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本と6ペンス

The writer should seek his reward in the pleasure of his work. ("The Moon and Sixpence" Somerset Maugham)

作文 「格差」

格差
40分 800字

留学や海外旅行に行くと、物乞いの多さに圧倒される。自分に何ができるのか、その度に考えさせられるのだが、結局「何も変えることなどできない」ということに思い至るのである。

世界の1%の人間が大半の財産を所有しているという。この巨大で歪な構造が、道行く物乞いたちの裏側にある。「一人の学生ふぜいに何ができる」というのが、真っ当な思考というものだ。なんとか言い訳を考えて、彼らのことを頭の隅に追いやる。誰もがそうして差し出された掌の前を素通りしてきたはずだ。

ドストエフスキーの「貧しき人びと」という本がある。そこの一文に、深い感銘を受けた。主人公も貧しい人物で、彼は子供の物乞いの願いを聞き入れられなかった。そのときの心情を、彼はこう綴った。

「わたしになにができるでしょう、結局なにもやりませんでした。でも、とってもかわいそうでした!」

多くの物乞いの前を素通りするうちに、自分の最も純粋な感情を鈍らせてしまっていたことに気がついた。「とってもかわいそうでした!」。なんて素直で、なんて核心に迫った一言なのだろう。

格差という問題と戦ってきたのは、政治学だった。マルクスやロールズが代表的な論者だろう。あまりにひどい格差は、個々人が個性を自由に発揮することを妨げる。ルソーも「誰もが他の市民を買えるほどに豊かでなく、他の市民に身を売らなければいけないほどまずしくない」状態を理想としていた。

それでも、現実は理想から逆の方向に進み続けているように思える。私たちに求められているのは、せめてこうした状況への違和感を抱き続けることではないか。アダム・スミスが人間の持つ「共感」の力を重視したように。「とってもかわいそうでした!」この気持ちから逃げ出さず、対峙すること。無力な私たちにできる、数少ないことの一つである。

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227.貧しき人びと (ドストエフスキー)

要点
・ドストエフスキーのデビュー作
・著者が見抜いた「貧しさ」の本当の在り処
・貧しさの何が問題なのか 九月九日の書簡
・人間的自負の感動的発露 九月五日の書簡
・二人の別れをもたらしたのは何か


世間から侮蔑の目で見られている小心で善良な小役人マカール・ジェーヴシキンと薄幸の乙女ワーレンカの不幸な恋の物語。往復書簡という体裁をとったこの小説は、ドストエフスキーの処女作であり、都会の吹きだまりに住む人々の孤独と屈辱を訴え、彼らの人間的自負と社会的卑屈さの心理的葛藤を描いて、「写実的ヒューマニズム」の傑作と絶賛され、文豪の名を一時に高めた作品である。

「貧しき人びと」はドストエフスキーのデビュー作。
貧しさのために卑屈になりがちな自己と戦いながら、たえず優しくあろうとする主人公の姿が胸をついてくる。また、貧しさのために彼らが運命や偶然といったものに対して非常に脆弱である様もよく表現されている。


▽ドストエフスキーが考える「貧しさ」の在り処
社会の中に「貧しき人びと」がいるということ。人類に半ば宿命的な形でつきまとう現実である。

かつて、貧困はそのまま衣食住に関わり、生存の危機を意味した。「死に至る貧困」と表現できるだろう。
ところが人類が生産力を伸長させるにつれて、また人権思想が世界を席巻していくにつれて、こうした貧困は少しずつ解消されてきた。もちろん、あくまで大雑把に言ったときの話であるが。

さて、この作品の主人公が直面しているのは「死に至る貧困」ではない。マカールもワーレンカもきちんと家に住んでおり、「明日食うもの」に困ることもあまりなさそうである。マカールは役人であり、定職にもついている。

この点、ドストエフスキーの慧眼だろう。彼が生きた19世紀は、産業革命を経て世界全体が徐々に豊かになりつつある時代だ。そんななかで、彼は「死に直接至らない程度の貧困」のなかにこそ、今後の「貧しさ」の核心が潜んでいることを鋭く見抜いたのではないかと思う。


▽貧しさの何が問題か 九月九日の書簡
では、「死に至らない」貧しさは何が問題なのだろうか。
この作品の基底には、それに対するドストエフスキーの鋭い洞察がある。

主人公のマカールはこう綴っている。
なによりも一番怖ろしいのは、自分で自分を今までのように尊敬できないことです。
いったいわたしを破滅させるのは何だと思います?わたしを破滅させるのはお金ではなくて、こうした浮世の気苦労なんですよ、あのひそひそ話や、意味ありげな笑いや、意地の悪い冗談です。


ここに端的に表れているのは、貧困が彼らに社会的卑屈さを強いているという現実だ。
人は、お金がないから破滅するわけではない。お金がないから自分を尊敬できなくなり、それにともなう自暴自棄によって破滅するのである。

ワーレンカは「貧しさは罪ではない」と言って、自尊心を失いつつあるマカールを懸命に励ます。なるほど、貧しさは罪ではない。でも、貧しさが嘲笑や侮蔑の対象であることには変わりないのである。そしてそれらが、彼の自尊心を引き裂き、やがて人格を殺す。

この考え方は後半、九月五日の書簡でより分かりやすく表現されている。
彼は仕事でヘマをして、上司が集まる中で醜態をさらす。そんな彼の惨めさを見かねた「閣下」は、他の上司たちが部屋を出たあと、彼に金をこっそり与える。
エピソードを手紙に書いたあと、彼はその感激をこうしたためている。
誓って申しますが、わたしには閣下がみずからこの藁屑同然の酔っ払いにすぎない、わたしのいやしい手を握ってくださったことのほうが、あの百ルーブル札などよりどれほどありがたいか知れないのです!

彼は閣下からお金をもらったことで救われたのではない。閣下が対等な人間であるかのように言葉を交わし握手をしてくれたことによって、マカールは自らの尊厳を再び見出し、救われたのである。この日の書簡は物語の中で象徴的な位置づけであると同時に、一番感動的な部分でもある。人間にとって「金よりも大事なもの」があることを教えてくれる。
閣下はあの握手によって、わたしにわたし自身を取り戻させてくださったのです。


▽貧しさに負けない人間的自負 九月五日の書簡
前後するが、もう一つ感動的な場面があった。
それは九月五日。注意していただきたいが、これは閣下による握手でマカールが自尊心を回復する以前の出来事である。

物語を通じて、すでにマカールはその「人の良さ」を随所で示している。自分も金がなくて苦しいはずなのに、ワーレンカはじめさまざまな人の力になろうと身を削ろうとするのだ。
そんな彼を、ワーレンカはこうたしなめていた。
もし人のことを何から何までそんなふうに気にかけていたら、いちいちそんなに同情していたら、もう誰よりも不幸な人になるにきまっていますわ。

それでも、マカールはその人の良さ、人間的な美質を捨てきれないでいた。その美しさが極致に達したのが、九月五日の手紙である。

彼は街で見かけた物乞いたちの話をする。
ここでマカールの偉いところは、自分より貧しい人たちを決して笑わないのである。「貧困は罪ではない」ということを、貧しい立場にいる彼自身が立証している。貧しいからといって、人間性を失ったらそれこそ一巻の終わりではないか。社会的な卑屈さに胸中をたえず圧迫されながら、マカールは人間的自負をまさに「死守」するのである。

その日、彼はぼろをまとった物乞いの子供に出会う。マカールに近づいてきて、少年は紙切れを渡す。「この子供の母親ですが、病床についているから、恵んでやってくれ」というもの。彼はそのときのやり切れない気持ちを書簡にぶちまける。
なに、いたって平凡な、世間によくあることですが、いったい、このわたしに何をやることができましょう?それで、なんにもやりませんでした。でも、とってもかわいそうでした!

自らを「学がない」と言うマカールの、飾らない言葉、飾らない感情。
しかし、読んでいて心臓の一瞬鼓動を止めるような、そんな力を持っていた。

たくさんの国を旅するなかで、僕も物乞いの子供に金をせがまれたことは一度や二度ではなかった。
そんな時にお金を恵むか恵まないかは、気分次第だった。出来ればあげたかったが、「自分で稼いだ金ではない」ということと「子供に恵んでも解決しない(最終的に子供が手にしたお金は大人の掌中に収められることがほとんど)」ということを考えて、断ったり無視したりすることも少なくなかった。

こうした出来事の「平凡さ」は、たしかに僕の感覚を徐々に麻痺させていたと思う。
しかしマカールは「とってもかわいそうでした!」という感情をストレートに抱き、それと向き合って、手紙に吐露した。これは僕のなくしかけていた感情である。

考えることと感じること、どちらが正しいかは分からない。
ただ、感じることを言い訳で誤魔化すことに慣れてしまうのではなく、ときどき生な感情に向き合うことが必要なのではないか。マカールの実直な語りは私たちにそう訴える。
「共感」や「同情」にこそ人間の美しさがあると考えた哲学者は少なくない。そうした感覚機能を、もうすこし大切にしようかな、と思い至った。


▽二人の別れ
さて、では最後のマカールとワーレンカの別れについて考えてみたい。

ワーレンカは金持ちによって結婚を申し入れられ、納得しないまま遠く離れた地へと去っていく。
あとにはマカールの「いけません!」という再三の忠告が空しく響くだけ。物悲しい終幕を迎える。

この二人を引き裂いたものは何だったか?
貧困だろうか。金がなかったからだろうか。

確かにそれもあるだろうが、遠因に過ぎない。

もっと決定的だったのは、マカールには「自尊心の回復」のきっかけが与えられたのに対して、ワーレンカにはそれが与えられていなかったことではないだろうか。彼女が好きでもない相手のところに嫁ぐことを決意したのは、貧しさのあまり「自らを尊敬する」ことを忘れてしまったからである。

この作品は、マカールとワーレンカという二人の「貧しき人びと」が主人公となっている。
生活が苦しいのは二人とも同じだったはずなのに、自尊心を回復したマカールとその機会を逸したワーレンカは別々の道を辿る。ワーレンカには、破滅を回避することが出来なかったのである。

なによりも一番怖ろしいのは、自分で自分を今までのように尊敬できないことです。
最初に引用した一節だが、もう一度ここで引用しよう。


さて、四千字ちかい書評になってしまった。
やはり感銘を受けた本は書きやすいし、書いてて楽しい。
こうして胸に詰まりそうになった一文をよく考えてみるというのも、いいものである。


◆気に入ったフレーズ
人間というものは時にとても奇妙かものなんです、とっても奇妙なものなんですよ!

人間というやつは時に自分の気持をすっかり勘違いして、まったくでたらめをいうことがあるんですよ。

それにしても、時どき自分は正しいのだと自覚するのは、気持のいいことです。

わたしはひどく堕落しました。そしてなによりも一番怖ろしいのは、自分で自分を今までのように尊敬できないことです。

貧しい人たちは気難しいものです、これはもう当然のことです。

これはもうわかりきった話ですが、貧乏人というものはぼろ屑にも劣るもので、人がなんと書きたてようが、誰からも尊敬なんかされないものなんです!

本とはいったい何でしょう!それはもっともらしく書かれた嘘っぱちですよ!

体裁がよいというのはいつでもなにかの役にたつものですから。

もし人のことを何から何までそんなふうに気にかけていたら、いちいちそんなに同情していたら、もう誰よりも不幸な人になるにきまっていますわ。

いったいわたしを破滅させるのは何だと思います?わたしを破滅させるのはお金ではなくて、こうした浮世の気苦労なんですよ、あのひそひそ話や、意味ありげな笑いや、意地の悪い冗談です。

わたしは破滅してしまったのです。ほんとに、破滅してしまったのです!もう取返しのつかぬほど破滅してしまったのです!

立派な人が荒野におきざりになっているのに、別の人には向こうから幸福が飛び込んでくるというのは、いったいどういうわけでしょう?

なに、いたって平凡な、世間によくあることですが、いったい、このわたしに何をやることができましょう?それで、なんにもやりませんでした。でも、とってもかわいそうでした!

誓って申しますが、わたしには閣下がみずからこの藁屑同然の酔っ払いにすぎない、わたしのいやしい手を握ってくださったことのほうが、あの百ルーブル札などよりどれほどありがたいかしれないのです!

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226.雪国 (川端康成)

要点
・日本文学のひとつの頂点
・卓越した文章力と芸術性
・ストーリー性の乏しさ
・日本人観と「雪国」


親譲りの財産で、無為徒食の生活をしている島村は、雪深い温泉町で芸者駒子と出会う。島村は許婚者の療養費を作るため芸者になったという、駒子の一途な愛に惹かれながらも、ゆきずりの愛以上のつながりを持とうとしない。冷たいほどにすんだ島村の心の鏡に映される駒子の烈しい情熱を、哀しくも美しく描く。川端文学の美質が完全な開花を見せた不朽の名作である。

日本文学のひとつの頂点をなすとされている「雪国」。
中学二年の時に作家を志し、文章センスを磨くために和歌からはじめたという川端康成の、緻密で壮麗な文章を堪能できる。


▽「雪国」とは
「彼のなにが評価されたのか」を考えることは、この「雪国」を考えることにも繋がるだろう。

ノーベル文学賞の受賞が決定したとき、川端はこう評された。
日本人の心情の本質を描いた、非常に繊細な表現による彼の叙述の卓越さに対して。
また、解説にはこう書かれている。
この文学は、ゆめ論述述志の文学ではなく、感覚と直観によってこの世との関係を宙に示している。

反則技だとは思いながらも、「読書メーター」でも作品の感想をいくつか見てみた。
多くの感想に共通するのは二点、「文章表現が美しい」ということと、「ストーリーの展開が少ない」ということだった。

「雪国」は、どんな物語なのか。これらをもとに考えてみたい。


▽叙述の卓越さ
何といっても、川端の卓越した叙述の力は有名だ。
「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」からはじまる冒頭は、無駄がないだけでなく、情景が目に浮かんでくるような名文とされている。

なんとなく、一文を引用してみようか。
弱い光の日が落ちてからは寒気が星を磨き出すように冴えて来た。
眩暈がしそうな満天の星空、肌を突き刺すような鋭い寒さ。「雪国」における非現実性が漂う世界観は、こうした児珠のようなセンテンスの集積によってあますことなく描きつくされている。

これが、作品の高い芸術性を感じさせてくるのだ。
川端がなにかを描写すると、われわれ読者は彼の筆致によって頭の中にそれが投影され、圧倒される。まるで魔術のようではないか。


▽ストーリー展開の乏しさ
「雪国」に対して苦手意識を持つ人は、たいていストーリーの曖昧さ、分かりにくさに引っかかっているように思える。

確かに、主人公である島村は「無為」の人であり、つねに決定的事態が起こることを避けようとする。一方、彼の眼に映る駒子と葉子は、彼とは真逆で「生きることに真剣」な人物だった。物語はこの三人の交錯を通じて進むのだが、いかんせん主人公が「決定的な態度」をとらない人物なので、「劇的ななにか」は起こらない。
ラストシーンになって、やっと駒子と洋子に決定的な出来事が生じようとするのだが、そこで物語は完結。「結局、なんだったんだ」と思うのも無理はないし、僕もそう思った。

ただ、もしも日本人の心情の本質がいわゆる「白黒つけない」「はっきりしない」という点にあるのなら、「雪国」の曖昧なストーリー性はまさにそれを突いたことになるだろう。
また、もし日本人がいわゆる「繊細な心の持ち主」だとすれば、客観的には小さな変化の中に「劇的ななにか」を見出すことこそが、「日本的な感受性」となるのかもしれない。

けっきょく、「雪国」の評価は「日本人」に対する深い洞察を抜きにして語ることはできないのである。
ノーベル賞が川端に与えられることになったとき、「西洋人に川端康成が分かるのか?」という声があった。これに対して「源氏物語」や川端の著作の翻訳を担ってきたサイデンステッカーは「日本人に川端康成が分かるのか?」と応えたという。
案外、川端文学とはこういうものかもしれない。


▽日本人と「非人情」な文学
最後に、すこし日本文学についての話をしたい。
かつて、谷崎潤一郎と芥川龍之介のあいだで「物語の面白さ」は小説の質を決めるのか、という論争が起こったという。そのとき「話らしい話のない純粋な小説」というものが芥川によって提唱された。

そんな芥川の師匠であり、映像主義的な美しさを追求したのが夏目漱石だ。
かつてブログで漱石の「草枕」に書かれている、彼の小説観を引用したことがある。

「画工だから、小説なんか初めからしまいまで読む必要はないんです。けれども、どこを読んでも面白いのです。あなたと話をするのも面白い。なんならあなたに惚れ込んでもいい。そうなるとなお面白い。しかしいくら惚れてもあなたと夫婦になる必要はないんです。惚れて夫婦になる必要があるうちは、小説を初めからしまいまで読む必要があるんです
「すると不人情な惚れ方をするのが画工なんですか」
「不人情じゃありません。非人情な惚れ方をするんです。小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいいんです。こうして御籤を引くように、ぱっと開けて、開いたところを、漫然と読んでるのが面白いんです」


こうした「非人情」な態度は、まさに「雪国」における島村のそれとも共通するものだ。「行きずりの愛」に浸りながら、その関係に答えを見出そうとはしない。彼は駒子に対して「非人情」な惚れ方をしている。

ただ、これが日本人の本質かどうかは、議論の分かれるところだろう。
これ以上の分析は難しい。
読者一人ひとりの「日本人観」にそって、川端文学を考えていくより仕方ない。


◆気に入ったフレーズ
「なんとなく好きで、その時は好きだとも言わなかった人の方が、いつまでもなつかしいのね。忘れないのね」

「私はなんにも惜しいものはないのよ。決して惜しいんじゃないのよ。だけど、そういう女じゃない。私はそういう女じゃないの」

熊のように硬く厚い毛皮ならば、人間の官能はよほどちがったものであったにちがいない。人間は薄く滑らかな皮膚を愛し合っているのだ。

「私の好きなようにするのを、死んで行く人がどうして止められるの?」

「生きた相手だと、思うようにはっきりも出来ないから、せめて死んだ人にははっきりしとくのよ」

「ほんとうに人を好きになれるのは、もう女だけなんですから」

弱い光の日が落ちてからは寒気が星を磨き出すように冴えて来た。

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225.ロミオとジュリエット (シェイクスピア)

要点
・二人の前に立ちはだかる運命
・「死に魅入られた恋」
・二人を悲劇へと導いた決定打とは


モンタギュー家の一人息子ロミオは、キャピュレット家の舞踏会に仮面をつけて忍び込んだが、この家の一人娘ジュリエットと一目で激しい恋に落ちてしまった。仇敵同士の両家に生まれた二人が宿命的な出会いをし、月光の下で永遠の愛を誓い合ったのもつかのま、かなしい破局をむかえる話はあまりにも有名である。世界恋愛悲劇の代表的傑作。

ロミオとジュリエット、世界で最も有名なカップルかもしれない。
二人の純粋さと悲しい結末は、これまで多くの読者と観客の心をくすぐり、涙に濡れさせてきた。
今回は、まさに「不朽の名作」と呼ぶにふさわしい物語について書いてみる。


▽困難が芸術を作り上げる
人が直面する‘困難’や‘障害’は、その物語を劇的にし、芸術に昇華させる。
なんの苦労もなく成立し、円満に続いてきたカップルの話が「ただの世間話」の域を超えることは出来ない。困難を克服したり、それに屈服させられたりする過程こそがドラマであり、芸術である。

恋愛物語は、そうして創られている。
身分違いの恋相手が振り向いてくれない恋遠距離に隔てられた恋など、‘困難’を挙げてみればきりがない。
たとえばJ・オースティンの「高慢と偏見」は、タイトル通り主人公の女の持っていた‘高慢と偏見’という障害のために、男が悪戦苦闘を強いられた。
三島由紀夫の「永すぎた春」は、‘順調すぎる’恋人同士が長すぎる婚約期間を通じてその愛情を試されるという、一風変わった内容になっているが、こちらも一種の‘困難’であったことには変わりはない。

そんななかで、「ロミオとジュリエット」は特に分かりやすい‘困難’を根底にした物語だと言える。
互いに反目しあっている名家のあいだに、恋という一本の細い橋を架けようというのである。若い二人は、彼らを取り囲むすべての事情や道理がもたらす困難に反して、惹かれあうのだった。

「ああ、ロミオ様、ロミオ様!なぜロミオ様でいらっしゃいますの、あなたは?」
ロミオがロミオでさえなければ、二人の恋愛は何事もなく成就していたはずだったのに。有名なこの一節は、ロミオというより‘状況がもたらした困難’に対するジュリエットの恨み節なのである。


▽二人に立ちはだかった困難
解説では二人に立ちはだかった困難について「運命」という言葉をあてていた。
ロミオにも、ジュリエットにも悲劇への責任はない。要するに彼等もまた「運命に玩ばれる馬鹿」だったにすぎないからである。

二人の恋愛は、それが芽生えた時点ですでに悲しみの色彩を帯びていた。
しかも、物語が進むにつれて、状況は悪い方へ悪い方へと進んでいった。運命という重力に引きずられて、か弱い二人は悲劇的な結末へと誘われる。
「どうやら、人間の力ではどうにもならない大きな力が、私たちの計画を阻んでしまったものと見える」
最後の場面での僧侶の嘆きの声が、始終物語を支配していた‘運命’についてこう表現している。

さらに分かりやすいのがシェイクスピア自身の表現であろう。彼は「ロミオとジュリエット」を、'Death-mark'd love'と表現していた。
すなわち、「死に魅入られた恋」と。


▽困難に屈服する決定打
運命という強すぎる困難を前にして、二人は悲劇的な最後を迎える。
物語には困難に打ち克つものと困難に屈するものの二つのタイプがあるが、「ロミオとジュリエット」は後者の道を辿った。

なぜ二人は運命を克服できなかったのか。
決定打は、作中でも何度か強調された、彼らの‘若さ’であった。
ロミオは16歳、ジュリエットは14歳。たしかに二人はあまりに若すぎた。

大人と子供の大きな違いの一つは、「どうにもならないこと」に対する身の施しかたを知っているかどうかという点にある。
大人は適度に受け流すが、子供はやたらと正面からあたろうとする。二人の悲劇も、良い意味での‘老獪さ’の欠如が生み出したものであった。

もし二人が大人だったら、と想像してみよう。
ジュリエットはパリスに嫁ぎながら、ロミオとの不倫関係に至るかもしれない。
お互いに持っている慕情を押し殺して、墓場まで持っていくかもしれない。
周到な根回しをして、両家の公認で結婚してしまうかもしれない。

こう考えると、「ロミオとジュリエット」には様々な解決の可能性が秘められていたことに気付かされる。
しかし彼らは‘若かった’から、そうした可能性を選べえなかった。

悲劇となるべく運命づけられていた恋。
これに抵抗する術を知らない二人の‘若さ’が、哀しい結末への転落に拍車をかけてしまった。


‘若さ’をテーマとする小説のなかのひとつに、サリンジャーの「ライ麦畑でつかまえて」がある。
締めとして、そのなかにあった引用文句を用いてみよう。
「未成熟な人間の特徴は、理想のために高貴な死を選ぼうとする点にある。これに反して成熟した人間の特徴は、理想のために卑小な生を選ぼうとする点にある」


◆気に入ったフレーズ
恋とはね、いわば深い溜息とともに立ち昇る烟、
浄められては、恋人の瞳に閃く火ともなれば、
乱されては、恋人の涙に溢れる大海ともなる。

「僕の言うことを聞くんだね、その女のことは忘れ給え」
「ああ、どうしたら忘れられるのか、そこからまず教えてくれ。」

恋が君につらければ、君も恋につらければよい。
向こうが刺せば、こっちも刺せ。すりゃ恋が負けるに決まってる。

人の言葉は善意にとれよ、その方が、五倍も賢い。

恋がもし盲目なら、恋の矢はいつもはずれるはず。

あれは東、すればさしずめジュリエット姫は太陽だ。
美しい太陽、さあ昇れ、そして嫉妬深い月を殺してくれ。

「ああ、ロミオ様、ロミオ様!なぜロミオ様でいらっしゃいますの、あなたは?」

「ただ一言、僕を恋人と呼んでください。すれば新しく洗礼を受けたも同様、
今日からはもう、たえてロミオではなくなります」

「こんな塀くらい、軽い恋の翼で飛び越えました。石垣などで、どうして恋を閉め出すことができましょう」

「剣の十や二十よりも、あなたの眼の方がよっぽど怖い。やさしいあなたの眼差し、それさえあれば、なんの奴等の憎しみなど、僕は不死身だ」

「恋の手引きです。そもそも尋ねる心を促したのも恋、智慧を貸してくれたのも恋、僕はただ恋に眼を貸しただけなのです」

「ああ、いけませんわ、月にかけて誓ったりなんぞ。一月ごとに、円い形を変えてゆく、あの不実な月、あんな風に、あなたの愛まで変っては大事だわ」

「なにもかも駄目になってしまっても、まだ死ぬことはできるわ」

「どうやら、人間の力ではどうにもならない大きな力が、私たちの計画を阻んでしまったものと見える」

キャピレット!モンタギュー!
どうだ、その方たち相互の憎しみの上に、どんな天罰が下されたか。

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224.ルポ 電王戦 (松本博文)

要点
・人間とは何か、という問いかけの変容
・コンピュータと人間のアイデンティティをめぐる争い
・人間とは何か
・鍵となる、升田幸三と主人公のセリフ


将棋のプロ棋士がコンピュータに敗れる。つい十数年前まで、そんな話は絵空事に過ぎなかった。しかし、いま…。日本中を熱狂の渦に巻き込んだ電王戦の裏には、どんなドラマが潜んでいたのか。開発者や棋士たちの素顔を描きながら、戦いの全貌を伝える迫真のルポルタージュ。将棋とは?知性とは?人間とは?「二一世紀の文学」とも評された決戦の記録。

81マスを縦横無尽に駆け回る将棋の世界は、これまで「人間の独壇場」として認識されてきた。ところがコンピュータと人間を戦わせる「電王戦」の取り組みは、その常識を完全に覆しつつある。
本書は、そんなコンピュータとプロ棋士の戦いに迫ったルポルタージュである。

将棋についてはルールの知識しか持ち合わせていない自分でも、手に汗握るような臨場感を味わうことが出来た。加えて、電王戦はまさに「最強」を目指す人間の情熱と情熱、知性と知性の衝突であり、深い魅力を感じながら読書に浸れた。
楽しく読ませながら、読後には考えさせてもくれる良書だったというのが、とりあえずの僕の感想だ。

あらすじには「知性とは?人間とは?」という言葉が躍っている。
そこで今回の書評は、「コンピュータにプロ棋士が負けた」という事実に立脚して、こうした深い問題を見つめなおし、本に沿って答えてみたいと思う。
「部分」には「全体」が宿る。将棋というゲームによって表現される出来事にも、かならず「人間」について何かしらの真理が宿っているはずだ。

少々回り道になるかもしれないが、「人間とは何か」という問いを考えることから始めたい。


▽人間とは何か ①
「人間とは何か」は、有史以来つねに人類を悩ませてきた問いかけだ。
本の中ではパスカルの「人間は考える葦である」というフレーズが引用されているが、確かにそれも真理を突いている。
が、ここではもう少し踏み込んで考えてみたい。

「人間とは、理性があり、知性がある存在」。
パスカルの言ったような、古典的な「人間の定義」だ。
ただし、これはあくまでこれは人間と動物との区別をするためのもの定義に過ぎない。
つまり、「人間には理性がある、知性がある」と言うときは、暗に以下の意味も持っていたのだ。
「だから、人間は動物とは違うのだ」と。


▽人間とは何か ②コンピュータ以後
それから何世紀もの間、人間の定義は「理性と知性を持つ存在」ということで落ち着いてきた。「理性や知性」という点で、人間に匹敵するような種はなかったからだ。

これを大きく揺るがしたのが、コンピュータの発明である。
はじめて、独自の言語を操り、計算し、思考し、合理的な結果を導く「人間でない存在」が地球上に誕生したのである。しかも、分野によっては人間を凌ぐような実力さえも発揮する。
かつて人類の専売特許であった「理性と知性」の領域が、少しずつコンピュータに取って代わられるようになった。こうして、人類は再び頭を悩ませることになる。


▽理性、知性
「コンピュータ(ロボット)と人間はどこが違うのか」。
20世紀以降に「人間とは何か」を考えるとき、今度はこれが避けては通れない問題になった。

たとえば、将棋の世界におけるその答えの一つが「大局観」だった。引用してみよう。
ではたくさん読めればそれだけ強いのかというと、そうではない。その中で、どの局面がいいのかを判断できなければ意味がない。
局面を的確に評価する力、大局観が優れていれば、それほど多くの局面を読む必要もない。人間の長所は、この大局観が自然に磨かれていくところにある。

コンピュータは何千万という手が読めるが、大局観をもつことができない。だからコンピュータより人間のほうが強いと、ずっと言われてきた。

要するに、人類はこういうことを繰り返してきたのである。
「俺達にはこれができるが、コンピュータにはこれができないだろう」。
「こんな簡単なことができないなら、いくら計算が速くてもしょうがない。やっぱり人間のほうが優れているんだ」。
こうした情けないセリフを吐きながら、人類は躍起になって新しいアイデンティティを確保しようとしてきたのである。
ちなみにこの大局観、開発者たちが各々で駒の価値に点数を分配することでソフトもこれを克服し、いまでは形勢の良し悪しを数値で示せるまでになっている。

あらためて「電王戦」が持つ意義は非常に大きい。単なるゲームの勝ち負けではないのだ。それは「知性」というアイデンティティ要素の争奪戦であり、だからこそ人類にとっては死活問題なのである。

プロ棋士が投了して涙を呑んだとき、コンピュータは人類に厳しい問いを突き付けたも同然なのだ。
「おい、お前たち人間は一体何ができるんだ」と。


▽人間のアイデンティティ
では、人間とコンピュータは何が違うのか。
ここでは、両者の対決を描いた本の中で垣間見えた、「人間とは何か」への答えになりそうなものを挙げてみたい。

最近の風潮でもあるのだが、人類は「合理的でない」というところにアイデンティティの源泉は移りつつあると言える。
たとえば、ヒューマン・エラーはその代表例だ。
人間は必ずミスをする、しかもしばしば、考えられないようなミスをする。コンピュータソフトと対局すると、改めてその事実に直面させられる。

情弊があるという点も、コンピュータにはない特性である。
人間ならば悪くなった方が気持ちが折れ、さらに悪い手を指し、負の連鎖で自滅していくことが多い。しかしソフトにはそれがない。

他にも、コンピュータに詰将棋で敗北した作家のコメントを読んでみるといい。
「機械には羞恥心がないという点が私はどうも非常に気にくわない。早い話、あれでは恋愛はできまい」。
この本では、主人公である山本一成とその恋人とのロマンスに少なからぬページを割いている。そう考えると、これはこれでなかなか含みをもった引用文である。


▽人間とは何か?
ここまで読んできて、「何を甘いことを言っているんだ」と腹立たしく思われる方もいるかもしれない。
エラーだの感情だの恋愛だのと能書きをたれたところで、人類が将棋で負けたという事実は変わらないではないか、と。

その通りだ。そこであと少しだけ、敗北を見据えながら記事を書きたい。

人間とは何か。
人間とコンピュータの最大の違いは何か。

最後に引用された升田幸三の言葉は、その答えを最も雄弁に語っている。
棋士は、世の中になくてもいい職業のひとつだ。だから見る人に楽しさを与えなくては存在理由をうしなう。

簡単にいえば、「生きるうえで不必要なこと、無駄なことに意義を見出し、情熱を注ぐことができる」ということだ。実は、コンピュータにも、動物にも、これだけは真似できない。
升田の言葉にあるように、将棋とは「たかがゲーム」であり、何の生産性もなく、それこそナンセンスの塊である。棋士としてであれプログラマーとしてであれ、これに情熱を傾け続けられるのは、人間をおいて他にはいない。

なぜ苦心してソフトを作るのかという筆者の問いかけに、主人公がこう答えていたのを思い出す。
「楽しいからですよ」
「面白そうだからです」

実は、こうした言葉のうちにこそ、人間の真理が秘められていたのかもしれない。


▽人間がコンピュータに勝つ日
さて、締めとして「人間がコンピュータに負けているという状況」について書こう。

近い将来、コンピュータは人間より確実に強くなるはずである。プロ棋士のトップでも勝てなくなる日は、そう遠くない。

しかし、コンピュータがどんなに強くなったところで、人間は勝てるまで勝負を挑み続けるはずだ。先ほどの話のとおり、「報われることのない情熱」こそが、人間存在の証明であるから。

勝率がたとえ0%であっても、全身全霊を込めてぶつかる。
無駄とは知りつつ、情熱を注ぐ。
そこに人間の良さがあり、可能性があり、存在理由がある。


そうのうちに、きっと人間はコンピュータを打ち破るだろう、ちょうど、200年ものあいだ解法が見つからなかった「フェルマーの最終定理」が証明されたように。
人類の英知と情熱には、それほどすさまじいものがある。

情熱と人間の可能性。これを固く信奉する一個人として、僕は「その日」がいつか必ず来ると確信している。

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223.黒田如水 (吉川英治)

「天下を獲れる男」と豊臣秀吉に評された天才軍師・黒田官兵衛。小寺政職の家老である官兵衛は、織田信長との盟を結ぶため、岐阜へ赴き、秀吉の知遇を得る。織田家の重臣・荒木村重が、反織田の旗頭・毛利氏に呼応して反旗を翻した。伊丹城に籠城する村重を翻意させるため、官兵衛は単身、敵地に向かうが…。天下無双の軍師・黒田官兵衛の半生を描く歴史小説。

今回読んだのは、今年の大河ドラマの主人公を描いた、「黒田如水」である。
官兵衛の一生を描くのではなく、荒木村重による幽閉事件を中心とした構成になっている。なので、信長および秀吉、また小寺政職それぞれとの主従関係や、竹中半兵衛との篤い友誼などが物語の中でクローズアップされている。黒田家の家臣たちとの関係も鮮やかに描かれている。


▽策謀の人
軍師、と言われるように、官兵衛は非常に頭の冴えた人物である。高松城の水攻め、中国大返しなど、数々の戦略を献策した。頭の良さが災いして秀吉の警戒を招き、豊前へと飛ばされてしまったというから、相当だろう。

特に有名な逸話が、ひとつある。
関ヶ原の戦いで、九州にいた官兵衛の代わりに息子の長政が参加した。父の血を引いて優秀な武将だった彼は小早川秀秋や吉川広家を寝返らせるなどして活躍し、徳川率いる東軍を勝利に導いた。家康はこれに深く感謝し、長政の手を取って「よくやってくれた」と告げたという。
問題なのは、ここから。
将軍から褒められた長政は、当然のことながら意気軒昂に父官兵衛のもとに帰り、報告をした。そこで官兵衛は以下のように質問したのである。
「内府(家康)の手はお前のどちらの手を取った?」
「右手でございます」と答える長政に、官兵衛はさらに問いかける。
「そのとき、お前の左手は何をしていたのだ」。
なぜ家康を殺さなかったのだ、という意味だ。九州に居ながら、ひとり日本全体を呑むような気迫を持っていた黒田官兵衛。天下分け目の戦いに参戦できなかったとはいえ、その鬼謀と度胸には背筋が寒くなる。

そんな官兵衛のイメージは、やはり「策謀の人」ということになろうか。
様々な謀をめぐらし、奇術を用いて敵を陥れる、そんな人。「油断のならぬ危険人物」という、拭いがたい印象を私たちに与える。

ところが、この小説を通して浮き上がってきたのは「策謀の人」とは別の官兵衛像だった。
本の中ではこういう記述がある。
世上の智者策士と呼ばるる者多くは軽薄であり小才子である。官兵衛にはそれがない。情弊がある。正直さがある。ばか正直ともいえるような一面すら持っている。

知恵の利く策士には、変節を繰り返して世の中を渡っていくような印象を受ける。ところが、小説のなかの官兵衛は幽閉されても決して信長を裏切らず、しかも毛利方に寝返った小寺家を見捨てることもしなかった。本を読む限り、彼は「策謀の人」である以前に「誠実の人」として見えるのである。


▽嘘と策謀と「誠実」
嘘と策謀、そして誠実さ。
一般的には、前者二つと後者は相容れないもののように考えられる。が、あえて少し考えてみたい。

伊丹城幽閉は、「誠実の人」としての官兵衛を最も強烈に証明する事件であった。これを機に、彼は信長や秀吉から並々ならぬ信頼を勝ち得ていく。「策謀の人」と「誠実の人」、官兵衛は両方の顔を完全に持ち合わせていた。それこそが、彼の尋常でないところでもあったのである。

「嘘」とか「策謀」というものについて、いくつか思い出したことがある。以下のような一節がある。
だますとなれば、誠心誠意、だまさねばならない。
第一級の策士とは底ぬけの善人であり、そうでなければたれが策に乗るか。
どちらも司馬遼太郎が書いたものだ。前者は長曾我部盛親を書いた「夏草の賦」から、後者は秀吉を書いた「新史 太閤記」からとってきた。

司馬が語っている通り、大きな「嘘」や「策謀」には、それ相応の「真実」と「誠実さ」が宿っていなければならない。「いい嘘を構成するのは、9割の真実に1割の嘘」とも言われるが、本来「人をだます」ということは、どこかに真実を秘めていなければ到底できない所業なのである。
常日頃から、つまらぬことで嘘をつき、なにかと策謀を練っている人物は、大策略家たりえない。その手のたぐいは、先ほどの引用にもあった「小才子」にすぎないのである。
嘘や策謀というのは、巧緻さよりも「ここだ」というところを見極めて行使できるかどうかが大事だ。だから、平時の策略家は誠実でなくてはならない。いざ大策略をめぐらすとき、それが有利に働くのである。

話を官兵衛に戻そう。
伊丹城幽閉は、彼が「ずば抜けた誠実の人」であることを証明した。同時にそれは、「ずば抜けた鬼謀の人」としての片鱗でもあったのである。


さて、少し短いが、今回はここで終わりにしたい。
解説を読み忘れていたので、「藤の花」という物語のもう一つの核心について書くことが出来なかった。若干、読みが浅かったのである。
少し反省材料の残る書評となった。もっと自力で深く洞察できるようになってから、また再読することになるだろう。


◆気に入ったフレーズ
三人寄れば文殊の智というが、それは少なくとも一と一とが寄った場合のことで、零と零との会合は百人集まっても零に過ぎない。

「陽の目を見ない人間というものは弱いものだ」

自分ならで誰か為す者があろうと自負される世業にたいして、生命そのものが燃え惜しむのである。

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222.平和主義とは何か (松元雅和)

要点
・平和と平和主義の違い
・平和優先主義への理解
・シリア化学兵器問題に見る平和主義
・日本の平和主義


平和を愛さない人はいないだろう。だが平和主義となるとどうだろうか。今日では単なる理想論と片付けられがちあが、実はその思想や実践は多様である。本書は平和主義への批判に丁寧に答え、説得力のある平和主義の姿を探る。感情論やレッテル貼りに陥らず、戦争と平和について明晰に考えるために。

「平和主義」、これは最近の日本政治を見るうえで欠かせないキーワードになっている。
安倍政権が断行する数々の安全保障政策の転換、たとえば特定秘密保護法、国家安全保障会議の設置、武器輸出三原則の緩和、そして集団的自衛権行使容認の閣議決定、これらはみな「平和主義」を変質させるものだとしてメディアから批判されている。

では、そもそも戦後日本が一貫して保持してきたという「平和主義」とはどういう主義なのだろうか。それを知るために今回は「平和主義とは何か」を読んでみた。


▽区分①「平和」と「平和主義」
まず峻別しなければならないのが、状態としての「平和」と「平和主義」である。
言うまでもなく、平和は誰にとっても望ましいものだ。武力行使を容認する主義主張でさえ、「戦争状態を作り出すために戦争をします」とは絶対に言わない。誰もが、「平和をもたらすために戦争をするんだ」と言う。

つまり、基本的には平和を希求すること自体は、すでに普遍的な価値となっているのである。
単に「平和でいたい」というのは「平和主義」ではない。状態としての平和を目的とすることは、手段についての価値判断を伴わない。「平和を実現するために、いま戦わなきゃいけないんだ」というのは全く矛盾をきたした主張ではないのである。

では、あらためて「平和主義」のその特殊性はどこにあるのか。本の冒頭にはこう書かれている。
一言でいえば、平和主義とは、暴力ではなく非暴力によって問題解決をはかろうとする姿勢のことである。

平和主義とは、「手段における平和・非暴力」を重視する主張のことだ。
目的が「状態としての平和」であることは大前提として、そのために「暴力」ではなく「平和的手段」を行使すること、これが平和主義のもっとも中心的な内容ということになる。


▽区分②「絶対的平和主義」と「平和優先主義」
もう一つ重要なのが、この「絶対的平和主義」「平和優先主義」という二つの立場である。
今日、これを理解することは非常に重要だ。というのも、「浮世離れした胡散臭いイメージ」が平和主義の全てでないことをしっかりと認識しない限りば、それについての建設的な議論など永遠に不可能だからである。

絶対的平和主義とは、「どんなときも、いかなる場合にも」暴力の行使を退ける主張である。
トルストイやガンジーなどが代表的人物である。
相手が銃口をこちらに向けても、愛する人が酷い目に遭っていても、決して暴力は行使しない。「相手に自らの屍を踏ませなさい」という主張だ。
ジョン・レノンの「イマジン」に代表されるような夢想的、ユートピア思想。
こんなイメージに基づいて、「自称」リアリストは平和主義を唾棄すべきものとして嫌悪する。

一方の平和優先主義は、場合によっては暴力の行使は避けられないことを認めつつ、「ぎりぎりまでは平和的手段の解決を優先する」という立場である。この本が軸足を置くのも、こちらの考え方だ。
私たちにとって非暴力は、確かに重要な価値だが唯一の価値ではない。
この一文が平和優先主義の考え方を簡潔に示していると思う。ぎりぎりの判断まで、なんとか暴力を行使しないで事態を解決できないか。そういう価値観に基づいた戦略の一種なのだ。


▽本の中身
こうして本は議論に入っていく。
第二章と第三章では「義務論」と「帰結主義」にもとづいて、なぜ平和的手段が望ましいかを考える。
第四章から六章ではそれぞれ「正戦論」「現実主義」「人道的介入主義」との論争を展開する。
前提がしっかりしているだけに、非常に建設的な議論になっており、得るところも多かった。

特に、一番手強い敵である「現実主義」との対話は読んでいて刺激を受けた。以下の一文は核心をついている。
現実主義者にとっての原体験は、ナチス・ドイツの宥和政策が失敗したことにあるようだ。
たしかに対独宥和政策が第二次大戦を招いたことは、すべての政治学者にとって大きなトラウマだ。
平和主義者としても、経済制裁など「非暴力かつ実行力のある手段」の幅を広げていく必要があるだろう。


▽平和主義とは何か
平和主義とは問題解決のために非暴力的手段を重視することである。
ひとつ、示唆的な例を示しておこう。

事件の顛末は以下のとおりである。
2013年8月、内戦が続くシリアの首都ダマスカス近郊で市民が化学兵器によって死傷する事件が起こった。
米英は兵器を使用したアサド政権軍に対する「懲罰攻撃」をする構えを見せたが、議会の説得に失敗した。
そんななか、ロシアが「シリアにある化学兵器を化学兵器禁止機関(OPCW)が査察・廃棄する」という提案をし、アサド政権もこれを受け入れたのである。

分かりやすくまとめると、以下のようになるだろう。
米英の「懲罰攻撃」は、簡単にいえば非平和主義だ。
平和のため、化学兵器の使用を止めるためという目的だとはいえ、そのために暴力を用いようとしたのである。

対するロシアの対応が、平和主義だ。
米英と同じ目的を据えながら、あくまで非暴力的に問題の解決を図ったのである。
ちなみに、化学兵器廃棄の道筋を描いたOPCWは、13年にノーベル平和賞を受賞している。

どちらが良い、悪いと言っているのではない。
ただ、非平和主義でうまく解決できなかった問題が、ここでは平和主義によって解決されていることは注目に値するだろう。


▽日本の平和主義
最後に日本の平和主義についても、少し考えてみたい。

世界が抱える問題は戦争だけではない。貧困、差別、教育の欠如なども同様に深刻な問題だ。これまで日本が世界に貢献してきたのは、もっぱらそうした領域だった。
インフラを整備し、医師を派遣し、施設を建て、ノウハウを伝えた。まさに非暴力的な手段を通じて、世界の平和に寄与してきたのである。

日本の集団的自衛権や海外派兵への注目が国内外から集まっている現在、暴的手段を通じた問題解決へのハードルは、確かに下がりつつある。それが良いか悪いかは、まだ判断できない。

ただ、だからといってこれまでの平和主義に基づいた活動を「現実的でない」とか「無力だ」とか言うことで貶めることだけは許されないと、思うのである。多くの人が汗を流しながら、それこそ戦場にいるのと変わらぬほどの情熱をもって、世界のために働いてきたのだ。それに対する誇りは、失ってはいけない。

日本は海外でも武器を手に取るようになるかもしれない。でも、暴力的手段と非暴力的手段の間に優性・劣性の関係があるわけではない。両者は対等であると考え、それぞれうまく使い分けることこそ、平和を手繰り寄せるためには大切なのだ。


◆気に入ったフレーズ
一言でいえば、平和主義とは、暴力ではなく非暴力によって問題解決をはかろうとする姿勢のことである。

暴力に対して暴力で応答しないことが、平和主義の神髄である。

数少ない例外事例をことさらに取り上げて、それを原則全体の瑕疵とするならば、あらゆるルールや規範が成り立たなくなってしまうだろう。

私たちにとって非暴力は、確かに重要な価値だが唯一の価値ではない。

一個の独立した人格を、あたかも誰かの手足のように見なすこと自体が、論理的にはかなりのこじつけなのである。

兵士が民間人と決定的に異なる点は、兵士が本質的に他人に危害を加える存在であるという単純明快な事実にある。

戦争をありうる外交・防衛の一カードとして扱う前に、まずはそれが名前を変えた殺人であることを認識しなければならない。

はたして一国家が地上から消えることは、一個人が地上から消えること以上に悪いことだろうか。

正しい戦争の姿を提示することは、同時に不正な戦争の姿も提示する。

現実主義者にとっての原体験は、ナチス・ドイツの宥和政策が失敗したことにあるようだ。

人道的介入に見られる理論的逆説は、このように「人道」的「介入」という言葉が、一種の自家撞着をはらんでいるという点にある。

直感を棚上げすることは、現実に対する淡白で冷淡な態度と見られるかもしれない。しかし哲学とは本来、良かれ悪しかれ、こうした議論を進むところまで進めてみることなのだ。

非暴力的戦略を含む複数のオプションがあることを認識することが肝要である。

国際紛争を病状の一種として捉えると、平和主義者が提案する処方箋は、対症療法というよりも原因療法に近い。

戦争と平和が人間の所作である以上、戦うという選択肢と戦わないという選択肢は、どこまでも私たちの手元に残り続ける。

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221.ハムレット (シェイクスピア)

要点
・シェイクスピアの四大悲劇の一つ
・復讐劇とは何か
・「ハムレット」の特殊な点
・人間たる復讐者が発した"to be, or not to be"の声


城に現れた父王の亡霊から、その死因が叔父の計略によるものであるという事実を告げられたデンマークの王子ハムレットは、固い復讐を誓う。道徳的で内向的な彼は、日夜狂気を装い懐疑の憂悶に悩みつつ、ついに復讐を遂げるが自らも毒刃に倒れる。恋人の変貌に狂死する美しいオフィーリアとの悲恋を織りこみ、数々の名セリフを残したシェイクスピア悲劇の最高傑作である。

今回手を出したのは、シェイクスピアの四大悲劇の一つである「ハムレット」である。
最近、哲学や政治などの本ばかりを読んできたので、たまにはと思い、別のジャンルを読むことにした。


▽復讐劇の原型としてのハムレット
父親の亡霊にその死の真実を告げられて、叔父にあたるクローディアスへの復讐を誓ったハムレット。この物語を「復讐劇」の典型だと見る向きも少なくない。

これまで読んできた本の中で、最も復讐というテーマを色濃く持っていたのは司馬遼太郎による「義経」であった。平家への復讐に終生燃え続けた兵法の天才・義経。しかし、彼は頼朝が展開した「政治」という別次元の営みの前に手も足も出ず、復讐を果たしたと同時にこの世を去る。
また、「忠臣蔵」も復讐劇の一つだろう。赤穂浪士たちは後の安寧な生涯を全て棄てて、吉良上野介への復讐を遂行した。時間によってその覚悟を試されつづけた47人の浪士もまた、復讐の完遂とともに幕府によって刑死させられている。

ハムレットも、こうした復讐劇の例にもれず同じような構成になっている。復讐を果たしたその場で、彼も毒によって死ぬのだ。復讐のために生きている人間は、復讐の対象のいない世界では存在できないことを象徴する場面だ。

ちょうど、「海」がなければ「陸」という言葉も存在しえなかったり、「勝ち」という状態なくして「負け」という状態を語れないのと同じだ。それらは相反する言葉であるが、概念上で相互に依存しあっている。「復讐する者」には「復讐の対象」が必要であり、復讐が果たされた暁には存在してはならない。復讐をするとは、対象だけでなく復讐者自身の核心をも殺す行為なのである。すぐれて文学的な感傷だと言えるかもしれない。

一般的な復讐劇の魅力は、その一貫性、ブレなさにある。耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、やっとのことで復讐を完遂させる。復讐者の生涯に「複雑さ」は似つかわしくない。復讐という一点に向かって錐のように、わき見もせずに突き進んでいく、そんな単純さこそ相応しい。

往々にして人は多くのものを背負い込みすぎ、「何か」のために全てを投げ出すことは難しい。多くの人は、人生を振り返ってみたときに自らがどこか「中途半端」に思えてしまうだろう。貫徹性、一貫性を帯びた「復讐者」への憧憬の念は、そうした現実から生まれると考えられる。


▽To be, or not to be …ハムレットの特殊性
多くの人はハムレットを「復讐劇」だと思っている。
復讐を果たすとともに彼も死ぬという構成が、読者に強い印象をもたらすからだろう。

しかし、「ハムレット」の中に、普通の復讐劇にはない「複雑さ」の要素があることは注目に値する。
解説にはこう書かれている。
シェイクスピア劇、特に「ハムレット」に現代的な心理の一貫性を求めるのは邪道である。一見して矛盾もある。が、それは作品上の矛盾というより、生きた人間の矛盾なのである。

物語の中のハムレットは復讐者であると同時に、普通の人間でもある。オフィーリアとの悲恋を経験したり、母親を諭したり、復讐をすべきだと知りつつ、なかなか断行できなかったり。憂悶に悩みながら年月を過ごしていく。
これがシェイクスピアの技術だ。つまり、「ハムレット」という復讐劇をフィクションに終始させず、そこにリアリティを加味したのである。

作中で最も有名なフレーズ”To be, or not to be”についても、こうした文脈で考えるといい。
本の中では、こう訳されている。
生か、死か、それが疑問だ、どちらが男らしい生きかたか、じっと身を伏せ、不法な運命の矢弾を堪え忍ぶのと、それとも剣をとって、押しよせる苦難に立ち向かい、とどめを刺すまであとには引かぬのと、一体どちらが。

生きるべきか、死ぬべきか。ここで語られているのは、すなわち「復讐をするか、しないか」という葛藤である。

あまりにも根本的すぎて、復讐者に最も似つかわしくない悩みに見える。
多くの文学作品で書かれる復讐者の苦労は、復讐を「どうやって成功に導くか」という点にある。「復讐への決意を固めている」という事実は、そこでは自明の前提であるかのように可視化されない。

しかし、これは復讐者をあまりに単純化、戯画化した見方なのかもしれない。
ハムレットの解説を読んで気付かされたのは、「復讐者には、自らの目的を果たすまさにその瞬間まで、常に『復讐を断念する』という選択肢が残されている」という単純かつ重大な事実である。

ドラマや小説で復讐者が綿密な計画を立てているとき、武器を一生懸命磨いているとき、苦しい境遇に耐えているとき、そして復讐の対象と相対峙しているとき。実は、そこには常に”To be, or not to be”という隠れた問いかけがあるのである。
そのうえで忘れてはいけないのは、復讐者は”not to be”、つまり「復讐をして死ぬ」という答えを選び続けてきたという事実だろう。千回訊ねられれば千回、一万回訊ねられれば一万回、彼らは断固として”not to be”を選ばなければならない。復讐とは、人間に非人間的な一貫性を強いる行為に他ならないのである。

こうした思想が、”To be, or not to be”という不朽の名台詞には添えられている。


▽復讐者が背負うもの
聞けば、復讐の義務から逃れられぬであろう。
物語の冒頭、父の亡霊がハムレットに自身の死の真相を告げるとき、こんな台詞があった。ハムレットは躊躇うことなくそれを聞き出し、復讐を誓った。

復讐者はある種異常な情熱を持たなければいけない。
復讐を果たさずに、のうのうと生きていくという”to be”の声に応えてはいけないからだ。

その状況は、いかに苦しいか。想像を絶する。
復讐者は、復讐の先に何もないことを知っている。復讐が完遂されれば、彼自身もまた存在しえなくなることも分かっている。それでも、”not to be”と答え続けなければいけない。

亡霊が復讐を「義務」と呼んだのは象徴的だ。
復讐者は、基本的には自らの喜びのために、その役を引き受けているのではない。晴らさなければならない恨み、糾弾しなければならない悪徳、彼らはそれに対する「義務」によって突き動かされているのである。これがシェイクスピアの「復讐」についての哲学なのだろう。

シェイクスピアは“Not to be”と言い切れない主人公の葛藤を描写することで自身の哲学を存分に盛り込み、「ハムレット」を完成させた。

復讐者も人間であるという単純な事実。
それに立脚した物語から発せられる”To be, or not to be”というハムレットの呟きは、今でも「人間の弱さ」という核心をついた言葉として多くの人の心に刻まれているのである。



◆気に入ったフレーズ
針のさきほどのごみでも、眼に入れば煩わしい。

どんな悪事も露顕する。硬い大地が結束して、それをひたかくしに隠そうと、所詮はむだだ。

つきあいは親しんでなれず、それがなにより。が、こいつはと思った友だちは、鎖で縛りつけても離すな。

燃えるもの、かならずしも火にあらず。

生か、死か、それが疑問だ、どちらが男らしい生きかたか、じっと身を伏せ、不法な運命の矢弾を堪え忍ぶのと、それとも剣をとって、押しよせる苦難に立ち向かい、とどめを刺すまであとには引かぬのと、一体どちらが。

何事につけ、誇張は劇の本質に反するからな。

どんな激しい言葉を吐こうと、けっしていい気になってはならぬ!

言葉は空に迷い、思いは地に沈む。心をともなわぬ言葉が、どうして天にとどこうぞ。

弱き心には、同じ言葉も強くひびく。

なるほど、この堕落しきった世のなかでは、美徳が悪徳の許しを乞い、あまつさえ、辞を低うしてその顔色をうかがいながら、事をなさねばならぬらしい。

寝て食うだけ、生涯それしか仕事がないとなったら、人間とは一体なんだ?畜生とどこが違う。

なすべきことは、思いたったときに、してしまうにかぎる。この一旦「思いたった」気もちというやつが、すでに曲者、あてにはならぬのだ。

結局、最後の仕上げは神がする。

肝心なのは覚悟だ。いつ死んだらいいか、そんなことは考えてみたところで、誰にもわかりはすまい。


解説
ハムレットの最大の魅力は、彼が自分の人生を激しく演技しているということにある。

シェイクスピア劇、特に「ハムレット」に現代的な心理の一貫性を求めるのは邪道である。ハムレットは一貫した心理としてではなく、一個の生きた人間として、舞台の上で、自由に、その場その場に即して「演技」をしているのである。

一見して矛盾もある。が、それは作品上の矛盾というより、生きた人間の矛盾なのである。

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220.フランス革命の省察 (エドマンド・バーク)

要点
・「保守主義」思想の父、エドマンド・バーク
・虚構を狂気によって追い求めた革命の時代
・革命の悪弊とそれへの糾弾
・「保守する」とは何なのか


バークは政界という最も生々しい人間世界の舞台に身を投じ、《行動の場における哲学者》として生き抜いた人間である。彼は、抽象的イデオロギーや形而上的思弁に頼らないで、社会的秩序と結びついた個人的自由を擁護し、《革命に反対する革命的書物》を著した。この書は、政治的理性と現実的熟慮を通ずる正義と便宜の調整の方法を明らかに示し、保守主義のバイブルと称される地位を占めるにいたった。

今回読んだのは、エドマンド・バークの「フランス革命の省察」。聞いたことがない人もいるだろうが、混迷を極めたフランス革命期に、それへの批判を展開した一冊だ。
バークは留学先の政治思想の授業で学んだ思想家の一人である。日本では「社会契約論」などの革命思想ばかりを学んできたので、保守主義思想というものに初めて触れ、非常に感動した。大変長い本だが、今日なんとか読み終えることが出来た。


▽動乱の時代
旧制度(アンシャン・レジーム)を何もかもぶっ壊した革命。フランスは無限の可能性を手に入れた代わりに、安定と秩序を喪った。動乱と混迷を極めた時代が幕を開けたのである。

華々しいイメージがつきまとうフランス革命だが、実際のところ、それは人々を恐怖と混沌の渦に巻き込むものだった。
ルイ16世やマリ・アントワネットをはじめ、王家や貴族を次々とギロチン送りにした民衆は、「次の犠牲者」になる危険に晒されながら、激しい疑心暗鬼に駆られていた。目立つことなく過ごそうにも、いつ隣人から「告発」されるか分かったものではない。権威のない新政府は財政的基盤を欠いており、国民から財産を収奪し始める…。

鮮血が日常的な光景のなかに溶け込み、法律は朝令暮改を繰り返す。心から信頼できる人間も見つからない。
「こんな状況に誰がしたんだ!」と叫んでも、その責任者はすでに首を刎ねられていて、新しい人間が代わりに居座っている。
革命のさなか、動乱の時代。人々が生きたのはこうした日々だった。


▽思想という虚構
フランス革命が追及したのは、いわゆる革命思想と言われるものだった。最近読んできたルソーの「社会契約論」やロックの「統治二論」に書かれていたものがこれにあたる。ともに自然状態の想定に基づいたものだ。

それによれば、もともと人は完全に自由かつ平等であるという。そこから、彼らは互いの利益を保証するために契約を結び、政府を作った。このストーリーは革命権の肯定に繋がり、もし政府が気に入らなければ民衆はそれを破壊する権利がある、と考えられた。
このもっともらしい理論が、革命の起爆剤となり、その衝撃波のように世界に広まり、席巻していったのである。現在でも、公民の授業ではこれを「政府のなりたち」として当たり前のように教えられている。

しかし、ちょっと考えればすぐ分かることだが、人間はこれまで一度として完全に自由だったことも、平等だったことも、「自然状態」にいたこともないのである。当たり前だが、革命思想はフィクションにすぎない。

司馬遼太郎の言葉を引用しよう。
思想とは元来虚構である。狂気で維持しつづけることによって、世を動かす実体となる。
フランス革命はこの言葉にすっかり当てはまる。それは虚構を狂気で追求し続けた営みに他ならなかった。そして、世界はいまでもその虚構から自由でいられないままなのである。


▽虚構に騙されなかったバーク
そんななか、恐らく多数派ではないだろうが、虚構に騙されなかった人も存在した。エドマンド・バークこそは、その筆頭人物だった。
フランス国民が直面している不幸から、彼は目を逸らさなかった。革命によってこれほどの惨状が生じたことが、彼に政治の連続性安定性の大切さを確信させたのである。

「旧弊をぶち壊す」と言って、古臭い制度を全て破壊してしまった革命。
バークは、フランス国民が壊してしまった制度のなかに、実は良いものや大切なものも沢山あったと指摘した。革命という粗暴な手段を用いることで、彼らは古いものに内包された美徳も悪徳も、十把一絡げにして捨て去ってしまったのである。
貴方がたの始め方は誤っています。というのも、自らのものすべてを蔑視することから始めたからです。
彼らにとっては、物事の仕組みが古いということはそれを破壊する充分な動機となるのです。


そもそも、政治の目指すところは何か。
完璧な制度を作り上げることか。自由と平等を達成することなのか。いや、違うだろう。
国民を護り、幸福にすることに他ならない。
それに失敗している以上、フランス革命は決して栄光や称賛には値しないのである。

革命政府は自由と平等、人間固有の権利を語りながら、それらを危機に晒した。
バスティーユ牢獄から放たれた罪人が自由を謳歌し、善悪の基準は日ごとに移ろい、民衆による行き当たりばったりの判断に社会が支配される。
この状態に公然と異議を唱え、抗おうとしたのがエドマンド・バークであり、イギリスという国家だったのである。

知恵も美徳も欠いた自由とはそも何ものでしょう。それはおよそあり得るすべての害悪中でも最大のものです。


▽保守とは何なのか
新しい政府を組織するという観念それだけでも、我々を嫌悪と恐怖で一杯にするのに十分なのです。
バークは理性に基づいた新政府を一から建設するという手法に懐疑的だった。
その根底には、「古いものは基本的には良いもの」という彼の信念がある。

古いものは、先人たちの日常的な行為の繰り返しや積み重ねによって、磨き鍛えられたものだ。それらは日々試され、使われ、そして必要があれば修正されているのである。
確かに、「先人たちが培ってきたものよりも、今を生きる人々の理性による制度設計のほうが優れている」という絶対的な証拠がない限り、古いものを根底から変える意味はないだろう。
そのうえで、よく考える必要がある。先人の知恵をすべて軽蔑し、その上に立脚することを拒んだ人間が成功を収めた例は、果たしてこれまでにあっただろうか、と。

これが、保守主義の根っこである。
政治はギャンブルではない。
先人たちが歩んできた道、積み重ねてきたもの、その一歩先、一段先を歩むべきである。
過去の経験は財産であり、それを投げ捨てて闇雲に一歩を踏み出すことは、政治的には愚かな選択なのだ。
フランス革命がしたことは、それであった。


▽保守とは何なのか・続き
では、どうやって保守すればいいのか。これが保守主義におけるもう一つの重要な問いである。バークの言葉を引用しよう。
何らかの変更の手段を持たない国家には、自らを保守する手段がありません。
保存しようとする気質と改善する能力とを合したものが、私にとっての真の政治家の基準です。


「変更」、「改善」という言葉が出てきたと思う。バークは、これこそが古いものを護るための手段だという。
保守は「変わらないこと」を意味しない。保守とは古いものの中にある「良いもの」を発見し、それを護り次に伝えるために「変わる」ことなのである。
従来の制度の中でなにか時代に合わないもの、おかしくなった箇所があれば、慎重に修正する。そうすることで、社会の混乱を招くことなしに制度を引き継ぐことが出来る。政治が大きく乱れなければ、人はたまに多少の不便を感じながらも、基本的にはつつましく、それぞれの自由を楽しめる。

そう考えると、旧フランス政府は、十分に変わることができていなかったのだろう。プレートに長い間溜まったエネルギーが大地震を引き起こすように、制度と現実の齟齬が蓄積したことで、革命を引き起こしてしまった。もちろん、旧来の制度をすべて唾棄すべきものとして扱った革命政府の手法が擁護しようのない暴政であることは、言うまでもないが。

結局、フランス革命が発生したということ自体が、政治の敗北だったのである。勝者は存在せず、全フランス国民が不幸を被ることになった。

古いものの中から「保存すべき美質」を見抜き、それを護るため柔軟に変化する。
これがバークの発想だった。そしてこの態度は、後に多くの政治家によって尊重され、実践されていくのである。

懸命な注意、綿密周到さ、気質的というよりはむしろ善悪判断を弁えた小心さ、これらが、最も断固たる行為をする際に我々の祖先が則った指導原理の中にはありました。
そうして読んだとき、この本は単なる「革命」に対する異議申し立て書ではない、ということが分かってくる。ここには「現実政治家」の核となる発想、指針、教訓が、情熱的な文体によって残されているのである。


◆気に入ったフレーズ
私は、人間らしい、道徳的な、規律ある自由を愛するのです。

実に状況こそ、あらゆる政治原理にそれぞれ固有の色彩を与え、それぞへ不二の効果あらしめるものなのです。

祝福などというものは忽ちにして不正不満に変じてしまうかも知れないのです。

自由は力となります。そこで、思慮深い人ならば、自ら旗幟鮮明にする前に先ず、力を材料としてどんな利益が作り出されてくるのかを見定める筈です。

王位継承の資格が疑わしければ、結局は余りにも選挙紛いの事態になってしまうこと、そして、選挙は、彼らが少なからず重要と考える「我が国の統一と平和と安寧」を文字通り破壊しかねないこと、こうした事柄を彼らは承知していたのです。

我々が形而上学的詭弁の迷路の中で惑わされることさえ無ければ、確定した規則の効用と一時的逸脱のそれとを調和させることが不可能だなどとは到底申せません。

何らかの変更の手段を持たない国家には、自らを保守する手段がありません。

異常な痙攣性の病気を払い除けるためならば、同じく異常で痙攣的な運動も必要でしょう。しかし継承の歩みこそイギリス憲法の健全な習わしなのです。

仮にも「失政」についての意見などといった杜撰で曖昧なもので統治が吹き倒されてしまうとするならば、そもそも如何なる統治も一瞬たりとも存立し得ないでしょう。

新しい政府を組織するという観念それだけでも、我々を嫌悪と恐怖で一杯にするのに十分なのです。

革命好みの精神は、一般的には利己的性格や視野の偏狭さの結果です。

貴方がたの始め方は誤っています。というのも、自らのものすべてを蔑視することから始めたからです。

自由は法と調和するばかりか、よく訓練された場合にはその補完物になる。

あらゆる組織において、指導しようとする人々は同時にまた相当程度服従もしなければなりません。

私は、我々の自由という宝を、単に侵害に対してだけでなく、衰退や腐敗に対しても用心深く眼を見開いて警護することこそ、我が最善の叡智であり第一の義務である、という風に意識していました。

彼らは、経験を無学者の智慧として蔑視します。

統治の学はそれ自体極めて実践的で、また実践的目的を目指して作られたものであり、経験を必要とする問題なのです。

偽善は最も崇高な思弁で語られるのを好みます。

愛情を追放する理性が、人格にとって代わることは不可能なのです。

どの国においても、立派に形成された精神ならばよろこんで好きになりたくなるような習俗の体系がなければなりません。

偏見とは人の美徳をしてその習慣たらしめるもの、脈絡の無い行為の連続には終わらせないものなのです。

彼らにとっては、物事の仕組みが古いということはそれを破壊する充分な動機となるのです。

つまりそれは、瞬間瞬間の彼らの考えの中に偶々浮かんで来る国家計画と共に始まりまた終わるのです。

完全な民主政治とはこの世における破廉恥の極みにほかなりません。それはまた、破廉恥の極みであるが故に最も怖れを知らぬものでもあります。

国家は、現に生存している者の間の組合たるに止まらず、現存する者、既に逝った者、はたまた将来生を享くべき者の間の組合となります。

民主政において、多数者市民は少数者に対して最も残酷な抑圧を加えることができます。

果たしてフランス政府は、改革の余地がまったく無いか、または改革に価せず、従って、建物全体を一時に倒壊させてその跡を理論に従った実験用建造物を建てる場所として空地にしなければならない、といった絶対的必要があったのでしょうか。

私は何事をも破壊されるのを見るのを好みません。

共同社会の中には常に一定量の権力が、誰かの手中に、何らかの名称の下に存在しなければならないのです。

何事にも増して智恵は、流行性の狂信を最も怖れるものです。

文明社会においては正義それ自身が偉大な恒久的政策なのです。

保存しようとする気質と改善する能力とを合したものが、私にとっての真の政治家の基準です。

真の立法者は感受性に満ち満ちた心を持たねばなりません。

一般的には、誤謬を見つけて見せびらかすのを習わしとする人間というものは、改革の仕事には耐えません。

彼らは悪徳を憎むの余り、人間を愛することが余りにも少なくなっています。

彼らは、多くの、ただし悪しき形而上学を持っていますし、多くの、ただし悪しき幾何学を持っています。

貴方がたの国家制度は、多くの分別を具えるには余りにも嫉妬心に満ち満ちています。

冷たい親戚である人が熱烈な国民たることはありません。

いかなる場合であれ、市民からの没収によって国家が自ら豊かとなった験しは未だかつてありません。

知恵も美徳も欠いた自由とはそも何ものでしょう。それはおよそあり得るすべての害悪中でも最大のものです。

たとえ変更を加えるとしても、それは保守するためでなければなりません。

懸命な注意、綿密周到さ、気質的というよりはむしろ善悪判断を弁えた小心さ、これらが、最も断固たる行為をする際に我々の祖先が則った指導原理の中にはありました。

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219.ロリータ (ナボコフ)

要点
・「ロリータ」という言葉に特別な意味を付加させた、世界屈指の「変な」古典
・理性と狂気の関係
・偏愛とはなにか
・小説が人気を博した理由


「ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。ロ・リー・タ…」世界文学の最高傑作と呼ばれながら、ここまで誤解多き作品も数少ない。中年男の少女への倒錯した恋を描く恋愛小説であると同時に、ミステリでありロード・ノヴェルであり、今も論争が続く文学的謎を孕む至高の存在でもある。多様な読みを可能とする「真の古典」。


今回読んだのは世界屈指の古典と言われる「ロリータ」。いま「ロリータ」と言って言外に含まれるイメージは、基本的にこの作品に由来している。中年男性の、12歳の女の子に対する偏愛を描いた物語だ。
主人公は40歳近いハンサムな男で、文学に精通した頭脳明晰な大学教授。第一部ではたまたま居候することになった母子家庭の娘に一目惚れし、あの手この手で娘を我が物にしようと奮闘する。第二部では母親が死んだあとに娘を手籠めにした主人公が、彼女を連れてその街を去っていくところから始まる。

見どころは何といっても主人公の「知性」と「痴性」の(これは作中でも言われている言葉遊び)協奏だろう。理路整然としてウィットに富んだ主人公の語り口調、しかし、その内容は10代前半の少女の内に棲む悪魔である「ニンフェット」の魅力ばかりを語るのである。その語り口のために単なる官能小説だと思われ、最初は出版を拒まれることも多かったという。

非常に複雑で、多様な要素を含んでいる小説だ。簡単にまとめるのは難しい。
加えて、いつも書評を書くときの常套手段はナボコフによって封じられてしまった。「なんのために、どういう意図でこれを書いたか」という問いの設定を、彼はあとがきで「ナンセンスだ」と片づけているのである。
そんなわけで、今回は「ロリータ」の読者として、素直に考えたことを語っていく以外になさそうである。


▽理性と狂気
理性(または合理性)とは突き詰めると不合理に陥るというのは、よく言われることである。理性には目的やゴール、価値観なくしては理性として機能しえないからだ。
同時に、それが理性と呼ばれるものの根本的かつ最大の欠陥である。目的や基本的な価値観が尋常でない場合、それがいかに理性的な人間でも「道」を踏み外してしまう。理性とは特定の目的に向かって最短経路で、もっとも楽に確実に到達する方法を察知し実行する能力でしかなく、それ以上の価値判断には役立たない。

「ロリータ」の主人公は、異常に発達した理性を持っていた。物語の序盤で見られる主人公の「計算づくめ」の数々の行動、他者の動きや表情に対する悪魔のような洞察力に、その明らかな特徴を認めることができる。
しかし、物語の後半になるにつれて理性は鈍っていき、徐々に狂気が頭をもたげてくる。最後はあきらかに錯乱状態だった。ネット上で「ここからは妄想だ」とか「主人公はロリータに発砲した/していない」とか解釈が分かれているのも、その描写のためだろう。

この作品を支配しているのは一級品の理性と、一級品の狂気なのである。前者は大学教授のそれであり、後者は殺人鬼のそれである。ここで考えさせられるのは、彼はいつまで理性的だったのか、そしていつから狂気に支配されはじめたのかということだ。


▽理性と狂気
主人公、ハンバート・ハンバートはいつから狂気の追手に捕まったのか。
僕はこれに「最初からだ」と答える。
こうも言い添えるだろう。「主人公は錯乱状態に陥るまでは理性的だった。同時に、彼は最初から最後まで一貫して狂気に支配されていた」と。

要するに「狂気と理性の二分法は、特にこの小説では意味をなさない」ということだ。主人公の理性は最初から「狂気」に向かっていくものだった。
ロリータの中に潜む魔性への欲望だけが、すべての価値判断の基準であった。彼は地獄を避けるために理性を用いるのではなく、むしろ理性を用いて自ら狂気の地獄へと猛進していた。理性が、悲劇への最短経路を主人公に辿らせたのである。「狂気の理性」と言うべきか、「呪われた理性」と言うべきか。

理性と狂気の二分法、そして理性の優位性を否定したところ、ここに所謂「ポストモダン」の発想があるのだろう。その両方が奇妙な調和を遂げて初めて、「ロリータ」は生まれた。


▽偏愛
もう一つ注目すべき点は、この小説を語るうえで欠かせない「偏愛」という概念である。

一般に、「少女と中年男性」という組み合わせに感じられる醜悪さは、持っている力の不均衡に由来すると考えられる。
大人の男性は少女の持っていないもの、たとえばお金や世間に対する知識、他人を操る権謀の術などを、ほとんど持っている。だから、「少女の弱みにつけこんで」というこの上なく不快な印象は拭いがたいものになる。

ただ、序盤の美しい二人の関係もまた、やけに印象的なのである。移り気なロリータであるが、主人公に好意を示していたし、主人公も真面目に彼女を愛していた。彼のそれは単に性欲を覆い隠したものではなかった。歪んではいただろうが、少女を性的に搾取する意図など一切なかった。

しかし、結局、中盤以降で二人の関係はこの上なく汚らしく、軽蔑に値するものへと堕落していく。この破滅的な最後は、彼らの年齢差によって生まれた。
そういう意味では社会が「偏愛」というレッテルを貼って、こうした恋愛自体を危険視したのも賢明だ。この種の関係には、近づかない方がいい。

ただ、個人的にはその原因を「偏愛」という愛の一類型に求めるのは当たらないと思うのである。狂気に彩られていたことは事実だが、そもそも狂気が微塵も含まれない愛は存在し得ない。
「偏愛」がレッテルに過ぎないということを、読者は思い知らされるだろう。傍目には歪んで見えても、その愛には問題がない場合だってある。結末だけを見て、それをもたらした愛を「汚らわしいもの」と判断するのは短絡的なのかもしれない。

「ロリータ」における愛には、一定程度の真実が宿っていた。
ただ、その真実を保つためにはロリータはあまりに若すぎたし、ハンバート・ハンバートはあまりに歳を取りすぎていたのである。

私にはもちろん、彼女は殺せない。つまり、愛していたからだ。一目見たときから愛していた、最後に見たときも、そしていつ見るときも、永遠に。


▽小説の魅力、なぜ売れたのか
最後に。
この作品にはいろいろな要素や仕掛けがあり、それを読み解く楽しみは確かに並々でない。
ただ、これがアメリカで大ヒットした最大の理由はその「背徳感」にあるだろう。世間でタブー視されたものを題材にして、ナボコフは大作にまとめあげた。

作品のそんな暗い魅力に思い至ったとき、三島由紀夫の「サド侯爵夫人」のある一節が思い浮かんだ。
これを最後に引用して、書評を終えたい。

あなた方は薔薇を見れば美しいと仰言り、蛇を見れば気味が悪いと仰言る。あなた方はご存知ないんです、薔薇と蛇が親しい友達で、夜になれば互いに姿を変え、蛇が頬を赤らめ、薔薇が鱗を光らす世界を。


◆気に入ったフレーズ
ロリータ、我が命の光、我が腰の炎。我が罪、我が魂。

彼女はみんなから悟られずに立っていて、自分が途方もない力を持っているとは夢にも思っていない。

私たちは空想としか思えないほど、神々しいまでに二人きりだった。

たしかに私はロリータに永遠の恋をした。しかし、彼女が永遠にロリータでいるわけはないこともわかっていた。

「永遠」という言葉が指すものは、我が情熱、我が血の中に映し出される永遠のロリータしかない。

今日では、人殺しになりたいと思ったら、まず科学者でないとだめなのである。

楽園は空が地獄の業火の色をしていても、やはり楽園なのだ。

私にはもちろん、彼女は殺せない。つまり、愛していたからだ。一目見たときから愛していた、最後に見たときも、そしていつ見るときも、永遠に。

彼女は言葉を探した。私は頭の中でその言葉を見つけてやった。「あたしの心をめちゃめちゃにしたのはあの人なの。あなたはあたしの人生をめちゃめちゃにしただけ」。

私が彼女につけた汚らわしい欲情の傷をロリータはどんなことがあっても忘れないという単純な人間的事実を、私は超越できなかった。

(解説)
『ロリータ』は、何度も読み直すたびに新しい発見が次々と現れてくるような小説である。

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218.ファウスト 一、二 (ゲーテ)

要点
・世界屈指の文学作品
・悪魔との契約による呪われた恋、それを綴るゲーテの手腕(第一部)
・あらゆる叡智、快楽、事業を追及したファウストが見出したものとは(第二部)


一:理想と現実との乖離に悩む彼の前に、悪魔メフィストフェレスが出現、この世で面白い目をみせるかわりに、死んだら魂を貰いたい、と申し出る。強い意志と努力を信じる彼は契約を結び、若返りの秘薬をのまされて、少女グレートヒェンに恋をするが…。
二:追及の精神の権化ファウストは、種々の経験を経た後、たゆまぬ努力と熱意によって、人間の真の生き方への解答を見いだし、メフィストフェレスの手をのがれて、天上高く昇る。前後六十年の歳月をかけて完成された大作。


今回は世界文学の最高峰に位置づけられている、ゲーテの「ファウスト」を読んだ。最初はその独特の文体におっかなびっくり読み進めていたが、慣れたところでそのスピードが速くなることはなかった。天才ゲーテが生涯をかけて綴った物語である。洗練されつくした言葉の数々が、僕の頭の中に次々と突き刺さってきた。
ここでは物語の筋を追いつつ、作品が僕に与えた感銘について話そうと思う。内容に踏み込む箇所もあるので、注意していただきたい。


▽悪魔との契約とファウスト
あらすじは最初に書いておいた。あらゆる叡智を究めつくし、世界に退屈しきっていた天才・ファウスト。彼のもとへ悪魔が現れ、契約を持ち掛けるところから物語は始まる。その際、意志と努力を信じるファウストは、悪魔とこんな賭けをするのである。

己がもしもうこれで満足というように持っていけたら、
己を快楽でたぶらかしだましおおせたなら、
その時は己の負けだ。

己がある刹那に向かって「とまれ、お前はあまりにも美しい」といったら、
己は喜んで滅んで行く。


彼は世界のすべてを知り尽くしたと思っていたし、学問を究めただけに、達観していた。だから、彼は自らが何かに心奪われようとは思いもよらなかったのである。
こうして賭けを伴った悪魔メフィストフェレスとの契約は成立する。悪魔はファウストの忠実な下僕となる代わりに、死んだらその魂を貰えるのである。


▽第一部
第一部では契約を交わしたファウストが若返り、少女グレートヒェンに恋をする。
彼はメフィストフェレスの協力のもと彼女を得るが、やはり「協力」と言っても「悪魔の」それである。ファウストは望んでもいないのに彼女の母と兄を殺すことになり、さらに事態はどんどん暗転していく。

紹介する限りでは重い内容に見えるが、それでも軸になっているのはグレートヒェンとファウストの恋愛関係であることに変わりはない。確かに二人のそれは呪われた恋である。しかし、それは神聖さを感じさせるほどの美しさを伴って瑞々しく描写されているために、読んでいて全く暗さを感じさせない。二人の間に結ばれた恋の感情は、悪魔によってもたらされた状況に囲まれながらも、神々しく光を帯びているのである。

何といっても、これはゲーテの為せる技だとしか言いようがない。
僕はゲーテの作品を「若きウェルテルの悩み」とこの「ファウスト」しか知らない。それでも恋愛に絡んだあの不思議な感情、雰囲気を描写する力量で、彼の右に出る者はいないのではないかと思わされる。自明性と不確実性、喜びと戸惑い、気持ちの軽さと重さ…。恋という現象の本質は、本質の無さにあると言ってもいい。名状しがたいその感覚を、ゲーテは上にあげた二つの大作で見事に描き切っているのである。

これは滔々と僕が話すより、直接引用したほうが話が早そうだ。

ここへきて己は心の底から感動させられた。
お前はここに何を求めているのだ。なぜお前の心は重いのだ。
哀れなファウストよ、お前は変ったなぁ。

これはグレートヒェンに心を奪われたときの、ファウストの台詞だ。ずっと学問の世界に没頭してきたファウストは、若返ることで忘れていた恋の感情を復活させる。ここでは、恋の訪れとともに沸きおこる瑞々しい感情、その感情への戸惑いが率直かつ克明に表現されている。最後の一文などは、どうであろう。恋を忘れて過ぎ去っていった自らの青春を哀れみ、そしていま恋に落ちることができた幸せを受け止めきれないでいる、絶妙な感傷の表現ではないだろうか。

もう一つ。
好きということが、どういうことだか解るかい。好きなのだ。
これもファウストの台詞だ。恋の相手であるグレートヒェンに語りかけている。

この一文の凄さは筆舌に尽くしがたい。
「どういうことだか解るかい」と言ったうえで、「好き」ということへの説明を放棄して「好きなのだ」と繰り返す。まともに文章を書ける人間には、絶対に書けないはずの文章だ。ところがゲーテはそれを書いた。しかも、これによって「好き」という感情の本質を表現することに成功したのである。

定義をすることができない不確かさと、鼓動を早める強烈な感情への確信という確かさ、「好き」という状態ではその両者が共存している。それこそが「好き」の感情である。ゲーテの書いた論理破綻した説明、これこそが「好き」に対する唯一の答えだったのだと思わされる。こういう文章を見て身体が震えるような感動を覚えるのは、僕だけじゃないはずだ。

ここで強引にまとめるならば、第一部の魅力は、暗い境遇の中でも光る「好き」や「恋」の感情であった。悪魔のもたらす絶望の中で、恋の輝きは少しずつか弱くなっていきながら、第一部は閉幕していく。


▽第二部、そしてファウストの死
第二部では、ファウストは皇帝に仕え、ギリシア神話のヘレネ―と結ばれるなど、あらゆる経験を積んでいく。努力と意志の人であるファウストは、あらゆる快楽や高みを追及する。これが第二部の大半部分である。

物語の終わりに、ファウストは100歳を迎える。
あらゆることをやり尽した彼は、結局、人生に満足な瞬間など一度もないことを悟るのである。
この世のことは、もう知ってしまった。天上への途はとざされている。眩そうに上を見て、雲の上に自分に似たものがあるなどと空想するのは馬鹿者のすることだ。
苦しみにもぶつかるだろう、楽しみを味わうこともあるだろう。しかし人間は、どんな瞬間にも満足してはいられないのだ。


しかしファウストの偉かったところは、それでも人生に絶望しなかったことである。
彼は盲目になり悪魔に騙されながらも、後世の人々のための大事業に着手しようとする。
子供も大人も老人も、まめやかな歳月を送り迎えるのだ。己はそういう人の群れを見たい、己は自由な土地の上に、自由な民とともに生きたい。そういう瞬間に向って、己は呼びかけたい、「とまれ、お前はいかにも美しい」と。
この「とまれ、お前はいかにいも美しい」という言葉こそ、悪魔との賭けで禁止された言葉である。彼は快楽や浅薄な美に対してではなく、後世の人々が幸福に暮らすという夢に向かってその言葉を使ったのである。

これは物語で一番感動的な場面だ。「自由な土地の上に、自由な民とともに生き」ること。それこそが、あらゆる快楽と欲望、事業の先にたどり着いた、真の人生の意味だったのである。彼はついに満たされながら滅んでいく。老いて死に直面して、ファウストは自らの生涯を、後世の「自分ひとりを超えた、大きななにか」のための礎にすることを決断するのだった。

一方、彼の絶命を見とどけることで長い勤めを終えた悪魔。彼は感動的な場面のあとで捨て台詞をはいて、あとはファウストの身体から出てくる魂を待つだけになった。
何、過ぎ去った、と。間抜けな言葉だ。なんで過ぎ去るのだ。過ぎ去ったのと、何もないのとは、全く同じではないか。

結末は、書かないでおく。


▽物語の終わり
物語の終わりには、人生の真の意味を見出したファウストを讃える歌が響く。こうして二巻に及ぶ世界屈指の物語は、余韻を残しながら幕を下ろすのである。
ところで、文豪ゲーテもこの作品を完成させた翌年に亡くなっている。この作品は、彼の人生の集大成でもあるのだ。
数々の功績を遺した天才の死を迎えたときも、この「ファウスト」最後の歌は美しく、高らかに響いたことであろう。

すべて移ろい行くものは、永遠なるものの比喩にすぎず。
かつて満たされざりしもの、今ここに満たさる。
名状すべからざるもの、ここに遂げられたり。
永遠にして女性的なるもの、われらを牽きて登らしむ。


世界文学、芸術の最高峰であるだけに、素晴らしい本だった。何度でも読みたいと思わされる。特に僕が年老いたとき、きっとこの本をまた読むことになるのではないかと思う。


◆気に入ったフレーズ

善い人間は、暗い衝動に駆られても、正道を忘れるということはないものだ。

真にこころの底から出たことでなければ、決して人の心には訴えぬものなのだ。

真剣に言いたいことがあるのならば、言葉を飾る必要がどこにあろうか。

空想が一度は大胆に羽ばたいて、
意気揚々として永遠に向って進んで行っても、
時の渦に呑まれてどの幸福も得られないとなると、
狭い場所に身をちぢこめてしまう。

その時々に創られたものでなければ、その時々の役には立たぬ。

悪魔をつかまえた以上、滅多なことでは放さない。またいつつかまえられるか、わからないからな。

よろしいか、くよくよ考えてばかりいる男は、
すぐ向こうはぐるっと緑の草地だというのに、
悪霊に取憑かれて、草のない荒地の上を、
ぐるぐる引き回されている牛馬のようなものだ

神学の中には実に沢山の隠れた毒があってな、
しかも薬と見分けがつかんときておる。

ねぇ、君、あらゆる理論は灰色で、
緑なのは生命の黄金の樹だ。

つまり完全な矛盾は、賢者にも愚者にも、
等しく神秘的に聞こえますからね。

ここへきて己は心の底から感動させられた。
お前はここに何を求めているのだ。なぜお前の心は重いのだ。
哀れなファウストよ、お前は変ったなぁ。

好きということが、どういうことだか解るかい。好きなのだ。

ただひとりの悲惨を見ただけで、己は五臓六腑が掻きむしられるようだ。それなのに貴様は、そういう幾千という人間の運命を見て、悠然としてせせら笑っているのか。

過ぎたことは過ぎたことだ。そんなことを言って己を苦しめるな。

行かれるんだ。その気になりさえすればいいんだ。戸はあいているんだ。



虹は人間の営為を映し出す鏡だ。虹を見れば、人生とは色とりどりの影にすぎぬということが、よくよく納得できるはずだ。

人間というものは望んで得たものをしっかりと握ってはいないで、愚かにももっともいいものが欲しいと憧れ、一番素晴らしい幸福にもすぐ慣れっこになってしまうのです。

驚く、これは人間の最善の特性ではあるまいか。

悪魔は年寄りだ、歳をとったら悪魔の言うこともわかるでしょう。

人間が何を志しているか、君は知らぬのだ。

平時だろうと戦時だろうと、利口な人間はなんにつけても一儲けしようと骨を折るものです。

富を十分に享けていながら、なお欠けているものを思うことほど、人間にとって不快なことはない。

幸福な双の眼よ、これまでに見たほどのものは、どんなものであろうとも、なんといっても本当に美しかった。

ファウスト
この世のことは、もう知ってしまった。天上への途はとざされている。眩そうに上を見て、雲の上に自分に似たものがあるなどと空想するのは馬鹿者のすることだ。

ファウスト
苦しみにもぶつかるだろう、楽しみを味わうこともあるだろう。しかし人間は、どんな瞬間にも満足してはいられないのだ。

意地悪の「老」がやってきて、撞木杖でおれをなぐった。
よろけて墓の戸のうえへころげたが、生憎その戸が開いていた。

ファウスト
子供も大人も老人も、まめやかな歳月を送り迎えるのだ。己はそういう人の群れを見たい、己は自由な土地の上に、自由な民とともに生きたい。そういう瞬間に向って、己は呼びかけたい、「とまれ、お前はいかにも美しい」と。

メフィストフェレス
何、過ぎ去った、と。間抜けな言葉だ。なんで過ぎ去るのだ。過ぎ去ったのと、何もないのとは、全く同じではないか。

煮ても焼いても食えない悪魔が、下らぬ助平根性を出したばっかりにこの体たらくだ。

すべて移ろい行くものは、永遠なるものの比喩にすぎず。
かつて満たされざりしもの、今ここに満たさる。
名状すべからざるもの、ここに遂げられたり。
永遠にして女性的なるもの、われらを牽きて登らしむ。

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217.ナショナリズム入門 (植村和秀)

要点
・ネイションとはなにか
・日本というネイションの異質性
・ナショナリズムへの正しい理解が日本に求められる国際政治



尖閣諸島問題を巡る中国との軋轢などによって、「ナショナリズム」という言葉を目にすることが多くなってきました。では、「ナショナリズム」とはいったい何なのでしょうか? 本書は、ネイションという、何でも入れられる「透明で空っぽな袋」に、なぜ人々はこだわるのか?という問題意識の元、世界の様々な地域における多様なナショナリズムの構造を分析し、21世紀の世界における最も大きな問題であるナショナリズムについての基礎的な知識を与えるものです。

今回は本屋で見かけて買った「ナショナリズム入門」。
政権は「日本を取り巻く国際情勢の変化」を声高に主張しているが、それは各国のナショナリズムと少なからず関わってくる問題でもある。反日デモが海の向こうで展開されることの多いいま、これについての正しい分析を行うことは非常に重要だ。


▽ネイションとは何か
ネイションについて書かれた最も有名な本は、ベネディクト・アンダーソンによる「想像の共同体」だろう。
ネイションとは、共有された歴史や言語に基づいた「想像の共同体」に過ぎない。大学の課題で読まされたが、非常に示唆に富んだ分析を行っていたと思う。これ以降「ネイションとは何か」を問うとき、アンダーソンが説いた「非自明性」は基本的に前提のようなものになっている。

この本も、その路線を踏襲している。
土地を持ち、その土地の上に文化的なものや国家的なもので歴史的に形成され、ネイションへの意識と意欲が目覚めてはじめてネイションとして広く強く認知されたもの。
著者はネイションをこう定義しており、その形成を「人間集団単位」「地域単位」の二つのパターンに分類した。前者は宗教や言語などの同一性を基にして築かれたもので、ドイツなどが代表例とされる。後者は自然的条件などで線引きされた国境をもとに築かれたもので、スイスがその典型である。

定義を見ればわかるように、ネイションは非常に多くの要素を備えている。土地、文化、国家、歴史、意識、意欲、認知…・。
面白いのは、時と場合によってその重点の置き方が変化する点だろう。土地が最も大事だと思う国もあれば、文化や風土を共有していることを重視する国もある。そうかと思えば、国の中で多様性が根付いていること自体を誇っている国もある。

日本はどうだろうか。
多くの人は日本列島という土地の形に愛着を持っている。一方で、その文化は沖縄から北海道まで、実に多様だ。「日本文化」という確固たるものを心に描いて、それに強い愛着を抱いている人は意外と少ないのかもしれない。南北に広い「多様な文化」こそ日本文化の核だと考えている人もいるだろう。
ネイションについては、考えれば考えるほど曖昧なところが出てくる。逆に言えば、数千万という人間を受け入れるネイションの「広さ」も、その曖昧さからきているのだろう。


▽ネイション形成の困難
さて、ネイションの形成にはいくつかの相克がある。
一つはネイション内の相克、つまり人間集団単位でネイションを作るのか、地域単位でネイションを作るのか、という問題だ。どこからどこまでをネイションとして線引きするのか。誰を国民として扱い、誰を排除するのか。
ネイションを実体として出現させるには、その概念が孕む「曖昧さ」はかえって仇となる。ネイションの形への潜在的可能性が多すぎて、明確な線引きがしにくくなるのである。

加えて、ネイション同士の相克もある。領土問題が好例だ。それは、単に土地を求めただけの闘争を超えた、「ネイションの形」というアイデンティティを賭した闘争なのである。あまり価値のなさそうな土地でも、それを奪い合うために何千万という金を投入し、何万人という人が死ぬ。単なる土地の占有争い以上の意義があるからこそ、こういうことが起こる。

今あるネイションのほとんどは、こうした二つの相克によってもみくちゃにされながら、やっと成立してきた。
ここで注目すべきは、日本がこうした中で極めて例外的な状況にあることだろう。海に囲まれた「日本」というネイションは、国境線が無くても、その形は目に見える。著者はこう指摘する。
日本ネイションの事例は、例外的なほどにネイションとしての自明性が強いのです。
歴史的に見れば、このことは日本に大きな作用をもたらしてきた。果たしてこれが良かったのか悪かったのか、はっきり断定することは出来ない。ただ、重要なのは、そんな自明性の強い日本の国民が他国、特に大陸国のネイションやナショナリズムを理解しようと思ったとき、特別な注意を要するということだ。

他のネイションにとって、国境は決して恒久不変のものではない。時代の趨勢や、括られる民族、ネイションの希求するものによって大きくそれは変動してきた。このことに注意を払わなければ、他国におけるナショナリズムの持つ意味を正確に測ることは難しいのである。


▽特殊なネイション
生まれ育ったネイションがいかに特殊であるかというのは、なかなか分かりにくい。

僕が日本の特殊性に最初に気が付いたのは、高校世界史を勉強してからだった。日本史は全ての出来事が「日本」というネイションで起こったのだと語れるから、非常に分かりやすい。
世界史では、「国境が動く」ということに慣れるまで非常に難渋した。フランク王国や神聖ローマ帝国など「国家」と呼べるかも分からない曖昧な政治的共同体があったり、「都市国家」なるものが勃興したり、機動力を誇る遊牧民が広大な土地を支配したかと思えばすぐに潰えたり。他にも、コンスタンティノープルがイスラム勢力に支配されることでイスタンブールになったり、イスラム教圏であったポルトガルがレコンキスタによってキリスト教圏に戻ってきたり。ほとんどの国にとって、ネイションはそういう絶え間ない闘争によって揉まれながら拡大、縮小し、時には消滅すらしてきたのである。
こうした事実に照らしてみれば、これまでほとんど形を変えなかった「日本列島」というものがいかに異常な存在かが分かるだろう。

ヨーロッパを旅した時には、日本の特殊性をより強く意識することになった。
日本にいれば、外国に出ようと思ったら飛行機か船に乗らなければならない。「国外」とはそのまま「海外」である。
しかし、大陸では陸路で国境を超える。「ここから埼玉県」というのと同じ感覚で、フランス、ドイツ、スイス、オーストリア…と続いていく。
感覚的にはそこまで大きな衝撃を受けなかったが、よくよく考えれば面白いことだ。「隣国」とは読んで字のごとく隣にある国で、多くの場合その間に海は挟んでいないのである。

普通に考えれば、こうした地政学的に大きな異質性が、日本に大きな影響を及ぼしていないはずがないことがわかる。
日本人がネイションを語るとき、多くの人はドイツやフランス、中国といった大陸国の人と同じような意味で「ネイション」を使っている気になっている。しかし、日本人のそれには「ネイションは海に囲まれているもので、その形は基本的には変わらない」という、感覚に基づいた根強い、しかも「異質な」前提が潜んでいるのである。

確かにこれは抽象論的な相違かもしれない。しかし、国際政治において東アジアの重要度が増している現在、地域における大国たる日本が他国の「ネイション」および「ナショナリズム」について読み違えをすれば、破局的な状況を招きかねない。
著者は中国や韓国の例を引きながら、「東アジアにナショナリズムの季節が到来しつつある」と訴えている。いま、日本には「ネイション」「ナショナリズム」という概念について正確な知識を持っていることが要求されているのである。

ナショナリズムは、あくまでも人間が作るものであり、人間が生み出してきたものです。それゆえ、人間が善く育てねばならないものではないかと、わたしは思います。
他国の排他的なナショナリズムをどうかわすか、その活力をどう前向きなものへ転化させていくか。日本の外交や政治が取り組むべき大きな課題である。


◆気に入ったフレーズ
ネイションが歴史的に形成されたというのは、その歴史を踏まえなければ新しい歴史は作れない、ということです。

ネイションの全員が実際には敵でなくとも、意識と意欲が高まれば高まるほど、敵の顔は単純化され戯画化されます。そうなると、人間一人一人の顔は見失われてしまうのです。

日本ネイションの事例は、例外的なほどにネイションとしての自明性が強いのです。

ネイションへのこだわりを強めるには、学校と軍隊が重要な人生行路となります。

ヨーロッパ連合は、危機によって存続を脅かされつつも、危機によって活性化される仕組みでもあるのです。

アメリカでの建国の理念へのこだわりは、実際には、そのようなこだわりを掲げるアメリカに対するこだわりです。

近代化が中途半端な時期にこそ、ナショナリズムは盛り上がるのではないかと思うのです。

ネイションとは何かを多くの人がさまざまに問うことが、ネイションの内容を豊かにし、その魅力を高めてきたのです。

ナショナリズムは、あくまでも人間が作るものであり、人間が生み出してきたものです。それゆえ、人間が善く育てねばならないものではないかと、わたしは思います。

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