角川文庫の「北斗の人」という作品。今日は一日暇だったので、読み終えてしまった。 北辰一刀流を開き、日本史上最大級の剣術道場を開いた千葉周作の青春を描いた物語である。 北辰一刀流と聞いて、歴史の好きな人なら清河八郎や、坂本龍馬などの名前を思い浮かべるであろう。千葉周作は、幕末の風雲児を多数生み出した道場の祖である。 物語の最後で、著者はこう評している。周作というのは剣法から摩訶不思議の言葉をとりのぞき、いわば近代的な体育力学の場であたらしい体系をひらいた人物である。この点、日本人の物の考え方を変えた文化史上の人物であるということで、筆者も楽しんで書いてきた。 この小説の中で光るのが、千葉周作の合理的思考である。彼はその一級の思考をもとに「剣術」というものを自分で再構成し、「晦渋な秘儀に堕した兵法に反逆」する。 「固陋な世界を卓越した実力者が腕に物を言わせて切り開いていく」というストーリーは痛快小説の鉄板であるが、周作の活躍はまさにそれである。いや、一介の馬医者の次男から剣の腕ひとつで立身し、諸国を回り、あらゆる道場を打ち破り、最後には門人5000人とも言われる道場を打ち立ててしまうのだから、むしろ出来すぎていると言いたくなるだろう。 自らの実力で世界と渡り合っていく主人公の活躍は見ていてとても心地よく、司馬遼太郎もさぞかし書いていて楽しかっただろうと思わされる。 道を究め、天下に名を轟かせようという若者を描いた小説であるだけに、心に残る言葉がいくつもあった。600ページ超の小説なので決して短くはないはずだが、これを一日で読めたのは、千葉周作の姿に自分の心の琴線に触れるものがあったためであろう。以下に気に入ったフレーズを貼っていって、この記事は終わりにしたい。 ・「一生はみじかいのだ、自分のうまれつきを伸ばさぬ法があるか」 周作は剣術で名を立てることのできなかった父から、剣の道で一流になるよう熱望されていた。 これはその父の言葉であるが、身を立てるための覚悟として肝に銘じておくべき言葉だろう。 ・「女がその美貌をまもるように、男はその精神の格調をまもらねばならない」 非常に分かりやすく、美しい考え方に見える。これを頭の隅に置くだけで、人によっては行動が変わるかもしれない。 ・権威に対する恐れを知ったとき、若者はもはや若者ではなくなるだろう。 技術を究めるには、まずは権威にひれ伏して全てを吸収する必要がある。しかし、本当に大物になるためにはどこかで反逆しなければならない。 いわゆる守破離であろう。千葉周作はこれをして、そして天下に名を轟かせた。 ・「もともと志を樹て志を展べるということは、桑に梅を接木をするようなものだ。尋常でない構想と、天地の摂理をもはらいのけねばならぬ勇猛心が要る」 守破離と同じようなことを説く主人公の父の台詞。 ・技術には伸びざかりというものがある。 ・人間は、生身の自分と世間の風聞で作られた自分との二通りの人格を持って生きつづけてゆく。その二つがあまりにもかけはなれた人間というのは、よほどのろくでなしか、よほどの傑物か、どちらかだろう。 ・人の世の事はたいてい左右いずれともきめがたいことが多い。そのとき当人にかわって、覚悟の決定をうながしてくれる存在のあるなしで、人の幸不幸のわかれることが多い。 人間の洞察に長けた著者ならではの表現。 ・「思いを遂げるのよ、男の子だから」 何となく気に入ったフレーズ。 艶めかしい男女のことと志という二つの要因がそろって、青春と呼ぶにふさわしい場面になっている。 ・人を屈せしめる根源は要は気魄のようであった。 ・策謀というものは、九割までの本当の上に立ち、それを利用してめぐらさねばならぬものだ ・道中、愛嬌をうしなわぬこと 諸国を一人で廻った時の周作の心得だった。 知らない世界に飛び込むとき、人は馬鹿にみられて可愛がられるより仕方がない。これは自分がいまイギリスで痛感していることと通じるものである。 ・技というのは日進月歩すべきものだ ・周作は剣を、宗教•哲学といった雲の上から地上の力学にひきずりおろした、といっていい。 ・「天は頭上にある。それがしも畏れます。しかし兵法は人事だ。古人を畏れていては物事の進歩はない」 周作の考える、技術について。彼がいかに革新的な発想をしていたかが印象付けらえるフレーズ。 ・「口を閉じ、腹中の言葉を釀醞させ、血肉のなかで溶かしきらねばならない。兵法者の言葉というのは、舌であらわすのではなく、心気力で表すものだ。」 寡黙な周作であったが、そのぶん心の中は繊細で豊かな感情の持ち主だったという。 最後。生きているあいだに必要なのは自分一人だけさ」(千葉周作) かっこいい! 以上です。
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また副読本。 ハイジャックを題材にした物語だった。 古典の要約のような本ではなかったから、ストーリーを追うのも簡単だった。 物語としては物足りないと思うのは当然だが、その分「物語を作る原型」のような構図が見える気がして、何となく興味深い。 以上。
「風林火山」は、戦国一の軍師と言われる山本勘助を主人公とした歴史小説である。2007年に放送された同タイトルの大河ドラマの原作とされている。 不遜で人に理解されることの少なかった山本勘助が、武田信玄の下に仕えて信頼関係を築き、やがて武田家の将来のために野望を追いかけていく様を描いている。彼は戦乱の時代に生きながら、神がかり的な采配を下し続けて60年を超える長寿となっていった。最大の敵である上杉謙信の軍を相手に川中島の戦いで散っていくその最期は、夢に生涯を賭した男の姿にふさわしい、美しさを感じさせるものであった。 冒頭で青木大善を切り捨てているように、当初の勘助は机上の論が達者な頭でっかちで、傲岸不遜な嫌みの強い人物のように描写されていた。しかし、物語が進むにつれて彼は信玄や由布姫に徐々に惚れこんでいき、その性格からアクがとれていく。細かいところだが、こうした人物描写の微妙な変化が読者を引き込んでいる要因にもなっているだろう。 解説や分析などで書くことはもうない。 素直に今の感想を書くと、「井上靖もいいなー」というものである。 中学の時に彼の自伝であった「しろばんば」と「夏草冬濤」を課題で読まされたのだが、もちろん課題で読む本に面白味を感じることなどあるはずもなく、そのまま井上靖に対する印象もろくに持ち合わせてこなかった。 ただ、いま「敦煌」や「風林火山」を読んでみて、思ったよりもロマンあふれる小説を書いていたことに驚いている。食わず嫌いとは怖いものだ。 時代小説には、夢とロマンが詰まっている。生涯を賭したドラマを楽しむことが出来る。 本には出合うべき時期があるとよく言われるが、生涯の振り方に思いを馳せることの多い今の自分にとって、歴史小説の世界にどっぷり浸かりたくなる欲求はある意味当然かもしれない。
・A Tale of Two Cities (Charles Dickens)
今回は副読本の中からチャールズ・ディケンズの「二都物語」を選んで読んでみた。 有名な小説なので一度読んでみたかったのだが、副読本という形で読むことになった。 薄い副読本なので、物語の展開が早くて理解するのが(逆に)大変だった。あらすじはインターネットで調べてから読んだのだが。 「洋書は最初は内容を知っているものを読むと良い」ということを聞いたことがあるのだが、本当にそうかもしれない。日本語で訳された本を読んでから洋書を読むようにすれば、内容の理解も深まるうえに英文を自分の知識で補完しながら読解していく癖もできる。 ただ、今は日本語の本が好きに入手できるような環境ではないので、あらすじを調べて読むことくらいしかできないのだが。 今回の反省としては、やはり読むペースが遅かったかなということである。 限られた期間で出来るだけ英文をこなせるようにする必要があるので、もっと頻繁に読書に取り組むようにしたい。
今回は司馬遼太郎の短編集、「幕末」。歴史はときに、血を欲した。このましくないが、暗殺者も、その凶手に斃れた死骸も、ともにわれわれの歴史的遺産である。そういう眼で、幕末におこった暗殺事件を見なおしてみた。 あとがきで著者はこう語る。血に染まった事件史をそれぞれ短編にまとめたのである。 暗殺というのは殺すほうも殺されるほうも命懸けだ。それだけに、事件史では小説の題材になりうるようなドラマで溢れている。幕末には、時勢と思想の狭間で多くの暗殺者が躍動した。 さて、いちいちのあらすじを書くこともないであろうから、簡単に終えよう。 司馬遼太郎は、あとがきでこう総括している。書きおわって、暗殺者という者が歴史に寄与したかどうかを考えてみた。 ない。 平和な時代に生きる人間として、人を殺めることは断固として否定した。ただ、小説家として最後に一言こう添えている。暗殺は否定すべきであるが、幕末史は、かれら暗殺者群によって暗い華やかさをそえることは否定できないようである。
163.The Moon and Sixpence (W.Somerset Maugham)
サマセット・モーム「月と6ペンス」である。 自分の英語能力からすれば背伸びをしすぎた気がするが、なんとか物語を追って読み終えることが出来た。とりあえず読み切ることが大事である。挫折せずになんとか食らいついて、その自信をもとに次へ次へと読んでいくうちに、読解力はついてくると期待している。語学力とは一つの能力であるから、その学習も勉強というよりは訓練といった要素のほうが強い。 かなり手ごわそうだったので、内容をあらかじめ把握したうえで読んだ。 日本でも有名なサマセット・モームの代表作の一つである。以下の概要はwikipediaから。『月と六ペンス』(つきとろくペンス、The Moon and Sixpence)は、1919年に出版されたサマセット・モームの小説。画家のポール・ゴーギャンをモデルに、絵を描くために安定した生活を捨て、死後に名声を得た人物の生涯を、友人の一人称という視点で書かれている。この小説を書くにあたり、モームは実際にタヒチへ赴き、ゴーギャンの絵が描かれたガラスパネルを手に入れたという。題名の「月」は夢を、「六ペンス」は現実を意味するとされる[1]。 妻子も安定した生活も棄て、チャールズ・ストリックランドは絵描きになることを決意する。周囲の理解を得られないままに自ら極貧の環境へ身を投じ、その中で彼は才能を発揮していって…という話である。 芸術を追いかけ社会的な人間のモラルや倫理に一切とらわれない彼は、それでも、彼の芸術を理解し信奉する少数の人間によって辛うじて生命を繋ぎ、病で息を引き取るまで絵を描き続ける。 甲斐性、という言葉がある。 「積極的な気力と生活能力に富んだ、頼りがいのある性質。」と国語辞典には書いてあるが、ストリックランドは要するに、この単語とは正反対の位置に立つ人間であった。彼は芸術のために生涯を捧げると決意し、「社会的存在」としての人間性と引き換えに究極の自由を手に入れたことになる。 問題は、これが人間の生き方として幸福なのかどうかであろう。 そこそこ出世し、魅力的な妻と可愛らしい子供に囲まれ円満に過ごすことと、故郷から遠く離れた地で自分の本当にやりたい芸術に挑戦して、ひっそりと死んでいくこと。月並みな言い方をすれば、どちらも幸福な人生である。ただし、文学の題材として描きたくなるのは後者であろう。「自分の一生を単純に生きる」という哲学は、洋の東西を問わず魅力的に見えるものらしい。 作者であるサマセット・モームも、そういう思想の持ち主だったのではないかと推察できる。この本の最初の部分で、こう書かれているのだ。the writer should seek his reward in the pleasure of his work. 自分なりに下手くそな解釈をすれば、「作家が享受する報酬は、ペンをとること自体への喜びの中に見出されるべきである」という感じになるだろうか。とにかく美しい文章であるなと感じた。日本語では日本語なりの表現の仕方があるだろうが、光る文章が読者に強い感銘を与えるのはどの言語でも変わらないだろう。 さて、とはいっても、今回の読書はものすごく疲れた。 大学一年の春、まだ本を読む習慣もついていなかった頃に無理矢理ロシア文学を読み漁っていた頃に似ている。内容は分かるが、とても疲れるし、ストーリーを吟味するだけの余裕を持つことが出来ないのだ。 とにかく、当分は多くの人が指摘するように英語学習者向けの副読本を読んでいこうと思う。新しく「洋書 副読本」という感じでタグでもつけて、どんどん読んでいきたい。 一年という留学期間でどこまで語学能力が鍛えられるかは不明である。言うまでもなく、それは自分の取り組み方次第なのである。本をたくさん読みながら、そして(親から注意されたように)現地でできた友人と過ごす時間も大切にしつつ、ロンドンで過ごしていけたら素晴らしいと思う。
なんだか一日一冊ペースが続いている。 海外に一人暮らしということで、普段の娯楽が殆ど無くなったためだろうか。本を読み終えるペースが若干おかしい。 さて、今回は井上靖の歴史小説である「敦煌」を読んだ。あとがきにはこう書いてある。小説「敦煌」は、三人の架空の主人公のやや大げさに伝説的な活動を描いてあるのだが、この物語の本当の主人公は敦煌という町自体である。そして歴史というものが、興亡を問わず常に物悲しいものであるという主調が全体を貫いている。 11世紀を舞台に、西夏と宋の紛争という史実に基づいた歴史ものだ。 この辺の歴史は大学入試の世界史で勉強したが、北方民族史だけはどうしても曖昧なままになってしまったのを覚えている。騎馬民族が覇権を握る傾向にあるだけに、国家の勃興も激しいのである。 もともと、20世紀になって敦煌の万巻の書物が敦煌で発見された、という事実をもとに書いた小説であるという。 「1000年近い時を経て陽の目をみた」というエピソードには、確かに私たちの想像力を掻き立てるものがあるだろう。そしてその傾向は小説家たちのような職業人に、より顕著であるらしい。 時代背景や権力者の人格、紛争の経過などは史実に基づいた部分が大半である。その中で井上靖は架空の人物を上手く操り、敦煌に書物を隠させるように至らしめるのである。 卓越した取材力と構想力がなければ出来ることではない。 趙行徳の心理状態の推移に若干引っかかる箇所もあったが、大変魅力的な物語だった。井上靖の文章は新聞社上がりらしく、簡潔である。必要な情報を過不足なく盛り込んでおり、読んでいて非常に勉強になった。 また、小説がどのように作られていくか、という観点からも大きく参考になった。 「小説を書くには、まず書きたいシーンを決める」という。この本で描くべき結末は「何者かが敦煌に数多の書物を隠す」ということであろう。そこから逆算的に、どういう人物をどういう経緯でその場面まで導いていくかが小説の「構想」にあたる。「敦煌」は、そういう作家の思考の流れを想像しながら読んでも面白い一冊であった。
一日で読み終えてしまった。 留学に来ているのに、本を読む時間がやたらと増えている。さすがに週末はどこかに遊びに行くと思うが……。土日の間にまた記事が更新されていたら、察していただきたい。 さて、今日読んだのは遠藤周作の「わたしが・棄てた・女」という小説だ。 一人の女性の生涯を描いたものであるが、棄てられた女の恨みつらみを書いたような単純な物語では決してない。物語のはじまりに、主人公はこう告白している。ぼくは今あの女を聖女だと思っている…… あらすじは本の裏表紙のものを写しておく。二度目のデイトの時、裏通りの連込旅館で躯を奪われたミツは、その後その青年に誘われることもなかった。青年が他の女性に熱を上げ、いよいよ結婚が近づいた頃、ミツの躯に変調が起こった。癩の症状である。……冷酷な運命に弄ばれながらも、崇高な愛に生きる無知な田舎娘の短い生涯を、斬新な手法で描く。 主人公の男はミツを棄てたのである。そして本を読む限り、ミツもまた、棄てられるような(こういう言い方が許されるならばの話だが)、それこそ普通の女であった。 しかし彼女には、一つ特殊な性質があった。困っている人、辛そうな人を見ると、自分のことなど一切忘れてしまい、ただただ慰めようとしてしまうところだった。物語は、損ばかりをして生きてきた心優しい彼女が癩病(ハンセン病)であるとの診断を受けることで、急激に展開していく。 男女関係で棄てる・棄てられるという話は、社会では腐るほどある。 作中で、男は「棄てた女」とは無縁の人生へと進んでいきながらも、どこかで胸の痛みを感じながら生きている。 作中で何度か登場する流行り歌が、彼の心理と重なっている。あの日に 棄てた あの女 今ごろ 何処で 生きてるか 今ごろ なにを しているか 知ったことではないけれど 時々 胸がいたむのさ あの日に 棄てた あの女 彼とミツは人生で3回しか逢っていないが、それでもその少ない逢瀬を中心に話は進んでいく。 男は「上手く世の中を泳ぐこと」に対する後ろめたさの象徴としてミツを思い出し、ミツは「人生で初めて結ばれた忘れられない人」として男を思い続けるのである。だが忘れちゃいけないよ。人間は他人の人生に痕跡を残さずに交わることはできないんだよ。 男の心に語り掛けるこの声が、物語の中で「一回限り」の出来事をいつまでもひきずらせていく。 ……重い話なので、なかなか要領を絞って綴ることが出来ない。申し訳ないが、自分の能力不足である。 癩病が発覚し、ミツはどう変わっていくのか。その結末はどうなるのか。もちろん、あらすじから読み取れる通りに物語が終わるわけではないので、気になる方は安心して読んでみてほしい。 物語は二転三転していくので、決して読者を飽きさせることはないだろう。ただ、一時は読むのを躊躇いたくなるほどの絶望的な描写が続いたりする。物語にそこまで読者を引き込ませる、著者の力量の所作だろう。 さて、最後に最も印象的に思ったシーンと、感想を述べて終わりにしたい。 僕は、最後のシーンの 「さいなら、吉岡さん」 で泣きそうになってしまった。 この作品で最も胸を強く打つのは、このシーンであろう。 遠藤周作が大きなテーマとする「キリスト教」的な観方で言えば、彼女はあの瞬間に愚かな行為をした全ての人間たちを許し、救済したと受け取ることが出来そうだ。 「誰だってやることさ」 男はそうやって作中で何度も言い訳をしている。 「上手く泳げている自分」に対する後ろめたさは、主人公に限らずすべての人間が持っているだろう。 その後ろめたさを、ミツは過酷な環境に身を浸しながら、徹底して許すのである。 先ほども少し触れたが、彼女はもともと「つまらない、ミーハーな女」なのである。物語が進むにつれて、彼女はその優しさから、少しずつ崇高な存在になっていく。ところが少しずつ、眼だたず、この詰らぬ日常の出来事から彼らは生きはじめる。我々と同じ石ころの上、同じデコボコのわずらわしい路を歩きながら彼らは聖人となる。 解説で引用されていた遠藤周作のこの言葉は、確かにこの物語を一番上手く表しているだろう。 僕が最も衝撃を受けた場面。 「さいなら、吉岡さん」 という、彼女の台詞。 あそこで、僕ら一般の人々は彼女に許されたのである。 ただし、それは作品の中での話だ。結局僕があの一言に「許された」と感じてしまったことは、つまり、僕にはなにか「後ろめたいことがあるんだな」と糾弾されたことと一緒なのである。 僕はこの小説を読んで、自分の身が斬られるような衝撃を受けた。
せっかくの留学なのだからと、買った「月と6ペンス」。 残念ながら、自分の語学能力からみれば背伸びをしていると言わざるを得ない。会話形式や情景描写は何とかついていけているが、細かい心理描写や独白形式の部分に差し掛かると内容を追えているかどうか、怪しくなる。 まぁなんとか2/3程度は読み終えることが出来た。洋書は難しいものを読み始めて挫折するのが一番ダメなパターンだと言われるが、自分の場合は読書という行為に対する虚勢も手伝って、なんとか読み終えることが出来そうだ。もちろん、次はもっと簡単な本にするつもりだが。 とは言っても。 やはり母国語とは違う環境では、どうしてもフラストレーションが溜まる。 言いたいことが言えない、何を言われたか理解するのに時間がかかる、など。当然、モノを読むときもこれとは無縁でいられない。200ページの小説を読みこなすのに、1週間も時間がかかっているのである。 我慢できなくなって、日本から持ってきたこの一冊に手をかけた。 小説を同時並行で読むのは好きじゃないが、この際仕方がない。砂漠を彷徨っているときに、喉の渇きに任せて水筒を飲み干すように読み終えてしまった。 宮部みゆきという作家の名前は当然知っていた。 これまで手を出してこなかったのは、司馬遼太郎にハマって以来、ノンフィクションに近い作品に傾倒する癖を持ってしまったことと無縁ではないだろう。つい先月に「永遠の0」をあそこまで批判したとき、自分は本を楽しむ読み方が出来なくなっているのではないかと不安になった。だから日本から持ち出す本の中に、宮部みゆきの小説を入れておいた。 初めての著者なので、簡単に経歴を調べておきたい。宮部 みゆき(みやべ みゆき、1960年12月23日 - )は、日本の小説家。東京都江東区生まれ。日本推理作家協会会員。日本SF作家クラブ会員。 OL、法律事務所、東京ガス集金課勤務[1]の後、小説家になる。1987年、「我らが隣人の犯罪」でデビューする。以後、『龍は眠る』(日本推理作家協会賞受賞)『火車』(山本周五郎賞受賞)『理由』(直木賞受賞)『模倣犯』(毎日出版文化賞特別賞受賞)などのミステリーや、『本所深川ふしぎ草紙』(吉川英治文学新人賞受賞)『ぼんくら』などの時代小説で人気作家となる。ほかに、ファンタジーやジュブナイルものの作品がある。 wikipediaからの引用である。他にも興味深いエピソードが色々と書かれていたが、普通の経緯の人物ではない。ただ、多くのロングセラーを打ち出しているところを見ると、凄腕の作家であることは疑う余地もないだろう。 さて、今回の「龍は眠る」はどうだったか。 非常に面白かった。自分は読みながら「こういう展開だったら、ご都合主義で嫌だなぁ」というように考えながら(意地悪く)読んでいるが、まったく、かすりもしなかった。当然だが。 何より気に入ったのが、個々の人物の内面が深いことである。描写すべきところは細緻に語られており、読んでいて引き込まれるものを感じた。 この物語は二人の超能力を持った青年と、雑誌のライターである主人公を中心に描かれている。 超能力を題材に扱っているから、確かにそこにリアリティの色彩は薄いと言えるかもしれない。しかし、この作品はより一般的に考えれば「能力」 が一つの主題になっている。タイトルの「龍」 も、人が持つ能力を示したものである。超能力を持つ二人の青年、人並みな能力を持つ人間、そして能力に障害を持った女性や主人公。こうした人々の交錯を通じて、物語では「能力を持つこととは、どういうことか」「能力を持たないこととは、どういうことか」 を描いていると考えられるのである。 鮮やかなコントラストが見られる登場人物たちの悩みと行動で物語は動き、そして収束していく。非常に高いレベルで完成された作品だと感じさせられた。 とにかく、面白かった。 日本の両親に、宮部みゆきの本を送ってもらうように頼んでみようか。
こんばんは。 えー、現地時間で22時です。 僕はいま、ロンドンにいます。 来年の10月まで、ここの大学で勉強します。 今日寮についたのですが、個室で、なかなか快適で、勉強するにも遊ぶにも適した、素晴らしい環境です。ネットの環境も整っており、日本と同じように利用することが出来ます。 パリを経由してロンドンに到着したんですが、いや~、飛行機の中がきつかった… ちなみにさっき更新した「秘伝の声」は、その移動時間で読み終えた本です。 本は日本から10冊前後持ってますが、せっかくの留学なので洋書を読み漁れたらな、と思っています。 洋書も読み終えたらこのブログで更新することにしましょう。 読み終えたら、ですけど。 まぁそんな感じですね。 ロンドン生活も満喫する一方で、やることはしっかりやりたいので、もしこのブログに目をかけてくださる人がいるようでしたら(多分いないけど)、今後ともよろしくお願いします。 まずはロンドンで本屋を見つけないと… まぁ初日なんで、まだそんなレベルですよ。 今日は昼過ぎに寮に到着して、ひたすら町を歩き回りました。日用品店とかスーパーとか三食食べれそうなカフェとかあったので、ひとまず「生存圏」は確保できたのかな、と。 やっぱりまず死なない、飢えないことが第一ですからね。そこをクリアしたのは大きいと思います。 命の安全を担保できた以上、あとはいかに華々しく留学生活を送るか、が問題になります。 いや、華々しければ良いというわけでもないんですけど、適度に華のある生活は送りたい。送らないとせっかくロンドンに来たのに、大した成長も望めないわけです。体当たりでいろいろやってみる根性は、結局求められますね。 現在は、みなさんご存じのとおりパソコンの前に座ってこんなチンケなブログを更新しているわけですから、華がないなんてものじゃない。月見草にすらなれていません。苔です。苔。 こんな生活をしていたら、一人でご飯を食べる癖とか、独り言する癖とか、そういう要らないスキルばかり日本に持ち帰ることになってしまう。 いやまぁ生きてかえれりゃ最低限いいんですが、まぁねぇ… そんな感じなんで、友人とかできたらロンドンの市街を回ったりしたいですね。明日とりあえず一人で回りますけど。 以上です。 また今度お会いしましょう。
今回は池波正太郎の時代小説。 江戸時代の武士や町人などの様々な人の運命と人生が交錯する物語である。 下巻のあらすじには、「著者の最期の人生観を伝えようとした…」とある。池波正太郎の本を読むのは初めてだが、初めてにしては少し深入りしすぎたような作品を選んでしまったかもしれない。 とはいっても、さすが時代小説で名高い著者だけに、非常に読みやすく面白い作品だった。 この本には成子雪丸と白根岩蔵の二人を軸として、多くの人々の運命と人生が書かれている。そこが最大のポイントだろう。 人はそれぞれ、信念と欲望に葛藤を覚えながら、そのうえで周囲との関係に縛られて生きている。 物語の中で、対照的な性格を持つ二人の主人公(成子雪丸と白根岩蔵)は、彼らの師の死をきっかけに別々の道を歩み始める。彼らを囲む環境が次々に変化していく中で、少しずつ「人間はどう生きるべきか」という理想的な姿勢が浮かび上がってくるのである。 この本で著者が伝えようとした人生観は(もし裏表紙のあらすじに書かれた通り、人生観を伝えるための小説だったとしたら)、おそらく成子雪丸の生き方に現れているのだろう。物語の最後には秘伝書の中身を読者に明かすことで、そのメッセージはより強く感じられるようにできている。 ただ、上のようなことを考えずに、単なる歴史小説として楽しめればそれでいいかもしれない。自分には、何より、純粋な読み物として優れた作品だなと思わされた。
司馬遼太郎による新選組を題材とした短編集、「新選組血風録」である。 幕末の動乱期、土方歳三によって「節義の集団」として生まれた新選組。そこではどのような人間模様が展開されたのか。15の短編を通じてそれを鮮やかに描き出している。 司馬遼太郎が新選組を題材にした小説は、この本の他には土方歳三を書いた「燃えよ剣」だけであるという。だが、司馬は自らの「好きな作品」として両作とも挙げている。 時勢の大転換期にあって、卓越した剣の実力を持ちながら幕府に与した新選組。若い集団であったために、そこでは激しい感情のぶつかり合いや、時代の潮流との葛藤があった。そうした障害を乗り越えながら、彼らはサムライとして日本史に名を残す。司馬はそうした貫徹された美意識に強い魅力を感じたのだろう。 血なまぐさい事件と、その背後でうごめく若い感情。 この本に載っている短編はどれも、そんなものが垣間見えるものだった。それぞれに葛藤を抱えながら、彼らは自身の青春をひたむきに、命懸けで活動していた。 小気味よい戦闘の描写、隊士一人ひとりの性格に寄り添った見事な心理描写、優れた剣客たちの目覚ましい活躍、そして人間関係の機微を仄かに匂わせる後味。 どの短編も非常に完成度の高いものであることがわかる。この一冊を読むだけで、人気作家としての司馬遼太郎のすごさを感じられる。 若者が志とその実力を頼りにして集まり、「日本史で最初の近代的な組織」として形をなした新選組。 彼らの活躍を読んでいると、自分もたまらず走り出したくなるような衝動に駆られる。体中の血液が沸騰するかのような心地で読んでいるうちに、600ページを超えるこの本も一日と経たずに繰り終えてしまっていた。