
「おのれッ!上野介――」
上野介の額が割れ、江戸城内松の廊下に血が飛び散る。浅野内匠頭の手には、刀が握られていた。指南役として仰いでいた上野介の執拗な嫌がらせによってたまっていた憎悪が、ついに理性を突き破ってしまったのだ。
しかしその瞬間、赤穂五万三千石は音もなく崩れる。国許に届いた報せは、内匠頭の即日切腹。処罰に納得がいかない赤穂浪士達は、内匠頭の無念を晴らすために立ち上がった。
司馬遼太郎の歴史小説をほぼ読み終えてしまったので、現在新しい歴史小説家を模索中だ。しばらくは吉川英治を漁っていこうかなと思う。
▽歴史小説から得るもの
歴史小説を読むときに、いつも念頭に置くのはデカルトのこの一節である。
歴史上の記憶すべき出来事は精神を奮い立たせ、思慮をもって読めば判断力を養う助けとなる。
読者が歴史小説から得るものを、端的に表している。特に赤穂浪士による「忠臣蔵」が今なお燦然と光を放ち続けているのは、ひとえに彼らの生き様が読み手の精神を強く揺さぶるためだ。
▽美意識
"血も、雪も、刃も、眸も、すべてが、さむらいの道にみがきあげられてきた人道最高の道徳の華だった。"
一般的な物語では、登場人物が作用反作用を繰り返すことでクライマックスへと導かれていく。その作用のベースとなるのは、誤解や謎、怒り、打算などだ。
この忠臣蔵の登場人物たちを貫いているのは「武士道」という美意識、倫理観である。47人の赤穂浪士はもちろん、上野介方の武士たちもみな美意識に殉じるために胸を張って生き、胸を張って死んでいく。義士としての念願を果たす側も、臍を噛む側もみな美しい。その輝きが、時代を越えて人びとの生きる道を照らしている。
物語を振り返ってみる。
家臣を怒らせたのは、内匠頭の切腹に対して上野介は恩赦という「喧嘩両成敗」の原則に反する措置だ。この裁断によって、上野介は赤穂義士の主の仇となる。
しかし、考えてみれば家臣を実に路頭に迷わせたのは、内匠頭その人の行動にある。小説の後半に語られるが、主の倫理は一個人の倫理とは重ならない。主は自らの義憤よりも、家臣たちの幸福を第一に考えて動かねばならない。そういう前提の下で、家臣は主についていく。内匠頭が自らの誇りのために斬りかかったことは、その前提に対する裏切りでもあった。現代的に言えば、社会契約を破ったことになる。
内匠頭の逸った気持ちのために、扶持を失い、路頭に迷った赤穂浪士たち。それでも亡き主のために残りの人生の享楽を棄て、仇討を成し遂げようという者だけが残り、上野介の屋敷に討ち入った。それが47人(46という説もある)。濁りのない、蒸留の過程で取り出された結晶のように純粋になった集団が、歴史にその美を刻んだのである。
▽臥薪嘗胆
"今日まで内蔵助から離れずにいる連中は、皆、死を楽しんでいることだ。怖ろしいことじゃないか。これ以上の強敵はあるまい。"
復讐のためにあらゆる苦しみを耐えることをさす、臥薪嘗胆という故事成語がある。この物語の型はまさに、臥薪嘗胆を乗り越えたサクセスストーリーである。
万が一にも仕損じれば、死んだ主の顔に泥を塗ることになる。吉良方も復讐を警戒して手練れの武士を屋敷の警護につけている。だんだん深刻になっていく困窮が、彼らをじりじりと焦らせもする。彼らの眼前にあった困難は並ではない。
加えて、忠臣蔵と一般的なサクセスストーリーの最大の違いは、成功が現世的な幸福・利益を意味しないという点である。
彼らの成功はすなわち、国法を破ることを意味していた。自らを路頭に迷わせた主の仇討のために彼らは家族と離れ、資金難と屈辱の中に身を置き、そして念願を果たした暁に、腹を切って死ぬ。武士道という美意識に殉ずるために、彼らはこの割に合わない役割を嬉々として引き受ける。
安逸な生活ならいくらでも出来るのに、あえて厳しい、死へと続く道を選ぶ。この選択に全く理解を及ぼすことができない人には、命をつかうことはできないであろう。命は使うものである。命を永らえるためだけの人間になってはならない。
"朽ちない生命となるか、一片の枯れ葉にすぎない生命で消えるか。人、思い思い、その選ぶがままに極めるしかない。"
▽時代背景
"彼らは、雪にかがやく、人間の姿を見、正しく、犬以上のものである人間を発見した。"
吉川英治は、当時の五代将軍綱吉による「生類憐みの令」を引くことで、物語の奥行きを加えている。
政令によって「お犬様」は街中を大きな顔で闊歩するようになり、人間は畜生以下に成り下がった。この現状が、人々に「人間とは何だったのか」という問いを投げかけていたという。
著者は人間が自信を無くした時代に起こった「忠臣蔵」を、単なる仇討の物語に終始させていない。
人間には動物にはない倫理観と美意識があり、時にそのために命を投げ打つこともできることを、彼らの姿を通じて強調するのである。
一個の生命体である人間の内部には、生活の論理と倫理の二つが横たわっている。時に人間は、倫理によって前者を犠牲にすることさえできる。これが人間の持つ「内面の自由」であり、人間を貴い存在にさせているものである。
▽サムライというもの
サムライを描いた小説の中で僕が一番好きなのは、河井継之助を描いた司馬遼太郎の「峠」である。
そのあとがきで、司馬はこう語っている。
明治後のカッコワルイ日本人が、ときに自分のカッコワルさに自己嫌悪をもつとき、かつての同じ日本人がサムライというものをうみだしたことを思いなおして、かろうじて自信を回復するのもそれであろう。私はこの「峠」において、侍とはなにかということを考えてみたかった。
生きている限り、人は自らのちっぽけさに悩まずにはいられない。世の中にはあまりにも多く、人間より強いものが生み出されてしまった。
単なる金持ちや社会的強者だけではない。社会学の領域を繙けば、一人の人の価値を低める"大衆"や"都市"の現出、形式と合理性の支配によって人間性を排除する"鉄の檻"など、人間をすり減らしていく概念が次々と出てくる。豊かな日本のブラック企業は従業員を"替えがきくもの"として使いこなし、その地球の裏側では匿名のまま死んでいく多くの命がある。
こんな情けない人間の時代だからこそ、人びとはその心にサムライを必要とする。
かつて美意識に殉じ、あらゆる困難を克服したサムライがいたという事実、それに気付くだけで、人は何よりも偉大になり、どんな束縛からも自由な存在へと昇華できる。カッコワルイ人間の精神を奮い立たせ、胸を張らせてくれる。だからこそ、忠臣蔵をはじめとするサムライの物語は、今日も語り継がれていくのである。
◆気に入ったフレーズ
・赤穂武士は、赤蓼武士じゃ、そうありたいのう。
・白い刃は、水玉をちらして、三十五年の生と、永劫の死との間を、通りぬけた。
・正道を踏むとは、その立場に揺ぎや誤魔化しのないことを云うのだ。
・至難なのは、目的の達成ではない。見通し難い人間の心のうごきだ。
・今日まで内蔵助から離れずにいる連中は、皆、死を楽しんでいることだ。怖ろしいことじゃないか。これ以上の強敵はあるまい。
・血も、雪も、刃も、眸も、すべてが、さむらいの道にみがきあげられてきた人道最高の道徳の華だった。
・笑わせておく所にも武門の大義がござります。
・彼らは、雪にかがやく、人間の姿を見、正しく、犬以上のものである人間を発見した。
・意義と、生きがいを摑んでこそ、生きのよろこびは、その人間に無上に楽しいにちがいない。
・朽ちない生命となるか、一片の枯れ葉にすぎない生命で消えるか。人、思い思い、その選ぶがままに極めるしかない。
・どっちでもいい、向いた方へ、衝き抜いて生きてゆかなければ嘘だぞ。
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本書はニーチェ発狂の前年に成った最後の著作である。"この人"とはニーチェ自身を指し、本書では自らの著作と思考の全体について、彼が時代とどう対決し、個々の著作はどういう動機によって書かれたかが、解明される。価値の根本転換を説くニーチェの思考の到達点が簡明に語られているので、ニーチェ最高の入門書として、また風変わりな自伝としても読むことが出来る。
「分からないことは書けない」というのがゼミの先生の教えだったが、いま僕はそれに背いてパソコンの前に座っている。昔からものを書くことが大好きでそれを苦に思ったことはほとんどないのだが、「分からないことを書く」ことだけはどうしても好きになれず、逃げ出したい気持ちになる。
今回がその「分からない」まま書くという状態だ。「この人を見よ」という声に従って目をやった先にいたのは、人間であって人間でない、僕に何かを伝えようとしているようで伝える気などさらさらない、という奇妙極まる人だった。
▽読めない
読書とは著者との対話に例えられる。
著者は何か伝えたいものを持っていて、それを小説にせよ論文にせよ、何らかの形で伝えようとしてくる。対する読者はある程度の理解と、それに基づく批判などをしていく。
この基本的な構造が崩れているのが、ニーチェの著書だ。彼は人類史的な偉業を遺すために本を書いたが、人類に理解してもらおうとは思っていない。むしろ、解されることを恐れている。
読者の理解に対して著者が拒絶するとすれば、いきおい「読む」というコミュニケーションの一形態は成立しえなくなる。だから、普通はニーチェの作品は読めない。対話をする気がない人と話し合いを試みても無駄なのと同じである。
自らの思索を誇る気持ちと、常人に理解されてはたまらないという気持ちとが交互に表出してくる。読者は折々しっぽを掴んだような気になるが、その都度ニーチェに撒かれてしまう。
"私は決して大衆相手には語らない。……いつの日にか人から聖者と呼ばれることがあるのではないかと、私はひどく恐れている。"
"私を多少とも理解したと思い込んでいる人は、自分の姿に合わせて、私を適当に拵えあげているまでだ。"
"だれでも読めるが、だれにも読めない書物"(「ツァラトゥストラはこう言った」の巻頭句)
▽魅力の源
では、なぜそんな崩壊した書物に人びとは魅力を感じるのか。
まず、「分からない」という性質が人を惹きつけているだろう。
ミステリアスとでも表現すればいいのか、良いほうに意味不明なのだ。ツァラトゥストラの記事で僕は「魅力的」「読んでよかった」などという言葉を添えたが、あのときはなぜ自分がそう感じたのか分かっていなかったと思う。
"私は最初のインモラリストである。それゆえにこそ卓越した破壊者でもある。"
「この人を見よ」で改めて感じたのは彼の根底に大きく横たわる拒絶と狂気であった。
彼は人から恨まれたことはないと言い張る一方で、すべての人間を拒む酷薄さを欲しがっている。それこそ「新たな価値の創造者」の条件だと考えてのことだ。そのためか、ニーチェは読者の視線に対してどう振る舞うべきか定められずにいる。翌年に発狂が迫る彼の精神状態も、その不安定さに拍車をかけている。
たとえ相手に伝える気がなくとも、おそらく彼には普通の人に見えない何かが見えている。彼の拒絶と狂気は、その確信とミステリアスさを強調してみせる。こうして彼は多くの「普通の人」を惹きつけることになる。
また、彼が「超人」に至った考えられることも、その魅力の根源の一つである。
超人とは人間を克服した存在であり、ツァラトゥストラでも一貫して語られる思想だ。神の死んだ世界で己の運命を愛し、新しい価値を創造していく。彼の唱える「超人」は、人であり人ではない。
超人たる彼は著作の中で徹底して「人類より上の存在」というスタンスをとりつづけている。
この本を書いた翌年に発狂したというのも、その立場を補強する要因となる。ドストエフスキー「白痴」のムイシュキン侯爵を想起させる。彼は「完璧に美しい人間」であったが、それ故に「人間社会に存在しえないもの」の象徴として白痴に戻った。ニーチェの超人思想はあらゆる善を否定し破壊する点で侯爵とは対蹠的だが、その彼の発狂にも「人間社会に存在しえないもの」という意味合いが付随しているように見える。
要するに、ニーチェの思想は①ミステリアスで容易に知りえないという確信と、②人間を超えた「超人」のそれであるという確信の二つを読者に持たせることで、彼らを惹きつけている。
彼の著作はいまだに多くの読者を魅了している。なぜなら、人類はまだ人類を克服していないからである。
彼の本は「読み物」だと思わない方が良い。思想を伝えるものというより、証明を要するテーゼに近いだろう。僕が思うに、天才数学者が残した難問に対して後世の数学者が競って証明を試みる、あの構図に似ているのである。
▽雑記
なんとなく、今回はいつもより少し気を配って文章を書いた。
本当はニーチェの「読書観」など言及したいテーマはいくつかあったのだが、首尾一貫した綺麗な記事にするには、この辺で打ち切った方がよさそうである。どこかで余裕があったら書きたいと思う。
「この人を見よ」を通じて感じたのは、ニーチェという思想家の魅力の秘密であった。それを自分なりに分析した記事として、今回はここで終わりにしたい。
あいにく、親から送ってもらったニーチェの著作はこれでお終いである。
日本にいたら、次に「善悪の彼岸」に手を出していたと思う。キリスト教圏における神とは何なのかという問題意識のもとで、聖書も読むことにしただろう。次に注文するときは忘れないようにしたい。
さて、ブログで197個めの記事となり、200記事まで残すところ3記事となった。
その三作の予定は以下のとおりである。
198.新編忠臣蔵 (吉川英治)
最近は海外文学や哲学に重点を置いていたので、息抜きのつもりで読みたい。久しぶりの時代小説である。
199.戦争論 (クラウゼヴィッツ)
外交や戦争を論じるうえで欠かせない古典中の古典。200作目への布石でもある。
200作目は…
書こうと思ったが、秘密にしておく。楽しみにしておいてほしい。多分その前に当てられてしまうと思うが。
◆気に入ったフレーズ
・私はさまざまな理想が存在することを否定しようとは思わない。私はただそれらに出会うと手袋を填めるだけである。
・乱暴とは抗議の最も人間的な形式である。
・神はとどのつまり、「貴方がたは考えてはならない!」とわれわれに向け発せられた一つの大づかみな禁止令にすぎない。
・われわれがこぞってこわがっているのは、真理に対してなのである。
・多くを見ない、多くを聞かない、多くを身辺に近づけないーーこれこそが賢明な第一の策である。
・朝、一日がしらじらと明け染める頃、あたり一面がすがすがしく、自分の力も曙光と共に輝きを加えているとき、本を読むことーーこれを私は悪徳と呼ぶ!
・遊戯こそは偉大さを示すしるしであり、その本質的な前提の一つである。
・私はこれら「一流」と称せられる連中を一流どころか人間の中にさえ数え入れていないのだ。
・運命愛である。すなわち、何事も現にそれがあるのとは別様であって欲しいとは思わぬこと。必然を単に耐え忍だけではないのだ。
・人はしっかりと自己の上に腰を据えていなくてはなるまい。
・すなわち愛とは、その手段においては戦いであり、その根底においては両性間の命がけの憎悪である。
・不死不滅であるためには、人は生きながら幾度も死ぬこととなる。
・創造する者はおしなべてみな酷薄である、という最奥の確信、これこそがディオニュソス的天性を持つ者の本来のしるしであるといえる。
・私は最初のインモラリストである。それゆえにこそ卓越した破壊者でもある。
・私を多少とも理解したと思い込んでいる人は、自分の姿に合わせて、私を適当に拵えあげているまでだ。
・善人たちの及ぼす害こそは、最も害のある害である。
・いつの日にか人から聖者と呼ばれることがあるのではないかと、私はひどく恐れている。

196.ツァラトゥストラはこう言った 上下 (ニーチェ)

"いまや人間がみずからその目標をさだめるべき時がきた。人間がその最高の希望の芽を植えつけるべき時がきた。"
晩年のニーチェ(1844-1900)がその根本思想を体系的に展開した第一歩というべき著作。有名な「神は死んだ」という言葉で表されたニヒリズムの確認からはじめて、さらにニーチェは神による価値づけ・目的づけを剥ぎとられた在るがままの人間存在はその意味を何によって見いだすべきかと問い、それに答えようとする。
今回取り組んだのは、ニーチェによる「ツァラトゥストラはこう言った」。
高校の倫理で「エイゴウカイキ」やら「チョウジン」やらを何となく暗記していたことを考えると、数年後のいま、この本にメスを入れようとしているのが不思議に思えてくる。
▽物語の素描
全人類をいままで支配してきたものは、荒唐無稽なものである。すなわち無意義である。
まず、ニーチェの思想へと入っていく前に、どういう物語なのかを説明する必要がある。
上にも見るように、ニーチェはその思想の根本に「ニヒリズム」を据える。
日本語では虚無主義とも訳され、「この世界には本質的な意味や真理など一切存在しない」という立場のことを言う。
僕より上の世代だったら、「ニヒルな奴」という言い方があっただろう。斜に構えて、妙に醒めている、そんな人を形容する場合に使う。あらゆるものに絶対的な価値を認めない考え方に由来する態度である。
物語の冒頭で、ニーチェはニヒリズム的な事態を引き起こす。
「神は死んだ」
有名なこの一言によって、キリスト教的な価値体系に支配されていた社会の秩序、美徳、善悪などがすべて無に帰す。「神の下の平等」も「神から与えられた人間固有の権利」も、「天国」も「地獄」も「悪魔」でさえも。全ては人間の妄想の産物だった。「神の死」の宣言は、そのままあらゆる存在の意味に対する死刑宣告となる。
一種の「パラダイム・シフト」(ある時代に支配的だった考え方が変容すること)と表現することも出来るだろう。ただし、これは宗教改革から数世紀遅れた著作であるから、その衝撃の大きさついては、結論を急ぐべきではない。
そんなニヒリズム的な世界の中で、主人公ツァラトゥストラが奮闘をするのが、この物語である。
▽「最強の肯定」
この世を永遠に、常に、愛しなさい!
では、あらゆる意味を剥ぎとられた世界で、ニーチェはツァラトゥストラの口を借りてどう語るのか。
先に結論を言ってしまうと、そこで見られるものは人生に対する「最強の肯定」であった。
ニヒリズムと言えば、冷めていて、根暗で、意志薄弱な感じを想起させがちだ。さらに、ニーチェが晩年発狂したという事実も、この想像に拍車をかける。
「あらゆるものに価値を見いだせないあまり、生きることさえ嫌になってしまったのだろう」。
こうした連想は非常に腑に落ちやすいし、感覚的な説得力も持つ。
しかし、そうではない。読者の人には、ぜひこのことだけは、分かっていただかなければならない。
wikipediaを参照すると、ニヒリズムには二つの出口があると書かれている。
a.人生に絶望し、流されるように生きる(消極的ニヒリズム)
b.すべてが無価値であるということを肯定し、自ら積極的に「仮象」を生み出し、一瞬一瞬を精一杯生きる(積極的ニヒリズム)
ニーチェが主張するのは、b.の積極的ニヒリズムだ。
本の中でニーチェは人生を力強く賛美し、運命を敬慕する。どんなに虚無的な考え方に対しても、それは断じて挫けない。僕が「最強の肯定」と勝手に名付ける所以である。
超人、永劫回帰といった語も、こうした文脈の中で理解される必要がある。
人間について「汚れている」「嘔吐をもよおす」などとさんざんこき下ろした挙句、それでも人間に対して自らを克服し、超人となることを要求する。
ありとあらゆる「否定」の先に、人間や人生に対する「最大の肯定」が待っている。この構図は、読者に少なからぬ感動を与えるものだ。
▽感想
これ以上の解説は記事を冗長にするだけなのでやめておく。
ニーチェの思想について詳しく知りたいのであれば、倫理学や哲学の教科書を見れば分かりやすく書いてあるはずだ。
とにかく、僕がこの本の中に「最強の肯定」を見つけたということさえ分かってもらえれば、この記事を書いた甲斐があったと思う。
思っていたよりも楽しく読めて、嬉しく思う。
特に、ニーチェの箴言の数々に浸れる刺激的な読書だった。
ブログの記事の最後に気に入ったフレーズを沢山貼っておくので、ぜひ見ていただきたい。どれもこれも、簡潔でありかつ独自の切り口を持ち、そして根底のところで人生に対する賛美が貫かれている。この世界で最も美しい文章のうちの一つなのではないか。
「千夜千冊」の松岡正剛氏が指摘するように、ニーチェの思想は決して「役に立つ」というタイプの思想ではないかもしれない。個々人が自らの人生に適用しようとするには、あまりにも突き詰められている。
それでも、これほど魅力に満ちた思想は滅多にない。
半年ほど前に、「ニーチェが流行っている」と聞いた気がする。その魅力は今なお尽きることがないようだ。
完璧に彼の思想についていけなくても、「読んでよかった」と思える不思議な一冊である。
もう少しニーチェの思想に浸りたい僕は、引き続き「この人を見よ」を読むことにする。
◆気に入ったフレーズ
・かつてあなたがたは猿であった。だが、いまもなお人間は、いかなる猿よりも以上に猿である。
・まことに、人間は汚れた流れである。汚れた流れを受けいれて、しかも不潔にならないためには、われわれは大海にならなければならない。
・人間は、動物と超人とのあいだに張りわたされた一本の綱なのだ、深淵のうえにかかる綱なのだ。
・いまや人間がみずからその目標をさだめるべき時がきた。人間がその最高の希望の芽を植えつけるべき時がきた。
・あなたが言っているようなものは何もかも存在しない。悪魔もなければ、地獄もない。
・創造者の求めるものは道づれであって、ともに創造してくれる者を求める。
・精神のたくましさが、重いものを、もっとも重いものをと求めるのである。
・新しい価値を創造する、それは獅子にもやはりできない。しかし新しい創造のための自由を手に入れること、これは獅子の力でなければできない。
・精神はかつて「汝なすべし」を自分の最も神聖なものとして愛した。いま精神はこの最も神聖なものも、妄想と恣意の産物にすぎぬと見ざるをえない。
・わたしがつくったこの神は、人間の作品であり、人間の妄想であった。すべての神がそうであったように!
・身体はひとつの大きな理性だ。ひとつの意味をもった複雑である。
・人間は克服されなければならない或る物である。
・愛のなかには、つねにいくぶんかの狂気がある。しかし狂気のなかにはつねにまた、いくぶんかの理性がある。
・かつては精神は神であった。やがてそれは人間となった。いまでは賎民にまでなりさがった。
・血をもって箴言を書く者は、読まれることを求めない。暗誦されることを望む。
・怒っても殺せないときは、笑えば殺すことができる。
・あなたがたの勤勉は逃避であり、自分自身を忘れようとする意志なのだ。
・あなたがたは、憎むべき敵をのみ、持つべきである。軽蔑すべき敵を持ってはならない。
・よき戦士の耳には、「汝なすべし」の方が、「われ欲す」より快くひびく。
・あなたがたは、あなたがたに好ましい一切の事を、まず命令として受けとらなければならない!
・国家は、善と悪についてあらゆることばを駆使して、嘘をつく。
・善人も悪人も、すべての者が毒を飲むところ、それをわたしは国家と呼ぶ。
・変革する、これがかれにとっては、証明なのだ。熱狂させる、これがかれにとっては、説得なのだ。そしてかれにとっての最上の論拠は、血である。
・友を持とうと思う者は、その友のために戦おうと思わなければならない。そして戦うためには、人の敵となることができなければならない。
・ひとつの目標がない。人類はまだ目標を持っていない。
・だが、どうだろう、わが兄弟よ、人類にまだ目標がないのなら、人類そのものもまだなりたっていないというものではなかろうか?
・何からの自由だというのだろうか?それがこのツァラトゥストラに何の意味があるだろう!
・あなたの眼ははっきりと、わたしに告げなければならない。何をめざしての自由であるかを!
・ふさわしいときに生きたことのない者が、どうしてふさわしいときに死ぬことができようか?そんな者は生まれてこなければよかったのだ!
・全人類をいままで支配してきたものは、荒唐無稽なものである。すなわち無意義である。
・すべての神々は死んだ。いまや、わたしたちは超人の生まれることを願う。
・あなたがたは一つの神を創造することができるだろうか?ーーできない。では、いっさいの神々について語るのをやめるいい!
・意志することは、解放する、自由にする。これが意志と自由についての真の教えである。
・人間が存在してこのかた、人間はよろこぶことがあまりにも少なかった。
・良心にさいなまれていると、やがて他人をもさいなむ癖がつく。
・人間たちとともに生きるのがむずかしいのは、口をきかないでいるのが、むずかしいからだ。
・つねに自分で自分を克服しなければならないもの、わたしはそれなのだ。
・生のあるところのみ、意志もまたある。しかし、それは生への意志ではなくて、力への意志なのだ!
・わたしは、あなたにはあらゆる悪をなしうるちからがあると思う。だから、わたしはあなたから善を期待するのだ。
・新しい喧騒の発明者ではなく、新しい価値の発明者のまわりに、世界は回転する。世界は音もなく静かに回転する。
・ひとつの教えがあらわれた。ひとつの信仰がそれと並んでひろまった。『一切は空しい。一切は同じことだ。一切はすでにあったことだ!』と。
・勇気にまさる殺し屋はない。すすんで攻める勇気、それは死をも打ち殺す。なぜなら勇気はこう言うからだ。「これが生きるということであったのか?よし!もう一度!」
・「偶然」ーーこれは、この世で最も古い貴族の称号である。
・あなたがたの隣人を、あなたがた自身と同じように愛するのもいいだろう、だが、何よりもまず、自分自身を愛する者となってくれ。
・もはや愛することができないときは、ーーしずかに通りすぎることだ!
・自分自身に命令することのできない者は、ひとに服従することになる。
・今後、あなたがたに栄誉を与えるのは、「どこから来たか」ではなくて、「どこへ行くか」なのだ!
・打ち砕きなさい、打ち砕きなさい、「善くて義しい者」たちを!
・わたしはあなたを愛するからだ。おお、永遠よ!
・陰気くさい人間や夢想家などではなく、どんな困難なことにもまるで自分の祭りに行くようにいそいそと応じる、健やかで明るい者でなければならぬ。
・あなたがたの悩みはまだ十分でない!なぜなららあなたがたは、自分のことに悩んでいるからだ。まだ、人間そのものに悩んでいないからだ。
・人間はきわめて原始的な、勇気ある動物どもに妬みを感じ、そのすべての長所を奪い取った。こうして人間ははじめてーー人間になった。
・この世を永遠に、常に、愛しなさい!


▽模擬国連
本の内容と若干関係があるので、近況報告から入りたい。
イギリスの大学で、模擬国連のサークルに入った。会議のための練習を毎週行いつつ、月一くらいの頻度で各地の大学で開かれる模擬国連の大会に参加する。模擬国連は割り当てられた国の国益を追求しつつ、国連として解決すべき国際問題に対して条約の締結を目指していく。
金土日の三日間、そのダラムでの大会に参加してきた。イギリスの方々からやってくる、外交官や政治家を目指す学生と討論し交流する貴重な機会だ。
選んだのは安全保障理事会のパキスタン代表。トピックは1:尖閣諸島問題、2:無人機攻撃となっており、パキスタンの立場で言えばいかに1つ目を早々に終わらせて2つ目のトピックに入るかが重要となる。そうしたことを、各国と筆談を交わしたり席を立って演説したりしながら、他国にアピールしていく。
二回目の模擬国連だったので前回よりは活躍できたと思う。英語でのディスカッションなので、人一倍の事前調査と度胸が必要だ。
なんとか「パキスタン領での無人機攻撃は、同政府の許可なく行わない」というアメリカとの密約と、新たに設ける無人機攻撃の監査機関の主要国の一つに入れてもらうことが出来た。上々ではないか。サークル活動のようなものとはいえ、なかなか本格的だ。
さて、長い近況報告を終わりにして、本に入っていこうと思う。
今回読んだ本は、そんな外交の場で主導権を握り活躍したアメリカ大統領ニクソンと、そのブレーンであるキッシンジャーについての新書だ。
リチャード・ニクソンは1969年から激動の5年半、アメリカ大統領として国際政治の表舞台に立っていた。現在、彼の名はウォーターゲート事件とともに記憶されているが、その任期中は、側近ヘンリー・キッシンジャーとともに、ソ連との関係修復、米中和解、ベトナム戦争終結という、冷戦期における外交上の大きな成果を挙げている。二人が構築した、現実主義に基づく外交戦略とは何だったのか、その真髄に迫る。
▽外交と現実主義
外交交渉は、笑顔を交わしながらテーブルの下で足をけり合う場所である。
外交の場は各国がしのぎを削りながら国益を追求し合う厳しい世界だ。彼らは国民全体の利益を背負わされている。そうした情景は、外交官出身の人が書いた本を読むと詳しく描写されている。
近況の例でいえば、もし先日に無人機攻撃についての条約を取り付けられなかったら、僕はパキスタン国民に顔向けできないということになるのである。
外交官は自国と相手国が求めるものを把握し、国益の大きさに基づいて優先順位をつけ、そのうえで話し合いに臨む。イデオロギーや偏見、中途半端な理論は、交渉では邪魔になるだけでなく国益を大きく損なう要因になる。
ニクソンとキッシンジャーが長けていたと評される「現実主義外交」とは、交渉のベースから既存の枠組みを排し、純粋に利害関係を見きわめながら戦略をたてる外交のことである。すべての外交官が理想とするところであろう。
▽ニクソンの外交
では、そんなニクソン外交の成果とはなんだったのか。
この本では三つ取り上げられている。
・デタント(雪解け)をもたらした対ソ戦略
あえて軍事費を増大させることで、SALT(戦略的兵器制限条約)の締結を成功させた。
・米中和解
中ソ対立という機をとらえて、イデオロギー的には相容れない中国との和解を成功させた。
・ヴェトナムからの撤退
泥沼化したヴェトナム戦争を、なんとか「名誉ある撤退」の形式をとりながら成功させた。
これらは冷戦構造化の世界地図を大きく変えた外交である。
「人類の滅亡を避ける」という最優先の目標を念頭に置きながら、イデオロギーにとらわれず機を見て大胆に動いていのが、上の箇条書きだけからでも分かるだろう。
▽「信頼性」という概念
興味深かったのは「信頼性」という概念である。
「信頼性」という言葉は、力を行使するとの意思表示が本物であることが、敵対者、同盟者に納得されることを意味していたのである。
「口先では強気だけど、本当は戦争をする気なんてない」というタイプの一般的な「信頼性」を指すわけではない。
むしろ「お前を痛めつけてやるぞ」と一度宣言したら、必ず武力行使をしてくる。つまり、有言実行性に対する信頼性である。
なぜこちらの「信頼性」が大事なのか。
それは有言実行性によって自国の行動を予測可能にすることで、相手の行動を逆に予測可能にさせることが出来るからである。
絶対に誤解を起こさないようにしたいのが外交交渉だ。自分が相手を誤解しないように注意を十分払っている場合、次に怖いのは「相手が自分を誤解すること」である。
「武力行使をする」と言って武力行使を一切しないのは、良くないということになる。
短期的には紛争を避けたように見えても、「将来の相手の判断を誤らせる」という禍根を残すからである。むき出しの利益追求の場である、外交の世界ならではの戦略だろう。非常に興味深い。
▽本の評価
本自体はどうだったか。
興味深い箇所はいくつか見られたが、はっきり言って中身は自分が思っていたものと違った。
本のタイトルは「ニクソンとキッシンジャー」、サブタイトルは「現実主義外交の神髄を見よ」。
中身を見る限り、主題からぶれている部分が多いと思う。
第一に、ニクソン外交の成功例を三つ挙げているが、そこから導出される抽象的な結論の部分が少ない。
第二に、成功例ばかりで失敗例については詳しく論じていない。
「神髄」と触れ回るならば、成功例や失敗例を通じて一貫したものを示すべきだろう。「信頼性」がそれならば、せめてそれに一章は費やすべきではないか。
最終章が外交とは関係のないニクソンの内政の手腕について論じていた。
結果、この本は結局「なんのための本」なのか、ついに分からず終いだった。
ニクソンとキッシンジャーの人格的な要素を分析したかったのか、外交が成功した当時の世界情勢を説明したかったのか、ニクソン個人の成功と凋落を描きたかったのか。
焦点を定めることは、重要である。
それこそ「この本はこのために書かれている」という内容に対する「信頼性」の問題なのだ。
◆気に入ったフレーズ
・外交交渉は、笑顔を交わしながらテーブルの下で足をけり合う場所である。
・指導者が経験を積むうちに、深みを増すと考えるのは幻想である。(キッシンジャー)
・国際システム全体の安定を維持する能力と意思をもつ国こそが、「偉大な国」であり、、壮大な夢を追う国である。
・力の限界の認識、現実主義に裏打ちされながらも、夢・偉大さを追うことを忘れないことが肝要である。
・「信頼性」という言葉は、力を行使するとの意思表示が本物であることが、敵対者、同盟者に納得されることを意味していたのである。
