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本と6ペンス

The writer should seek his reward in the pleasure of his work. ("The Moon and Sixpence" Somerset Maugham)

104.功名が辻 一~四 (司馬遼太郎)

司馬遼太郎の「功名が辻」を読んだ。
新史太閤記や覇王の家などと同じ戦国ものである。
主人公は江戸時代における土佐藩の藩祖となった山内伊右衛門一豊と、その妻・千代である。
タイトルの功名とは、戦国時代で武将として名をあげること、そして辻というのは交差点という意味がある。察するに、戦国時代に功名を求めて争った者達の、儚くも強烈な出会いや運命を端的に表現したものだろう。

この作品で光ったのは千代の頭の回転の速さと、一豊の律義さである。
織田、豊臣、徳川と盟主を変えて仕えてきた武将というのは存外少なく、紙一重で生死や家の勃興が決まる時代を生き抜き、一国一城の主になったという意味で山内一豊も普通の武将ではなかったと言えなくはない。とはいっても、司馬遼太郎が事あるごとにこきおろすように、山内一豊自身は凡庸としか言いようがなく、彼の人並み外れた律義さと運の強さだけが彼をその地位まで導いたのである。
英雄や豪傑であること、権謀術数に長けることなどとは全く正反対の「凡」な主人公が、戦国という時代を「非凡」妻とともに生き抜き、そして出世を遂げていく。読者は何度も一豊の「凡」さにリアリティーを感じながら、その彼が気がつくと「非凡」な地位を手に入れているという結末を目の当たりにして、狐につままれたような気持ちになる。それがまた非常に心地よい作品だった。

読むたびに思うのだが、司馬遼太郎は人の描写がうまい。特に、「愛嬌」という人間のあり方をとても克明に表現していると感じる。
「司馬遼太郎の作品でわんわん泣いた人はいないのではないか」という解説があったが、それも確かにその通りである。その代わり、司馬遼太郎の作品を読むときは自然と微笑んでしまう。当人たちは糞真面目に生き抜こうとしている場面なのだが、それを「歴史を傍観している」立ち位置を十二分に活用して、その人の本性や憎めない性格をより鮮やかに描き出している。
「罪を憎んで人を憎まず」と言うが、たとえば無能である人や極悪非道である人は歴史上ごまんといる。しかし、司馬遼太郎の作品を読んでいるとそうした人びとの性格まで「特徴」という戸棚に十把一絡げに仕舞いこまれてしまって、結局善人も悪人も同じく残った部分、すなわち「人間」としてスポットライトを当てられる。こうしたことはなかなか出来るものではないだろうなとつくづく思う。
一つ例を出す。この作品を読んでいた中で一番ほほえましいと思った場面の一つだ。ただし、この場面では主人公一豊が戦場で相手武将に殺されかかっている。

(相手が)右手で短刀をぬいたとき、吉兵衛と新右衛門が、木曽馬のように小さい馬で駆けつけてきた。
「殿っ、殿っ、討たれてはなりませぬぞ。奥様がおなげきあそばしまするぞ」
こんなことを戦場でいう馬鹿は、伊右衛門の郎党のほかにはなかろう。


危機をここまで躍動感と人情たっぷりに、そして著者の冷静な視線を交えながら描いているのが大変面白い。

さて、物語は夫の一豊とそれを支える千代を軸に4冊にわたって展開していく。
今でいう夫婦愛などというものとはちょっと違った、だけども温かみのある二人だった。
司馬遼太郎はまだまだ読んでいない作品が多い。次の作品の登場人物との出会いに期待を膨らませながら、この辺で記事を終わりにしたいと思う。


以下は気に入ったフレーズなど

男の世界は、虚栄の市である

伊右衛門の美徳は、自分にさほど才がないということを知っている点である

運。という。人は手軽に考える。秀吉は運がよかったから英雄の名を得たのだと。しかし運というのは英雄の最大不可欠の条件である。憑いている者を英雄という。才能器量があるだけでは、英雄の条件ではない

人間、物の言いかた一つでずいぶんと無用の手傷を人に負わせるものだ

男が自分の技能に自信をもったときの美しさというのは格別なものだが、自らの位階に自信をもった場合は、鼻もちならなくなる

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103.「当事者」の時代 (佐々木俊尚)

今回は光文社新書の『「当事者」の時代』。
2012年に出た新しい本である。

新書としてはかなり分厚い印象だが、「社会を変えるには」を読んだ自分にとってはそこまで苦でもなかったような気がする…。文体も読みやすかった。ただ、読みやすい文体と言うのはともすれば頭に何も引っかからない場合があるので、自分で意識しながら読まないとまるまる無駄になってしまう(図書館で借りたので、線も引けない)。

さて、著者の佐々木俊尚氏は毎日新聞社出身である。
本の構成としては、自信の経験をもとにした記者と権力の関係から入り、そこから市民社会の議論、そして戦後史を概観し、最終的に今後の私たちの「社会問題」への向きあい方を述べている。
経験に基づく部分が本の最初にあるが、決して独りよがりな議論は進んでいない。しっかりとした根拠や文献を挙げながら文章が続いていくので、説得力のある構成だと感じた。
最終的には私たち一人一人に持ってきたかったのだろうが、ウエイトとしてはジャーナリズムやマスコミに対する考察が大きいと言えるかもしれない。

本のキーワードとしては、〈マイノリティへの憑依〉というのが挙げられる。
戦後の学生闘争期に発見された「マイノリティ」や「弱者」、「戦争の被害者」の立場に味方し、自らをそうした人びとと共にあると考え、好き勝手な主張をすることをこのように表現するのである。
こうした態度は、結局「加害者でもあり被害者でもあり、そして同時に侵略者の鎮魂者でもある」というあり得ないねじれの立ち位置に居るという煩わしさからの逃避に過ぎないと主張している。弱者の味方、「困難の当事者」には、望んでなることなどできないと。
そして、(本の議論の順番とは異なるが)マスメディアはそうした〈マイノリティへの憑依〉に依存し続けてきたという事実を挙げる。
その原因には、
①ジャーナリズムの「権力と戦い弱者を守る」という理念は、弱者にスポットライトを当てることで充足されると思いこみやすいため
②ジャーナリズムは中立であるため、「反権力」の主張を公然と述べることもできず、その代わりに社会運動やマイノリティの不満などを使って権力を攻撃するしかないため
③マイノリティや弱者を描くことは、一般市民にとってのエンターテイメントとなり、消費してもらえるため
などがある。

しかし、現代は55年体制の崩壊やグローバリゼーションの進展などであらゆる「エンターテイメント」としての弱者はもはや消費できない。確かに経済成長のときは「上手くいっていない」人はほんの一部に過ぎず、多くの市民はそうした〈マイノリティへの憑依〉によって豊かな自分の生活に対する一種の後ろめたさを解消することができ、その余裕もあった。だが、もはや社会にそんな余裕はなくなってきている。
これからは〈マイノリティ〉という社会の外部から、責任を追及する視線を感じることなく気楽に物事を語ることなど許されない。すなわち、誰もが自らの目前の問題に対処せねばならない「当事者の時代」の到来である。

メディアの記者たちが〈マイノリティ憑依〉から脱し、当事者としての立ち位置を取り戻すということ。しかしそれはきわめて困難な道だ
この本は私たちとメディアに、当事者として社会をわたっていく覚悟を突きつける。

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102.人間回復の経済学 (神野直彦)

そろそろ試験期間が始まり、学校が終わる。長期休みの間の図書館はあいているのだろうか。非常に気になる。

さて、今回は「人間回復の経済学」。締め切りが次々迫ってくるこの時期だが、なんとか時間を見つけて読み終えた一冊である。刊行は2002年。
とはいっても、内容は今でも通用するような議論である。新自由主義とは一体何だったのかという議論に、一石を投じる内容となっている。

筆者は社会総体を三つのシステムに分けて考えている。
まず、強制力を伴い、協力原理に基づいて動く政治システム。
次に、強制力を伴わず、競争原理に基づいて動く経済システム。
そして、強制力を伴わず、協力原理に基づいて動く社会システム。
「第一~第三セクター」という言い方にも符合する分類の仕方である。この本では、こうした三つのシステムのうちの一つに過ぎない「経済システム」の論理が「新自由主義」の名の下に社会を席巻したことを厳しく批判する。
すなわち、人間は経済的に合理的なホモ・エコノミクスではありえないと。人間は「知恵のある人」であるホモ・サピエンスであり、経済的に合理的な判断を下すホモ・エコノミクスなどは複雑な人間社会から様々な要素を捨て去った上に成り立つだけの過程に過ぎないのであると。
そして、新自由主義の席巻は、社会を「経済の論理」で覆うことに過ぎず、そこにおいて人間は阻害されているのだ、人間性というものは迫害されているのだという。

まず、新自由主義の導入に至るケインズ主義の行き詰まりについて、著者は以下のように解説している。
ケインズ主義の経済で回っていたのは、大量生産・大量消費を実現させたテイラー主義が前提条件としてあげられる。つまり、ベルトコンベアーが労働の主役であり、人間はそこで単純作業を繰り返していくだけで良いと。モノは次々と生産され、そして消費される。T型フォード車などに象徴される産業構造である。
このケインズ主義が行き詰ったのは、以下のような理由だ。
①大量生産・大量消費によって「困窮への恐怖が無くなったこと」。そうしてモノで溢れる時代が到来し、単純労働に従事し続けるモチベーションが下がり、結果として(ベルトコンベアー的労働の)生産性が下がった。
②社会の欲望が多様になったこと。基本的な欲望(生存欲求)が満たされた人間の要求が高次なものへと昇華し、従来の画一的生産手法では追い付けなくなった。
③環境問題など、経済を成り立たせる元々の「自然」が悲鳴をあげるようになったこと。これは、「現代社会の理論」にもあったような内容である。

以上のように、こうして行き詰ったケインズ主義への処方箋として、「新自由主義」が登場するのである。

著者によれば、新自由主義は「困窮への恐怖を再び人間に思い起こさせ、強制的に経済を回させようとするもの」だそうだ。考えてみれば、「豊かになりすぎた」というのも変な話である。
そうして構造改革が叫ばれ、経済的合理性を持った人間がもてはやされる。「経営合理性」の名のもとに、労働の環境から能力の低い人間を閉め出し、経営のスリム化を断行した人間が称賛を浴びる時代が到来した。
だが、著者はこれを批判する。
公務員を減員して「小さな政府」にする。企業もリストラによって大削減をする。つまり人間のいない政府、人間のいない企業こそ理想だと考えられてしまう。「そして誰もいなくなった」という社会は、人間の社会ではない

そうして、著者は議論を産業構造の転回へと持っていくのである。すなわち、重化学工業中心の工業型社会から「知恵のある人」ならではの知識集約型社会へと。
そのために、教育の担保を徹底し、社会的セーフティーネットを現金給付から「社会システム」の活性化にもつながる現物給付へ変えることなどを主張する。この辺りはスウェーデンの例が多く出てくる。これからはワークフェア国家への移行によって経済システムを制御し、社会システムとの調和を図っていくのが望ましいとある。

経済の論理に圧倒され、人間性が軽んじられる社会をまた人間主体の社会へ立て直そう。そしてその過程で
知識集約型の産業構造へ転換して持続可能な社会を創造していこうと訴える。
基本的には「平成不況の本質」と重心は変わらない気がするが、こちらの方がだいぶ読みやすかった。

自分の考えとしては、知識基盤の社会は「人間は死ぬ瞬間まで学びたいという欲求を持っている」という信念に基づいて成立しているとされているが、こうした括り方は少々危険なような気がしなくもない。
また、知識集約型産業とあるが、結局は誰かが自然からモノを取り、作らねばならない。これを担うのは誰か、どのように担っていくべきかの議論が不可欠ではないかと感じた。もちろん、この本は日本が重点を置くべき産業についての話をしているのだが、これも見過ごすことのできぬ議論だろう。社会を変えようとすると、その動きから漏れ出る人や部分は必ず出てくるからだ。

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101.想像の共同体 (ベネディクト・アンダーソン)

読んでおきたいと思っていた本の一冊が、奇遇にも大学の授業の課題として出てきた。
「難しかった」という知り合いの声は確かに一面としてあるが、それはアンダーソンの引きだす裏付けとしての事例が多岐にわたっているから一見みえにくいだけで、各章の最後に要点をまとめた記述があるので、それを確り読みながら事例から一般化すれば読解は比較的やりやすくなるはずである。
色々と思うところや内容について紹介したいが、レポート課題なのであまり書くことができない。自分の書いたブログでインターネットからの引用だと言われて単位が飛ぶようなことがあれば、笑い話にもならないので。

頃合いを見てレポートを少し修正してここに載せようかなと思う。

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100.ボロボロになった人へ (リリー・フランキー)

100番目の作品は幻冬舎文庫の「ボロボロになった人へ」。リリー・フランキーの短編集だ。

いずれの小説の中でも、どこか現代社会の「あたりまえ」を覆すエッセンスが含まれている。
恋愛や人びとの価値観に対して疑問符を投げかけるような設定は、ボロボロになっている読者の視野を新しい地平へと広げるものであろう。

ボロボロになった人とは、得てして視野狭窄に陥りがちで、「ここ」でうまくやることが全てだという幻想に囚われている場合が多い。
「大麻農家の花嫁」のように、あくどいと言われる環境で幸せに暮らしている人もいる。「死刑」でのオチのように、死は決して無機質で均等なものではないという考え方もある。「ねぎぼうず」のように、性の世界に溺れ堕ちていくのも一つの生き方であるし、「おさびし島」のように全く違う環境に自らを埋没させてしまうことだってできる。
人はいかようにも生きていけるし、どんなに落ちぶれてもなお生き続けることができる。

しかし、落ちぶれても、というが、本当にそうなのだろうか。
落ちぶれる前に私たちがいる筈の“高み”というのはなんだったのだろう。

「Little baby nothing」で、著者はその“高み”こそが幻想であり、nothingであることを表現する。
三人の男が夢見、生活の支えと目標にしていた美しい女も、結局どこかに底のある人間であった。

ボロボロになった人が、この本を読んだらどう感じるのだろう。
少なくとも奮起や頑張ることを押し付ける本ではない。
その逆で、私たち読者(ボロボロになった人)が住んでいる世界は、小さな小さな領域にすぎないことを発見するだろう。そこから先、読者が変わるべきか、日常に埋没し続けるべきかをこの本は示さない。一切の価値判断を読者に委ねている。

本の最後の「読者による解説」というのが面白い。
一つの解説ではなく、いくつもの解説を載せる。広い世界の中で、一つの短編集に対して広い受け止め方を認める、優しい本と言えるだろう。

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99.平成不況の本質 (大瀧雅之)

今回は岩波新書の「平成不況の本質」。
この本では平成不況の原因を
①対外直接投資による国内需要の減少
②三度にわたる金融危機の消費需要への抑制的効果

のニ点に求め、それぞれを批判している。

経済学的な観点を踏まえつつ、社会における人と人との関係や組織論なども包括的に取り込み、理論化し、分析しようという試みが見られた。
最後には技術の熟練度の継承という点での教育論まで持ち込まれていたが、正直なところそこまで言ってしまえば元も子もないだろうという感想である。
現代日本の危機は、こうした「構造改革」に端を発した社会の「真空化」とそれを支える個人の「規格化」にある。
そこまで言うのであれば、もう少し多面的に社会の真空化と個人の規格化について議論すべきであろう。もちろん著者なりに因果関係をモデル化し可視化しようとした結果だろうが、それでも説得力に欠けるのではないかと思ってしまう点が少なからずあった。

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98.現代日本の政党デモクラシー (中北浩爾)

今回は「現代日本の政党デモクラシー」という本。昨年の12月20日に出版された新しい新書だ。
古くなってもなお面白い新書も結構だが、新書はやはり新しいほうが現在の自分を取り囲むダイナミズムが分かっていいなぁと思う。図書館にないので買わなくてはならないのが難点だが。

この本は、まさに昨年の衆議院選挙で自民が大勝した時期に読むのにもってこいの本であった。選挙制度と政党政治の在り方について、一般的な理論を引きながら日本における政治改革の歴史を振り返っている。
ちょうど私が20歳なので、生まれる前から生まれる直後のあたりの話だ。自分の出生前後の歴史と言うのはともすれば教わることなく大人になってしまうことがあるもので、自分などもこの本を通じて「へぇ、そうだったのか」と思い知らされることが多かった。

選挙制度と政治形態が密接にかかわりあうことはどれくらいの人がご存じだろうか。
中選挙区制、比例代表制は多党制になりやすい(適している)。
一方で、小選挙区制は二大政党制になりやすい(適している)。というのが一般的だ。
これは、死票になることを避ける心理や、政治家側にとっての論理など様々な要因があるのだが、いずれにせよ選挙制度と政治形態には(前後関係を定義するのは困難であるが)一定の関係がある。

今回、衆院選では比例代表での得票率と自民、民主の議席数の差が問題になった。また、死票率が50%を超えたというのも大きな波紋を呼んでいる。「非自民」である民主や第三局などの政党が団結しきれずに票を分散させ、互いに潰しあう様相を呈したためである。二大政党制に適する小選挙区制に重きが置かれる中で、10を超える政党が乱立した果てが、この結果であった。

この本では、いちど政治改革の原点に立ち返る。
なぜ、中選挙区制から小選挙区制に変わったのか。
その原動力となった小沢一郎、細川護煕その他の人びとの思想とは。
民主党とはどのような経緯で市民政党から二大政党の一翼を担う政党へと軌道を変えていったのか。
マニュフェストの存在意義、理念とは。
などなど

結論の部分では、「参加デモクラシー」という言葉が踊る。
それまでの二大政党制を志向する動きが選挙によって政治家同士の間で競争原理が働く「競争型デモクラシー」という考え方に基づいていたのに対し、無党派層が増え各政党の基盤が弱くなってきた現代社会では「参加型デモクラシー」を一定程度政党政治に反映させることが必要だという。
くしくも直前に読んだ新書でも「参加型デモクラシー」の重要性がしきりに述べられていた。
もしかすると最近の政治学の大きな潮流として「代議制デモクラシー」から「参加デモクラシー」への転換というものがあるのかもしれない。

日本の政治をめぐる歴史から、そんな大きな動きまで読み取ることのできる素敵な本だったと思う。

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97.社会を変えるには (小熊英二)

今回は小熊英二の「社会を変えるには」。
この前言っていた、「面白い新書」とはこれのこと。
社会を変えるには、というと何やら怪しい団体のあおり文句にも見えるが、そういうものでは全くない。著者の小熊英二は慶応大学の総合政策学部教授で、社会学を中心に研究しているようだ。

大学に入って以来自分は政治学や社会学の理論を勉強するのが非常に面白かったが、それと同時に理論が現実に(当然間違いはあるにしても)適応されることで現代社会の見方、考え方を広げるような著作を読むのも非常に好きだ。
最近コメントがよくくる大澤真幸の著作も、事件の詳細はよく知らないので何も言えないが、本としては非常に知的好奇心をそそられるものであったことは事実である。

話がそれてしまった。
この新書も、その路線である。
現代社会は歴史的・思想的にどういう位置にあるのか。それを広範な知識で明らかにしていくタイプの本だった。

ちなみにこの本はもともと学校の課題で参考にしようと思って買ったもので、価格は1300円と少々高かったしページも500ページ超と分厚かった。なかなか手の出しにくかった本だが、「単位のためだから」と割り切って買ったら思った以上に面白かったのである。こういう本との出会い方もあるのか、と少々驚いている。

この本の話を要約するのは難しい。
要旨としては
「われわれの意見を代表してくれている」という「われわれ」という単位が社会の個人化その他の潮流に伴い崩壊しつつある今、代議制民主主義の限界が見えている。自分が動いても何も変わらない、と嘆く人が多いのもそのためである。だからこそ、デモをはじめとする社会運動を通じて対話と参加を重ね、「われわれ」という意識を持てるような共同体を構築し(すなわち、「参加している」と実感できる空間を構築し)、民主主義のあり方を少しずつあらため、実体を取り戻す必要がある。

という感じだろうか。「〈私〉時代のデモクラシー」や「熟慮ジャーナリズム」でも討議型民主主義などと言った概念が引かれ、その必要性が説かれていたことを思い出す。
著者の小熊氏に怒られてしまいそうな要約であるが、、まぁ主張としてはそうなるだろう。
ただ、この本の面白さは政治史から思想史、科学史など広大な領域を足場にして現代社会を捉えなおすことである。様々なバックグラウンドの展開を知るのはもちろん、有機的にそれらを理解する記述は非常に面白かった。もちろん筆者の言うように、納得するだけでなくそこから対話を繰り返していくことが肝心なのだが。

要旨をまとめるくらいだったら対話をして検討を重ねてくれと言われてしまいそうだが、なかなかそれも難しい。
周りに読んでくれる人、意見を交えようとしてくれる人が少ないなら、まずこうしたブログで紹介して少しでも関心を持ってもらうしか方法がない。

以下は自分の考え。

本の中の「われわれ」をつくるために盛り上がる、参加することが重要という指摘は非常に説得力があった。
自分の話をすると、正直なところ集会やデモを見るたびに少し敬遠してしまう、その上「反・反原発」に相当するような人びとが自分の周りには多い。

「考えが浅くて行動を起こす人よりも、考えが深くて行動を起こさず、反原発デモを冷ややかに見つめるだけの人のほうがまともだと考えられることが多いのはなぜだろうか」
「本当に反原発デモは無駄なのか、騒いでるだけなのか」
「デモにはただ面白半分で何も考えていないようなバカやロマンに酔った人間ばかりが集まっている、仮にそれが本当だとして、それはいけないことなのだろうか」

この本を読むことで、普段から抱いていたこうしたいくつもの疑問に、ひとつの見方を投げかけてもらったような気がする。
もちろん、自分は行動を起こす側ではなかったことを、ここに告白しなければならない。おそらく、今後も反原発のデモには参加しないような気がする。もちろん、ある日ふと顔を出そうかなと考える可能性も否めないが。それでも、社会運動が今後もちうる可能性を垣間見たような気がした。
ただ、最後の方の社会運動の戦略などを話した章があったが、運動側にこうした難しい運営を強いるようなら、社会運動を政治に反映されるようなシステムや制度の変革について話してほしかった。もちろん著者は社会運動を担う人びとに向けて書いている風があるので、いたしかたないのだが、その外側にいる人間にはどうも社会運動が政治に反映されるかどうかの不確定要素が強すぎるように見える。それほど意義あるものならば、制度的に取り入れる方法を模索することが大事ではないかと思うのである。


さて、この本では、
現代社会とは何かという視点を改めて学問的に構築すること
今起こっている反原発デモはどういう意味合いを持つかを理解すること
こうしたことができる(こうしたことをするきっかけになる)。

本棚で見つけた時は少し敷居は高く見えるが、非常に読みやすい本なので安心して読んでほしいと思う。意見を聞きたいという著者の希望が、少しでも広く叶ってほしい。

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96.悪魔のいる天国 (星新一)

今回初めて星新一の小説を読んだことになる。
星新一が得意とした「ショートショート」という小説形式は、厳密にいえば原稿用紙10枚以下の長さで完結する小説のことを言うのだという。短編小説よりも短い小説、という位置づけになる。

当初、これを読み始めた時は短編と同じ読み方をしようと考えていた。つまり、他の一冊と並行して切りのいいところで一編、という楽しみ方だ。
ただ、ショートショートは思ったよりも短い。だから集中力がストーリの変わり目で途切れることがなく、気が付いたら1時間以上集中して読みふけってしまっていた、ということもあった。

解説にもあったが、星新一は小説は明快であることを好んだらしい。その面は読んでいてよく感じ取ることができた。短く簡潔に終わる作品の中に大きな抑揚があり、「日常から離れている領域」を実感しながら読み進めているとあっという間に終わってしまっている。そして読了後に読者は知らず知らずのうちに小説の世界と自分を囲む世界を対比し、それと意識することなく現代への批判的観察をすることになる。
メッセージ性というより、読者に新しい視点を付与するという点で非常に面白い短編が揃っていると思う。

今後も星新一の本はつまみ読みしていきたい。

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一年を振り返る(2012)

ひさしぶりのですます調です。
こんにちは。

諸事情により更新が1/5になってしまいました。ブログを始めて一年がたちましたので、その振り返りを行います。
先ほど数えたのですが、去年一年で読んだ本は122冊。三日に一冊のペースですから、まぁまぁという感じでしょうか。もっと読む人ももちろんいるでしょうが、自分にとってはよく読んだ方だなと思います。
もちろん、本は読むスピードがすべてではありません。速く読んでも読みが浅ければその時間はまるまる無駄です。しかし、この一年間は(おそらく今年も)ある程度読む速度を意識して本をこなしていました。理由は以下の二つです。

①ダラダラと読み続けるのを防ぐ・短期間で集中した方が頭に入る
昨年のマックス・ウェーバーの「職業としての学問」などでは、読書の時間がとれず確か1週間ほどかかって読み終えたような気がします。まぁその結果友人から痛烈な批判を受けたわけですが、やはり読書には集中力が欠かせません。本のページ数や難易度にもよりますが、基本的に400ページくらいまでの文庫本だったら、2,3日で読み終える程度の集中力で読むのが最も頭に入るということが感覚的に分かりました。
もちろんじっくりゆっくり読むことを否定するわけではありません。ただ、僕の場合は「木を見て森を見ず」な結果に陥らないためにも、最低限のスピードを意識して読書をこなさざるを得なかったわけです。

②多少乱読気味でも良いから経験値を稼ぐ
優れた読解力を持つにはどうするか。他の試みでも同じことですが、自分のスキルを磨くためには二つのみちがあります。
まず一つは、良い経験を丁寧にする。
数学でいえば、「良問」を繰り返し100点を目指して取り組むことに近いです。野球でいえば、大舞台でヒットを打つことで大きな自信や経験を得ることなどにも相当します。
二つめは数をこなすことです。
数学でいえば、とにかく問題を解き漁る。野球でいえば、素振りを何百、何千本も繰り返すことです。

今年の読書では、とにかく後者を重視しました。
理由は、まず選ぶ本にそこまで難易度の高いものがなかったこと、そして読解が正しいかどうかの判定よりも、時間がどれくらいかかったかのほうが結果が目に見えて分かりやすいことです。
小説では、読んでからすこし自分で考えて、それから解説を読み、解説をもとにして自分の解釈を再構築するという作業を行いました。もちろん納得のいかない解説もいくつかありましたが、それでも色々な考え方を知るためには、あえて自分の思考を解説の視点から点検するのは大切だと思います。
乱読、というのは中身を一切捉えないことではありません。100%の読解を目指す必要はなくて、それをできるようになるために今は60%の読解で数をこなしている段階である、という意味です。

今年の読書はそんな感じでした。

ちなみに面白かった本を挙げると
・峠 (司馬遼太郎)
・テロルの決算 (沢木耕太郎)
・海と毒薬 (遠藤周作)
・地下室の手記 (ドストエフスキー)
・職業としての政治 (マックス・ウェーバー)
・成熟社会の経済学 (小野善康)
・燃えよ剣 (司馬遼太郎)

このへんでしょうか。
ちなみに今読んでいる新書がめちゃくちゃ面白いです。まぁ近いうちに紹介します。

さて、来年は今年以上に忙しくなる予定です。目標は6月までに75冊、ですね。3日に1冊を少し超えるペースです。
大学三年にもなるので、そろそろ新書小説に加えて古典専門書にも手を広げていきたいと思います。

最後になりましたが、2013年も当ブログをよろしくお願いいたします。

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