井伏鱒二の「黒い雨」。
言わずと知れた、広島に原爆が落とされてからの人々の惨状と苦しみを描いた不朽の名作である。
古本屋の105円コーナーに置いてあったので、読んでみようということになった。考えてみれば、広島・長崎への原爆の投下は自分が今関心を抱いている「昭和」という時代における一大事である。そうした意味でも避けては通れない一冊だった。
文学とはどういうものか、これは僕にはよく分からない。
表紙の背には「被爆という世紀の体験を日常性の中に文学として定着させた記念碑的名作」とあるが、読んでいてのめりこむような作品ではなかった。
内容ももちろん重たいし、物語の展開も登場人物による日記が主体で遅々として進まない。この本を読むには非常に忍耐が必要であった。自分の中で感情を処理しながら、耐えて、耐えて、読み進めていったという感じである。
しかし、よく考えればこれほど恐ろしいものもない。
急展開で絶望へまっさかさま、そんな物語であれば読む方もすんなり読み進められるし、あっさりとストーリーの展開を味わおうとするであろう。
しかし、原爆はそうした種類の悲劇とは違うのである。
まず、膨大な「匿名の死」が瞬時にして起こっている。登場人物をある程度に絞り、細かく描写しなければならない小説とは対照的である。原爆は名もなき死を累々と積み重ねていった。
さらに一瞬の悲劇である原爆から続く「原爆病」の存在である。原爆病の影響は個人差があるものの、長いスパンで、日常に潜みながら少しずつ人々の体を浸蝕していく。小説にするにはあまりにも起伏のない、すなわちゆっくりと死に向かっていく病である。
こうして考えると、「黒い雨」は小説で描くにはもっとも不適な題材だったのではないかとも思えてくる。「小説全体の雰囲気が何かを伝える」という本はたまにあるが、「黒い雨」はその典型的な一冊だったのではないか。
自分の中でも苦しい思いを死ながら読んだ一冊だった。人生永遠の哀愁、という言葉が解説にあったが、それを自分がどう咀嚼できているのか、いないのか。人類史に残る悲劇だけに、何か大事なことを読み漏らすようなことはしたくないと思うのだが。
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今回は沢木耕太郎による「危機の宰相」を読んだ。
一九六〇年代の日本において、「経済成長」はひとつの信仰だった。そして、大多数の国民をして「経済成長」という国民的信仰へ導くことが可能だったのは、おそらくは「所得倍増」という卓抜なスローガンがあったからである。
1960年に安保後に政権をつかんだ池田勇人による「所得倍増」というスローガン。この見事さは、前政権の岸信介政権下で異様に盛り上がった安保闘争のエネルギーを、見事に経済というベクトルに絡め取ってしまったという点において明らかだろう。沢木耕太郎は「戦後最大のコピー」であるとこれを称賛するが、いったいこの偉大なスローガンはどのように発案され、どのように目指されていったのか。それを解き明かしていくのがこの本である。
「所得倍増」のスローガンの背景には、池田勇人・田村敏雄・下村治という三人の大蔵省における『敗者』の交錯がある。成長の低下が支配的だった当時、この三人が「所得倍増」という言葉を喧伝するにいたったのはこの『敗者性』が大きな役割を果たしていることが、作中で三人の経歴を辿っていくことで徐々に明らかになっていくのである。
この三人が共有することになる、日本経済への底抜けのオプティミズムは、彼らが共に一度は自分自身の死を間近に見たことがあるということを考えるとき、ある種の「凄味」すら感じさせられる。
所得倍増とはなんだったのか。
そして、日本が「ゼロ成長」の時代を迎えることとは、何を意味するのか。
安保後の危機に宰相となった池田勇人と、そのブレーンたち。「敗者」でありながら政治の世界で日本の経済を主導しようとする、かれらの青春の群像に迫った作品であった。

少し間が空いて、今回は全4巻の「二つの祖国」。
山崎豊子の作品ほど「壮大」の二文字が当てはまるものはないと感じる。沢山の物語が内包され、それぞれで一つの小説にしてもいいというほど。しかしそれをあえて一人の主人公の人生を通じて纏め上げることで、高度な「『調べた』芸術」を完成させている。
主人公は天羽賢治という二世の日系アメリカ人。
大学までは日本で教育を受け、その後アメリカの邦字新聞社に勤めていた。しかし彼を取り囲む境遇は、日本軍による真珠湾攻撃により一変する。アメリカ合衆国では日系人は国家への忠誠心を疑われ、収容所へと閉じ込められる。
星条旗を掲げるアメリカと日章旗を掲げる日本。二つの祖国を持つ主人公はじめ二世の人々は、戦時中のアメリカで、日本人と相対峙する戦場で、原爆の落とされた戦後日本で、何度も屈辱を味わい深い葛藤に苦しむ。
この作品は、彼等が大戦中の国家という巨大な歯車の合間を生き抜いていった姿を通じて、太平洋戦争および東京裁判の姿を浮き彫りにしていく。
この作品の主人公にも、何人かのモデルがいる。
最も大きなモデルには、伊丹明という人物。主人公の天羽賢治と経歴がほとんど重なる。wikipediaにも記事があるが、これを見てしまえば多少ネタバレになってしまうだろう。
全ての巻頭には、以下の言葉がつづられている。
太平洋戦争は、数多くの哀しみと愛のドラマを生んだ。この作品は、当時の歴史的事実をもとに、小説的に構成したものである。
日本の歴史の断層を生じせしめた戦争で起こった哀しみと愛のドラマ、それを事実に基づいて構成する。この作品を準備2年、連載3年で書ききったというから驚きだ。山崎豊子という作家の凄さは筆舌に尽くしがたい。
この作品は、太平洋戦争と東京裁判を描いたものだった。
自分の生きる戦後日本の出発点をなす出来事である。
まず、「二つの祖国」はこの事件に対する一つの見方を提示してくれた。いくつも本を読んで、自分なりの考えを持たなくてはならないと思う。
国家が戦う時、個人の意思など粟粒のようなものだ。
アメリカと日本、二つの祖国。
「想像の共同体」といった本も読んではいたし、「国家の相対化」などという言葉をしたり顔で大学の試験に使っていたりしたものだが、改めて国家という存在の恐ろしさ、国家と国家がぶつかる時の悲劇というものを思い知らされた。
山崎豊子の作品は非常にハードだ。話が目まぐるしく進む上に重たくて、100ページ読むたびに自分の頭を30分は整理しなければならない。
山崎豊子による「調べた芸術」はその全身から哀しみの旋律を奏でており、読者である自分はそれをすべて耳にしてしまった。二つの祖国の狭間に立つ二世の人々の苦しみに、そして太平洋戦争がもたらした数々の不幸に、思いを馳せずにはいられない自分がいる。


今回は、先日本屋で見つけた厚めの新書を読んでみた。講談社現代新書は「社会を変えるには」を読んで感触がよかったせいか、多少厚くても気にせず買える。出版社に対する印象というのは、買うか買わないかを決める上では結構重要だ。とくに新書の場合はそれが著しい。今回はそれが良い方に作用して、買うことになった。
それがこの「経済学の犯罪」という本だ。サブタイトルには「稀少性の経済から過剰性の経済へ」。この前まで政治学や経済学の起点を「財の稀少性」に求め、各論を位置づけていくのが自分の中ではやっていたのもあり、そこがひっかかった。もちろん、過剰性の時代への突入を示唆する本はこれまでいくつか読んできた。「成熟社会の経済学」も「人間回復の経済学」も、いずれも(今にして思えば)現代が「財の過剰性」と対峙する時代であることを前提に置いた本だった。
さて、勉強になる本だった。
本の内容は上に挙げた経済学系の新書で言われていた主張と共通点が多く、議論にもすんなりついていくことができた。分厚いだけに論旨の説明や予備知識の解説が丁寧で分かりやすい。
著者は現代の「教科書的な」経済学で世界を見ることは無理であると喝破している。
1980年代に新自由主義が世界を席巻して以来、「稀少性」を起点にした経済はひたすら効率性をゴールに据えた理論を展開し、そして社会も懸命にそれに合わせてきた。だがその結果はどうだっただろうか。先進国がかつての高成長を取り戻すことには至らず、グローバリゼーションの進展によって世界を浮遊する投機的な金融資本が各国経済の安定性を決定的に取り除いてしまった。
資本主義を停滞に陥れるものは何か。それはグローバリズムのもとで展開される「浮動する」資本の気まぐれな投資であった。金融グローバリズムのもとでの貨幣の「投機」的な運動。それこそが企業の長期的な投資を衰退させるのだ。
こうした現状を踏まえて、筆者は今一度アダム・スミスやケインズの思想を洗い直し、社会や国家を呑みこんだり暴走したりすることのない経済の在り方を模索せよと唱えている。
「社会を変えるには」もそうであったが、広大な背景知識を丁寧に説明する。そうして現代が陥っている問題点を明確に描き出している。
話はスミスに飛び、ケインズに飛び、ウェーバーに飛び、レヴィストロースに飛ぶ…。
こうした多様な議論のソースは、著者の「経済学は科学などではなく、人間社会の在り方を検討する一手段でしかない」という態度を暗に示している。
あとがきにある。
経済学が数学を駆使して「科学」的に見えるのは、まさに資源配分の効率性をゴールにしているからなのである。とすれば、科学だといいながら、都合のよい価値観をこっそりと持ち込んでいるだけではないだろうか。
経済学の論理は社会を動かし、効率性を求めるいきすぎた市場主義的風潮をもたらした。結果、金融市場が肥大化し世界経済は危機に陥った。すべては、偉大な経済学者の発想が誤った形で強調されたためである。それが、「経済学の犯罪」である。
スミスがやろうとしたことは、「金融革命」「商業革命」「財政革命」がもたらした当時のグローバル化状況のなかで、それに抗して、より豊かな富の基盤をまずは国内の生産力の強化に求めることであった。それが「富の確実な基礎」であった。
この本の新しい発想は、大きく取り上げると二つだ。
一つは経済学のスタンスについて、「介入」と「自由」の横軸に加えて「確実性」「不確実性」の縦軸を導入したことである。金融グローバリズムの進む中で資本が浮遊すると冒険主義的な投資が増えて経済が不安定になり、長期的な国の成長が困難になるということを主張している。
もう一つは経済学の根本を「財の稀少性」ではなく「財の過剰性の処理」に求めたことである。さらに言えばこの二つは別物ではなく、「財の過剰性が財の稀少性を生んだ」という構造で考察を始めた。
以上のような考察で、筆者はこう結論付ける。
どうやらケインズが述べたように、成熟経済は長期的な停滞回路に入ってゆくと見るべきではないだろうか。
豊かになりながらも長期停滞に陥っている先進国社会。「財の稀少性」から「財の過剰性」にパラダイムシフトを起こしたうえで見ると、その病理の根本が見えてくるとともに、その解決策が見えてくるという。
日本の活路を開くか細い一本の道とは、「脱成長主義の社会」へ向けた社会像を構想し、その方向へ向けた「公共計画」を官民協調のもとで実現することだ。(中略)「成長主義」のオブセッション(強迫観念)から自らを解き放つことである。
さて、以上が大体の内容である。自分の中ではそこまで目新しい感覚はなかったが、それでもこれまでの考え方を肉付けし、論理をしっかり把握することが出来た点でよかったと思っている。
最後の脱成長主義は、はっきり言えば茨の道だ。世界中の経済が暴走している中で、日本だけ一抜け出来るか。そのためには、よほど強固な方針と外交能力が求められる。もしくは世界全体を変えるしかないが、今世界に向けて「脱成長主義を」と唱えても白い目で見られるだけであろう。
しかし、結論を出すまでの学問的、思考的な部分は非常に面白かったし興味深かった。
最近読んだ本の傾向として、「経済学の相対化」というような印象を受ける。
相対化の第一としては、ホモ・エコノミクスをはじめとする経済学の論理が人間社会の理想を(ある程度)形作っていた時代が終焉を迎えつつあるのではないかということ。
第二としては、それに伴い経済学は社会学・政治学・心理学など他の学問の背景を加味しつつ発展していく段階にあるのではないかということ。
第三に、経済学の中でも新自由主義に対する是非や長期停滞からの脱却方法をはじめとして多様な見解が生まれていること。1980年代以降に経済学の諸派はみな「新古典派経済学」いわゆる「シカゴ学派」に敗北を喫し、それ以来経済学の考え方が単一的になってきたという。
圧倒的な影響力を手にして社会を動かしてきた経済学は今、自らの言動を見直しつつ、あらたな段階にいるようだ。「現代文明の病」を打破することはできるのか。期待をよせつつ、この辺で記事を締めくくりたい。

山崎豊子に続いて、司馬遼太郎の「宮本武蔵」。朝日文庫である。
実を言うと、先ほどまで友人と2日間のスキー旅行へ行っていた。「運命の人」が3巻まで終わっていたので、空いた時間に読める本がもう一冊ほど持っていこうか、ということでこの宮本武蔵も持って行ったのである。目論見通り、帰りのバスで4時間ほど読むことが出来た。
言わずと知れた剣豪、宮本武蔵。
以前から自分はその歴史上の天才について知ることが少ないのが気になっていた。丁度旅行で読書にも隙間ができたので、一冊の読みきりで司馬遼太郎が描く宮本武蔵を読んで見ることに決めた。
戦国時代を独りで渡り歩いた剣豪の足跡をたどる作品である。
司馬遼太郎の文章のリズムは、戦闘の描写にぴったりであると感じる。この本は特にその点を強く印象付けるものだった。
宮本武蔵の生涯を追った作品だったので、この人物に興味がある人は気軽に読んでみるといいかと思う。
以下は宮本武蔵の特徴を端的に表現した部分である。
他のすべての兵法は人間能力の練磨、研ぎすましを目標としているとすれば、武蔵のそれは人間の能力を改造しようとしていた。
「武蔵は天才だが、しかし天才が往々にしてもっているいやらしさがある」
天下に名を轟かせた宮本武蔵。
その人となりを知るにはもってこいの一冊だと思う。

初の山崎豊子。
今回は「西山事件」を題材とした「運命の人」である。
事件の概要について、久しぶりにwikipediaを引用したい。
西山事件(にしやまじけん)は、1971年の沖縄返還協定にからみ、取材上知り得た機密情報を国会議員に漏洩した毎日新聞社政治部の西山太吉記者らが国家公務員法違反で有罪となった事件。別名、沖縄密約事件(おきなわみつやくじけん)、外務省機密漏洩事件(がいむしょうきみつろうえいじけん)。
新聞記者による取材の際、ある程度の機密情報の漏えいは日常的に起こっていることである。それがなぜ有罪判決にまで至ったのか。
この事件のカギは二点あった。
・沖縄返還協定に対して佐藤栄作首相は政治生命を賭けるほどの熱意を持っており、同協定を背景にノーベル平和賞を受賞した。こうしたことを背景に、多分に政治的な力学が作用した逮捕・起訴であった。
・起訴の際、「密かに情を通じ」という文面を通じて記者が取材源の女性事務官との肉体関係を示唆しその取材方法を攻撃した。こうして「国家機密対国民の知る権利」という争点は骨抜きにされてしまった。
ジャーナリズムについて多少なりとも学んだことのある人なら必ず聞いたことのある事件だろう。
この本はその事件の経過と、権力の逆鱗に触れ「エリート新聞記者」の道をはく奪された後の記者を中心に描いている。
この本を読んでみての感想へ移りたい。
ノンフィクションにはそれなりに触れてきたつもりであったが、山崎豊子という作家はそうした分野では第一人者なのだなと思い知らされた。構成も、取材も(巻末に膨大な量の参考文献が載っていた)、描写の巧さも、舌を巻く思いで読み進めた。
あとがきには、著者が「第四の権力としての企業ジャーナリズム」に主眼を置こうとしたとある。しかし、この小説はジャーナリストの精神の物語であり、夫婦の物語であり、国家権力の物語であり、組織の物語であり、沖縄の物語であった。これだけの要素を一つの作品にまとめ上げているというのは尋常なことではないだろう。
最も印象的だったのは、主人公が絶望の淵にいながらも「俺には書くことしかできない」とペンをもって戦い続けようとした姿であった。
「沖縄を知れば知るほど、この国の歪みが見えてくる。それにもっと多くの本土の国民が気付き、声をあげねばならないのだ。書いて知らせるという私なりの方法で、その役割の一端を担っていこうと思う」
1,2巻で描かれた主人公と3,4巻で描かれる主人公はまるで別人と言ってもよい。一方は出世街道をひた走り政界からも一目置かれるエリート記者。そしてもう一方は抽象論、紙面上だけでなく具体的な沖縄への抑圧を前に「実体を持った怒り」を抱き、独りでもあくまで戦い続けようとする記者。
ジャーナリストはどうあるべきか、人によって憧れるスタイルも違うだろうし、考え方も違うだろう。しかし、それを考える上でこの本は少なからぬ示唆を与えてくれる。単に「取材源の秘匿」の重要性を訴えるだけではなく、ジャーナリストという人種はどうして昂揚感を覚え、戦うのかへの答えを探るものであった。
