
誰もが無限大の可能性を開花できる!バイオテクノロジーの世界的権威が提言する遺伝子ONの生き方とは。 誰が生命の暗号を書いたのか? 生命設計図の不思議。環境で遺伝子が変わる。など、バイオテクノロジーの第一人者が最先端の研究成果をもとに、遺伝子ONの生き方を提言する。
科学は、人類が宗教に満足できなかったために始まった。あらゆる自然現象を「神の意志」で説明してしまう姿勢と決別することで、彼らは科学の世界への切符を手にしたのである。
ところが最近、その終着駅もやはり「サムシング・グレート」という、神に近い存在になりそうだと謳われるようになってきた。このあたりは「理性の限界」(講談社現代新書)に詳しい。ビッグバン理論で、「シュレーディンガーの猫」で有名な不確定性原理で、そしてバイオテクノロジーで。袂を分ったはずの両者が、究極の局面でふたたび手を取ろうしている。
長年の著者の研究と、人生経験に基づく確信も、「サムシング・グレート」の存在だった。そこまではいい。だが、この本でその論証が上手くいったとは言い難い。「分からないことについては、口を閉ざせ」という訓戒を冒して、自身の確信について書いたのだろう。しかし、残念ながら本には「独善性」の影が色濃く投げかけられている。
▽遺伝子について
本書でいちばん面白い点は、「遺伝子にはonとoffの状態がある」ということだ。膨大なデータが刻み込まれているDNA、我々はそのうちの少ししか使っていない。他のところは「使用できない」のではなく「眠っている」のである。
したがって、遺伝子は突如目覚めることがある。病気や放射線だけでなく、環境や心の持ちようによって遺伝子の新たな個所が目覚めることもある、という。このあたりは著者が数々の例を出しているので非常に納得がいく。良好な環境や心理状況が、遺伝子を目覚めさせて可能性を広げるのだ。
本の話題は、必然的に「どうすれば遺伝子は目覚めるのか」という話題になる。著者は、「プラス思考」「感謝して生きる」「志を高く持つ」の三つが大切だと説いていく。
▽本の失敗
残念ながら、ここからの著述が実にお粗末なのである。科学的にはその三条件が「遺伝子を目覚めさせる」ということは証明されていない。なのに科学者である著者は、これが大事だと断言する。ここに無理が生じ、論が苦しくなっていく。病気が治ったとか自身の人生経験とか一般性に欠ける事実を寄せ集めては、その裏付けにしようとするのである。
科学とはそういうものではなかったはずだ。多様性と複雑さを究める世界の中から、一種の普遍性を持った法則や力学を見出すのが科学だ。この点、著者のサクセス・ストーリーは決して万人に当てはまらない。「プラス思考で成功する」ということを語るときに、「マイナス思考で成功した」という人について口を閉ざすのは、あまりに不公正である。
この本の失敗は、個人の経験に基づく確信を描こうとするときに、けっきょく「著者の個人的経験」以上に決定的な証拠を挙げられなかったことにある。窮した著者は、最終的に「サムシング・グレート」なるものに頼ろうとする。
私は自分の思いが少しは天に通じたのではないかと思いました。
遺伝子の体系はこのうえなく精緻であり、私たちはそこに「サムシング・グレート」の存在を仮定せざるを得ない。そこまではいい、まっとうな過程だ。しかし、サムシング・グレートが私たちの「努力」や「プラス思考」を喜んでくれ、幸運を授けてくれると厳密な論証なしに言い切るのは、稚拙に過ぎるのではないか。
よく分からないなら、口を閉ざさなければいけない。自慢話や人生訓をたらたら綴るだけならいいが、「科学」の看板を背負いながらこうした雑な議論で読者を納得させようとするのは看過できない。どうしてもっと厳密に語れなかったのだろう。
▽科学と宗教
サイモン・シンの著作で、科学と宗教の関係を喩えた話があった。
科学者のしていることは、実験と研究の積み重ねである。それは少しずつ着実に「自然界」という大きな山を登っているようなものだ。科学者たちは数千年にわたる長い苦労の末に、やっと山頂にたどり着く。そして、そこには数千年前からの神学者たちが胡坐をかいて坐っているのである…。
科学は突き詰めれば、遠からず「宗教」の世界に迷い込まなければいけなくなる、という考えだ。「サムシング・グレート」はその代表例だろう。彼はビックバンによって時間と空間を生み出し、遺伝子を作り上げて複雑な生態系を地球上に現出させた。しかし、彼が何者であるのかは、いまだに掴めないのである。
この著作は、どう表現することが出来るだろう。
科学的手法を用いることなく、雑で独りよがりな議論で「サムシング・グレート」を語った。科学でまだ出来ることがあるはずなのに、根拠薄弱なまま「サムシング・グレート」について訳知り顔で著述した。要するに、科学者として「山頂」にいったわけでもないのに、あたかも「山頂」を見てきたかのように語っているのだ。
僕が若いから、人生の経験を積んでいないから、こき下ろしているのだと思う人もいるだろう。だが、人生経験の量と「著作が科学的手法を踏んでいるか否か」は全く関係ない。
この本は別に科学についての本ではない、と言われるかもしれない。だが、「胡散臭さ」があり説得力に欠ける時点で本としては失敗である。
著者は別に「サムシング・グレート」を胡散臭いものだと考える必要はない。個人的な確信があるなら、それでいいと思う。ただ、本は読者を納得させなければいけないものだ。「サムシング・グレート」が胡散臭さをもっているということは、十分認識して慎重に議論を進めなければならなかった。
この本の失敗にコメントをするなら、それくらいだろう。
スポンサーサイト

北京でチェルノブイリでウガンダで…世界のいたるところを旅した著者が見たものは、風景そのものこそ真実を語っている現実だった。『もの食う人びと』が陽当たりのいい地表部分なら、本書は湿った地下茎だ。その地下茎が異議を申し立てて、抑制と我慢から解放された新しいノンフィクションが生まれた。
著者がこう語っている。「反逆する風景」は、自身の書いたベストセラー「もの食う人びと」への公然たる裏切りである、と。
風景の中の「無意味」な存在に注目したのが前者で、見るもののなかから意味を抽出した世界が後者である。ちょうど陰と陽のような関係だ。
ドストエフスキーの「地下室の手記」を彷彿とさせる、捻くれた視線が面白い。たぶんこの本が好きな人も嫌いな人も、その理由を説明することはついにできないだろう。意味の羅列が収められる本の中身が、「意味」を拒否するような風景で満ちている。読者は困惑しつつ、読み進めることになる。
▽無意味の反逆
風景はしばしば、被せられた意味に、お仕着せの服を嫌うみたいに、反逆する。
冒頭で、こんなエピソードが紹介されていた。著者が貧しい国の山奥を取材したときのこと。粗末な食べ物や小汚い家屋、眼に入るものすべてが「貧しい山村」というストーリーを裏付けしつつあった。ところが、そこを不意に赤いジャケットを着た現地の人が通りかかるのである。さて、困った。「貧しい山村」という意味付けの風景に、急に華美なジャケットが割り込んできた。
こういう場合、普通の人は「赤いジャケット」を描写から外す。文章の論理的整合性を損ない、結局なにが言いたいのか分からなくなるからだ。そして、まさにそうして「無意味」を排除し「意味」ばかりに目を向けて書いたのが、「もの食う人びと」だった。
ところが、「風景の反逆」から目を背け続けて本を書いたことに後ろめたさを感じたのだろう、彼は「アンチ・もの食う人びと」の本を書きたくなった、「反逆する風景」という本を。著者を含む世界中の人びとを圧倒的な力で支配している「意味」群に対する、ゲリラ的に反逆する「無意味」たちを題材にして。
▽「無意味」な反逆
意味は無意味を、結局のところ説明できはしない。
「反逆する風景」に出てくる「無意味」たちは、説明を要しない出来事である。「無意味」とは、不合理の極致であると同時に、究極の自明だ。説明できないがためにこの上なく弱く、説明を要さないがゆえにこの上なく強い。それが「無意味」の独特な魅力にも繋がっている。
難しいのは、「無意味」の魅力について語りすぎると、その「無意味」が「意味化」されてしまうということだ。このジレンマは、ラストの観覧車についての短編で非常に巧く表現されている。
つまるところ、「風景」の反逆には特に意味がないのである。なんの意味もなく、風景はふっと「魔が差した」というように反逆する。不釣り合いなものが網膜に映る。ありえないものがそこに置かれる。予期せぬものがそこを通過する。
普通、そんなものに人は注目しないし、貴重な時間を割こうとしない。ましてや、それで本を書こうなどと思い至らない。辺見庸はそこに挑戦した。意味のないものを無視するでもなく、無理やりに意味を見出すでもなく、ただそこに「ある」ものとして描写する。そうして物語にならない物語を紡いでいく。
読者の読み方次第で、この本はどれほど長い長編小説よりも長く、どれほど短い短編よりも短くなる。
昔、僕は「要約というのは要約するべき内容があって、はじめて可能な行為である」と書いた。我ながらうまいことを言ったものだ。この本について言えば、要約など不可能だし、そもそも用をなさない。それでも「反逆する風景」はたしかに読者を惹きつけ、考えさせる。こんな小説はそうそうお目にかかれるものではない。
◆気に入ったフレーズ
風景はしばしば、被せられた意味に、お仕着せの服を嫌うみたいに、反逆する。
無理な意味化はかえって風景の真意を裏切ることになる。風景のおもしろさを殺す。やはり、意味など明示する必要はない。
どんなにささいな規模であれ、風景の反逆を描かず、気づかないふりをするのは、つまるところ、書き手が世界に反逆したくないからなのだ。
新聞はもっともっと不可視の実在について語らなくてはならない。
極大を扱った記事が極小のそれに遠くおよばず、生き生きした極小がなによりもたしかに極大の事態を伝えることがしばしばある。
意味は無意味を、結局のところ説明できはしない。


ジャーナリズムの世界で優れた業績を上げてきた人たちから話を聞くことは、名プレーヤーとのセッションで伴奏を務めさせてもらうようなスリリングなひとときだった。バックグラウンドも専門分野も違う10氏だが、意外にも方法論に一定の共通要素がある。彼ら彼女らの話を総合すれば、いまジャーナリズムの世界で働く中堅・若手にとって汎用的な方法論や指針・姿勢となるだろう。
すぐれたジャーナリストはどう考え、どんな問題意識を持っているのか。報道機関が一様に信頼を失いつつある現在、記者には何が求められているのか。現代のジャーナリズムについて、きわめて有用な話が盛り込まれている。
紹介されるジャーナリストは、企業や組織の枠に収まらず、独立不羈を貫く精神と実力を兼ね備えた人ばかりだ。ノンフィクションの面白さに魅せられ、独自の視線で世界を切りとっていく姿勢には、つい憧憬の念を抱いてしまう。厳しい世界で鍛えられた彼らの言葉には、ところどころ読者の琴線に触れるものがあるのではないか。
▽ジャーナリズムの危機
本書の編著を思い立った直接のきっかけは、2011年3月11日の東日本大震災とそれに続く東京電力の福島第一原発事故の取材を通じて感じた今の報道のありようだった。
情勢が錯綜していたとはいえ、情報源である東電や政府の発表に追従するしかなかったマスメディア。この体験は、報道に携わる人びとのすべてに重い衝撃をもたらしたことだろう。権力とは一線を画した独自の調査と取材、議論が出来るからこそ、メディアは「第四の権力」として機能できる。しかしその幻想は、3.11の激震によって崩れ去った。
インターネットの台頭で個人が発信源になってしまう時代に、マスコミがこうした無力さを露呈してしまったのはきわめて深刻なことだった。ジャーナリズムのあり方が厳しく問われている現代で、致命的な弱さを世間に印象付けることになった。本の前書きからは、著者の痛烈な危機意識がうかがえる。
彼らの考えていたジャーナリストとは、虚飾にまみれたものだったのか。ジャーナリスト像とは、青臭い理想像に過ぎないものだったのか。企業や組織と相容れない独立不羈のジャーナリストへの憧れは、時代遅れのものなのか…。おそらく、著者にとってこの本を書くのは必要なことだったのだ。自らの職業のありかたと重要性を、いちど確かめるために。
▽ジャーナリスト
ジャーナリスト、考えれば考えるほど複雑な職業である。専門家であると同時に素人である必要があり、権力に対する厳しい目を持ちながら権力者たちの懐に飛び込まなければいけない。世の中の「矛盾」「不条理」がぎゅっと凝縮されたような世界、そんなところで彼らは活動している。
情報は民主主義社会における血液である。情報の行き交いがなくなったところから、社会や組織は壊死しはじめる。ジャーナリストは情報を集め、切りとり、良質な情報へと磨き上げ、市場へ送り出す。もし風通しが悪いところがあれば、捨て身で突っ込んで情報をとってくる。その箇所の腐敗を防ぐのである。そんな地道な作業によって、全体としての民主主義社会は絶えず機能し、躍動する。
なるほど、最近は誰でも情報をとってこれるし、流すことができる。記者でなくとも、たまたまその場に居合わせた一般人が決定的な瞬間を写真におさめてtwitterやfacebookに投稿できる。インターネットを見れば、各地の「現場」からの情報がひっきりなしに流れてくる。
では、こんな時代のジャーナリストとは一体何なのだろうか。
付加価値さえあれは、世の中で必要とされるジャーナリストとして仕事はあるんです。逆に言えば、それがなかったら、あっという間に私の仕事はなくなります。
こんな時代にジャーナリストが存在していい理由は、この一言に端的に表されている。ジャーナリストは、インターネット上の数千万人という人びとをもってしても、できないことをやっているのである。それが「付加価値」という言葉で表されている。
インターネットは膨大な情報を垂れ流す。それはいい。では、その情報が正確かどうかを、だれが担保するのか。情報がどれほどの価値を持つのか、だれが判断するのか。情報が何を意味するのか、また情報によって今後どのような展望が開けるのかを、だれが報じるのか。これらが、ジャーナリストの原始的かつ究極的な役割なのである。
正確性。SNSであふれるデマやウソと、本当に起こった事実をどう区別するか。誤った情報に基づいて人々が行動すれば、当然その行動は望んだように向かうことが出来ない。それを裏付け取材を行う人間がどこかにいないと、社会は正確な情報を見分けられずに目隠しをされたような状態になってしまう。
情報の価値判断。マスメディアの報道をすべて「偏向だ」という人がいる。たしかに、「中立」という状態を目指すことはある程度可能だ。ただ、「中立そのもの」になることだけはできない。
インターネットは誰の意思決定にもよらない「中立」だと思う人もいるかもしれない。だが、ちいさな万引き事件と原発事故関連の訴訟を同列に扱うような、そんな「中立」にどれほどの価値があるのか。社会とは本来ならば筆舌に尽くしがたく複雑であり、無意味の集積である。ある程度の偏りがあったとしても、ジャーナリストが「意味」を紡ぎ出すことをやめた瞬間、社会は膨大な情報に圧され、殺される。
将棋のコンピュータソフトの苦労にも通じるものがある。コンピュータソフトは膨大な量の局面を想定できたが、「どの局面が重要で、どの局面が重要でないか」を判断することができなかった。だから、弱かった。いわゆる「大局観」である。
新聞の紙面やテレビのラインナップは、まさに一流のジャーナリストたちの「大局観」によって生成されている。何が重要で何が重要でないか。ときどき偏ることもあるし、そのことは彼らも承知しながら、それでも「中立」を目指して作っている。さらに重要なことに、そうした報道機関は複数ある。複数の物差しを通じて、私たちはいくつかの「大局観」を比較し、独自のものへと育てることが出来る。
情報の深み。ジャーナリストは強みをもって、そして訓練された洞察眼をもって情報を語る。飛行機がビルに突っ込んだ、地震が起こった、土砂災害が起こった。それだけで事足りるなら、ジャーナリズムは確かに無用の長物だ。
だが、私たちは知る必要がある。アメリカが「テロとの戦い」に踏み込んで国際情勢はどう変わっていくのかということを。被災した人びとがどれほど辛い生活を強いられているかを。土砂災害地域の警戒区域指定が棚上げになったことで、多くの死者を出す遠因になったことを。
それは不幸を繰り返したくないからだ。過去に学ぶことで現在を思い、現在を澄んだ目で見ることで未来を予測したいからだ。そのためには、良質な情報を基にするしかない。
ジャーナリストはこうした情熱をもって仕事に取り組んでいるはずだし、そうであるべきだ。もしそれができないようなら、引用文にある通り、インターネットの勢いの前におとなしく淘汰されるしかない。
幸いなことに、この本に登場するジャーナリストは、皆こうした志をもって仕事にあたっている人ばかりである。新聞記者の方々とお話をする機会にも恵まれたが、誰もが矜持をもっていて、素敵な人ばかりだった。こういう対談集を読んだり、一流の人の話を聞く、というのは非常に有益だ。彼らの言葉には、ジャーナリズムの「核」に触れるようななにかを感じさせるのである。
◆気に入ったフレーズ
角幡唯介
結局ノンフィクションを書くには二つしか方法がないんです。誰か他人から聞くか、自分が見聞きしたことを書くか、です。
警察は危険を冒して捜査しているのに、なぜ記者はできないのか、いまいち腑に落ちない。
一人の人間が最初から最後まで付き合うことによったストーリーとして見えてくることがあります。
高橋篤史
ゲーム感覚の「抜いた」「抜かれた」はそれ自体は否定するものでもない。そこから真の意味のスクープが生まれることはありますから。
読者がかならずしも望んでいないものでも、社会的に必要性があれば、提示するのが僕らジャーナリズムの役割だ。
長谷川幸洋
付加価値さえあれは、世の中で必要とされるジャーナリストとして仕事はあるんです。逆に言えば、それがなかったら、あっという間に私の仕事はなくなります。
ガチンコで勝負する記者は希少性がある。そういうガチンコの記者は生き残っていくと思いますよ。
安田浩一
ノンフィクションはめちゃくちゃ面白い。こんなに楽しく、興奮する仕事はない。
「あきらめようと思ったら、もう一軒ドアをたたけ」
批判をするというときに「俺はこいつを嫌いなんだ」というのをフルスロットルで書くと、結局は読まれない。
大治朋子
情報をあげる人ともらう人という関係でなくて、一緒に問題を考える人という立ち位置になれば、その人も組織を裏切るという気持ちきはならない。
栗原俊雄
「これは」という仕事は確実に本にするべきです。
好きなことをやるには、好きでもないことをその何十倍もやらないといけない。


少しずつ少しずつ積み上げてきた生が、ふと直面する戸惑い、やりきれなさ、苦い思い。その儚くも愛しいミルフィーユのような断面を鮮やかに描き出す珠玉のナイン・ストーリーズ。著者初の短編小説集。
沢木耕太郎といえば、言わずと知れたノンフィクション作家である。僕も先日とある企業の面接で「尊敬するジャーナリストはだれか」と問われ、迷わず彼の名を挙げた。「テロルの決算」、「危機の宰相」、「凍」、「深夜特急」、「一瞬の夏」、「キャパの十字架」…。これら著作群の面白さは、沢木自身のもつ感受性や独特な洞察眼、さらに彼の人生経験によるところが大きい。
要するに、沢木耕太郎という人がすこぶる面白い人物なのだ。著作を読んでいて、彼の「面白さ」がそのまま作品の「面白さ」に反映されているな、と感じる。
大学を卒業して普通に就職した沢木は、社会人初日に信号待ちをしていたとき突発的に踵を返して会社を辞め、ライターになったらしい。他にも、ユーラシア大陸をバスだけで横断したり、親しくなったボクサーのために自分の生活費を切り詰めるほどの支援をしたり。いったいこの人は何人分の生涯を歩んでいるんだろう、と羨ましく感じる。
▽短編小説集
そんな沢木耕太郎が、短編小説を出した。僕はこの本をブックオフで買ったのだが、なかなか違和感があった。彼だったら架空の物語など考えるまでもなく、いくらでも面白い本が書けそうなものなのに…。沢木や出版社がどういうつもりでこの本を出したのか色々と想像しながら、気付いたらレジでお金を出していた。しょうがない、「自分の好きな作家」とは、こういうものだ。
ノンフィクションではないとはいっても、彼のずば抜けた文章のうまさは存分に発揮されている。登場人物たちの心の揺らぎや静かな決意、それらを見事に描き切っているのには「さすがだな」と思わされた。人間観察の経験が違うのである。
ここから、個別の作品について考えてみたい。
▽銃を撃つ
主人公のナツミが、中学受験を機に離れ離れになったマキちゃんと偶然再会するところから始まる。
受験は、子供のあいだでの「勝ち・負け」という色分けに繋がってしまうものだ。冒頭では失敗したナツミと成功したマキちゃんのあいだにも、それが暗い影を落としていることがうかがえる。久しぶりの再会ということもあって、その会話はどこかぎこちない。
しかし、最近届いた「不幸の手紙」についての話題で少しずつかつての「対等さ」を取り戻していく。かつての親友を「戦友」のようなかたちで取り戻したナツミは自信を取り戻し、彼女らの不安を届ける郵便ポストに向かって「銃を撃つ」のである。
▽迷子
小学生のユウスケが、家で母親の帰りを待っているときに近くの公園で迷子と思しきサチコと出会う。幼い二人の、ぎこちなくも微笑ましい会話がいい感じだ。
頑ななまでに正直なユウスケと、嘘で自分を塗り固めるサチコ。ユウスケは自分もサチコも「大人を恐れているから」そうしているに過ぎないのだ、ということに気付く。二人のあいだに、たいした差はないのだと。
▽虹の髪
バスで頻繁に自分の前に着席する女性。窓から差し込む日光に虹色に照らされる、彼女の髪に見惚れてしまった男の話だ。一流大学から官僚になった主人公が、人生で二度目の「淫すること」に手を出そうとするまでの、心の葛藤を描いている。よくある設定ではあると思う。
▽ピアノのある場所
家庭に問題を抱えるユリコが、引っ越す前に友達のマリちゃんの家を訪れる話。決して生活基準に大きな差があるわけでもないのだろうが、マリちゃんがユリコとの約束を忘れていた、というところになんとなく「立場の違い」のようなものがうかがえて、悲しい。子供の敏感さと、残酷さがよく描かれている。
▽天使のおやつ
非常に救いのない、悲しい物語だ。この短編集の中で一番気に入った作品でもある。
幼稚園で娘が滑り台から落ちて死亡した。誰かを責めることはいくらでもできるが、結局父親は悲しみを引き受け、娘とあらためて向き合うことを選択する。決して明るい結末ではないが、それでも「前向き」 な何かを感じさせる物語だった。
▽音符
老衰が酷くなっていく夫に自ら手を下した妻が、物語の主人公である。音符のように咲いている季節外れのアジサイを眺めながら、彼女はとりとめもない思いに浸っていく。女性の独占欲や考え方などは、「檀」とどこか通じるものがあったかもしれない。
▽白い鳩
いじめに巻き込まれる俊が、カラスにいじめられて死んでしまった鳩と出会う。一般の人が避けていくなか、いじめの標的にされかかっている彼は見過ごすことができなかった。最後に鳩を川へ流した場面で、俊はいじめっ子と戦おうとしても時間の無駄であることを覚ったようだ。彼自身がしっかりりた内面を保ち続けられるかぎり、いじめも決して怖くない。
▽自分の神様
いま付き合っている男と関係を絶ちたがっていた奈緒の、ちょっと不思議なロマンスを描いた物語。神社で出会った、という設定が物語全体に明るい奇妙さをもたらしている。最後の終わり方が結構好きだ。
▽クリスマス・プレゼント
息子へのクリスマス・プレゼントを買ってやる父親の話。終盤で息子の秘密が読者に明かされ、物語は暗転したようになる。面白い構成で書かれていると思う。

234.不敵のジャーナリスト 筑紫哲也の流儀と思想 (佐高信)

新聞、雑誌、テレビ、それぞれに新境地を拓いた稀代のジャーナリスト。ぶれない軸をもって巨大な権力と闘い抜いたその実像を、政治記者の原点を綴った未刊行の自筆メモや知人、家族の証言など多様な角度から描き出す。憲法や安全保障など国家の根幹をめぐる議論が沸騰し、拡大する格差など社会不安を背景に、社会が危険な熱を帯びる時代の、必読の書である。
筑紫哲也の書いた「若き友人たちへ」という本がある。数時間で読み終えて、なかなか感銘を受けたのを覚えている。権力と戦うジャーナリストはどこか「尖っている」イメージを持たれがちだが、筑紫の文体からは「まるさ」しか感じられなかった。そう言えば、同じく「優しい筆致」をもった司馬遼太郎も新聞記者出身であった。ふと思う、尖ってばかりのジャーナリストでは大成しないのかなぁ、と。
本書は、そんな「まるい」ジャーナリストである筑紫哲也の生きざまについて旧知の評論家が書いたものである。「現代の必読書」とか紹介されているが、そんな大仰なものでもないだろう。それなら「若き友人たちへ」や、司馬遼太郎の「21世紀に生きるきみたちへ」を買った方がよい。筑紫哲也という人が好きなら、興味があるなら、読めばいい。それだけだ。
少し心理的な距離を置いて読む必要がある本だ。著者の思い入れが強すぎて、偏っている感じがある。構成もしっかりしているとは言い難いし、ときどき結論が読み取れないこともある。
ただ、これが本書の味わいを深めてもいる。簡単にいえば、この本は故人を偲ぶ本である。よく知る友を思うとき、私たちは別に論理や構成を意識して思い出したりしない。「こんなこともあったな、そういえば、ああいうこともあったな…」と、そのつど泡のように浮かんでは消える心的景色に浸るのがせいぜいである。この本では、そういう著者の想いが素直に出ている。
▽筑紫哲也というひと
著者の数々の思い出や証言から、少しずつ筑紫哲也というひとの輪郭が浮かび上がってきた。おおらかで幅広い交友関係を持ち、批判にも耳を傾ける姿勢、反論してくる人とも友達になってしまう「人たらし」、その様は「闘わない戦後民主主義の象徴」とまで揶揄された。
著者は最後に、筑紫が「一字一会」という企画で「無」という字を挙げたとを書いていたが、これは彼の本質に迫るエピソードだろう。喧々諤々、多様な主義主張が交錯する言論界で大きな存在感を維持し続けるには、並ならぬ器量が必要だ。筑紫哲也は「無」だったから、ひとつの主義に偏重することがなかったからこそ、そんな世界を泳ぎ切ることができた。
友人の幅に偏りをつくらない。広く文化を愉しむ。反論を揉み潰さずに、きちんと取り上げる。こうしたことをするには、彼自身がキャラクターを埋没させて「無」にならなければいけないのである。世の中にはたくさんの「鋭い意見」があるが、それらが公正に闘うには丸い闘技場がなくてはならない。そんな空間となったのが、筑紫だったのだろう。
▽「竜馬がゆく」の姿勢
激烈な議論を避け、不党不偏の姿勢を貫き、柔らかな物腰を崩さず、幅広い交友関係を持つ。そんな著者の筑紫哲也像は「竜馬がゆく」の坂本竜馬を彷彿とさせた。烈しい情熱を持ちながら、それをおくびにも出さない。ただ、周りから軽んぜられることもない。「柔よく剛を制す」というが、それを地でいくような人。なかなかいるものではない。
もちろん竜馬と筑紫が被るといえば言い過ぎだろうが、少なくとも「理想のジャーナリスト」像として考える分には、良いのではないか。ときに「なまぬるい」と言われながらも、自分の姿勢を崩さないこと。これが「不敵のジャーナリスト」としてのしたたかさを生む。
不屈というより不敵なユーモアが抵抗には欠かせぬものだからである。
柔らかな笑顔と、親しみやすい丸みを帯びた性格。筑紫はそれを武器にすることで、長いあいだ権力と渡り合うことができたのだろうと推察する。
◆気に入ったフレーズ
新聞記者というのは読んで字の如く、新しいことを聞いて記す者です。
金や名誉や地位は、あるにこしたことはないが、それを目的にして他のもっと大事なものを失うのは馬鹿げている。
世間に通じるものは、もっと日常の部分、つまり文化なのです。文化に目配りがない硬派やリベラリズムの試みは、読者に届かない。
不屈というより不敵なユーモアが抵抗には欠かせぬものだからである。


宇宙はいつ、どのように始まったのか?人類永遠の謎ともいえるその問いには現在、ある解答が与えられている。ビッグバン・モデル。もはや「旧聞」の感さえあるこの概念には、実は古代から20世紀末の大発見へと至る意外なエピソードと人間ドラマが満ちていた。有名無名の天才たちの挑戦と挫折、人類の夢と苦闘を描き出す傑作科学ノンフィクション。
サイモン・シンの著作は、「フェルマーの最終定理」に続いて二作目。最近、科学ジャーナリストの本を読むことが多いが、そのきっかけになったのが彼だ。自分の知らない世界を、わかりやすく、面白く書き切る。並外れた知識と頭脳、情報網を持たなければできないことであるだろう。
この本は「ビッグバン・モデル」が発見されるまでの、長い長い科学者たちの奮闘を綴った物語である。この理論を生み出すために、幾人もの科学者や観測者たちが努力を積み重ねてきたのであった。
▽巨人の肩
「もしも私がほかの人達よりも遠くを見たとすれば、それは巨人たちの肩の上に立ったおかげなのです」
上巻のなかで、ニュートンのこんな言葉が引用されていた。偉大な先人たちの研究に基づいてはじめて、われわれはもっと新しいものを見ることができる。科学とはまさにそうして発展してきたのであり、「ビッグバン・モデル」もそうした累々たる科学者たちの功績の積み重ねに他ならない。
著者は、冒頭でビッグバン理論をこう讃えている。
ビッグバン・モデルは、夜空に見えるものすべての起源をエレガントに説明するという点で、人間の知性と精神が成し遂げたもっとも偉大な成果の一つである。
ここにおける「人間の知性」とは、単にわれわれの世代のそれに限ったものではない。紀元前の時代から蓄積された思索の全体をさすのである。プトレマイオスやコペルニクス、ガリレオ、ニュートン、アインシュタイン、ハッブルといった科学者を含めた総合的な叡智が、人類を「ビッグバン」という結論に導いたのである。
そうした発展のもとになったのが、理論と観測(実験)の追いかけっこだった。なにごとかを説明する理論と、それを裏打ちする観測がある。ときどき説明できない事態にぶつかれば、理論は修正される。理論によって観測結果が予言されるときもある。競合する理論の勝敗を、観測が握ることもある。さらに、まれに人類は理論を抜本的に覆すパラダイム・シフトの必要に迫られることもある。
こう見ると、科学の発展は決して直線的運動でないことがわかるだろう。それはまさに「紆余曲折」といった様相を呈すものだ。それでも、諦めの悪い人類は苦心の末になんとか一つの頂点にたどり着いた。これが本書における「ビッグバン・モデル」の位置づけである。それはまさに「巨人の肩」に乗って、乗って、を繰り返して、やっと開けた展望なのである。
ビッグバン・モデルを発明したのは誰かという問題はほとんど回答不能である。
本のこの一文は、こうした科学の発展に尽力したすべての人を最大限尊重した言葉であるといえよう。ほんとうに、誰か一人が欠けただけでも、この理論は今日の段階にまで到達しえなかったのである。
▽科学ノンフィクションの魅力
科学ノンフィクションの最大の魅力は、それがもっとも人間らしい営みであることだ。科学の根本である知的好奇心の存在は、人間が本質的に「世界」や「環境」にたいしてオープンであることの証左でもある。
くわえて、科学理論の発展には「試行錯誤」という人間味あふれるプロセスが不可欠だ。本の解説には「科学的手法とは、人間が間違いを犯すという現実を念頭に置くこと」と書いてある。本を読んでいて、正しい意見も間違った意見も、さらには偶然の発見ですら、すべてが理論の発展に資していたことが非常に印象的だった。山あり谷あり、は人の一生だけではない。科学の世界もそんな世界なのである。
緻密で冷たい感じのする「科学」の領域。これに「人間臭さ」を感じることができるようになったのは、科学ジャーナリストたちの著作を読むことで得たおおきな収穫だと思っている。
◆気に入ったフレーズ
ビッグバン・モデルは、夜空に見えるものすべての起源をエレガントに説明するという点で、人間の知性と精神が成し遂げたもっとも偉大な成果のひとつである。
「科学の大いなる悲劇、それは、美しい仮説が醜い事実によって打ち砕かれることだ」
テクノロジーは生をより快適にするために役立つのに対し、科学はひたすら世界を理解しようとする努力だ。
優れた科学者は常識に引きずられてはならない。
科学は、相補い合う二本の糸、すなわち実験と理論とがより合わさってできている。
われわれはここに存在して宇宙を研究しているから、宇宙の法則はわれわれの存在と矛盾しないようなものでなければならない。
ビッグバン・モデルを発明したのは誰かという問題はほとんど回答不能である。
ビッグバンは、空間の中で何かが爆発したのではなく、空間が爆発したのである。同様に、時間の中で何かが爆発したのではなく、時間が爆発したのである。空間と時間はどちらも、ビッグバンの瞬間に作られたのだ。
ビッグバン・モデルは人間の好奇心と知性に対する賛辞なのだと、世界に向かって語りかけるべきである。
宇宙論研究者は研究室の外に出て、ビッグバン・モデルは人間の好奇心と知性に対する賛辞なのだと、世界に向かって語りかけるべきである。


1995年1月、地震はすべてを一瞬のうちに壊滅させた。そして2月、流木が燃える冬の海岸で、あるいは、小箱を携えた男が向かった釧路で、かえるくんが地底でみみずくんと闘う東京で、世界は静かに共振をはじめる…。大地は裂けた。神は、いないのかもしれない。でも、おそらく、あの震災のずっと前から、ぼくたちは内なる廃墟を抱えていた。深い闇の中に光を放つ6つの黙示録。
表紙には「Haruki Murakami after the quake」とある。もともと「地震のあとで」という連作だったようだ。阪神淡路大震災を受けて村上春樹が綴った短編集。震災の扱い方にも、村上春樹「らしさ」が出ている本だと思う。
▽本のなかの「震災」
村上春樹は、本の舞台を震災にしていない。登場人物にも、被災者はいっさい出てこない。あらすじにもある。物語は東京で、釧路で、茨城で、タイで、それぞれ展開する。震災が主役になることはない。
そのかわり、震災は全ての物語にうっすら登場する。霞んでぼやけた「震災」が、どのストーリーの背景にもある。震災と無関係な人達のはずなのに、彼らの物語は確かにその影響を受けていることが感じられる。逆説的かもしれないが、そんな短編が「震災」のもつ静かな衝撃の大きさを示しているかのように見える。
村上春樹は「震災」を正面から扱ったのではない。震災の目鼻立ちを、ありありと描写したりはしなかった。そのかわりに「周辺」を描くことを通じて、「震災」の輪郭を撫でるようなかたちで浮き彫りにしたのである。この表現方法が「村上春樹らしいな」と思うのは、僕だけだろうか。
短編集だから、それぞれの物語について考えたことを書いてみる。
非常に素敵な本だったと思う。
▽UFOが釧路に降りる
モテるけれど中身のないサラリーマン、小村が妻に逃げられた後の話。ついでに釧路へ小さな荷物を届けて、そこで女と知り合うというもの。
小村は「中身のない人」、愛すべき故郷を持つ妻は「中身のある人」という捉え方で良いだろうか。女は「明日地震が起こるかもしれない」と言い、小村に毎日を楽しむよう勧める。
「小村さんの中身が、あの箱の中に入っていたからよ。小村さんはそのことを知らずに、ここまで運んできて、自分の手で佐々木さんに渡しちゃったのよ。だからもう小村さんの中身は戻ってこない」
彼女の言葉は、彼が自らの中身を過去に探しても、もはや手に入れることができないことを示している。そして最後のセリフ「でも、まだ始まったばかりなのよ」では、小村が遠く離れた震災を踏まえて、彼自身の「中身」を獲得していくための日々がスタートすることを暗示されている。
▽アイロンのある風景
こちらも震災とは遠い茨城県の話。それでも、近畿の震災で多くの人が亡くなったという事実は登場人物たちに暗い影を落としている。「死ぬこと」について考えるようになってしまう。
「自分がどんな死に方をするかなんて、考えたこともないよ。そんなこととても考えられないよ」
「それはそうや。でもな、死に方から逆に導かれる生き方というものもある」
三宅さんの描いた「アイロンのある風景」という絵は何を意味するのか。
空間に閉じ込められているわけだから、これは三宅さんの「死の予感」の身代わりなのかもしれない。
「火ゆうのはな、かたちが自由なんや。自由やから、見ているほうの心次第で何にでも見える」
彼らは、焚き火を見ることでとめどない会話をはじめ、やがて「死」について語り始める。それは火によって、震災以来みんなが抱いてきた漠然とした不安を顕在化させたものであったかもしれない。順子と三宅は、最後に「一緒に死のうか」とまで言ってしまう。
「焚き火が消えたら、寒くなっていやでも目は覚める」
最後のセリフ。結末は書いていないが、焚き火が消えれば彼らも暗い考えから解放されるのではないかと思う。彼らの不安は「火」によって顕在化したのだから、それが消えれば再び潜在化するはずである。
▽神の子どもたちはみな踊る
震災の支援活動に母親が赴くことで、一人になる時間を与えられた神の子・善也の内部をめぐる話。ラストシーンでは救急車のサイレンや風、草にも神が宿っているかのように思えてくるのが印象的だった。
神の子なのに棄教した善也が、ラストのシーンで自分たちを「神さま」を認めるようになる、というのが物語の展開だ。
神が人を試せるのなら、どうして人が神を試してはいけないのだろう?
神の子らしからぬ善也の考え方が興味深かった。
▽タイランド
神戸にいる男に対してトラウマを持つ甲状腺の専門医、さつきがタイに旅行へ行く話。
「言葉は石になる」というフレーズが印象的だった。震災を生き永らえたという「男」を忘れ、さつきは夢を持つようになっていく。
生きることだけに多くの力を割いてしまうと、つまく死ぬることができなくなります。
「生きること」に対してすこし突き放したような生き方が、逆によく生きることに繋がる。重い過去を「石」にして抱え込むより、適度に力を抜いて忘れてしまう。そんなメッセージが伝わってきた。
▽かえるくん、東京を救う
しがないサラリーマン片桐のまえに「かえるくん」が現れ、東京大震災を起こそうとする「みみずくん」と決闘する話。村上春樹らしい不思議な世界観だと言えよう。現実と非現実の境目がよく分からない物語、「アフターダーク」にも通じるものがある。
「かえるくん」はずっと報われることのなかった片桐の内的な欲望のあらわれだったのではないか。「東京を救った」ことで片桐の中身は満たされ、そのために「かえるくん」は姿を消さざるを得なかったのだと思う。
▽蜂蜜パイ
大学時代からの親友の間での三角関係をめぐる話。文学者らしく「自分の人生を損ね続けている」淳平が、少しずつ人生に積極的になる姿を描く。彼の変化には様々なきっかけがあるが、全体的な背景には、ぼんやりと「震災」というものが見えている。それは小夜子との関係に限らず、小説の作風にも影響するものだ。淳平の生き方の変化を迎えて、どこか明るい希望が見えてくるような終え方をしている。
◆気に入ったフレーズ
「どれだけ遠くまで行っても、自分自身からは逃げられない」
「小村さんの中身が、あの箱の中に入っていたからよ。小村さんはそのことを知らずに、ここまで運んできて、自分の手で佐々木さんに渡しちゃったのよ。だからもう小村さんの中身は戻ってこない」
炎は人の心を温めるためにそこにある。
「火ゆうのはな、かたちが自由なんや。自由やから、見ているほうの心次第で何にでも見える」
「若いときからあんまり知恵が働いてそつがないとな、それはそれでつまらんもんや」
「予感というのはな、ある場合には一種の身代わりなんや」
「死に方から逆に導かれる生き方というものもある」
神が人を試せるのなら、どうして人が神を試してはいけないのだろう?
僕らの心は石ではないのです。石はいつか崩れ落ちるかもしれない。姿かたちを失うかもしれない。でも心は崩れません。僕らはそのかたちなきものを、善きものであれ、悪しきものであれ、どこまでも伝えあうことができるのです。神の子どもたちはみな踊るのです。
生きることだけに多くの力を割いてしまうと、つまく死ぬることができなくなります。
ぼくらの人生は勝ち方によってではなく、その敗れ去り方によって最終的な価値を定められているのです。
「何かをわかっているということと、それを目に見えるかたちに変えていけるということは、また別の話なのよね。そのふたつがどちらも同じようにうまくできたら、生きていくのはもっと簡単なんだろうけど」
「でも、お前にはまだ本当にはわかってないんだ。何故かというと、お前は救いがたくアホだからだ。しかしアホでもかまわない。それほど悪い人間じゃない」
「俺は自らの人生を損なっている。でもな、淳平、これはどうしようもないことだったんだ。止めようもないことだったんだ」
「僕と君とは友だちでいるべきなんだ。どちらがけが与え、どちらかだけが与えられるというのは、本当の友だちのあり方ではない」


要点
・難解な長編小説
・「現実」と「非現実」の境界とは
・エリが「眠り姫」となった意味
・クライマックスの意味
時計の針が深夜零時を指すほんの少し前、都会にあるファミレスで熱心に本を読んでいる女性がいた。フード付きパーカーにブルージーンズという姿の彼女のもとに、ひとりの男性が近づいて声をかける。そして、同じ時刻、ある視線が、もう一人の若い女性をとらえる。新しい小説世界に向かう、村上春樹の長編。
村上春樹の本は難しい。ストーリーを追っていても、それが何処に向かっているのかが判然としない。読書メーターで他の人たちの感想を覗いてみる。どの人も、掴みかねている様子だった。「アフターダーク」と題されたこの作品、どうやら読者を独特の世界観に誘った挙句、まいてしまう曲者らしい。
▽「真夜中には真夜中の時間の流れ方があるんだ」
登場人物の一人がそう言っていた、「アフターダーク」の世界。
街を埋めていた群衆は姿を消す。活気に支配されていた空間に、重たい暗闇が腰を下ろす。飲食店の明かりと、怪しく光るネオンサインが、夜の到来に虚しい抵抗をこころみる。「アフターダーク」、多くの人が眠りにつくとき、普段とは違う都市の魅力が頭をもたげる。
村上春樹は「視線」を語り手とする独特な手法と、夜の奇妙な雰囲気を効果的に使って、非現実と現実の境目を相対化させる。「アフターダーク」そのものが一種の非日常であり、そこで不可思議な出来事が起こっても、読者は受け入れてしまう。ノンフィクションを描くのに適した舞台だといえよう。
「ただ一人でどっか家じゃないところにいたかったんです。夜が明けるまで」。
そう語る主人公のマリは、19歳の少女。彼女の姉であるエリの友達で、顔なじみの高橋が、マリに話しかけてくる。これが物語のはじまりだ。
マリは夜を通じてさまざまな人と出会い、複雑な人間模様の結節点となっていく。一方、裏で誰にも知られることなく、不気味に「眠り姫」エリのエピソードも展開していく。下手な推理小説よりもミステリアスである。
▽現実と非現実の境目
摩訶不思議な雰囲気を醸し、どこかホラーのテイストさえ感じさせる「アフターダーク」は、それが純然たるフィクションであることを否定している。というのも、登場人物のセリフや語りが「現実と非現実の境界」を相対化させていくからだ。
「二つの世界を隔てる壁なんてものは、実際には存在しないのかもしれないぞって」
「私らの立っている地面いうのはね、しっかりしてるように見えて、ちょっと何かがあったら、すとーんと下まで抜けてしまうもんやねん」
終盤には、こんな象徴的な場面がある。
高橋は夜中に展開したストーリーの一つと交錯しかかる。マリが助けた売春婦の元締めである、中国人マフィアからの電話に出てしまうのである。「逃げられないよ」と、高橋にとっては「無関係な人」の無機質な声が伝える。朝を迎えて「アフターダーク」の魔法が解かれていた彼は、こんな風に考える。
いずれにせよ、こっちには関係のないことだ、と高橋は自分に言い聞かせる。それはおそらく、都会の裏側で人知れずおこなわれている荒々しく、血なまぐさい行為のひとつなのだ。
ちがうちがう、と読者は言いたくなる。高橋は気づかなくても、その「血なまぐさい行為」はマリ一人を隔てて彼と繋がっていたのである。
普段の私たちは、「現実」と「非現実」を別世界のことだと考える。ところが、意外と近いところに「それ」は眠っている可能性もある。いつ我々がそこに足を踏み入れるか、分からない。そうやって「アフターダーク」は、日常への猜疑を読者の心に植え付けているような気がする。
ちなみに、この高橋はマリとの別れ際にこんなことを言っている。
「ねえ、僕らの人生は、明るいか暗いかだけで単純に分けられているわけじゃないんだ。そのあいだには陰影という中間地帯がある。」
私たちの住処たる「現実」も実は「中間地帯」にすぎないことが、ほのめかされているように思える。ただ、こう言う高橋自身も、そのことに気付いていない。
▽マリの姉の「眠り姫」、エリ
雑誌でモデルをするような美貌の持ち主であるエリは、しっかりとした自己を確立したマリとは対照的に、「現実を演じ続けてきた存在」として描かれる。彼女はある日「眠り続ける」ことを宣言し、それ以来ほとんど起き出さない「眠り姫」になってしまう。
姉妹が正反対に育っていく原体験として、「暗くなったエレベーターに二人で閉じ込められた」という事件がある。二人はそのとき強く抱き合って一つになったが、以来エリは「守る人」として、マリは「守られる人」として分化してしまったようだ。美貌のエリは世間の関心を一身に集めていたというが、これもマリを世間から「守っていた」のかもしれない。
エリの「眠り」は「マリの成長」と少なからぬ関係がありそうである。マリは危険な「アフターダーク」の世界を渡り歩き、単身で留学に行けるほど強くなった。反面、それは「マリを守る人」としてのエリにたいする否定でもあったのではないか。
自らの役割を喪失して美しい「眠り姫」となったエリは、徐々に「不可思議」の世界に呑み込まれていく。さっきも言ったが、人は簡単に「そこ」へ踏み込める。陽の光が届かない「アフターダーク」の世界では、その境界はさらに曖昧になる。エリは眠ったまま別世界に閉じ込められ、夜明けとともに現実に帰ってくるが、それは彼女が「異世界」に近づきつつあり、「中間地帯」からこぼれ落ちそうになっていることを印象づける。
そんなエリを救えるのは、「強くなった」マリを措いて、ほかにいない。
物語のクライマックス。マリはエリのベッドにもぐりこみ、彼女の耳元で「エリ、帰ってきて」と囁く。非常に分かりにくいが、あれは「アフターダーク」の不可思議を切り抜けたマリが、それに呑み込まれそうになっているエリを救う場面なのではないかと思う。
マリは長い闇の時刻をくぐり抜け、そこで出会った夜の人々と多くの言葉を交わし、今ようやく自分の場所に戻ってきたのだ。彼女を脅かすものは、少なくとも今のところ、まわりには存在しない。
マリを脅かすものがなくなった朝。「アフターダーク」の魔法を切り抜けた彼女は、姉を救い出すためのあらたな一歩を踏み出すのである。
◆気に入ったフレーズ
「トーストひとつ注文通りに焼けない文明にどんな価値があるんだろう?」
「つちのお姉さんには、トロンボーンとオーブントースターの違いだって、きっとよくわからないよ。グッチとプラダの違いなら一目でわかるみたいだけど」
「人にはそれぞれの戦場があるんだ」
「そういうんじゃないんです。ただ一人でどっか家じゃないところにいたかったんです。夜が明けるまで」
「思うとか思わないとか、そういう問題じゃないんだよ。19歳であるってのはそもそもそういうことなんだ」
「CDって好きじゃないんだ」
「どうして?」
「ぴかぴかしすぎてる」
「あんたカラスかい?」
「真夜中には真夜中の時間の流れ方があるんだ」
「音楽を演奏するのは楽しい?」
「うん。音楽を演奏するのは、空を飛ぶことの次に楽しい」
「何かをうまくやることと、何かを本当にクリエイトすることのあいだには、大きな違いがあるんだ」
「二つの世界を隔てる壁なんてものは、実際には存在しないのかもしれないぞって」
「一人の人間が、たとえどのような人間であれ、巨大なタコこような動物にからめとられ、暗闇の中に吸い込まれていく。どんな理屈をつけたところで、それはやりきれない光景なんだ」
「僕はそのときこう感じたんだよ。お父さんはたとえ何があろうと僕を一人にするべきじゃなかったんだって」
「つまりさ、一度でも孤児になったものは、死ぬまで孤児なんだ」
「私らの立っている地面いうのはね、しっかりしてるように見えて、ちょっと何かがあったら、すとーんと下まで抜けてしまうもんやねん」
「人間ゆうのは、記憶を燃料にして生きていくものなんやないのかな」
いずれにせよ、こっちには関係のないことだ、と高橋は自分に言い聞かせる。それはおそらく、都会の裏側で人知れずおこなわれている荒々しく、血なまぐさい行為のひとつなのだ。
「暗いのって、けっこう疲れるんだね」
「本来はみんな寝ていなくちゃいけない時間だからね」
「ねえ、僕らの人生は、明るいか暗いかだけで単純に分けられているわけじゃないんだ。そのあいだには陰影という中間地帯がある。その陰影の段階を認識し、理解するのが、健全な知性だ」
「君はとてもきれいだよ。そのことは知ってた?」
マリは長い闇の時刻をくぐり抜け、そこで出会った夜の人々と多くの言葉を交わし、今ようやく自分の場所に戻ってきたのだ。彼女を脅かすものは、少なくとも今のところ、まわりには存在しない。


要点
・わたしたちの胃袋に強烈な一撃を食らわせる本
・なぜ旅に出ていったか
・私たちは何も知らない、ということ
人は今、何をどう食べているのか、どれほど食えないのか…。飽食の国に苛立ち、異境へと旅立った著者は、噛み、しゃぶる音をたぐり、紛争と飢餓線上の風景に入り込み、ダッカの残飯からチェルノブイリの放射能汚染スープまで、食って、食って、食いまくる。人びととの苛烈な「食」の交わりなしには果しえなかった、ルポルタージュの豊潤にして劇的な革命。現代の「食」の黙示録。
元共同通信社特派員である著者が、「食」という人間の根本的営みをもとに世界を見て回り、切りとる。「もの食う人びと」は、そんなルポルタージュだ。東南アジア、中欧、アフリカ、ロシア、そして韓国。「食」をめぐる旅の記録は、我々の知らない世界を鮮明に描き出している。
読書メーターで感想を見かけ、本屋に入った。手に取る。巻頭では色鮮やかな数枚の写真が、多様な「食」の現場を捉えている。本文を読むまえから、読者に想像力を働かさせる工夫だろうか。面白そうだ、迷うことなく購入した。
▽なぜ「飽食の国」を出るのか
ジャーナリストは「人の不幸でメシを食う職業」と言われる。
差別、貧困、犯罪、不正、戦争…そうしたものの陰で泣く人びとの声と向きあい、世界に発信する。そういう意味では、「飽食の国」である日本から旅立った著者の行動は、ジャーナリストの本能に由来するものだろう。
あとがきには、こう書かれている。
私はたくさんの悲劇を尻目に旅をつづけ、悲劇から悲劇へと渡り歩いた果てに、いま平然と生きてあるという自責に似たなにかの感情が抜けない。
「飽食」が常態と化した日本にたいする違和感が、旅への大きな原動力となったのだろう。悲劇から悲劇へ、ジャーナリストはそれを目撃しに行くことを使命だと考えている。
目を覆いたくなるような、巨大で歪なゲンジツ。戦うためには、まず、それを直視しなければいけない。ジャーナリスト特有の考え方かもしれない。
▽「食」に軸を据えた意味
ビニールハウスふうの無菌、無風空間から世界を眺めているのがついに嫌になったのである。
筆者は、この旅についてこう述べている。共同通信社で世界各国からあがってくる情報を取りまとめ、編集する。彼の仕事はもちろん重要だったはずだが、恐らくそれだけは見えてこないものがあったのだろう。
私たちは新聞やテレビを見ただけで、世界が分かった気になっている。多くのデータや数値が、さも重要なものであるかのようにディスプレイに映し出される。怒りに燃えた民衆の表情が、紙面にはりだされる。指導者同士の政治的駆け引きが、分かりやすい図で表現されている。それだけで、私たちはなんの躊躇いもなく世界を語れる。
そのじつ、私たちは何も知らない。爆撃音がどのように人間の心をかき乱すのかを知らない。痩せ衰え、ただ死を待つばかりの少女の眼は輝いているのか、知らない。安い賃金で、遠い豊かな国の人びとが飼うペットのために缶詰を作っている人の気持ちを、考えたことがない。
著者はそこに勇猛果敢に切り込んだ。
世界は情報ではない。世界は世界である。
人間は数字や図式で説明されるものではなく、聞き手が全身全霊で感じるものである。著者が「食う」という原始的な営みに注目したことは、データとの「にらめっこ」状態から脱するうえでも、少なからぬ意義を持っただろう。それは「生身の人間と対峙する」という著者なりの所信表明だったに違いない。
この本、少々ショッキングであると言われる。そうだろう、「飽食の国」でなんの疑いもなく肥え太らされている私たちの腹に、強烈なパンチを食らわせてくる。
世界は広く、残酷だ。こんな表現では不十分なほど、そうなのである。
おそらく百万の言葉を費やしたとしても、私たちはついに世界を表現することはできないだろう。
夕飯は少なめだったはずなのに、身体が重い。この本によって「食らわされた」現実が、頭のなかに拭いがたい何かを残した。
消化不良。おそらく死ぬまで消化されることはないだろう。
◆気に入ったフレーズ
ただ一つだけ、私は自身に課した。噛み、しゃぶる音をたぐり、もの食う風景に分け入って、人びとと同じものを、できるだけいっしょに食べ、かつ飲むこと。
「食」ほどすてきな快楽はなく、しかし、容易に差別の端緒になる営みもない。
メンツをかけた米国主導の軍事行動が、国連平和維持活動の名を借りて、すべてに優先している。平穏な食はここにない。
奇食に見えて、しかし、奇食など世界には一つとしてない。
高邁に世界を語るのでなく、五感を頼りに「食う」という人間の絶対必要圏に潜りこんだら、いったいどんな眺望が開けてくるのか。それをスケッチしたのが、この本なのだと思う。


要点
・構成、描写に光るドストエフスキーの才能
・「虐げられた人びと」への眼差し
・「苦しみのエゴイズム」への深い洞察
・自分にとって特別な作品
民主主義的理想を掲げたえず軽薄な言動をとっては弁明し、結果として残酷な事態を招来しながら、誰にも憎まれない青年アリョーシャと、傷つきやすい清純な娘ナターシャの悲恋を中心に、農奴解放を迎え本格的なブルジョア社会へ移行しようとしていたロシアの混乱の時代における虐げられた人びとの姿を描く。人道主義を基調とし、文豪の限りなく優しい心情を吐露した抒情溢れる傑作。
タイトル通り、過酷な運命や軽薄な金持ちによって「虐げられた人びと」の群像を描いた作品である。主人公と親しい娘であるナターシャの家族と、主人公が家に引き取ることになった少女ネリー。物語における中心人物は、みな抗いがたい事情によって人生をめちゃくちゃにされてしまった者たちだ。
物語の構図を理解するのには少し時間を要するが、一度把握すればたちまち読みやすくなる。後半では、エンディングまで読者をぐっと惹きつけるドストエフスキー特有の魅力が感じられるようになるはずだ。
本を読んで泣いたことは一度もなかった。涙で文字が見えなくなるほど感銘を受けたのは、この本が初めてである。これまで読んだ本の中で、一番だと言えるかもしれない。読んだ場所がマクドナルドでなければ、なお良かっただろうが。
▽二種類の「虐げられた人びと」
先ほども述べたように、ナターシャの一家とネリーという二つの「虐げられた人びと」が主人公を通じて結び付けられ、その交錯によって劇的に展開していく。
ドストエフスキーは彼らに二つの終幕を用意した。一つは過酷な運命に揉まれながらも再び喜びを見出すハッピーエンド。もう一つはとうとう運命に打ち克つことができず、激しい復讐の炎に焦がれながら命を絶つバッドエンド。だから、この作品を一言で表すことは難しい。注目する人物によって、その色がまったく異なるのである。
こうした複雑な作品のなかで、ドストエフスキーの才能は遺憾なく発揮されている。
まず、複雑な事件を描いているにもかかわらず、彼の語りからはゴチャゴチャしているという印象が全く感じられない。ロシア文学特有のしつこさはあるだろうが、登場人物たちは複雑に入り込みすぎることなく、しかもそれぞれがきちんと物語に効果をもたらしている。一言でいえば、人間関係における化学反応が、過不足なく起こっている。
また、ドストエフスキーは別々の「虐げられた人びと」の物語を一つの作品のなかで美しく収めている。明暗が分かれる二つの終幕によって、作品はご都合主義にも、救いのなさすぎる悲劇にも偏ることがない。これもなかなか出来ることではないだろう。
さらに圧巻なのは、何といっても終盤におけるネリーの語りの部分である。物語で一番の泣かせどころで、著者はセリフと語り手である少女の描写をタイミングよく切り替え、テンポの良さで読者を引き込むとともに、深い感動をもたらすように工夫されている。
加えて、著者の「虐げられた人びと」に対する鋭い洞察が物語に深みをもたらしているのは言うまでもない。
ドストエフスキーの良さが詰まったこの作品は、「白痴」や「罪と罰」ほど長くもない。これまで僕が読んだ彼の著作のなかで一番だと思う理由は、そこにもある。
▽「虐げられた人びと」への洞察
この前、ドストエフスキーの「貧しき人びと」の書評でも書いたが、彼の考えによれば社会的弱者が身の破滅をもたらすプロセスは二段階ある。
まず、彼らは外部から圧迫される。困窮、人々の嘲笑、病気などなどの条件が、彼らを少しずつすり減らしていく。そして自尊心を失った彼らは、やがて自分にむかって引き金を引くようになる。「自らにむかって引き金を引く」という行為だけを見れば、彼らの自業自得に見えてしまうのだが、背後には「常日頃の抑圧」という現実が横たわっていることを忘れてはならない。
この「虐げられた人びと」でも、同様のことが描かれていた。運命によって弄ばれているうちに、彼らは少しずつ自らを貶めることに快楽を見出すようになってしまう。つまり、身の破滅に自分から近づいていってしまうのだ。
苦痛をいっそう掻きむしり、苦痛を楽しむやり方は、私にはよく理解できた。それは運命にさいなまれしいたげられ、しかも運命の不当さを意識している多くの人びとの楽しみなのである。
わざと自分の傷口を痛めつけているようだった。絶望と苦悩とが、そうすることを要求しているのだ…。多くのものを失った心のもちぬしには、非常にしばしば見られる現象である!
ここをどう克服するか。これが作中における「虐げられた人びと」の最大の課題となって現れる。こうした人間心理の機微を克明に描くあたり、さすがドストエフスキーと言うしかない。
▽共感以上のなにか
ここからは個人的な話になるが、僕はたまたま中学時代に作文コンクールで入選したことがあった。その経験が今でも「文章」というものに対する自分のこだわりに繋がっている。
内容は「怪我で部活の最後の大会に出場できなかった」という自分の経験だった。そこで書いたことは、まさにドストエフスキーが上で指摘したような心理状態だったと思う。努力が報われないなら「悲劇のヒーロー」になってしまおうという考えが、僕が書いた原稿用紙10枚分の主題だった。作文の中で僕の心理状態は絶えず揺れ動きながら、時間とともに結末へと向かっていく。
手前味噌になってしまったが、こんな作文を中学時代に書いた僕にとって、ドストエフスキーのいう「苦しみのエゴイズム」という概念は非常に共感できるものだった。虐げられた人びとは、「自分の苦痛を楽しむ」ということにえもいわれぬ魅力を感じてしまう。
この単語を見たとき、彼によって自分の心理が言い当てられたのだと思わされた。それは「共感」というより、もっと恐ろしい感覚だった。この作品を読んで自分がはじめて泣いたのも、こういうところにあるのかもしれない。一度自分と本をリンクさせてしまった以上、あとはドストエフスキーが巧みに敷いた路線に乗っかって読み進める以外にできなかった。
「虐げられた人びと」は、僕に奇妙な体験をもたらしてくれた本だった。すっかり自分の心と本が共鳴しているようだった。
特に心を動かされた箇所には付箋を貼っているのだが、いまでもそのページを開くと胸が少し苦しくなる。「虐げられた人びと」の怨嗟と共通する強い感情を、僕はまだ心のどこかに持っているのかもしれない。
◆気に入ったフレーズ
狭苦しい部屋に住むと考えることまで狭苦しくなってしまう。
人は一年のうちに十年分の人生を生きる場合があるものだ。
私が言いたいのは、いいこと、父親の愛情だって嫉妬深いものなのよ。
金というものは、場合によっては、人の立場や、人の決断を自由にする効能があるんだ。
どんな愛情もいずれは消えるが、不釣合いということは永久に残るからね。
愛情は行為によって証明されるものなのだ。
なんのために、どうして愛したかなどというのは、想像しにくいことです。
苦痛をいっそう掻きむしり、苦痛を楽しむやり方は、私にはよく理解できた。それは運命にさいなまれしいたげられ、しかも運命の不当さを意識している多くの人びとの楽しみなのである。
私はあの人を愛していたのか、いなかったのか、私たちの恋愛は一体なんだったのか。
わざと自分の傷口を痛めつけているようだった。絶望と苦悩とが、そうすることを要求しているのだ…。多くのものを失った心のもちぬしには、非常にしばしば見られる現象である!
「ああ!私らは卑しめられ、侮辱されようとも、ふたたび一つに寄り合いました。私らを卑しめ侮辱した傲慢不遜なやつらは、勝手に凱歌をあげるがいい!私らに石を投げるがいい!」

228.遥かなる未踏峰 上下(ジェフリー・アーチャー)

要点
・イギリスのベストセラー作家、ジェフリー・アーチャー
・英雄的登山家、ジョージ・マロリーの生涯
・「そこに山があるから」、情熱の核心とはなにか
世界最高峰への初登頂はいったい誰が、いつ成し遂げたのか? エヴェレストに挑み「なぜ登るのか?」と訊ねられ「そこに山があるからだ」と答えた悲劇の登山家ジョージ・マロリー。彼は頂上までたどり着くことができたのか?いまでも多くの謎に包まれている彼の最期。愛妻家としても知られている山男が残した手がかりとは。稀代の英雄の挫折と栄光に巨匠が迫る、山岳小説の白眉。
ジェフリー・アーチャーは父から勧められた。1940年にイギリスに生まれ、政界入りも果たした作家だ。
「今世紀最大のストーリーテラーだ」というので、手に取ってみることにした。三日後、僕は父の言葉が決して誇張でなかったことを知ることになる。
山岳小説といえば、極限状態の中で山に挑み続ける「自然と人間」の構図が基本になるだろう。
ところが、この小説ではイギリス王立地理学会における「人間と人間」の間で行わる「政治」や、主人公をとりまく人々の愛情に満ちたエピソードにも溢れている。
非常に読みごたえのある一冊で、貪るように読んでいたと思う。とても面白かった。
▽ジョージ・マロリー
ケンブリッジを卒業したエリートでもあったマロリーは、決して単なる「山バカ」ではない。写真を検索してみればわかる。ものすごいイケメンだ。登山で輝かしい功績を残す一方で、兵役免除ができるにもかかわらず第一次大戦を戦い、その傍ら妻を愛しつづけ、友も大切にした。非常にすぐれた人格の持ち主であった。
これを「山岳小説」というのは、若干語弊があるかもしれない。彼の人生は山だけではない。作中では、普通の家庭を望みながら、なぜか山に吸い寄せられてしまう彼の苦悩が見事に描かれている。「山を登ること」の魅力に呪われた人生だったと言っても、言い過ぎではないかもしれない。
▽「そこに山があるからだ」
「なぜわざわざ山に登るんですか?」
「その質問の答えは簡単だ」ジョージは言った。「そこに山があるからだ」。
ジョージ・マロリーの名前は知らなくても、この名言は知っている人が多いだろう。
この名言は、人間の情熱というものの核心を鋭く突いたものだ。
山があるから、登る。そこに理由は介在しえない。
説明を要しないものこそが、情熱ではないか。好きであることに理由を求めているあいだは、人はそれを本当に好きではないのだ。マロリーの言葉は、そのことを詩的に、かつ明確に示している。
僕の読んできた本を思い出してみれば、フェルマーの最終定理に挑み続けた数学者たちや、コンピュータでプロの棋士に勝とうと試みるプログラマーたちも同様だった。彼らもまた、成功するか分からない試みに、理由なき情熱を捧げたのである。
彼女をこんなに愛しているとわかっているのに、なぜおれはいつもこうやって離れてしまうんだ?
自分を見送る妻をみとめながら、作中のマロリーはこう煩悶する。
「そこに山があるから」。情熱が、理由のない大きな力が、彼にエヴェレスト山頂への長旅を強いた。マロリーは誓う。エヴェレストに登ったら、山頂に妻の写真を置いてきたら、今度こそ俺は登山の呪縛を断ち切ってやる…。
そして、彼は帰らぬ人となった。
人間の情熱は、あらゆる説明を拒否するほど強く、不条理だ。「そんなことをして、何になるんだ」と他人は言う。何にもならないことは、張本人が一番知っている。それでも、バカバカしいと知りながら、取り組んでしまう、戦ってしまう。一種の呪縛なのである。
▽湧き上がる情熱
登山家でない僕は、彼の情熱の源を知ることはできない。でも、それが滾々と身体の内側から湧き上がってくる感覚は、知っているつもりである。
たとえば、グローブを手にはめたときの、何とも言えない小さな喜び。バットを握ったとき、知らずに湧きたつ闘争心。ボールを握ったときに疼く衝動。
たとえば、まっさらな原稿用紙を前にしたときの昂揚感。テーマを知らされたとき、頭の中になにかが閃く感覚。頭の中に浮かぶ文章に、ペンの進みがついてこない、あのじれったい感じ。書いた文章を推敲するときにちらつく、「美しい文章」に近づいているという実感。書き終えた後、真っ黒になった原稿用紙を眺める、あの愉快な気持ち。
僕はこうした「つまらぬもの」が好きでたまらない。好きなのだから仕方がない。
マロリーがどんな気持ちで山と対峙しているのかは、これをもとに想像するしかない。
おそらく、足跡を残す喜びがあるのだろう。彼が発見し選んだルートは、斜面に描かれた渾身の自己表現となるのであろう。一歩一歩と山頂に近づいているときの、じれったい気持ち、そして苦しみ。そして山頂で何を味わうのか、想像しただけでも晴れやかな気分になる。
「好き」に正直であること。「好き」を究めること。誰もが憧れる一方で、誰もがそうすることを怖がっている。
悲劇的な結末を迎えるマロリーの生涯に対しても、ついつい私たちは危険な羨望の念を抱いてしまうのである。
◆気に入ったフレーズ
「格好のいい失敗よりは、格好が悪くても成功するほうがいいんです」
「だれだろうと女ってのは、男がその領域の権威になることなんか許してくれないよ」
「そこに山があるからだ」
「いま引き返せば、少なくとも生きてはいられるだろう」
「おれに言わせれば、それは生きていることにならない」
