変化したという。空海の姿は、そこでも追手を拒んでいる。
この本を読むと、司馬遼太郎が「あくまで想像である」という姿勢を貫いていることがよくわかる。小説という形式で空海に迫っても、それが事実に基づかなければ彼の本当の姿からは大きく逸れてしまう。その危うさに細心の注意を払っていたのが伝わってきた。
私などにしてみれば、結局この本を読んでも空海の袈裟に触れる程度のことはできても、とても「風景」という全体像は掴めなかった。一方で、書いている司馬遼太郎は何かを捉えたかのようである。空海の筆跡に触れ、現場を見、膨大な資料にあたって、はじめて手に入れられた実感だろう。
この点、面白い。この小説において「空海の風景」は、けっきょく司馬遼太郎ひとりだけが捉えられたという観がある。この現象自体が、多分に密教的ではないか。
名文家で知られる空海の忠告が、ふと頭をよぎる。
文ハ是レ槽柏。文ハ是レ瓦礫ナリ。槽柏瓦礫ヲ受クレバ、則チ粋実至実ヲ失フ
写経で教えを究めようとする最澄に対する手紙の一節である。文章では本当に大切なものや、実感を十分に伝えることはできないと説いている。
空海は、遺された資料を読み、ゆかりの地を訪ね、多くの識者に話を聞いた筆者の努力に報いて、司馬にだけその「風景」をそっと見せたのではないかと思われる。
「本を読んだ程度で私を分かったつもりになられては困る」。
「風景」にたどり着けずじまいだった私のような読者には、空海のそんな忠告が突き刺さるように感じる。
◆気に入ったフレーズ
筆者は、空海において、ごくばく然と天才の成立ということを考えている。
すでに普遍的世界を知ってしまった空海には、それが日本であれ唐であれ、国家というものは指の腹にのせるほどにちっぽけな存在になってしまっていた。かれにとって国家は使用するべきものであり、追い使うべきものであった。
空海だけが日本の歴史のなかで民族社会的な存在でなく、人類的な存在だったということがいえるのではないか。
思想は、その結純度が高くなればなるほど、その思想に無理解か、もしくは相反するものに対して物理的なまでに拒絶反応を示さざるをえない。
「古の人は道のために道を求む。今の人は名利のために求む」
かれは、日本文化のもっとも重要な部分をひとりで創設したのではないかと思えるほどにさまざまなことをした。


要点
・この本の人気の秘密
日本人とは辺境人である…「日本人とは何ものか」という大きな問いに、著者は正面から答える。常にどこかに「世界の中心」を必要とする辺境の民、それが日本人なのだ、と。日露戦争から太平洋戦争までは、辺境人が自らの特性を忘れた特異な時期だった。多様なテーマを自在に扱いつつ日本を論じる。読みだしたら止まらない、日本論の金字塔。
▽「日本辺境論」という本
現代文を教えていた高校の担任の先生を訪問したとき、「なにか面白い本はありますか」と訊ねてみた。先生が出してきたのは「ふしぎなキリスト教」、「社会を変えるには」、そしてこの「日本辺境論」だった。「社会を変えるには」しか読んだことがなかったので、さっそく本屋で買って帰った。
帯には「新書大賞2010 第一位」と堂々と書かれている。なぜいままで読まなかったのだろうと、自分を訝しく思った。おそらく「新潮新書」に対してアレルギーがあるのだろう。岩波新書や中公新書、講談社現代新書などのほうが、学生の肌に合うようなものが多い。
読み始めると、確かに面白かった。ぐんぐん引き込まれる。ページを繰る指が止まらない。さっきまで100ページだったのが、もう200ページ目に到達している。あっという間に終わった。
が、奇妙なことに「読後感」がなかった。
本は、表題のとおり「日本人は辺境人である」ということを論じている。これまで何度も言われてきたであろう、「空気を読んじゃう」とか「確固とした自分をもたない」とかいった日本人の本質論を上書きしたものにすぎない。
だからだろうか。「難しい概念や事例を咀嚼した後の達成感」も、「あらたな知識を得ることが出来た満腹感」も、この本からは得られなかった。ただ、「読んでいる間はとても楽しかった」という実感だけが残った。
幽霊に会ったのか、あるいは、夢を見ていたのか。ひょっとすると、僕が読んだ本は存在していないのかもしれない。本当に目新しさのない内容だったのに、あの楽しさは何だったのだろう。
風が吹き抜けたような感覚しか伴わない、軽い読書。ところがその質量を持たない風が、僕の大事な何かを確かに動かしたようなのである。
▽「目新しさ」のなさ
冒頭には「辺境人の定義」としてこう書かれている。
ここではないどこか、外部のどこかに、世界の中心たる「絶対的価値」がある。それにどうすれば近づけるか、どうすれば遠のくのか、専らその意識に基づいて思考と行動が決定されている。
まさに、よく言われる「日本人の特性」だ。以降、著者は「日本人は辺境人である」ということを実証し、論じていく。
本の最後の結論には、こう書かれている。
さしあたり私たちにできるのは「なるほど、そういうものか」と静かに事態を受け止めて、私たちの国の独特な文化の構造と機能について、できる限り価値中立的で冷静な観察を行うことではないかと思います。
言われなくてもわかってるよ、という感じだろう。その通りで、この本は200ページ余りもしっかりと書かれているにもかかわらず、序論も結論も大したことはない。その「目新しさ」のなさが、上に述べた「読後感のなさ」に繋がっている。
そういう本なのである。それが僕を二時間近く魅了し、2010年の新書大賞をとってしまった。幽霊というより、化け物と形容した方がいいかもしれない。
▽なぜこの本が絶賛されたか
なぜ「スッカスカで質量を持たない本」が人気を博したか。それは図らずも本の中で説明されている。著者が「国民文学」を語ったときの一節である。
国民性の「型」にぴたりとはまらないと自国民の心の琴線に触れることはできない。
まさにこの本も、そのコンテンツのためではなく、著者が絶えず「日本人」の心の琴線に触れ続けたために評価されたものだと言えないか。
「日本人は辺境人である」という命題から始まり発展した議論が、いちいち日本人の持つ劣等感や自負など「国民感情のツボ」を押さえた。読者は「そうそう、そうなんだよ」とか、「まったく、困ったところだよなぁ」とか感じながら読み進める。
重要なのは、著者が「辺境人」の良い点を挙げても悪い点を挙げても、すべて読者の中では「共感」という感情で処理されているところである。国民の琴線に絶えず触れながら決して逆撫でしない、そんな著者の巧みな筆致にこそ、本の凄まじさが宿っている。だから、この本を論じるうえで、内容の検証はほとんど意味をなさない。
内田樹、この人の名前は憶えておきたい。うすら寒いほど、人心を掴む書き方をしてくる。この本は教養の新書ではなく、共感の新書なのだ。
◆気に入ったフレーズ
「どういうスケールで対象を見るか」という問いは、本来あらゆる知的活動の始点に立てられなければならないはずのものです。
日本文化というのはどこかに源泉や祖型があるわけではなく、「日本文化とは何か」というエンドレスの問いのかたちでしか存在しません。
「私達はたえず外を向いてきょろきょろして新しいものを外なる世界に求めながら、そういうきょろきょろしている自分自身は一向に変わらない」(丸山眞男)
もっぱら外来の思想や方法の影響を一方的に受容することしかできない集団が、その集団の同一性を保持しようとしたら、アイデンティティの次数をひとつ繰り上げるしかない。
私たちの国 は理念に基づいて作られたものではないからです。私たちには立ち返るべき初期設定がないのです。
まずよその国がある。よその国との関係で自国の相対的地位がさだまる。
ここではないどこか、外部のどこかに、世界の中心たる「絶対的価値」がある。それにどうすれば近づけるか、どうすれば遠のくのか、専らその意識に基づいて思考と行動が決定されている。(辺境人の定義)
現実主義者は既成事実しか見ない。状況をおのれの発意によって変えることを彼らはしません。
思想と戦略がまずあって、それが戦争を領導するのだと考える人がいない。本当にいないのです。
「非現実」を技巧した「現実主義」、「無知」 を装った「狡知」というものがありうる。それをこれほど無意識的に操作できる国民が日本人の他にあるでしょうか。
人々が無知であるのは、自ら進んで情報に耳を塞ぎ、無知のままでいることを欲望する場合だけです。
幕末の日本人に要求されたのは「世界標準にキャッチアップすること」であり、それに対して、明治末年の日本人に要求されたのは「世界標準を追い抜くこと」であったということ。
日露戦争後、満韓で日本がしたことは「ロシアが日露戦争に勝った場合にしそうなこと」を想像的に再演したものです。
「世界標準に準拠してふるまうことはできるが、世界標準を新たに設定することはできない」、これが辺境の限界で す。
国民性の「型」にぴたりとはまらないと自国民の心の琴線に触れることはできない。
誰もが、「本当の日本人はどこにいるのか」と「きょろきょろ」訪ね歩いている。ここに欠けているのは「私が日本人である。日本人を知りたければ私を見ろ」とすぱっと言い切る態度です。
主張するだけで妥協できないのは、それが自分の意見ではないからです。
辺境人にとって「起源からの遅れ」はその本態です。
私たち日本人は学ぶことについて世界でもっとも効率的な装置を開発した国民です。
「道」という概念は実は「成就」という概念とうまく整合しないのです。
辺境人の最大の 弱点は「私は辺境人であるがゆえに未熟であり、無知であり、それゆえ正しく導かれなければならない」という論理形式を手放せない点にあります。
日本の辺境性をかたちづくっているのは日本語という言語そのものです。


要点
・天才カポーティが心血を注いだ傑作
・「事件」を物語にすることのむずかしさ
・事件の元凶は何だったのか
カンザス州の片田舎で起きた一家4人惨殺事件。被害者は皆ロープで縛られ、至近距離から散弾銃で射殺されていた。このあまりにも惨い犯行に、著者は5年余りの歳月を費やして綿密な取材を遂行。そして犯人2名が絞首刑に処せられるまでを見届けた。捜査の手法、犯罪者の心理、死刑制度の是非、そして取材者のモラル…。様々な物議をかもした、衝撃のノンフィクション・ノベル。
「冷血」は、「早熟の天才」と呼ばれた作家トルーマン・カポーティがその取材と執筆に6年を費やした作品である。以降、彼は長編を書かなかったというから、まさに「天才の心血が注がれた」一冊だと言えよう。
▽「事件」を描く物語
この本は「ノンフィクション・ノベル」というジャンルの先駆だとされる。実際に起こった事件を題材に、取材に立脚して物語を紡いだものだ。事実が持っている面白さを十分に引き出すため、高度な感性、情報の取捨選択能力、そして構成能力が求められる。
この作品の凄さを味わうために、まずは「事件」というものを考えてみたい。
そもそも「事件」とは誰のものだろうか。被害者のものだろうか。遺族のものだろうか。加害者のものだろうか。真相を突き止めた刑事のものだろうか。それとも、それを語り継ぐ人びとのものだろうか。普通に考えれば、もっとも直接的な影響を受けた被害者か、加害者のものだと見なされるかもしれない。
しかし、実際のところ「事件」とは誰のものでもないと同時に、すべての人のものでもある。「個人的出来事」の範疇を超えて社会的意味を持っているものを、「事件」と呼ぶからだ。
ゆえに、「事件」とは生来的に重層的なものである。それは被害者と加害者の「プライベートな」話に終始しない。そこには幾分かの普遍性が潜んでいて、多くの人に影響を及ぼしている。
だから、この作品のように「事件」を題材とする本は、平面的にはなりえない。被害者と加害者はもちろん、遺族や近隣住民、事件を追う刑事、裁判に関わる検事や弁護士、さらには加害者の知り合いや親戚まで、それぞれの視点に注意を払う必要がある。それらすべてが「事件の実相」なのだ。
結果として、物語は多面体のようなかたちになる。言うだけなら簡単だが、これは並大抵のことではない。色々な立場の人の観方を収めるわけだから、よほど注意しないと物語の調和は崩壊する。ひとつでも角の大きさ、面の広さ、辺の長さを誤れば、多面体は完成しない。
カポーティの「冷血」が尋常でない点は、まさにそういうところにある。さまざまな証言や記述を引用しながら、そしてそのいくつかは決して相容れないように見えるにもかかわらず、一つの物語としてスッとまとめあげている。バラバラに見えるたくさんの事実が、読了後には美しい多面体を形成している。奇術というほかない。
▽事件は誰のものだったか?
そのうえで、敢えてもういちど問いたい。「事件は誰のものだったのか?」と。おそらく、カポーティも取材をしながら必死に探したはずだ。事件の元凶を、最大の「犯人」を。
もちろん、基本的には加害者の2人であると考えられよう。だが、一方のディックは口先だけの空疎な「つまらんやつ」だった。彼にはあれほど惨い殺人はできなかったと思われる。
鍵は、もう一方のペリー・スミスが握っている。彼は心優しい人間で、最初からこの「計画」に乗り気でなかった。被害者を殺すつもりも、毛頭なかった。辛いだろうからと、拘束された被害者のために椅子やカーペットを移動させていた。僕はインターネットで実際に彼の写真を見たが、人の良さそうな笑みが弾ける、画に描いたような「いい人」という印象だった。
ところが事件の夜、彼は豹変した。孤独で、愛されることなく育ったペリーの中に潜んでいた衝動的な凶暴性が、覚醒したのである。
引用された「理由なき殺人」に関する精神医学の資料も、その憶測を補完する。ペリーもこの「典型例」として位置づけられたものだ。少し読みにくいが、丁寧に読めば何を言っているかわかると思う。
無意味な殺人が起きるとき、それは加害者の中で被害者と接触する前から増大しつつあった緊張と混乱の最終的な結果と見なされる。被害者は加害者の無意識の葛藤の中にはめこまれ、そうとは気づかないまま、その殺人の潜在力に点火するのに役立ってしまうのである。
このように理由なく目覚めたそれは、ペリーの精神を酔わせ、四肢を支配した。供述のとき、彼はこう言って首を傾げるのである。
「それにしても、なぜ撃ったのか不思議だな」。
ここまで調べ上げたうえで、多くの証言で構成された物語を綴じるにあたりカポーティは事件のもっとも決定的な元凶を表題に据えた。
「冷たい血」と書いて、冷血。それが4人を惨殺し、ペリー自身を含む2人を首吊り台へと追いやったのだ、と。

243.かもめのジョナサン (リチャード・バック)

要点
・高校卒業の時に渡された本
・ジョナサンは特別じゃない
・三つのステージと、三つのメッセージ
・「かもめのジョナサン」とはなにか
重要なのは食べることではなくて、飛ぶことだ。いかに速く飛ぶかということだ…。飛ぶことの歓びを味わうために、自由と愛することの真の意味を知るために、光り輝く蒼穹の果てまで飛んでゆく一羽のかもめジョナサン・リヴィングストン。群れを追放された異端のジョナサンは、強い意志と静かな勇気をもって、今日もスピードの限界に挑戦する。夢と幻想のあふれる現代の寓話。
▽本との出会い
人生のなかで、特別な本に出会うことがある。僕にとって、「かもめのジョナサン」はそのうちの一つだ。高校を卒業する日、三年間お世話になった担任の先生がクラス全員に渡した本だった。
ストーリーの合間にかもめの写真が綴じられた、薄い一冊だ。貰ったとき、「いつでも読めるな」と思った。その「いつでも」が、一年経ち二年経ち、今日になった。かえって良かったかもしれない。昔の僕なら、ざぁっと読んで深く考えず、そのまま本棚に収められて、おしまいだったかもしれないから。
長いあいだ心にひっかかっていたその本を、昨日やっと開いてみた。一枚目に「祝卒業」とあり、僕の名前と先生の名前がペンで書いてあった。遅くなってしまったなと、すこし申し訳なく感じた。
そんなわけで、僕にとっての「かもめのジョナサン」は「先生からもらった本」という意味合いが強い。かつてヒッピーの間で広く読まれたとか、宗教や自由の概念が書かれているとかいう解説よりも、「先生がこの本を選んで、渡してくれた」という事実のほうが、僕に多くのことを考えさせてくれるのである。
現代文を教えていた先生が、なぜ数ある本の中でこれを選んだのか。それを知りたくて、僕はページを繰っていた。
▽本のメッセージ・ひとつめ
「食べることより飛ぶこと」という考え方や、愛や自由を説いたりすることから、多くの読者がジョナサンを特別な存在だと思っている。しかし、決してそんなことはない。
われらすべての心に棲む
かもめのジョナサンに
冒頭にはこうある。遥かな高みにたどり着いたかに見えるジョナサンは、あなたのなかにも宿っているという。このセンテンスから、解釈を始めるべきだろう。
この作品で本当に大切なのは愛でも自由でも、宗教でもないだろう。それらは高邁な言葉であるだけに、身近に感じられない。重要なのは我々の心に棲んでいるもの、すなわち「夢」であり、「好き」という感情の方ではないか。
この本のメッセージを「飛ぶこと(夢)のために食(現実)を捨てろ」と解釈するのは、真面目すぎる。そういう本が、延々と幅広く読み継がれることはないだろう。親しまれる本は、自然に人が寄り集まる大樹のような、優しさと寛大さをもっているものだ。
ジョナサンは「好きなもののために食うな」と迫っているわけではない。彼の姿は、「三度の飯より好きなものがあれば、とことんやってみろ」と語っているにすぎない。もちろん「三度の飯より~」も比喩表現だ。その程度でいい。これが、本の最初のメッセージだと考える。
それがどれほど不毛に見えても、他人から嘲笑されても、好きであること。爪楊枝で模型をつくってもいいし、自分の仕事に徹底的に打ち込んでもいい。何でもいい。人には、どんなにくだらないものでも好きなれる権利がある。それを担保するのが、自由だ。
誰にだって好きなことはある。それは、その人がジョナサンになるための”芽”のようなものだ。大切なのは自分の「好き」を疑わずにいること。ジョナサンが「飛ぶ」喜びを見出し、追放されても逞しく生きたPart1から読み取れる。
▽本のメッセージ・ふたつめ
Part2で、ジョナサンは「飛ぶ」ことを追求するより高次な集団に属していた。プロの世界である。「好き」を追求すれば、そのうち必ず出会うことになる世界だ。
自分よりも上手に飛べる先輩から訓練を受け、ジョナサンはぐんぐん上達する。やがて彼はチャンという長老かもめと親しくなる。チャンは飛ぶことを究めた結果、瞬間移動ができるようになっただけでなく、真の自由や愛を手に入れた。中島敦の「名人伝」みたいだと、ちょっと思った。
神学じみた展開に拒絶反応を起こしてしまう読者もいるようだが、あくまで細事にこだわらず、メッセージを読み取ってみる。
「どんなことでも、突き詰めれば必ず何らかの真理に到達する」。
もちろん、それが本当に「愛」や「自由」に繋がるかは別の話だ。「好き」を根気よく磨く過程で、人はいろいろ大切なものに出会う。
個人的な話になるが、僕も「野球」や「読書」など、傍目から見ればくだらない趣味に熱中してきた。そのうちいくつかは上手くいって、いくつかは全然ダメだった。でも、「好きだな」と感じたものについて研鑽を積む過程で、いろんなことを知り、感じ、今の自分につながった。
よくスポーツ選手が「感謝」を口にするだろう。教育としての部活の重要性が訴えられているだろう。そんな具合で、一般的にも「好き」を究める過程で人間として大切な真理に触れることは多いと考えられている。
さて、厳しい鍛錬の末に「真理」を掴んだらしいジョナサンは、最後に自らを追放した故郷へ戻る選択をする。「ひとり」で生きてきた彼が、「仲間でもない仲間」のもとに帰る。そうして物語はPart3に突入する。
▽本のメッセージ・みっつめ
彼はかつての群れに帰り、それぞれが「好き」なことを追及するよう伝え、教育する。物語が啓蒙的になってくるが、仕方ない。ジョナサンは一度高みに到達したのだから。
「なにかを究めたら、次の世代を導いてやれ」というのが、最後のメッセージだろう。真理を見つけたら、自分の専有物にするのではなく、人に伝えてやる。何世代かを経るうちに、やがてジョナサンよりも上手に飛べるかもめも出てくるだろう。その可能性を、閉ざさないために。
物語の最後に、ジョナサンはいなくなる。しかしフレッチャーという優秀な後継者が残った。彼の真理のほとんどがその後輩に伝わったことを知り、ジョナサンは新たな旅に出たのである。
ゲーテの「ファウスト」のようだった。悪魔との契約で若返り、すべての真理を掴んだファウストも、最後に将来の人びとのための土地をつくりあげて自ら死を選んでいた。
人間もカモメも、時間を遡れない生物にとって、「希望」というのは将来にしか存在しえない。自分を鍛え上げたあとは、次の「自分のような若者」のために何かを残してやりなさい。ジョナサンがそう語りかけてくるように感じた。
▽「かもめのジョナサン」とは何か
最初に言ったように、この本は高校の担任の先生から渡された本だ。これから大学に入って「好き」をそれぞれ磨いていこう、という卒業生に託されたものだった。この本でいうならば、僕たちはPart1のジョナサンだった。
一方で「教師」という仕事は、Part3に相当する。若者をたくさん教育していくうちに、先生もジョナサンと通じるものをたくさん感じてきたのかもしれない。
学校とは本来、そんな両者の幸福な交錯である。この本を読んで、かつての自分がどれほど素敵な環境にいたかを思い知らされた。
同時に、僕の心に棲むジョナサンはもっと飛びたいと訴える。「好き」を、まだまだ追及し足りない。知りたいこと、達成したいことが山ほどある。だから僕は、プロの道を志した。
そしていつか、自分が何かを掴めたとき、そのときはきっと、若い人のために何かをするんだろうと思う。もちろん僕の人生が本格的にPart3を迎えるのは、まだまだ先のことである。
結局、この本は人生の縮図なのである。なんでも好きなことを究められる自由を喜び、満喫し、そして将来に繋ぐという、誰もが辿る人生の。心に宿るジョナサンが、いつか僕を褒めてくれる日が来るといい。


要点
・官邸主導の政治をめぐる現状
・マスメディアの問題点
・「正論の言いっぱなし」による弊害とは
憲法改正、集団的自衛権、秘密保護法、靖国参拝、アベノミクス、対中・対米外交…。新聞は、それらをどのように報じた(報じなかった)のか。主要紙は「読売・産経・日経」vs「朝日・毎日・東京」という構図で分断され、相反する主張や論調が日々飛び交う中で、私たちは何を信じrばいいのか?
第二次安倍政権についての著作、ふたつめ。小泉政権以来の「ワンフレーズ・ポリティクス」や「YES/NOへの争点単純化」という風潮に、ジャーナリストたちもよほど堪えているらしい。昨日読んだ「安倍政権の罠」もそうだが、新聞やテレビの報道では不十分だからと、現政権を俯瞰するような書籍が眼につくようになった。
▽後手後手に回るマスメディア
新聞やテレビの第一義的な使命は「いま何が起きているか」を正確に報じることである。しかし、そこには「紙面の大きさ」や「番組の尺」という大きな制約がある。
マスメディアが膨大な情報を「漏らさず」その中に詰め込もうとすると、必然的にその中身は浅く、簡略なものになっていく。政治家の端的なワンフレーズや、分かりやすい二項対立の構図に食いつくようになる。その過程で、多様な見解や解決の可能性は蓋をされてしまう。
こうした傾向は今に始まったことではないのだが、強力な「官邸主導」の体制を築き上げた安倍政権を迎えていよいよ顕著になりつつある。
国家安全保障局が設置され特定秘密保護法が成立したかと思えば、96条の改憲論議が持ち上がり、いつのまにか武器輸出三原則は変容。TPP交渉、首相の外遊、アベノミクスと経済、原発およびエネルギー計画などを注視している間に、今度は集団的自衛権の行使容認が閣議決定。落ち着いたと思ったら、すぐ内閣改造…。
次々と政治課題に手を出す安倍政権を前に、マスメディアは完全に後手後手に回っている。そうして苦しい状況の中で種々の政策を論じているうちに、いつのまにか「賛成か反対」という単純な構図が横行し始めたようだ。
とにかく、せわしない。せわしないだけでなく、政権が着手している課題は、そのスピードとは不釣り合いなほどに重大なものばかりだ。昨日も書いたが、「国家百年の計を来月までに作り上げる」勢いの、まるで革命政府のそれのような忙しさなのである。
著者のようなジャーナリストたちが「本」という媒体を選択して執筆しはじめているのも、半ば必然的だろう。書籍なら紙面や番組のような制約は存在せず、複雑な事情はもちろん、社の方針より踏み込んだことだって書ける。もちろん、それは現在のマスメディアに十分な報道ができていないことの裏返しでもあるのだが。
▽新聞の課題
あえて厳しいとらえ方をすれば、「正しいことを訴えてきた」という言い訳はもはや通じず、紙面づくりを根本的に考え直す時期にさしかかっている。
筆者は、「朝日・毎日・東京」と「読売・産経・日経」という対立軸に分断されている新聞界の現状をこう批判している。忙殺される中で、新聞社はつい各々の「正論」をぶちあげてはい終わり、という態度をとりがちになっている。
正論は、基本的に現実と相容れないものだ。今日では、「正論の言いっぱなし」から現実を引っ張っていく力は生まれない。その創造性のなさが、新聞の「言論を引っ張る力」を低下させている。
たしかに、新聞ごとに多様な意見を打ち出すことは重要なことだ。だが、反対意見をきちんと紙面や社説に反映させない限り、それは「成熟した紙面」になり得ない。
新聞社は「多くの読者は一紙しか読んでいない」という事実をもっと重く受け止めるべきだろう。新聞の偏りは、読者の偏りになる。そのことに、もっと責任を感じていい。
最近の新聞は、社論に合わない意見や情報を黙殺しているように見える。
原発推進を支持する新聞は、放射性廃棄物について触れない。特定秘密保護法に断固反対した新聞は、日本の機密保全体制に本当に不足がないのかを十分検証していない。ヘイトスピーチも、新聞によって触れたり、触れなかったり。最近では、朝日新聞が池上彰氏のコラム掲載を拒んだこともあった。
なんとも情けないではないか。都合の悪い情報や社論と相容れない意見を載せてこその、「世論の公器」ではなかったのか。「異論の余地がある」ということを知っているか知らないか、それだけで、受け手の世界は全く違うというのに。
読者は説得をされたくて新聞を購読しているのではない。現在を考えるための材料が欲しくて、購読しているのである。各社が独自の論を持つことは大いに結構だが、最近の新聞はその点で傲慢というか、独善的になっているかもしれない。
▽「正論の言いっぱなし」の弊害
最近の新聞からは、「反対論」が見えにくいことが多い。社説などで文章の技術上の、申し訳程度の「譲歩」があるくらいだ。「この考え方が正しいのだ、絶対だ」と激しく主張し、異論を認める姿勢は一切見せない。まさに正論の「言いっぱなし」である。
こうした新聞の態度が、日本全体の言論の質を下げてしまうのではないか。少々唐突だが、ここで「マネジメント」の分野で有名なドラッカーの言葉を引用してみよう。
反対論がない場合には、決断を下してはならない。
社論にとって不都合な事実や意見が紙面になければ、読者の手元に「社会を考える」ための情報は揃わない。そして、「反対論のない紙面」しか知らない国民は、いつまでたっても自ら決断を下せるようにならないのである。


経済政策、TPP、改憲、原発、普天間移設…。背景が複雑な政治課題を単純化し、善悪二元論的なメッセージを発する技術に長けた安倍政権。国の将来を左右する重要法案を数の論理で押し通す安倍政権の一人勝ちという状況にメディアも加担してはいないだろうか。政治が単純化される今、「安倍一強」時代といかに向きあうかを考えるための視点を提供。
意外な再会である。数年前に「政治主導の落とし穴」という新書を読んだのだが、それと同じ作者だった。同書は、民主党政権が掲げる「政治主導」という概念や、官僚と政治家の関係を考えるうえで非常に参考になった。僕のブログの2番目の記事にもなり、まことに印象深い一冊だった。
さて、「安倍政権の罠」を読むことにした理由は、最近新聞ばかりを読んでいて少し近視的になってしまったためだ。ここ数か月の出来事を微細に追っていた反面、半年や一年単位の経過を俯瞰することが少なかったのである。その点、かつての著作で見事に民主党政権の失敗を総括していた筆者は、今回もよく現状を整理していた。
▽「政治主導」を超えて
高い専門性を誇る官僚組織を、政治家がどうやって使いこなすか。民主党政権の「政治主導」の失敗を乗りこえて、安倍政権は一強体制をつくりあげた。
優秀な補佐役を集め、直属の国家安全保障局などを設けて内閣機能の強化を行い、ホワイトハウス的な国家体制を敷く。さらに、議席数を背景とした「政高党低」の形勢を維持することで、リーダーシップを対内的にも盤石なものにする。こうした体制を、筆者は「官邸主導」と表現していた。失敗に終わった「政治主導」と区別するためだろう。
安倍政権はこうして「一強体制」を実現させた。政権が重要な政治課題に次々と手を出しているのも、そのためだろう。ここまでの指導力を掌中に収める機会は、自民党にとってはまさに「千載一遇」なのである。強いリーダーはいつの時代でも求められるが、安倍首相は間違いなくそれに近いところにいる。
もちろん、そのことは功罪相半ばする。力があれば、必然的に議論が面倒になり、意見の調整が雑になる。そのことは特定機密保護法や集団的自衛権の行使容認などの動きに表れた。
「決められない政治」から「決めすぎる政治」。
本の中で紹介されていた、ある議員の言葉である。うまい表現だ。安倍政権が着手しようとしているのは、どれも「国家百年の計」ばかり。そんな政権を前に、「百年の計」をこの数年で決めてしまっていいのかという態度は、全ての国民が持つべきものだろう。
加えて、その「官邸主導」政治を支えているのが菅義偉官房長官である、という指摘もかなり印象的だった。本の中では、色々な事例にまつわる菅氏の知られざる辣腕ぶりが語られている。いつも涼しい顔で会見に臨んでいる菅氏が文字通り「内閣の要」であることを知り、政局を見る目を大きく変えさせられた。
▽政権を見つめなおす
本では、そこから個々の重要な政治課題について、筆者なりの視座が書かれている。それは一強体制を背景にYES/NOという争点の単純化を図ろうとする政権と、その流れについ掉さしてしまうメディアに対する批判だといっていいい。
内容はここに書かない。時事問題を考えるうえで面白い指摘がいくつかあるので、実際に眼を通してもらえればいいと思う。「メディアや政権が政治を単純化しすぎている」という問題意識も、べつだん目新しくもないだろうし。
この本を読んで一番よかったのは、時事問題を比較的長期的な目で見ることができたことだ。安倍政権が出来てから何があったか、何が起ころうとしているのか、一度じっくりと見つめなおすことができたのである。
日々刻々と移り変わるニュースを追いかけてばかりでは、政権の尻尾はついに掴めず仕舞いになってしまうだろう。政権の姿は、個々の出来事や政策を足し算しただけでは見出せない。
そうではなく、腰を落ち着けて、長い時間軸をもとに、ぼんやりと見てみる。目まぐるしく動いている一つ一つのピースに注目するのではなく、全体を見てみる。そうすることで、モザイク画のようなあんばいで、総体としての「安倍政権」は姿を現すのではないか。本を読んでそのきっかけを掴んだ者として、そう思う。

240.「慰安婦」問題とは何だったのか (大沼保昭)

「慰安婦」問題は「歴史認識」の最大の争点となっている。政府は軍の関与を認め謝罪。市民と政府により被害者への償いを行う「アジア女性基金」がつくられた。だが、国家関与を否定する右派、国家賠償を要求する左派、メディアによる問題の政治化で償いは難航した。本書は、この問題に深くかかわった当事者による「失敗」と「成功」の記録であり、その過程から考える新たな歴史構築の試みである。
▽慰安婦問題
先月のはじめ、朝日新聞が従軍慰安婦報道の検証を行った。新聞を開いてみると、検証記事の下の方に小さく設けられた欄のなかで「記事を取り消します」という言葉が飾られていた。30年以上にもわたって指摘され続けた報道の誤りを、同紙がやっと認めた形となった。
しかし、「事実とは異なりました」で終わらないのがこの「慰安婦」問題である。それは日韓関係を著しく損ね、日本の国際的イメージを低下させ続けてきた。政権は国連などの舞台で広報に力を入れる予定らしいが、それも並大抵のことではない。下手をうてば「歴史修正主義」のレッテルを貼られかねない。
一方、朝日新聞は「広義の強制性はあった」と主張しはじめている。「論点のすり替え」という批判もあるが、たしかに強制性の有無を問うまでもなく、慰安婦制度自体が大変な過ちである。だからといって、「慰安婦」問題以外には口を閉ざして日韓関係を硬直させている朴政権の姿勢を支持するつもりにもなれない。
縷々述べてきたが、要するに慰安婦問題はあまりに高度に複雑化してしまったのだ。それは外交問題であり、国際的イメージの問題であり、女性の人権の問題であり、戦後責任の問題である。こうした状況下で被害者は置き去りにされ、「慰安婦問題」だけが亡霊のようにひとり歩きし、日を追うごとに肥大化している。
▽著者と慰安婦問題
著者は国家的「つぐない」を果たすための機関である「アジア女性基金」を設立した経験を持つ。タイトルは「慰安婦」問題とは何だったのか、とあるが、内容はほとんど基金についてのものだ。したがって、朝日新聞の報道の真贋や外交の紛糾など、多くの人が関心を寄せる話題については語っていない。
著者にとっての慰安婦問題は、「元慰安婦の人々にどうやって償いをするか」という一点に絞られていた。これが基金設立への原動力となり、その後の活動の軸にもなっていたようである。
国際法上は日本の韓国に対する戦後補償は終わっているため、公的な償いはもう望めない。一方で、元慰安婦の人々は心に傷を負ったまま、日ごとに老いていく。著者はこうしたギリギリの状況下で「アジア女性基金」を成立させたが、その難航ぶりは大変なものだった。本書は、そんな著者の経験と立場に立脚したものである。
▽正論がもつ壁
アジア女性基金が難航した背景として著者が挙げる最大のものは、「正論」だった。基金に対しては日韓の右派、左派を問わず批判を浴びせられたという。
「国際法上は解決済みの問題をなぜ補償するのか」
「公的な賠償ではなく、民間による基金という形式なのは欺瞞ではないか」
「基金を受け取った被害者とそうでない被害者の間で、分断が起こるではないか」
「女性の尊厳の問題なのに、金で解決しようとするのか」
いずれも筋の通った正論であり、基金はこれに明快な答えを与えられなかった。一方で、著者は「他にどうすればよかったのか」と考えている。苦しむ元慰安婦の人びとを救い、国として償う姿勢を見せるのに、他の方法は望めなかった。その唯一にちかい道が、現実を度外視した「正論」によって揉み潰されてしまったのである。
この本の副題には「メディア・NGO・政府の功罪」とある。著者は、日韓のメディアやNGOがこうした「正論」を担ぎ上げたことが基金の失敗に繋がったと指摘する。
正論は強い。それだけに、場合によっては正論ほど人を傷つけるものはない。メディアによって「聖化」された慰安婦像によって、いちばん苦しい立場に置かれたのは元慰安婦たちだった。「元慰安婦は金での解決など望んでいない」という声が、まさに困窮しようとしている彼女らの立場をさらに苦しくさせてしまったという。
▽政治的主体としてのハードル
一枚岩的な「官僚=悪玉」論からの解放は、メディアとNGOが公共性の担い手として自己を鍛え上げていくうえで最も必要とされるもののひとつなのである。
「正論を言えばいい」「政権を批判すればいい」という姿勢は、今日なお多くのメディアやNGOの間で支配的だと感じる。政治権力でないから言えることがある、見えることがある。それはとても大切だ。
一方で、批判だけでは何も生まないということも、きちんと認識すべきだろう。このアジア女性基金をめぐる著者の経験から教訓を導き出すなら、その点に尽きるのではないか。
政治的な選択というものは必ずしも一番よいもの、いわゆるベストの選択ではありません。「悪さ加減の選択」なのです。
丸山眞男の言葉である。政治は必然的にどこかに利益をもたらし、どこかに不利益をもたらす。どこにも損失を与えない政策は、「毒にも薬にもならない」という言葉の通り、結局どこにも恩恵を施すことができない。
問題は、メディアやNGOなど少なからぬ権力をもつ主体が、どれほどの覚悟で政治の世界に足を踏み入れているか、ということだ。批判だけしているなら、彼らは安全圏に止まることができる。しかし、それではついに「公共性」を作り上げる主体とはなりえない。いつまでたっても「受動的」に動き続ける存在から脱却できない。
丸山眞男の言葉にあるように、政治の選択とはつねに「悪さ加減の選択」なのである。そうである以上、いかなる決断や方針にも「悪さ」が潜んでいる。それをあげつらうだけの主体に止まっていては、遠からず「与党になってしまった晩年野党」のような醜態を晒すことになる。
「悪さ」を引き受ける覚悟がある者にしか、政治はできない。アジア女性基金は、その覚悟を備えていなかった周囲のメディアやNGOに袋叩きにあい、戦争責任の処理の難化を招いた。基金の活動に対する評価とは別にして、これは深刻な反省材料ではないだろうか。
追記
著者はアジア女性基金の活動について、反省点を挙げる一方で基本的には「良かった」と評価しているようだ。ただ、基金そのものが成功だったかどうか、どこか明言を避けているような印象を受けた。
一方で、政権の「嵐が過ぎ去るまで待つ」という態度については批判的だった。これは少しおかしい。基金の設立は「グレーゾーン」の政治的判断の結果だった。そうであるならば、複雑な歴史認識について触れないようにする、というのもまた、立派な「グレーゾーン」の政治的判断であり、当然視野に入る方針のはずである。
基金の取り組み自体については、こうした広い可能性を考慮しながら評価されなければいけないだろう。


要点
・任侠とはなにか
・幕末の侠客たる主人公が果たした役割
・侠客に学ぶ渡世の姿勢
逃げた父の代わりに金を稼がねばならなくなった万吉は、身体を張った”どつかれ屋”として身を起こす。やがて生来の勘とど根性と愛嬌を元手に、堂島の米相場破りを成功させ、度胸一の極道屋・明石家万吉として知らぬ者のいない存在となった。幕末維新から明治の騒乱の中をたくましく生き抜いた”怪態な男”の浮沈を描いた、異色の上方任侠一代記。
食欲がおさまらない。頭の食欲が、である。
たしかに短編は面白い。ぎゅっと凝縮された短い物語を、想像力の限りを尽くして味わい尽くす。数十分間、じっくり咀嚼して、箸を置く。味を確かめて、反芻し、次へ、という感じ。
小気味よくて良いのだが、どうも満ち足りない。ボリュームが欲しい。何日もかけてストーリーと格闘し、読み終えるような、そんな経験を恋しく思う。上下巻ともに600ページ近いこの「俄」を手にしたのも、そんな心理と無縁ではない。久しぶりの司馬遼太郎。
▽任侠
主人公の名は明石家万吉という。聞きなれない人物である。幕末から明治維新までを生き抜いた、大侠客らしい。
まず、侠客というものがわからない。どうも遊び人やヤクザ者の専売特許のような言葉だ。辞書は「強きを挫き弱きを助ける、任侠を建前とした渡世人」という。でも、今度は任侠がわからない。ふたたび辞書を繰る。
「仁義を重んじ、困っている人や苦しんでいる人を見ると放っておけず、彼らを助けるために身体を張る自己犠牲的精神を指す語」。
わかったような、わからないような。でも、この本の主人公と共通するものは感じる。確かに、万吉は長い物語の中で一度として人からの要請を断ったり、人を裏切ったりしたことはなかった。
▽侠客、明石家万吉
「智恵より大事なのは覚悟や、と。覚悟さえすわれば、智恵は小智恵でも浅智恵でもええ、あとはなんとかなるやろ」
「殴られる、斬られる、この二つに平気になれば世の中はこわいものなしじゃ」
幼いころに母と妹を養わなければいけなくなった万吉は、とにかく金のためになんでもやった。そんな境涯が、とびぬけて厳しい覚悟と度胸を鍛えた。彼は自らの人生を一場の「俄」と心得、そのために「いつでも、軽々しく命を捨ててやる」という態度を貫いたのである。
命さえ惜しくなければ、どんな無理難題も快諾することができる。幕府からも、薩長からも、配下のヤクザ者からも、いろんな頼みごとが彼のもとに押し寄せてくる。そのつど万吉は「うん」と言い、危うい場面を潜り抜け、男をあげた。
言葉を変えれば、日本史上もっとも生き抜くのが難しい時代を、彼は「任侠」で渡り歩いたことになる。頼まれれば、断らない。かわいそうだと思えば、手を貸してやる。誰のためであれ、その精神を徹底する。複雑な時代を単純な原理で生きるには、「尋常ならざる単純さ」を持たなければいけない。それを備えていたという点で、やはり万吉は傑物だったのだ。
▽「侠客」はなぜヤクザの親分なのか
では、そんな「任侠」精神がなぜヤクザと結びつくのか。一見すると不思議だが、答えは存外簡単である。それは「汚れ仕事をしたがらない」という、多くの人の性質に由来している。
名誉や名声が手に入ったり、金になる仕事は多少キツくても誰かがやる。一方で、万吉のもとにくる仕事は「骨折り損のくたびれ儲け」ばかりだった。金にも名誉にも繋がらず、下手をうてば命すら落としかねない。考えてみれば当然のことだ。なんにでも首を縦に振る侠客のもとに、オイシイ仕事が転がり込んでくるわけがない。
ましてや彼が生きたのは革命動乱の時代だった。革命とは旧体制によって蓄積された腐敗や汚れを一掃する行為に他ならない。必然的に、大量の「ホコリ」や「汚れ」が出てくる。薩長土肥の華やかな活躍の裏で、万吉はそれを処理してやることで、国家の「代謝」を可能にした。これは侠客にしか引き受けられない仕事だったろう。
彼はヤクザの大親分であったと同時に、貧者や病人の世話など慈善事業の主でもあった。正反対に見える二つの営みも、その根は「社会からあぶれそうな者の面倒を見てやる」という任侠の精神である。物語終盤の万吉は金も名誉も持たなかったが、ただ周囲からの尊敬だけは手放さなかった。まことに奇妙というほかない。
▽任侠の渡世
「他者を手段とするな」ということを、カントは言った。万吉の任侠も、まさにそんな精神だった。彼が人の頼まれごとにあたるときは、見返りなど一切期待していなかった。
人脈、という言葉がある。社会にでれば一層必要とされるだろうが、注意をしたい概念でもある。「人とのつながりは最終的に自分の役に立つもの」という匂いが潜んでいるからだ。多くの場合、これはあたらない。マキァヴェリではないが、人間とは自己中心的で、移り気で…、要するにアテにならない存在である。
「恩は仇で返されるものだ」という前提を敷くことが、社会を生き抜くために一番良い姿勢に思われる。人に期待しない、何か返されたら儲けもの、という程度がいい。過度な人間への期待は、遠からず人間への失望に繋がり、やがて「人間嫌い」の病に至りかねない。
そのうえで大事なのが、不完全な箇所もひっくるめて、人間を好きでいることだろう。無駄とは知りながら他人を助けてやる。ある程度なら、損をすると分かっていても、見捨てない。そういう人に、人間は心の底から敬服して、ついていく。
万吉がまさにそうだった。彼にとって人間とは「厄介ごとを持ち込んでくる禍のもと」でしかなかっただろう。それでも、彼らのために働くことを惜しまなかった。つまるところ、人間が好きだったのだろう。
人は、汚れたものを押し付けてくる「厄介のもと」であること。それを知りながらまるっと抱え込んでしまう万吉の姿に、私たちが学ぶべきことはたくさんある。軽々しく「人脈」というなかれ、それはふつう考えられるほど美しいものでも、簡単なものでも決してないのである。
◆気に入ったフレーズ
「智恵より大事なのは覚悟や、と。覚悟さえすわれば、智恵は小智恵でも浅智恵でもええ、あとはなんとかなるやろ」
(殴られる、斬られる、この二つに平気になれば世の中はこわいものなしじゃ)
一度使った才覚は一度だけ古くなるものだ。何度も使えばすりきれて使いものにならなくなる。
喧嘩も戦争もおなじことだ。恐怖と恐怖のくらべあいのようなもので、恐怖の量がより大きくなった側が崩れ立ってしまう。
「夜はものを考えぬ」
というのが、万吉の処世である。深夜ものを考えると来し方行くすえのことがあたまのなかに去来し、考えることが自然萎れてきて消極的になるからだ。
万吉のやり方はつねに体中を胆にして出かけてゆく。胆に刃物は要らない。
「わいは人間の屑や」
と、いきなり大声でいった。
「屑が死のうと生きようと、天道様にはなんのかかわりもあらへん。せやろ」
妙な演説である。
「人間、なんでうまれてきたかということもわからぬ生きものであるのに、思慮分別で嫁がもらえるか」
「男には、やってはならんことがいくつかある。その大なるものは、笑もんにならんということや」
「黒白さだかならぬご時勢には、黒白さだかならぬ姿でゆくのがええ」
「もともとこの稼業は死ぬことが資本で看板や。この土壇場になって逃げたとあれば稼業はめちゃくちゃや」
男伊達という、空虚で枝も葉もない、ビールの泡のような一場の夢を買えばそれでよかったのである。そのようにしてこの男はそのながい半生を送ってきた。
