
今回は古代ギリシアの哲学者、プラトンの著した「国家」である。
彼の師であるソクラテスが正義や国家について語ったものだ。
知恵、勇気、節制などの魂の三要素、といった議論は基本的なものであるので、ここでは置いておく。
もっとも大事な点は、正義とは何か、ということである。
ソクラテスが言うには、正義とは「各々が自らの仕事をしている」ということである。人や物にはそれぞれ適した徳というものがあり、正義とはその役割を発揮することであるとされる。対して、不正とはその逆である。「他者の分を侵して余計な手出しをすること」であるという。
たとえば、目には見るという機能があり、耳には聞くという機能がある。
正義とは目が物体を見て、耳が音を聞いている状態である。
不正とは目が音を聞こうとし、耳が物体を見ようとする状態である。
こうした問題意識は、後年の政治哲学、正義論で長く続けられることになる。
「現在展開されている議論は、ほとんど古代に出尽くしてしまっている」という人がいるのも納得である。
政治哲学や公共の善を考えるためのエッセンスのほとんどは、この書物の中で出ていたと思う。
他にも、哲人王による王政、寡頭制、民主制、僭主制といった政治体制についての考察も展開されていた。後年のジェンダー論や教育論などにつながるような議論も見られ、読んでいて驚嘆せざるを得なかった。
自分は、古典中の古典というものに触れた経験を数えるほどしか持たない。
ただ、古典を読む必要性は人並み以上に感じているつもりである。大学の教科書や専門書を読んでも、多くの議論は古代のものに出発点を据えている。古典に精通することは、単に教養として物事を考えるきっかけを提供してくれるばかりでなく、自分の勉強に対する理解を深めることになる。
そうした中で、プラトンの国家を読み終えた。
これに自信をもって、他の古典も積極的に読んでいければと思う。
丸山真男が日本の学問について「タコツボ型」と批判したことを、知っているだろうか。
ヨーロッパの学問は、「哲学」という大きな根っこから諸学問が派生していく。どんなに違う学問に見えても、根は共有されている。これを丸山真男は「ササラ型」と表現した。
ヨーロッパの学問の根底にあって、学問を支えている思想あるいは文化から切り離され独立に分化し、技術化された学問のワクのなかに、はじめから学者がスッポリはまってしまった。
大学で設定されているような目先の学問にばかり飛びつくのではなく、古典を味わいながら深いところから学問の潮流をたどっていくのも、学生としては必要な営みであるだろう。
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昨夜、「菜の花の沖」の記事を更新してから読み始めた。
ドイツ人でローマ法の専門家であったイェーリング(1818-92)による、「権利のための闘争」である。
仮に、あなたが、取るに足らないようなものを奪われたとしよう。
あなたはどうするべきか。
まぁ仕方がない、と大目に見るか。
断固としてこれに対抗し、あらゆる手段でそれを取り返し、報復をしようとするか。
イェーリングは、和解が成立しない限りは、これに断固として戦うべきだとした。しかも、それは自分のためではなく、社会のため、国家のため、そして理想のために。権利のために戦うことは、国家・社会に対する義務なのだと述べた。
丸山真男の「『である』ことと『する』こと」という評論がある。
その冒頭には、法学の授業で「『権利の上に眠るもの』は、法の庇護に値しない」という考え方が紹介されている。自ら債権者であることに安住して、その権利を行使しようとしないものは、やがてその権利自体を失うと。それが「時効」という考え方の根底にあるという話だ。
イェーリングの議論は、これをさらに徹底して、厳密に展開したものである。議論を追っていきたい。
権利=法の目標は平和であり、そのための手段は闘争である。
人がある権利を持ち、それが侵害されたとき。
それは権利の目的物が脅かされているだけでなく、己の人格までもが脅かされているのだ、というのがその出発点だ。人の権利を蹂躙する行為は、その人に対する挑戦であり、そして社会秩序、法律に対する挑戦でもある。
だから、些細なものを奪われて割に合わないほど金がかかる裁判に打って出る人々は、正義や理念を守るために闘争をしているのである。
権利のための闘争は、権利者の自分自身に対する義務である。
闘争を伴わない平和、労働を伴わない享受は、ただ人間が楽園を追放される前にのみ可能であった。
もし、権利を踏みにじられても黙っている人が多くを占めてしまったら、どうなるであろうか。
社会秩序は崩壊し、法の下の正義はそれこそ有名無実となってしまう。人々は自らが奪われ、蹂躙されたと感じる権利に対して、正当な声を張り上げる必要がある。それこそが、社会を守るための行動であるのだから、とイェーリングは考える。
(権利の放棄について)個々人の行動としては無害だが、行動の一般的格律にまで高められるならば権利の没落を意味することになる。
法は、実際に実行されることをもって本質とする。
権利のための闘争を展開すること。それは、決して自らの度量の小ささを語るものではない。自らのためだけでなく、法のため、正義のために戦っているのである、と何度も強調する。
自己の権利を主張する者は、その狭い範囲において法一般を防衛するのである。
誰もが社会の利益の為に権利を主張すべき生まれながらの戦士なのだ。
さらに、ここまで言っている。
不法が権利を駆逐した場合、告発さるべきは不法ではなくて、これを許した権利の方である。
悪意によってあなたが消しゴムを奪われたとき、あなたが一切抗議らしい抗議をすることなく新しい消しゴムを買った場合、あなたは社会に不法な行為を蔓延させるための種を一つ蒔いたことになる。分かりやすく言えば、こういうことであろう。理念としては、確かに説得力はある。
イェーリングは闘争を起こすために大切なのは、「権利感覚」だと考えている。
自らの権利が踏みにじられたとき、その重大さを感じる一種の倫理的な痛覚であると言えよう。自己に対する不法に対して、どれほどこの感覚を鈍らせることなく生きていくことができるか。
人間は、自己の倫理的生存条件を権利というかたちで保持し、守るのである。
権利感覚の反応は、固有の生存条件が直接的な脅威に曝されていると感じられる場合に、最も烈しいものとなる。
理解力ではなく感覚だけが、権利の何たるかを知るために役立つのである。
権利の力は、感覚にもとづいている。
敏感さ、すなわち権利侵害の苦痛を感じとる能力と、実行力、すなわち攻撃を斥ける勇気と決意が、健全な権利感覚の存在を示す二つの標識だと思われる。
権利感覚で痛みを感じた人間は、行動を起こさなければならない。それこそが権利のための闘争であり、そして法や秩序を守る番人としての役割なのだから。
権利の本質は行為に存する。
さて、ここまで追ってきた論旨は、どうであろうか。
非の打ちどころがないのか。はたまた荒唐無稽なのか。
こうした理念的な議論を前にして忘れてはならないのが、自分の日常的な感覚と照らし合わせることである。これを怠ると、理想の強烈な臭気を前に、人としての大切な感覚を失ってしまう。この本を読んでいて一番思ったことは、「それはそうだけど、そんな人とはちょっとやりずらいよなぁ」という感覚であった。
多少権利感覚を害された程度ですぐに姿勢を改めるような人について、世間一般では「器が小さい」とかいう言葉が使われたりする。もちろん、決して間違ってはいない。ただ、なんとなくギスギスしてしまいそうだ。
結局、権利のための闘争が一つの社会秩序のための営みであるとすれば、他の社会秩序の論理もこれに対抗する、と考えるしかないのではないか。
それが「情」の論理であり、「妥協」の論理であり、「思い通りにいかない世の中」の論理である。人は他者にある程度は気をつかい、空気を読まなければその生存は極めて困難になる。そこで「自己の権利感覚に対する侵害」も、ある程度は鈍感にならなければならない。これは「正義のための社会秩序」の論理ではなく、「協調のための社会秩序」の論理であると位置づけられないか。
余りに日本人的すぎて、顔をしかめる人もいるかもしれない。だが、二つとも「社会で快適に過ごす」という究極的な命題の為に、欠かせないものである。正義のない社会で人は生きていけないのと同じように、円滑さのない社会で人が生きていくのも困難である。
まったく中途半端な論考になってしまったが、社会秩序というのは決して正義のためにあるわけではない。社会秩序の原則の中の一つに、「正義」があるだけである。イェーリングの議論は、その点について突き詰めて考察をしたものだ、と僕は受け入れることにする。
何よりも正義が持つ危険性と虚構性を、僕は司馬遼太郎の作品の中で何度も見かけてきた。
世の中は、やはり単純ではない。


作家の命日には、それぞれ代表作の名がつけられるという。
たとえば太宰治の命日は桜桃忌。芥川龍之介の命日は河童忌。そして司馬遼太郎の命日が、「菜の花忌」だという。読売新聞の編集手帳で得た知識である。
菜の花の沖、というタイトルのこの作品が、その日の呼称に由来するのは言うまでもない。今回はこれを読んでみた。
江戸時代の商人、高田屋嘉兵衛の一生を描いた物語である。
淡路島出身の農家の息子が、村から追い出されて兵庫に出て船廻りの水主となり、やがて商人として身を立てていく。嘉兵衛は蝦夷地に可能性を見出してそこの開発に力を入れる。そして偶然、ロシアへと向かって外交官のような働きを見せていく。
急展開過ぎて、上の要約では何を言っているのか分からないだろう。wikipediaの記事を引用してみる。
淡路島の農民の子として生まれる。漁業に従事し、18歳で兵庫へ出て廻船業者を志し、寛政2年(1790年)に樽廻船の水主から、船頭となる。紀州での鰹漁や、和泉屋伊兵衛のもとで船頭となり酒田へ航海して資金を貯める。寛政7年(1795年)には、庄内で1700石積の辰悦丸を建造し本格的に廻船業、蝦夷地経営へ乗り出す。
近藤重蔵や間宮林蔵、最上徳内などの江戸幕府役人と接触し、信を得て蝦夷地交易を許可される。幕命により択捉航路を開き、蝦夷地物産売捌方となる。また、箱館(函館)の北洋漁業の基を築いた功労者である。近藤重蔵に依頼され、国後島と択捉島間の航路開拓を行った。島に原住していたアイヌの民を雇って漁法を教え、彼らの生活向上に資した。
文化9年(1812年)幕府によるロシア船ディアナ号艦長ゴローニン幽囚の報復として、嘉兵衛は国後島で副艦長のピョートル・リコルドにより捕えられた(ゴローニン事件)。ディアナ号でカムチャツカ半島へ連行されるが、翌年帰国。帰国後の嘉兵衛は松前奉行を説き伏せ、ロシア側に侵略の意図が無いことを納得させ、人質解放に尽力した。文政10年(1827年)に59歳で死去。
とにかく、運命に遊ばれたようにひらりひらりと社会を渡り歩いていった人物であることが、分かったであろう。特筆すべきは、当時の日本は封建の世だったのである。その中を自らの手腕によって生き抜き、身を立てていくというのは尋常でない。
商業は、農本的な原理に立つ封建制と、多分に相反する原理をもっている。
一生が劇的な場面の連続であるので、小説も6巻と大変長いものになっていた。特に5巻では、最終巻の布石としてロシア事情を解説している。見せ場も多くあったが、それと同じくらい我慢が必要な本でもあった。膨大な背景知識を身につけたうえで、歴史に起こった奇跡を味わう。そういう高度な歴史の鑑賞ができた、させられた。
大村益次郎を描いた「花神」もそうだったが、優秀、歴史を担うに値する人間というのは自然と各方面から需要のようなものがある。そういう人は、そこまで気負いこんだり野望を抱いたりすることがなくとも、自然とあっちからこっちへ、という感じで社会の各所で働くことになる。
これ以上面白そうな生き方があるだろうか。とにかく今自分がするべきことと言えば、いつの日か自分の手に「大きな役割」が転がり込んでくることを信じて、精進し続けるだけである。自分の精神・肉体・知識を鍛え、どんな大役でもこなしうるだけの存在になる。自己投資、自己練磨とは究極的にはそれほどの重みを持った覚悟の上で使われるべき言葉であろう。
子供が大人より決定的に劣っているところはある。子供は衝動的で、志をもたないということである。
志を持って生きる若者は、今どれほどいるか。
志のない人間は、どれほど偉そうなことを話しても、結局子供のままである。
最後に、気に入ったフレーズを挙げて終わりにする。
・国家と国家が緊張関係にあるとき、おろかしい物理作用がくりかえされる。
・「国家」という巨大な組織は、近代に近づくにつれていよいよばけもののように非人間的なものになってゆく。
・船というのは、生きているうちから、さびしい。生命あるものがもつ特有のさびしさを、船ももっている。
・ただ二人の間に成立した信頼だけが、両国を戦争から救ったことになる。
・結局は、流暢な言語のみが人間の関係を成立させたり、深くしたりするものではない。
・人が人を殴っている姿ほどあさましいものはない。
・ほとんどの場合そうだが、領土論による国家間の紛争ほど愚劣なものはない。
・憧れというのは、白昼の夢ではあるまいか。
・わけ知りには、志がない。志がないところに、社会の前進はないのである。
・天地人のさまざまな現象について、なぜそうであるのかという疑問を忘れたところから大人が出来あがっている。
・「商いは鈍であるほうがよい場合もございます」
・世にいう欲深の人というのは、物狂いとかわらない。
・若いということは自分自身の気持ちが整理ができないということなのである。
・人間は、運という点ですこし植物に似ているかもしれない。
・人間の感受性のなかで、相手が自分に愛情をもってくれているかどうかということほど、敏感なものはないかもしれない。

参議院選挙が始まった。
今回の選挙が従来と異なる点は、ネットでの選挙活動が法律によって許容されるようになったところである。参院選への影響について、さまざまな憶測が飛び交う中、いまネットやSNSについてもっとも詳しい人物の一人であろう津田大介氏の本を手に取ることにした。「ウェブで政治を動かす!」という、タイトルの中に記号が入ってるところで普段の僕なら敬遠してしまうような気がするが、時期が時期だけに読んでおこうと思わされた。
本の中ではネットが政治に対して及ぼす影響とその可能性について、多角的に分析されていた。
最大の特徴は、「政治を日常化する」ことができる、というところであるという。ネットでの最近の動向を挙げながら、そこで編まれた「集合知」が新しい政治への経路になるのではないか――という可能性を探っていた。
意外だったのは、ネット選挙の影響について筆者がそこまで期待をしていない、という点だ。すぐに影響が現れるものではない、と断じていた。
ルソーはかつて「国民が有権者であるのは、投票の日だけである」と言った。
筆者がウェブに期するところは、たった一日の投票をガラリと変える可能性ではなく、選挙日以外の日常において国民が有権者であり続ける可能性であった。
ネット選挙、おそらく巷でもてはやされたような、劇的な変化はないかもしれない。
しかし、それで落胆し、ネットの影響力に見切りをつけるのはいけない。
「アラブの春」において、ネットやSNSのポテンシャルを人類は経験した。その影響は、これからいよいよ増していくだろう。今回のネット選挙は、その第一歩に過ぎないのである。

最近更新が遅いのは、司馬遼太郎の「菜の花の沖」を裏で読んでいるためである。
今回は、久しぶりに土日が休みだったので、岩波文庫でも読もうかなと思い、池袋のブックオフで適当に買ってきたものである。古代ローマの哲学者、セネカの「怒りについて」。
人間は相互扶助のために生まれたが、怒りは相互破壊のために生まれた。
歴史に名を残すような哲学者であるだけに、ローマ時代の作品とは言っても、その内容には「慧眼」という言葉がそのまま当てはまる。人間が普遍的に持つ「怒り」という感情について、深い考察に裏付けられた説得力のある議論を展開していく。
セネカの論旨はこうである。
怒りは他のすべての感情を支配し、理性も支配し、そしてついには心と自身を滅ぼしてしまう。だからこれは「心の過失」であり、悪徳である。
怒りは使いようによっては良いものだ、という議論があるが、それは間違いである。怒りは人間を瞬発的に支配し、その人自身は「(怒りの対象である)相手に危害を加えたい」という衝動のあまり、自分自身に及ぶであろう危害を一切無視してしまう。その結果、怒りは自己の破滅を、それが集団に蔓延している場合は集団の破滅を招く。
よって、怒りは一切これを排除しなくてはならない。一分でも残ってはいけない。
もっと詳しいことは本に書いてあるので、実際に読んでもらいたい。
訳が良いのか、大変読みやすいものである。
さて、では印象に残った部分を挙げて、自分の思うところを少し述べたい。
・怒りは理性の敵である一方、理性の入る余地がないところには、どこにも生じない。
怒りが人間独特の感情であるということを示唆している。
・有害なものは、一度所有されると、それを支配するものより強くなる。
・理知は一度揺り動かされ投げ出されると、それを動かしたものの奴隷になる
理性で御すことのできなかった怒りが、理性をのっとってしまう可能性について言及したもの。
・怒りは心の過失である。
・怒りは無思慮に走りがちであり、人に危害を加えようとして、かえって自己の危害に警戒しない。
・怒りは余りにも急激であり狂暴であるから、自分が自分の行く手をふさいでしまう。
・理性は公平な判断を下すことを望むが、怒りは下した判断が公平に見えることを望む。
・他の悪徳は心を唆すが、怒りは心を滅ぼす。
怒りの弊害について論じている。怒りに駆られると、人は何も見えなくなる。これが、破滅を招く。
・怒りを生ぜしめるのは、損害を与えられたという思いである。
怒りの原因から、その本質を突き止めることもできる。
・怒りの原因は損害を受けたという思いであるが、それを軽々しく信じ込んではいけない。
・怒りを治す最良の薬は「引き延ばし」である。
・第一に大切なことは怒らないことであり、第二は怒りを止めることであり、第三は他人の怒りをも癒すことである。
じゃあどうすればいいのか、という話。怒りを持って過ごさないように、日頃から心構えがいるという。
さて、少し話したいのは以下の部分である。
・怒りは決して容認すべきものではない。もっとも、場合によっては怒った振りをしなければならないこともあるが。
何か間違いを犯した人は注意をされ、警告をされ、指導される。
その時に二通りの言葉が使われる。
「怒る」と、「叱る」である。
自分は任されている立場上、年下の人に対して注意することが多い。というか、教育をしなければならない立場にある、といった方が適切かもしれない。その時に常に意識しているのが、この点である。
すなわち、人を叱るのはいいが、怒るのはいけない、ということである。
叱るとは、相手のことを思い、相手の為に適切な注意をすることであり、怒るとは思い通りにならない相手に対して自分の感情が少なからず傾倒した状態で、注意をすることである。もちろん、これは自分の中の使い分けである。
なぜ怒ってはいけないか。それは、怒っている時の「注意」という行為は怒っている人物が主人公になってしまうからである。端的に言えば、怒るとは「自分はお前が思い通りに動かないのが気に食わないぞ」という意思表示に過ぎないのである。もちろん注意する側がそう思っていなくても、注意される側がそれを嗅ぎ付けた瞬間、そこには拭いがたい悪い雰囲気、感情が根を生やすことになる。
叱るのは、違う。あくまで主人公は「注意」されている方なのである。たとえば監督がプレーヤーを叱る。それは監督の気に食わないからであってはならない。そのプレーヤーの行為が彼/彼女自身の上達を阻むような態度や行動をしていたとき、もしくはチームの士気を下げてしまうとき、プレーヤーは叱られるに値するようになる。怒るというのは、こうした正当な理由が無くてもできてしまう。
何を甘いことを、と思われるかもしれないが、自分は「叱る」という行為の方が、結局は大きな影響を与えられると思っているし、今でも信じている。自分のためを思って言ってくれているんだ、と理解して、叱られた人は自らの行動を本当に反省することが出来るはずである。これはどこでも通用する話だろう。
もちろん、場合によっては「怒ったふり」が有用なのも確かである。ただ、その時は「ふり」の怒りが自らの感情を乗っ取らないように最大限の注意を払わなくてはいけないだろう。
少し解釈が広くなるが、後藤田正晴という政治家がこんな言葉をのこしたという。
「権力は極力使ってはならない。ただし、それがどこにあるか、常に知らしめる必要がある」。
立場に任せて人に怒りをぶつけることは、権力の濫用である。適切に叱られることで、人は立場ある相手を尊敬し始めるのではないか。
以上、自分の考えを書きなぐらせてもらった。
岩波文庫は、結構休みの日にちょうど読めるので良いかもしれない。
イェーリングの「権利のための闘争」も同じくブックオフで買ったのだが、なるべく早く読みたい。
もちろん、司馬遼太郎を読み終える必要があるが。


今回は久しぶりの古典。
ジョン・スチュアート・ミル(1806-73)の自由論である。
社会生活における個人の自由について論じ、自由主義を語る上では欠かすことのできない不朽の古典とされている(岩波文庫の紹介から拝借)。高校の倫理や世界史で聞いたことのある人も多いのではないか。
さて、論旨は有名だろう。
最大の主張とされるのは、個人の自由は(1)他者の利害と無関係である限りは社会に対して責任を負わないが、(2)他人の利益を害する行為に関しては、責任を負わなければいけないというものだ。
・自由の名に値する唯一の自由は、他人の幸福を奪い取ろうとしないかぎりで、自分自身の幸福を自分自身の方法において追及する自由である。
要するに自由だけど他人に害を与えたらアウトだよ、ということである。
もちろん、この不朽の古典は、そんなどこかの大人が子供を諭すようなことを単純に言っているわけではない。感覚的には理解できそうな上の二つの格率について、きちんと論理立てて説明しているのである。この「他者の利益を害したり、他者を不当に抑圧してはなぜいけないのか」という理屈を眺めるためだけでも、この本には一読の価値があるだろう。
基本的に自由を擁護しなければいけない理由は、人類の進歩・精神的幸福のためであるという。
真理を探究するためには、個々人が個性を発揮し、戦わせなければいけないのである。以下に見ていく。
・歴史は迫害によって沈黙させられた真理の実例に充ちている
・唯一の確実な永続的な改革の源泉は自由である
・他人を宗教的にしてやることが人間の義務であるという観念は、過去に犯された一切の宗教的迫害の基礎であった
ソクラテスやキリストに対する迫害の歴史を見つつ、個人の自由を認めない不寛容が、社会そのものの発展の芽を摘んでしまうということを主張している。
・今や「多数者の暴虐」は、一般に、社会の警戒しなくてはならない害悪の一つとして数えられるに至っている。
・仮りに一人を除く全人類が同一の意見をもち、唯一人が反対の意見を抱いていると仮定しても、人類がその一人を沈黙させることは不当である
だからこそ、社会は寛容でなくてはならない。ミルの議論はこうである。
社会が真理に近づくために、個人の自由を担保しなければならない。
また、真理が生きたものとして、人々に実感あるものとして廃れることなく受け継がれるためにも、各人が自由に反論をする環境は担保されなければならないという。
・もし意見が充分に、また頻繁に、且つ大胆不敵に論議されないならば、それは生きている真理としてではなく、死せる独断として抱懐される。
・意見の相違を生じうるようなあらゆる主題においては、真理は、相矛盾する二組の理由をあれこれ考えあわせてみることによって定まるのである。
・例外をなしている人々が存在するならば、たとえ世間の説が正当であるとしても、それらの反対論者も、彼ら自身のために何か聞くに値する言い分を持っている。
結論として、あらゆる個人の自由に対する抑圧は排除されなければならない。
・真理の諸々の部分の間の猛烈なる闘争ではなくて、真理の一半に加えられるひそかな抑圧こそ、恐るべき害悪なのである。
・主張の仕方において公平を欠き、悪意、偏執、または不寛容の感情が表あらわれているような人を、すべて非とせねばならない。
さて、自由論の中で見られたのはこうした人類の利益に加えて、ミルの人間愛とも言うべき観方であった。
・何であれ、個性を破砕するようなことは、専制政治なのである。
ミルは、人間が高貴である理由として、各人が個性を持った存在であることを挙げた。
人間が高貴で美しい観照の対象となるのは、他人の権利と利益によって課された限界の範囲内で、個性的なものを開発し喚起することによるのである。
ここが、「何のための自由なのか」という議論の、ある種核心的な部分である。
自由は、個々人が個性を発展させて人間としての高貴さを獲得していくためのものであると。
自由についての議論は今も尽きることはないが、個人の社会的な自由を理解するうえでは大きな助けになる本だった。
こんにち、自由を空洞化させないためにも、改めて読んでおきたい一冊である。
他のフレーズ。
・国家の価値は、長い目でみれば結局はそれを構成している個人の価値によって決まる。
・論争の的となっている諸問題に関して、国民の結論を変更させようとする国家の試みは、すべて不正である。
・独創性こそ、独創的でない人々には正にその効用を感知することのできない一事なのである。
・知的および道徳的諸能力は、筋肉の力と同様に、使用することによってのみ改善される。
・すべて議論を抑圧することは、自己の無謬性を仮定することである。
・経験をいかに解釈すべきかを明らかにするためには、議論がなくてはならない。
