
毎年毎年、日本をめぐって歴史認識の問題が浮上する。今年も例外ではない。橋下徹氏の従軍慰安婦問題をめぐる発言が、韓国のみならずアメリカやヨーロッパにまで広く影響を与えた。
そんな中で手に取ったのが、角川新書の「歴史認識を問い直す」。今年の4月に刊行された、ごく新しい新書である。
内容は大きく二つ。
一つ目は領土問題について。尖閣、竹島、北方領土と東アジアの交流と連携の深化を決定的に妨げている問題を見つつ、その現状と解決策を提示する。
二つ目は歴史認識問題について。村山談話と河野談話、そして台湾の存在を取り上げ、これらをめぐる日本国内と国際社会での認識の違いを示したうえで、日本が取るべき方針を訴える。
見てもらえればわかるように、日本が抱える主な歴史問題を広く扱っている、お得な本である。
これまでも歴史問題や戦時中の日本の行動についてを分析した本をいくつか紹介してきた。たとえば「北方領土問題」(中公新書)や「戦争責任とは何か」(中公新書)など。
そんななか、この本の大きな特徴の一つは現在の情報を扱っていることだろう。最新の動きはどうなっているのか、一国の外交のあり方を見るときには欠かせない情報だ。なぜ橋下氏の発言がアメリカを動かしたのか、喫緊の事情を見やすくしてくれる。
個別具体的なことについて話すときりがないので、今回は歴史認識という問題について、大きく話して終わりにしたい。
歴史認識、と言えば非常にデリケートな問題である。何といってもナショナリズムが少なからず関わってくる問題だからだ。実利的な側面だけで見れば簡単に解決するはずなのに、感情が複雑に絡み合ってくるために問題が容易に解けなくなる。
ナショナリズムというのは厄介な代物で、「固有の領土」を相手に譲りたくないがために、何十、何百億という経済的な恩恵や、win-winの関係を構築することを阻む。尖閣諸島をめぐる反日デモでは、相当な経済的損失が出た。尖閣諸島という島に、それと匹敵するような経済的価値があるわけでもないのに。
人間は経済合理的に思考するホモ・エコノミクスではない。ナショナリズムという「感情」を満たすための対価として、ときに考えられないほど非合理的な行動すら起こしてしまうのが人間だ。
ではナショナリズムなど捨ててしまえ、そんなのは非合理的だ、と主張すればいいのか。そうでもない。
司馬遼太郎は「ナショナリズムの精神が希薄な国は国際社会から軽んぜられる」と書いている。自分の国、強度に対する愛着を一切捨てさり、何を守り何を大切にするのか考えることを放棄したような国に、明るい将来はない。
結局「両国の顔が立つように」というのが、こじれた歴史問題の落とし所だ。鄧小平による尖閣の「棚上げ」など、感情を出来るだけ抑えたうえで、経済的な利益を取ろうとするのが政治の基本方針ではないか。
そうした文脈でいえば、いまの歴史問題はきわめて「現時点的」な問題である。
歴史上の、ある特定の事実があったか・なかったかは、いまや主要な争点ではない。
現在の歴史問題は「歴史の過ちに対する国の態度を、国際社会がどう受け止めるか」をめぐる問題なのである。
分かりやすいように、韓国の慰安婦問題を取り上げてみる。
慰安婦に対する政府としての賠償は、すでに「最終的かつ完全に解決」したという協定が結ばれている。その後も日本は民間での基金を作り、そこを通じての経済的償いを続けてきた。こうした中で、韓国がなおも日本に「従軍慰安婦に対する賠償を」と迫ってくる。これは筋が違う。これは歴史の問題でなく協定の問題であり、そもそも国際法的に賠償は出来ないのである。大胆にいえば、これは歴史問題ではない。
しかし、橋下氏の「従軍慰安婦の強制連行はなかった」発言は歴史問題である。正確にいえば、「日本は歴史上の過ちを反省している」という国際的な印象を損ねた、という意味で歴史問題である。河野談話の「強制連行」の文言について、その事実関係が論争の的になっていた。強制的に連行をしたという証拠は今も見つかっていない。
じゃあ、日本はいまさら「やっぱり強制連行はしてませんでした」と言えばいいのか。言ったとして、何のメリットがあるか。歴史的事実を明らかにし、毅然とした態度を国際社会の中で貫く。聞こえはいいが、この行為は国際的な孤立を招きかねないのである。
いま、世界が日本の主張を聞いたらどう思うか。
「あぁ、軍部が慰安所を作ったのは確かだけど、強制連行はなかったんだな。日本はそういう汚い行為をしないんだな」。こう思う人はごく少数であろう。
大多数はアメリカ側の政治家の発言の通りだろう。
「恥ずべき歴史修正主義者だ」と。
重ねて言うが、今日の外交というフィールドにおいて歴史問題とは歴史的事実を争う問題ではない。国際世論、国際社会の印象の問題であり、感情の問題である。疑いようもなく加害者の立場である日本が、少しでも歴史的事実を明らかにすることを理由に、(たとえそれが事実であっても)弁明的な発言を繰り返せば、国際社会はどんどん日本を軽蔑していく。
先ほども言ったが、すでに公式の賠償は終わった。いまさら「強制連行云々」と言って自分から自分の痛いところをほじくり返して滔々と自論を繰り広げたところで、経済的恩恵は皆無、しかも国際的地位は下がる。客観的に見ると痛々しい行為にすら映るだろう。
歴史問題は基本的に「触らない」のがベターだ。日本にとってそれは開けてはならないパンドラの箱のようなものである。
東郷氏はこの本で「対外発信」という言葉を使った。これからの歴史問題は事実関係でなく「対外発信」の勝負であることを肝に銘じなければならない。
もうひとつ、ナショナリズムが絡んだ外交には絶えず国民の感情がつきまとう。
これと政府がどう向き合い、どう抑えていくかも重要だ。
今読んでいる「坂の上の雲」の中で、明治の外交官である小村寿太郎のこんな言葉が紹介されている。
「外交よりも内交の方がむつかしい」。
領土問題も歴史認識問題も、きっと高度に政治的なレベルでは話がついているのだろう。
あとは、それをいかに国民に納得させるか、もしくは、かわさせるかである。
そんな中で手に取ったのが、角川新書の「歴史認識を問い直す」。今年の4月に刊行された、ごく新しい新書である。
内容は大きく二つ。
一つ目は領土問題について。尖閣、竹島、北方領土と東アジアの交流と連携の深化を決定的に妨げている問題を見つつ、その現状と解決策を提示する。
二つ目は歴史認識問題について。村山談話と河野談話、そして台湾の存在を取り上げ、これらをめぐる日本国内と国際社会での認識の違いを示したうえで、日本が取るべき方針を訴える。
見てもらえればわかるように、日本が抱える主な歴史問題を広く扱っている、お得な本である。
これまでも歴史問題や戦時中の日本の行動についてを分析した本をいくつか紹介してきた。たとえば「北方領土問題」(中公新書)や「戦争責任とは何か」(中公新書)など。
そんななか、この本の大きな特徴の一つは現在の情報を扱っていることだろう。最新の動きはどうなっているのか、一国の外交のあり方を見るときには欠かせない情報だ。なぜ橋下氏の発言がアメリカを動かしたのか、喫緊の事情を見やすくしてくれる。
個別具体的なことについて話すときりがないので、今回は歴史認識という問題について、大きく話して終わりにしたい。
歴史認識、と言えば非常にデリケートな問題である。何といってもナショナリズムが少なからず関わってくる問題だからだ。実利的な側面だけで見れば簡単に解決するはずなのに、感情が複雑に絡み合ってくるために問題が容易に解けなくなる。
ナショナリズムというのは厄介な代物で、「固有の領土」を相手に譲りたくないがために、何十、何百億という経済的な恩恵や、win-winの関係を構築することを阻む。尖閣諸島をめぐる反日デモでは、相当な経済的損失が出た。尖閣諸島という島に、それと匹敵するような経済的価値があるわけでもないのに。
人間は経済合理的に思考するホモ・エコノミクスではない。ナショナリズムという「感情」を満たすための対価として、ときに考えられないほど非合理的な行動すら起こしてしまうのが人間だ。
ではナショナリズムなど捨ててしまえ、そんなのは非合理的だ、と主張すればいいのか。そうでもない。
司馬遼太郎は「ナショナリズムの精神が希薄な国は国際社会から軽んぜられる」と書いている。自分の国、強度に対する愛着を一切捨てさり、何を守り何を大切にするのか考えることを放棄したような国に、明るい将来はない。
結局「両国の顔が立つように」というのが、こじれた歴史問題の落とし所だ。鄧小平による尖閣の「棚上げ」など、感情を出来るだけ抑えたうえで、経済的な利益を取ろうとするのが政治の基本方針ではないか。
そうした文脈でいえば、いまの歴史問題はきわめて「現時点的」な問題である。
歴史上の、ある特定の事実があったか・なかったかは、いまや主要な争点ではない。
現在の歴史問題は「歴史の過ちに対する国の態度を、国際社会がどう受け止めるか」をめぐる問題なのである。
分かりやすいように、韓国の慰安婦問題を取り上げてみる。
慰安婦に対する政府としての賠償は、すでに「最終的かつ完全に解決」したという協定が結ばれている。その後も日本は民間での基金を作り、そこを通じての経済的償いを続けてきた。こうした中で、韓国がなおも日本に「従軍慰安婦に対する賠償を」と迫ってくる。これは筋が違う。これは歴史の問題でなく協定の問題であり、そもそも国際法的に賠償は出来ないのである。大胆にいえば、これは歴史問題ではない。
しかし、橋下氏の「従軍慰安婦の強制連行はなかった」発言は歴史問題である。正確にいえば、「日本は歴史上の過ちを反省している」という国際的な印象を損ねた、という意味で歴史問題である。河野談話の「強制連行」の文言について、その事実関係が論争の的になっていた。強制的に連行をしたという証拠は今も見つかっていない。
じゃあ、日本はいまさら「やっぱり強制連行はしてませんでした」と言えばいいのか。言ったとして、何のメリットがあるか。歴史的事実を明らかにし、毅然とした態度を国際社会の中で貫く。聞こえはいいが、この行為は国際的な孤立を招きかねないのである。
いま、世界が日本の主張を聞いたらどう思うか。
「あぁ、軍部が慰安所を作ったのは確かだけど、強制連行はなかったんだな。日本はそういう汚い行為をしないんだな」。こう思う人はごく少数であろう。
大多数はアメリカ側の政治家の発言の通りだろう。
「恥ずべき歴史修正主義者だ」と。
重ねて言うが、今日の外交というフィールドにおいて歴史問題とは歴史的事実を争う問題ではない。国際世論、国際社会の印象の問題であり、感情の問題である。疑いようもなく加害者の立場である日本が、少しでも歴史的事実を明らかにすることを理由に、(たとえそれが事実であっても)弁明的な発言を繰り返せば、国際社会はどんどん日本を軽蔑していく。
先ほども言ったが、すでに公式の賠償は終わった。いまさら「強制連行云々」と言って自分から自分の痛いところをほじくり返して滔々と自論を繰り広げたところで、経済的恩恵は皆無、しかも国際的地位は下がる。客観的に見ると痛々しい行為にすら映るだろう。
歴史問題は基本的に「触らない」のがベターだ。日本にとってそれは開けてはならないパンドラの箱のようなものである。
東郷氏はこの本で「対外発信」という言葉を使った。これからの歴史問題は事実関係でなく「対外発信」の勝負であることを肝に銘じなければならない。
もうひとつ、ナショナリズムが絡んだ外交には絶えず国民の感情がつきまとう。
これと政府がどう向き合い、どう抑えていくかも重要だ。
今読んでいる「坂の上の雲」の中で、明治の外交官である小村寿太郎のこんな言葉が紹介されている。
「外交よりも内交の方がむつかしい」。
領土問題も歴史認識問題も、きっと高度に政治的なレベルでは話がついているのだろう。
あとは、それをいかに国民に納得させるか、もしくは、かわさせるかである。
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