216.職業としての学問 (マックス・ウェーバー) 再読2

第一次世界大戦後の混迷のドイツ。青年たちは事実のかわりに世界観を、認識のかわりに体験を、教師のかわりに指導者を欲した。学問と政策の峻別を説くこの名高い公演で、ウェーバーはこうした風潮を鍛えられるべき弱さだと批判し、「日々の仕事に帰れ」と彼らを叱咤する。それは聴衆に「脅かすような」印象を与えたという。
今回読んだのはマックス・ウェーバーによる講演の一つである「職業としての学問」である。
読むのは二回目であるが、やはり色々な要素が入っているのでまとめるのが難しい。
▽職業倫理
「職業倫理」という言葉がある。それぞれの職業をこなすにあたって、特別に適用される倫理を指す。
たとえば、ウェーバーは「職業としての政治」という公演のなかで、「誰が歴史の歯車に手をかける資格を持つか」という表現を使い、政治に携わる者について語った。「暴力の独占」を握っている政治の領域では、一般社会に要求されるそれとは異なる倫理が要求される、と。
この「職業としての学問」では、簡単にいえば学者の職業倫理について論じられているのである。
簡潔にまとめるには、少し内容が多岐にわたりすぎている。このあたりが公演と普通の書籍との違いだろう。本では首尾一貫した話を展開することが比較的容易であるし、読者もそれを求めている。しかし公演では聞き手が退屈してはいけないから、適度に話題を散らす必要があるのではないか。
公演の内容は当時のドイツにおける学問を取り巻く状況から始まり、そこから研究者であるとともに教師でもあることをも求められる、学者の立ち位置を明らかにする。ウェーバーはそうした難しい環境を指摘したうえで、「学問を職業とすること」、その職業倫理を改めて説くのである。
▽没頭する、ということ
本のあらすじには「第一次大戦後の混迷のドイツ」という舞台が明らかになっているが、混迷の中にあって学問の道を説いたこの演説は、現代にも十分通用する鋭い眼差しに満ちたものであった。
演説の鍵は、「没頭すること」である。
公演のなかでは、たびたび「学問をする意味は何か」という問いが掲げられた。
そこには様々な答えが想定される。技術の革新、人間の便益、快適性、理性の鍛錬、人類の進歩などなど。
公演で取り上げられた例の一つとして、学者たちの自己顕示欲がある。ウェーバーはそうした者たちに対して厳しいコメントをしている。
どうだ俺はただの「専門家」じゃないだろうとか、どうだ俺のいったようなことはまだだれもいわないだろうとか、そういうことばかり考えている人、こうした人々は、学問の世界では間違いなくなんら「個性」のある人ではない。
しかし、公演を読む進めるうちに、ウェーバーの否定的態度は、なにも自己顕示欲に基いた学究だけに向けられたものではないと気付く。
彼は、学問への意味を問うこと自体を放棄するように訴えているのである。
ある研究の成果が重要であるかどうかは、学問上の手段によっては論証しえない。
つまり、学問を行う者は、彼の研究がいかに意義深いものであるかを判断することはできないのである。それは学者ではなく、社会が決めるものだからである。
学者はそういう意味で、どこまでも孤独な道を歩まねばならない。彼らはひとり苦労を重ね、やっとの思いでその結晶としての研究結果を生み出すだろう。しかしいざ評価を得ようと思ったとき、研究は彼の手元を離れて、社会の手に委ねられなければならないのである。
没頭、というのはこういうことをいう。
自身の並々ならぬ努力の意味をあえて問わない。それが水泡に帰す可能性があることを知りながら、それでも努力を続ける。社会からいかなる評価を下されようと、決してそれに追従するための学問を行わない。これこそ「没頭」という姿勢であり、ウェーバーが学者に求めた職業倫理なのであった。
みずから目隠しを着けることのできない人や、また自己の全心を打ち込んで、たとえばある写本のある箇所の正しい解釈を得ることに夢中になるといったようなことのできない人は、まず学問には縁遠い人である。
最初、自分にはこの一文にある「目隠し」の意味がわからなかった。
しかし、ここまで考察をしてやっと分かってきた。
おそらく、学問以外のものに対する目隠しのことなのだろう。学問を究めるなら、それとは関係のない全ての条件やノイズに対して盲目でなければいけない。自らの学問が持つであろう意義についても、盲目であり続けなければいけない。
全てに対して盲目になり、世界に自分と研究対象しか残らなくなったとき、彼は初めて学問に「没頭」している境地に達する。そしてそこに辿りついたとき、人は優れた学者になるために不可欠な「純粋な情熱」の源泉を発見するのである。
いやしくも人間としての自覚のあるものにとって、情熱なしになしうるすべては、無価値である。
◆気に入ったフレーズ
こんにちなにか実際に学問上の仕事を完成したという誇りは、ひとり自己の専門に閉じこもることによって得られることができるのである。
みずから目隠しを着けることのできない人や、また自己の全心を打ち込んで、たとえばある写本のある箇所の正しい解釈を得ることに夢中になるといったようなことのできない人は、まず学問には縁遠い人である。
いやしくも人間としての自覚のあるものにとって、情熱なしになしうるすべては、無価値だからである。
一般に思いつきというものは、人が精出して仕事をしているときにかぎってあらわれる。
どうだ俺はただの「専門家」じゃないだろうとか、どうだ俺のいったようなことはまだだれもいわないだろうとか、そういうことばかり考えている人、こうした人々は、学問の世界では間違いなくなんら「個性」のある人ではない。
ある研究の成果が重要であるかどうかは、学問上の手段によっては論証しえない。
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要点
・歴史的潮流の転換を担った二冊
・【前編】王権神授説に対する徹底的な論駁
・【後編】自然状態の想定から生み出される政治的権力
・ロックの政治思想に潜む弱点、その根本に潜む真空
イギリス社会が新興の中産階層の力で近代社会へ脱皮してゆくとき、その政治思想を代表したのがロック(1632-1704)であった。王権神授説を否定し、政治権力の起源を人くわびとの合意=社会契約によるとした本書は、アメリカ独立宣言の原理的核心となり、フランス革命にも影響を与えた。政治学史上屈指の古典の全訳。
今回は六日間ほどかけて読了した「統治二論」。呼称には「市民政府二論」、「統治論二編」などヴァリエーションがある。
名誉革命を理論的に正当化するものとして書かれたそうだが、そこには自然権に基づいた暴政に対する抵抗権・革命権などの概念が明記されており、後にくる「革命の時代」の起爆剤になったことが分かる。
余談だが、オックスフォードを観光した時に、大学の著名な卒業生の肖像が並ぶホールを訪ねた。そうそうたる顔ぶれの中に、やはりこのジョン・ロックもその名を連ねていた。
イギリスの穏やかな片田舎での学習が実を結んで「統治二編」に繋がり、やがて海を越えフランスやアメリカの歴史を動かしていったのだ。そう思うと、不思議な気持ちに襲われた。思想とは、まるで一種の魔術のようではないか。
▽「二論」とは
二論、というようにこの書は二つの部分に分かれている。そこで彼が行ったことは、それぞれ「破壊」と「創造」である。
前編は王権神授説の代表的な文献となっているロバート・フィルマーの「パトリアーカ」に対する反駁に充てられて、ここで絶対君主制の理論的支柱を完膚なきまでに「破壊」している。
後編に至ると、ロックは「自然状態」や「自然権」の絶対性を起点とした主権在民論、政治権力の起源としての社会契約を論じ、つまり政府の正統性を「創造」するのである。
こうして統治二論は、単に絶対君主制の流れを断絶させるだけでなく、社会契約説の流れを巻き起こすという歴史の切り替えを担う書物になったのである。
▽前編
先ほども言った通り、ここでは「パトリアーカ」で展開されている王権神授説への徹底的な論駁が行われている。国王の権力は「世界の支配者」であったアダムから引き継いだものだという主張にたいして、彼は所有権やその相続、さらに父権など様々な概念を検証することによってこれを打ち破っている。
まるで、優れた検事が被告人を追い詰めているかのようであった。ロックの反駁が、歴史的に強勢を誇っていた専制君主制や王権神授説の弱点をピシッピシッと突いているのが感じられる。
いかなる人もアダムの王的権力をもつことができる。
最後にロックがこの一文を書き切ったとき、王権神授説の幻想は音を立てて崩れ落ちた。絶対君主の肥大化した権力を正当化しようとした無理な欺瞞が、白日の下に晒されたのである。
読めば、歴史のパワーバランスが変容しつつあるという緊張感を楽しむことができる。
ただ、この前編は非常に長いうえに、「パトリアーカ」を読んでないと議論を追っていくことが出来ない。僕は雰囲気を味わいながら、ナナメ読みだった。当初の岩波文庫が後編しか出版しなかったのも頷ける。
▽後編
後世から主権在民論や社会契約論の源泉を辿るとき、参考になるのはこちらの方である。
自然状態の想定からはじめて、人々がなぜ社会状態に入るのかを考察する。
自然状態において人は確かにそうした権利をもっているが、しかし、その権利の享受はきわめて不確実であり、たえず他者による権利侵害にさらされている。
ロックによれば、自然状態は闘争状態とはイコールではないものの、各人がその所有権を保持するには十分に安定的でないと考えられている。自然状態に止まっているかぎり、人はいつ闘争状態へ陥っても不思議ではない。ロックによれば、彼らは相互の保全をより盤石なものにするために契約を結び、政府を築くという。
理性的な被造物が、現在の状態よりも悪くなることを意図して自分の境遇を変えるとは思われない。
これはトマス・ペインも言っていたが、社会契約論を考えるうえで非常に分かりやすい指摘である。自然状態から社会状態に入るということは、各人にそれ相応のメリットがあるはずである。逆に考えれば、共同体の成員に明白な害を及ぼすような政府、そんな政府を作るために人々が契約を結ぶことは、あり得ないのである。これは革命権・抵抗権への理論的支柱になる。
▽統治二論における弱点
この前ルソーの「社会契約論」の書評で、同書に潜む弱点を「原罪」と表現した。一般意志という概念の曖昧さが、彼の思想の普及とともに、世界中に様々な影響を及ぼした、と。
統治二論にも、実は同様の弱点がある。
主権在民論、そして社会契約による政府の樹立。こうした理論は確かに理に適っており荘厳さをすら帯びているが、その根本がやはり曖昧なのだ。
端的に言えば、社会契約の根本を形成する各人の「自然権」とは何なのか、という問題だ。
自然状態というものは幻想の産物で、これまで誰も経験したことがない。それなのに、なぜそういう環境を想定すること、さらにそこで普遍的に定められた法を想定することが許されるのだろうか?
自然法とは、神の意志の宣言に他ならない。
ロックはここを論理的に説明することに失敗している。そんな説明など確かに不可能なのだが、ロックはここで「神の意志」を持ち出している。王権神授説をぶち壊した直後にも関わらず、ロックが自身の政治理論を確立するために「神の助力」を必要としたことは、自然状態に基づく社会契約論の本質的弱点を考えるうえで象徴的である。
もちろんロックが敬虔なクリスチャンだったこともあるだろうが、前編であれほど見事な論駁を行っていただけに、その曖昧さも際立って見える。社会契約論の基盤を探ろうとする人は誰であっても、そこに真空状態を発見せざるをえないのである。
一般意志、神の意志、権利、理性、公共善…。
様々な言葉が生み出されてきたが、結局「社会契約が絶対にあった/なくてはならない」ということを保証することはついに出来なかった。それらは社会契約論の基盤に見てくれのいい形を与えることは出来ただろうが、その実態が霧や霞のようなものであることは、あくまで変わらないである。
反革命思想を打ち立てたヨーロッパ保守主義の論客たちは、その最大の弱点をよく知っていた。だからこそ、抽象的理論の欺瞞による危うさを察知し、現実に基づいた政治の重要性を指向するよう訴えたのである。
それでも、ロックやルソーの思想は大いに広まった。各人が固有に自然権を持つという考え方は、人権思想の発展にも繋がっている。形而上の理論として根本に真空を抱えているにも関わらず、今や彼らの思想は世界を席巻し、現実を動かす実体となっているのである。
それが良いか悪いかは置いておくとして、司馬遼太郎がこうした状況をこう表現した。非常にうまい言葉だと思う。
思想とは元来虚構である。狂気で維持し続けることによって、世を動かす実体となる。
考察で付け足すことは、もうないであろう。
◆気に入ったフレーズ
前編
隷属状態とは、人間にとってこの上なく卑しく悲惨な状態であって、わが国民の高潔な気質や勇気とはまったく相容れないものである。
われわれが誰に対して従うべきかを語ることなしに、従属や服従について説くことは無益なのである。
人は、自分に対して権力を行使する権力をもつ人物が誰であるかを得心しない限り、良心に顧みてその権力に服従する義務を負うことはできない。
統治は被統治者の便益のためのものであって、単に統治者の利益のためだけのものではない。
誰が権力をもつかに疑問の余地が残るならば、それ以外の問題はすべてほとんど空しいものになってしまう。
いかなる人もアダムの王的権力をもつことができる。
後編
すべての人間は自然法の侵犯者を処罰する権利をもち、自然法の執行者となるのである。
戦争状態を回避すること、これが、人々が社会のなかに身を置き、自然状態を離れる一つの大きな理由に他ならない。
労働が、万物の共通の母である自然がなした以上の何ものかをそれらに付加し、そのようにして、それらは彼の私的権利の対象となったのである。
彼の正当な所有権の限界を越えたかどうかは、そのなかの何かが無駄に消滅してしまったかどうかにある。
理性が、人間に自分自身を支配すべき法を教え、また、人間にどの程度まで自らの意志の自由が許されているかを知らせてくれるのである。
人々が、相互の不和を決裁するために訴えるべきそうした権威をもたないところでは、彼らはどこにおいてもなお自然状態のうちにある。
一つの団体は一つの方向に動く必要があるのだから、その団体は、より大きな力、すなわち多数派の同意が導く方向に進まなくてはならない。
(初期の政治共同体において)彼らが第一に心配したのは、外敵に対して身の安全をいかに保つかということであった。
公共の福祉を優しく気遣うそうした育ての祖父たちがいなければ、すべての統治体はその幼年期の弱さと脆弱さのために倒れてしまったであろう。
自然状態において人は確かにそうした権利をもっているが、しかし、その権利の享受はきわめて不確実であり、たえず他者による権利侵害にさらされている。
理性的な被造物が、現在の状態よりも悪くなることを意図して自分の境遇を変えるとは思われない。
人々が社会に入る大きな目的は、彼らの固有権を平和かつ安全に享受することである。
誰であれ、社会自身の同意と社会から与えられる権威とを欠く限り、社会に対して法を作る権力をもつことはできない。
自然法とは、神の意志の宣言に他ならない。
ただ国民だけが、立法部を設立し、それが誰の手に委ねられるべきかを指定することによって、政治的共同体の形態を定めることができる。
統治が存続している間は、いかなる場合にも立法権力が最高の権力である。
社会の成員は、社会の公的な意志に対してのみ服従の義務を負う。
どんな状態や条件においても、権威をもたない実力に対する真の救済策は、実力をもってそれに対抗することに他ならない。
公正で平等な代表をもつことは国民の意図であるとともに利益でもある。
統治の目的は可能な限りすべての人を保全することにある。
大権とは、法規によることなしに公共の善を行う権力に他ならない。
多くの人が、武器の暴力を人民の同意と取り違え、征服を統治の起源の一つに数え上げている。
人を戦争状態に置くのは暴力の使用だけである。
所有権の本質は、人が自分自身の同意を与えない限り、人からそれが奪われることはありえないという点にあるのである。
暴政とは権利を超えて権力を行使することであって、何人もそのようなことへの権利をもつことはできない。
彼らは、単に暴政から逃れる権利をもつだけではなく、暴政を予防する権利をももつのである。


要点
・「サンプル」としての民主党政権の重要性
・政治の二つの見方
・「生」な政治という視点の提供
第一次安倍内閣以降、民主党の野田に至るまで一年程度の短期政権が続いた理由は?そして民主党はなぜわずか三年で政権を手放さざるをえなかったのか……外交・内政の重大問題への対応を中心に日本政治とリーダーの問題点を描き出す。
ジョン・ロックの「統治論二編」に四苦八苦しているあいだに、二冊目の新書を読み終えてしまった。
もちろん、こんなことが出来るのは「気休めの本」が面白くてしかも読みやすいからに他ならない。昨日の「論文捏造」、そして今日の「総理の覚悟」と、最近の僕は面白い新書に当たりやすいようだ。
▽民主党政権の歴史的意味
民主党政権が誕生した意味は、その暗澹たる実績にもかかわらず、非常に大きいものだと考えるべきだ。1955年の自由民主党の結党、いわゆる「55年体制」のスタート以来、同党は政権の座を守り続けた。「一と二分の一政党制」とも言われる状況が、ずっと続いていたのである。
民主党は、脈々と受け継がれていた日本政治の流れのなかに一つの断層を刻みつけた。政治史上の快挙といってもいい。
周知のとおり、「政権奪取」以上の目標を持たなかった民主党の党内ガバナンスはすぐに機能不全に陥り、3年後には怒れる国民の投票によってあえなく惨敗を喫した。それでも、この三年間を軽視することはできない。戦後はじめて自民党以外の政党が単独で政権を担ったのである。その結果が失敗だったとしても、いや、失敗だったからこそ、それは私たちが「日本政治」なるものに対する洞察・教訓を汲み取る絶好のチャンスなのだ。
あれほど盛大な失敗をやらかした民主党政権を振り返らないのは、「もったいない」のである。
政権を獲った「政治主導」を掲げた素人集団が三年間でやってきたこと(少しの成功と沢山の失敗)については、多くの本で論じられている。政権交代のテコになった小沢一郎の暗躍や、小選挙区制についても、よく分析をしている良書が出されている。
とにかく、2009から2012年の三年間はとても貴重な「サンプル」だ。一人でも多くの人が関心を持ち、関連する本を読むことが望ましい。
※
「民主党政権 失敗の検証」 日本再生イニシアチブ(中公新書)
「政権交代」 小林良彰(中公新書)
「現代日本の政党デモクラシー」 中北浩爾(岩波新書)
▽この本のユニークさ、および感想
この本も同じように、民主党政権期間を含めてその前後の政権を題材にしたものである。
ただ、この「総理の覚悟」がユニークなのは抽象的な「政権」や「政党」ではなく、「総理」という生身の人間の素顔を中心に展開しているところである。学者には論ずることの難しい切り口である。
冒頭にはこうある。
政治は誰がやっても同じなどということは決してない。
数々の総理について、その個性を間近で見てきたからこその確信だ。
政治について語るとき、多くの場合は抽象論で語られる。「自民党は~」「安倍政権は~」「内閣は~」といった具合だ。多くの人にとって、政治とは非人間的な営みだ。たしかに、政府がやたら人情味に溢れているようでは困るだろう。政府は「機関」であり、そうである以上は、「機関」として存在すべきなのかもしれない。
一方で、本書のような「権力闘争としての政治」「政治家たちの人間模様としての政治」を読むにつけ、その「機関」にももちろん血が通っており、鼓動を打っていることが感じられる。
こうした本は他にもある。筆者が冒頭で挙げた岡義武の「近代日本の政治家」はもちろん、戸川猪佐武の「小説吉田学校」(全八巻)などが代表的だ。ニクソンが書いた「指導者とは」も、そうした著書群に属すかもしれない。
丸山真男は日本の政治報道について「あれは政治部じゃなくて政局部だ」と皮肉ったのは有名だが、これは抽象・具象の政治を考えるうえで面白い言葉だ。
大雑把に言えば「政治」とは組織や機関の力関係を基にして抽象的に語られる領域を指しており、「政局」とは人情や個人的な関係で変化する「人間模様としての政治」の領域を指している。学者の主たる研究対象は前者であり、確かにその論理が大きな意味での現実政治を規定している。一方で、後者のような個人的な人間関係、個人的な人情や恨みつらみが政界を揺るがし、大きなうねりを起こすこともある。
要するに、両方の視点を偏らずに持つことが大切なのだ。だから、僕にとって本書のような「生な」政治について語ってくれる本は、かなり貴重だ。
この本を読んでよかったと思ったのも、実はその点だ。
いま政治の舞台で動いている政治家たち、つまり安倍晋三や麻生太郎といったリーダーの個性を感じることができたことは、大きな収穫だと思っている。自民党の内部にある政権運営のための技術についても、少し知ることができた。理論ばかりで凝り固まろうかという僕の頭に、まったく新しい観点からの情報を供給してくれたのである。
いまの自民党政権を見ると、安倍首相の外交・安全保障政策に関する手腕の強引さがきわめて印象に残りやすくなっている。しかし、当然のことながら自民党内にも色々な人がいる。これを十把一からげにして「保守・右派」のレッテルだけで見ていると、いずれ大変な誤解をすることになる。それを防ぐためにも、個々の政治家の「人間的な」側面に対して関心を抱くことは、決して無駄なことではない。
丸山真男はこの本を「政局記者」の仕事だと評するかもしれない。それでも、そうした「生」な情報は、政治の動向に対する本能的な洞察のためには有益な材料なのである。
◆気に入ったフレーズ
政治は誰がやっても同じなどということは決してない。
圧倒的勝利はその後の政権運営を考えると決して望ましいことではない。
目指すものから言えば、安倍は小泉の後継者ではなかった。
政界ほど、自己評価と客観評価に開きのある世界もないだろう。
最高指導者が、何がなんでもやろうという態度を示せば、国民はある程度許容するものである。
政治において時間は極めて重要なファクターである。
国家国民のためならば、自分にとってプラスにならないことでもやる気があるかどうかである。
「あいまいさ」も認める日本的な風土に合うような政治を進めてきたところに、超長期政権の秘密がある。
国のトップには、政治ができることには限界があるという、ある種の「諦念」が必要である。
理想は常に実現可能性とのつばぜり合いの中で、磨き抜かれていかなければならない。
人気など泡のようなものである。泡はすぐ消えてしまう。どのように総理を生み出していくか、深刻に考えていかなければならない。


要点
・「論文捏造」がジャーナリズムの報道としていかに優れているか
・捏造事件を通して見えた、「科学の世界内外の変容」と歪み
・STAP事件をどう見るべきか
科学の殿堂・ベル研究所の、若きカリスマ、ノーベル賞に最も近いといわれた男、ヘンドリック・シェーン。だが、2002年、論文捏造が発覚。学会も『サイエンス』『ネイチャー』等一流誌も、なぜ気付かなかったのか?科学界が抱える問題に迫る。NHK番組を元に書き下ろし。
STAP細胞問題を考えようと思い、手にした新書である。初版は2006年、小保方氏の問題発覚よりも8年も前に書かれたものである。
思ったよりも面白くて半日で読み終えたわけだが、正直、震えるほど感動した。今回の書評は「僕がなぜ感動したのか」、「この本はどう評されるべきか」について、書くことになると思う。
▽ジャーナリズムの理想
まずは、この本の評価を定めるうえで決定的な役割を果たす、僕の考えるジャーナリズム像について語ってみたい。
一般に重視される、そして僕の重視するジャーナリズムの評価基準は、以下の通りだ。
・速報性:事件が起きたら、出来るだけ早く伝える
・正確性:事件の正確な情報を伝える
・発見性:隠された事実を発見し、伝える
・分かりやすさ:込み入った事件でも、誰にでもわかるように伝える
・洞察の鋭さ:表面的ではなく深い視点から事件を見、それを鋭く評価し伝える
最初の二つが、一般に言われる基準である。
詳しく論じるとキリがないので結論から言うが、僕が「今後のジャーナリズムにおいて、より重視されるはずだ」と思っているのは、《分かりやすさ》と《洞察の鋭さ》の二つである。反対に、《速報性》についてはネットメディアの台頭で重要度が減りつつあるのではないかと思う。素人がSNSで事件を報じられる時代である。これとマトモにやり合おうとというのは賢明ではない。
今は、複雑な事件について調査したうえで分かりやすく伝えること、それについて洞察を加え「何が起こっているか」を伝えることへの要求が高まる一方であると思う。今後、訓練された職業人たるジャーナリストが活躍できるのは、そうした場に他ならないのではないか。
人は情報をナマモノのように扱う。昨日の新聞紙は今日の紙屑、といった具合だ。
しかし、世の中にはナマモノにならない情報があり、報道がある。たとえば、事件が起こる数年前に社会の病理を発見し、その危険性を指弾する報道。たとえば、大規模な災害が起こった日に必ず特集を組み、記憶を風化させないよう努める報道。
僕は、これが一つの(唯一ではない!)理想的なジャーナリズムだと思っている。本当によく訓練された、明晰な頭脳を持つことなしにはできない。体力勝負だけではない、知的労働としてのジャーナリスト像である。
▽この本の優れているところ
ここまで書いたところで、この「論文捏造」のジャーナリズム的な観点からの評価にうつりたい。
僕が感心したのは、この本が速報性を除くすべての項目において優れていると感じさせられたところである。
《正確性》は当然ながら、捏造の原因をシェーン個人にのみ求めるのではなく現代の科学界全体が直面している病巣を発掘した《発見性》、科学の最先端技術をめぐる騒動であるにもかかわらず門外漢にも理解できるように書いている《分かりやすさ》などを通じて、優秀なジャーナリストとしての腕前が存分に発揮されていることがわかるのだ。
さらに、日本でSTAP細胞問題が大きく取り沙汰される8年前にこれが書かれたという事実からも、この本がいかに「深い真理を抉ったものか」が分かる。つまり、この本は尋常でない《洞察の鋭さ》をもって執筆されたということである。
この本は優れている。
「面白い」という意味で優れているのも事実だが、それ以上に「社会の病理を追求し明らかにする」ジャーナリストの本だという目線から評価しても、やはり一級品だと評することが出来るのである。
▽表出する「本質」
では、この本で浮き彫りになった事件の本質とは何だったのか。軽くまとめて、書評を終えたい。
シェーン個人に問題があったのは否定できないだろう。ただ、この本が力点を置いたのは、より構造的な要因である。
ひとつは、科学界そのものの問題。
研究が進むことで、科学者はますます「狭く、深く」取り組むことが求められるようになった。いわゆる「専門化」だ。研究者同士が互いの研究について理解することが少なくなってしまい、これが捏造発覚の遅れの大きな要因になった。
加えて、科学界ではすべての研究者が「自然の真理を純粋に解き明かしたがっている」と信じる性善説が、捏造の発覚を遅らせる別の要因になった。この性善説は、科学の世界で自由闊達な議論や共同研究における相互信頼の基にもなっているから、根が深い。
他にも、専門化が進んだ結果、実験において「コツ」という要素が重要な役割を占めて「再現性」の担保が絶対的なものではなくなりつつあることなどが、捏造を可能にした温床として指摘されている。
もう一つは、科学界の外の問題。
科学と経済が結び付けられたこと、そして激しい「成果主義」が席巻したことが、科学者たちに強いプレッシャーを与えるようになったという。これも科学者を捏造行為へと走らせることに繋がった。
科学研究は「金の生る木」、そうした認識が、科学そのものを変貌させてしまっている
これらの要因を挙げたうえで、筆者が「科学内外における変容」を鋭く指摘したのが印象的だった。その歪みが、論文捏造に付け入る隙を与え、それが跋扈する温床にもなったのである、と。
現代の科学は、もはやアインシュタインの頃までの科学のあり方とはまったく違うものに変容している。
▽「ピュアな科学」の終焉
最後に、もう少しだけ。
古代の偉大な数学者であるユークリッドについて、こんな逸話がある。
あるとき、一人の生徒が彼に「この数学の証明が、何の役に立つのか」と尋ねた。ユークリッドは質問には答えず、近くの奴隷に向かって「彼にお金をあげてやれ、勉強より金儲けがしたいらしいから」と言い放ったという。生徒は放校となった。
科学の純粋さを象徴するようなエピソードだ。「金儲け」と相容れない「科学」のコントラスト。たしかに、人々はこれまで科学に対して一種の幻想を抱いていた。
ところが、この「論文捏造」が浮き彫りにするのは、そうした「ピュアな科学」の危機もしくは終焉であった。何といっても、今どきの研究には、カネがかかる。スーパーコンピュータや実験器具など。本の中でも、シェーンの実験の追試のために1000万以上する機器を購入した研究者たちがいた。ユークリッドが現代にいたとしても、やはり彼だって金儲けをしないわけにはいかないだろう。科学の世界は、そういう時代に入ったのだ。
民主党の蓮舫議員が「二番じゃダメなんですか」と言って研究費を“仕分け”したのも記憶に新しい。彼女の発言には「科学」というものに対する一般人のイメージがよく現れているような気もする。私たちは、「研究者たちも人間である」ということを忘れて、彼らは真理の探究にしか興味がなく、清貧で、一般とは違う行動原理を持っていると思いがちである。
科学の内外が変容しつつあるいま、こうした私たちの科学に対する理解も刷新される必要がありそうだ。
だから、小保方氏の騒動についても、一般人がこれまで通りの感覚で彼女をバッシングするだけでは何も生まれないのだ。科学に対する「ピュアさ」の押し付けが酷くなるばかりで、かえってその歪みが大きくなりかねない。
科学の世界が私たちの考えているそれとは全く異なるということを認識することこそ、いま何よりも求められているのである。


要点
・社会契約論とはなにか
・厄介な概念「一般意志」とは
・一般意志の曖昧さと社会契約論の「原罪」
これはもっとも徹底的な人民主権論を説いた書物である。国家は個々人が互いに結合して、自由と平等を最大限に確保するために契約することによって成立する。ルソーはこの立場から既成の国家観をくつがえし、革命的な民主主義の思想を提示した。フランス革命の導火線となった近代デモクラシーの先駆的宣言の書。
今回は名高いルソーの「社会契約論」である。1762年のフランスで出版され、のちの革命勃発への導火線になった。
政治学を大学で専攻して四年目だが、今になってこれを読んだことがないことに思い至った。忸怩たる思いである。さいきん丸山眞男やハンナ・アレントを読むことで、古典がいかに重要かを思い知らされている。遅ればせながら、これからジョン・ロックやホッブス、アダム・スミス、マルクスなどにも手を出していこうと思う。
▽社会契約
ここで社会契約について延々と書いても仕方がないが、基本的な発想だけは確認しておく。
ルソーの発想の出発点は、「各人が自己保存をはかっている」ということだ。自然状態では人々は自己の生存・利益を追及するが、それらは衝突しあうために安定性に欠ける。こうして、彼らは以下のような一つの課題に直面する。
「各構成員の身体と財産を、共同の力のすべてをあげて守り保護するような、結合の一形式を見出すこと。そうしてこれによって各人が、すべての人々と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由であること」
バラバラでは安定的に生きていけない人間が、いかにして安らかな生活とそれを基にした幸福追求を実現するか。
その実現のために想定されたのが、各人が自由意思に基づいて結合の契約を結ぶこと。ルソーの考えた社会契約のかたちは、以後何世紀ものあいだ政府という存在を意味づける基礎になった。
ただし、この節を終える前に指摘しておくべきは、ルソーは決して民主主義を手放しで擁護しているわけではないという点だ。究極的な目的は個々人の自己保存に適した環境を形成することであり、民主主義はそのツールに過ぎない。加えて、国家によって理想的な政治体は異なることも認め、それについてきめ細かな分析をしてもいるのである。
▽「一般意志」という厄介者
ルソーの思想で最も重要な概念の一つに、「一般意志」というものがある。政治体の成員の全員に共通する意志のことだと定義されるが、これが非常にややこしい。今回はこれについて少し解説しよう。
まず出発点として、「一般意志」と「特殊意志」は違う。
後者は各個人や団体の意志のことを言う。たとえば「世の中の女が全員俺のことを好きになればいいのに」とか「富裕層で集まって、自分たちに有利な世の中を作ろう」などといった発想が当てはまる(もちろん、これらのふざけた意志が社会全体の利益に繋がる共有された意志だとすれば、話は別である)。社会が特殊意志で指導された場合、政治的共同体は特定の誰かの私腹を肥やすための道具へと堕落するのである。
また、「一般意志」と「全体意志」も違う。
後者は単なる特殊意志の総和である。これはyahoo知恵袋に面白い例があったので拝借したい。
例えば、「人は必ず死ぬから火葬場は必要だ」というのが一般意志とするなら、全体意志とは「近所に火葬場作られるのは迷惑」だから結局どの地域にも火葬場を建設できないとする住民の総意です。
(http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1017149360)
全体意志には「多数決の結果」も入る。多数決である方針が決まったとしても、それを支持するグループが、他の方針を支持するグループと意志を共有したことにはならない。「数の論理」による勝利は、どこまでも勝利であって、調和ではないからだ。多数決との違いをより明確にするために、ルソーのこんな言葉を引用しておこう。
意志を一般的なものにするのは、投票の数よりもむしろ、投票を一致させる共通の利害であることが、理解されなければならない。
以上で、一般意志の概念が非常に曖昧なものであることが、なんとなく分かっただろう。
ルソーの展開した荘厳な政治理論の足元は、じつは非常に危なっかしい。政治的指導が従うべき一般意志は、しかし、決してその存在を現そうとしない。それは実体を持たず、政府にとっては雲を掴むような話なのである。
▽社会契約論に潜む「原罪」
政府が踏むべき一般意志が明確でないということは、社会契約論によって広まったルソーの思想の「原罪」を示すものでもあった。言葉を換えれば、民主主義思想は、それを最も根本的に説いた著作によって、すでにその最大の課題が明らかにされていたのである。
一般意志の概念が曖昧であることは、おそらく二つのことに寄与したであろう。
一つは「一般意志とはなにか」と問い続けたり、不完全ながら、それの実現を目指そうとする努力を生み出したことである。すなわち政治の学問的・実際的な発達のことだ。一般意志が雲のような存在であるからこそ、政治に携わる者はこれを掴もうと終わりなき闘いを営み続け、発展してきたのである。
もう一つは独裁者が「私には一般意志が知覚できる」と言うことで、自身の暴政をたびたび正当化してきたことである。これはwikipediaの知識だが、フランス革命期にジャコバン派の指導者であったロベスピエールがまさにこの手法を用い、「ルソーの血塗られた手」と呼ばれたそうである。
独裁者は手を変え品を変え、言葉を修飾することで自らの施策の不当性を隠そうとする。だが、突き詰めれば同じである。「私には君たちの進むべき道、一般意志が分かっている」という言説が、そうした無茶を可能にするのである。
ルソーは社会契約論によって、驚異的な影響をヨーロッパ世界に及ぼした。それは事実だろう。
しかし同時に、彼はこの書物が孕む「原罪」も世界中にばらまいたのである。
一般意志とは何なのか。
いま政治の舞台に並ぶ選択肢のうち、何が一般意志に適うのか。
これに対する答えを、いまだに人類は持っていない。
どうやら「社会契約論」は、フランス革命をもってその役割を終えたわけでは決してなさそうだ。
◆気に入ったフレーズ
第一編
政治について筆をとるからには、あなたは君主か、それとも立法者なのか、と聞く人があるかもしれない。わたしは答えよう。そうではない、また、そうではなければこそ、政治について筆をとるのだ、と。
人間の最初のおきては、自己保存をはかることであり、その第一の配慮は自分自身にたいする配慮である。
暴力が最初のドレイたちをつくりだし、彼らのいくじなさがそれを永久化したのだ。
暴力に屈することはやむをえない行為だが、意志による行為ではない。
人は牢獄のなかでも安らかに暮らせる。だからといって、牢獄が快適だといえるか?
自分の自由の放棄、それは人間たる資格、人類の権利ならびに義務をさえ放棄することである。
ときには、国家の構成員を一人も殺さずに国家を殺すことができる。
「各構成員の身体と財産を、共同の力のすべてをあげて守り保護するような、結合の一形式を見出すこと。そうしてこれによって各人が、すべての人々と結びつきながら、しかも自分自身にしか服従せず、以前と同じように自由であること」
「われわれの各々は、身体とすべての力を共同のものとして一般意志の最高の指導の下におく。そしてわれわれは各構成員を、全体の不可分の一部として、ひとまとめとして受け取るのだ」
主権者は、それが存在するというだけの理由で、主権者として持つべきあらゆるものを常にそなえているのだ。
自然状態から社会状態への、この推移は、人間のうちにきわめて注目すべき変化をもたらす。本能を正義によっておきかえ、これまで欠けていたところの道徳性を、その行動にあたえるのである。
たんなる欲望の衝動に従うことはドレイ状態であり、自ら課した法律に従うことは自由の境界であるからだ。
人はすべて生まれつき自分に必要なすべてのものにたいして権利をもっている。
他の人々をこの土地から一瞬間おっぱらう力があるというだけで、彼らがいつかそこにもどってくる権利をうばってしまうことができようか?
各個人が自分自身の地所にたいしてもつ権利は、つねに、共同体が土地全体にたいしてもっている権利に従属する。
この基本契約は、自然的平等を破壊するのではなくて、逆に、自然的に人間の間にありうる肉体的不平等のようなもののかわりに、道徳上および法律上の平等をおきかえゆものだ。
法律は、つねに持てるものに有利で、持たざるものに有害である。
第二編
社会は、もっぱら共通の利害にもとづいて、治められなければならぬのである。
主権とは一般意志の行使にほかならぬのだから、これを譲りわたすことは決してできない。
権力は譲りわたすこともできよう、しかし、意志はそうはできない。
意志が一般的であるためには、意志が全員一致のものであることは、つねに必ずしも必要ではない。しかし、すべての票が数えられることは必要である。
人は、つねに自分の幸福をのぞむものだが、つねに幸福を見わけることができるわけではない。
一般意志が十分に表明されるためには、国家のうちに部分的社会が存在せず、各々の市民が自分自身の意見だけをいうことが重要である。
市民は、主権者が求めれば、彼が国家になしうる限りの奉仕を、直ちにする義務がある。しかし、主権者側においても、共同体にとって不必要な負担は、決して臣民に課すことはできない。
意志を一般的なものにするのは、投票の数よりもむしろ、投票を一致させる共通の利害であることが、理解されなければならない。
社会契約は、市民のあいだに平等を確立し、そこで、市民はすべて同じ条件で約束しあい、またすべて同じ権利をたのしむことになる。
社会的権利を侵害する悪人は、すべて、その犯罪ゆえに、祖国への反逆者、裏切者となるのだ。
刑罰が多いことは、つねに、政府が弱いか、怠けているのである。
空虚な威信は、一時だけのきずなしか作らない。きずなを永続的なものとするのは、英知だけである。
いかなる市民も、それで他の市民を買えるほど豊かでなく、また、いかなる人も身売りをよぎなくされるほど貧しくはない。
事物の力は、つねに平等を破壊する傾向があるという、まさにその理由によって、立法の力は、つねに平等を維持するように働かねばならない。
この法(憲法)は、大理石や銅版にきざまれるのでなく、市民たちの心にきざまれている。
第三編
政府は不当にも主権者と混同されているが、政府は主権者の公僕にすぎないのだ。
国家は自分自身で存在するのに、政府は主権者がなければ存在しない。
人民は政府を犠牲にするのではなく、いつも進んで政府を人民のために犠牲にすることである。
もっともよい政体については、あらゆる時代に大いに議論されたが、その場合、どの政体でも、ある場合には最善であり、他の場合には最悪のものであるということは、考慮されなかった。
毎日心の底から叫ばねばならぬ。「わたしはドレイの平和よりも危険な自由を選ぶ」と。
もし神々からなる人民があれば、その人民は民主政をとるであろう。これほどに完全な政府は人間には適しない。
選ばれた百人の人でずっと立派にやれることを、二万人の人にやらせる必要はない。
われわれは、君主制ほど、少ない努力をもって大きな働きを起こさせる、いかなる種類の制度も想像しえないのだ。
征服することは統治することよりもはるかにやさしい。
悪い政府の下では、しのばねばならないことは、誰でも知っている。問題は良い政府を発見することであろうに。
市民が一段と繁殖し増加してゆくような政府こそ、まぎれもなく、もっともよい政府である。
政治体は、人間の身体と同様に、生まれたときから死にはじめ、それはみずからのうちに、破壊の原因を宿している。
国家は、法律によって存続しているのではなく、立法権によって存続しているのである。
政府の力が大であればあるほど、主権者も、しばしば、みずからの意志を示さねばならない。
一般意志は決して代表されるものではない。
人民は代表者をもつやいなや、もはや自由ではなくなる。もはや人民は存在しなくなる。
国家には、ただ一つの契約しかない。それは結合の契約だ。
執行権を任された人々は、決して人民の主人ではなく、その公僕であること。人民は、好きなときに、彼らを任命し、また解任しうること。
第四編
長い討論や、紛争や騒々しさは、個人的利害の台頭と国家の衰退とを告げるものである。
ドレイの子供は、ドレイとして生まれたのだと決めてしまうことは、彼は人間として生まれたのではないと決めてしまうことだ。
祖国の安全にかかわる時以外には、法律の神聖な力を決して止めてはならない。
世論は法の一種である。
人間を人間自身と矛盾させる制度はすべて無価値である。
あきらめは天国にゆくためのもう一つの手段にほかならない。
キリスト教は、服従と依存とだけしか説かぬ。その精神は圧政にとても好都合なので、圧政はつねに、これを利用せずにはすませない。
のろわれている、とわたしたちが信じる人々とともに平和にくらすことは、できない。

要点
・戦後最大の政治思想家の誕生と、現代政治学の出発点
・《活動》と《公共領域》の概念
・人間を画一化するものへの反抗
条件づけられた人間が環境に働きかける内発的な能力、すなわち「人間の条件」の最も基本的要素となる活動力は、《労働》《仕事》《活動》の三要素から考察することができよう。ところが労働の優位のもと、仕事と活動が人間的意味を失った近代以降、現代世界の危機が用意されることになったのである。
本書は、全体主義の現実的基盤となった大衆社会の思想的系譜を明らかにしようとした、アレントの主著のひとつである。
今回は、ハンナ・アレントの「人間の条件」に挑戦した。いや、これは文字通り「挑戦」である。
現代の最も優れた政治思想家と呼ばれる彼女のこの著作は、同時に、難解であることでも知られている。500ページにわたって粘りづよい読書が求められたために、読み解くのも、書評を書くのも遅れてしまった。
とはいえ、僕の中では「書評を書き終わるまでが読書」である。完全に消化することはなくとも、少なくともこの本を消化不良にしたままで次の本に手を出すことは出来ない。というわけで、なんとか読み終わったうえで頭から捻り出したものを綴ろうと思う。
とりあえず、彼女の生涯と研究について確認した後、内容について考えたい。
▽政治学(哲学)と全体主義
「政治学の出発点はどこか」。
これは答えることがほぼ不可能な問いかけである。なぜなら、政治は複数の人間が集って利害調節の必要が生じた瞬間、それだけで発生するからである。人間が世界に誕生していらい、洋の東西を問わず日常的に起こってきたことである。
では、「現代政治学の出発点はどこか」を問うてみる。
これも様々な答えが予想されるが、少なくとも「全体主義の出現」がその一つであることは、多くの人が認めるのではないだろうか。
人は気軽に「民主主義」を掲げ、これが唯一絶対に正しい政治体制であるかのように信じ切ってきた(今もそうである)。ちょうど唱えるだけで救いが得られるという、宗教のお題目のような具合だ。
ところが今から約75年前、その民主主義が恐ろしい化け物を生んだ。ドイツに誕生したナチス政権が当時もっとも進歩的で民主的だったワイマール憲法の下で誕生したことは、周知のとおりである。彼らは大衆の弱点を巧みに突いて混乱に陥れ、政権を獲り、煽り、そして戦争の惨禍を招いたのであった。
その“惨禍”の最も代表的な例が、ユダヤ人に対する迫害(ホロコースト)である。
様々な文学作品や映画がこれを題材にしてきたが、そこではよく一般人による「無関心」もしくは「消極的協力」が描かれている。考えることをやめ、民主主義の担い手としての機能を失った「大衆」の姿は、作品の鑑賞者たちに拭いがたい不気味さをもたらす。
こうして民主主義思想の上に胡坐をかいていた人々は、急に考えさせられることになった。
なぜ「大衆」はこれほど狂った営みに手を貸したのか。
そもそも、なぜ「大衆」はナチス党に政権を任せたのか。
「なぜ全体主義が生まれたのだろうか」。
政治学がこれらの深刻な疑問に直面したとき、現代政治学は悲しい産声を上げたのである。
ユダヤ人であるハンナ・アレントは、そのナチスからの迫害を経験した政治学者であった。その過酷さはフランクルの「夜と霧」に詳しく書かれているが、「極限状態」という表現すら生ぬるいような環境だっただろう。彼女は現代政治学が克服せねばならない最大の課題を、身をもって知ったのである。
当時のことをあまり詳しく話したがらなかったという彼女は、しかし、全体主義については「起こってはならないことが起こってしまった」と表現した。彼女の学者生命は、全体主義・現代大衆社会と闘うことに捧げられることになった。
ここで余談だが、僕のイギリス留学が決まったとき、絶対に行こうと決めた土地が二か所ある。一つはアテネ、もう一つはアウシュビッツであった。どちらも政治学を学ぶ者にとっての“メッカ”である。
実際の場を目の当たりにし、空気を吸う。そこが持つ歴史と、後に生まれることになる数々の思想とが鼻腔を通じて体中を駆け巡るような、そんな体験をしてみたかったのである。もちろん両方訪ねて、堪能することが出来た。留学の一つの成果である。
▽本の主題
いささか反則技のきらいがあるが、解説から逆算的に本の主題を確認したい。
彼女は人間が自分の姿を現す「活動」に高い評価を与え、「活動」の空間である「公的領域」の出現を望んでいる。いいかえると「公的領域」においてのみ現れる栄光と自由こそ彼女の思想の中心にある最高の観念なのである。
本書は現代社会を鋭く刺す至言に満ちているが、全体のトーンはこの主題で統一されていると言っていいだろう。
▽《活動》と公的領域
この本のメインである《活動》は、《労働》の価値観の席巻によって、大衆の中で軽んじられることになったものだとされる。では、そもそもその《活動》とは何なのか。
自分の私的な隠れ場所を去って、自分がだれであるかを示し、自分自身を暴露し、身を曝す。この本来の意味の勇気がなかったら、活動と言論は不可能であり、したがってギリシア人の理論からいえば、自由も、まったく不可能であろう。
この引用が示唆するように、《活動》は完全に自由かつ平等な環境で、他者に対して自ら(who)を主張する運動であるとされる。平等な人間同士が、それぞれの自己を見せつけ合う。古代ギリシアにおいてそれは、公的領域で発揮された。この「公的領域」という概念も非常にややこしく、現在の公私二分論に還元できない。その性格については、以下の引用を見てもらいたい。
完全に私的な生活を送るということは、なによりもまず、真に人間的な生活に不可欠な物が「奪われている」ということを意味する。すなわち、他人によって見られ聞かれることから生じるリアリティを奪われていること、他人との「客観的」関係を奪われていること、さらに、生命そのものよりも永続的なものを達成する可能性を奪われていること、などを意味する。
要するに、引用で挙げられたような「人間的な生活に不可欠な物」を提供する場こそが、公共領域である。そこでは各人が私的な領域から離れ、自己のすべてを賭してその存在を主張し、やがて語り継がれることを目指す。アレントが現代において廃れてしまったと考えたのは、そういう場であった。同時に、彼女はこうした領域においてこそ、真の自由と栄光が獲得されると信じたのである。
▽活動をしているか
さて、このブログを読んでいる読者諸氏は、《活動》をしているだろうか。
「もちろん!」という答えが聞こえてきそうだが、じつはアレントのハードルは限りなく高い。それは《仕事》による自己主張でも、《労働》による自己主張でもいけない。前者は有用性に導かれた行動であるため、後者は必要に導かれた行動であるため、真に自由な行動とは呼べないのである。
たとえば。
《労働》による自己実現については、こんなことを言っている。
交換市場で出会う人びとは、なによりもまず人格としてではなく、生産物の生産者として出会うのである。マルクスが商業社会の非人間化および自己疎外として非難したのは、このような他人との結びつきの欠如、このような交換可能な商品に対する第一義的な関心である。
職場での実績による評価が、自分の評価だと思ってはいないだろうか?
それらは人間としての評価ではなく、「生産者」としての評価にすぎず、その点で「非人間的」なのだ。
おなじく、《仕事》による自己実現についてこう語っている。
人間は、〈工作人〉である限り、手段化を行なう。そしてこの手段化は、すべての物が手段に堕し、それに固有の独立した価値を失うことを意味する。
あなたが何か(芸術作品など)を作るときに、「何のために」という目的を据えることは不可欠である。しかしその《仕事》の性質自体が、人間を「無限の手段化」へと導いてしまう。これが突き進むと、あなたは独立した価値を見失って、これまた「非人間的」な境地に達してしまう。
▽アレントの人間観
人口が肥大化する社会は、技術の発達も相まって「管理化」が進んだ。人びとは無機質に取り扱われ、数字によって評価される。大衆の「匿名性」や「相互無関心」、「没個性性」などの性質も、この傾向への追い風となる。人間に求められるのはもっぱら《労働》の徳、すなわち効率性や生産性、すぐれた生産物を生み出すことにまで堕ちてしまった。
私たちの時代になると、公的領域は、いっそう限られた非人格的な管理の領域へと、完全に消滅し始めている。
これも引用しておこう。
私たちがなにをしようと、それはすべて「生計を立てる」ためにしていると考えられている。それが社会の判断である。
こうした厳然な現代社会の冷たい圧力を目の前にして、アレントは僕たちに呼びかける。
そうではない、現代社会の支配的な管理的価値観によって、あなたの価値は測れない、と。
彼女はいう。
ある人の「正体」というのは、その人がなしうることや生産しうるものよりも偉大であり、重要であると信じることは、人間的自負にとって欠くべからざる要素である。
ただ野卑な人だけが、卑屈にも、自負を自分のなしたことに求めるであろう。このような人は、この卑屈さによって、自分自身の能力の「奴隷や囚人」になるのである。
生産性、目的意識…。
現代の人びとを突き動かすこうした言葉は、彼らを《労働》や《仕事》のために使い捨てる概念に他ならない。僕たちは生産性や目的意識の高さのような、メモリや客観的指標では測れない価値を蔵している。それを彼女は示している。
そしてそうした価値に基づく自負を育み主張する「公共領域」の欠如こそが、現代の大衆社会化を一層進める要因なのである。
彼女は大衆社会と闘った。同時に人間に対する希望は棄てなかった。
だから、人間について語るとき、現代社会について語るときとは対照的に、彼女の文体には明るい光が差すのである。
なるほど、人間は死ななければならない。しかし、人間が生まれてきたのは死ぬためではなくて、始めるためである。

211.人間の条件 (ハンナ・アレント) フレーズ集

プロローグ
これから私がやろうとしているのは、私たちの最も新しい経験と最も現代的な不安を背景にして、人間の条件を再検討することである。これは明らかに思考が引き受ける仕事である。
一.人間の条件
宇宙では万物が不死である。しかし、その中で人間だけが死すべきものであり、したがって、可死性が人間存在の印となった。
二.公的領域と私的領域
物と人とは、それぞれの人間の活動力の環境を形成しており、このような場所がなければ人間の活動力は無意味である。
政治的であるということは、ポリスで生活するということであり、ポリスで生活するということは、すべてが力と暴力によらず、言葉と説得によって決定されるという意味であった。
自由であることとは、支配に現れる不平等から自由であり、支配も被支配も存在しない領域を動くという意味であった。
政治的領域に入った者は、だれでも、まず自分の生命を賭ける心構えがなくてはならない。
社会というものは、いつでも、その成員がたった一つの意見と一つの利害しかもたないような、単一の巨大家族の成員であるかのように振る舞うよう要求する。
一定の政治体で人口が殖えれば殖えるほど、公的領域を構成するものが、政治的なるものよりは、むしろ社会的なるものに次第に変わってゆくということである。
統計学的な画一性とは、このような社会の隠れもない政治的理想なのである。
激しい肉体的苦痛というのは、おそらく、公的現れに適した形式に転形できない唯一の経験だろう。
公的領域は偉大ではありうるけれども、不適切なものを繋ぎ止めておくことはできない。これこそ、公的領域が魅力的とはなりえない理由である。
完全に私的な生活を送るということは、なによりもまず、真に人間的な生活に不可欠な物が「奪われている」ということを意味する。
すなわち、他人によって見られ聞かれることから生じるリアリティを奪われていること、他人との「客観的」関係を奪われていること、さらに、生命そのものよりも永続的なものを達成する可能性を奪われていること、などを意味する。
大衆社会では、孤独は最も極端で、最も反人間的な形式をとっている。
私たちの時代になると、公的領域は、いっそう限られた非人格的な管理の領域へと、完全に消滅し始めている。
統治の最も社会的な形式は官僚制である。
政治的であることは人間存在の最高の可能性を手にすることを意味した。
公的なるものは私的なるものの一機能となり、私的なるものは残された唯一の公的関心になった。
近代が親密さを発見したのは、外部の世界全体から主観的な個人の内部へ逃亡するためだったように見える。
私たちはすでに、実際、自分の頼れる唯一の財産が自分の能力と労働力であるような状況のもとで生きている。
必要は、人間の欲求や不安のうちで常に第一義的なものである。
必然(必要)を取り除けば、そのまま自由が樹立されるというものではなく、ただ自由と必然を区別する境界が曖昧になるだけだからである。
私有財産はら共通世界で行われる一切の事柄から身を隠すだけでなく、公に見られたり、聞かれたりすることから身を隠すための唯一の場所である。
社会による私生活の侵害、いいかえると、「人間の社会化」は、土地の収容によって最も効果的に実行される。
善行は、それが知られ、公になった途端、ただ善のためにのみなされるという善の特殊な性格を失う。
善が存在しうるのは、ただ、その行為者でさえそれに気づかないときだけである。自分が善行を行っていると気づいている人は、もはや善人ではなく、せいぜい有益な社会人か、義務に忠実な協会の一員にすぎない。
本来、善は隠すことから生じるものである以上、それが公的役割を引き受けるとき、善はもはや善ではなく、自ら腐敗し、その腐敗を至るところに撒き散らすであろう。
それぞれの政治的共同体は、〈活動的生活〉の活動力のうち、どの活動力は公に示すべきか、どの活動力は私生活のうちに隠すべきかを決定してきた。
思考はそれだけではけっしてなにかの対象に物化されない。いいかえると、考えることと仕事をすることとは、けっして同時的には起きることのない、二つの異なった活動力のなのである。
三.労働
労働に対する軽蔑は、もともと、必然(必要)から自由になるための猛烈な努力から生まれたものである。
生産性は労働の生産物にあるのではなく、実に人間の「力」の中にある。
労働それ自体ではなく、人間の「労働力」の余剰が、労働の生産性を説明する。
活動と言論と思考がとにかく世界に残るために経なければならぬ物化は、ある意味で、支払わなければならぬ代償である。
活動と言論と思考がリアリティを得、物化されるためには、他の人工物を作るのとまったく同じ仕事人の技を必要としているのである。
私たちは、生産的な奴隷状態が非生産的な自由かという、どちらかといえば悲惨な二者択一に迫られている。
「労苦と困難」によって自分の勤めを果たした者は、将来、子孫を残すことによって自分も自然の一部に留まることができるという静かな確信を抱く。
生命は、他のすべての動物種にとっては、その存在の本質そのものにほかならないけれども、人間にとっては、その生来的な「空虚さへの反発」のゆえに重荷となる。
もし、自分の死とともに世界が終わるとか、自分の死の直後に世界が終わるということが明らかである場合、世界は、そのリアリティをすべて失うであろう。
人間の自由とは、常に、自分を必然(必要)から開放しようという、けっして成功することのない企ての中で獲得されるものだ。
労働過程の無限性は、たえず反復される消費欲求によって保障されている。生産の無限性が保証されるのは、ただその生産物が使用の性格を失い、ますます消費の対象物になってゆく場合だけだからである。
永続性、安定性、耐久性という、世界の製作者である〈工作人〉の理想は、豊かさという、〈労働する動物〉の理想の犠牲となった。
実際、人間の労働力は自然の一部であり、おそらく、すべての自然力のうちで、最も強力な力なのである。
私たちがなにをしようと、それはすべて「生計を立てる」ためにしていると考えられている。それが社会の判断である。
機械のリズムは、生命の自然のリズムを著しく拡大し、強めるであろう。しかし、それは、世界にかんして生命がもつ主要な性格(耐久性を食い尽くすこと)を変えるのではなく、逆にそれをもっと恐ろしいほど拡張するだろう。
この経済においては、過程そのものに急激な破局的終末をもたらさないようにするために、物が世界に現れた途端に、今度はそれを急いで貪り食い、投げ棄ててしまわなければならない。
社会は、増大する繁殖力の豊かさによって幻惑され、終わりなき過程の円滑な作用にとらえられる。このような社会は、もはやそれ自身の空虚さを認めることができない。
四.仕事
人間とは、自然のものであれ、人工的なものであれ、すべてのものを自己の存続の条件にするように条件づけられた存在である。そうであるとすれば、人間は、機械を作った途端に、機械の環境に自分自身を「適合させた」のである。
人間の助けなしに生成するというのがすべての自然過程の特徴であり、「作られる」のではなく、ひとりでに自分の成るところのものに成長するのが自然的なものなのである。
機械の世界は、自然過程によって養われ、そのためにますます生物学的過程に似たものになる。
人間は、〈工作人〉である限り、手段化を行なう。そしてこの手段化は、すべての物が手段に堕し、それに固有の独立した価値を失うことを意味する。
価値は、物や行為や観念と違って、特定の人間的活動力の生産物ではけっしてなく、このような生産物が社会の構成員の間で行われる交換の絶えず変化する関係の中に引き込まれるときにはいつでも存在するに至るものである。
すべての物が無価値となり、生来的な価値がすべて失われるというのは、大いに嘆くべきことであるが、このことは、すべての物が価値あるいは商品に転化する途端に始まる。
「生きた精神」が生き続けなければならないのは必ず「死んだ文字」の中においてである。
活動し語る人びとは、最高の能力をもつ〈工作人〉の助力、すなわち、芸術家、詩人、歴史編纂者、記念碑建設者、作家の助力を必要とする。なぜならそれらの助力なしには、彼らの活動力の産物、彼らが演じ、語る物語は、けっして生き残らないからである。
つまり人びとが地上で生きている間その住家であるためには、人間の工作物は、活動と言論にふさわしい場所でなくてはならない。
五.活動
多種多様な人びとがいるという人間の多数性は、活動と言論がともに成り立つ基本的条件であるが、平等と差異という二重の性格をもっている。
つまり言論と活動は、人間が、物理的な対象としてではなく、人間として、相互に現れる様式である。
言論なき生活、活動なき生活というのは世界から見れば文字通り死んでいる。
言葉と行為によって私たちは自分自身を人間世界の中に挿入する。
新しいことは、常に統計的法則とその蓋然性の圧倒的な予想に反して起こる。
したがって、新しいことは、つねに奇蹟の様相を帯びる。
彼が始める活動は、言葉によってこそ、人間に理解できるように暴露される。
活動は、行為とともにその行為者をも暴露するという固有の傾向をもっている。
問題となっているのは、活動と言論の暴露的性格であり、それがなければ、活動も言論も人間的な意味をすべて失ってしまうであろう。
自分の私的な隠れ場所を去って、自分がだれであるかを示し、自分自身を暴露し、身を曝す。この本来の意味の勇気がなかったら、活動と言論は不可能であり、したがってギリシア人の理論からいえば、自由も、まったく不可能であろう。
活動と言論が行なわれるためには、その周囲に他人がいなければならない。
歴史は、強くすぐれている人でも、仲間の助けや協力を得る仕方を知らない場合には、いかに無力であるかという例に満ちている。
活動者というのは、「行為者」であるだけでたく、同時に受難者でもある。行なうことと被害を蒙るということは、同じ硬貨の表と裏のようなものだからである。
一つの行為、ときには一つの言葉でも、すべての布置を変えるのに十分である。
つまりポリスというのは、活動した人びとが自分たちの行なった善い行為や悪い行為を、詩人たちの援助を受けることなく、永遠に記憶に留め、現在と将来にわたって称賛を呼びさますためのものであった。
権力が発生する上で、欠くことのできない唯一の物質的要因は人びとの共生である。
権力の唯一の限界は他の人びとの存在である。
他の政治体がごく自然に権力を生みだすように、暴政は、ごく自然に無能力を生みだす。
交換市場で出会う人びとは、なによりもまず人格としてではなく、生産物の生産者として出会うのである。マルクスが商業社会の非人間化および自己疎外として非難したのは、このような他人との結びつきの欠如、このような交換可能な商品に対する第一義的な関心である。
ある人の「正体」というのは、その人がなしうることや生産しうるものよりも偉大であり、重要であると信じることは、人間的自負にとって欠くべからざる要素である。
ただ野卑な人だけが、卑屈にも、自負を自分のなしたことに求めるであろう。このような人は、この卑屈さによって、自分自身の能力の「奴隷や囚人」になるのである。
公的領域につきものの平等というのは、必ず、等しくない者の平等のことであり、等しくないからこそ、これらの人びとは、ある点で、また特定の目的のために、「平等化される」必要がある。
人間というのは、自分たちが活動によって始めた過程については、どんなものでもそれを元に戻すことはできず、それどころか、その過程を安全にコントロールすることさえできないのである。
人間は、たしかに一方では、なにか新しいことを始める能力をもっているのに、同時に他方では、新しく始めた活動の帰結をコントロールできないどころか、予見することさえできない。
人間は、常に自ら進んで自分の心を変え、ふたたび出発点に戻ることによってのみ、なにかを始める大きな力を与えられる。
人間は、自分が罰することのできないものは許すことができず、明らかに許すことができないものは罰することができない。
なるほど、人間は死ななければならない。しかし、人間が生まれてきたのは死ぬためではなくて、始めるためである。
人間事象の領域である世界は、そのまま放置すれば「自然に」破滅する。それを救う奇蹟というのは、究極的には、人間の出生という事実であり、活動の能力も存在論的にはこの出生にもとづいている。
六.〈活動的生活〉と近代
現代の状況では、破壊ではなくむしろ保存のほうこそ破滅のもとになる。というのは、ほかならぬ保存される対象物の耐久性そのものが、売買過程を最も妨げる障害だからである。
手近なものとの係わり合いや関心から解放され、近くにある一切のものから身を引いて距離を置いたときにのみ、人間の観測能力が働く。
近代哲学が辿りついたのは、「これ以後、魂の安全な住家は、動かしようもない絶望の固い基盤の上にのみ建てられる」という確信であった。
私たちの文脈で重要な点は、絶望と勝利感が、共に同じ出来事に含まれているということである。
世界を変えるのは、観念ではなく出来事なのである。
アルキメデスの点の発見に本来含まれている難問は、地球の外部にあるその点が、地球によって拘束されている被造物によって発見されたということであった。
近代は作ることと知ることを混ぜ合わせている状態である。
観照状態に到達するには、活動力、すなわち製作の活動力を意識的に中絶しなければならないのである。
〈工作人〉が最も欲しがっている永続と不死は、行為によっては実現されず、むしろ美しく永遠なるものは作ることができないと悟るときにのみ実現される。
すべての快楽主義の原理は、快楽ではなくて、苦痛の回避である。


今回読んだのは、丸山眞男の「政治の世界」。
最近評論文の古典を読む機会がめっきり減っていたので、久しぶりに丸山眞男を読んだ。小説と新書、古典が中心の読書生活だったが、卒業まで一年を切ったこともあり、そろそろ政治学に関する専門書にも手を出す必要があるだろう。
「評論集の感想」というのは難しい。一つ一つに立ち入って話せば一貫した文章にはなりえないし、かといって中身と無関係に書き続けることもできない。仕方ないので、今回は気に入ったフレーズと各章の感想をここに載せて終わりにしたい。
本の全般的な感想としては、やはり「良い評論」を読むことは楽しいなと思わされた。著者の広範な知識から編み出される論を追っていくのはそれだけで十分魅力的だし、加えてゲーテからホッブスに至るまで様々な箴言がピシッピシッと本質を突くように引用されているのが心地よい。
政治学をずっと勉強してきた僕だったが、この本を読んで何度か目の覚めるような思いをさせられた。すごいな、と思うと同時に自分の勉強不足を自覚せずにはいられない。これだから、優れた学者の書を読むことは大切なのだろう。 「才能のある人間が本気で勉強すれば、ここまで到達するのだ」という、芸術品の大作を目の当たりにするのと同じような感覚に襲われるのである。
―主な章の感想と気に入ったフレーズ―
▽「政治の世界」
表題にもなった評論。「政治的なもの」がますます幅広い分野に介入し、ますます社会の深い部分に影響を与えるようになった現代において、「政治とはどういう活動なのか」を改めて整理した評論。
【Conflict - Solution】という単純な図式から出発し、政治的状況がどのような経過をたどっていくかを探っていく。次いで「権力の生産及び再生産」の章において、政治的権力がどのように生成され、組織され、変容していくかを解明していく。
「まえがき、あとがき」と「本論」の部分の繋がりがやや薄い。前者は「政治的領域の拡大」についての注意喚起を主な目的としており、後者は「拡大しつつある【政治】とは何か」ということの解析に重きを置いている。とはいっても、内容は政治を考えるうえでよく語られることも、それまで聞いたことのないような興味深い視点も含め、きれいに整理されている。
トマス・ホッブズを引きながら「権力はいま保持している権力を維持するために、より多くの権力を欲する」という指摘をしていたのが特に印象的だった。権力へのオプティミズムに対して警鐘を鳴らしているのも、そのためだろう。権力それ自体が、自己肥大的な性質を内包している。政権の政策についても、そうした文脈で解釈することが真の「クリティカルな権力批判」につながるのではないか。
◆
われわれは政治を運命として傍観したり絶望したり、逃避したりしてはならないのです。
本来の政治の技術はこうした暴力行使を回避するところに発揮されます。
暴力という物理的強制手段を最後の切り札として持たない集団は、それだけ社会的価値の争奪をめぐる政治的紛争において遅れをとることになります。
「より以上の権力を得なければ現在持っている権力をも確保できない」(ホッブズ)
法的地位の平等に依って却って社会的地位の不平等が裏付けられているのです。
「下層」が古い方法を欲せず、そして「上層」が古い方法でやり得なくなった場合においてのみ、かかる時にのみ革命は勝利し得る。(レーニン)
▽「権力と道徳」
ヨーロッパ史を見ながら、権力と道徳はその根を共有するにも関わらず、永遠の二律背反関係にあることを解析する。
ヨーロッパ世界を特徴づけるのは、政治権力の固有な存在根拠と、クリスト教の人格倫理との二元的な価値の葛藤である。
丸山によれば、この両者のバランスがうまく取る必要があるという。もし権力に重きを置きすぎてしまえば、ナチスドイツのような国家的理性の伸長を無制限に肯定してしまうことになる。一方で、もし道徳に比重を傾けすぎれば、世界は偽善と自己欺瞞、イデオロギーに対する無反省に陥ってしまう。
丸山自身が認めているように、「権力と道徳」という広大なテーマについては様々な切り口が考えられるだろう。彼はあとがきで「行き詰まってしまった」と告白しているが、それによって結果的に「西欧世界における権力と道徳」というシンプルな焦点を持った読みやすい評論になったのかもしれない。
◆
ドイツの悲劇はあまりに潔癖な倫理的要請とあまりに過剰な権力の肯定との間のバランスが始終とれなかったことにある。
▽「支配と服従」
支配関係の特徴を洗い出し、そのうえで現代に「支配」を論じるときに重要な観点を考えた評論。
支配関係における「統治者と非統治者との間の利害対立」が存在するという点に注目したのが興味深かった。確かに効率性や実際的に考えると、あらゆる支配体系はある程度の非統治者の自発的服従なくして維持しえない、という指摘は頷ける。慧眼だと思わされた。
▽「政治学入門」、「政治学」
権力と倫理と技術という三つの次元が一つの立体を構成するときそこに真の意味での「政治」があらわれるのです。
この三つの要素に基づいて、「政治」とは何かを考えている。学問としてこれを扱うとき、そのどれか一つに寄りかかってはならず、総合的な分析をしなければならない。丸山が最後にJ.S.ミルの「教養人」の定義を引用したのも、その文脈でのことだろう。
「あらゆることについて何事かを知っていて、何事かについてあらゆることを知っている人」
また、「政治学は究極において人間学である」という指摘も非常に参考になる。文学作品も人間の真理を抉り出しているという点において政治学の重要な参考書であるという。これから卒業論文に着手したいなぁと思う自分にとっていい指針となった。
◆
現実の政治は一方の足を権力に、他方の足を倫理に下しつつ、その両極の不断の緊張の上に、進展して行くのです。
政治的技術を不断に駆使している「現実」政治家はこの点かえって権力行使や「権謀術数」の限界性を意識する機会が多いのです。
▽「政治的判断」
まず、政治的判断を人々はなぜ身に着ける必要があるのか、そしてその概要を述べた後に、「政治的リアリズム」とはどういうものかについて、例を引きながら評論している。非常に勉強になる。何かの政治的イシューで自分の態度を決めかねたとき、毎回立ち戻りたいと思わされた。
政治的思考とは、単に政界で活躍するための思考ではない。込み入って複雑な社会を、自分の目標とする状態に導くにはどう行動すればいいのかという戦略、見通しの思考である。仲間を作るべきか、作らざるべきか。悪に手を染めるべきか、染めないべきか。自らの主義に従うべきか、従わざるべきか。政治はどこまでも「結果」によって測定されるから、あらゆる手段に対する可能性が開かれている。そこで大切になってくるのが「リアリズム的な認識」と、自分の中に存する「一定の方向性」である。
◆
現代型アパシーの悲劇性は、まさに「快適になるにはあまりに知りすぎており、役に立つにはあまりに知らなすぎる」ところにあるといえよう。
政治的リアリズムの不足、政治的な事象のリアルな認識についての訓練の不足がありますと、ある目的をもって行動しても、必ずしも結果はその通りにならない。
ずるい敵にだまされたという泣き言は、少なくとも政治的な状況におきましては最悪な弁解なのであります。
政治が結果責任であることからして、冷徹な認識というものは、それ自身が政治的な次元での道徳になるわけであります。
方向性の認識というものと、現実認識というものは不可分なんです。
政治的な選択というものは必ずしも一番よいもの、いわゆるベストの選択ではありません。…「悪さ加減の選択」なのです。
いいものだから参加するというよりはむしろ悪いものだから参加して監視していく。これがつまり政治的なリアリズムの考え方ということになるわけです。
政治的にリアルな認識というものは、こういう抽象的な二分法にはあつも警戒の念をもつんです。
デモクラシーの円滑な運転のためには、大衆の政治的な訓練の高さというものが前提になっている。
「行動者は常に日良心的である」(ゲーテ)
◆その他気に入ったフレーズ
一般に、市民的自由の地盤を欠いたところに真の社会科学の生長する道理はない。
政治学は今日なによりもまず「現実科学」たることを要求されているのである。
政治的世界では俳優ならざる観客はありえない。
政治の本質的な契機は人間の人間に対する統制を組織化することである。
政治は否応なく人間存在のメカニズムを全体的に知悉していなければならない。
現実に人間を動かし、それによって既存の人間関係あるいは社会関係を、望まれていた方向に変えることが政治運動のキーポイントである。
政治には働きかけの固有の通路がない。宗教も、学問も、経済も、それが政治対象を動かすのに都合がよければいつでも自己の目的のために使用する。
善い方にも悪い方にも転び、状況によって天使になったり悪魔になったりするところに、技術としての政治が発生する地盤があるわけである。
最も巧妙な宣伝というものは決して正面からは宣伝しない。
権力に対するオプティミズムは人間に対するオプティミズムより何倍か危険である。
支配者と被支配者の利害対立に基く緊張関係があらゆる支配形象の決定的な契機である。
政策というのは、価値の生産、獲得、維持、配分に関する目標と、その実現のための方途である。
「ひとは銃剣でもって何事をもなしうるが、ただその上に坐ることはできない」(タレーラン)
純粋な「鞭」に依拠する政治権力はないが、同様にまったく「飴」だけを使う権力もない。
権力の実態を見きわめるにはいつの世にも、裸の王様を裸と認識する澄んだ眼と静かな勇気を必要とする。


要点
・トルストイにとっての「復活」という作品
・相思相愛のヒロインと主人公は結ばれるべきだったのか
・「人間の愛」と「神の愛」について
陪審員として裁判に出たネフリュードフ公爵は、出廷した女囚を見て胸が騒いだ。かつて自分が犯した娘カチューシャだったのである。堕落した生活の果てに無実の罪でシベリアへ送られようとしている女囚の姿に、自らの罪過の結果を見た公爵は、忽然として真の自己に目醒め、彼女をも自分をも救おうと決意する…。青年の日の乱脈な生活に深い改悟の気持ちをいだきつつ綴った晩年の長編。
▽作品と「神と人類に奉仕する求道者」トルストイ
今回はトルストイの作品の中でも特に親しまれている「復活」を読み終えた。公爵とヒロインのロマンスを軸としながら、現代まで通じるような社会的権力への批判にも大いに筆を振るっている。
この「復活」を書いた晩年、トルストイは自らのことを「神と人類に奉仕する求道者」と称していた。その精神は作品でも非常に色濃く反映されており、冒頭とフィナーレではマタイによる福音書が引用され、社会が本来のキリスト教の教義に立ち返ることを強く求めている。彼は私有財産を否定した無政府主義者でもあったが、その思想も主人公・ネフリュードフ公爵を通じて表現されている。
よくよく考えると、この作品とトルストイの繋がりは想像以上に深いことが分かる。本のあらすじには「乱脈な生活に深い改悟の気持ちをいだきつつ…」と書いてあるが、その程度ではない。
トルストイはかつて百姓女や小間使いと情を通じ、彼女らの身持ちを崩してしまったことがある。「青年の日の乱脈な生活」というのはこれを指しているのだろう。しかし、トルストイはやがて気持ちを改め、深い改悟を抱くとともに神と人類へ奉仕することを誓い、創作活動にのめり込んだ。
これを踏まえると、作中の主人公はほぼ完全にトルストイそのものだと言えそうだ。「2,3の共通点がある」という話ではなく、大きな視点で見て、歩んでいる人生の筋が一緒なのだ。「陪審員として女に会う」という機会があるかないかの差に過ぎない。
つまり主人公の懺悔はトルストイの懺悔であり、主人公の社会に対する告発はトルストイからの告発だと考えられる。作家が主人公に自らの信念を多少なりとも投影することはままあるだろうが、ふつうは多少の距離をとりそうなものだ。しかしこの作中では主人公に対するトルストイの「遠慮」が感じられない。だからこそ、「他のいかなる作品を通してよりも、トルストイの澄んだ、まっすぐ魂に達する眼差しを見ることができる」と評されたのだろう。
フィナーレで描かれる主人公の瑞々しい心情も、そのままトルストイの心を表している。
神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、その他のものはひとりでに与えられるであろう。ところが、われわれはその他のものばかりを求めているから、それを見出すことができないのも無理はない。
《そうだ、これがおれの一生の仕事だ。一つが終わったと思ったら、さっそく次がはじまったのだ》……
「神と人類に奉仕する求道者」としての決意が伺える。
▽引き続き、作品とトルストイ
「書く」ということは、自分の中にあらかじめ確固として存在するものを表現する行為ではない。意味のあるもの、ないものを含め様々な要素が渦巻く思考の混沌のなかから、ひとつの文脈を抽出する行為である。したがって、それは高度に創造的な営みであり、書いた後に「おれはこんなことを考えていたのか」と驚くことも少なくない。しかも、そういうときに限って良い文章が書けているのである。
同じようにトルストイにとって「復活」を書くことは、「読者を楽しませる」以上の意義を持っていたと考えられる。彼は自らを無遠慮に投影した人物を主人公にすることで、知られざる自己を発見するとともに、すでに持っていた思想を磨き、試し、確かなものにしようとしたのではないか。
主人公は彼そのものであったと同時に、彼の理想でもあったはずである。トルストイは主人公に社会的権力の不正をまざまざと見せつけることで、自らも同時に憤らせた。彼は主人公にさまざまな困難を強いることで、自らの信念をより盤石なものにした。そして彼はヒロインとの別れを描くことで、自らの理想が「人間の愛」ではなく「神の愛」であることを確認した。
主人公は作中で成長するが、これを書く過程でトルストイその人も成長したのではないかと思わされる。叩くことで硬度を高める金属のように、トルストイも作品で何度も自らの信念を叩き、困難に直面させ、それでも折れないどころかより強固になっていくことを確認したのではないか。
では、ここまで考えた上で物語について考えたい。
色々な切り口があると思うが、今回はメインの主人公とヒロインのロマンスをもとに、「人間の愛」と「神の愛」について考えようと思う。
▽「人間の愛」と「神の愛」
まず、簡単に物語の内容を説明する。
あらすじにあるように、主人公は少々放蕩癖のある公爵であるが、自分のせいで人生を台無しにしてしまったカチューシャと出会うことで罪の意識に目覚める。つまり、彼の中で幼く純粋だったころに持っていた「善への意志」が「復活」する。彼は罪滅ぼしに彼の生涯を彼女に捧げることを誓う。
最初はかなり独善的だった彼の「自己犠牲」の精神は、悲惨な民衆や囚人たちの生活を目の当たりにすることで徐々に純化していく。最初は彼の申し出に嫌悪感を隠さなかったヒロインも、彼の真摯な行動と態度によって徐々にほだされ、かつての美しい感性と、彼への想いを「復活」させていく…。
ところが、この物語において主人公とヒロインは結ばれない。主人公とヒロインは相思相愛の関係にあったにもかかわらず、ヒロインは別の男とともに歩むことを決める。
二人の別れのシーンは切なく、読者はなぜ二人が別れなければならないか理解するのに時間がかかる。人によっては最後まで理解できないかもしれない。
彼女は彼を愛していたのだった。そして自分を彼に結びつければ、彼の一生を台無しにしてしまうが、シモンソンとともに立ち去れば、彼を解放できると考えたのである。そして今や自分の決意を実行したことに喜びを覚えながらも、それと同時に彼との別離に苦しんでいるのであった。
なぜ、彼女は二人を引き裂く選択をしたのか。これは物語について問われるべき最大の謎である。
この謎を解く鍵は、主人公ネフリュードフがヒロインに抱こうとした愛の種類にある。
すなわち、重要なのは、彼女のために人生を投げ打つと誓った彼は「人間の愛」ではなく「神の愛」をもって彼女を愛そうとしていたという点である。
自分が彼女を愛するのは自分のためではなく、彼女のためであり、神のためなのだ。
「神の愛」は、相手の幸せを最大の目的として、崇高な自己犠牲を要求する。「神の愛」には嫉妬は伴わず、「人間の愛」のように愛から憎しみへと転じることもない。主人公はそんな愛に基づいてヒロインに尽くそうと決めた。
二人の別れは、結局のところ、それを知っていたヒロインが彼と同じ「神の愛」で報いたのだと解釈できる。
▽主人公とヒロインが結ばれなかった意味
最初に書いたように、この「復活」にはトルストイが自己の内的精神にあえて槌を打ち付けることで自らの思想を強固なものにするという意味合いもあった。物語で二人が耐え難い悲しみを抱きながら離別したことも、その文脈で考えれば意義づけが可能だ。
主人公とヒロインは、「人間の愛」と「神の愛」の二つの愛で惹かれあっていた。互いに結婚して一緒に暮らしたいと考えたのは、「相手のために尽くしたい」という気持ちと「自分が幸せになりたい」という気持ちが相重なった結果だった。
著者のトルストイは、これを許さなかったのである。
主人公は、キリスト者として社会と人類に奉仕しようとするトルストイの分身であった。その分身が、少しでも「人間の愛」が混ざった状態でヒロインと結ばれることは、彼の精神の崇高さに対する否定を意味するのであった。
トルストイは主人公とヒロインに「神の愛」だけを要求し、二人の間を引き裂いた。二人の関係に「人間の愛」がつけ入る機会は永久に失われたのである。こうして、彼は多くの読者にとって「バッドエンド」にしか映らないフィナーレに物語を導いた。純で、紛うことのない完全な「神の愛」をそこに現出させるために。
書いているトルストイも、何度か二人を結び付けてやりたいと思ったかもしれない。それほど二人の関係は美しく、魅力たっぷりに描かれている。もしかすると、ヒロインが主人公を拒絶するセリフを書いた瞬間、トルストイは自らの体が引き裂かれるような辛さを味わったのかもしれない。いや、それは大いにあり得ることである。
それでも、彼はあえて二人を引き離し、物語を完璧な「神の愛」のストーリーに仕立てた。もう形が出来上がりかけた金属にむかって、最後にもう一振り、大きな槌を打ち下したのだろう。その瞬間、物語の美しさは完成した。
多くの読者は、これを理解できないだろう。もしくは頭で理解しても、感情が収まらないだろう。これを書いている僕も、主人公とヒロインの二人には結ばれることを望んでいた。二人が幸せになるならば「神の愛」などいくら踏みにじられてもかまわない、書評を書き終えた今でもそう思っている。
それでも、トルストイはハッピーエンドに潜む「まやかし」を許さなかった。「神の愛」とは、それほど人類にとって到達困難な、厳しい領域なのである。同時に、トルストイの内的精神が常人には及びもつかない厳しさを持っていたことをも、この物語は証明しているのである。
