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本と6ペンス

The writer should seek his reward in the pleasure of his work. ("The Moon and Sixpence" Somerset Maugham)

110.田中角栄 (早野透)

前回「昭和天皇」で昭和という時代の面白さに惹かれ、そして手に取ったのがこの本だ。
書店で見えやすい位置に並べられ、「戦後日本政治の体現者」という帯がついている。
前回の本が面白かったこともあってか、敬遠しがちだった新書の伝記を読むことに決めた。

平成生まれの自分にとっては、昭和も大正も明治も等しく「生まれる前の話」であり、どこまでも「読み物・伝聞の中の時代」である。
大学受験のころは世界史、地理、倫理を選択し、学校の教師もカリキュラムの都合上戦後史に割いた時間はわずかであったと記憶する。もちろんそれは言い訳にはならないが、自分にとって昭和という時代は「近くて遠い」存在であり続けた。今もその距離を埋め切れてはいない。むしろ司馬遼太郎をいろいろと読んでいるうちに、幕末から明治までのほうが身近に感じられ、自分の頭のなかの日本史は“ねじれ”たままである。

この本は田中角栄の一生を綴っている。彼の人生とはそのまま、戦後史である。
自分にとってこれほど刺激を感じた本も珍しかった。
特に、昭和という時代の「近さ」を感じさせる記述がところどころに見られ、自分の生きる現在がいかに昭和に下支えされたものだったのか、そして平成という時代がいかに昭和という時代の遺産と戦っているのかということを意識させられた。

たとえば、小泉純一郎首相による構造改革に関する記述である。「自民党をぶっ壊せ」を掲げた平成の政治家は、構造改革とはなにか、と著者に聞かれた返事が引用されている。
「構造っていうのは、田中角栄がつくった政治構造のことだよ。」
また、3.11以降国論を二分する議論を呼んだ原発問題についても、以下のようなまとめをしている。
ふるさとの開発がふるさとの喪失になってしまう悲劇。福島原発事故を受けて高まる「原発反対」のデモは、角栄の進歩思想へのもっとも深い批判と思われる。

いま、昭和という時代の面白さに気づき始めた自分に気付く。
そこには、戦争の経験を原点においた、日本の原風景からの再出発がある。
戦国時代はもちろん、幕末から明治維新も文句なしに歴史小説の舞台になるような動乱の時代であるが、昭和という時代もそれに引けを取らないくらいの時代だった。同時に、自分の生きる現代に色濃く影を落としている時代でもある。もっとこの時代を勉強したいな、当分はこの時代に注目しようかなと思っている。特に父親が入社当時に読まされたという「小説吉田学校」(戸川猪佐武)が良いらしい。あちこち本屋を回っても売っていないので今日取り寄せてもらった。そのあいだにいくつか本を読みつつ、昭和という時代に自分なりの何かがつかめるまで、こだわって読んでいきたいと思う。

著者は最後に角栄の一生をこのように述べている。
角栄は民衆のなかにいた。人々への気配りを備えていた。政治の世界では、それを端的にカネという形で表現した。そして転落した。
戦後政治の体現者、功罪ともに計り知れないという意味で文句なしに「偉大な政治家」である。
昭和を知らない人も知る人も、一度読めば何か思うところがあるはずだ。

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109.昭和天皇 (原武史)

徳川慶喜を描いた司馬遼太郎の「最後の将軍」。
これについて父親と話した時にこう言われた。
「やっぱり日本人て言うのを考えるときに、『天皇』っていうのは切り離せないんだよ」
確かに、「殉死」における乃木希典や徳川慶喜の「賊」と呼ばれることへの畏怖の念は、みな天皇にかかわるところである。
なるほど。ということで、父に勧められるままに読んでみたのがこの本である。


新書ではあるが、昭和天皇の伝記物、という感じで非常に興味深く読みやすかった。
明治・大正天皇とは違い「創られた伝統」としての天皇家ではなく「万世一系」としての自覚を持っていた昭和天皇。その人格のルーツと、戦争に至るまでの精神的な動き、そして戦争をどのように受け入れていったのか。
本の中の昭和天皇にも、一人の人間以上に「機関」として扱われる人特有の、複雑なドラマが内包されていた。

最後に、本で引用されていた昭和天皇の和歌を一つ紹介して、簡単に終わりたい。

やすらけき世を祈りしもいまだならず
くやしくもあるかきざしみゆれど


勝利への祈りから、平和への祈りへ。
激動の時代を体現した人間のドラマである。

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108.深夜特急1~6 (沢木耕太郎)

久々の更新。今回は沢木耕太郎の代表作の一つ、「深夜特急」である。
著者が26歳のときの、「インドのデリーからイギリスのロンドンまで、乗合バスで旅をする」という挑戦の経験を綴った長編だ。

自分も大学生になってから少し旅というものの面白さを知り、機会があれば行くということを何回かしている。さらに、沢木耕太郎のように「予定らしい予定も立てない旅」というのが性にあっているような気もする。
そんなわけで、非常に旅に出たくなるような、動き出したくなるような作品だった。

第一巻の物語が始まる前のページには、こう記載されている。

ミッドナイト・エクスプレスとは、トルコの刑務所に入れられた外国人受刑者たちの間の隠語である。脱獄することを、ミッドナイト・エクスプレスに乗る、と言ったのだ。

作中でも著者が就職した仕事を一日でやめたエピソードが書かれているが、彼は仕事をすべて放り出して、ユーラシアを横断する「深夜特急」に乗ることに決めたのである。
そのときの動機、沢木耕太郎自身の心境は以下のように綴られる。

もしかしたら、私は「真剣に酔狂なことをする」という甚だしい矛盾を犯したかったのかもしれない。

わからない。すべてがわからない。しかし人には、わからないからこそ出ていくという場合もあるはずなのだ。


あまりにも曖昧で、漠然としており、それだけとてつもない大きさを感じさせる記述に、読んでいて非常に納得のいくものがあった。「わからない」ものに対して財産と仕事をなげうつという行為を理解できる人、できない人、できる上で憧れる人と様々であろうが、僕はこの部分を読んでいるときに手を打って「そうだ、そうだ」と大声で叫んでやりたい気持ちになった。
26歳という歳で、社会的にもライターとしての地位を築きあげようとしている時期に、その全てをなげうって酔狂を試みる度胸があるか。そこでなげうたなければ、その人は例えライターにはなれても何か新しいものを創造することは終にできないだろう。
僕の想像では、沢木耕太郎は「賭けた」のではないかと思う。旅を通じて素晴らしいものに出会えるかどうかでもなく、ロンドンまでバスで行けるかどうかでもなく、「真剣な酔狂」を演じきってもなお自らを生かし続けることができるのかということに。自分の力を、それまでの生活のベースを破壊することで改めて確認しようとしたのではないかと。

結果がどうだったかは僕も分からない。この旅が沢木耕太郎という作家に何を与えたかも結局誰にも(本人にさえ)わからないのだろう。
しかし、旅を通じて筆者は様々なものを得、さまざまなものを捨てたのは確かである。それは本来言葉で表せるような領域の話ではないだろうが、それに何かしらの形を与えようとするのが芸術であり、文章であり、この「深夜特急」という作品なのではないか。

先日、NHKでQUEENのボーカルであるフレディ・マーキュリーのドキュメンタリーをやっていた。
一人のコメンテーターがフレディの特異な生い立ちに言及しながら、「クリエイティブな仕事をする人間にとって、色々なものに触れるということはとても重要なことだ」と話していた。自分がこれからどのような身の振り方をするかブログに書くつもりはないが、当時の沢木耕太郎より6歳若い20歳である自分も、躊躇うことなく旅に出て、何かを捨てて、そして新しい世界へ首を突っ込んで行きたいと思う。
そうした経験はきっと自分の人格の中へと沈殿し、やがてとても中身の濃い創造物を勝手に生み出してくれるだろう。

読んでいてそのままエネルギーになる、旅好きな人にも旅を好きになりたい人にもお勧めしたい本だ。

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107.馬上少年過ぐ (司馬遼太郎)

今回は司馬遼太郎の短編集、「馬上少年過ぐ」。
伊達正宗を主人公とした表題作含め7作を収めている。

ちなみに最初の「英雄児」では、「峠」の主人公でもある河井継之助を描いたものとなっている。他、幕末から戦国まで、時代の一瞬を彩るような、奇妙で奥深い人間模様を見事に描き切っている短編ばかりであった。

もう眠いので、特に言うことはない。
短編集は長編に比べ、細かな会話などの描写が少ないので多少文は硬くなる。しかしそれはそれで味があって面白い。文体や表現を超えて面白さが伝わる、歴史や人間という奇妙な存在を改めて認識させられる。

眠いので以上。
決して手を抜いているわけではなく。
ただ短編集というのは特に書くことがない。あまり細かく書いてしまうと、ネタバレになってしまうので。

次回は沢木耕太郎の「深夜特急」を読んでいきたいと思う。

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106.最後の将軍 (司馬遼太郎)

昨日に引き続き、今日は司馬遼太郎の「最後の将軍」。
タイトルの通り、主人公は徳川15代将軍の徳川慶喜である。坂本竜馬と共に大政奉還という幕末の大転換を演じた男である。徳川幕府を下野させたと言えばそれまでだが、逆に言えば明治政府成立の大きな功労者の一人に数えられる。
「徳川慶喜とは優秀な人物だった」
とはよく言われるが、具体的にどのような人物だったのか。
丁度大河ドラマ「八重の桜」でも小泉孝太朗で演じられている折もあり、興味本位で読んでみることにした。もちろん、司馬遼太郎の作品だったというのも大きい。

「生まれた場所さえ違っていれば、幕末志士として大きな役割を担ったはずである」という記述があったが、徳川慶喜は確かに優秀な人物であった。
あまり詳細について述べても仕方ないので、自分なりに徳川慶喜という人物の重要な特徴をまとめてみたい。

徳川慶喜が大政奉還という大改革に踏み込むことができた要素としては、大きく四つが挙げられる。
まず、噂や期待によって慶喜自身の虚(巨)像が広く流布していたこと。
慶喜は水戸藩の烈公である斉昭の息子であり、幼少期から期待をかけられた。特に、父斉昭は当時の攘夷家たちにとって神のような存在であるとともに、生まれの水戸藩は「尊王攘夷」思想の水戸学派の発祥の地でもあった。このため、慶喜は幼いころから諸侯や攘夷派の間で爆発的な人気を得ることになった。これが一橋慶喜が15代目の将軍となった要因である。

次に、貴族的で淡白な性格であったこと。
まず慶喜には名誉への執着や、地位に対する欲望というものに対して、決定的に淡白であった。300を超す諸侯の盟主としての地位を放棄する大政奉還は、こうした性格なくしてありえなかっただろう。
また、慶喜はあまりにも複雑な政治行動を繰り返したため、複数の側近を攘夷派による誅殺へと(意図することなく)追い込んでいる。そうした犠牲に対してことさらに重圧や悲壮を感じずにいることは、幕末の世を綱渡りのように生き抜いていく上では不可欠の素養だろう。

また、歴史主義的史観を持っていたことが挙げられる。
水戸藩は「大日本史」を編纂していた学問の盛んな藩であった。こうした環境で学を学ばされた慶喜は、何よりも「賊」となることを恐れていた。彼にとっての敵は薩摩でも長州でもなく、後世の人々による「天朝に仇なした賊」として指されることであった。こうした独特の価値観が、歴史的大転換に彼を突き動かしたと言える。

最後に、慶喜自身の才器である。
慶喜には先が見えすぎていた、ということをしばしば著者が書いている。慶喜は将軍とは思えぬほどの明晰さと敏捷性を持っていて、それが動きづらい「幕府」という組織の中にあって改革を断行できた要因であっただろう。当代第一の論客だとも表現されている。

以上のように、慶喜はある意味で幕末という時代を体現した非常に面白い人物であり、それを取り上げたこの作品も興味深いものとなった。
愚物揃いの幕府を才気溢れる志士がぶっ壊す、そんな単純な二項対立にはならずに天は「徳川慶喜」という寵児を徳川家に産み落とした。読むたびに不思議な奥行きが深まる幕末ものの小説である。

以下は面白いと思ったフレーズ。

君主たるべく育った慶喜には、これほどの感受性のもちぬしでありながら、この一事の機微には鈍感であった。慶喜自身の曲芸がつぎつぎとかれの謀臣を路傍の死骸たらしめていることに気づかなかった。

慶喜の行動は慶喜自身がつねに支持し、自分ひとりが支持しているだけで慶喜はもう自足しているようであった。これは胆力ではなく別のものであり、いわば、本来の貴族というものであろう。

百策をほどこし百論を論じても、時勢という魔物には勝てぬ。

神祖は三百年以前、天下安寧のために業を創められた。いま天下安寧のために政権を棄つ。


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105.政治的思考 (杉田敦)

更新が少し遅れてしまった。
今回は「政治的思考」という新書。今年の1/22に発売され、本屋の「今月の新書」コーナーで見つけた一冊である。最近「新書はやはり新しい方が面白い場合が多い」と感じることが多いので、新しい本を買うことに少し積極的になっている自分がいる(お金に余裕が出来たからでもあるが)。

この本は決定・代表・討議・権力・自由・社会・限界・距離という8つの章によって構成される。それぞれのテーマに沿って政治に対してどう考えればよいかを論じていくものとなっている。
自分は専攻ということもあって、だいぶ知っている話が多かった。もちろんだから意味がなかったというわけではなく、自分の知識の整理整頓ぐらいの軽い気持ちで読むことができたのだが、ほかの人が読んだ場合はどう思うのだろうか。
本は社会一般でよく言われるような「政治への考え方」に対して、学問的・経験的な議論を展開することで捉えなおそうとするものである。人によっては、自分の持っている政治へのイメージを突き崩されるかもしれない。そうした一般論を超えたところにある「政治的思考」の獲得を目指している。

同書には多くの主張が含まれているが、大きくとらえると二つの主張がある。
まず、政治とは多様な意見の調整だということ。
単純化や決定ばかりが重視される社会であるが、そうした主張は結局政治の根を枯らしてしまう。重層的な取り組みこそが政治の本質であって、そのために多様な主張を「政治の場」へと送るための入り口は常にいくつも用意されていなければならない。

次に、問題の根拠を「自分たちの外部」に求める態度は誤りだということである。
ポピュリズムでもナショナリズムでも、物事の原因を「外部」に求めることは解決をもたらさない。
これと同時に、権力を絶対悪と考えるのではなく、権力によって自分たちが生かされている、自分たちが権力を支えてもいる、という事実を無視してはならないという議論も展開している。

学問の理論をいくつか体系化し、簡潔に述べている主張がいくつあり、読んでいて感心させられる本だった。

重要だと思ったことをいくつか引用して終わりにしたい。

決定「後」の円滑さという点では、民主政治に優るものはないといえるのです。

時代の流れに乗って早く決めなければならない、政治ももっとスピードアップするべきだという考えは、政治の否定につながります。政治の大きな存在意義は、そうした流れに逆らうところにあるのではないかと思うのです。

自分たちがうまく解決できない問題について、これを無理に政党政治の枠の中で決着させようとすると、それぞれの政党が割れてしまうこともありうる。

し合って決めるというのは、「話し合う」と「決める」という二つの異なる要素から成り立っていますが、この二つの間に、ある種の緊張関係があることは明らかです。(中略)決めるためには、どこかで話し合いを打ち切らなくてはならないからです。


現状維持が悪くて、変えるのが一概によいという保証はどこにもないのです。しかし、(中略)なんでもいいか変えるべきだという意見が力をもちやすい。その点の危うさをより強く意識すべきだと思います。

政治に正しさばかりを求めていくと、政治における話し合いが邪魔になり、本来の政治そのものを終わらせてしまうことになるのです。

権力を一方的に行使されているという考え方をやめ、権力過程の当事者であるという意識を持った時に、すなわち、責任者はどこか遠くにいるのではなく、今ここにいると気づいた時に、権力を変えるための一歩が踏み出されるのである。

現代社会で国家が肥大化したり、あるいは市場が暴走したりすることに対して、市民社会という第三の領域を持ち出すことには、大きな意義があります。

それなりに民意を反映している政治と、それなりに民意を反映している官僚制とが対立しているという構図こそが現実を表している。そういう意味では、政治と官僚制との対立とは、かなりの程度、自己内の対話なのです。

こうすればうまくいくという解が誰にも見つけられなくなっています。(中略)どの政党であってもやれることはそうは変わらない。それなのに、物事が一向に決まらないという焦りの中で、変えさえすればうまくいくという思いだけがどんどん強まっている。これが現在の状況なのです。

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