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本と6ペンス

The writer should seek his reward in the pleasure of his work. ("The Moon and Sixpence" Somerset Maugham)

132.歴史認識を問い直す (東郷和彦)

毎年毎年、日本をめぐって歴史認識の問題が浮上する。今年も例外ではない。橋下徹氏の従軍慰安婦問題をめぐる発言が、韓国のみならずアメリカやヨーロッパにまで広く影響を与えた。
そんな中で手に取ったのが、角川新書の「歴史認識を問い直す」。今年の4月に刊行された、ごく新しい新書である。

内容は大きく二つ。
一つ目は領土問題について。尖閣、竹島、北方領土と東アジアの交流と連携の深化を決定的に妨げている問題を見つつ、その現状と解決策を提示する。
二つ目は歴史認識問題について。村山談話と河野談話、そして台湾の存在を取り上げ、これらをめぐる日本国内と国際社会での認識の違いを示したうえで、日本が取るべき方針を訴える。

見てもらえればわかるように、日本が抱える主な歴史問題を広く扱っている、お得な本である。
これまでも歴史問題や戦時中の日本の行動についてを分析した本をいくつか紹介してきた。たとえば「北方領土問題」(中公新書)や「戦争責任とは何か」(中公新書)など。
そんななか、この本の大きな特徴の一つは現在の情報を扱っていることだろう。最新の動きはどうなっているのか、一国の外交のあり方を見るときには欠かせない情報だ。なぜ橋下氏の発言がアメリカを動かしたのか、喫緊の事情を見やすくしてくれる。

個別具体的なことについて話すときりがないので、今回は歴史認識という問題について、大きく話して終わりにしたい。

歴史認識、と言えば非常にデリケートな問題である。何といってもナショナリズムが少なからず関わってくる問題だからだ。実利的な側面だけで見れば簡単に解決するはずなのに、感情が複雑に絡み合ってくるために問題が容易に解けなくなる。

ナショナリズムというのは厄介な代物で、「固有の領土」を相手に譲りたくないがために、何十、何百億という経済的な恩恵や、win-winの関係を構築することを阻む。尖閣諸島をめぐる反日デモでは、相当な経済的損失が出た。尖閣諸島という島に、それと匹敵するような経済的価値があるわけでもないのに。

人間は経済合理的に思考するホモ・エコノミクスではない。ナショナリズムという「感情」を満たすための対価として、ときに考えられないほど非合理的な行動すら起こしてしまうのが人間だ。

ではナショナリズムなど捨ててしまえ、そんなのは非合理的だ、と主張すればいいのか。そうでもない。
司馬遼太郎は「ナショナリズムの精神が希薄な国は国際社会から軽んぜられる」と書いている。自分の国、強度に対する愛着を一切捨てさり、何を守り何を大切にするのか考えることを放棄したような国に、明るい将来はない。

結局「両国の顔が立つように」というのが、こじれた歴史問題の落とし所だ。鄧小平による尖閣の「棚上げ」など、感情を出来るだけ抑えたうえで、経済的な利益を取ろうとするのが政治の基本方針ではないか。

そうした文脈でいえば、いまの歴史問題はきわめて「現時点的」な問題である。
歴史上の、ある特定の事実があったか・なかったかは、いまや主要な争点ではない。
現在の歴史問題は「歴史の過ちに対する国の態度を、国際社会がどう受け止めるか」をめぐる問題なのである。

分かりやすいように、韓国の慰安婦問題を取り上げてみる。
慰安婦に対する政府としての賠償は、すでに「最終的かつ完全に解決」したという協定が結ばれている。その後も日本は民間での基金を作り、そこを通じての経済的償いを続けてきた。こうした中で、韓国がなおも日本に「従軍慰安婦に対する賠償を」と迫ってくる。これは筋が違う。これは歴史の問題でなく協定の問題であり、そもそも国際法的に賠償は出来ないのである。大胆にいえば、これは歴史問題ではない。

しかし、橋下氏の「従軍慰安婦の強制連行はなかった」発言は歴史問題である。正確にいえば、「日本は歴史上の過ちを反省している」という国際的な印象を損ねた、という意味で歴史問題である。河野談話の「強制連行」の文言について、その事実関係が論争の的になっていた。強制的に連行をしたという証拠は今も見つかっていない。

じゃあ、日本はいまさら「やっぱり強制連行はしてませんでした」と言えばいいのか。言ったとして、何のメリットがあるか。歴史的事実を明らかにし、毅然とした態度を国際社会の中で貫く。聞こえはいいが、この行為は国際的な孤立を招きかねないのである。

いま、世界が日本の主張を聞いたらどう思うか。
「あぁ、軍部が慰安所を作ったのは確かだけど、強制連行はなかったんだな。日本はそういう汚い行為をしないんだな」。こう思う人はごく少数であろう。
大多数はアメリカ側の政治家の発言の通りだろう。
「恥ずべき歴史修正主義者だ」と。

重ねて言うが、今日の外交というフィールドにおいて歴史問題とは歴史的事実を争う問題ではない。国際世論、国際社会の印象の問題であり、感情の問題である。疑いようもなく加害者の立場である日本が、少しでも歴史的事実を明らかにすることを理由に、(たとえそれが事実であっても)弁明的な発言を繰り返せば、国際社会はどんどん日本を軽蔑していく。
先ほども言ったが、すでに公式の賠償は終わった。いまさら「強制連行云々」と言って自分から自分の痛いところをほじくり返して滔々と自論を繰り広げたところで、経済的恩恵は皆無、しかも国際的地位は下がる。客観的に見ると痛々しい行為にすら映るだろう。

歴史問題は基本的に「触らない」のがベターだ。日本にとってそれは開けてはならないパンドラの箱のようなものである。
東郷氏はこの本で「対外発信」という言葉を使った。これからの歴史問題は事実関係でなく「対外発信」の勝負であることを肝に銘じなければならない。


もうひとつ、ナショナリズムが絡んだ外交には絶えず国民の感情がつきまとう。
これと政府がどう向き合い、どう抑えていくかも重要だ。
今読んでいる「坂の上の雲」の中で、明治の外交官である小村寿太郎のこんな言葉が紹介されている。
「外交よりも内交の方がむつかしい」
領土問題も歴史認識問題も、きっと高度に政治的なレベルでは話がついているのだろう。
あとは、それをいかに国民に納得させるか、もしくは、かわさせるかである。

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131.コモン・センス(トマス・ペイン)

今回はアメリカ独立に際して世論を圧倒的に誘導し、「歴史を動かした書物のひとつ」であると言われる、トマス・ペインの「コモン・センス」である。
もともとイギリスの植民地であったアメリカは、「本国」による圧政の下に苦しめられていた。イギリスの戦争によるしわ寄せを受けて、課税に次ぐ課税。こうして有名な「代表なくして課税なし」のスローガンや、パトリック・ヘンリーによる「我に自由を与えよ、しからずんば死を」の名演説などが生まれる、「革命国家アメリカ」の誕生を、世界史が見ることになった。

「コモン・センス」はそうした雰囲気の中で生まれた。「常識」と銘打ったこのパンフレットは、アメリカで爆発的に普及する。知識人も一般市民も納得させる情熱的で確信に満ちた文体で、アメリカで字を読める人はほとんど全員が読み、そして同国の独立を支持するようになっていったという。
アメリカという国に誇りを持ち、その利益と理念の面から強烈にその独立を説いた。その歴史的な役割については、「トマス・ペインが始めた仕事をジェファーソンが独立宣言で終えた」という格言が残っているくらいだ。

歴史の息吹と力強さを感じさせる本であった。つくづく、古典は良いなぁと思わされた。
生まれたての革命思想が、アメリカにおいて美しく適用され、理論化されていたと思う。一種の初々しささえ感じさせる。以下は印象に残った文章。


社会はわれわれの必要から生じ、政府はわれわれの悪徳から生じた。

物事を間違っていると考えようとしない長い間の習慣によって、すべてのものが表面上正しいかのような様子を示すものだ。

われわれは懸命にも絶対王政の出現を阻止するため戸を閉めて錠をおろしたが、同時に愚かにも国王に鍵を渡してしまったのだ。

われわれの繁栄をねたむ権力がわれわれを統治するのにふさわしい権力であるのか。

子孫のために計画を立てる場合、美徳は相続されない。

儀礼は、いや沈黙でさえも、動機はどうであろうとも、卑劣な悪行をいささかでも支持するなら、やはり有害というべきだ。

大砲が国王の弁護士なのだ。また正義の剣ではなく、戦争の剣が判決を下すのだ。

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130.イギリス近代史講義 (川北稔)

今回はとある理由もあって「イギリス近代史講義」。
著者の川北稔は1940年生まれ、京大出身の文学博士である。岩波新書の「砂糖の世界史」が有名だという。

タイトル通り、イギリスの近代から現代までの歴史を綴った本であった。
「第一次産業革命はなぜイギリスで起こったのか」という一大テーゼを含みながら、広く最近に至るイギリス史を概観した新書であった。
すっかり忘れていたが、自分は受験で世界史選択だった。とても楽しかったことは覚えている。最近は司馬遼太郎ばかりで日本史の面白さに惹かれてばかりだったが、やはり世界史を題材にした本もたくさん読んで、広範な知識をつけたい。まだまだ読むべき本はたくさん残っていると改めて実感した。

この本自体でいえば、「イギリス近代史講義」というタイトルの通り、まさに講義だった。ところどころに面白いと思える考察が散らばっていて勉強になる本だったと思うが、読み物としての面白さは感じにくかった。そういう点では「砂糖の世界史」の方が読みやすいのだろうか。

さて、本の結論には「衰退とは何なのか」、つまり「成長パラノイア」をどう考えるべきかという点が挙げられていた。たしかにこれが現在の歴史学の最大の課題なのかもしれない。
成長とは何か、衰退とは何か。多くの国が「成長の限界」を見ようとしている現在、その課題に対する答えを見つけられるかどうかは大きな意味を持つ。

たとえば、経済学は「成長」を前提にしているのがほとんどである。「衰退」を語る経済学はほとんどない。
もちろん国家や世界の「成長」を定義するのは大変難しいが、「成長」を諦めるのも、それと同じくらい困難だろう。
いま、人口もGDPも成長しているが格差が拡大し一人当たりGDPが少ない国と、人口もGDPも衰退しているが格差は少なく一人当たりGDPは比較的大きい国では、どちらが幸せだろうか。
「成長と衰退」というテーゼは、これからの日本や世界で大きな意味を持っていくだろう。
感想としては、この本でもうすこしその点についての作者の見解を知りたかった。

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129.中華人民共和国史 (天児慧)

中国の政治に関する授業をとっているので、せっかくだから一冊ぐらい近代中国史をおさらいできる本でも読もうかということで読んだのがこの本。
1999年に出版された本だが、それでも現在東アジアのパワーバランスの中心を担っていると言っても過言ではない中国のルーツを知ることが出来る。

大躍進、そして文革といった独自の社会主義路線を模索した毛沢東の時代。
その時代と決別し、改革開放路線を貫きながらも、天安門事件などの民主化運動へは毅然と対応して政治的引き締めを維持した鄧小平の時代。
そして経済成長を通じて鄧小平時代の経済優先の「棚上げ」を破棄し、積極外交と軍備増強という路線への転換を行った江沢民の時代。

出版年の関係で本の内容はここまでだが、自分が思っている以上に中国政治が面白いことが分かった。
これまで中国といえば中国共産党の一党支配だと思っていたので、てっきり日本のような政治闘争・権力闘争などはあまりないのだと勝手に印象を持っていた。
しかし、それは全くの見当違いだということがこの本を読んで分かった。
中国共産党内でも熾烈な権力闘争が展開されている。しかも、共産党はイデオロギー的な建前と現実的に取らざるを得ない路線とのジレンマに苦しみながら国家を指導しているため、場合によっては日本のそれよりも面白いかもしれない。
1億2千万の代表たる日本の政治家と、13億人の代表たる中国共産党総書記では、スケールも違う。おそらく日本の政治史で見られる以上にたくさんの偉大な政治家が輩出されているのだろう。

そう思うと、なんだか中国政治というものにも少し興味を覚えてきた。
政治体制は日本と違うが、だからこそ面白いドラマもあるかもしれない。そして僕は、少なくともいまは、そのドラマを心の底から楽しめそうな気がするのである。

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128.銃を持つ民主主義 (松尾文夫)

第二次大戦後、アメリカが日本を知ろうとした際に「菊と刀」という本がルース・ベネディクトという人によって書かれた。
日本に息づく価値観を分析・著述し、大きな反響を呼んだという。

この本は、その逆版、とでも言えばいいだろう。
前回に続いて「アメリカという国」に焦点を当てた本から。共同通信社の特派員であった松尾文夫氏の「銃を持つ民主主義」である。

アメリカに息づく「武力行使というDNA」を解析し、その歴史的背景を事細かに説明しながら、ブッシュ大統領のイラ戦争にまで話を持ってきている。アメリカと、アメリカを理解していない日本との「すれ違い」が起きている
現状とその理由を丹念に考察した一冊だ。英語版もアメリカで刊行されて世界的な脚光を浴びているというから、驚きである。

アメリカ史を「銃を持った民主主義」という観点から書ききった本だった。これから自分も日本も幾度となく「アメリカという国」とぶつかることになると思うが、そのときには一度立ち返ってみたい本でもある。それだけ詳細に、歴史的な事実を踏まえながら「アメリカ人の心」を浮き彫りにする作品だったと思う。

メイフラワー号に乗って新大陸に上陸してきた開拓者の精神や独立戦争を経て強固に築かれてきた「武力行使」というDNAと、オリジナルな民主主義。
「明白な天命」によって巻き起こされ、モンロー主義によって保障された開拓主義と、その実際的な武器の普及をもたらした南北戦争。
差別や排除の上に成り立ってきたアメリカの民主主義が、今ではアファーマティブ・アクション、いわゆる「逆差別」を用いてその強力なパワーをかろうじで維持しているという皮肉。
ケネディなどによる「世界の警察官」とニクソンなどによる「なりふり構わぬ競争者」という二つの顔を持ち、その狭間で揺れ続ける大国・アメリカ。
そしてそうした文脈の中で改めて捉えなおされるべき9.11、イラク戦争、そして日本による自衛隊派遣。

壮大な内容でありながら、著述は丹念だったため大変中身の濃い本だった。
個人的には、レーガン大統領の優れている点を記述した部分が印象的だった。建て前と本音の間でのバランス感覚が非常に優れていたらしい。

アメリカと日本はまだ、真に相互理解をしないまま関係が進んでいる。
東アジアのパワーバランスが崩れていると危惧される時代において、これからも重要なパートナーであり続けるであろうアメリカを考えるとき、きっと重要なことを我々に教えてくれる一冊である。

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127.銃に恋して (半沢隆実)

ライトノベルのような感じのタイトルだが、アメリカ銃社会を題材とした新書である。
「銃に恋して 武装するアメリカ市民」。筆者は共同通信社の元特派員、現在は外信部デスクだという。銃社会を通じてアメリカの実態を描こうとする新書であった。

筆者が取材を通じて市民、企業、政治家など様々な人たちからの声が書かれており、しかもそれらを通じて一般化された結論を提示していた。新書には最初から最後まで理論や事例一辺倒のものなどがあるが、僕はこの本のように事例と理論を程よく盛り込んでいるものが一番面白いように思う。まぁ人それぞれだと思うが。
この本は事例を踏まえてイメージをつけながら、アメリカ銃社会というものを大きくとらえさせてくれる。良い新書だったと思う。


銃社会アメリカを構成する大きな要点は以下の二つ。

・建国の理念、伝統
こちらは理念的な話である。
アメリカは銃を使って原住民と戦い、食料を得て、開拓を進めてきた。そして武装した市民たちがイギリスと戦い、独立を勝ち取った。
自由の国アメリカはその成り立ちからして革命国家であり、その理念を多くの国民は誇っている。
「自由と民主主義は、時として武力によって勝ち取るべき」
という教訓は、アメリカ人のDNAに組み込まれて脈々と受け継がれているという。ジョン・ロックなどの社会契約論者が唱えた「革命権・抵抗権」が精神的なバックボーンとなっているのだろう。
「銃のない社会に生きる価値はない」という主張も多くみられた。銃を持って、政府権力に抵抗する権利は民主主義の根幹をなすと。
そうした精神を象徴したのが米国憲法修正第二条だ。
「規律ある民兵は自由な国家の安全保障にとって必要であるから、国民が武器を保持する権利は侵してはならない」
しかし、本を読む限りアメリカの民主主義は銃に支配されつつある、という皮肉な状態でもある。

・実際的な安全確保の問題
アメリカは二億丁を超える銃火器が出回る国だという。乱射事件もいつ起こるか分からず、人々は潜在的な銃口の存在におびえながら暮らしている。
「乱射の現場に必ず立ち会うことができるのは、犯人と被害者だ」という図式は、単純だが的を射た主張だ。
自らを被害者としないためには、銃を持つしかない。個人単位では「銃を持つ」ということは最善の選択肢である。この点が、問題の根深い点だろう。筆者も以下のように結論付ける。
こうした特殊性を考慮すれば、「銃のない社会を」という理想を、そのまま今のアメリカに受け入れろというのは、酷な要求であることが分かる。

日本からみて、アメリカのように銃を携帯しているのは異常にも思える。
しかし、アメリカにはアメリカの事情がある。

アメリカでは銃規制法案が通過せず、オバマ大統領が「アメリカの恥ずべき日だ」と話したという。
マックス・ウェーバーは近代国家の特徴を「国家による暴力の独占」だと表現した。自己の独立を志すアメリカでは民間人が武装している。アメリカは近代国家以前の段階なのか、それとも近代国家を超越した段階なのか。
銃社会の様相について、もう少し調べる必要がありそうだ。

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126.花神 上中下 (司馬遼太郎)

もし維新というものが正義であるとすれば、津々浦々の枯木にその花を咲かせてまわる役目であった。
今回は、幕末維新の時代において、花咲爺の役割を一手に担った大村益次郎を描いた「花神」を読んだ。

もともと医師であり、一介の蘭学者であった村田蔵六(大村益次郎)。この本では合理主義の信奉者であり、およそう人間社会から逸脱したような感じの主人公が、医師から学者、そして維新政府の総軍司令官となっていくさまを描いている。
蔵六はもともと「技術屋」であった。終生技術屋であった、と言う方が正しいかもしれない。そんな男が軍事という分野での才能のみによって、日本史の大転換期に顔を出していく。彼を動かしたのは「世の中の需要」だと著者は表現したが、なるほど蔵六は求められるがままに新政府軍に用いられ、天才的な才能を発揮し、維新・革命戦争の時代が終わるとともにこの世から去った。近代日本史を転換させる梃子のような道具に見えないこともない。

下巻のあらすじの表現が良い。
軍事の異才を発揮した蔵六こと大村益次郎は、歴史の表舞台へと押し出され、討幕軍総司令官となって全土に“革命”の花粉をまきちらしてゆく。
押し出されて、という表現がぴったりだろう。野心のない男が、単に自らの持つ技術のために歴史的な大役を果たした。「事実は小説より奇なり」がそのまま当てはまるような一生だ。

元来、人間の才能――政治であれ芸術であれ――のなかでもっとも稀少なのは軍事的才能であろう。
そうであるらしい。短編「鬼謀の人」というのも大村益次郎を描いたものだが、日本史の転換点に、これほどの才能をもった人物が長州藩に生まれたということそのものが奇跡に近い。歴史の為に生まれた人間なのかもしれない。

筆者は大村益次郎の墓を訪れた際の感傷を、あとがきでこう綴る。
はたして蔵六という男がこの世に実在したのかどうか、疑わしくなるといったふうの奇妙な感動におそわれた。蔵六はいかにも蔵六らしく本物の無に帰してしまっているという感じであった。
生まれ、変革期までは人々から無視をされ、最も重要な時期に奮迅の働き(畳の上で戦略を練るだけだが)を見せ、そして無に帰す。「時代の寵児」という言葉はこんな人物に捧げるべきかもしれない。非常に面白いことを考えさせてくれる作品だった。

司馬遼太郎は、大村益次郎が生前に「西南戦争」が将来起こることを予見し、その対策を明治新政府が成立した直後の数か月でほとんど完成させてしまった点になみなみならぬ興味を抱いていた。「先見性」も、ここまで来ると神懸って見える。どこまでも不思議な人が歴史にはいたんだなぁと、ただただ嘆息するばかりである。


以下は気に入ったフレーズ。

「当たり前のところまでもってゆくのが技術というものです」

人間が人間に出あうことはこの世でもっともふしぎなことであろう。

正義とはいかなる正義であれ、多分に狂気をふくまねば行動として成立しえない。

技術にはかならず思想がくっついていて、ときに技術そのものが思想である場合もありうる。

一世をうごかすには、人気が必要であろう。が、同時に一世をうごかすには、まったくひとから黙殺されているという在り方も必要であるかもしれない。

軍事というのは元来、天才による独裁以外に成立しないのである。

中国では花咲爺のことを花神という。蔵六は花神のしごとを背負った。 

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