
先に近況を報告してみたい。
大学の講義が始まった。とった授業は英語二つと、Questioning Rightsという授業(政治哲学)、State and Society(政治理論)の二つである。ここではこれ以上の授業はとれない。一つの授業に対する予習が日本と比べて非常に重いからだ。予習をとにかく真面目にやって、あとは日本で勉強した知識でカバー(あまり役に立つことは少ない)しながら、なんとかついていけている。
そんなわけで、日本語の本に割ける時間が極端に少なくなりつつある。「白痴」は、その重さもあってか、二週間ぶりに読み終わった作品である。
スイスの精神療養所で成人したムイシュキン侯爵は、ロシアの現実について何の知識も持たずに故郷に帰ってくる。純真で無垢な心を持った侯爵は、すべての人から愛され、彼らの魂を揺さぶるが、ロシア的因習のなかにある人々は、そのためにかえって混乱し騒動の渦をまき起こす。この騒動は、汚辱のなかにあっても誇りを失わない美貌の女性ナスターシャをめぐってさらに深まっていく。
▽どういう物語か
――完全なものに到達するためには、まず多くのものを理解しないということが必要なのです!
物語は、純真無垢で聖人のような男が、人びとによる勘繰りや策略でひしめくペテルブルクへやってくることで始まる。
彼は容姿もよく、頭も決して悪いわけではなく、誰に対しても寛容な心を持っている。要するに、「キリスト」を想起させるような完璧超人なのだ。唯一の欠点である、滑稽なほどに世間知らずな点を除いて。
物語では、主人公の完璧さに惹きつけられた人々が勝手に作用しあい、予想外な方向へ彼自身を巻き込んでいく。そして重要な分岐点では、彼の弱さである「世間知らず、無垢さ」が、さらに状況を悪い方へと導いてしまう。
ドストエフスキーが表題にもした「白痴(ばか)」は、言うまでもなく世間を知らずに悲劇を避けられなかった主人公に対する言葉だ。
しかし物語を分析するうえで重要なのは、彼は白痴であったからこそ、「完璧な人間像」を体現できていたということである。
この章の冒頭で引用した文を体現したのが、侯爵だった。
▽地獄への道
こんな言葉を聞いたことがあるだろうか。
「地獄への道は、善意で舗装されている」。
悲劇的な状況も、元を辿れば人による「良かれと思って」という善意から導かれたものであることが多い、という意味で使われる。
クライマックスを読み進めるとき、僕の頭にはこの言葉がちらついた。
結果から見れば「善意」の人だった侯爵は、あちこちに「地獄の種」を振りまき続けていたのである。彼はあらゆる人間関係に善意と寛容で接し、そのたびに自らが歩んでいく「地獄への道」を舗装していた。
主人公の悲痛な後悔の言葉が、地獄への道から見える景色をそのまま表現している。
「何もかもすべて私が悪い、というのがいちばん確かなことです。はたして何が悪かったのか、それはまだわかりませんが、とにかく私が悪いんです…」
何もかも、確かに侯爵が悪いのである。元凶は全て侯爵の「完璧さ」に潜んでいる。ただし、個々の出来事を分けて見ると、侯爵は常に無私かつ寛容であり「倫理的に完璧な、称賛されるべき行動」を繰り返しているに過ぎない。
ここに、怪奇な人間社会の真実が現出する。
なぜ物語の主人公は一貫して完璧であったのに、悲劇的な結末を生んでしまったのだろうか?
▽「完璧な人」がもたらすもの
あとがきにはドストエフスキーによって語られた、小説の意図が引用されている。
この長編の主要な意図は無条件に美しい人間を描くことです。これ以上に困難なことは、この世にはありません。
キリストが代表的な例だが、「無条件に美しい人」は悲劇を起こす。
善意の塊である存在は人々を惹きつけ、そして惹きつけられた人同士が権謀をはじめ、勝手にかき乱れるからだ。
キリストの死後千年以上も経ってから、宗教戦争のために数えきれない命が失われたといった歴史的事実が、分かりやすい例だろう。問題は、完璧な人に集まった「完璧ではない人たち」にあるのである。
解説が非常にうまい指摘をしている。
侯爵は、最後にはふたたび本物の「白痴」に戻るのである。所詮、侯爵のような人物はこの世に存在しえないことを暗示しているかのようである。
結局のところ、「完璧な人」は敗北する。そして完璧なために、敗北を受け入れる。
彼らの善意によって築かれる道は、他の人間によって「地獄への道」へと変容を強いられる運命にあると言える。
▽読んだ感想
なかなか苦しい読書だった。しかし、読み終わると急に目の前が開けたように、人間の深い闇が見えてきた。
ドストエフスキーの作品はこういうものが多い。
登頂して初めて山の高さに気付かされるような感覚に似ている。
自分の足の下に、きわめて大きなものが横たわっていたということは、読み終わるまで分からないのである。
今にして思うと、二週間のあいだ僕は大変な作品を読んでいたんだなぁと思う。
◆気に入ったフレーズ
・「馬鹿は善良で有益な人間ですからね」
・もっとも、人間の性格というものは、それがたとえいかに良識の判断だとしても、それに耳を傾けることができない場合も少なくないものである。
・「まあ、幸福ですって!じゃ、あなたは幸福になることがおできになるんですのね?」
・「美しさというのは謎ですからね」
・金というものが何よりも醜悪でいまわしいのは、それが人間に才能まで与えてくれるからなんですよ。
・たとえ母親がばかだとしても、母親にはせめて人間らしくつきあうもんですよ!
・創意の欠如ということは、世界各国において、大昔から今日にいたるまでつねに敏腕な事務能力のある人物の第一の資格であり、最上級のほめ言葉とされてきたからである。
・臆病っていうのはこわくて逃げだす人のことです。こわくても逃げださないのは、まだ臆病というわけじゃありません。
・コロンブスが幸福を感じたのは、彼がアメリカを発見したときではなくて、それを発見しつつあったときなのだ。
・しょせん、完全というものは愛されるはずのものではございません。完全というものはただ完全としてながめるべきものでございます。
・抽象的に人類を愛するということは、ほとんど例外なく自分ひとりを愛することになるのでございます。
・天使というものは人を憎むことができないものでございますし、また人を愛さずにはいられないものでございます。
・あなたさまは無垢なおかたでございます。そして、その無垢のなかにこそあなたさまの完全な点がそっくり含まれているのでございます。
・作家たるものは平凡なもののなかにも、つとめて興味あるまた教訓的なニュアンスを捜し求めるべきである。
・実際のところ、まったく《世間並み》の人間であることぐらいいまいましいことはないであろう。
・ときには独創的な人間であることを欲するあまり、潔白な人が下劣な行為をあえてすることさえもあるのである。
・あなたは高慢な凡庸です。いや、すこしもみずからを疑うことのない、泰然自若たる凡庸です!
・人より余計に苦しむことのできた人は、当然、人より余計に苦しむ値打ちのある人なんですよ。
・人間の行動の原因というとのは、ふつうわれわれがあとになって説明するよりもはるかに複雑なこみいったもので、それがはっきりしている場合はまれである。
・完全なものに到達するためには、まず多くのものを理解しないということが必要なのです!
・いや、何よりもむずかしいことは、すこしも侮辱しなかった者をゆるすということです。あなたがたの彼らにたいする不満は、根拠のないものだからです。
・何もかもすべて私が悪い、というのがいちばん確かなことです。はたして何が悪かったのか、それはまだわかりませんが、とにかく私が悪いんです…
・肝心な点は、はたしてあなたの感情には真実があったか、必然性があったかどうかということなんです。
・この長編の主要な意図は無条件に美しい人間を描くことです。これ以上に困難なことは、この世にはありません。(ドストエフスキー)
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193.ライ麦畑でつかまえて (J.D.サリンジャー)

大戦後間もなくのアメリカを舞台に、主人公のホールデン・コールフィールドが3校目に当たるボーディングスクールを成績不振で退学させられたことをきっかけに寮を飛び出し、実家に帰るまでニューヨークを放浪する3日間の話。
発表から半世紀を経て、いまなお世界中の若者たちの心をとらえ続ける名作。
▽共鳴できるか、という本
たまに、自分の感受性を確認するように本や映画に触れることがある。
面白さを求めるというより、それらの作品が伝えるものにまだ自分の感情が呼応できるのかを知りたくて、読んだり見たりするのだ。
「ライ麦畑でつかまえて」も、そうした作品の中の一つだろう。読み手によって好き嫌いが分かれる本だと想像される。主人公の持つ「繊細さ」によって綴られた、ガラス細工のような物語である。
世の中には「若者にしか聞こえない音」というものがあるらしいが、この本もそれに似ていると言えるだろう。
物語を楽しめるかどうかは、読者の琴線が本から伝わってくる感情の波に共鳴するか否か、というところにかかっている。
▽「若者」ホールデン
インターネットを見ると、主人公であるホールデンについて実に様々な言葉があてはめられているのが分かる。ある人はこれを「inoccence」と表現し、またある人はこれを「社会に対して反抗的な…」と表現する。
こうした解釈に共通する出発点は、ホールデンが「若い」という事実だ。
「若い」ということには、常に周囲から様々な憶測や期待を背負わされる運命にある。そして、現に作中のホールデンも、そうした「若さ」をいくつも見せつけてくる。
たとえば、社会の「インチキ」さをまだ受容することが出来ず、それに反感を抱かずにはいられないところ。異性に対する微妙な好奇心と近寄りがたさを抱いているところ。とても傷つきやすい繊細さを持ちながら、あえてそれを隠すような言葉遣いをするところなどなど。
こうした特性は、どれも人間が社会に揉まれていくなかで忘れてしまうものである。
この作品に寄り添って最後まで物語に付き合ってやれる人は、心のどこかで未だに「若者」が住んでいる人であろう。本当に「若者」の感性を持たないか、忘れてしまった人には、この本は退屈でしかないのではないか。
▽若さの美点
若さの最大の美点の一つは、優しさである。
それは物語のクライマックスで、ホールデンがしっかりと語っている。
僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ。
ライ麦畑で駆け回る子供たちの世界で、もし誰かが転がり落ちそうになったら、その子を捕まえてあげたい。ホールデンはこれを「夢」だと言って妹に馬鹿にされてしまうのだが、「不良少年」の本質が見える大事なシーンである。
彼の周りでは、何人か不幸にも命を落としたり、評価されなかったりする友達がいた。
彼はそれを何事でもないように語るのだが、実はそのたびに酷く傷ついていたことが感じられる。
読者はここに気付いてあげなくてはならない。死んだ弟のグローブをわざわざ描写したり、ほとんど喋ってもいない同級生の自殺について語ったり、弁論の授業で良い評価をもらえなかった生徒の話しぶりについて「僕は好きだ」と擁護したり。
本当は誰よりも優しいのに、自分にその力がないために彼らを救ってやれない。
その辛さに、ホールデンの心は常に圧迫されていたのではないか。
「ライ麦畑でつかまえてあげたい」と語った彼も、物語の最後では精神病院に通っていることが判明する。本当は彼が一番「ライ麦畑でつかまえてもらう」ことを必要とする人だったのである。
▽「優しさ」という感性
「強くなければ生きていけない、優しくなければ生きていく資格がない」。
僕の大好きな言葉の一つである。
自分の力で立って、社会と対峙する「大人たち」は強い人間である。
そこで問われるのは、彼らが「優しく生きていれているか」ということであろう。
ホールデンの語り口は、そこを鋭く抉ってくる。
彼は大人とは正反対の存在だ。優しいけれど強くないから、生きていくだけでも非常な困難に直面するのである。
社会から排除されそうな落ちこぼれに、あなたはどういう視線を投げかけるのか。
ホールデンは半ば崖から落ちそうになりながらも、他者を「ライ麦畑でつかまえて」あげようとする優しさを持っていた。
そんな優しい若者の心の叫びが、強く生きる人に助けを求めるのである。
「ライ麦畑でつかまえて」と。「僕をつかまえて、僕が救うことのできなかった彼らも、みんなつかまえてあげて」と。
▽共鳴できることの意味
冒頭で僕は「作品を読むことで、自分の感受性を確認する」といったことを述べたと思う。
人にはときどき、そういう作業が必要となる。
自分が強い人間かどうかは、社会のステータスである程度図ることが出来る。
しかし自分が優しい人間かどうかは、心の奥の琴線を震わせてみるまで、分からないのである。
これは僕の持論であるが、「青春」というのは単に若いことを指すのではないと思う。
若い感受性が死なないまま、心のどこかで生き続けている限り、人は死ぬまで「青春」を謳歌することが出来ると思っている。
こういう青春小説を読む意味は、主人公がぶちまける「青春」を観察することだけではないだろう。
「読者がこれに共鳴できるかどうか」という感性の生き死にが、その人に「青春」をまだ享受する余力が残っているかどうかという、審判を授けてもいるように思えてならないのである。
◆気に入ったフレーズ
・知的な連中というのは、自分がその場を牛耳るんでないかぎり、知的な会話をしたがらないものなんだ。
・何でもそうだけど、あんまりうまくなるとだな、よっぽど気をつけないと、すぐこれ見よがしになっちまうんだ。そうなったらもう、うまくもなんともなくなっちまうからな。
・映画のインチキな話なんか見て目を泣きはらすような人は、十中八九、心の中では意地悪な連中なもんさ。
・拍手ってものは、いつだって、的外れなものに送られるんだ。
・中にはからかっちゃいけない人間もいるんだよ、それがたとえ、からかわれたって仕方のない人間であってもだ。
・「死んだからって、好きであってもいいじゃないか、そうだろう?」
・みんなは実際のものをものだと思わないんだ。
・僕はあぶない崖のふちに立ってるんだ。僕のやる仕事はね、誰でも崖から転がり落ちそうになったら、その子をつかまえることなんだ。
・「たいていの場合は、たいして興味のないようなことを話しだしてみて、はじめて、何に一番興味があるかがわかるってことなんです。」
・君は学生だーーそう思うのは君の気に入らないかもしれないけどね。君は知識と恋仲にある身なんだ。
・「こう言ってるんだ『未成熟な人間の特徴は、理想のために高貴な死を選ぼうとする点にある。これに反して成熟した人間の特徴は、理想のために卑小な生を選ぼうとする点にある』」


十八世紀末イギリスの田舎町。ベネット家の五人の子は女ばかりで、母親は娘に良縁を探すべく奮闘中。舞踏会で、長女ジェインは青年ビングリーと惹かれ合い、次女エリザベスも資産家ダーシーと出逢う。彼を高慢だとみなしたエリザベスだが、それは偏見に過ぎぬのか?世界文学屈指の名ラブストーリー。
▽読んだ感触
今回読んだ「高慢と偏見」は、イギリス文学史に残る名作の一つであるとされる。せっかくロンドン留学をしているのだから英語で読めればいいとも思うのだが、河出文庫の日本語訳(阿部知二・訳)で読んだ。個人的には、久しぶりの海外文学である。
著者のジェイン・オースティンは18から19世紀にかけての女性作家であり、「機知とユーモアに富む実写的描写に優れた作品を残し、英国作家最高の一人とされる」と評されている。
さて、これは海外文学一般を読むときに言えることだが、自分の生きている環境とは時代も国も(今は一時的にイギリスに居るのだが)異なるので、芝居や劇を楽しむような感覚で読む必要がある。日本の現代小説を読むときのような「自然」で「居心地の良い」読書は難しいため、自分から小説に対して歩み寄る必要があるのである。
たとえば、本の頭に一覧があるように、登場人物を頭の中で整理するだけで一苦労だ。海外文学は読むたびに「名前が外国人のものであるというだけでこれほど覚えにくくなるのか」と思わされるのだが、今回もまたその例外ではなかった。
海外文学独特の台詞や描写にも慣れるまでに時間を要する。今回は500ページほどの本だったが、真ん中あたりになってやっとスーッと頭の中に入ってくるようになった。
ただし、いったん以上のようなハードルを越えると、物語の面白さに引き込まれるようになる。機知に富んだ鋭い人間観も随所に見られるので、面白い上に頭もきちんと使いながら読むことが出来る。
優れた海外文学は「賢明だが少し近寄りがたい友人」のようなイメージだ。自分からその世界観に歩み寄り、まず理解を示す努力をする必要がある。しかし、一度彼らに心を許してもらえたなら、そこから得られるメッセージや哲学は、海や時代を越えて半ば普遍的に通用するものばかりなのである。
▽物語から浮かび上がる普遍的な命題とは
「高慢と偏見」は、主にベネット家の次女エリザベスを中心に物語が進んでいく。物語は現代よりもずっと社会的階級の色分けがはっきりしていた時代を舞台に、社交界の複雑怪奇な人間関係にスポットを当てている。そうして人間関係がもたらす「化学反応」のような現象を、面白く紡いでいくのである。
ネタバレになってしまうので内容について深く触れることはここではしないが、一つだけ自分の考えたことを書いておこう。
この物語では、タイトルの通りすべての登場人物がある程度の「高慢さ」とそれに由来する「偏見」を持ちながら過ごしている。
注目すべきは、この構造が物語に面白みを与えると同時に、「人間が他者を正確に評価するのは極めて困難である」という普遍的な命題を際立たせてもいるということだ。
この小説は「合理的思考」をいち早く取り入れ、産業革命へと移行した段階のイギリスで生まれた。主人公のエリザベスは批判的な視点の持ち主であったし、他の登場人物も「理性的であろう」という努力をしている様子がうかがえる。
ところが、面白いことにそうした彼らの「批判的」かつ「理性的」な判断に基づく他者への評価は、作品の中で錯誤を繰り返すのである。理性的になろうと努めているように見えても、その判断は結局「偏見」の中からついに逃れることができないのだ。
作品を読んでいて、立川談志のこんな言葉を思い出した。
「人間関係には『良い誤解』と『悪い誤解』の二種類しかない」。
オースティンも談志も、面白みのある物語を作るうえでの天才である。談志の言う「誤解」は、オースティンの言う「高慢と偏見」だったのではないか。物語はハッピーエンドで終わるのだが、あえて言えばそれも「悪い誤解」が「良い誤解」へと転化したと表現できるのである。
人間関係から取り除くことのできない「誤解」という要素を、存分に、しかも面白く使った物語だった。さすがは歴史に残る作品だ、と言いたくなる。
◆気に入ったフレーズ
・独身の男性で財産にもめぐまれているというのであれば、どうしても妻がなければならぬ、というのは、世のすべてがみとめる真理である。
・誇りは、自分自身についての自分の意見に関係があり、虚栄心は、他人にどう思ってもらいたいかっていうことに関係があるんですわ。
・もしも女の人が、それと同じ巧みさで、自分の愛情を当の相手にも隠したとすれば、その人の心をとらえる機会をなくしてしまうわ。
・「努力はいつも、それだけの必要に応じたものでなければならないわ」
・「恋を追いはらうのに詩が効力のあることを、はじめて発見したのはだれなのかしら!」
・「自分で描いたものの出来不出来は、自分できめるわけにはまいりませんわ」
・「けっして自分の意見を変えない人にとっては、まず最初に適正な判断をかためておくことが、とくに義務となりますわ」
・「最悪のばあいに備えるのは正しいことですが、かならずそうなるときめつけるべき理由はありません。」
・「恋に夢中な連中というものは、どんなことでも思いのままにやるものだ。」
・真の賢人というものは、あたえられたものから利益をうけるものである。
・「はたものみなに無礼になるのが、まさに恋の本質ではなくって?」
・「用心はどこでおわり、強欲はどこからはじまるのでしょう?」
・「女の子はときどきちょっと失恋してみることを、結婚に次いで好んでいる。」

191.民主党政権 失敗の検証 (日本再生イニシアティブ)

2009年に国民の期待を集めて誕生した民主党政権は、11年12月の総選挙での惨敗により幕を閉じた。実現しなかったマニフェスト、政治主導の迷走、再建できなかった財政、米軍基地をめぐる混乱、中国との関係悪化、子ども手当の挫折、党内対立、参院選敗北――。
多岐にわたる挑戦と挫折は、日本政治にどんな教訓を残したのか。
今回は「民主党政権論の決定版」と銘打たれた一冊を読んでみることにした。
著者の「日本再建イニシアティブ」とは、ジャーナリストの船橋洋一氏を中心としたシンクタンクだという。マニフェストや財政、外交などのさまざまな側面について一章ずつ割かれており、それぞれについて各方面の専門家が論じている。目次をみると、「現代日本の政党デモクラシー」の著者である中北浩爾や、「日本の財政」の著者である田中秀明といった、なじみのある名前が並んでいるのが分かる。
民主党政権の挫折をもとに、日本政治が学ぶべきものは何か。
検証は多角的であるものの、「はじめに」と「おわりに」では総合的な視座も与えられる。非常に勉強になる一冊だったと思う。
▽民主党政権の失敗の本質は何か
本の冒頭で、以下の言葉が引用されている。
多様な検証がなされているものの、これはその根底を貫く一言になっている。
「権力に入るということは、昨日までの友が敵になるということなんですかねぇ…」(松井孝治)
高杉晋作の「人々は富貴は共にできても艱難は共にできない」という言葉を思い出させる。
民主党の数々の挫折は、政権奪取までの過程という「艱難」を乗り越えた後の「富貴」を共にするための組織が出来ていなかったことに由来すると言えるだろう。
それでは、この観点をもとにしながら主な議論を取り上げてみよう。
▽政治主導
まず、「政治主導」に注目してみたい。
官僚支配に対抗する政治主導による国家の運営。
これについては「政治主導の落とし穴」や、「官僚制批判の論理と心理」などで詳しく書かれている。ウェーバーの「権力と支配」で書かれている官僚機構制に対する基本的理解も役に立つだろう。
この本では、その政治主導について、以下のように書かれている。
・政治主導とは、浜辺に砂楼を築くがごとき難業である。
・政治的意思を実現していくにあたり、政治家が専門知識•規模ともに勝る官僚機構と互角にわたりあうには、政党が一丸となって政策を継続して推進する姿勢が何より求められる。
つまり、「知識による支配」を体現する官僚機構に対して影響力を及ぼすには、それだけ政治の結束力が求められるということだ。個人個人の政治家の力量だけではなく、党内での一致した見解、価値観、優先順位も重大だと言える。
民主党内のガバナンスが欠けていたのは、それだけ致命的だった。
▽マニフェスト
本の中ではマニフェストの位置づけについても議論されていた。
・将来の状況変化を正確に織り込むことはできないし、選挙にマイナスの影響を与える要素についてはマニフェストのそとにおいておきたい。そうして作成されたマニフェストを予定どおりに実現できなかったのは、なかば必然的だった。
民主党は常に、マニフェスト通りにすれば「硬直的だ」と言われ、それを修正すれば「マニフェスト違反だ」と言われる、両側からの批判に苦しみ続けた。皮肉にもマニフェストは、民主党にとって政権奪取の原動力となる一方で、彼らを苦しめるジレンマの根源ともなったのである。
・修正か順守かというマニフェストをめぐる二者択一は、最終的に民主党を分裂に至らしめた。
では、そもそも民主党の党内ガバナンスを困難にさせたのはなんだったのか。
それが以下である。
▽大量の一年生議員と支持基盤
勢いに乗って政権をとった民主党政権だが、その中には「マニフェスト」の内容をごり押しにすることで議席を取った一年生議員が多くを占めた。これが民主党政権の最大の足かせであった。
・一つの政党による圧勝劇は、政党間の対立を政党内の対立へと転化させる傾向がある。
・民主党はやみくもに支持基盤を広げなくても、選挙に勝利できた可能性は高い。むしろ、過剰に支持基盤を広げすぎたことで、政権獲得後の民主党は党内ガバナンスとマニフェストの矛盾に直面していくのである。
一年生議員は結局支持基盤を持たないまま当選したためマニフェストに固執し、政権運営の足を引っ張ることにつながった。これが「党内ガバナンスとマニフェストの矛盾」につながっていくのである。
▽民主党に足りなかったもの
「小説吉田学校」を読み終えたとき、自分が感じたのは自民党内で脈々と受け継がれてきた「権力闘争の歴史」であった。彼らは「権力」を知っている集団である。民主党との最大の違いは、多くの政治家が「政治」という営みに対する理解を持っていることだろう。
・良くも悪くも、自民党という政党は、「国破れて山河あり」の国民政党である。
対して民主党内のガバナンスの実情は、以下の通りだったという。
・民主党は政権にはついたものの、権力を効果的に使うことができなかった。
・議論することと、決定することと、納得することにそれぞれ違ったものがあるということが分かってない。
政治とは何か、統治とは何か、権力とは何か。自民党はそうした面への理解が民主党よりも何枚も上手であった。
民主党の最大の問題は、「政治が分からない・もしくはそれを行う体制が出来ていなかったこと」だったのだろう。
▽民主党政権の研究の意義
55年体制の初めての崩壊であった民主党政権。その歴史的意義は大きい。
選挙制度が小選挙区制である以上、今後も二大政党制に近づこうとする政治的な力学は作用し続けると思われる。
この本ではどの著者も「民主党政権の失敗から学ぶ必要がある」と唱えている。その通りだろう。
以下にも引用していくが、政治という営みに対する鋭い考察の詰まった一冊だった。
あまり期待はしていなかったが、思ったよりも興味深い本だったと思う。そういう意味では、期待値を上げまくっていた民主党政権とは全く正反対の本だったかもしれない。
◆気に入ったフレーズ
・「権力に入るということは、昨日までの友が敵になるということなんですかねぇ…」(松井孝治)
・「正義の政治」は、諸勢力と諸利害を折り合わせ、一つの方向に束ねていく政党という足場があって初めて可能になる。
・将来の状況変化を正確に織り込むことはできないし、選挙にマイナスの影響を与える要素についてはマニフェストのそとにおいておきたい。そうして作成されたマニフェストを予定どおりに実現できなかったのは、なかば必然的だった。
・修正か順守かというマニフェストをめぐる二者択一は、最終的に民主党を分裂に至らしめた。
・政治的意思を実現していくにあたり、政治家が専門知識•規模ともに勝る官僚機構と互角にわたりあうには、政党が一丸となって政策を継続して推進する姿勢が何より求められる。
・政治主導とは、浜辺に砂楼を築くがごとき難業である。
・(普天間の)顛末は、民主党政権が自らの外交•安全保障政策を、「選挙の力学」から「統治の力学」へ転換できなかったことの証左でもある。
・政権党ガバナンスの失敗が民主党にとって最大の蹉跌であったことは明らかである。
・議論することと、決定することと、納得することにそれぞれ違ったものがあるということが分かってない。
・政策論争が人事対立に直結するような未熟な組織であるかぎり、さまざまな困難に直面するなで政権運営を行うことは不可能であり、党としての存続さえ危うい。
・民主党はやみくもに支持基盤を広げなくても、選挙に勝利できた可能性は高い。むしろ、過剰に支持基盤を広げすぎたことで、政権獲得後の民主党は党内ガバナンスとマニフェストの矛盾に直面していくのである。
・一つの政党による圧勝劇は、政党間の対立を政党内の対立へと転化させる傾向がある。
・政権獲得後の民主党は、政策やマニフェストの基本理念にこだわれば確固たる支持基盤が確立されず、かといって利益団体に過度に接近すれば基本理念を失うという矛盾に悩まされた。
・民主党政権の最初の失敗は、国民の期待値を高めすぎたことにあったのかもしれない。
・そもそも明確な論理や解答がない問題だからこそ政治の場へ持ち込まれているわけで、明確な論拠があって判断できるものであれば政治問題にはならない。
・政党政治にとって何よりも必要なのは、「妥協の政治文化」にほかならない。
・民主党は政権にはついたものの、権力を効果的に使うことができなかった。
・「負の遺産」と「負の分配」の政治においては、優先順位を明確に設定しなければならない。
・良くも悪くも、自民党という政党は、「国破れて山河あり」の国民政党である。
・たくましい政党なしに、たくましい民主主義はない。


三が日だ、三が日だと、怠けられるだけ怠けた結果、今年に入ってまだ一冊も本を読んでいないという状況になった。
一年の計は元旦にあり、というのであれば、今年はたいへん怠けやすい年なのかもしれない。
あるいは、この本が自分にとって少し読みにくかったためだろうか。
こんな「あてつけ」のような紹介の仕方で大変申し訳ないが、今回読んだのは「明治国家を作った人びと」という講談社新書の一冊である。
西洋の文物を受容・導入し、それを制度化することによって文明国として自立し、不平等条約を改正して全き意味で国際社会の一員となること。このような国家的願望は、藩閥政府と在野の民権家たちの共有するところであった。彼らは欧米各国との具体的直接的接触のなかで、いかなる西洋観を抱き、それといかに対処し、そしてそこからいかなる日本の国家像を描いたのだろうか。
▽本の構成とその評価
この本は読みにくかった、考えられる理由はその構成だろう。
基本的には「幕末明治の文明受容の旅を描き出す」という方針のもと、指導者に沿って語られていた。
その一方で、章立ては指導者に沿って組まれていなかった。
この構成が、読者である自分にとって「今どこにいるのか」という感覚を持つことの妨げになったと考えられる。
文章は決して読みにくいものではなかったと思う。
むしろ面白いテーマの箇所がいくつかあり、そこではなかなか「読ませられる」という感覚も味わえた。
それだけに、構成をもう少し読みやすいものになっていたらと感じる。
あとがきによれば、この本は雑誌に連載されたものをベースに作られたという。一章ごとは面白い部分があったが、ひとつの読み物としては、少し読みにくいかなという印象だった。
同じ著者の「伊藤博文」を今度読んでみたい。こちらはタイトルが首尾一貫しているだけに、内容も分かりやすいのではないか。
▽興味深かった部分
それでも、興味深かった箇所はいくつかあった。
中でも、最近成立した「特定秘密保護法」などの話題を論じるのに使えそうな部分があった。
constitutionとしての政体とadministrationとしての政務
思えば、憲法を変えようとしたり、集団的自衛権を容認しようとしたりと、安倍政権は何かと「constitutionとしての政体」を変えようとする。
政策の優先順位として必ずしもそれは適当ではないというのが自分の意見だが、これを機に「この国のかたち」について考えるのも悪くはないだろう。そしてその場合に、国のかたちを一から作り上げた「明治国家をつくった人びと」の言葉は、確かに参考になるはずだ。
例を挙げよう。
伊藤博文にまつわる箇所などは、今の特定秘密保護法の持つ潜在的な秘密主義に対して真っ向から対立しかねない発想だ。
「人民を暗愚にして置いては国力を増進することにおいて妨げがある」
伊藤のこの言葉に、解説がこう続く。
支配者にとって人民の開化とは両刃の剣なのである。開かれた知は国力の増強をもたらすのみならず、現実の統治を批判する精神をもたらすからである。
そして著者は、「それでも伊藤は人民の開化に基づく政治を志すべきだと考えた」と訴えている。
「情報は民主主義の通貨だ」という言い回しもある。
情報が無ければ、開かれた知がなければ、民主主義は枯渇する。
特定秘密保護法に対する批判は、基本的にこうした「国のかたち」の変容への危機感の表象とみていい。
今よりもずっと「安全保障上の困難」に直面していたとも考えられる明治期の日本。
それでもそこで共有されていた価値観を、筆者はこう指摘している。
国制の問題とは人を作り出す問題に他ならないということを、あの時代に海を越えて西洋文明と接した多くの日本人が痛感していた。
