今回は岩波新書の「憲法とは何か」。
近頃盛んな改憲論であるが、そもそも憲法とは何か。改憲派にせよそうでないにせよ、せめて新書程度の認識は持っている必要を感じる。
改憲の議論をどう考えるか。これを論じるには、憲法に対する正確な知識が求められます。
憲法がつねにありがたい、明るい未来を与えるものだという夢が、幻想にすぎない
面白いと思った点をいくつか挙げてみたいと思います。
・立憲主義は、多様な考え方を抱く人々の共存をはかるために、生活領域を公と私の二つに区分しようとする。
すなわち、絶対的価値観が無くなった現代において、人々が妥協できないような世界観同士の争いを防ぐために憲法が公私二分を規定しているという。
・憲法が改正しにくいのは、政治家が憲法への議論に時間を割くのではなく、目の前の喫緊の課題にエネルギーを集中するためである。
・日常的な政治過程を支える社会の基本原理を日常的な政治過程の手の届かないところに隔離するのが、憲法の重要な役割である。
世間では「変えること=いいこと」という観念が強すぎるように感じる。だからと言って、守ればいいというわけでもない。専門家の話を聞きつつ、時間をかけて(筆者は2年程度と述べているが)検討を重ねていくのが良いだろう。その点、最後の一節が象徴的だ。
憲法典を変えることが自己目的であってはならないように、現在の憲法典のテクストをただ護持することが自己目的であるはずはない。
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124.フォークランド戦争 (サンデー・タイムズ特報部)
ゼミの研究テーマとしてフォークランド戦争を扱おうと思い、大学図書館の古い本を借りた。
「フォークランド戦争 ~鉄の女の誤算~」とある。
パソコンでメモを取りながら読んでいたのでなかなか大変だった。しかし、一つの戦争の経過を読むのも意外と面白いんだなという小さな発見があったように思う。
イギリスのサッチャー元首相が亡くなったというニュースがこの前飛び込んできた。詳しくはまだ知らないが、強烈な人だったのだろうと憶測する。映画で見たサッチャーという人物像は、どこか孤独な人だった。
今回は、普段読まないような本を読んだという点で、いい経験になったと思う。
自分は、大学での読書生活に対して前から考えていたプランがある。
大学一年は教科書をベースに読み解き、大学二年、三年になるにつれて古典や専門書に手を広げていこうというものだ。
残念ながら、小説に時間を割きすぎて専門書などはなかなか読めない。ただ、読んでみると結構面白いものなんだな、というイメージはつかむ事は出来た。これは大きい。
そういえば、日本のジャーナリストは軍事に弱いとか聞いたことがある。
現段階では優先順位は高くないが、軍事も勉強しておくといいかもしれない。何より、歴史的な小説やドラマの題材は多く闘いの場に転がっている。歴史小説にたまらない魅力を感じている今だからこそ、そうした戦闘の定石などを知っておくと面白いかもしれない。
今回は三島由紀夫の「潮騒」。
1954年に新潮社文学賞を受賞した作品である。長いこと読みたかったのだが、大学図書館の書架に置かれていないので諦めて買うことにした。
文明から孤絶した小島を舞台にした、漁夫と少女をめぐる恋愛物語である。
ベタな、と言えば言葉が悪いが、構成としては典型的ともいえるハッピーエンドの物語だ。そもそも、この作品は古代ギリシアの『ダフニスとクロエ』という小説を現代的に書き換えたものだという。
三島由紀夫の小説を色々と読んでいるうちに、案外読みやすい本も書いているんだな、ということが分かってきた。今回の作品も、美しく厳しい自然に囲まれて、限られた人間関係の中で進んでいく男女の恋愛の進展にすぐに引き込まれた。
古典を念頭に置きながら、それを現代化、日本化させるという挑戦の結晶がこの作品だそうだ。200ページに満たない短い小説だが、芸術性という点ではやはりすぐれた作品だなぁと思わされる。
新潮新書はなんでこう面白くないんだろう、といつも思っているのだが、暇つぶしに読むことにした。朝日新聞のコラムで石原慎太郎の党首討論が取り上げられていて、ゼミでそれを題材にするとかいうことになったので。
読んでみたものの、やはり体系的であるというわけでもなく、なんとなく読めてしまう代わりに何も残らない感じで読んでしまった。これは自分が悪いのか。
敗戦直後、日本人の精神を表現したのが坂口安吾の「堕落論」である。ただし、そこでは変わったのは「時代の上っ面」だけであり、我々の精神はずっとこうだったのだ、と綴っている。一方、この本では日本人の内面が長い平和に毒された結果、本当に変容しつつあると訴えている。
別に本気になって読むような本ではないと思った。ただ、あの年になっても「暴走老人」と言われるような言動や政治的信条などのルーツを、筆者の回想から知ることが出来た気がしたのが、少し面白かった。政治家の自伝というのも、読んでみると結構面白いのかもしれない。
とはいっても、本当に筆者が好きなことを書き並べただけのエッセイだろう。
新書というのはもともと「現代人の現代的教養を目的」としたものらしいが、さてこの本は現代的教養になるのかどうか。
我欲を断ち、しなやかな国民のいる、したたかな国にするという。
出来ることなら、そうしてほしいが、それは可能なのだろうか。
そもそも、あなたが政権を取らなければ仕方がない。
「それを言っちゃおしまいだろう」と言われるかもしれないが、政治とはそんなものである。何かが気に入らないと言っても、支持を得て権力を掌中に収めない限りは「力なき理想」、すなわち戯言である。もっとも、権力を握ったら握ったで束縛が多く、結局何もできないだろう。
安倍氏は靖国参拝を見送った。
権力を握って大人しくなるくらいなら、今のような立場で好きなことを言える方が本人にとっても周りにとっても幸せかもしれぬ。
今回は中公新書の「政権交代」。
「民主党政権とは何であったのか」というサブタイトルにあるように、自民党から民主党への歴史的な政権交代の経緯と共に、それを通じて日本の民主主義の現状を考察している。
本は4章で構成されている。
はじめの3章では民主党政権での出来事を(まぁほとんどが失敗なのだが)記述し、終章では日本における民主主義は可能なのかという点を考察している。
3章までの内容は、ほとんど「あぁ、そんなことあったな」と振り返るだけだ。民主党政権の混迷ぶりを思い出したいという人が読めばよいだろう。結局、この本で言いたいことは「政権交代すれば良いというものではない」という、至極あたりまえなことである。
投票行動とマニフェストの分析を通じて、有権者の選挙に対する意識の在り処を実証していた。つまり、「現在の日本政治では、民主主義の民意負託機能、代議的機能、事後評価機能のいずれにおいても、きわめて限定的な関連しかみることができない」という。
小選挙区制の是非や衆参で選挙制度の差異化を図ることなど、よく見かけるような議論がいくつか見受けられた。ただ、特に「そうか」というほど目新しいものはなかった。
マニフェストの件であるが、マニフェストはもともと有権者との命令委任的な作用をもたらすわけではない。情勢によってマニフェストの方針転換をすることは、政治家の裁量の中に十分含まれる(民主党政権が度を越していたというのはあるが)。
また、「理想の民主主義」というが、そのビジョンが明確ではない。要するに公約を判断したうえでの選挙を想定しているようだが、公約と政治の実行の区別はきちんとつけなければならない。
もちろん理想を唱え、それと現実の乖離を埋めようとする努力は重要である。しかし、だからと言って提示する理想の幅が狭すぎる。理想理想というのなら、いくつかの理想像を提示する必要があるのではないか。
この本に対して意見を述べようとするにはまだ頭がまとまっていないが、いずれにせよ、何となく軽く読み解く程度で十分な本ではないかと思われる。
さて、帯には「大評判!アベノミクスの理論的バックボーン」の文字が躍るこの本、「デフレと超円高」。
今後の日本経済の命運を握るアベノミクスであるが、その根拠はどうなっているのか。この本では特に金融の面について詳細に書かれていた。
アベノミクスの根幹は「三本の矢」。大胆な金融緩和と機動的な財政政策、そして民間投資を喚起する成長戦略である。この本で書かれていることは、一本目の矢を放つベースとなっているようだ。
多くの経済書がそうであるように、この本は多くのデータを援用しながら、理論的・実証的な日銀の金融緩和政策の方針を正当化している。政策批判への反駁や、過去および他国のデータによる検証に内容を大きく割いているが、大きな主張は以下の二つであろう。
・デフレは円高の理由である。
日本でデフレが進行すると、日本円という貨幣の購買力が上がる。多くの国がインフレ状態を維持している中で日本一国だけがデフレだとどうなるか。当然、購買力の上がる円は、対外価値を増加させる。すなわち、円高を誘発するという。
「長期的に見て、外国に比べてインフレ率の小さな国の通貨の対外価値は増大する」
・日銀による金融緩和でデフレ脱却できるというのは、単純な貨幣数量説によるものではなく、日銀のレジーム転換によって市場のプレーヤーがインフレを予想して行動することによる。
金融緩和では貨幣が増えるからデフレを克服するのではないという。
日銀がインフレターゲティングを宣言して、「インフレ率2%にしますよ」ということで従来の日銀の「デフレ安定」レジームから脱却したことを市場の人々に知らしめる。このことで彼等は「今後インフレになる」という予測によって行動を変える、という論理だ。
アベノミクスは一種の賭けだとも言われている。
が、一国の経済を博打にかけるなどとんでもない。
理論については理解できたが、それと実際の運営は別物である。足元を掬われぬように、慎重に政策決定してほしい。
今回は政権交代の夢を追った小沢一郎の行動を追った本を紹介する。
何で今更2005年の本を読むのかといえば、ゼミ活動の一環でちょっと必要に迫られて、という感じである。
もともと長かったうえに、パソコンで色々とまとめながら読んだので時間がかかった。
良くも悪くも、2005年当時の小沢一郎および民主党への期待がにじみ出るような文体だったと思う。
自分は2009年の政権交代当時は17歳だったが、テレビに映る開票の景色を見ながら、「へぇ、これは歴史的なことなのか」となんとなく思っていた記憶しかない。その出来事の意義や画期性が分かってきたのは、大学に入って勉強を始めてからである。
とはいっても、2009~2012の民主党政権を見てきた自分からすれば、この本の記述はどうしても批判的な視線での読み方になってしまう。批判的に読むという行為の練習になったのかなと、冗談半分に思ってみたりする。
ただ、当時は民主党が政権をとることで社会が良くなると信じた人々が少なからずいたことも真実である。
なぜ、どうしてそうなったのか。
なぜ、民主党政権は失敗したのか。
こうした疑問は尽きない。自分もこれを主題にしながら色々と本を物色してみようかなと思う。
剛腕と呼ばれた小沢一郎、彼をどう評価すべきか。
そのためには、おそらくもう少し時間が必要だろう。

今回は司馬遼太郎の「関ヶ原」。
天下分け目の戦いと称される壮大な合戦で、石田三成と徳川家康の両陣営はいかにして戦ったのか。それをめぐる諸侯はどのように動いていたのか。「自家への生存本能」とも言うべき性質を持つ当時の武将たちの行動を追いながら、社会がどのように動いていくのかを描いた作品であった。
戸川猪佐武の長い長い小説を読んでいたので、息抜きにと思って読んだ歴史小説だった。息抜きにしては少し長かったかもしれない。
小説で注目したいのは、前述のように石田三成と徳川家康両将の性質の違いだ。
「戦争とは所詮主将の性格の作品であろう。」と司馬遼太郎は喝破しているが、関ヶ原という合戦では双方の生き方が克明に表出したと言って差し支えない。
学問に長け、同時代にしては観念的な思想を好んだ石田三成。
彼は頭が冴えすぎたがために現実を自らの発想に歪めて解釈し、信念が強すぎたために人心を損なった。
三成の発想はつねに批評であって現実認識ではない。
一方で老獪、という言葉がぴったり当てはまる徳川家康。
とにかく現実を徹底して見、十分な根回しを通じて関ヶ原での勝利を「確定」的なところまで持って行った。
「ばくちは勝つためにうつ。勝つためには、智恵のかぎりをつくしていかさまを考えることだ。」
つくづく、世の中というのは怖いと思わされる。
三成がいくら公明正大に義を唱え、決死で獅子奮迅の働きをしても、結局は徳川家康がちらつかせる利に釣られた、「愚昧な」将軍たちによって雌雄は決されてしまったわけだ。
彼は確かに義や道理に堅すぎ、その考え方を他者にまで求める「へいくゎい(横柄)者」だったが、物語の終盤ではどうも気の毒になってしまった。みじめであった、と言うしかない。
作中、いくつか司馬遼太郎が記した短くも核心的な言葉がある。
三成と家康の明暗を分けた「世の定め」である。
義・不義は事をおこす名目になっても、世を動かす原理にはならない。
戦術家の資格の第一要件は、「まさか」という言葉をつかわないことである。
司馬遼太郎が好む合理的な見方だろう。「竜馬がゆく」が代表的だが、司馬遼太郎の作品で勝利を収める者は、必ずこの手の考え方を身につけていた。思想によって盲目になった成功者はほとんど描かれていないはずだ。
これを読んで思う。世の中は「利」に敏く、合理的に考え、現実から飛躍をしないものが成功するのだろうなと。
しかし、そんな世の中にあってもなお「義」の為に死に、あるいは命を賭した人が歴史上にいる、ということが自分たちの心を強く動かす。石田三成・島左近を中心とした西側軍勢がそうであった。「峠」の河井継之助も、「燃えよ剣」の土方歳三もそうであった。
社会は利で動いている。
現代においてその様相はますます濃い。
しかし、義の在り処を天下に広く問いただし、そのために命を惜しず戦った人もいる。
彼等が存在したことで、我々の醜い人類史はどれほど救われているか分からない。
悲しくも素晴らしいことだと思う。


「昭和という時代について知りたい」という主題で本を読もうと思っていた自分にとって、昭和政治史の知識に乏しいことは致命的だった。そこで3月の始めから、それに関する本を探すことにした。
この「小説吉田学校」に出会うことになったのは全くの偶然と言っていい。はじめは吉田茂、鳩山一郎、岸信介、池田勇人、佐藤栄作、そして田中角栄、福田赳夫…と、一人ひとりの首相の本を読み進めていくつもりだった。「まずは吉田茂から…」と思い、彼に関する本を検索しているうちにインターネット上でこの本の存在を知ることとなった。
当初は「全八巻」ということで少し躊躇したが、父親が意外にもこの本を知っていたことが分かった。しかも、政治部の記者になりたてのころ、読まされたとのこと。自由民主党という政党について、理解するのにかなり助かったという。そうと分かれば買って読むしかないではないか。絶版になっているとのことだが、なんとか取り寄せてもらうことになった。
戦後の「保守本流」を築き上げ、そしてそれを脈々と受け継いできた政治家たち。
マキァヴェリも目を見張るような権謀術数の数々は、政治のあり方について理論的・観念的な面を期待しがちな学生たる自分に新しい視点を授けてくれた。政治とは権力闘争であると、そうした考え方にどこかで「リアリストぶっている」と受け付けないものを感じていた自分も、今はその事実を認めざるを得ない。
主義主張、倫理、権力、世論、そして派閥をベースとした人間同士の愛憎…様々な力の均衡・不均衡によって時には危機に陥り、時には合致を見ながら存続を続けてきた自民党。権力をもった政治家がどのような手法を用いてその安定化を図り、どのようにして退いていくのかを見ることができたのは大きな収穫であった。
あとがきにこう書かれている。
あとに残す戦後政治史を書いていく、人間がおどる歴史を書くという意識は、この一編を書くにあたって、つねに私を貫いてきたところである。
この小説で描かれた政治家には、実に多様な人がいた。政権を掌中に収めて性格が変わる者、あっさりと政権を手放すことのできる者、支持派に勝手に祭り上げられ権力を握る者(これは西郷隆盛を彷彿とさせられた)…。しかしどの実力者も、「俺こそが保守本流の跡目を継ぐ者である」という強い信念を抱いている点で共通していたのは印象的だった。
「なァ総理。勝負というものは、これから進もうとするものが考えるもんだ。去ろうとするものが考えてはならん。これは、政治家が守るべき鉄則というもんだ」
木村武夫が述べた言葉である。政治家とはどういうものか、「保守」という立場を象徴する自民党はぬきんでて知っている。
「自民党は、権力というものを知ってるよね」
何気なく聞いた父親の言葉であるが、今改めて感じるところがある。55年以来、日本を引っ張り続けてきた党である。いくつもの修羅場と経験を乗り越え、その血脈は今も絶えていない。
ついこの間までの民主党政権について考えてしまう。小選挙区比例代表並立制によって、二大政党制へと収斂しようとする力の強い現行の政治状況の中で、自民党に代わって日本を引っ張っていく政党はいつできるのだろうか。
民主党政権はあっという間に出来て、成果らしい成果を挙げることもなくあっという間に消えた。そりゃあそうだろう、と今は言わざるを得ない。これだけの人たちが満身創痍になって作り上げてきた自民党の伝統である。簡単にとってかわることなど出来ないよなぁ、と民主党への嘆きとも自民党への信頼ともつかぬ感情が、今はただただ沸き起こってくるばかりである。
