fc2ブログ

本と6ペンス

The writer should seek his reward in the pleasure of his work. ("The Moon and Sixpence" Somerset Maugham)

95.国の死に方 (片山杜秀)

今回は新潮新書の「国の死に方」。
発行日を見るとつい10日前ほどになっている、非常に新しい新書だ。

内容は雑誌の連載をそのまま纏めたものになっているため、一貫したテーマというものに触れられた実感はない。しいて言えば、「国の死に方」というタイトルの通り、国家が麻痺するプロセスや狂っていくプロセス、軌道を外れていくプロセスを歴史的な事例をいくつも引いていくことで並べているなという印象である。

具体的には、1/2章は国家の肥大化とそれを利用したファシズムのメカニズムについて。
3/4章は明治憲法を起点とした日本社会の過度な縦割りが、一個の強大な権力の台頭を防ぎ天皇の地位を保証した一方で、非常事態に弊害をもたらしたという側面について。5章は逆に、ソ連共産党と言う一個の巨大権力がペレストロイカによって適度な分権化をもたらそうとして崩壊した過程について。
6/7/8章は国の保険制度の意義の再検討および、災害の被災地は社会秩序がいかに崩壊しやすいかという話。9章は普通選挙制度の落とし穴というか、それに伴い国民に求められるものについて。
10/11/12章は日本の農業政策のひずみについて、そしてそれが政党政治に不信感を抱かせた過程について。
13/14章は映画「ゴジラ」を軸に据えながら日本が瀕している危機について。

おもしろい挿話が多くあったので、すぐ読み終えることができた。
16日の総選挙の結果について考える上で示唆的な話も少なくなかった。そういう意味では、民主党政権時代、そして自民党の大勝を眺めつつ考察を深める、そんな年の瀬にはもってこいの一冊だったと思う。
体系的に捉えなおすのはまた難しいが、この本を読みながら長いスパンでいちど日本の政治史を振り返るのもいいだろう。

スポンサーサイト



PageTop

94.キャパの十字架 (沢木耕太郎)

今回は沢木耕太郎の「キャパの十字架」。文芸春秋に100ページにわたって載ったノンフィクションである。
20世紀を代表する戦場カメラマン、ロバート・キャパ。彼の代表作である「崩れ落ちる兵士」に潜む秘密に迫り、そしてその写真がどのように彼の人生に影響を与えてきたかをつづった物語である。

前半部ではもっぱら「崩れ落ちる兵士」がやらせではないのか、という疑念を追求している。この写真はスペイン戦争を象徴するものにまでなり、ロバート・キャパの名を世界中に轟かせるきっかけになった作品だ。
小説の中では、著者自身の熱心な研究によって「崩れ落ちる兵士」はどうやら本物の戦場で撮ったものでもなく、さらにキャパが撮ったものでもないかもしれないという状況証拠がいくつも明らかになっていく。ここまでは、小説というよりもむしろ論文に近いかもしれない。それほど緻密に検討を重ねているということである。

ただし、この試みは著者自身も認めているように、決定的な証拠を得るには至らない。キャパ自身も沈黙を守り通した秘密に、あと一歩と言うところまで迫りながらも結局は「五分五分」、状況的・心境的には「八分ニ分」というところにとどまってしまう。

しかし、ここからが著者の「小説家」としての手腕が発揮されるところである。
著者は、「つじつまが合っている」この予測をもとに、キャパの戦場カメラマンとしての生涯がどのようなものだったかを後半部で語り始める。つまり、ロバート・キャパが背負った「十字架」に対し、彼はどのように向き合っていったのか、という視点で。
沢木耕太郎は『アンドレ・フリードマンがついに「本当の」ロバート・キャパになった』と表現している。カメラマンとしての生涯の起点から十字架を背負わなければならなかった彼の境涯が、ついに彼を本当に偉大なカメラマンにしたのだ。

この本では沢木耕太郎の持ち味が二つ、存分に発揮されている。
一つは取材力・調査力。
これは数十年にわたり沈黙を守られてきた「崩れ落ちる兵士」の秘密に肉薄した前半部で見られる。
二つ目は構成力・物語る力。
これは状況証拠をもとにロバート・キャパというカメラマンの人生を「再構築」し、再び著者の目線から語る後半部で見られる。

この作品が単行本化されるのはまた先になるだろうが、このブログを読んだ人には、ぜひ注目してほしいと思う。

PageTop

93.熟慮ジャーナリズム (奥武則)

今回は平凡社の「熟慮ジャーナリズム」。
著者の奥武則は毎日新聞社の学芸部長、論説副委員長を経て同社の客員編集委員となっている。
自ら「論壇記者」としての経験を綴りながら、これからの新聞が担っていくべき役割を主張する一冊である。

著者が携わってきた「論壇」という領域を、同氏はこう表現する。
第一義的には、「国内外の政治や経済など、さまざまな領域の、広い意味での時事的なテーマについて、専門家が自己の見解を表明する場」であり、それを踏まえてより広義にその役割を言えば「『衆知の結集』と『公正な議論』を保証する公共空間」となる。

また、本の終盤には「民主主義を支えるジャーナリズム」という"素朴"な発想をもとにこうした論壇的なジャーナリズムが果たしうる役割を考察している。
引用されているのは「反骨のジャーナリスト」(岩波新書)でも出てきた陸羯南、そしてアレックス・S・ジョーンズのジャーナリズム論である。

後者では、民主主義の糧となってきたニュースの「腑分け」をしているとして筆者が注目している。
ジョーンズは「鉄心(アイアン・コア)」と位置付けられるニュースとそうでないニュースを分類し、そうして以下のように述べたという。
『鉄心に入るのは、政府をはじめとした権力に説明責任を課すことを目的としているという意味で、「説明責任ニュース」とも呼ばれる日々のニュースの集合体である』

この研究に刺激を受けた著者は、ニュースには三層の構造がある、という主張を展開する。
まず、「単純ニュース」。これは、争いのない事実についてありのままに報道したもの。
次に、「説明ニュース」。これは、出来事の原因や背景などをしっかりと読者に説明するもの。
そして、「掘り起こしニュース」。これは、明るみに出ていなかった出来事を掘り起こすもの。
特に、最後の「掘り起こしニュース」にはそれなりの時間と高度な知識を必要とするのだと主張した。

そうしたうえで、本では「熟議民主主義」「討議型民主主義」の理念の上でジャーナリズムの果たせる役割を考察している。つまり前提条件として、単純に民主主義の糧としてのジャーナリズムとして捉えるばかりではなく、民主主義のあり方も問い直す必要があると主張する。その時、熟慮ジャーナリズムが果たしうる役割を筆者は以下のように述べる。
民主主義を「熟議民主主義」として新たに構想するとき、そこで新聞が果たす役割はやはり熟議・熟慮に価値を置くものとなる。
(中略)
熟慮は現象の奥にあるものをみつめる方法的態度を貫き、「道理」を問い直すための時間である。こうして、(中略)熟議民主主義の糧となるニュースが「論壇=公共空間」に提供され、社会の意思決定プロセスとして、熟議民主主義が生き生きと機能する。


ここまで読むことで、著者が前半で引用していた先輩記者の言葉が、重い意味をもつようになってくるのである。

『なんと多くの事件が、めまぐるしいほどに継起したことか。動きが目めまぐるしいだけに、いっそう辛抱づよく現象の奥にあるものをみつめる文章が求められるであろう。』(高瀬善夫氏)

PageTop

92.彼らの流儀 (沢木耕太郎)

今回は沢木耕太郎の短編集である。
時間がかかってしまったのは、やはり自分の短編集の楽しみ方が下手糞だからだろうか。
一話ごとに集中力が切れてしまうので、長い時間集中し続けることが難しい。後半からは、他の新書と併せて読んだが、そうしてとっかえひっかえ読んだり、隙間隙間の時間に読み楽しむのが僕なりの短編集の楽しみかたになりそうだ。
星新一の本を借りてあるので、当分はこうした楽しみ方をし続けるかもしれない。


さて、内容についてだが、沢木耕太郎の中では今まで執筆してきた作品が綿々と続いているのではないかというのが実感させられた。それぞれの人には、それぞれの物語が流れている。それらをペンを走らせることで綴ることは本当に難しいことなのだろう。それだけに、沢木耕太郎という作家自身も作品を書けば書くほど大きな人間になっていくのではないか。これはノンフィクションライターの特徴かもしれない。

ノンフィクションを書くには、文章の巧さはもちろんのこと、一人ひとりの人生の根底で流れる物語を敏感に察知し、そのなかに「書くべきこと」を見出す力が要求される。
私たちは多くの人々に囲まれながら暮らしているが、いますれ違った人も何かのドラマを持っているという想像力を持てることは、なんとも素敵なことだと思う。

PageTop

91.ぼんやりの時間 (辰濃和男)

「師も走る(ほど忙しい)」と綴る12月。
特に今年は北朝鮮が衛星を発射し国際社会を揺るがしたかと思えば、国内では衆院・都知事選挙が16日に開催され、18日には韓国の大統領選の投開票と、毎年恒例のイベントに加えての騒動が目白押しである。2012年の12月は、特に忙しい。

さて、そんな中で今日読み終えたのが「ぼんやりの時間」というなんとも世間の風潮に逆らったような本。著者の辰濃氏は朝日新聞社のコラム天声人語を執筆していた名文家であると言えよう。

新書は線を引いて読むようにしているが、この本は線を引いて慌ただしく読むような行為自体を御法度とするような内容だったので、「これは」という部分を抜粋、ということは今回は控えておく。著者は非常に柔らかく、それでいて論理は堅くできている文章を操るので、あっという間に引き込まれ、読み終えてしまった。全国紙のコラムを読み比べる、という日課の延長線のような形で読んでしまった。もちろんそれは作者の文章の魅力によるところが大きい。

自分は人一倍ぼんやりすることが好きで、しかもそれを密かに誇りに思っている類の人間なので、この本に書かれた内容はほとんど「うんうん、そうだよね」と納得しながら読むことができた。
「忙しい忙しい」という日々を続けるのではなくて、ぼんやりの時間をしっかりと確保することで人間は成長し、本当に生きる時間を過ごすことができるという主張である。高度経済成長が止まったころからこうした過度の近代化・効率化・合理化への反省という感じの説教は繰り返し展開されてきたが、自分はそれを目にするたび何度も頷いてきた。(とは言うものの、自分はバブル崩壊の翌年に生まれたのだが。)

自分は今でも一つの理想がある。
どんなにたくさんの仕事を押し付けられても、愚痴一つ漏らさず「あぁ、暇だ暇だ」と悠々自適に言えるようになりたいということである。そして、現にどんなに忙しく押しつぶされそうになっても、自分の時間を沢山持ち、自らと絶えず寄り添って歩けるような余裕を持っていたい。
何ということはない、単にそちらのほうが格好いいからというだけの話だが、そうして閑を楽しみながら生きていく大切さを改めて教えられた。
これからは無意味で無駄なことを積極的にやっていきたい。人生をどれだけ無駄に過ごしたかが、実はその人生の価値を反映するものだったりするかもしれないと期待しながら。

私は自分の名前を気に入っている。
漢字二文字で、いずれも珍しいというほどのものでもないが、それでもこの名前をかなり気に入っている。
そのなかに、「ゆっくり」「おおらか」という意味の漢字が一つある。仕事に取り組んでいく一方で、いつまでもゆっくり、おおらかに、楽しくぼんやりと生きていければこれ以上幸せなことはない。

PageTop

90.覇王の家 上下 (司馬遼太郎)

選挙は自公の圧勝が報道されている。前回の民主の大勝から早3年、今回の衆議院選挙で民主党政権は脆くも崩れ去った。長い政権を維持することの困難を思わせるこの頃だ。

さて、今回の本はそれとは対照的。自らの死後300年にわたる長期政権を誕生させた「徳川家康」を題材とした『覇王の家』、司馬遼太郎の作である。
三河国を率いた地方の独立政権として信長、秀吉の強大な勢力圏と対峙し、ついに天下を奪うことにまでなった家康の素顔に迫っている。

『新史 太閤記』の秀吉は色々な意味で天才型であるように描かれているが、この作品の徳川家康には全くその臭いがないのが印象的だ。家康は単に根気強いだけではなく、忠実に先例を真似る作業を繰り返しながら、独創的な発想を恐れる性格を貫いて天下を掴んでいる。そしてそんな家康の性格が三河人にも憑依しており、さらに日本社会に深く根付いた、という考察は唸らされた。

かれの生涯は独創というものがほとんどなかった。自分の才能を、かれほど信ずることを怖れた人物はめずらしく、しかもそのことがそのまま成功につながってしまったという例も、希有である。そういう意味からいえば、なまかな天才よりも、かれはよほど変な人間であったにちがいない。

あとがきにはこのように書かれている。
江戸時代という日本を語る上で書かすことのできぬ時代を築いた人物を、様々な事例を踏まえながら分析している。非常に謎の多い将軍の人格に、しかし、戦国時代を生き抜くことで磨かれた手腕が備わっていた事実もあり、いまの浮沈の激しい政治の現状からみてすこし羨ましくも感じる。

物まねびの心得ある者は、古今東西のよき例をまねるゆえ、一つ癖におちいることがない。それにはなにがよいかという、よいものを選ぶ心を常に用意しておかねばならず、そういう心におのれの心を矜しているためには、おのれの才に執着があってはならぬ
上巻の最初に出てくる何気ない場面。しかし、「まねる」という能力がその後家康の生涯をいかに支えるかを知るにつれて、示唆的にも思えてくる一節である。

家康というこの人間を作りあげているその冷徹な打算能力が、それとはべつにその内面のどこかにある狂気のために、きわめてまれながら、破れることがあるらしい

人間は現実の中に生きながら、思考だけは幻想の霧の上につくりあげたがる生物であるとすれば、現実的思考だけで思考をつくりあげることに努めているこの家康という男は、そうであるがゆえに一種の超人なのかもしれなかった

PageTop

89.一瞬の夏 上下  (沢木耕太郎)

今回は沢木耕太郎の「一瞬の夏」。
筆者が30歳を目前に控えたカシアス内藤というボクサーとともに、「いつか」を追い求めて奮闘する物語である。

永すぎた春(三島由紀夫)の解説には、抵抗がないところに芸術は生まれないという意味の一節があったが、この作中では『私(沢木耕太郎)』も内藤も、まさにいくつもの困難にぶち当たり続けることになる。
「いつか」の最高の瞬間を求めて、内藤は挫けながらも奮闘を続ける。混血という社会からの視線、金銭的な苦しさ、妻とやがて生まれてくる娘の存在、そして何よりボクサーとして致命的な自身の優しさ…。
読者である私たちも、祈るような気持ちで読み進めていくことになる作品であるだろう。


沢木耕太郎は「いつか」、「最高の瞬間」というものを激しく欲しながら作品を作っている。
解説にも、同氏の作品の引用があった。(クレイになれなかった男、からだっただろうか)
人間には三種類いると。すなわち、「いつか」を経験することなく一生を終える人間、「いつか」を経験する人間、そして「いつか」を経験したいと強く欲しながらも終にそれが果たせない人間…。

「はじめて、怖くなかったのに…」
物語のラストで、結局内藤と沢木らは夢に敗れることとなる。
上下二巻にわたって綴られてきた彼らの苦悩は、ついに報われることなく終わってしまう。このことは、沢木の言う「最高の一瞬」がいかに困難な境地であるかを物語っていると言えるだろう。それは、個人の努力ではどうしようもないものなのかもしれない。恋人の妊娠や、チャンピオン戦開催のもつれなど、様々な不利な要因が一斉に内藤を襲っていた。
運命の悪戯といえばあまりにも非情に思えるが、それだけに「私ノンフィクション」と呼ばれる手法でその状況を描き切ったこの作品は、読者に特殊な感銘を与えるのだろう。

PageTop

88.ラディゲの死 (三島由紀夫)

今回は三島由紀夫のラディゲの死という短編集である。
そこまで量が多いわけではないのだが、なかなか読み終わらなかった。一つ一つの作品が重いので、頭の切り替えがうまくいかなかったり、あるいは作品を通じて考えることが多かったりしたことが原因だろう。

短編集なので、長編のように肩肘突っ張ることなく純粋に楽しめば良かったかもしれないと少し後悔している。

解説にこんなことが書いてあった。

短編という文学様式は、オチからの、終わりからの創造の純粋形式なのである。

人生は短編小説のように決然と完結しなければならない。そこに是非もない三島由紀夫の死への収斂があった。


三島由紀夫の作品は、書き始めるときにはすでにラストの一行が決まっているのだと聞いたことがある。すなわち、最後の場面を先に決めてしまって、そこから物語を逆算的に作っていくのだと。
三島由紀夫の文章に親しみながら、そんな短編を、つまみ食いのように味わうことができる大学生という身分がつくづく幸せである。

PageTop

87.新史 太閤記  上下 (司馬遼太郎)

今回は司馬遼太郎の「新史太閤記」を読み終えた。
太閤記、とあるが秀吉の立身出世の展開を追いつつ、信長・家康の性格にも迫っている。
天下統一に携わった三人についてホトトギスの喩え話がよくされるが、その意味が手に取るように理解できるようになったと思う。司馬遼太郎の著作のおもしろさ、巧みさを存分に味わうことができた。
特に、秀吉と信長のやりとりは思考が互いに先回り、先回りをしておりまさに阿吽の呼吸というもの。小気味よく、非常に読みやすいと同時に二人の頭の回転の速さに驚嘆させられる。
秀吉は天涯孤独という境遇から、自らの鋭敏な思考と人たらしの能力を駆使して全国に二人といない地位にまで上り詰める。この日本史上最大級のサクセスストーリーは、当然読んでいて心地良い。歴史小説が好きだという安倍晋三は、「司馬遼太郎からは夢と志の世界を」学んだと言っているそうだ。彼の政治家としての姿はともかくとして、確かに司馬遼太郎の小説には夢がある。それも、かつて実在した武士たちが命を賭して取り組み、達成してきた夢である。
司馬遼太郎の小説の魅力を、「太閤記」という比較的「夢」と重ね合わせ易い題材を通じて、改めて知ることができた気持ちだ。

士が愛されるということは、(中略)自分の能力や誠実を認められることであろう。理解されて酷使されるところに士のよろこびがあるように思われる。

第一級の策士とは底ぬけの善人であり、そうでなければたれが策に乗るか (秀吉)

自ら佞臣の才能があることを知りながら、それでも第一級とも言えるほどの誠実さと無欲さを演じながら厳しい政治の世を駆け抜けた秀吉。戦国時代を騙しに騙した偉大な狂言師、といっても差し支えないだろう。

「おれの天下も、あの狂言で決まったわさ」
と言いつつ、ふと秀吉は、織田家に仕えた自分の生涯のふりだしそのものから狂言であったような気がした。
その生涯を狂言の連続とすれば、なんとながい狂言であったことだろう。

(中略)
辞世にはかれの地肌ともいうべき狂歌のにおいがにじみ出ている。
露とおき露と消えぬるわが身かな
浪華のことは夢のまた夢

PageTop