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本と6ペンス

The writer should seek his reward in the pleasure of his work. ("The Moon and Sixpence" Somerset Maugham)

208.指導者とは (リチャード・ニクソン)

直接に会った20世紀の世界の巨星たちの人間像と、その力の源泉を綴る。豊かなエピソード、鋭い観察、鮮やかな人間分析、卓抜な歴史観と国際政治の解剖―そして何よりも、対象への愛情に裏付けられた、権力とリーダーシップへの深い洞察。ここでは著者自身の栄光と挫折の指導者体験がみごとに生きている。

旅と読書はよき人生の二大要素かもしれない。今月26日からヨーロッパの一人旅に出ているのだが、その旅の伴にした本も「えりすぐり」のものばかりである。これらを全て読み終わるかどうかはわからないが、少なくとも旅の移動中にも僕に新しいものを示してくれ、旅行にさらなる色彩を投じてくれるであろうことは疑いない。非常に楽しみである。

今回読んだのは元アメリカ大統領ニクソンが書いた「指導者とは」。ニクソンはこの前中公新書の「ニクソンとキッシンジャー」でも扱ったが、現在その指導者としての手腕について評価の見直しがされつつあるという。
この本では「戦争の世紀」とも呼ばれた20世紀を生き抜いた者として、同時代を生きた歴史上の偉人たちの群像を掘り起こしている。目次に並んでいる名前はチャーチル、ドゴール、アデナウアー、フルシチョフ、マッカーサー、吉田茂、周恩来…と、そうそうたるメンバーである。彼らの生い立ちから実際に対峙した時の感じまでを鮮やかに描写し、そのうえで「偉大な指導者とは」というテーマを考え抜く一冊になっている。

今回は内容というより、この本の位置づけについて考えてみたい。


▽渡辺恒雄の指摘
まず、この前出された渡辺恒雄の「反ポピュリズム論」における問題意識についてさらってみたい。というのも、その視点を加味して考えると、より一層この本の意義深さが分かるからである。
渡辺恒雄が「反ポピュリズム論」で指摘したことは、以下の通りであったと記憶している。
政治学は、「リーダー」の存在についての理論を持たないし、持ちえない。一方で、危機に瀕した歴史や国家、国民が待望するのは強力で頼れる「リーダー」に他ならない、と。

もう少し深く説明しよう。

政治学は、「リーダー」の存在についての理論を持たないし、持ちえない。これは厳密にはフランス革命以降の話であろう。それ以前にはプラトンが統治者としての哲人を論じているし、なによりマキァヴェリの「君主論」がある。

なぜ、政治学は「リーダー」を理論化できないか。最大の理由は現在世界中に広まった「革命思想」(いわゆる社会契約論や民主主義)と、強力な指導力を持つリーダーがタテマエ上相容れないからである。
現代につながる様々なデモクラシーの理論は、すべての人間が「自由で、平等」であるという前提から論じられる。加えて、そうした革命思想はもともと専制政治を究極の敵として発展してきたのである。法の支配や三権分立など、デモクラシーの父たちはとにかく突出した権力の台頭を恐れ、何重にも縛ってきたのであった。さらに、デモクラシーの理論では究極的な主権は国民に与えられ、彼らは政治を常に監視し、興味を持っており、さらに(国の指針を決定できる程度には)賢明であるとされた。

ここまで見ると、学校で習ったデモクラシーがいかに現実離れしたものか分かるだろう。人間は平等じゃないし、時に強烈な指導者が法の縛りを無視してでも国難を乗り越えることは期待されるし、民衆は暗愚で賢くない。それでも、政治理論は18世紀末から世界を席巻したタテマエに基づいて発展し続けていたのである。

もちろん、バークやトクヴィルといった一部の政治理論家は、こうした現実離れした前提に早くから気付いていた。
たとえば「人間は平等」という前提に対して、もしすべての人が真に平等になったら「多数の暴政」が生じ、かえって政治の安定性を損ねるだろうと考えた。社会の中にある程度の「ヒエラルキー」や「エリート」が存在することは、デモクラシーのタテマエとは相容れなくても、社会の安定のためには必要なことだと述べたのである。

しかし、そんな彼らでも、「どんな人間が権力を握るべきか」という問題について理論を確立することは、ついになかった。「リーダーとは」という問いかけが、政治理論においてどれほどタブーな問いなのか、これで分かっていただけるだろう。


▽どんな人が権力を握るべきか?
渡辺恒雄が指摘した通り、「どんな人が権力を握るべきか?」という問いは、政治学にとって開けてはならないパンドラの箱なのである。

政治学は、ずっと権力者の恣意的な暴政を防ぐために闘ってきた。たとえ幻想にすぎなくても、究極の主権者に民衆を据え、権力をこれでもかというほど縛ってきた。
そんな政治学に対して、「どんな人が国民に対して好き勝手に命令すべきか」「どんな人が法を捻じ曲げてでも敢然とした決断を下すべきか」と問うのは酷だろう。それは政治学がこれまで積み上げてきたものをフイにしかねない問いかけなのである。

だから、いくら社会が「強いリーダー」を望もうが、政治学の領域では「リーダー論」が産声をあげることも、ましてやそれが一人前の理論に成長することなどあり得ないのである。
これは政治学の最大の欠陥の一つだ。

加えて、指導者という存在自体にも、「理論化しにくい」という性質が備わっている。偉大な指導者は、劇薬に似ている。これを呑む国家を待ち受けるのは破滅か、勝利かの二択でしかない。
司馬遼太郎が長岡藩の河合継之助(卓越した指導力で長岡藩を強国にしたが、結局それがもとで同藩を破滅に導いた)をこう評したことがある。

天才とは、時と置き所を天が誤ると、天災のような禍をもたらすものであるらしい。

優秀な指導者と、偉大な指導者の差を見ても、その差はきわめて微妙だ。基本的には全く同じだが、一つだけ、偉大な指導者は負けないという点だけが違う。それが運によるものだったとしても、とにかく負けない。
だから、指導者は一人の人間というよりも偶然や環境といった諸条件もない交ぜになった、複合的な存在なのだ。「どんな人間が権力を持つべきか?」というのは一言で答えることは不可能に近い。ニクソンもこう言っている。

指導者を偉大ならしめる必須の条件は、三つある。偉大な人物、偉大な国家、そして偉大な機会である。


▽現代の「君主論」
さて、ここまで「強力な指導者」という存在がいかに厄介なものかを論じてきた。それは政治学の前提とは相容れず、タテマエではその存在を否定されいるにも関わらず、常に必要とされてきた。
ニクソンは、そんな微妙なテーマにメスを入れた。数えきれない「偉大な指導者」と渡り合ってきた彼だからこそ書けたのだとしか言いようがない。

言ってみれば、政治学の理論は演繹法であり、ニクソンの「指導者」論は帰納法である。
政治学はデモクラシーの確かな前提を踏み台にして、そこから理論をどんどん派生させていく。ニクソンは個々の偉大な指導者を観察し、彼らに共通するエッセンスをもって「指導者とは」という問いへの答えにしたのである。
実際、「指導者とは」に答えるにはその手法しかあり得ない。そしてそれはニクソンをはじめ、その全身で「偉大な指導者」を感じた人間にしか出来ないことなのである。

私の書いた指導者たちは、戦いに当たってひるむことがなかった。敢然として戦場に立ったのだった。

こんな簡単な一言でさえ、その背景にはチャーチルから周恩来に至るまでの様々な指導者が控えている。読むたびに文章を裏打ちする歴史を感じ、カリスマを感じる。月並みな言い方だが、重みが違う。
こんな読書はめったにできない。最高の旅にふさわしい、最高の本だったと思う。

ブログの最後に気に入ったフレーズをいくつか貼っていくが、実際に本を読めばもっと堪能できるはずである。


◆気に入ったフレーズ
・われわれが注目すべきは、顔を土と汗と血で汚して実際に戦場に立つ男です。
(セオドア•ルーズベルト)

・「人は銃剣でもってなにごともなしうるが、ただその上に座ることはできない」( タレーラン)

・私の書いた指導者たちは、戦いに当たってひるむことがなかった。敢然として戦場に立ったのだった。

・人間が老けるのは、みずからが老けるのを許容する場合が多い。

・指導者にとって大切なのは、何時間デスクの前で過ごすか、そのデスクがどこにあるかではなく、重要な決断を正しく下すかどうかである。

・思索と行動が正しいバランスを保ってはじめて、指導力は最高度に発揮される。

・大きい人物は大きい決断を処理するために存在する。

・指導者がする妥協の多くはあす闘うための妥協だということを、評論家は知らない。

・絶対に傲慢であってはならず、「バカを許す」心の余裕があり、実際に許さなければならない。

・指導者にとって理論は分析のための踏み台にすぎない。

・指導者が過去の決断を顧みて悩みすぎると、やがて決断そのものができなくなってしまう。

・指導者は常に、ほとんど本能的なまでに、結果を考える。

・幸福を希む人は権力を握らないだろうし、もし握ればそれを適切に行使しないはずである。

・指導者が住むのは具象の世界である。

・「偉業は、偉人を得ずして成ることがない。そして、偉人たちは偉大たらんと決意する意志力により偉大になる」
(ドゴール)

・追随者は願望し、指導者は決意する。

・中国革命が実を結ぶかどうかは、現在の中国の指導者が周のように「共産主義者であるより先に中国人」であり続けられるかどうかにかかっている。

・「舵手は波を見て船を進めるものです」
(周恩来)

・われわれは変化ゼロよりも遅い変化のほうが望ましく、遅い変化をじっと見守る長期の視野がときに必要なことを、知らなければならない。

・戦争を起してきたのは軍備ではなく、武器の使用につながる政治的問題を解決できない人間の無能力だった。

・「敗者にとって最大の武器は忍耐だ」
(アデナウアー)

・「偉大な政治家とは、最後まですわっているやつです」
(アデナウアー)

・「きみと私の違いは、私が正しいときに正しい決断をしたことである」
(アデナウアー)

・「軍人は、だれよりも平和を願う。なぜなら、戦争で死に、傷つかなければならないのは、軍人だから」
(マッカーサー)

・「議会制民主主義の中に生きる偉人は、人類の大半を占める凡庸な人々から嫌悪され、貶められる運命にある」

・吉田は、日本が外敵に備えなければならないのを知っていた点で、現実的だった。また、日本独力では防衛コストを負担しきれないと読んでいた点で、現実的だった。しかも、アメリカがそのコストを負担してくれると読み切った点でまことに賢明だった。

・「不人気なことを実行し、妨害をものともしない人物でなければ、危機の宰相にはなれない」
(チャーチル)

・「司令官にとって最も大切なことは、五パーセントの重要な情報を、九五パーセントのどうでもいい情報から見分けることだ」
(マッカーサー)

・ドゴールにとってフランスとは、単なる国民の集合体以上のなにものかだった。

・「偉大さを失ったフランスは、もはやフランスたり得ない」
(ドゴール)

・強い個性を持つ者は、上司に気に入られるよりは自己に忠実ならんと欲する。

・「内なる強さと外見の自制が両立することにより、はじめて支配は可能になる」
(ドゴール)

・子供は偉くなりたいから高いポストを狙うが、おとなは何事かを為すためにそれを望むものである。

・知性と本能の間に正しいバランスが保たれてはじめて、指導者の決断は先見性をもつことができる。

・力のある者が、必ずしも最大の経験と最高の頭脳と眼識と直感を備えているとはかぎらないのである。

・「戦場では一度倒れればおしまいだが、政治では再び起つために倒れる」
(タレーラン)

・政治の世界で成功したいなら、失策よりも無為のほうがはるかに悪い。

・敗北を恐れる者は、一流の政治家たり得ない。

・政界には、肝っ玉と直感と、正しい瞬間に断行する決断力以外には、何物もない。

・「人々を感動させるには、語り手である指導者がまず感動しなければならない」

・偉大な指導者は、眼力とともに正しいことを為す力量を備えなければならない。

・一つだけ、はっきり書いておきたいことがある。偉大な指導者は、必ずしも善良な人ではないことである。

・指導者を偉大ならしめる必須の条件は、三つある。偉大な人物、偉大な国家、そして偉大な機会である。

・偉大な指導者の足音の中に、人類は雷鳴にも似た歴史のとどろきを聞く。

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207.歴史家が見る現代世界 (入江昭)

「現代」はいつから始まったのか? 「近代」と「現代」は何が変わったのか? そもそもどのようにして「時代区分」をするのか? 近年、歴史学の潮流は急速に変化してきた。視野の狭い国別の歴史にとらわれて、世界規模で進む大きな歴史のうねりを見逃してはならない。ハーバード大・歴史学部の名誉教授が書き下ろした、「現代世界」を考えるための手引き書。

さて、イギリスに送ってもらった最後の新書を読み終えた。講談社現代新書で、タイトルが何とも面白そうだった。見れば、著者はハーバード大学歴史学部の名誉教授だという。期待するなというほうが無理な話だ。

しかし感想を先に言ってしまうと、ガッカリという感じだ。


▽本の軸と内容
本の大きな軸は二つある。「現代とは何か」という問題意識と、「世界規模で進む歴史のうねり」を捉えることだ。
著者は両者を結び付けて「国境を越えて世界規模で物事が進行することこそ、現代の重要な特徴である」として議論を展開した。
次々と現代社会における「世界規模」の事象の例を出しては、「これこそ現代だ、この潮流は不可逆なのだ」と言ってくる。最終章では「人類は一つ」や「惑星意識」という言葉を持ち出して、世界規模の歴史のうねりは必ず偏狭なナショナリズムや反グローバリズムを乗り越えるだろうと結んだ。

本当に大雑把だが、これが本の内容だった。
社会科学をかじった人なら誰でも知っていることばかりが連なり、新たな発見もなく、さらに読者を十分納得させうるだけの議論も展開できていない。ツッコミの書き込みを沢山したため、むしろ「批判的読書」の訓練だったのではないかとさえ思う。


▽グローバリゼーションと国家の相対化
グローバリゼーションについてかなり言及し、そのうえで国家の相対化についても議論している。
彼は国際社会のアクターを国家だけに定めた「パワーゲーム」的な史観を"陳腐で月並みだ"と言って批判しているが、正直言って彼の議論も陳腐で月並みなものである。

グローバリゼーションで国境を越えてモノやヒト、情報が移動する。
すると国家を超えたコネクションが強化され(主権国家の多孔化)、やがて国家を超えたコミュニティにもつながる。(多国籍企業やNGO、国際機関など)
国家以外のアクターが重要な働きをするようになり、国家は国際社会の中の一つのアクターに過ぎなくなる。

ごくありふれた議論だ。
彼はそこからさらに突っ込んで、「国家を中心に現代を考えることはもはや意味をなさない」と結論付けている。もうここまでくると、型にハマりすぎてコメントする気もなくなる。国際政治学のリアリズムとリベラリズムの議論そのままではないか。
加えて、彼は「内交」にも言及することで国家の持つ同質性と絶対性を内側からも希薄化させているが、それも政治学で盛んに議論されたものである。


▽「理論」とはどういうものか
さて、この本についてすでに散々批判してきたが、この本の最大の欠陥は「国境を越えた観点」だけが現代を分析する上で有用であり、「国家」に囚われた考え方はもはや使い物にならず、時代遅れであると断言している点である。
このことについて話すうえで、「理論」というものについて少し話したい。

僕が社会科学を勉強してきて一番痛感したことは、「この世界で絶対的な理論や観点などない」というものであった。
全ての理論には得手不得手がある。ある理論はAという事象を説明するのに適しているが、Bという事象をうまく説明できない。一方で別の理論はBという事象はうまく説明できるが、Aという事象は説明できない。
理論とは現実をより見やすくするための道具である。道具である以上、観察者はそれを状況に応じて使い分けなくてはいけない。

理論は、人々や社会をある特定のカテゴリーに分類することで、より現実をダイナミックに捉えることを可能にする。その代り、カテゴリーから漏れる少数の例外は常に存在する。

たとえば、「フェミニズム運動の高揚によって女性の人権は回復されつつある」という言説がある。
世界史的な大きな観点から見れば、これは正しいだろう。
しかし、大まかに正しいからといって納得してはいけない。そこには数多の反例があるからである。
たとえば、「そもそも女性の人権が迫害されていなかった社会集団」、「フェミニズム運動が起こる前から女性の人権が回復していた社会集団」、「フェミニズム運動が起こったにも関わらず人権が回復されていない女性」などなど。

こうしてみると、「フェミニズム運動の高揚によって女性の人権は回復されつつある」というのがいかに穴だらけの言説か分かるだろう。
もちろん、これは正しいのである。時代の潮流を大まかに、端的には捉えている。
しかし、理論を用いる者は常に「例外を無視している」という一種の後ろめたさを持たなければいけない。なぜなら、理論を通じて見た現実は「理論越しに見た現実」に過ぎず、どこまでいっても「現実」になることはないからである。


▽なぜこの本がいけないか
僕は、国際政治や歴史の領域においても同じようなことが当てはまると考えている。
国家間のパワーゲーム的な「リアリズム」は、なるほど、冷戦の崩壊を予想できなかった。一方で「リベラリズム」は比較的これを容易に説明できた。しかし、これは後者が前者より優れていたからではなく、単に後者の得意分野だったからに過ぎない。

いかなる理論もある程度正しく、ある程度間違っていて、ある程度有用であり、ある程度役立たずである。
これが僕の基本的な認識である。だから、「国家」に根付いた諸理論を「偏狭で時代に逆行している」と断ずるこの本と共鳴できなかった。

もちろん、国家を超えて「人類は一つ」になれたらこれほど喜ばしいことはない。
しかし同時に、人間にはアイデンティティが要る。アイデンティティとは、「他者との差異」からやってくるものに他ならない。

人々の持つ共通性と差異。
そもそも歴史とはこの二つの絶え間ない衝突だったのではないか。
だとしたら、現代において「人類は一つ」が達成されつつあるという本書の主張は、歴史家にしては見通しが甘すぎるのではないかと思わされる。

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206.ドン・キホーテ 後編一~三 (セルバンテス)

騎士道物語(当時のヨーロッパで流行していた)を読み過ぎて妄想に陥った郷士(下級貴族)の主人公が、自らを伝説の騎士と思い込み、「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」と名乗り、痩せこけた馬のロシナンテにまたがり、従者サンチョ・パンサを引きつれ遍歴の旅に出かける物語である。

さて、ドン・キホーテ後編を読み終えたので、その書評を書きたい。前篇の出版から約5年後に書かれたものである。
前回は「形而上の思考が人間を征服することの滑稽さ」という観点から作品を考えてみた。今回はそれから一歩進んで考察していきたいので、まだ前回の書評を読んでいない方はぜひ目を通していただきたい。一応前回のまとめから書き始めようと思うが、より分かりやすくなるはずだ。


▽笑うべき「騎士道精神」
千万の軍勢や巨人にも勝るほどの強さを誇る一方で、強きを挫いて弱きを助け、世界を正義と慈愛で満たすためにその身をささげる。当時のスペインで流行し称賛を集めていたのは、そんな"完璧超人"が活躍する騎士道物語であった。

セルバンテスは「ドン・キホーテ」において、その騎士道物語を攻撃対象にしたのである。
簡単にいえば「完璧超人な"遍歴の騎士"など現実には存在し得ないし、もし忠実にその精神を実行しようとしても上手くいかないに決まってるだろう」という一種のツッコミを試みた。
セルバンテスは、物語の一番最後にこう書いている。

余の願望は、騎士道物語に描かれた、でっちあげの支離滅裂な話を、世の人びとが嫌悪するようにしむける以外になかったのだから。

そうして生まれた主人公が、明晰な頭脳を持ちながらも形而上の騎士道物語に思考を曇らされたドン・キホーテだった。もっともらしい理屈を捏ねては羊の群れや水車小屋に向かって突撃を試み、決闘を試みては打ち負かされ、本当の戦いに遭遇しては蚊帳の外に置かれる、哀れな男である。
ここまでが、前回の書評の要点だ。


▽セルバンテスの生涯と騎士道精神
さて、ここで書評を転回させてみたい。というのも、以下のような疑問が僕の頭をよぎったからだ。
長編小説を書いてまでセルバンテスは騎士道物語を攻撃したのだが、彼は騎士道精神を嫌っていたのだろうか?

上で見たように、騎士道精神は「ドン・キホーテ」の中では「糞の役にも立たない、迷惑千万な形而上の空想」として描かれている。

しかし、読者は騎士道精神に酔う善良なドン・キホーテとサンチョ・パンサの二人を敬愛せずにはいられない。また、"騎士道精神の敗北"を意味するドン・キホーテの死によって物語が終焉したあとも、読者は「もっと二人の活躍を見たかった」という思いを抱いてしまう。「ドン・キホーテ」では確かに騎士道精神が攻撃されているものの、それに対する著者の温かい眼差しも感じられるのである。これが小説の深みを見事に増幅させ、読者にある種の不思議な感覚をもたらす。

なぜセルバンテスはそんな物語を書いたのだろう?
その奇妙な読後感を紐解くには、彼についての多少の知識を要するのである。


▽セルバンテスの左腕
セルバンテスの生涯を語るうえで欠かせないのが、スペイン海軍に所属していた経験であろう。
wikipediaの解説をちょっと引用してみる。

スペイン最盛期の象徴であるレパントの海戦(1571年)において被弾し、左腕の自由を失った後も4年間従軍を続け、ナヴァリノの海戦やチュニスへの侵攻にも参加した。そして本国へと帰還する途中、バルバリア海賊に襲われ捕虜となる。このとき仕官のための推薦状を持っていたことが仇になり、とても払えない巨額の身代金を課され、アルジェで5年間の虜囚生活を送る。

彼はこの後も戦争での敗北や、銀行の破算に巻き込まれるなどして何度も投獄されている。途方もなく波乱万丈な人生を歩んできたことが分かる。こうした人生経験が彼の創作活動の下地になったことは言うまでもないのだが、ここで特に注目したいのは「左腕」のエピソードである。

レパントの海戦とは、教皇・スペイン・ヴェエネチア連合軍が当時強勢を誇っていたオスマン帝国軍に戦いを挑み、これを破った戦いだ。「イスラム圏の侵略からキリスト教圏を護った」という意義づけがされている大きな戦争である。これに参戦したセルバンテスは上にあるように左腕を負傷したが、そのまま活躍をつづけたらしい。「片腕のセルバンテス」として大きく名を挙げ、彼も終生それを自慢にしていたという。
後編の冒頭で、彼は左腕の名誉の負傷についてこう書いている。

私の負った傷は、どこで負った傷であるかを知っている者のあいだでは高く評価され尊重されるものです。

この一言が、「ドン・キホーテ」を考えるうえで非常に重要な意味合いを持ってくる。
「キリスト教世界のため、名誉の負傷、高く評価され…」という字面が、何かを彷彿とさせては来ないだろうか。
察しのいい読者ならすでに気付いているだろう。セルバンテスは騎士道精神を嫌っていたどころか、その熱烈な信奉者だったのだと。


▽騎士道を護るための「ドン・キホーテ」
セルバンテスは騎士道の信奉者だったという観点から「ドン・キホーテ」を考え直すと、見える世界はガラリと変わってくる。彼は単に騎士道精神を攻撃するためにこの作品を書いたのではなく、実は騎士道精神を護るために書いたのではないか、と考えられる。

一度彼の立場から推測してみよう。
彼は左腕の負傷を騎士道精神によって裏打ちさせることによって、それを「名誉あるもの」と考えた。つまり、彼にとって自分の左腕にこそ、真の騎士道精神が宿っていたのである。

一方で当時流行っていた騎士道物語。これはセルバンテスの言葉を借りれば"支離滅裂"だった。
騎士は海よりも深い慈悲を持ち、傷を受けても魔法で癒され、いかなる強大な敵にも勝てる存在として語られていた。恋する姫とキリスト教に忠誠を誓い、どんな苦難も打ち破るとされた。
左腕の傷を騎士道精神の象徴と考えていたセルバンテスには、それは一笑に付されるべきまやかしでしかなかっただろう。彼はその感情を「ドン・キホーテ」にぶつける。騎士道精神はそんなご都合主義の美談で語りつくされるものではない、そう言いたかったのではないか。

言葉を変えていえば、騎士道精神をナメるな、と彼は叫びたかったのだろう。
現実で高潔な精神を抱いて戦えば、必ず多くの苦難に直面する。「敗北を知らない」などということが起こるはずがないのである。自由を失い戻ってこない左腕、セルバンテスにとって、その代償こそが騎士道精神を崇高なもの・得難いものとして保証していたはずだ。

そうして彼は「騎士道物語」を敵に回して書いたのではないか。騎士道精神を護るために。


▽敗北によって見えてくる価値
作中で荒唐無稽な行動を繰り返し、読者に微笑みを届けたドン・キホーテとサンチョ・パンサは、同時に、つねに愛すべき人物でもあった。彼らの純粋で、善良なキャラクターは読者を取り込む。ラストシーンになるころには、読者はすっかり彼らに魅了されて「どうかこの二人が幸福になってくれないだろうか」思わされるのだ。

「要するに、わしは無謀な戦いを挑み、できるだけのことはしたが、打ち倒されたのじゃ」
(ドン・キホーテ)


しかし物語は彼らの騎士道が"現実"の前に屈服する形で終わる。ドン・キホーテは最期に正気に戻り、それまでの冒険がいかに無意味なものだったかを悟って死ぬ。読者がどんなに望んでも、彼らによって騎士道が実現される可能性は永遠に失われてしまうのである。
こうして読者は思いを馳せる。「騎士道を実現する道は、なんて過酷で、なんて困難なのだろうか」と。それこそがセルバンテスの試みだった。彼は騎士道精神を創作に富んだ支離滅裂な物語たちから、自らの左腕の傷のもとへ、取り返したのである。

◆気に入ったフレーズ
・「多くの書を読み広く旅をする者は、実にさまざまなことを見たり知ったりできるものでござるよ」

・いいかね、おいらの大事な旦那様、この世で人間のしでかす一番でかい狂気沙汰は、別に大した理由でもなければ誰に殺されるってわけでもねえのに、ただ悲しいとか侘しいとかいって死に急ぐことですよ。

・富み栄えているときに喜ぶように、悲惨な目にあってもじっと我慢するっていうのが、強い心にふさわしいことですよ。

・今日倒れた者が明日起きあがるってのはよくあることだからね。

・自由というのは天が人間に与えたもうた、最も貴重な贈物のひとつであってな、大地が蔵し、大洋がその内に秘めておるいかなる財宝といえども、これには遠く及ばぬ。

・血は代々受け継がれるものだが、徳は個人がみずから獲得するものであってみれば、徳はそれ自体において、血統のもちえない価値を秘めているのじゃ。

・神を畏れるところに知恵が生まれ、すぐれた知恵をもってすれば、何ごとにおいても過つことはないからじゃ。

・友だちに乾杯といわれて、それに応じねぇでいられる、そんな石みたいな心があっていいものだろうかね?

・おいらはあの人に従っていく以外、ほかにどうしようもねえんです。二人とも同じ村の人間で、おいらは主人のパンを食ってきたし、あの人が大好きだからね。

・おそらくは島の領主サンチョより、従士サンチョのほうが楽に天国へ行けるってもんでしょう。

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作文14「ネット社会」

ネット社会
42分

歴史的に見れば、「技術」と「時代」の関係は非常に強いものがある。時代の要請によって技術が生まれることもあれば、新しい技術によって時代の新たな展望が開けることもある。

技術が時代を開いた最大の例の一つが、活版印刷の技術である。中世ヨーロッパに伝わった印刷術は、情報流通の速度を飛躍的に加速させ、宗教改革や新聞の発達を導き、やがて言語による国民の同質性とナショナリズムまでももたらした。

現代におけるインターネットも、時代を切り開くものとして注目を集めている。2011年のアラブの春が象徴的だ。チュニジアの一人の焼身自殺が瞬く間に他のアラブ諸国の若者たちのディスプレイに映し出され、堅固に見えたエジプト政権までもが嘘のように簡単に倒れてしまった。

今や、ネットに触れる人々の同質性は非常に高くなっている。かつて「コモンセンス」や「社会契約論」
を手にした人々が政府を打倒したのと同様に、政府による不祥事や迫害の映像などを手にした人々がこれを弾劾するようになった。

こうした新しい技術による時代の到来を、どう見るべきだろうか。現在進行で広がる「ネット社会」の功罪を今の段階で論じるのは非常に難しいか、一つだけ歴史の教訓から言えることがある。

歴史的に見れば、活版印刷の技術はカトリック協会や絶対王政など、既存の権力を攻撃するために使われた。新聞、雑誌などのマスメディアも、その文脈から生まれたものである。

しかるに、ネットの技術もまた、従来の権力批判に使われるであろうことは想像に難くない。その中には当然、「第四の権力」と化したマスコミも入っている。かつて政府を恐れさせた印刷物が、今度は電子媒体によって問われ、危機に晒されているのである。

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205.ドン・キホーテ 前篇 一~三 (セルバンテス)

騎士道物語(当時のヨーロッパで流行していた)を読み過ぎて妄想に陥った郷士(下級貴族)の主人公が、自らを伝説の騎士と思い込み、「ドン・キホーテ・デ・ラ・マンチャ」と名乗り、痩せこけた馬のロシナンテにまたがり、従者サンチョ・パンサを引きつれ遍歴の旅に出かける物語である。

今回読んだのは「世界最高の小説」と名高いセルバンテスの「ドン・キホーテ」である。前篇後編合わせて6巻。
本当は全部読んでから書評を書こうと思っていたが、一度主人公が村に帰ってくることで一件落着の様相を見せたので「一度感じたことを整理したい」という思いに駆られて、書くことにした。


▽哀れな主人公ドン・キホーテ
あらすじにもある通り、この作品は自らを伝説の騎士だとする妄想に囚われた男(オッサン)の物語である。
長年読書にふけっていた彼は一念発起し、伝説の騎士としての栄光に満ちた足跡を残そうとサンチョ・パンサを伴に連れて旅に出る。彼は妄想によって曇ってしまった狂人的な思考と、狂っている人間に特有の行動力を遺憾なく発揮し、旅先で様々な騒ぎを起こしていく。
伝説的な騎士として振る舞う彼が、あちこちで荒唐無稽な行動に出ては無用のトラブルを起こす。この物語は当時流行していた騎士道精神への痛烈な批判だったと考えられている。

さらに物語を一層アイロニカルにしているのは、ドン・キホーテは騎士道に関することでなければ、極めて理性的かつ闊達な思考を見せるという点である。
彼は教養が豊かで頭の冴えた人物であり、多くの登場人物は彼が騎士道物語によって狂わされたことを嘆き、どうにかして正気に戻そうとする。世間からの称賛を浴びる「騎士道」は、この作品の中では単なる「糞の役にも立たない、はた迷惑な虚構」として描かれているのである。

「旦那様が大事にして、それこそ四六時中読んでいなさった、あのいまいましい騎士道本があの方のおつむをおかしくしちまったんですよ」


▽荒唐無稽?抱腹絶倒?
「ドン・キホーテ様、どうか引き返しておくんなさい!旦那様が攻めようとしてなさるのは、神に誓って、間違いなく羊でごさりまするぞ!」

この奇妙な引用はドン・キホーテが羊の群れを「軍隊」だと思い込み、単騎でこれを攻め破ろうとした時のサンチョ・パンサのセリフである。
サンチョ・パンサはただの貧しくしがない農民である。読み書きはできないし、学がない。ドン・キホーテの「一国の主にしてやる」という怪しい勧誘を信じ込んで旅に連れ立った男である。この物語の面白いところの一つは、「博学で頭脳明晰」なドン・キホーテよりも、「無学で愚かな」サンチョの方が真実がよく見えている点であろう。
サンチョは妄想に囚われて羊や水車小屋に戦いを挑もうとするドン・キホーテに対して時々ツッコミを入れる。もちろん彼はそんなに賢くないから、最後には主人が一国の領地を切り取って授けてくれるものだと信じ切っている。なんとも愛すべき二人組だ。

とにかく、ドン・キホーテの行動は可笑しい。チンケな旅館を「城」と言ったり、大した器量もない女性を「姫」と呼んだり。彼は口を開くたびに周囲を呆然とさせ、誰かとすれ違うたびにひと悶着起こす。
要するに、もっともらしいことを言いながら、やっていることは荒唐無稽なのだ。読者の笑いを誘うような場面は数えきれない。


▽ドン・キホーテを笑えるか
「拙者は自分が信条として掲げている騎士道に従って、任務と心得ること、および良心が命ずるところを行うだけじゃ」

さて、では読者はドン・キホーテを心の底から笑うことが出来るだろうか。
口ではもっともらしいことを言いながら、一文の得にもならなそうな旅に出て、トラブルを起こしては打ちのめされて帰ってくる。ドン・キホーテほどではないにしても、こういうことは多かれ少なかれ誰にでも起こりうる。

この物語を読むときに注目すべきは、彼の狂気が無知から来ているのではなく、「騎士道物語」の知識から来ているという点である。
より抽象的にいえば、「形而上の思考」こそが、彼を狂気の旅路へと押しやったと言えるのではないか、ということだ。


こうしてみれば、ドン・キホーテは単なる「騎士道精神への批判」という枠組みをより普遍化した、「形而上の思考への批判」として読むことが出来る。
象徴的なのが、サンチョ・パンサをはじめとする周囲の人間とドン・キホーテの温度差だろう。

「小麦のパンより上等なパンを求めて世界中を歩き回るような無理なことはなさらずに、家でのんびりお過しになったほうがいいんじゃりませんか?」
「人はそれぞれ自分のパンを食べればいいんであって、そんなことはおいらの知ったことじゃありませんよ」


どちらも無知な農夫たちから、ドン・キホーテに向けられた言葉である。
騎士道だ何だと訳の分からぬ形而上のもっともらしいことを喋るドン・キホーテのそれとは対照的に、彼らの言葉には「現実」もしくは「生活」の上での真実に溢れている。彼らは無知で、形而上の哲学や騎士道精神に浸ることはできないが、それだけに思考によって現実を歪曲することはしない。

発達しすぎた形而上の思考は、現実認識を歪曲させる。時には人間を破滅に導く。
この半ば普遍的な問題意識は「ドン・キホーテ」によってしっかりと明示され、ドストエフスキーによって受け継がれたと言われる。「罪と罰」では、主人公のラスコーリニコフは形而上の思想の結果として殺人を正当化・実行した後に、それまで考えもしなかった「罪の意識」に苦しめられる。形而上の思想が人間を征服することの危険性を示唆した、最たる作品だろう。

「ドン・キホーテを笑えるか」というタイトルにしたのは、「あなたは形而上の思考に囚われて荒唐無稽なことをしたことがないか?」という意味を含めてのことである。
読者は何らかの思想や理論、理想に囚われて、現実に対して「こんなはずがない」「こんなことはあってはならない」などと言いながら現実を歪曲したことはないだろうか。

ドン・キホーテの狂気に満ちた行動の数々は、もっともらしい理性や思索によって支配されがちな私たちの愚かな現実認識や行いに対して反省を促すものでもあるのである。

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作文13「薬」


50分、720語

数年前、法事に参列した時に非常に印象的な説教を聞いた。
「”毒にも薬にもならない”なんて言い方がありますが、あれは本当でね。毒にならないものは薬にもならないんですよ」。

住職の話は薬剤に関する雑談から、いつしか人間関係についてまで発展していた。そんな風に世の中の真理を語ることができるのかと感心したのを覚えている。

大学に進学して政治学を学んだが、自分の見た政治はまさに住職の話を体現したような世界だった。様々な政治的決断の功罪を見るにつけ、「薬」になるために「毒」を持たざるを得ないという悲しい政治の性質が浮き彫りになるのである。

「毒にも薬にもならない政策」は存在しない。同時に、万人に薬となる政策も存在しない。ニーチェは国家を「あらゆる人間が毒を飲むところ」と言ったが、その通りだろう。そこで飲んだ毒が薬になる人もいれば、そうでない人もいる。

政治を評するのが難しいのは、そのためである。政治的決断は薬であると同時に毒でもあるから、一面的な観点から批判・称賛をしても不十分だ。非常に優れた指導者が、薬から劇薬へと転じて破滅的な結果を招くことさえある。

思い出すのは司馬遼太郎「峠」の主人公、河合継之助である。彼はその小説で取り上げられるまでは長岡藩を潰した指導者と考えられ、その墓が破壊されるほどだったそうだ。しかし司馬が彼の開明的な思考と苦悩を描き切ったことで、今では記念館が建ち、人々から尊敬を集めている。

司馬は河合継之助をこう評した。
「風雲児とは、時と置き所を誤ると、天災のような禍をもたらすらしい」。
政治は社会への薬となるために、毒を持たねばならぬ営みである。だからこそ、それに携わる者にも批評する者にも相応の覚悟が求められるのだろう。

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作文12「海」


50分、694字

「海」といえば、深遠にして雄大なものというイメージがつきまとう。海を眺めるとき、その広さに半ば呆然とさせられ、自己のちっぽけさを噛みしめさせられる。誰でも一度は体験したことのある感覚だろう。

海は長大な歴史においても少なからぬ役割を演じてきた。世界史で大陸国の国境が時代ごとに変化するのに対して、海に囲まれた日本のそれに大きな変化がないことを見ると、いかに人間の営みが海に束縛されたものであるか、思い知らされる。

地政学や歴史を語るうえで、海は最大の前提であると同時に最大の鍵でもある。ヨーロッパの歴史を概観すると、海の覇権を握る者が時代をも同時に握っていることが分かる。地中海に対するオスマン帝国や、大航海時代以降のスペインからイギリスに至るパワーシフトが好例だ。海は強者の掌から掌へ、常に転々としてきた。

最近注目されている中国の制海権の拡大も、こうした視点から語られるべきだろう。それは単なる中国と東南アジア諸国や日本との小競り合いでもなければ、単なる海洋資源の獲得競争でもない。各国のパワーバランスのありようを象徴・反映する動きだと考えれれるものだ。

海を制する者は、時代の覇権を握る。だからこそ、各国は中国の勢力拡大に対抗しようと汲々としているのである。海が特定の一国の掌中に転がり込んでしまうことを、誰もが恐れている。一人の娘をめぐって争う男たちの構図にも見える。

面白いことに、それでも海が偉大なる母でもあることには変わりないのである。各国が必死に外交に軍略に動き回る中で、海だけは今日も明日も明後日もそこにじっとしている。人間と海のこの奇妙な関係は、恐らく永遠に解消されないだろう。


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作文11「走」


45分、863字

人生における力配分は、よく陸上競技に例えられる。エネルギーを早い段階から惜しみなく使う短距離型、気負いすぎることなく慎重に歩もうとする長距離型、といった具合である。限られた生命を使ってできるだけ長い距離を走れるように、人はその天性に合わせてペースを調節する。

最近、自分の周りでやたらと多く思われるのが、何事にも全力な「意識高い系」と呼ばれる人達である。若さを生かして常に全力疾走することで人生経験という距離を稼ごうとしているかのようだ。なるほど、大いに結構なことだろう。

SNSを通じて見る限り、彼らは実に多くのことに精を出している。留学、ボランティア、インターン、バイト…その一つ一つは非常に立派なものに映るし、それだけに多くの他の学生もこぞってそれに追従しようとする。

しかし、そうした類の人達を見るにつけ、どこか危なっかしい印象を抱いてしまう。立派な、称賛されるに足る一連の活動だが、その根底に貫かれているものが見えない場合がほとんどだからだ。「結局この人は何がしたいのだろう」と思わされることもしばしばある。

闇雲に突き進むこと、なるほど時にはそれも必要だ。だが、常にそうであっていいわけではない。目標がなければ反省ができず、ついには前進すら叶わないのが普通だからだ。トルストイは言った、「遠い距離を走るには“約束の地”の存在が不可欠である」。

中公新書「近代日本の官僚」で紹介された一人の学生の手記を思い出す。「自らの内部の向かうべきところを知らず、ただ目新しいものに目が眩んでいる状態は、実に危ぶむべきである」。現代社会において、学生に挑戦できるものは格段に多くなった。だからこそ、自己の内部に目を向けることは不可欠である。

「何事にも全力疾走」はこの頃やたらと好意的に語られるように思われる。だが、走ることと同じくらい、速度を落として自己を見つめることが大切だということは忘れるべきではない。デカルトの「方法序説」にこうある。
「慎重に、しかし真っ直ぐに歩む人は、ただ闇雲にあちこち走る人よりもはるかに遠くへ行くことが出来る」。



反省
…なかなかよく書けたと思う。常日頃思っていることだったからだろうか。
…自分の捻くれた思想が存分に発揮されていて非常に心地よい。

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作文10「生きる」

生きる
55分、699字

生きることの意味について考えるとき、多くの人が「もはや生きていない状態」、すなわち死について思いを馳せるだろう。その死について、一つの示唆的な議論がある。新渡戸稲造が「武士道」で書いた、「犬死」の概念である。

「犬死」とは、人がその生命の重さに値する死に方をしなかった場合に用いられる。義理も利益もない無謀な挑戦で死ぬことはもちろん、優秀な人物や大将格の人物が自らを過小評価して雑兵と戦い命を落としても「犬死」となる。

現代人からすれば人の死に評価を下すのは善くないことのように感じられるが、興味深い視点でもある。「犬死」の概念には、「生命は使われるべきもの」という発想が色濃くみられる。「生きる」とは、生命を使って自己を表現することのようである。

考えてみれば、人間がその才智と努力を傾けて生命を燃焼させる姿は、洋の東西を問わず、いつの時代も尊敬の念の対象であった。彼らは小説や映画の題材となって語り継がれ、今日も多くの人を奮い立たせている。

しかし、現代において「生命を存分に発揮する」ことと「生きる」ことは乖離しつつある。物質的豊かさによって「何を成すこともなく生き永らえる」ことは容易になった。村上春樹の「壁と卵」の演説で語られたような、システムが人を消耗させる構造によって浮上した「個人の無力」の観方も、それに拍車をかけている。

閉塞感漂う現代だからこそ、一人一人に「生きること」の意味を主体的に取り戻すことが求められているのではないか。武士道によって紡がれた物語である「忠臣蔵」で、吉川英治はこう書いている。
「人、思い思いにそれぞれが定めた道を突き進むしかない」


反省
…微妙、面白くない、深みがない
…深く考えすぎ、軽快ではない
…軸が明確か(「生きる」のアンチテーゼはどれか)
導入で犬死を使う意味がなかった
犬死が最後の段落でかかってない
だから、生きるー犬死という軸があるかのように錯覚させるだけ、わかりにくくさせるだけ

…着地も微妙
引用は
「朽ちない生命となるか、一片の枯れ葉にすぎない生命で消えるか。人、思い思い、その選ぶがままに極めるしかない」

…文の推敲にもっと時間をかけるべき

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作文9「選」


45分、806字

元巨人の桑田真澄投手は、小フライを捕球しようとして選手生命に関わる大ケガをしたことがある。復帰までに想像を絶する苦難を背負うことになったが、彼は後にこう語っている。
「もしあの時に戻って、もう一度小フライが飛んできたら、私はやはり同じ選択をすると思います」。

ささいなものから重大なものまで、人生は選択の連続である。世に出回っている成功者や偉人の名言も、煎じ詰めれば「どういう選択をすべきか」という点に帰着する。

何を購入するか、誰を救うか、どうやって生きるか――。こうした選択をめぐる絶対的な指針は哲学を中心とした領域で議論され続けているにも関わらず、答えは一向に見えてこない。最近話題になったマイケルサンデルの政治哲学でも、その答えはコミュニタリアニズム、すなわち共同体単位で議論を続けることに止まっている。

選択が厄介なのは、それが「選択しなかったものの可能性」を殺す行為だからである。小フライに飛び込むという選択をした瞬間、桑田が手に入れる筈だった輝かしい数年分の成績は消滅する。人は人生を二度生きることはできないから、この性質はより一層悩ましいものとして人間を苦しめる。

それでも、選択が人間の自由の行使であり、尊厳の源であることは揺るがない。苦境に立たされてもなお、人間は何かを選択することで自己を表現できる。忠臣蔵などの物語が時代を超えて伝えられるのは、彼らの選択の背後にある武士道に多くの人が感動したからだ。何が正しいか分からない世界の中では、自らの美意識を貫くことこそが問われるのではないか。

美意識は、桑田の冒頭のコメントにも「全力プレー」という形でうかがえる。悔いのない選択をすれば、人は良い結果も悪い結果も全て受け入れて次に進める。桑田もケガを乗り越えて一軍に復帰し、最後はメジャーにまで挑戦した。巨人の二軍のグラウンドには、彼が走りこみすぎたために芝生が生えなくなった「桑田ロード」が残ったという。


反省
…最近の中ではマシなほうかもしれない
…桑田真澄の話の導入の仕方は悪くない
…問題は本論の部分
…マイケル・サンデルは不要か
…代わりに忠臣蔵の最後で酒の差し入れを断った場面を入れればよかった

…結果を受け入れて次に進める、と美意識の関係をうまく繋げていない論理飛躍
…「小フライに飛び込んだ彼だからこそ、プロの一線に再び戻ることができた」という面を書いてもアリかもしれない

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204.近代日本の官僚 (清水唯一郎)

明治維新後、新政府の急務は近代国家を支える官僚の確保・育成だった。当初は旧幕臣、藩閥出身者が集められたが、高等教育の確立後、全国の有能な人材が集まり、官僚は「立身出世」の一つの到達点となる。本書は、官僚の誕生から学歴エリートたちが次官に上り詰める時代まで、官僚の人材・役割・実態を明らかにする。激動の近代日本の中、官僚たちの活躍・苦悩と制度の変遷を追うことによって、日本の統治内部を描き出す。

イギリスに持ってきた最後の新書を今回読み終えた。非常に硬いタイトルだが、想像以上に面白い一冊だったと思う。


▽「官僚」という主人公
200年の泰安の時代からたたき起こされた日本は、欧米列強からその実力ではるかに突き放されているという厳しい現実を目の前に突き付けられる。すでに隣の中国は侵略の憂目にあっており、日本を取り巻く情勢には一刻の猶予も許されなかった。
そこで登場するのが「官僚機構」という存在である。官僚は国家の粋を集めた精密機械のようなものであり、厳しい日本の状況を打破したのは単に彼らの叡智の賜物であったと言っても過言ではない。

本の最初の方には、こう書かれている。

官僚から政治家となる道は、両者が協働してきた日本政治を象徴している。

官僚から政治家というレールは欧州ではあまり一般的ではないらしい。「鉄の三角同盟」の一辺をなす「政-官」の強い結びつきのルーツを探ることで、日本政治の特徴を浮き彫りにしようというのが、この本の主題である。
近代日本の目覚めととも胎動し、国家を動かしていった官僚機構。その官僚に主軸を置きながら明治維新から大正デモクラシーまでを描くことで、日本史のダイナミックな動きを捉えている。


▽官僚
この本の主人公である「官僚」に対する基本的な政治学的描写は以下の通りだろう。

官僚機構のイメージは「国家の粋を集めた精密機械」である。民主的なプロセスで政権に就いた人間は、この合理性に貫かれた精密機械を使いこなすことで、有権者から求められたビジョンへと邁進する。
反面、官僚は性質上の問題を多く抱えている。繁文縟礼の傾向を持つ、効率性の担保が難しい、自己の誤謬を認めようとしない、民主的なプロセスで選ばれたわけではない、専門化が進むことで肥大化する、などなど。加えて「官僚制」は語源から批判的な意味が込められていることもあってか、国家の情勢が悪くなると必ずやり玉に挙げられる。
こうした議論については政治学の教科書やマックス・ウェーバーの「権力と支配」、中公新書の「官僚制批判の論理と心理」、また「政治主導」について論じる数々の本に詳しく書かれている。

一方で、この「近代日本の官僚」。
官僚制を題材にしているにもかかわらず、こうした従来の視点にあまり触れることなく展開されている。官僚機構の是非ではなく、明治から大正までの彼らの「功」に注目しているためだ。実に興味深い視点であろう。
たとえば以下の一文。

投票を通じた政治参加にくわえ、官僚となることで行政に参加する道が開かれた。この二つの参加を可能としたことで、明治政府は名実ともに正統性ある全国政権となることができた。

現在の文脈では「非民主的」と考えられがちな官僚機構の存在だが、ここでは試験制度を敷くことによって「藩閥」を打破し「公議世論」を実現するための強力な一手であったと捉えられている。当時の敵は藩閥であり、それは学閥よりも憎まれるべき敵であった。日本史のユニークな背景と展開に沿うことで見えてくる、面白い視点の一つである。


▽マクロだけでなくミクロも
・近代国家の形成を考えるうえで、学問による立身出世をめざして全国の青年が努力を重ねたことを見逃すことはできない。
・学閥が生まれ、藩閥に取って代わったと見ることもできるだろう。しかし、それよりも学生自身が持つ優越感と劣等感が影響しているように思えてならない。


近代日本の官僚の主人公は「官僚」であるが、この本は決して抽象的な官僚論に終始しているわけではない。エリートとして官僚となった青年たちの厳しい競争の世界、自負と苦悩も克明に綴られていて、本の深みを増幅させている。
故郷と学校をその一心に背負った彼らは努力を重ね、やがて日本を背負う人間となる。このあたり、「坂の上の雲」に貫かれているどこか明るいオプティミズムと同じ匂いがある。個人の努力がそのまま「国家の力」となるという時代への確信が、彼らの無尽蔵な向上心に繋がっている。非常にうらやましい時代でもある

本の主題から逸れない程度に一人一人の官僚にも注目することで、エリートの挫折・努力・成功の上に成り立っていた日本の近代化という構造をきれいに浮かび上がらせている。よく考えられて書かれた一冊なのだと感じられる。


▽日本の近代化
本書の中で官僚機構は様々な役割を演じながら、日本を牽引している。全国からエリートを集める制度によって藩閥に風穴を開けるとともに政府の正統性の根拠となり、学生たちの競争を煽り、政党政治を可能にするための風土を作り上げた。こうした日本の近代化を、著者は以下のように総括している。検証の結果を端的に表した良い一文なので、引用しておきたいと思う。

制度としての民主主義、集団としての官僚、個人としての自己達成という三つの歯車がかみ合うことで、近代日本という大きな構造が前へ前へと動かされていった。





▽(追記)志なき成長
さて本論から離れて、最後にすこし印象的だった箇所を紹介して終わりにしたい。
本書の中のエリートの一人として紹介されている安井誠一郎の青年時代の言葉である。

「自己の内部にあるものが何の方向に向かいつつあるか、また向かうべきものであるかを了解せずしていたずらに新しそうなものに目が眩んでいる日本は誠に危険なものだと思う」

これは、時代を超えて共有されるべき危機意識だろう。「志のないところに、社会の成長はない」と司馬遼太郎の言にもある。
自己の向かうべきものを了解せずに目が眩んでいる状態、すなわち「志のない成長」の危うさは、大学に入ることが容易になった今だからこそ、多くの人が肝に銘ずるべきではないか。


◆気に入ったフレーズ
・官僚から政治家となる道は、両者が協働してきた日本政治を象徴している。

・投票を通じた政治参加にくわえ、官僚となることで行政に参加する道が開かれた。この二つの参加を可能としたことで、明治政府は名実ともに正統性ある全国政権となることができた。

・近代国家の形成を考えるうえで、学問による立身出世をめざして全国の青年が努力を重ねたことを見逃すことはできない。

・官僚からはその専門知識に従って行政を行い、思うところを進言するところに存在意義がある。

・「勝敗は戦の常のみ。豈一敗の為ににわかに涙表すべけんや」(岡田宇之助)

・政党内閣への移行は、専門官僚の創出につづく、憲政を適正化するための一手であった。

・学閥が生まれ、藩閥に取って代わったと見ることもできるだろう。しかし、それよりも学生自身が持つ優越感と劣等感が影響しているように思えてならない。

・学校の階段を昇ってきた学生たちを動かしてきたのは、周囲に負けたくないという思いと、立身出世の自己実現であった。

・「自己の内部にあるものが何の方向に向かいつつあるか、また向かうべきものであるかを了解せずしていたずらに新しそうなものに目が眩んでいる日本は誠に危険なものだと思う。」(安井誠一郎)

・制度としての民主主義、集団としての官僚、個人としての自己達成という三つの歯車がかみ合うことで、近代日本という大きな構造が前へ前へと動かされていった。

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作文8「動」


55分、648字

野球のバッティングの基本に「頭を動かしてはならない」というものがある。動いてくるボールをしっかりと見るには、目線が固定される必要があるためだ。

同じことは、時代の動きにも言える。「時代の変動のさなかで何が本当に起こっているのか理解できる人間はいない」という。時代は人間を巻き込んで転回してゆくので、中にいる人間はその動きに無縁なまま「不動」でそれに視線を向けることは容易ではない。

9.11が好例だ。小学校の時にテレビで見たとき、「何やら凄いことが起こっている」と感じた。しかし、あの事件が歴史の中でどんな意義を持ったのか、「何やら凄いこと」の正体は、大学で政治学を学ぶまでついに掴めなかった。

動く時代の中でその本質をとらえることは、ジャーナリストの永遠の課題である。最近の3.11やアラブの春についても、彼らは時代の経験者であるとともに記録者としての責を担っているのである。

この難解な責務を、ジャーナリストはいかに果たすべきだろうか。司馬遼太郎はこんなことを言っている。「男子は、酒間では常に独り醒めている必要がある」。現在進行形の潮流や思想に酔うのではなく、長大な人類史にヒントを求め、豊かな社会科学の知識を武器に醒めた視線を投じる必要がある。

バッティングで目の位置を動かさぬためには運動の「軸」を作らなければならない。陸羯南の「ジャーナリストは道理をその主人とするべきだ」という言葉に鑑みれば、自らのよって立つ「道理」を磨き、知性を備えて「軸」を作ることは、動く時代の記録者としての責務であると言えそうだ。


反省
…野球の書き起こしと帰結がいらなかった
…技術的な力は自然に滲ませるものであり、見せようとしてはいけない
…結論で野球の軸と、陸羯南のセリフという二要素が混ざって、まとまりのない文章になった

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作文7「政治とカネ」

政治とカネ
55分、715字

「政治とカネ」をめぐる問題は、今日まで幾度となく繰り返されてきた。最近の例では、みんなの党の渡辺喜美元代表や、元東京都知事の猪瀬直樹氏をめぐる出来事が記憶に新しい。両者ともに激しい批判の中、政界から姿を消した。

「汚職」という表現がある。本来ならば公のために尽力すべき地位を利用して、私腹を肥やすことを言う。まさに「職を汚す」行為であり、それは「職」への信頼、この場合は政治家一般への信頼意を失墜させるものだ。

他方、「政治にはカネがかかる」というのも事実である。渡辺氏の件にまつわる特集記事を見ると、党のためにあちこちに頭を下げて厳しい資金繰りを乗り越えようとする様子が浮かび上がってくる。政治家は本来、人一倍の情熱が求められる職業のはずだ。どこで歯車が狂ったのか、と思わざるを得ない。

「クリーンな政治」と人は簡単にいう。だが、実際の政治は様々な関係者・団体の間で行われる容赦ない利害調節の場であり、血で血を洗う権力闘争の世界だ。政治は誰かの利益・不利益から無縁でいることはできない。

司馬遼太郎によれば、大抵の場合、人は「利益」と「大義」の二つによって動くという。「大義」のみで機能する「クリーンな政治」は、机上の空論でしかなさそうだ。

中公新書から出た「田中角栄」では、彼の没落の原因となる「政治とカネ」について、こんな解説がされている。「学歴も出自も無かった角栄にとって、カネは政界を渡り歩くための唯一の武器だったのだ」と。

「政治とカネ」は、単なる政治家個人よりも、もっと深いところに根差したものだ。「大義だけでは動けない」「利益がないと動けない」、そんな人間一般の悲しき悪性に由来するものであるという認識が必要である。

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203.フェルマーの最終定理 (サイモン・シン)

17世紀、ひとりの数学者が謎に満ちた言葉を残した。「私はこの命題の真に驚くべき証明をもっているが、余白が狭すぎるのでここに記すことはできない」以後、あまりにも有名になったこの数学会最大の超難問「フェルマーの最終定理」への挑戦が始まったが…。天才数学者ワイルズの完全証明に至る波乱のドラマを軸に、3世紀に及ぶ数学者たちの苦闘を描く、感動のノンフィクション!

今回は数学ノンフィクションという、聞きなれないジャンルである小説に手を出してみた。数学はもともと(苦手だったが)嫌いではなかったし、何といっても評判が良いので、読むこと自体にそれほど躊躇うことはなかったと思う。

内容はあらすじに書いてある通り。
「3以上の自然数nに対して X^n+ Y^n= Z^n を満たす自然数X,Y Zは存在しない」。
非常に単純に見えるこの命題の証明の前に、人類最高峰の頭脳たちは358年間も屈服させられてきた。この本はフェルマーの最終定理に挑んだ数多の学者たちの苦悩と、それがワイルズによって終止符が打たれるまでの軌跡を辿った物語である。当然、僕のように数学の素養のない者でも読めるように書かれている。


▽何のための小説か
本を振り返るときに重要なのは、「何のためにその本が書かれたのか」という視点であろう。「フェルマーの最終定理」のような専門的に見えかねない小説では、それを改めて考えることの重要性はいや増す。

「フェルマーの最終定理」はなぜ書かれたか。
世界で最も困難な証明の内容を世間に知らしめるためか。違う、その証明は一握りの数学者にしか理解できないほど難解だから世間がそれを理解することは到底期待できないし、だいいちそれなら証明に目を通せば良いだけの話だ。実際、この本では具体的な証明内容に踏み込むことはあまりなかったと言っていい。
数学の楽しさを伝えるためか。違う、それなら数学パズルをたくさん取り上げるだけで十分だろう。フェルマーの最終定理を一貫した題材に据える十分な意味にはならない。

「フェルマーの最終定理」は難題に取り組む数学者たちの群像を描くことで、数学に携わる人々の苦悩と喜びを描くために書かれたといえる。主人公は数学でもなければ定理でもなく、あくまで「人」である。
こうした点に依拠すれば、サイモン・シンの小説は単なる「数学についての本」としてではなく、「困難に打ち克つヒューマンドラマの本」として認識できる。そして、この視点は作品における「文学性」を考えるための一つのカギである。


▽作品の「文学性」
村上春樹の「壁とタマゴ」という演説を知っているだろうか。彼が周囲の反対を押し切って「イェルサレム賞」を貰った時の受賞演説である。

彼は現在世界で起こっていることを「壁とタマゴ」で表現した。「壁」は強大なものの比喩であり、それは冷酷かつ無感情にか弱い者たちを犠牲にしていく。村上春樹はこうした強大な存在に対して「システム」という呼称を与えていたと思う。対する「タマゴ」は、壁に立ち向かってはぶつかって砕けていく、か弱い存在を喩えている。
一つ二つわかりやすい例として、戦争における殺戮の「システム」が多くの一般の人を殺していることや、政治の汚職や硬直的な官僚制などの「システム」が本当に困っている人々へ救いの手を差しのべないことなどが挙げられる。

そのうえで村上春樹は、作家はあくまで「タマゴ」の視点に立ち、その味方をするべきであると言った。弱い者、苦しんでいる者に対するまなざしと想像力は、文学にとって欠かせない要素だ。それを改めて強調したのである。
余談だが、僕は高校の現代文の授業でこの演説に接し、なかなか感銘を受けたのを覚えている。大学生になって塾講師をしていたときは、小中学生に「国語で良い点が取りたかったら、優しくなろうとしなきゃいけないよ」と教えていた。苦悩に直面する人に対する優しさを伴った想像力は、文学を楽しむうえで欠かせないものであろう。

少々回り道になったが、その「壁とタマゴ」という文学的な軸からみた「フェルマーの最終定理」はどうなるだろうか。この作品における壁は、まぎれもなくフェルマーの最終定理である。タマゴは、壁に穴をあけようと試みては人生を棒に振っていく、多くの数学者たちであろう。
フェルマーの最終定理の歴史は、無慈悲に砕かれ屈服させられた優秀な数学者たちの血と涙によって彩られている。本では、そんな強大な壁にぶつかっていくタマゴたちの足跡が実に丁寧に解説されている。まさしく文学的視点であろう。
さらに物語の最後には、ワイルズによってフェルマーの最終定理は証明される。諦めの悪いタマゴたちが、ついに壁を突き崩すことに成功するのである。この勝利は極めて文学的な色彩をもっていると言えるだろう。
数学史に残るフェルマーの最終定理の証明はまさに人類の快挙であり、そこにヒューマンドラマを見出したという点で、この小説はやはり「文学」と称されるに値する一冊なのである。


ここからは本の分析というより、自分の思ったことを書いていきたい。


▽数学
大学入試で必要だったので、高校数学はII・Bまで勉強した。一見意味不明な問題に対してプロセスやとっかかりを見つけ解決するという数学の楽しさも、いくつかの得意範囲では味わうことができた。

そんな自分にとっての数学のイメージは、「冷たさ」だろう。論理的な整合性を非常に重視する分野であるし、計算ミス一つで発想がいかに正しくても減点されてしまう。ウェーバーではないが、「鉄の檻」という言葉がしっくりくるような領域だった。厳しくて、かたくて、冷たい肌触りを想起させる。

しかし、この本を通じて自分の認識がいかに数学の浅い部分から来ているかが分かった。最先端の数学は、流動的で生物のようであり、試行錯誤が繰り返され、何より情熱が求められる。
金属の加工に似ている。数学者が新しく確固たるもの(定理)を作る過程は、情熱の炎でドロドロに溶かされたものに形を与えるかのようだ。そしていったん完成されれば最後、不朽の定理として輝きと硬さと冷たさを帯びるのである。数学とはこんな世界なのか、と思わされた。


▽情熱
この本を美しく、興味深くしているのは、数学者たちの飽くなき探求心と美意識に対する情熱であった。情熱とはあらゆるものを生み出す資本である。それを注ぐ対象を見つけた彼らは、幸福だと言っていい。
「数学なんて社会で役に立つのか」という人がいる。「そんなことを追及して何になるんだ」という人がいる。なるほど彼らは正しい。神が死んでいらい、「○○さえすればいい」という絶対的なものはすべて失われた。
しかし、そうしたニヒリズムは彼らの情熱の価値を損ねるものでは決してない。「今や人類が自らその目標を定める時が来た」と言ったのはニーチェである。
抜群の頭脳と情熱をだけでなく、自分の憧れへと一心不乱に突き進む信念も持ちあわせた数学者たち。彼らのフェルマーへの挑戦は、人類最高峰の人々による営みとして称えられるべきだろう。

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作文6「税」


50分、711字

今年四月に消費税率は5%から8%に上がった。経済状況次第では来年10月に10%になると見込まれている。消費税は他の税と比べて目に見えやすく、多くの国民が「増税」を肌で感じている。

思えばその増税が決まったプロセスは、つねに疑問符がつきまとう粗末なものだった。時の民主党政権がにわかに増税論を打ち立ててから、政界が混乱を究めたのは記憶に新しい。

「マニフェストにない」という理由で小沢グループは民主党を離脱し、それを引き金に新党が乱立。運営能力のなさを露呈した野田首相は、破れかぶれの状態で衆議院を解散させた。自然、対抗馬のない自民党が圧勝し、めでたく消費税法の改正が成立。国民は常に蚊帳の外だった。

理論的には、税は政治の根幹である。ウェーバーによれば政治とは「財の権威的配分」であり、その財を集める手段が「税」である。政治はこれをもとに、公共のために働き、官僚を働かせるのである。

政治において税が意味するものは、それだけではない。「代表なくして課税なし」という言葉に象徴されるように、国民の「義務」である納税は国民の政治参加という「権利」の源として考えられるのだ。理論的には、税を国が徴収するならば、国民の政治と行政に対する信頼は絶対的な条件であるはずだ。

しかし、投票率の著しい低下などを見るにつけ、浮かび上がるのは国民の政治不信である。来年にさらなる増税をする前に、この不信は少しでも改善される必要があるだろう。

消費税は、逆進性や中小企業へシワ寄せがくるという問題点を抱えているという。政治家や公務員の「身を切る改革」や、制度そのものの改革も叫ばれている。政府がこれらの課題にしっかりと対応するかどうか、権利者たる国民は注視している。

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作文5「球」


40分、702語

よく間違われる漢字の用法に、「完璧」がある。璧の下の部分は「土」ではなく「玉」である。「完璧」とはスキマのない壁ではなく、傷一つない玉に由来する。

漢字は違うが「球」に発見された欠陥が、日本のスポーツ界を騒がせている。反発係数が規定よりも低くなっていた、プロ野球の統一球問題だ。聞けば、今シーズンは逆に“飛びすぎている”らしい。馬鹿にするな、という声が聞こえる。

プレーの根本をなすボールは、直接選手の記録•評価に関わってくる。低反発球の期間、野球界全体のホームラン数は著しく減少し、防御率一点代の投手が増加した。ボールに慣れようとして調子を崩した選手の話などを聞くと、やりきれない。

野球部に所属し、指導者でもあった立場からしてみれば、考えられぬことだ。「一球入魂」の精神を教わり、後輩に伝えていくのに、「魂を入れるべき」ボールが信用できないというのは、足元の地面が不意に崩れることと等しい。

プロの世界では、なおさらのことだろう。ユニフォームのシワ一本でクセを盗まれ、一センチの誤差で明暗が分かれる真剣勝負の場だ。ボールの欠陥による影響は計り知れない。完璧なプレーを見せるために日々努力を重ねる選手にも、それを応援するファンにも申し訳が立たないではないか。

“たま”にまつわる慣用句には、「珠にきず」というものもある。こちらは基本的に完璧な人物の唯一といっていい欠陥を指す語であり、当該の人物に対して好意的な文脈で用いられることが多い。しかし、厳しいプロの世界における「球にきず」は、多くの人の努力と夢を台無しにするものである。

関係者には今一度、球の「完璧さ」を追求する姿勢を取り戻し、襟を正すことが求められる。

反省
…よくかけていると思う
…5,6段落目が内容がかぶっている

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202.国盗り物語 一~四 (司馬遼太郎)

一介の油売りから身を起し美濃一国を手に入れた斎藤道三、道三の娘婿であり、尾張一国から天下布武を押し進めた織田信長を主人公とした作品。道三が主役の斉藤道三編では美濃一国を手にするまでの争いだったが、信長が主役となる織田信長編では信長編と銘打ちながらも、道三の甥にあたる明智光秀がクローズアップされ、光秀の視点で信長が語られている。クライマックスは天下統一の夢を抱いた道三の相弟子と位置付ける両者が最終的に本能寺の変で激突し、重層的な構造になっている。

▽大好きな作家
大好きな小説の終わりが近づくと、「終わってほしくない」という気持ちが強くなる。同じことが、「大好きな作家の作品群」についても起こる。「燃えよ剣」を読んで司馬遼太郎の世界に魅せられてから約2年半、この「国盗り物語」をもって、彼のほとんどの著作を読み終えることになる。気付けば新潮文庫の巻末に並ぶ著作紹介も、二つほどエッセイ集を残してすべて読んだことのある作品になっていた。

馬鹿馬鹿しいような感情的な理由から、ずっと「国盗り物語」を敬遠していた。読めばまた一つ、自分にとっての司馬遼太郎の「新作」が減ってしまうと思っていたのである。
本好きな人というのは頭脳明晰で論理的な人が多いのではないかというイメージがあるが、実際はこんなものなのではないか。むしろこういう論理の器に収まりきらないほど感情の豊かな人にこそ、人生の答えを本の中に求めることが多そうなものだ。

さて、雑談はこの程度にして、さっそく物語の分析に入っていきたい。

なお、この書評は書いている途中にちょっとした発見があった。前半と後半で内容が少しずれるが、それはそのためだと思っていただきたい。もちろん、両方とも興味深い議論である。

▽「英雄」という化け物

戦国の英雄というのは奇妙な信仰を心のどこかにもっていて、自分を地上にくだしたのは天であるとおもっていた。

前篇と後篇に分かれる「国盗り物語」であるが、主要なテーマの一つは、「英雄」という化け物の世界について描写することであった。

この物語は、三人の「英雄たらんとする人物」が出てくる。
一人目は、「蝮の道三」こと斎藤道三。
二人目は、織田信長。彼だけが「英雄」になることに成功している。
三人目は、その信長を斃した明智光秀。

前篇では斎藤道三を主人公に据え、司馬はここで「英雄」像を固めていく。
後篇では織田信長と明智光秀を「道三の相弟子」と位置づけた上で、本能寺の変における両者の最期までを描くことで、「英雄」とは何かという問いに答えを出していくのである。

ここで、「英雄とは何か」について考察していきたい。


▽英雄に必要なもの:才器

「国家有事のとき、無能と旧弊と安逸主義こそが悪だ」

英雄は有事のときに現れ、時代を先導する。
だから、その大前提として優れた才能を持つ人間でなくてはならない。引用文とは真逆の人間こそ、「英雄」と呼ばれるにふさわしい。
最初の主人公である道三は、武芸から戦術眼、教養まで全てが優れている人物として描かれた。そのすべてを駆使して、彼は国盗りを行ったのである。
彼はその教養と思想、武芸を信長と光秀に託している。二人が「相弟子」と表現される所以である。


▽英雄に必要なもの:自負

「どうだ、わしを百年だけは生かしておけ。わしがこの国に生きたがために後世の歴史がかわる。なんと、楽しみではないか」

器量があるだけではなく、英雄は強烈な自負心がなくてはならない。それこそが、彼らを英雄的な行為・目的に邁進させるからだ。「自分は時代の必要によって生まれた」という証明不能の、彼らにとっては自明の意識が、手段を択ばない革命的行為を可能にさせるのである。

▽英雄に必要なもの:破壊

庄九郎の道徳ではそのためには、いかなることをしてもよいのである。旧来の法をまもり、道徳をまもり、神仏に従順な者が、旧秩序をひっくりかえして統一の大業を遂げられるはずがない。

次に必要とされるのは、旧弊をぶち壊す「破壊者」としての素質である。
道三と信長にその色が濃い。彼らは旧来の価値観や道徳を否定し、その上に新しい秩序を作り上げようとする。伝統的なものや懐古趣味に対する激しい憎悪を持っている。

これと対照的なのが光秀である。彼はその青春を「幕府の再興」へと傾けるなど、旧来のものに対する尊敬を忘れない人物として描かれている。歌や茶を楽しみ、神仏を尊び、思想が深い。そのために信長は彼を起用しつつも、どこかで常に「気に入らない」という感情を抱き続ける。秩序を愛する者と憎む者が相容れないのは当然のことであろう。


▽英雄に必要なもの:運
これらの諸条件が揃ったうえで、最後に英雄とそうでない者を分けるのは運である。
司馬遼太郎は「運」という要素を重視することが多い。「坂の上の雲」で東郷平八郎が司令官に抜擢されたのも運があるからだと書いているし、太閤記でも英雄になれるかどうかの決定的条件は運であると書いていた。

運、というのは難しい。
やってみなければわからないものであるからだ。
どんな器量人も死力を尽くして戦ったあとは、天運にゆだねるしか仕方ない。神がかり的な運を持つ人間でなければ、英雄にはなれない。

道三は運を持ち合わせていたが、生まれが国主でなかったために、美濃一国を掌握したところで生涯を閉じた。生まれの運がなかった、と言ってよい。光秀は有能だったが、その人生にはつねに悲運がつきまとっていた。
そう考えると、「国盗り物語」で運を持ち合わせていたのは信長ただ一人だったということになる。彼は生まれもよく、苦境に陥っても必ず幸運が舞い込んできていた。四面楚歌で一番苦しい時期に敵の中心である甲斐の武田信玄が没したことは、その象徴的な出来事であろう。

かれらはすべて非業に死んだ。道三と光秀にいたっては、死後の悪名まで着た。
司馬の何気ないあとがきの一節だが、「英雄とそうでない者」を分ける厳しさを如実に表している。
信長の方が道三と光秀よりも残忍な性格を持っているにも関わらず、彼のみが「英雄」として後世から称賛されるのはどうしたことだろう。反面、こういうところに「英雄」の持つ底知れぬ力が感じさせられる。


▽「国盗り物語」の本当の主人公
「国盗り物語」は司馬遼太郎の代表作とも言われる。いくつ代表作があるんだ、という話にもなりそうだが、確かにこの小説にはどこか文学的な美しさがある。

英雄たらんとする志をもった道三が、権謀術数を用いて一国の主にまで上り詰める。彼は英雄なるものの典型を一から築き上げるとともに、それを二人の人間に継承させる。娘婿の信長と、甥の光秀である。
二人は道三が追及した「英雄」の素質を十二分に引き継ぎながらも、対照的な性格を持ち、対照的な運命を歩んでいく。やがて時勢が信長へと傾くにしたがって光秀は彼の傘下に入り、二人は天下布武に向けて道三から受け継いだ天才を働かせる。そして道三の夢であった統一がなされようとする寸前、光秀は信長に挑戦し、二人ともに命を絶つ。

物語を俯瞰すると、光秀と信長は「道三の亡霊」のように思えてくる。二人は道三の分身であり、天下を治く「国盗り」が遂げられようというところで、時代から消滅する。


主人公が前篇と後篇で変わる「国盗り物語」。それを分析するため、彼らを貫いていたものを抽出して考えてみたい。この小説の真の主人公はだれか、ということだ。

というのも、書きながら気付いたことがあるからだ。
この物語の主人公は道三でもなければ信長でも光秀でもなく、「国盗り」という野望なのだということである。

作品の中で主人公の「国盗り」は生成され、受け継がれ分裂し、手を取り合い、最後に相殺されて「終わり」を迎える。文学として「国盗り物語」が優れていると考えられるのは、この視点から見れば明らかだろう。クライマックスの本能寺は信長と光秀の決着であると同時に、「国盗り」という思想の総決算でもあったのである。
今になってやっと、この作品の美しさが分かった気がする。


◆気に入ったフレーズ
・物乞いはするが、将来に望みはもって生きておる。一椀の望みで夢をうしなうようなやつを、乞食とはいうぞ。

・真実の悪人とは、九天に在す諸仏諸菩薩のごとく荘厳きわまりないものだ。

・知識とはあたりまえのことを眼と手で知ることだ。

・おれには志がある。余計な女は抱かぬ。

・野望家は、その本心、つねにこどものように無邪気だ。

戦国の英雄というのは奇妙な信仰を心のどこかにもっていて、自分を地上にくだしたのは天であるとおもっていた。

・人の世は舞の手の間のようなものじゃ。この待っている人呼吸の間で、吉左右がわかれていく。

庄九郎の処世観では、世の中はやると待つの二つしかない。

・目的があってこその人生だと思っている。生きる意味とは、その目的にむかって進むことだ。
そのために悪が必要なら、悪をせよ。
善が必要なら、それを駆使するがよい。

駈けて駈けて、それがおれの一生だ。蹄はアリがつぶされようと犬が蹴殺されようと、かまうものではない。念仏は弱者がとなえよ。

人間、思いあがらずになにができましょうか。

・庄九郎は、「将来」というものへの強烈な信者である。

・「あれは祈ったのではない。神仏に命じたのだ。」

夢想家というのは、いつも縁側にいる。
街道にいる者だけが、事を成す者だ。


・庄九郎の道徳ではそのためには、いかなることをしてもよいのである。旧来の法をまもり、道徳をまもり、神仏に従順な者が、旧秩序をひっくりかえして統一の大業を遂げられるはずがない。

・世に、仕事ほどおもしろいものはない。

・(馬鹿も集団になると力だ。それをわすれていた)

・「生死をわすれ、我執を去り、悪縁を切りすて、ただひたすらに生涯の大事をおこなうのみだ」

・「国家有事のとき、無能と旧弊と安逸主義こそが悪だ」

巨大な事業慾ほど、巨大な厭世観がつきまとうものだ。

「人の世にしくじりというものはないぞよ」

・革命家にとって、目的は手段を浄化する。

・「善の中に悪あり、悪の中に善あり、悪因悪果をひるがえして善因善果にする者こそ、真に勇気、智力ある英雄というわい」

見えざる人の悪罵をあれこれと気にやむような男なら、行動が萎える。

・死にむかって駈けていく途中の教育ほど、骨身に沁みるものはない。

・英雄豪傑といった変人格は、安定した社会が必要としないからだ。

・人生、自分の才能を発見するほどの愉悦はない。

・夢も見られぬようなやつにろくなやつはない。

・「善人とか悪人とかいわれるような奴におれはなりたくない。善悪を超絶したもう一段上の自然法爾のなかにおれの精神は住んでおるつもりだ」

・「どうだ、わしを百年だけは生かしておけ。わしがこの国に生きたがために後世の歴史がかわる。なんと、楽しみではないか」

「時代のみがわしの主人だ。時代がわしに命じている」

・好かれるということは、生きられる、ということのようであった。

・愛嬌のある仔犬よりも、猛毒をもった蝮のほうが、風雲を叱咤するばあい、うまくゆくであろう。

・「喧嘩のコツは、やる前におのれはすでに死んだ、と思いこんでやることだ」

「おれが馬鹿か、世間が馬鹿か、これは議論をしてもなにもならん。おれのやりかたで天下をひっくりかえしてみてから、さあどっちが馬鹿だ、と言ってみねばわからぬ」

この男はじつは怒りっぽい。しかし思慮のほうがはるかにふかい。

・「いくさは利害でやるものぞ。されば必ず勝つという見込みがなければいくさを起こしてはならぬ。その心掛けがなければ天下はとれぬ」

「くだらぬ双六だったと思うか」
「さあ」
「人の世はたいていそんなものさ。途中、おもしろい眺めが見られただけでも儲けものだったとおもえ」
「左様なものでござりますかな」


・防ぎには、勝負のたのしみがない。

・「男を酔わしめるものは、胸中に鬱勃と湧いている野望という酒だ。わしはつねにその酒に酔ってきた。いまも酔っている」

・信長には、稀有な性格がある。人間を機能としてしか見ないことだ。

・「野望というものは、一種のおかしみのあるものだな」

・「寸尺の地に住んでいても海内を呑む気概がなければ男子とはいえまい」

・「うそはうそで命がけでいく人でございましたから、騙されているとわかっていても、それがえもいえず楽しゅうございました。」

・「弾は、わしを避けてゆく。わしには弾も矢もあたらぬ」

・「将軍というものは、よほどの器量人か、よほどの阿呆の君でなければつとまらぬ職だ。その中間はない」

・愛されすぎては、
「威権」
ということが立たない。

・世の常の武将なら利害の打算だけで行動するのである。光秀にはつねに形而上の思案があった。さんざん観念論をこねたあげく、結局は世の常の武将とおなじ利害論に落ちつくのである。

・運は、つくるべきものだ。

・気が病みきったときは、すでに思考は停頓するものなのであろう。

世が統一にむかいつつあるときは人は秩序を思い、秩序をおもうときにはそれを維持する道徳を思いこがれる。

・老ノ坂をくだってゆく光秀は、革命家でもなければ武将でもない。自分の生命を一個の匕首に変えて他の生命へ直進する単純頸烈な暗殺者であった。

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作文4「山」


60分、550字

イギリスへ一年間留学した時に、改めて日本における山岳の多さを思い知らされた。ロンドンは建物が一般的に低いのだが、日本ではあって然るべきであった「山」が、街並みの向こう側に見えないのである。

その留学中、スイスへスキーをしに赴いた。アルプスの絶景が、斜面を滑るときに常に視界に入ってきた。景色を楽しむ一方で、「ここに住むのはさぞ大変だろう」と思ったのも事実である。

山、川、海といった存在は、人々の営みを大きく規定する。民俗学によれば、住みついた自然環境によって、その民族性は大きく左右されるという。例えば、自然災害の多い日本などに住む人は、一般に忍耐強いとされる。

人は生まれながらにして平等でその才に応じて自己を表現できる、という建前も、自然の絶対性の前では無力に見えてくる。司馬遼太郎の作品には、この制約の前で涙を呑む主人公が多い。彼らはいう、「生まれた場所さえ違ったならば、天下を獲れたものを」と。

山は、人々の前に絶対的なものとして立ちはだかってきた。司馬遼太郎はいう、「人間は、生まれた場所によって一生が左右されるという意味で、植物に似ている」。思えば、山以外にも、一人の生涯を前に山のように屹立してくるものは余りにも多い。留学で各地を見て養われたものは、そんな他者の環境に対する想像力であった。


反省
…構想に時間を練りすぎた
…“山=人を縛る環境”という抽象化に失敗している
…結論がない

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