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本と6ペンス

The writer should seek his reward in the pleasure of his work. ("The Moon and Sixpence" Somerset Maugham)

177.人類哲学序説 (梅原猛)

日本には、「草木国土悉皆成仏」という偉大な思想がある。原発事故という文明災を経て、私たちは何を自省すべきか。デカルト、カント、ニーチェらを俎上に近代合理主義や人間中心主義が置き去りにしてきたものを吟味、人類の持続可能な未来への新たな可能性を日本の歴史のなかに見出す。ここに、「人類哲学」が誕生する。

なかなか格好いいあらすじを引用。
久しぶりに哲学に関する本を読んだと思う。留学が始まって以来、英語での生活や授業に加えて日本語でも難解な本を読むと頭が壊れてしまいそうなので、割と読みやすい本ばかり読んでいる。
ただ、そういう本に頼ってばかりだと馬鹿になるのではないかという謎の強迫観念のため、タイトル的には五体のありそうなこの本を、「親に頼んで送ってもらうリスト」に追加しておいた。

ところが、期待に反して(?)この本は読みやすかった。
口語体で書かれており、哲学の各論についてもそこまで深入りすることがない。
少し自分語りが多い気がしないでもなかったが、それよりも興味深さが優る本であった。
膨大な知識に基づいて、あえて要点だけを簡潔に述べている。そうすることで、読者は著者のダイナミックな思想の展開を追うことが出来る。新書の書き方をよく心得ていると言えるのではないか。

自分は哲学に興味があるものの、実際は全くの門外漢と言っていい。プラトンの「国家」など、政治哲学にリンクするような著作は目を通した程度である。それでも、この本で書かれていることは理解できたし、とても面白かった。
本来新書とは、ある程度の良識ある人なら、たとえ専門外でも難なく読めるように書かれているものである。

あらすじでも明らかなように、著者は西欧哲学の二つの特徴を取り上げる。
一つ目は肉体から乖離した理性を尊重する合理主義
二つ目は言葉や理性、意志を持つ主体として人間のみを想定する人間中心主義
著者はこうした発想が現代に至るまで人類に並々ならぬ恩恵を与えてきたことを認める一方で、これから人類が必要とする哲学は、西洋哲学とは違うところから見出されるべきであると批判する。
そこで彼が人類哲学の新しい鍵として注目するのが、「草木国土悉皆成仏」という日本古来の思想なのだ。

先ほども述べたように、自分語りがたまに入ることに目をつむれば、哲学史の要点を掴むこともできるし、梅原氏の主張する興味深い哲学についても吟味することのできる、良い本であると思う。
ただ、もう一つケチをつけるとするならば、この本を書いた動機、この本を書くことの意義を最後に持ってきている構成だ。
僕は問題なく辛抱できたが、普通の読者は「なんでそんな哲学の転換が必要なの?」という根本的なところで突っかかって読むのを辞めてしまう可能性がある。特に、この本は「世界人類の哲学の新たな鍵として日本の思想に注目する」という、見方によってはかなり恣意的な主題だ。そうであればこそ、この本の意義について、始めから読者にきちんと説明しておくべきだと思う。

とはいっても、何の事だか分からない人がほとんどだろう。
僭越ながら僕が代わりに、本の最後の方の部分の引用を見せてしまおう。

「二一世紀になると、非西欧諸国が、自己の伝統的文明の原理によって、科学技術を再考し、新しい文明をつくるのではないか。それが、非西欧諸国の今後の課題だ」(トインビー)
「科学はいまに、裁かれる日がくるだろう」(福井謙一)

トインビーは著名な歴史学者、福井謙一はノーベル賞を受賞した科学者である。
彼らは声を揃えて告発しているのである。
「西欧哲学から生まれた科学技術文明は、行き詰るだろう」と。

この本は、鳴りやまることのない現代文明への警鐘に対して一つの哲学的な解決を試みた一冊だったのである。
著者は全ての日本人に生々しく残る記憶を挙げ、そのことを感覚的に訴えてくる。
東日本大震災が起こったことによって、私は西洋が生み出した科学技術を基礎づける西洋哲学を批判しなければならないと思った。

科学技術が行き過ぎている、と言うだけなら簡単である。
科学技術は便利だ。便利なものの発展は時流と同じで、いかなる規制も意味をなさない。
そこで必要とされるのが、人類の喉元に鋭く現実を突き付けてくるような、そんな告発だろう。
それは社会的事実でもいい。政治家などの胸に迫ってくるな演説でもいい。あるいはヒステリー交じりの多くの民衆の叫び声でもいい。そしてもちろん、哲学的思弁でもいい。
梅原猛は、この本においてそれをやろうとしたのである。

3.11以降、日本は「これでいいのか?」という巨大な疑問を抱きながら走り続けている。
それは震災と原発事故で被害に遭った人々を次第に忘れていることに対する後ろめたさであり、あれほどの大きな損害を出しながらエネルギー政策がほとんど転換を見せないことへの違和感であり、事故後も「日常」が続いてしまっていることに対する疑問である。
震災から2年半が過ぎた。
大きな疑問から目をそらし、これまで通りの日常を送って良いのだろうか。

この本が売れているという事実は、多くの人が漠然とした不安を抱えていることの裏返しなのである。


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176.近代日本の政治家 (岡義武)

政治におけるリーダーシップとは何か――日本の近代史上に重要な役割を担った五人の政治家、伊藤博文・大隈重信・原敬・犬養毅・西園寺公望をとり上げ、それぞれの生涯に直面した政治状況における行動、役割、運命をその性格に焦点をおきつつ跡づけた本書は、日本の政治の本質、政治家の資質を問う。

岩波現代文庫から出た、政治史学者である岡義武の一冊である。
上記の5人の政治家、それぞれの生い立ちと生涯を概観した後、彼らの性格を綿密に分析していくという構成になっている。恥ずかしながら僕は日本史にはどうしても疎いので、これからは敢えてこうした書物に触れていくつもりだ。
伊藤博文は強烈な自負心をもとに強気と弱気を上手く操りながら、柔軟な態度で天下の権を握る。しかしアジア外交での強気が自身の暗殺を招いた。
大隈重信も自負心が強く、天性とも言える物事に対する反射神経を活かして国事に当たる。雄大な性格を持って国内でブームを巻き起こすも、失敗も多かった。
伊藤の残した政友会の強化に尽力した原敬は、代表的な政党政治家と呼ばれるようになる。元来質素な性格であったが、政党への利益を思うあまり利権を中心に政治をすすめ、そうして汚職を憤る青年によって暗殺される。
民党の結束を夢見ながら、政界に小舟のように浮かぶ国民党を指揮した犬養毅。彼は「憲政の神様」としてたびたび祭り上げられるも、不遇な政治生涯を送ってきた。軍ファシズムの暗雲が漂う中で政友会の思惑によって宰相になるも、軍の暴走を止めることはできずに5.15事件で命を落とす。彼の悲劇はやがて来るべき国家の悲劇を象徴するものとなった。
最後の元老である西園寺公望は、持ち前の貴族的な性格とリベラルな考え方でなんとか軍ファシズムに歯止めをかけようとするが、結局挫折する。犬養と同じく、彼の挫折は日本の挫折として経験されることになる。



さて、政治において政治家の「性格」や「選好」がどの程度政策に影響を与えるかというのは大変難しいとともに重要な命題である。
「政治家なんて誰がやっても同じ」と突き放した言い方もあるが、「一人の政治家の失敗」によって国が傾いていったという歴史は世界中で散見される。何よりも、09年からの日本の民主党政権を経験した日本人には、「政治家なんて誰がやっても同じだ」とはもう言いにくいのではないか。

だからといって、国のトップによってすべてが決まるわけでもない。これも、事実である。
圧倒的な勢力を持った政治家が出てきたとして、彼の前途を阻むものはいくつもある。たとえばいま思いつく要因としては、国際的には国際連合の機能によって一応は集団的安全保障体制が確立していること、グローバリゼーションによって国家と対峙する共同体が増えて(地域共同体やNGO、TNCなど)主権国家が相対化していること、国内的には大戦の教訓を経たジャーナリズムの存在、三権分立など制度的な国家への制約があることなどなど。

もちろん、これに逆行する動きもある。「安心のファシズム」で語られたような監視社会の問題や、最近で言えば「自民党の改憲案」などだ。
楽観視はできない。再び国家のデモクラシーが麻痺してしまわないために、国民は勉強する必要があるのである。この辺はフランクフルト学派の書物を読むと良いのだろう。フロムの「自由からの逃走」などが代表的な著作であるはずだ。

話が逸れてしまった。
繰り返しになってしまうが、政治家の性格が政策にどこまで反映されるかは、政治学では絶えず議論の俎上にのる一大命題なのだ。

ただ、個人的な見解としては、やはり政治家の真価は「艱難」にこそ見られやすいのではないか。
たとえば日本が高度経済成長によって夢の曲線を描いていた時代、よく言われるが当時の好況は「優秀な官僚と勢いのある市場」の賜物だった。政治家が何か決定的な決断を下したのではなく、「自然に」好調の時代を築いていたのである。沢木耕太郎の「危機の宰相」では、池田勇人以後の首相が(福田赳夫)「低成長」を標榜しつつも、結局は高成長は維持されたことが書かれている。

ところが、艱難期となると、これほど政治家の決断による国家への影響が分かりやすく見える時期はない。
艱難期における政治家の成功はすなわち国家の成功であり、政治家の挫折は国家の挫折なのである。この関係は、国家が好調な時には必ずしも成立しない。

さて、ようやく本書の内容に戻れそうである。
明治維新を経て近代国家の仲間入りを目指した日本。時代は弱肉強食の観が強く、予断を許さぬ情勢であった。
リーダーシップとは何か、ということに答えは出せないまでも、この本ではそれぞれの政治家がそれぞれの性向を活かして活躍し、ある時には挫折する姿を描いている。

結局、リーダーシップとは実体のない言葉に過ぎないだろう。
百人のリーダーがいれば、百通りのリーダーシップがあるのではないか。
肝心なのは、それがその当時の社会情勢に適っているかどうかだと思われる。




フレーズ集
伊藤博文
・「芸妓と遊んで居る時でも、酒を飲んで居る時でも、人と冗談を言ふて居る時でも、俺の頭からは始終国家と云ふニ字が離れた事は無い」

・歴史を繙いて盛衰の跡を見ると、国家の滅びるのは、他がこれを滅ぼすのではない、概ねみずから滅ぼすのだ

・「酔つて枕す美人の膝、覚めては握る天下の権」


大隈重信
・「政治は我輩の生命である。たとえ諸君が我輩を党から退けやうとも、無論我輩の活動する天地は日本到る処にあるのである」

原敬
・「金を欲しがらない社会を拵えて来い。そうしたら、金のかからぬ政治をして見せる」

・原氏は理想の政治家ではない。今日まで力を以て強行した力の政治家である。其最後が終生力に闘つて遂に力に倒れる結果を生み出したのである。

・思えば、原の遭難は実は政党政治の将来にとっての不吉な兆候であったのである。歴史は、今日そのことを、正に立証している。


犬養毅
「そいつ達に会はう。会って話せばわかる。」

西園寺公望
・「時流に逆らいもしなければ時流に従いもしない」

・「此の国家の艱難たる時に当って愈々益々文明国たる本領を徹底しなければならぬと私は考へる」

・政党を率いるには、智見よりも根気を要し、聡明よりも胆勇を要し、或る場合に於ては教訓よりも扇動を要することあり。

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175.猟銃・闘牛 (井上靖)

ひとりの男の十三年間にわたる不倫の恋を、妻・愛人・愛人の娘の三通の手紙によって浮き彫りにした恋愛心理小説『猟銃』。社運を賭した闘牛大会の実現に奔走する中年の新聞記者の情熱と、その行動の裏側にひそむ孤独な心情を、敗戦直後の混乱した世相のなかに描く芥川賞受賞作の『闘牛』。無名だった著者の名を一躍高からしめた初期の代表作2編の他『比良のシャクナゲ』を収録。

名作と呼ばれる小説家には、当然それぞれ優れた部分がある。井上靖のそれは何だろうか。
初期の代表作を読むということは、そういう「作家の持ち味」を考えるうえでは非常に参考になりそうだ。

猟銃、闘牛、比良のシャクナゲ、三作に共通するのは「人間の心理」というものだったと思う。
もちろん現代の人が完璧に感情移入できるかどうかは分からないが、それでも微妙で、そして底知れぬ深みを持つ人間の心というものを非常によく書いているのが分かる。
自分は仕事に全てを捧げたいと願う「比良のシャクナゲ」の主人公のような考え方に同調できるし、どうしても相手の心の一部を独占したいあまりに、結局は別れを選択することになる「闘牛」の愛人の心理にもついていくことができた。一貫した志や態度を打ち立てたいという美意識ゆえに、現実に対して揺れ動かざるを得ない人間の心は、僕にはとても近しいもののように感じられた。

風林火山や敦煌で見られた登場人物の繊細かつダイナミックな心情の変化が物語の大勢に影響を与えていくという、井上靖の小説の神髄が見られた本だったと思う。

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174.清沢洌 (北岡伸一)

『暗黒日記』の著者として知られる清沢洌は、戦前期における最も優れた自由主義的言論人であり、その外交評論は今日の国際関係を考える上で、なお価値を失っていない。石橋湛山、馬場恒吾ら同時代人の中でアメリカに対する認識が例外的に鋭くあり得たのはなぜか。一人のアメリカ移民が邦字新聞記者となり、活躍の舞台を日本に移してから、孤独な言論活動の後に死すまでの軌跡を近代日本の動きと重ねて描く唯一の評伝。

清沢洌、という名前を聞いたことがある人はどれくらいいるだろうか。
正直なところ、自分はこの名前を知らなかった。
日本が戦争へと外交の坂道を転がっていった時代、「物事が分かっている人間」は迫害されていった。それは「反骨のジャーナリスト」などのジャーナリズム精神を取り扱った書物に詳しい。悲しいことに、当時の日本の新聞をはじめ、多くのマスコミは大衆の激情を反映するばかりで、「道理」や「良心」を反映していなかった(今は違うと思いたい)。 

そんななかで、自由主義者として活躍するとはいかに大変なことであるか。簡単に想像できるものではないだろう。清沢洌は、「イデオロギーと現実」「愛国心と現実」そうしたものが交錯した非常に難しい時代を自らの言論と現実感覚で切り開いていった人物だと言うことが出来る。

陸羯南というジャーナリストがいる。以前、彼の言葉をここで引用したことがある。
独立的記者は党派の代りに道理をその主人と為し、時ありてか輿論を代表せずして寧ろ之をかい誘(教え導くこと)するの職分を有す。
時によっては世論に逆らい、道理を主人とする。
清沢洌は、その精神を貫いたジャーナリストの一人であるということが出来る。

一般に、現実に対するリアルな認識や対応は、何らかの価値に対する献身に支えられて初めて可能となるのであって、そうした根底のない「現実主義」は、現実の変容に追随するだけのものになりやすい。
著者の北岡伸一は、こう指摘する。
道理なきジャーナリストは、いかに正確に現実を伝えることが出来ても、現実追従主義に始終してしまう。では、清沢洌が戴いた道理とは何なのか。その根底は、この本のあちこちに書かれていた。

日本政治、日本社会の自由主義的変革をいかにして実現するか、それが清沢の最大の問題関心であった。
態度、心構えとしての自由を基底としていたことが、彼が自由主義者として一貫しえた大きな理由であった。
以上のような基盤をもとに、清沢は「道理」を作っていった。


この本自体の感想だが、強い感銘を受けるほどでもなかった。
ただ、随所に清沢の考えが見られ、いずれも現代でも通用するような優れた議論であった。そこは素直にすごいなと思わされる。

これを読んで思ったことはただ一つ。「清沢洌の著作を読んでみたい」ということである。
松岡正剛の「千夜千冊」というサイトに、「暗黒日記」の書評もあった。
清沢自身のカッと目を見開いた言葉がこちらの胸倉を掴むのが心地よい。
これは読まなければ、と思わされている。


以下に印象的なフレーズ

清沢のリアリスティックな外交評論の根底にあったのは、国際関係の基礎は経済力であり、政治的・軍事的な力の果たす役割は二次的であるという考えであった。

政治や外交の限定された、しかし重要な役割は、国民の経済力を賢明に導いていくことにあった。

「教育の失敗だ。理想と、教養なく、ただ『技術』だけを習得した結果だ」

「世界無比に戦争に果敢なる日本国民が、同じ程度に外交に聡明であるかどうかが、将来に残された最も大なる課題である」

「一の非を否定することにより、十の是をも否定し去ることは公平であらうか。」

「彼は国家と云ふ大きな石垣が一足飛びで出来ると思って居る。見上げる上の方の欠陥が実は下から積み上げねばどうも出来ないものである事を忘れて居る。」

「生きると云ふ問題の前には由来法律などは欠点の多いとものである」

「愛国心を算盤珠にのるものにせよ」

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173.誰か (宮部みゆき)

さて、順序が逆になったものの、「杉村三郎シリーズ」の第一弾である。
体調を崩したので観光に行く気も起きず(まぁ雨が降っていたし、もともと観光地をはしゃいで回るような殊勝な性格ではないのだが)、本を読むことに一日を費やした。

第二弾から読み始めてしまった僕だが、それぞれのストーリーを楽しむうえでは一切問題なかった。第二弾の解説で「第一弾の杉村三郎はまだ"未熟"なところが多い」と語られており、今回はそうした目線を持ちながら楽しむことになった。

あらすじは以下の通りである。
今多コンツェルンの広報室に勤める杉村三郎は、義父でありコンツェルンの会長でもある今多義親からある依頼を受けた。それは、会長の専属運転手だった梶田信夫の娘たちが、父についての本を書きたいらしいから、相談にのってほしいというものだった。梶田は、石川町のマンション前で自転車に撥ねられ、頭を強く打って亡くなった。犯人はまだ捕まっていない。依頼を受けて、梶田の過去を辿りはじめた杉村が知った事実とは…?

宮部みゆきの作品の特徴の一つは、リアリズムである。
それは小説の中で"万事解決"という結末をあまり描かないことに通じている。「誰か」は、とくにそれが顕著な作品であった。
メインの事件である自転車事故は、犯人の少年の出頭という形で結末がついた。
姉妹と姉の婚約者との三角関係も、決着がつかないままだ。
梶田氏の過去については、主人公の判断で永遠に葬られる。
それらの事情が複雑に絡み、最後に大きな「クライマックス」に…という展開でもなかった。
そのあたりを見るに、宮部みゆきという作家は非常に「ご都合主義」というものを警戒しながら筆を進めてるのかなと思わされる。主人公の行動が出来事の解決に至らないという場面があるのも、ミステリーの中では稀有と言っていいのではないか。

ここまでは宮部みゆきという作家について思ったことだ。
この記事では、まだこの本について考えなければならないことがある。

「誰か」というタイトルの意味である。書いている今も考えがまとまっていない。

本の冒頭で西條八十の詩「誰か」が引用されている。明治から昭和期に活躍した詩人、作詞家だという。

誰か

暗い、暗い、と云ひながら
誰か窓下を通る。

室内(うち)には瓦斯(ガス)が灯り
戸外(そと)はまだ明るい筈だのに

暗い、暗い、と云ひながら
誰か窓下を通る。



最初に考えられるのは、この「誰か」は梶田姉妹の姉である聡美を示しているのではないかということ。
中も外も明るいのに、暗い、暗いと言う。臆病であり、怖がりであり、そして事実彼女には父の過去は「暗い」のである。
物語が終わっても、彼女は主人公から父のしたことを知らされず、過去への怯えを完全に捨てられないままであった。
主人公にとって、読者にとって「明るみ」にでたはずの過去。それでも彼女は「暗い、暗い」と言い続ける。
物語の中でこんな言葉があった。
子供はすべての暗闇にお化けの形を見出す。
皆が忘れているような過去。皆が気にしない過去。誰も注意を向けないような暗闇を見て、彼女は「暗い、暗い」と言うのである。そしてお化けの形を見出す。そして実際にそれはお化けであり――。

…思い付きで書いてみたが、これでも結構筋が通っている感じがする。
「誰かsomebody」というこの本のタイトル。
この意味は何か、なぜ英語も綴られているのか。ネットで色々と書評にあたってみようかなと思う。

意味のない深読みかもしれないが、結構面白い。
そう考えると、僕もまた、だれも気にしないような"タイトルの意味"という暗闇を指さして「暗い、暗い」と言っている人間の一人なのかもしれない。

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レポート プラトンの「国家」と政治論

大学のレポートで提出したものです。
まぁプラトンの「国家」を読んで考えたことを2500字程度にまとめたものなんで、そんな大層なものではないんですが。
テスト対策に追われながら片手間で書いたものですが、後で読むとなかなか面白いこと言ってたなぁと思ったので、一応保存という感じで。

もう評価を貰ったわけですし、「このページからのパクリじゃないか!」とか言われても、別にこれは僕のブログなんで…きちんと説明すれば問題はないでしょう。


・プラトンの国家論と政治論
 プラトンの「国家(上・下)」には、後年の政治哲学で議論されるような内容のエッセンスが非常に多く見られた。読んでみて「現代論じられているような哲学上の話題はほとんど古代ギリシアで出尽くしてしまっている」という主張も頷けると感じた。そこには、後年のジェンダーや政治体制、教育などに関する議論の原型ともみられる話が展開されていた。
そんな「国家」を題材として、今回はそこに書かれた「正義」の考え方から、現代の社会制度について考察したい。
正義と不正について、プラトンは「国家」の上巻でその議論を以下のように展開していた。物や人にはそれぞれが得意とする「徳」が備わっている。その「徳」にしたがってそれぞれが「自己本来の仕事に就いている」状態こそが、正義の実現した状態であると。そして、不正とはその反対に、「自己本来の分を超えて、他の領域に対して余計な口出しや手出しをすること」だと述べられていた。
最近、これと同じような議論を本で読んだことがあった。政治哲学の講義で話題のマイケル・サンデルによる「これからの正義の話をしよう」に、プラトンの弟子であるアリストテレスの政治哲学を紹介する箇所があったのである。サンデルはこれを「笛を配るにあたって探すべきなのは最も裕福な人や最も美しい人ではないし、全人格において最善の人ですらなく、笛を最もうまく吹く人だということだ」と表現している。その根本は、プラトンのいう「正義」とほとんど同じである。ふさわしい財や人を、社会のふさわしい箇所に配分し、その「徳」を発揮させる。それが、正義にまつわる議論が展開されて以来の政治と社会の最大の命題であった。
では、ここから自分の専門分野である政治や社会に関する議論を通じて、考察を深めていきたい。現代社会でモノや人を動かしているのは、大きく言えば二つのステージである。一つのステージは市場であり、そこでは効率性という論理でモノや人が動いている。もう一つのステージは政治であり、そこでは公平性という論理でモノや人が動いている。もちろん綺麗に二分されるわけではないが、理念的にはこのように類型化されている。そして、それぞれは互いに協調しながら、正義を実現しようとしていると考えられる。
具体的に見ていきたい。市場は突き詰めて考えると経済的効率性に基づいて、「能力のある者が勝つ」というシステムで動いている。能力があれば、お金がたくさん集まる。お金がたくさん集まれば、財をたくさん買うことができる。市場はそのようにして、最も優秀な人物に最も多くの財が集まるように動いていくとされている。たとえば、木工が得意な人は自分の製品でお金を儲ける。お金が儲かったら、木工が得意でない人から材木を買い集める。こうして木工が得意な人はたくさんの製品を作り、より金持ちになる。同時に、社会は今まで持っていた材木を、木工が得意な人によって最大限活用してもらったことになる。これが、「パイの最大化」とよく言われる、経済効率である。木工が下手な人には市場での需要は集まらず、木工が得意な人によってのみ材木が次々と加工されていく、というのである。
これはプラトンのいう正義の状態ではないか。木工が得意な人に材木が集まる社会は、その人が持つ「徳」を発揮させる社会であると考えることができる。優秀な人にどんどん仕事が舞い込んでいく市場経済のステージは、まさに適材適所の、正義に適った場であると考えることができよう。
では、なぜ政治は生活保障や累進課税制度などを通じて社会を公平化しようとするのだろうか。格差の是正をうたって金持ちから税金を集め、貧困層にそれを再配分するのは市場の原理とは正反対の行為であるように見える。極端に言えば、市場で勝ち残った優秀な人間から、敗れ去った無能な人間に財が移譲されるのである。これは正義に適わない行為なのではないかという疑問は、当然出てくるだろう。
政治のこうした営みは、経済学では「パイの分配」と言われる。市場の論理は社会の効率を最大化できても、格差の問題を解決することができない。政治学の教科書の言葉を借りれば、「ジャガーを乗りこなす人がいる一方で、自転車にも乗れない人がいるという状態に、経済学は答えを与えてくれない」という。格差是正を図る政治の営みを、プラトンの「国家」における正義論で正当化することはできないだろうか。
歴史的に、政治が財の再配分を手掛け始めたのは、資本主義社会が本格化して格差による社会問題が浮上し始めてからであった。資本家階級によって不当に搾取される労働者階級という構図が半ば固定化され、親が貧しければ子も一生工場で働かなくてはならないという半封建制のような社会が出現したのである。こうした問題によって発芽したのが社会主義の思想であり、それは部分的に「財の再配分」という形で資本主義国家にも応用されていった。
ここで、市場経済の原理が社会を支配していた時代を見ると、そこにプラトンの言う「不正」が生じていることがわかる。労働者階級がただ搾取の対象である時、彼らは自己の性向に関係なく単純労働に従事させられた。人によっては基礎教育すら修める前に働かされ、自分が何に向いているかなどを考える暇すらなく労働の現場で酷使されていた。この現状は「不正」に他ならない。すなわち、資本家階級は労働者の潜在的な能力や性向を無視して自分の意のままの労働に従事させることで、労働者の持つ分を侵していることになると考えられる。以上の論理から見れば、政府による過度の格差を是正する措置は「不正をただすため」に必要であることがわかる。
以上のことから、プラトンの正義観を軸に考えると市場は「正義」を積極的に実現するのに適したシステムであり、再配分を行う政府は「不正」を正すことで、「正義」を消極的にではあるが実現するシステムであると考えることができる。

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172.名もなき毒 (宮部みゆき)

今回読んだのは宮部みゆきの「名もなき毒」。
後で知ったのだがこれは「杉村三郎シリーズ」の第二弾だという。まぁそれでも楽しめたからよかったが、なんとなくミスをした感じがする。

あらすじ。
今多コンツェルン広報室に雇われたアルバイトの原田いずみは、質の悪いトラブルメーカーだった。解雇された彼女の連絡窓口となった杉村三郎は、経歴詐称とクレーマーぶりに振り回される。折しも街では無差別と思しき連続毒殺事件が注目を集めていた。

上にあるように、「原田いずみ」に関する事件と「無差別連続殺人」に関する事件の二つが同時に進んでいく。そして、クライマックスで二つの事件がぶつかっていくことで、物語を盛り上げていくのである。

今回の宮部みゆきの作品で浮かび上がったものは何か。
それは、「原田いずみ」「無差別連続殺人」にも共通した、人間の持つ「名もなき毒」だった。

人間はだれでもちっぽけである。
皆がそこそこ豊かになっていき、大衆社会が成立してから、その感覚はより強烈なものになっているだろう。
そうしたなかで、多くの人の心の中に、「名もなき毒」が根付き始めた。社会に慢性的に広がる毒は、時として凶悪な事件に結び付くことだってある。これは何も物語の中だけの話ではない。

自分がちっぽけであり、何者でもない存在である、というところが「何者かである自分」への第一歩だと思うのだが、全ての人が満足することは不可能である。

こんなセリフがあった。
「どこかの誰かさんが"自己実現"なんて厄介な言葉を考え出したばっかりにね」
自己実現というのは一種の化け物だ。とどまることを知らない。
ああなりたい、こうなりたいという欲求は、豊かな時代になって基本的な欲求が満たされると同時に、人を飲み込むような勢いで成長していく。自己実現が出来ているという実感がなければ、どんなに幸せな環境にいても、自分でそのことに気づくことはできない。

「名もなき毒」は、そういう人間たちによって抱かれる。
「名もない」者によって抱かれ、さらに「名前」をつけられぬほど社会に蔓延し、広がっている。

豊かな人も、貧しい人も、自己実現という幻想に追われ、つねに飢えている。
そして、幸福を享受していそうな人物を否定したがる。そうしなければ、彼らはどうして生きてゆくことが出来るだろう。


現実に問題となっているヘイトスピーチやネット右翼についての話を思い出した。
彼らは戦争や憎しみ争うことを望んでいるという。
彼らの多くは普通の幸せすらも享受できなかったという。
学歴もなく職を得ることも難しく、いまの社会でこれから自分がどう生きていくのか、何も希望を見出せないという。
だから、誰でもいいからこの社会を滅茶苦茶に壊してほしい。
幸福な人も不幸な人も関係なく、皆が不幸にならないかと。
そうしなければ、自分の立つ瀬がないのだという。

これも社会に蔓延る「名もなき毒」だ。
決して毒を持つ人々を否定しているわけではない。
毒を持たなければ生きていけない人が、毒を持つ必要もなく生きている人を見れば腹立たしくなるのは当然である。

都市化、社会の自由化、産業構造の変化、社会の価値観の多様化。
様々な要因が重なって、人々はますます「無名」になっていき、「群衆の中のひとり」になっていく。

誰かに認められていたい、誰かと繋がっていたい、苦労もせずに幸福になっている奴が許せない。
群衆が大きな靴音を鳴らしながら社会を動かしている裏で、「名もなき毒」は静かに人の心の中に伝播していく。
それが発露するまで、誰にも気付かれることはないのである。
宮部みゆきは、それをミステリー小説の形で表現していた。

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171.限りなく透明に近いブルー (村上龍)

村上龍が芥川賞を受賞したデビュー作である。
あらすじは以下の通り。

米軍基地の街・福生のハウスには、音楽に彩られながらドラッグとセックスと嬌声が満ちている。そんな退廃の日々の向こうには、空虚さを超えた希望がきらめく――。

本に書かれているあらすじのうち、ストーリーに触れられているのはこれだけだ。
個人的には「希望がきらめく」という部分が釈然としないが、まぁそれはいいだろう。
この作品には、ストーリーがない。同時に、多くのストーリーが詰まっている。不思議な小説である。

この本では、読者は主人公のリュウの五感を借りて物語に入っていくような形になる。要するに、一人称目線の叙述である。
村上龍の作品を読むのは初めてなので、意図したのか著者の傾向なのかは定かではないが、ドラッグとセックスに溺れている若者たちを、そのうちの一人として眺めるリュウの叙述は、「目線」に重点を置いたものになっている。つまり、小説としては分かりにくいのだ。

人間の脳内というのは、人が思っている以上に混沌としているという。絶えず五感から情報の波が集められている。たとえばいまの僕で言えば、触覚からはキーボードの感触が伝わる。瞳にはディスプレイに打ち込まれていく文字だけでなく、パソコンの横にある雑巾や薬、手前に置いてあるマグカップも映っている。耳からはイヤホンから流れるSuperflyの曲の旋律が、鼓膜越しに届いてくる。それら混沌とする「現在」を、人は絶えず「意味づけ・秩序づけ」をしながら受け入れていく。大事なものを意識し、不要な感覚はシャットアウトしたり、忘れていく。小説は第三者や過去を振り返る主人公といった視点を設定することで、あらかじめクリアに秩序付けられた「物語」を私たちに届けるのである。

しかしこの本では、リュウの五感に反映される情報が、鮮やかに読者の頭の中に入ってくる。
その代わり、一つ一つの場面がどのような状況なのか、本のなかでどのような意味を持つのか、そういった情報は一切入ってこない。主人公のリュウには、そんなことは関係ないからである。
しかし、それが逆にこの小説を描く上で効果を発揮している。
主人公の秩序だった思考はドラッグによって低下し、代わりに彼独自の感受性が鋭くなっている。そうした小説の題材の特殊性を十二分に活用する叙述の形式だった。

人間は「現在」に「解釈」が追いつくことはない。
それをそのままに、描き切った小説であった。
二回読む必要がある本というのは、こういう本だろう。
一度目は主人公の目線で。二度目は本の中身を知っている者としての目線で。
とにかく、分かりにくい。しかし、五感がそのまま乗り移ってくるような詩的な表現の連続は、普通の作家にはできないことだ。これは間違いない。

村上龍はこの所説について「後の自分の書く作品のすべての要素が詰まっている」と話しているという。
なるほど、この小説家の持ち味を知るには一番の本なのかもしれない。

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170.火車 (宮部みゆき)

「火車」は、ミステリー史の中でも傑作と呼ばれる作品の一つである。
あらすじは以下の通り。

休職中の刑事、本間俊介は遠縁の男性に頼まれて彼の婚約者、関根彰子の行方を捜すことになった。自らの意思で失踪、しかも徹底的に足取りを消して――なぜ彰子はそこまでして自分の存在を消さねばならなかったのか?いったい彼女は何者なのか? 謎を解く鍵は、カード会社の犠牲ともいうべき自己破産者の凄惨な人生に隠されていた。

普通、ミステリーと聞いて思い浮かべるのは「事件」が起きてその犯人捜しをしていくシナリオである。しかし、この本では違う。最初の謎を追っていくうちに、「事件」の匂いがしてくる。してくるのだが、その「事件」が何なのか、果たして本当に起こったのかは、物語の終盤まで謎に包まれていた。謎が謎を呼び、それらの繋がりの正体を握る唯一の女を、主人公はただひたすらに追い続けていく。
人間は痕跡をつけずに生きてゆくことはできない。
痕跡を消し去って必死に生きようとする女と、全貌を掴めぬままになんとか辿っていく男。スリリングな作品だった。

確かに、構成も登場人物の魅力も、描写も、申し分ない。しかし、それでは「優れたミステリー」であるにすぎない。僕はこの小説に対して、「偉大である」という評価を下したい。
この小説の偉大さを考えるにあたって、「社会派」という単語は一つのポイントであろう。
現実の社会問題に重点を置く考え方や作風を「社会派」と呼ぶが、この「火車」ではカード社会の暗部が色濃く描かれていた。

この事件が発覚する発端となる被害者の前歴も、犯人の前歴も、多重の借金による苦しみを受けていた点が共通点として挙げられる。作中で弁護士による「カード社会の犠牲者」についての話にページを割いているように、この本では「借金に追われる人間の人生」というものが一つの軸になっている。
タイトルの「火車」も、その象徴だろう。家計や個人の収支など、経済的に苦しい状況に置かれることを「ひのくるま」と言う。それに加えて、「生前に悪事をしていた亡者をのせて地獄に運ぶ」という冒頭の注釈も踏まえると、「姓名を偽っても、経歴を一新しても自分の業がついてくること」を暗示してもいるように思われる。
「社会派」ということに話を戻すと、この作品の偉大な点は、犯人も被害者であるように読者に感じさせて終わらせるところにある。謎を追っていくうちに、主人公は徐々に犯人の凄惨な過去を知っていくことになる。親の作った借金がどこまで行っても付きまとい、そして自分が生き残るために誰かの身分を乗っ取らなければならない――。
この構図が完成したラストで、「さて、誰が悪いのか?」と読者に聞かれたとしよう。
普通のミステリーならば、「犯人が悪い」となる。少し複雑なミステリーなら、それぞれの動機が交錯しあい、「みんなが悪い」という風になるだろう。
「火車」は、そうではない。犯人は確かに罪を犯した。借金を作った人間にも、作中でこの考え方は強く否定されているが、それなりに個人的な要因があったのは認めなければならない。それでも、この小説のラストで読者の目の前に広がる構図は「誰かが悪い」という類のものではない。「社会の中に、急にぽっかりと口を開けた奈落の底」と「そこに呑み込まれていってしまった人々」になっているのである。これがこのミステリーの社会派たるゆえんであり、偉大であると呼ぶにふさわしい根拠であろう。


読後、作中で出てきた弁護士の話が、頭の中を駆け巡った。

「交通事故において、ドライバーの責任論だけを云々して、おざなりな自動車行政や、安全性よりも見てくれと経済性ばかりにこだわて、次から次へとニューモデルを出してくる自動車業界の体質に目を向けないことは間違っている。そうでしょう?」

たしかに、一部には問題のあるドライバーがいます。しかし、そういうドライバーと、なんの過失もないのに事故で命を落とされたドライバーを一緒にして、ただ『事故に遭ったのは本人が悪いからだ』と言い捨てることは、もっと間違っている。消費者信用についても、多重債務者についても、それとまったく同じなのですよ」


犯人の肩に手を置かれたラストシーン。
読者が見るのは、儚く無力な犯人と被害者、そしてその向こうで不気味にぽっかり口を開けた社会の闇なのである。

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169.淋しい狩人 (宮部みゆき)

今度も、宮部みゆきの小説である。
父親がどうも宮部みゆきの小説を好んでいるようで、ロンドンに送ってもらった本の半分以上が彼女の小説だった。

「淋しい狩人」の構成は、一話ずつ完結する物語が数編入っているという形だ。ただ、全ての話を通じて「田辺書店」のおじいちゃんとその孫が出てくる。この一冊の主人公は、この二人だろう。

読んでいて「筆者は本が好きなんだな」ということがしみじみと伝わってきた。本とは確かに情報を載せただけの物質に過ぎない。それでも作中で好意的に描かれる人物のほとんどは本に対して何かしらの敬意を払っているような人たちだった。主人公の二人も本をきっかけに事件へと巻き込まれていく。人と人との不思議な縁を媒介するような、そんな独特な存在として「本」は描かれていた。

宣伝の帯には「このミステリーがすごい!」と書いてあるが、そこまで肩肘を張って読むような本ではない。心地よいテンポに任せて読み進め、気付いたら終わっているような一冊だった。
なるほど解説では宮部みゆきの「リアリズム」の凄さを語っている。確かにそれは彼女の小説の面白さの秘密ではあるが、普通の読者はそこまで頭を働かせる必要もない。四角張った「古書」を置かず、お客さんに愉しみと夢を与えるという「田辺書店」の経営方針と、宮部みゆきの執筆の方針は重なるのではないか。
宮部みゆきの本は、確かにすべての人に受け入れられやすく書かれている。それが彼女の人気の秘密なのだろう。
人に読まれるか否かというのは本にとって大事な指標の一つである。彼女の本は、それを満たしている。しかも、面白い。なるほどこれが彼女の凄さなのかと、今改めて感じ入っている。

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168.ダイヤモンドダスト (南木佳士)

芥川賞を受賞した作品を読んでいこうと思い、今回はこの「ダイヤモンドダスト」を選んだ。
著者の南木氏は医師であり、その現場に携わる人々を中心に独特の雰囲気を持つ短編がそろっていた。

読んでいて良い日本語を書く人だな、と感じた。
程よい固さを持ち、それでいて少し儚さを感じさせるような描写が印象的だった。のめり込むというよりは、読者の想像力を喚起し、働かせるような小説だ。

著者の大きな特徴は特徴は医師であること、そして田舎が好きであること。
前者は物語に特殊な生死観や人間観を授け、後者は物語に独特な柔らかさを授けているように思える。解説でもあったが、流行りに左右されない“これ”というものを持った作家なのだろう。

良くも悪くも、大きな振れ幅の少ない小説だったと思う。
体が前のめりになるような興奮をもたらすわけでもなく、涙腺につんとくるような感動をもたらすわけでもない。静かに、著者の持つ世界に“浸っていた”という感覚である。無理に寄り添ったわけでもなく、物語に引きずり込まれたわけでもなく、適度に距離を保ちながら、静かに自分の思考を取り巻いてくる。そんな小説だった。
抽象的なコメントしか書けなくて悔しいが、いろいろな登場人物に思いを巡らせることができる、いろいろな味わい方が出来る小説だったと思う。

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167.我らが隣人の犯罪 (宮部みゆき)

この前宮部みゆきの「龍は眠る」を読んだので、今回は彼女の短編集「我らが隣人の犯罪」を読んでみた。彼女のデビュー作である。
僕は長い間推理小説、ミステリー小説を読んでこなかった。中学時代に松本清張や森村誠一を熱心に読んでいた記憶があるが、いつのまにか読まなくなっていた。宮部みゆきは、久しぶりに読む推理小説作家だ。

推理小説というのは、面白くしようとすると「出来すぎ」になりやすくなるという危険を背負っているように思われる。もちろん「危険を背負っている」というだけで、面白いうえにリアルな推理小説というのはいくらでも存在する。
解説で一つのヒントを得た。解説者はこの本を読んだときに「全ての人を語りたくなるから、基本的に長編作家だ」と評したらしい。一人一人の登場人物に対して細かい心情の気配りや設定を練っている証左だろう。思うに、この繊細さ複雑さこそが小説にリアリティをもたらし、読者をのめり込ませることになっているのではないか。

誰かが動けば、それに触発されて次々と行動の連鎖が始まる、というのが人間社会の本質であり、あらゆる小説を成立させしめる大原則である。そこに違和感を差し挟む余地があればその瞬間に、読者は物語から離れていくと考えていいだろう。
自由意思に基づいて動く人間が、結果として著者の意図する結末を演じること。これは決して簡単なことではない。主導権が著者にあると思わされる限り、本へのシンパシーは薄くなる。主導権を登場人物にいかに持たせるか、そして持たせるように見せるか、これが小説を面白くする大きな要因であると推察する。

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