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本と6ペンス

The writer should seek his reward in the pleasure of his work. ("The Moon and Sixpence" Somerset Maugham)

142.オスマン帝国 (鈴木董)

前回に続いて、今回もまた評判のいい講談社現代新書の一冊。
中身はそのまま、オスマン帝国史である。
1299年、オスマン一世のときに自立したオスマン帝国は、ムラト一世、バヤジット一世の侵略の時代を経て1402年にティムール朝に敗れて空位時代に突入。10年後に空位は回復され、メフメト一世とムラト二世が旧領地を回復する。メフメト二世は1453年にビザンツ帝国を滅ぼし、イスタンブルを首都とする。セリム一世はイラクやエジプトへ進行してメッカとメディナという両聖都の守護権を手に入れる。そして帝国は最盛期を司るスレイマン一世へと引き継がれる。ハプスブルク家のカール五世と対峙し、1538年にはプレヴェザ海戦で勝利を収めて地中海を掌握した。

何が何だか、という人もいるだろうし、僕自身も受験で使って以来の世界史の知識なので、懐かしくて仕方がない。
この本では、オスマン帝国の原初となった13世紀末から帝国が変容をきたす18世紀末まで、5世紀に渡る帝国の盛衰とその背景について分析している。

キーワードは、「やわらかい専制」。
多様な人種や宗教の人々を内包しながら発展・維持されてきたオスマン帝国は、それなりの工夫と強みに裏打ちされた構造を持っていた。その特徴を、歴史を概観しながらひも解いていた。

非常に興味深い本だった。ここで色々と細かいことを言っても仕方ないので割愛するが、大まかに言えば
「へぇ、オスマン帝国の制度ってなかなかやるなぁ」
という感想を持った。

オスマン帝国に対して皆がどういうイメージを持っているかは知らないが、それでも目からウロコ、という部分が必ずあるだろう。ある人は発達した中央集権体制に、ある人は宗教の異なる人々が共存するシステムに、ある人は能力主義的な登用のシステムに、ある人は逆にコネによる登用というシステムに、ある人は確固とした司法体系に…と、西欧文明を凌いだという高度な社会の実態に、それぞれ感動を覚えるに違いない。

個人的には、以下の部分に衝撃を覚えた。
「スルタンよ、スルタンとて慢心するなかれ 汝より偉大なるアッラーがおわす」
少々買いかぶりすぎかもしれないが、これは法治国家的な精神とそっくりだ。絶対的君主であったスルタンも、理念上はイスラム法によってその行動を制約されていたという。


この本を読んで、自分のこれまでの学習がどれほど欧米に重きを置いたものであったか、思い知らされた。欧米の歴史を知ることも当然大事だが、ほかの地域の歴史も魅力がたっぷりだ。食わず嫌いをせずに、どんどん読んでいけたら、と思う。

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141.理性の限界 (高橋昌一郎)

講談社現代新書で評判が高い本を読んでいこうと思い、手に取ったのがこの「理性の限界」である。著者の高橋昌一郎氏は國學院大学の教授で、論理学・哲学の専門家だ。
本の内容はディベート形式で、様々な専門家や一般人を登場させながら突き詰めた議論をしていく。彼らはそれぞれ自分の得意とする領域の事例から、本のタイトルである「理性の限界」の一線を探っていくのである。

この本の問題意識は、冒頭で司会者が述べている。
「私たち人間は、何を、どこまで、どのようにして知ることが出来るのでしょうか」
現代社会は理性の支配による時代である。その背景に「理性的なもの」「合理的なもの」による数えきれない成功事例があるのは、言うまでもない。
多くの人々は自らを「合理的に、理性的に行動できるもの」と信じているかもしれない。では、現代社会は合理性や理性による浸食が進んだ結果、それ以外の要素は完全になくなってしまったのだろうか?あるいは、合理性や理性は本当に現代を完全に支配しているのだろうか?
理性の限界を問うことはすなわち、「理性とは何か」を問うことにもなるのである。

本の中では三つの章があった。
・選択の限界
・科学の限界
・知識の限界

いずれも理性というものが土台となって発展してきたようなものである。そして、人類は研究を突き詰めた結果、それらに限界があると言う結論に達してしまった。
選択の限界では、民主主義的な投票や個人の利害など、「何かを選ぶ」というときに真に合理的と言える「選択」はできないということが説明された。ここで出てきた概念が「アロウの不可能性定理」、またゲーム理論における「ナッシュ均衡」などである。この辺は政治学でも出てくる議論だったので、わりあい簡単についていくことが出来た。
科学の限界では、実験の観察に越えられない壁があるという「ハイゼンベルクの不確定性原理」、さらにそれを応用した「シュレーディンガーの猫」などの概念を紹介していた。科学という領域でさえも「神のサイコロ」という不確実なものによって委ねられていると考えられるようになったという。最終的には方法論的虚無主義者が出てきて、この世に客観的に見た合理的基準というのは存在しないとまで主張する。
知識の限界では、論理学の「抜き打ちテストのパラドックス」から始まり、この世では「真であっても証明できないことがある」という「ゲーデルの不完全性定理」を持ちだしてくることで、理性が知り得ることの限界を提示した。そしてこれが同時に、人間精神の奥深さを逆に示すことにもなるのである。

非常に興味深く、一日で読み終えてしまった。緻密に読まないと訳が分からなくなってしまいそうだったが、とても分かりやすい説明が施されていた。自分は「理性に対する信仰」というものは持ち合わせていないし、限界があるものだと思っていたが、この問題を正面から取り扱った本は読んでこなかった。そういう意味ではとても刺激的だったと思う。

さて、理性の限界ということについては他にも読んだことのある話がある。
たとえば、合理性は非合理なものに弱いということ。これは他の本にも書いてあった。
一番分かりやすいのが、子供への教育などだろう。
何かを禁止するときに、必ず「どうして?」と聞き返してくる子供がいるとする。そんな子供に理由を重ね重ね説明していくうちに、大人も「どうしてそれがいけないことなのか」説明できなくなるのである。
結局、大人はこう言わざるを得ない。「ダメなものはダメだ」、と。
この一見合理性のかけらもないようなものが、実は合理性を形作っているのである。
数学でも、1はなぜ1なのか、1の次はなぜ2でないといけないのか、客観的に・理性的に言える人は少ないだろう。その根本的なところに「理性の限界」が潜んでいる。

もう少し面白いことを言えば、日本の近代国家の成立は明治維新によるとされる。西欧における「合理的なもの・考え方」が次々と入ってきて、人々を触発していく。司馬遼太郎の小説で描かれた幕末の波を越えようとした人々も、多くは合理的な考え方を身に着けていた。
さて、その近代的な官軍に挑んだ旗頭が、いま「八重の桜」で主人公となっている会津藩である。自分は途中で見ることを止めてしまったが、会津藩のスローガンはなんだったか。「ならぬことはならぬ」ではなかったか。


などなど、理性と言うものは突き詰めていけば面白い議論がたくさんできる。

人間のしてきたことといえば、ただひとつ、人間がたえず自分に向って、自分は人間であって、たんなるピンではないぞ、と証明しつづけてきたことに尽きるようにも思えるからだ。

これはドストエフスキーの「地下室の手記」で書かれた一節だ。世界が合理性に支配されたとき、人間から自由は奪われるのではないかという危機感を表明している。
自分の言葉でこの記事を締めくくるのも僭越な気がするが、「地下室の手記」を書いたブログの記事は、こう終わっていた。

万人が万人とも「理性」によって「合理的に」動くようになったとすれば、それはもしかすると「人類の敗北」かもしれない。

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140.茶の世界史 (角山栄)

「砂糖の世界史」に続いて、「茶の世界史」を読む。発想は「砂糖の世界史」と基本的に一緒である。世界商品のなかで“茶”に主眼を置いて歴史を見ている本だ。違っていた点は、こちらの本では第二章に世界の茶市場と戦おうとする開国後の日本の姿も書かれている点である。
ただ、「砂糖の世界史」の方が読みやすかったという印象がある。こちらは記述が詳しいかわりに、メインテーマである「茶の世界史」にとっては傍流のように見える点まで詳しく説明していた。そのため、世界史を一つながりで見る「世界システム論」的な見方をある意味妨げてしまったのかもしれない。

さて、この本では世界市場における茶の普及と、その市場をめぐって骨肉の争いを繰り広げる各国の姿を描いていた。

かいつまんで言えば、こういう筋だろう。
西洋が憧れた“茶”は、もともと東洋の神秘的な精神を帯びた「文化としての茶」だった。ところが、いざ茶がヨーロッパに運ばれると、それはコーヒーとの国際競争に敗北してしまう。
そんななか、オランダが覇権を握るコーヒー市場で敗れたイギリスで、茶が普及していく。このことは、イギリス人の好みというよりも、国際競争の結果という面が強い。やがてイギリスで茶と砂糖が出会うと、それはより積極的に普及して、最終的には国民的な飲料として生活必需品までになった。
そして周知のとおり、こうしたイギリスにおける茶の普及が、やがて中国、インドを非常に苦しい時代へと追い込んでいくのである。

第二章では開国後の日本の茶市場への挑戦を描いている。
しかしここでは日本は敗北する。最大の原因は、日本における茶が「茶道」と表裏一体となって精神性を帯びていたことである。かつてのヨーロッパを魅了したその茶の特性が、今度は日本の茶市場への進出の失敗の原因となる。本から分かりやすい分を引用したい。
近代化は茶から思想や芸術を奪い、茶を物質におきかえたのである。そうすることによって、茶が国際性をもつことになった。

いずれにせよ、世界史において茶も砂糖と同様に世界を駆け巡り、その歴史を動かしていたのであった。以上がこの本の大まかな流れである。先に述べたように興味深い本であるが、詳細なところにいちいち入っていくので、特に調べもの等といった目的がない限りは、情報をかいつまみながら読んでいくと良いかもしれない。

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139.砂糖の世界史 (川北稔)

岩波新書というか、岩波ジュニア新書。

「砂糖の世界史」は、1996年に書かれた。世界中を駆け回る商品に注目して、その足跡を追うことで世界がどのようにシステム化していったのか、どのようにして時代が作られていったのかを研究する。教科書とは少し違った目で歴史を見れる、面白い本だ。
筆者は高校で世界史を学ぼうとする人に向けて書いたつもりのようだが、記述は分かりやすいうえに面白く、大学生や社会人、世界史をやっていない人でも十分楽しめるだろう。
「世界システム論」という歴史の観点がこの本の底流にある。近代の世界をひとつながりのものとみなし、その上で世界の成長や発展を見ようという考え方だ。すなわち、世界史を各国史の単純な和としてではなく、和や積といった様々な作用の結晶として見るのである。そしてそれをより分かりやすくするための題材として、「世界商品」(世界で広く扱われた商品のことを、筆者はこう呼ぶ)の一つである“砂糖”を中心に見ていこう、というのがこの本の趣旨だ。筆者はこう言っている。

十六世紀いらいの世界の歴史は、そのときどきの「世界商品」をどの国が握るか、という競争の歴史として展開してきた。

こうした見方を通じて、当時の人々(庶民)の具体的な姿がわかるだけでなく、世界的なつながりがひと目でわかるという。様々な角度から歴史を検討することで、見えてくるものがたくさんある。

さて、詳しいことはここでは話さないが、主要な点は以下の通り。
まず、砂糖という作物が発見されて以来、それは薬として食品として香辛料として、様々な形で求められた。つまり、世界に広く需要があった商品だった。これが「世界システム」を観察するうえで不可欠である「世界商品」としての砂糖の性質である。
一方で、砂糖にはその後の歴史を決定的に左右するような特徴があった。それは砂糖きびの栽培には膨大な奴隷労働が不可欠であったことと、地味(土地の作物を育てる能力)の消費が激しいということ
このため砂糖の生産においては早くから奴隷制を使い、プランテーション形式の大規模農法が採用され、新しい土地と人手を求めてその拠点を移動させる必要があった。つまり、砂糖は「旅をする運命」にあったという。

イスラム地域で発見され「コーランと共に」広がっていった砂糖はヨーロッパ世界に受容され、砂糖きび栽培のための広大な土地を求めた人々によって新大陸にその生産拠点が移っていった。黒人は奴隷になり、アメリカ先住民は殲滅され、カリブ海の島々はプランテーションのために特化させられ、大西洋三角貿易のような世界システムを確立させた。砂糖によって、たくさんの人々の生活は革命的に変わった(もちろん悪化した場合の方が多かったであろう)のである。
その後17世紀以降になってはじめてイギリスにおいて砂糖と紅茶が出会い、ジェントルマンたちの生活が変化する。コーヒーハウスというものが出来て人々の市民社会と政治意識を発展させた。文化人や知識人はそこを拠点にクラブを作り、政党を作った。フランスにおいては革命期に市民の集会所になり、時代を転換させる梃子のような役割を果たすのである。アメリカは砂糖や茶に対するイギリス本国からの課税に反発した人々による「ボストン茶会事件」が、独立戦争の嚆矢となった。さらに、日本では砂糖きびの生産を独占的に行うことに成功した島津藩が、やがて幕府を凌ぐほどの財力を持って明治維新と維新政府の中心をになうようになっていく。

なるほど、砂糖というものに着目すると、世界は面白いようにつながっている。
今回は砂糖に注目した本だったが、今手元には「茶の世界史」という本もある。
世界商品を通じて世界システムを見る、そんな本はたくさん出ている。とても興味深い領域に思えるので、もう少し没頭してみたいと思う。

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138.個人と国家 (樋口陽一)

参院選が近くなってきた。自民党は憲法改正の発議要件を2/3から1/2に下げるという96条の改正を争点にすると息巻いていたが、果たしてそうなるだろうか。現状を見る限り、アベノミクスの先行きが一番の争点にならざるをえないのではないか、と推察している。
96条の改正については、立憲主義という思想的には到底受け入れることのできないものであるし、自民党の改憲案には「憲法が権力を縛る」という法の支配に対する理解を無視した条文が散見される。仮にも憲法の改正を志してきた政党であるのならばもう少し憲法についての勉強をしたらどうか。もし勉強した結果、それでも憲法を自民案のようにすべきだと考えているのであれば、国民は自民党に2/3以上の議席を与えることはできない。「一と二分の一政党制」を続けることになるのではないか。

この本は2000年に書かれたものである。憲法学の専門家である筆者が「個人と国家」の関係について述べている。ヨーロッパの教訓から日本の古来の法意識、そして世界大戦後に生まれた日本国憲法。戦後日本で何十年も繰り返されてきた「改憲」という議論を深く理解するためには、歴史的経緯も含めて俯瞰しなければならないだろう。

筆者の議論は結構細かい。自分で論理立てて説明をした後、必ずと言っていいほど憲法に関する出来事や判例を持ち出してくる。もちろん説得力は増すのだが、それゆえに論理の流れが追いにくいのも事実である。政教分離や司法権と主権国家の相対化の兼ね合い、ジェンダーの問題から日本国憲法の成立の背景まで、その議論は多岐に及んだ。
ただ、改憲という議論について筆者はこういうことを言っていた。問題を冷静に見る上で大事な点だと思うので、ここで紹介しておく。

改憲にという問題、目的意識については、それを二つに分ける必要がある。
一つ目は、立法運動・裁判の働きかけこそが大事である領域がほとんどであること。憲法は国家を縛るルールであるため、実際に人々の生活を変えるのは憲法以外の個別具体的な法律や条例、政策である。憲法に女性の権利拡大をうたったところで、それを現実に反映するような立法しなくては、現実は全く変わらない。
憲法を替えれば、それだけで社会が良くなるというのは幻想である。憲法は強い力を持つが、人々の生活を大胆に改善するような性質のものではない。そういうものは他の法律の領域であり、いちいち些末な議論の為に憲法改正まで迫るのは、時間の浪費というのに近くなってしまう。
二つ目は、それでもなお憲法を替えなくては前に進めない領域も確かにあるということ。憲法9条の問題が代表的だ。それらをもし変えるのであれば、争点を絞ったうえで、突き詰めた議論が不可欠であろう。しかし、そういう点から見ても、いままで国民や国会議員が、そうした突き詰めた議論をしてきただろうか。憲法は国家運営のルールであるから、改正の中身の如何によってはそれこそ国家の首を絞めかねない。
96条に関連していえば、議会で2/3の賛成を得ろ、というのは「それだけのコンセンサスを形成しろ」という要求を含意している。発議要件が1/2では政権与党は簡単に発議できてしまう。しかし、2/3ともなれば与野党の間で超党的な妥協・合意形成が不可欠となるので、慎重な議論を避けて通れないのである。そういう意味でも、「憲法を変えやすくするための発議要件の緩和」は法治国家に対する反逆である、という表現は正鵠を得ている。

さて、個人と国家について、どこかで書いておきたいと思う。
広いテーマなので、一度書くことで自分の考えも整理してみたいというのが正直なところだ。
機会があったらまた更新することにする。

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137.創造の方法学 (高根正昭)

社会科学について、何度か言い争いになっているのを耳にしたことがある。
理系出身の人に多いのだが、曰く「社会科学は科学ではない」と。
それはもう、肯定せざるを得ない事実であろう。社会科学も「科学」と名乗る以上は科学的手法を心がけているが、それは大変難しい。社会を分析するにあたって仮説→実験→観察→考察という一連のプロセスを踏むことは困難だし、社会の構成自体が複雑すぎるため、ある特定のもの以外の条件を揃えることも不可能に近いためである。
では、社会科学とは単なる経験談の積み重ねに過ぎないのか。それが社会科学の限界なのか。今回は、そんな社会科学を学ぶ人々にとって避けては通れない道である「方法論」について書かれた新書を読んでみた。

筆者が方法論に目を向けたきっかけとして、アメリカへの留学を挙げている。言い換え得れば「詰め込み」的な学問の範疇を超えて、新しい「創造」的な学問・研究をする環境に移ったのである。筆者は当時求められた学問的態度を、こう表現した。

なにか新しい知識を既存の知識の体系につけ加えなければならないのである。

さて、そこでぶち当たったのが方法論である。
方法論を考えずに研究を始めてしまうと、下手をすれば膨大な研究時間を棒に振りかねない。データを用いる・用いらないにかかわらず、手法が科学的でなければ単なる「主観的な経験談」の域を出ない。すなわち、飲み屋で展開される酔っぱらいの雑談と同じレベルのものになってしまうのだ。
ここに、方法論が求められる理由がある。研究者や本で挙げられたジャーナリスト、または他の仕事など「プロ」であるべき領域については、きちんとした科学的な方法で、根拠をもって議論を進めなければいけないのである。彼等の言う評論や主張は酔っぱらいの愚痴と同じレベルであってはならない、なぜなら彼等はそれを通じて社会を動かし、社会にプロとして貢献しているからである。

ここまで来て、あらためて方法論を踏まえた科学的手法の重要性が分かってきたことと思う。
では、実際に方法論とは何か。
詳しくは本を読んでもらいたいが、そこまで難しいものではない。

大きな三原則は、以下の三つ。
(1)独立変数の先行
(2)独立変数と従属変数の共変
(3)他の変数(パラメーター)の統制


どれも小学校の理科で習うような基本的な考え方である。
もちろん、社会科学においてはこれらの原則に完全に則ったうえで研究するのは不可能だ。だからこそ議論がわかれ、激しい主張の応酬が有史以来繰り返されてきた。

筆者はさらに、三原則を踏まえたうえで4つの手法を紹介している。ここでは、名前を挙げるにとどめるが、以下の4つだ。

□状況的操作をするもの
・実験的方法
□概念的操作をするもの
・統計的方法
・比較例証法
・逸脱事例分析法


名前さえ見てしまえば、どういう内容か大体わかるだろう。
研究方法には、それぞれ長所や短所がある。また、研究を進めていくうえで自分の行っている研究が何を意図しているのか、何と何を比べているのかを常に明確に持つ必要がある。それは社会科学というフィールドでは大変難しいが、だからといってそれを簡単に見失っていては果々しい成果など一生得られないで終わってしまうし、自らの知的探究も全く意味のないものになってしまう。
これからは方法論から逸脱した、独りよがりの言説を滔々と述べることは許されない。そういう緊張感が求められるだろう。
これから自分が研究や調査などの現場に立たされたとき、逐一立ち返りたい一冊である。

方法論とは知的活動の原則である。

この本が書かれてから34年になるが、その内容は決して色あせていない。

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136.北朝鮮 (平岩俊司)

2011年、自分は大学受験を終えて大学への入学を決め、卒業直前に3.11が起こり、ジャスミン革命に端を発したアラブの春が本格化した。当時、すごい年だな、となんとなく思っていた記憶がある。
同年12月、そこへ飛び込んできたのが金正日死去のニュースだった。すぐに金正恩という30歳前後の若者が、その独裁国家のトップに就任した。東アジアの国際政治のバランスが今後どう変化していくか、大学に入ったばかりで政治学というものに触れ始めた自分には刺激的なニュースとなった。

今年は朝鮮戦争の休戦から丁度60年を数える。昔から国の維持に苦労を重ねてきた半島国家は、未だに分断状態に陥ったままだ。
元はと言えば、これは第二次大戦後の国際政治が生み出した構造であり、北朝鮮はその成立時から国際関係の危ういバランスの上に存在し続けている。冷戦の時代に中ソの両大国と一線を画し、冷戦崩壊後には軍事力や兵器技術によってその存在感を示している。綱渡りの国家だ。
この本は、休戦後の北朝鮮の歴史について振り返り、金日成―金正日―金正恩の三代に渡る実権の継承とその変質を探っていく本である。著者の平岩氏は関西学院大学の国際学部の教授だ。

北朝鮮という国家を特徴づけるのは大きく二つ。
一つ目は分断国家であることであり、二つ目はその分断が多分に国際政治的な文脈の中で生成されたものであるということだ。
冷戦構造にあって、北朝鮮はソ連・中国・韓国・日本・アメリカという国の間でのパワーバランスの中で生まれた国家であった。この根源的な国家の成立要件から、著者は「北朝鮮の政治は常に国際政治を反映したものでしかありえない」という視点を設け、その上で分析をしている。

面白いと思った部分を紹介したい。
北朝鮮が成立した当初に唱えられた「主体思想」についてである。主体思想は金日成が自らの権力を対外・対内的に強化するためのもので、「政治の自主・経済の自立・国防の自衛」という三つの柱に「思想の主体」を加えた哲学である。
朝鮮戦争を契機に北朝鮮での実権を握り始めた金日成にとって、次の障害となったのは中国・ソ連からの内政干渉の危機である。ここで金日成が強調したのが「主体思想」であった。すなわち、マルクス・レーニン主義のイデオロギーについての解釈権は北朝鮮も有している、とすることで「中国式社会主義」「ソ連式社会主義」といったものに追従する必要を排したのである。
その結果、北朝鮮は対外的には中国・ソ連といった大国からの自由を獲得し、対内的には「国内には思想は一つしかない」とすることで金日成体制に反対する勢力を駆逐することに成功した。
小国が大国と渡り合うためにイデオロギーを駆使した最たる例と考えることができるだろう。これによって北朝鮮は中ソ対立の時にもある程度自由な立場を貫くことが出来たし、もっと言えば冷戦崩壊時に東欧諸国と同じように共産主義体制を崩壊させずに存続させることが出来た。「主体思想」は複雑な国際政治の舞台にいる北朝鮮に有効なカードとして機能し続け、同時に北朝鮮を決定的に特徴づけることとなったのである。

また、金正日以降の北朝鮮が軍に傾倒する理由というのも面白かった。
北朝鮮のトップは、党・国・軍の三つトップであることを意味する。金日成から金正日への権力継承の時、金正日はまず軍のトップになっていた。本来、金正日への権力移行は党を中心に行われるはずだったのが、重大なシフトチェンジが起こったたために、軍中心の継承となってしまったのである。
理由は以下の通り。
まず、当時の国際政治での地位競争において、北朝鮮は韓国から大きく水をあけられていたこと。ラングーン事件、大韓航空機爆破事件などのテロ行為によって北朝鮮は目論見を外して国際的なプレゼンスを落とし、一方の韓国はソウル・オリンピックを開催させて大きな成功を収めていた。これが北朝鮮の焦りを招く。
次に、社会主義勢力の崩壊があったこと。中でも衝撃的だったのは中国の天安門事件とルーマニアのチャウシェスク大統領夫妻の処刑だったという。天安門事件は軍事で中国政府が民衆を弾圧、ルーマニアは寝返った軍部によって政府首班が殺されるという正反対の出来事であったが、北朝鮮はこれを見て政治と軍の協力関係の大切さを認識したという。また、冷戦の終結によってイデオロギーが統治の道具として機能しなくなり、よりハードな道具である軍を必要としたとも考えられている。
そして、94年に金日成が急逝したことが挙げられる。これによって金正日の権力継承は、父の存命中に継承された軍ポストを国家ポストに肥大化させるという形態をとらざるを得なかったという。
もちろん、これに9.11以降のブッシュ大統領による強硬路線が追い打ちをかけたのは言うまでもないが、北朝鮮の「先軍」路線はこうした国際的な状況と国内的な状況によって決定された、というのである。

現代の北朝鮮という国を見る上で、非常に面白い情報が入った本であった。
ただ、このブログ記事のまとめ方の乱雑っぷりを見ればわかるように、まだ自分なりに「北朝鮮」という国家を咀嚼しきれていない状況であることもはっきり自覚できる。もっと理解が深ければ、カギとなるポイントを二、三点挙げて綺麗にまとめられるはずである。それにはまだ時間を要するだろう。

ともかく、今後もこの本で得たものをもとに北朝鮮に関するニュースを読み解いていこうと思う。

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135.日中国交正常化 (服部龍二)

尖閣諸島や歴史問題にはばまれ、中国大陸と日本はなかなか「近くて近い国」になれないでいる。
野中広務元官房長官は中国で「尖閣諸島の棚上げはあった」と発言、これをめぐり日本の内閣は少し動揺していた。
尖閣諸島の棚上げ、というのはかつて中国と日本が国交正常化をした際から続く状態である。日中国交正常化という試みは、現代アジアの国際関係を規定する大きな出来事であり、大変な困難に果敢に挑んでいった当時の政権とそのブレーンたちの努力の賜物であった。今回は、その試みを精査した国際政治史学者、外交の専門家である服部龍二の新書「日中国交正常化」を取り上げる。

日中国交正常化当時の日中国内状況を把握しておこう。
日本は長期政権である佐藤栄作政権が集結し、総裁選で福田赳夫を下した田中角栄が首相となった。田中角栄については、中公新書から「田中角栄」が出ているが、日本の政治に良くも悪くも大きな影響を残した人物である。その努力と企画構想力、そして推進力から「コンピューター付きブルドーサー」呼ばれた。
当時の外相は大平正芳。池田勇人内閣で“大角コンビ”と呼ばれるほどに息を合わせて働いた、田中角栄の盟友だ。彼もまた、1978年に首相となる。
中国国内は毛沢東による権力奪還運動、文化大革命が収まりつつあった。共産党の主席は毛沢東、首相は周恩来という体制であった。詳しくは「中華人民共和国史」(岩波新書)がある。

事の発端はキッシンジャー、そしてニクソンの訪中である。
冷戦下で米ソがにらみ合いを続けるなか、中国とソ連の関係が悪化したのを見たアメリカは急速に中国に接近したのである。
これに最も驚いたのが日本であった。アメリカの安全保障体制の傘の中に入っているにもかかわらず、その傘の持ち主が目と鼻の先の相手国に対して歩み寄りを始めたのである。
丁度、国連でも中国の代表が国民党の指導する中華民国(台湾)から、中華人民共和国に移ることが認められた。国際社会の中で、確実に中華人民共和国という国家の引力が強くなっていった時代であった。

注目すべきは、こうしたときに日本は「首相田中角栄―外相大平正芳」という完璧ともいえるコンビをその首脳に持ったことであろう。国際政治のレジーム・チェンジが起こりかけた時代、ダイナミックな変革を成し遂げるだけの決断力を持った田中角栄と、緻密で論理的な思考に長けた大平正芳、この二人が大きな「てこ」となってアメリカの先手を打った国交正常化を大胆にやってのけたのである。

日本の外交で求められていたのは、以下の点だ。
・日米安保体制の枠組みから外れないこと
・共産主義を忌避する国内の右派を説得し、刺激しないこと
・台湾との国交を断交するが、民間での交流は続けること

客観的に見れば、これは無理というに近い。台湾には国民党の英雄である蒋介石がまだ健在であり、日本国内(自民党内にも)台湾への恩義を切り捨てるのか、という批判の声があった。綱渡りのような外交に求められた条件の厳しさに、ブレーンらは条文から晩さん会でのスピーチまで、一字一句にまで最大限の注意を払った。ダイナミックな外交転換であるだけに、そこには繊細さが必要だった。日本の高官たちがその知恵のすべてを傾け、その上に田中角栄という巨像がどっかりと座っていた。

もっとも、この国交正常化は中国側の異常ともいえる譲歩の上に成立していたのは言うまでもない。
唯一ともいえる共産主義国家の盟友、ソ連との関係悪化で世界の孤児となりかかっていた中国は、日本・アメリカとの関係改善をその世界戦略としてどうしても成し遂げる必要があった。
ただし、「親が日本兵に殺された」という記憶もまだ生々しい時代である。民主主義国家でないとはいえ、中国共産党指導者は彼らの感情をなだめる必要があった。ここで言われるのが、有名な周恩来の「日本国民もまた、軍部の犠牲者なのだ」という論理である。
中国は日本に対して戦時についての損害賠償を請求しなかった。自らを仮想敵国と設定している日米安保体制も、その存続を認めた。こうした文脈の中で、尖閣諸島も「棚上げ」した。領有権については争わず、とりあえず国交正常化だけを成し遂げてしまおうというものであった。今日まで続く日中間の力強い経済連携は、この政治判断なくして、なかったと言える。
中国共産党はぎりぎりの譲歩をした。本で読んでいても立派な、大人の対応だと思う。

しかし台湾の対応はもっとすさまじい。
自らとの国交を断絶させ、自国の国としての形を崩壊させるような外交をした日本の声明を受けて、こう発表した。
「中華民国政府は、田中政府の誤った政策によって、蒋総統の厚徳に対する日本国民の感謝と敬慕が影響されないと深く信じており、友誼を保持し続ける」
戦争状態に陥るか、とまで懸念された日台関係は、台湾による愛憎こもごもの複雑な感情を噴出させたようなこの声明によって、いまも友好的なまま続いている。時の勢いというもので仕方がなかったとはいえ、日本海を越えたスケールでの人間関係の劇を見ているようで、なんだかとても切ない。

話が少し変わるが、この本の中で毛沢東のセリフが引用されていた。交渉が終盤戦に入ったころに田中角栄と大平正芳、二階堂進が毛沢東を訪ねたときの話である。
毛沢東はこう言ったそうだ。
「もう周首相とのケンカはすみましたか」。
これを読んだときに、あぁ、毛沢東は本当に群を抜いて大きな人物なんだなと思わされた。演技が入っていようがいまいが、巨人たちが国交正常家に向けて汗を流しているその上に、毛沢東という人物が座していたのは事実である。まったく信じられないような次元の話である。これだから歴史についての本を読むのはやめられない。

とはいっても、田中角栄も周恩来も蒋介石も、みな天晴としか言いようのない働きをした。みな言わずと知れた巨人である。彼らが英知の限りを尽くし、その結果として日本と大陸をつなぐ橋が出来た。世界史的な偉業であるのは言うまでもない。
これが今、領土問題や歴史認識などの軽率な動きによって傷つけられようとしている。この現状に対する世界史的・巨視的な観点はもっと多くの人々が持っておいた方がいい。

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134.新自由主義の帰結 (服部茂幸)

もう何冊目か分からないが、新自由主義をめぐる新書である。大学の生協で1位になっていたので買った。
新自由主義の帰結。アメリカの事例を主にして新自由主義経済のもたらした弊害を説き、それを通じて現代世界の経済停滞の原因と解決方法を考えていく。

市場競争が適切に働く自由主義下では、財の配分はもっとも効率的に行われる。だから、大きな政府の時代に行政が担ってきた分野を市場にゆだね、政府は適切なルール作りに励めば、十年以上停滞を見せてきた経済は活性化する――。新自由主義とは基本的にこうした発想である。

著書はこうした新自由主義の“帰結”として大きく二つのことを指摘している。
①新自由主義は格差を拡大させた
②新自由主義は安定的な金融市場の運営を破壊し、金融危機を誘発した


もう何度も見てきたような議論であるが、大きくおさらいしておく。
①については、(新)自由主義は財を効率化させることはできてもその配分結果の公平性には関与するところが少ない。その結果、新自由主義は1%のスーパーリッチの成長と99%の一般労働者の停滞を現出させた。これはアメリカのウォール街で起こった「ウォール街占拠運動」が象徴的である。
新自由主義が起こしたとされる「経済成長」も、偽者の経済成長に過ぎないと著者は断じた。それは多くの労働者の賃金を上げるような成長ではなく(実際に彼らは激しい賃金低下に見舞われた)、1%の金融資本家たちがその財を肥大化させることで起こった成長であった。こうして新自由主義下での経済成長は、99%の手元を離れた「実感なき経済成長」へと変容する。

②の金融については少し込み入った話になる。
金融とはもともと活発な産業に対して、資金の不足する部分へそれを注入するのが役割であった。逆に言えば、現代のような産業が停滞している時代には金融は成立しがたい。そこでもし、金融が無理をして冒険主義へと走っていけば、どうなるか。もちろん一時的には一部の人に利益をもたらすだろうが、それは実体のない利益、すなわちバブルに過ぎない。
第二次世界大戦の遠因となった世界恐慌も、自由すぎた金融市場がバブルを一気に崩壊させることで起こった。以来、戦後国際秩序は「安定的な金融市場」を目指して運営されてきたという背景を持つ。
新自由主義は、この方針を壊した。すなわち経済効率性という神話を、金融市場にも持ち込み、「大いなる緩和」へと踏み込んだのである。その結果がバブルであり、サブプライム・ローンに端を発するリーマン・ショックであった。この金融バブルの崩壊こそが、世界経済に深い爪痕を残し、その経済停滞の原因となっているという。
最悪だったのが、政府の対応である。新自由主義がタブーとする介入、すなわち元凶となった企業に対する救済を「潰すには大きすぎる」という論理で正当化し、実際に行ってきた。金融危機で潰れかかると、政府が救出する。そのため、金融市場はますます冒険主義に走る傾向になったという。


ここまでがこの本が指弾する、新自由主義の弊害である。
現在の経済状況に関する示唆的な話が多くあったので、読んでみるといいと思う。

さて、しかしこの本で注目したいのは以下の点だ。
「誰にという視点を外して、政策評価はできない」
これは結構奥が深い。
僕は何冊か新自由主義に関する本を読んできた。「新自由主義の復権」という1冊を除いて、ほとんどが否定的だったと思う。ただ、自分の中で明確に新自由主義に対して是非を決せないでいた。
そうした意味では、上の言葉はかなり重要だ。
新自由主義は確かに格差を拡大させた。ただ、「財を効率的に操れる有能な人」に財が集まっていて、効率的な財の配分が達成されているのも事実だ。つまり、効率性でいえば新自由主義はある程度の成功を収めている、本の言葉でいえば「1%のための政治としては非常に合理的」なのである。

問題は、この1%がたくさんの財を独占することをどう考えるか、である。これがダメだと考える人は、新自由主義に対しても否定的な意見を持つだろう。要するに、どのような経済理論にもストロング・ポイントとウィーク・ポイントがある。問題はそれが「時代に合っているか」「人々の価値観に受け入れられているか」という点なのだ。
こんなことは政治学の中で何度も触れてきたはずなのだが、今あらためて気づかされたので、新鮮な気持ちでここに書き留めておきたい。

また、この筆者の主張は「新自由主義的政策とは逆を行け」というものであったが、これも上記の考え方に悖れば危なっかしい。
99%のための政策は、1%のための政策ではないのである。当たり前のことだが、政府の介入の度合いを強め、再配分を99%に有利なように勧めれば、1%は逃げていくというのが定説だ。すなわち大金持ちや大企業はみんな、もっと自分たちに有利な海外の国へ行ってしまう。本当にこうなれば、それこそ国の息の根が止まってしまいかねない。99%を優遇したつもりが、かれらを雇っていた1%が海外へ流出したために99%がより苦しい立場に立たされても、おかしくない。それを肝に銘じる必要がある。
中道が常に正しい、とまでは言わないが、「ほどほどに」「現実的に」というのは経済政策を見る上で欠かせない視点の一つであろう。

新自由主義の世界を通じて、人間はホモ=エコノミクスでないことがはっきりした。
ホモ=サピエンスたる人間がこれからどういう価値観で社会を運営していくべきか。これについて知恵を絞らなければならない、というのは間違いではなかろう。

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133.坂の上の雲 フレーズ集

「世間にはいろんな人間がいる。笑って腹中に呑みくだすほかない」

青春というのは、ひまで、ときに死ぬほど退屈で、しかもエネルギッシュで、こまったことにそのエネルギーを智恵が支配していない。
思えば明治時代というのは「一億総青春」とでも言えるような時代だったか。

人間は、自分の器量がともかくも発揮できる場所を選ばねばならない。

「学問には痴けの一念のようなねばりが必要だが、要領のいい者はそれができない」
正岡子規が秋山真之を評した言葉だったと記憶している。

ある種の歴史科学の不幸は、むしろ逆に悪玉と善玉とわける地点から成立してゆくというところにある。
自然科学と歴史科学の対比。

ゆらい、半島国家というものは維持がむずかしい。
地政学上の定説。どこから仕入れてくるのか。

「いくさは、たれにとってもこわい。そういう自然のおびえをおさえつけて悠々と仕事をさせてゆくものは義務感だけであり、この義務感こそ人間が動物とはことなる高貴な点だ」(秋山好古)
明治時代の日本人が持っていた独特な雰囲気だろう。

国家間の茶番はたとえ茶番であっても巨大な歴史をつくってゆく。
日英同盟についていったものだったと記憶している。

「功労者は、勲章をやればいいのです。実務につけると、百害を生じます」(山本権兵衛)
革命の主役は、革命後には害毒になりやすい。

名将というのは、士気を一変させて集団の奇蹟をとげる者をいうのであろう。
「集団の奇蹟」という表現が秀逸。

作戦というのは理智のかぎりをつくして思考しぬき、ついにぎりぎりまで煮つめた最後の段階では天賦のかんにたよるしかない。
真之はこの境地に達したという。

日本は遼陽会戦においてはじめて世界のスクリーンの上にその像を投影しはじめたのである。
外交の勝利、国際世論の勝利とも言われる日露戦争。しかし日本はまだ国際社会という集団の中では新顔であったのは言うまでもない。いわばビギナーズ・ラックのようなことをやってのけたのであろう。

一人の人間というものはつねに一つの性格で行動するものではない。
児玉源太郎も、旅順攻略に頭を悩ませるあまり遼陽会戦の作戦を多少誤ったという。

「人間はなにも知らないのにかぎります」(大山巌)
西郷隆盛が代表的な、薩摩藩に色濃い「トップの哲学」。すなわち責任はすべてとるが、仕事は有能なものにすべて一任してしまう。一個の機関として、巨人の像を自ら打ち立てる。「ウドサァ」と薩摩藩では言ったらしい。

「諸君はきのうの専門家であるかもしれん。しかしあすの専門家ではない」
日露戦争の陸軍で作戦を滞らせたのは、先入観に支配された専門家であった面もあったという。

「国家は貴官を大学校に学ばせた。貴官の栄達のために学ばせたのではない。」(児玉源太郎)
個人の努力すなわち国家の努力である、明治時代ならではの名言。

「気合のようなものだ。いくさは何分の一秒で走りすぎる機微をとらえて、こっちへ引きよせる仕事だ。それはどうも智恵ではなく気合だ」(児玉源太郎)

「本来、外交というものは、外交より内交のほうがむずかしいものなのだ」(小村寿太郎)
彼はポーツマス条約で不遇の人となるが、それはこの小説で触れていない。

無能な指揮官が、その無能を隠蔽するために、みずから風紀係になったように軍規風紀のことばかりをやかましくいう例は軍隊社会にふんだんに見られる。
無能というものに手厳しい。

歴史というものは、歴史そのものが一個のジャーナリズムである面をもっている。
司馬遼太郎の歴史観。

多くの革命は、政権の腐敗に対する怒りと正義と情熱の持続によって成立するが、革命が成立したとき、それらはすべて不要か、もしくは害毒になる。
司馬遼太郎の革命観。

「ロシアに対する勝ち目は、ふつうにやって四分六分というところである。よくやって五分々々、よほど作戦をうまくやれば六分四分」(児玉源太郎)
日本がいかに厳しい状況であったか。

「火をつけた以上は消さにゃならんぞ。消すことがかんじんというのに、ぼやぼや火を見ちょるちゅうのは馬鹿の証拠じゃないか」(児玉源太郎)
日露戦争は、日本が優位にあるうちに絶対に集結させなければならなかった。

日露戦争は日本人の国家の重さに対する無邪気な随順心をもった時代におこなわれ、その随順心の上にのみ成立した戦争であった。

ふつう人間の一生で、他人に繰りかえし語るに値する体験というのは、一つあればいいほうであろう。
司馬遼太郎の「普通の人」に対する考え方、それへの敬慕は、作中にもみられた。

戦術家というのは、「敵が予想どおりに来る」というこのふしぎな瞬間に賭けているようなものであり、戦術家としての仕事のほとんどはこの瞬間に完成する。

「本日天気晴朗ナレドモ浪高シ」(秋山真之)
日本海海戦の開戦を知らせる報告に、真之が最後に付け加えた一文。

悲運の名将というののは論理的にありえない表現であり、名将はかならず幸運であらねばならなかった。
将という仕事の難しさ。厳しさ。

「われら武人はもとより祖国のために生命を賭けますが、私怨などあるべきはずがありませぬ」(東郷平八郎)
劇のような爽やかな戦争、倫理的な最後の戦争が、この日露戦争であった。
この言葉は東郷が重傷の状態で捕虜となった敵将ロジェストウェンスキーにかけた言葉。

このながい物語は、日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である。

楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前のみを見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。

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133.坂の上の雲 一~八(司馬遼太郎)

正直に言えば、今ここで上手に感想をまとめられる自信がない。
ただ、別にこのブログは読者に感銘を与えるためのものではないし、そもそもあまり読んでいる人もいないので、そこはある程度気楽に更新しようと思う。

なぜまとまらないのか。それは坂の上の雲という作品の長大さにあり、そして主題の大きさにある。
20世紀の初め、世界の東の端にある小国が広大なユーラシア大陸の上に寝そべったような超大国に戦いを挑んだ。まだ国家という近代的なものに触れてから半世紀も経っていない黄色人種の国が、ヨーロッパのほとんどの国が恐れ敬遠した白人国家と、である。
この小説は、国家が成立して間もない日本が、信じられないほどの力強さと明るさで日露戦争、上に書いたような戦いを繰り広げた姿を描いたものである。その背景には、日本の明るい前途を信じる多くの楽天家たちがいた。

このながい物語は、日本史上類のない幸福な楽天家たちの物語である。

書くべきことが多すぎて、まだ何を書いていいのかわからない。
司馬遼太郎はこの作品の調査に5年、さらに執筆に4年をかけ、彼の40代はこの作品の為に費やされたという。彼が描こうとしたその主題は、日本の「古き良き時代」。国家という「新鮮なもの」に感動し、そしてそのために尽くそうという昂揚感を持っていた日本人たちの時代である。
楽天家たちは、そのような時代人としての体質で、前のみを見つめながらあるく。のぼってゆく坂の上の青い天にもし一朶の白い雲がかがやいているとすれば、それのみをみつめて坂をのぼってゆくであろう。

主人公は秋山好古、秋山真之兄弟と正岡子規の三人と司馬遼太郎は言うが、この作品にはそれ以外にもたくさんの主人公格が登場する。
日本の海軍の祖と言われる山本権兵衛、黄海海戦と日本海海戦でロシア艦隊を破った東郷平八郎、陸軍の総参謀長を勤めた児玉源太郎、後世仰がれ続けるが司令官としては難があったとされた乃木希典と、数えきれない。ロシアにもいる。敵の陸軍大将であったクロパトキン、世界をぐるりと回って日本海までやってきた歴史的航海を成し遂げながら日本海海戦で大敗を喫したロジェントウェンスキーなど。ありていに言えば、この物語は戦争への突入を決定した日露の政治家から、実際に軍を動かした指揮官、そして広大な大地や海において名もなき死を遂げてしまった数万に上る日露両国の兵士まで、全員が主人公であった。
いや、主人公はあくまで日本であったか。司馬遼太郎が書きたかった主題が「古き良き日本」、「坂の上の一朶の雲を目指す楽天家たち」であったことを考えると、日露戦争にどれだけ影響を与えた人物であっても、ロシアの人々はみな引き立て役に過ぎないかもしれない。逆に言えば、そこまで当時の日本は主人公でありえたということである。

美しい本だったとおもう。ユートピアを描いたSF小説よりも、夢が詰まった本だった。
明治はよかった、という感傷を長大な一大叙事詩として完成させたのがこの作品であるという考え方もできるだろう。
こんな話を聞いたことがある。司馬遼太郎は太平洋戦争への従軍のとき以来、日本というもの、日本人というものが嫌でたまらなくなった、というより不信に陥ったらしい。彼が歴史小説を書き始めたのは、「昔の日本人にはこんな人もいたんだ」という己自身への慰めのつもりだったと。その作業が残したものが、坂本竜馬や土方歳三や河井継之助…といった、彼が描き出した人々の群像であった。前途に明るい将来しかなかった日本、そしてそれをまっすぐに信じて坂を上った日本人。彼はこうした人々の姿、心、すべてに胸を打たれながらついつい9年間にも及ぶ調査と執筆活動に身を投じたのではないか。
不馴れながら「国民」になった日本人たちは、日本史上の最初の体験者としてその新鮮さに昂揚した。このいたいたしいばかりの昂揚がわからなければ、この段階の歴史はわからない。


「国家は貴官を大学校に学ばせた。貴官の栄達のために学ばせたのではない。」

作中で引用された、児玉源太郎の言葉である。
国民一人ひとりの努力、成長がそのまま国家の成長に足し算・掛け算された時代。彼らの背負った日本とはどうだったのか。日本を背負う、その痛烈な自覚と共に生き、そして戦った当時の人は、なるほど、もし世に名前を知られることなく死んでいったとしても、その一生を一個の芸術のように美しく時代を超えて輝かせるものである。

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