三島由紀夫をもう一作。こちらも女性が主人公の「美徳のよろめき」である。
育ちの良い優雅で無垢な主人公が、姦通を行いながらも悪徳に染まることのない不思議な様子を綴ったものだ。
解説には
不羈奔放なこの作者は、彼一流の錬金術によって、背徳という銅貨を、魂のエレガンスという金貨に見事に換金したのである。
という一節が踊る。
何となく恰好をつけた物言いで僕は好きになれないが、言っている意味は正しいだろう。
作品のタイトルのように、主人公の中に潜む美徳はよろめきこそすれ、結局悪徳の波の中に斃れることは終になかった。作中で描かれる姦通という背徳的な行為は、主人公の持つ太陽のような精神の高邁さによって照らされた結果、穢いものというよりもむしろ芸術美のように我々読者の目には映る。
どんな邪悪な心も心にとどまる限りは、美徳の領域に属している、と節子は考えていた。そこで、現実の行為はどんなにやさしく、愛らしい、無邪気な形をとっていても、悖徳の世界に属していた。(中略)どんな邪悪な空想も心を苦しめることがなかったのに、久々に味わったやさしさや無邪気さが、良心の痛手になるのだとすれば、一歩進んで、彼女は冷たい打算や身勝手な計画を美徳とみなし、自然さ、無邪気さ、などの明るい感情を、悪徳と感じなければならなかった
美徳に対する考え方は幾度となくよろめくが、精巧に主人公の内面を描写しているためか、姦通という行為を行った主人公は一度も穢れたようには見えない。
非常に芸術性を感じさせる作品である。
彼女の穢れのなさについては、解説の示す箇所が妥当であるだろう。
興味がある方は作品を手にとって、鑑賞していただきたい。
次回は久しぶりに司馬遼太郎の作品を読むことになると思う。
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三島由紀夫の「愛の渇き」は、悦子という奇妙な女性を追った物語である。
幸福を逆説的に追及する、という歪に見える主人公の心理が精巧に描写されており、彼女を取り巻く奇妙な人間関係がそれを加速させていく。何から何まで奇妙な設定の中で、奇妙なエンディングが導出される物語だった。
物語の根底をなす哲学は「幸福であるということは一種の退屈である」という発想だ。
そして幸福に対する欲求をせき止める障害として、主人公を取り巻く環境を位置づけることができる。
解説には「何かの抵抗がなければ芸術作品は生まれない」というヴァレリーの格言が引用されている。これを踏まえると、この物語の終わり方は「芸術的なもの」として捉えることができる。
追求した幸福が手に入りそうになった瞬間、女はそこに潜む「退屈」を本能で感じ取り、殺人を犯した。
一見歪に見える物語の舞台で起こった殺人は、それ自体は歪というよりもむしろ上で述べたような芸術的であるという側面の方が強く印象付けられるのではないか。
裏切られることを恐れない希望は、希望というよりは、絶望の一種である。
あちこちに逆説的な哲学が潜む女の心理は、下手なミステリーよりも奇妙でおもしろいものに見える。
今回は安部公房の「壁」。
安部公房といえば「砂の女」、というイメージを抱く人が多いだろうが、この「壁」は芥川賞の受賞作だそうだ。
小説にもし難易があるとするなら、この小説(作品集)は間違いなく難しい部類に入るだろう。
自分の名前をある日突然喪失する、影を食われて透明人間になる、体が解れて糸となりそれによって繭になる…こうした設定についていくことだけで一苦労である。「なぜ」と問いたいのに問うことのできない状態のまま、作品を読み続けなければいけない。
だからといって、自分としてはいつか分かる日が来るのを信じて、そのために読み続けるしかないので取り敢えず黙々と読んだ。もちろん、読み終わったからといって急に道が開けるように何かを掴めたわけでもなく。そんな不思議な作品をめぐった、不思議な読書の時間だった。
解説ではカフカと壁(S・カルマ氏の犯罪)を比較している。
幸いカフカの「変身」は読んだことがあったので、その記憶と照らし合わせることができた。そうすることで何となくこの本の主題に近いものは理解できたが(「実存」という言葉と少なからぬ関わりがあるのは分かった)、それでもまだよく分からない。
ということで、分からない、というのが最大の感想である。
めげずに他の作品も読まないと見えてこないのだろうか…
前回の「凍」で山を登る登山家のように、作家の思想という巨大な山を、焦らずに登ってゆきたいと思う今日この頃である。
今回は世界的なクライマーである山野井泰史とその妻、妙子によるギャチュンカン登攀の様を綴った「凍」。
ノンフィクションライター・沢木耕太郎の魅力、そして山にひかれ続けるクライマーの魅力が伝わってくる作品だった。
最終的に多くの手足の指を失うことになるほど壮絶なものとなった登攀、そしてそこで展開された生きるか死ぬかの瀬戸際、絶望的な状況で次々と強いられる選択。息のつく間もないほど緊迫したエピソードを存分に味わえる。
「最高の瞬間」を欲する作家の沢木耕太郎と、「絶対の頂」を究める自分を追い続けた山野井。二人の間に共通する大きな主題性が、こうした作品を生み出したのだろう。
死ぬ人は諦めて死ぬのだ。俺たちは決して諦めない。だから、絶対に死なない。
極限状態を生き延び、なお高みを求め続ける。そんな人間の魅力と強さを教えてくれる一冊である。
82.サド侯爵夫人・わが友ヒットラー (三島由紀夫)
三島由紀夫の戯曲はおもしろいと勧められてとりあえず読んでみたのがこの一冊である。
戯曲を読んだのは初めてだが、慣れれば特に普通の本と変わらない。
三島由紀夫自身による解説が載っていたが、この二作は対をなしている作品であるという。
『サド侯爵夫人』における女の優雅、倦怠、性の現実性、貞節は『わが友ヒットラー』における男の逞しさ、情熱、性の観念性、友情と照応する。
サド侯爵夫人における女の世界と、わが友ヒットラーにおける男の世界が対のようにして描かれている。しかし、内容自体は全てが対になっているわけではない。
男は政治のために友情を棄て、そして女は…
実のところ、女の方がまだよくわからない。なぜサド侯爵夫人はサド侯爵が牢から放たれたときに夫との別れを決意したのだろうか。そこが十分に考えが及んでいないのが悔しいところである。
人の気持ちがわからぬ者には小説は書けない、という意味のことを三島由紀夫は『永すぎた春』で言っていた。まったくもって、自分の人の感情に対する理解はまだ浅いのだろうなということを感じざるを得ない。
これからも多くの本を読んで、多くの人と触れ、そしてもう一度この本にぶつかってみたい、と思わされた。
最後に、サド侯爵夫人の中から気に入ったところを紹介。
想像できないものを蔑む力は、世間一般にはびこって、その吊床の上で人々はお昼寝をたのしみます。
あなた方は薔薇を見れば美しいと仰言り、蛇を見れば気味がわるいと仰言る。あなた方は御存知ないんです、薔薇と蛇が親しい友達で、夜になればお互いに姿を変え、蛇が頬を赤らめ、薔薇が鱗を光らす世界を。
なんとなく、女の世界というのはこんなものか、とは思った。実際のところは知らないが。

遠藤周作の「留学」は三つの編からなる作品である。「ルーアンの夏」、「留学生」、「爾も、また」という時代も主人公も違う三つの留学にまつわる話が盛り込まれている。
時代は違っていても、三人の留学生の悩みは共通しており、それは日本とヨーロッパの絶対的な文明、文化、精神風土の違いとの衝突である。みなそれに挑み、そして挫折していく姿を通じて、留学をする日本人の苦悩を描いている。
フランス文学者の苦悩を描いた「爾も、また」という篇が全体の4/5を占め、最も長い。
ヨーロッパという本物の文明にぶつかり、その前に自ら摩耗していく主人公の姿は、厳しい問いを自分につきつけてきた。“本物”を眼前にした人間の小ささを身に染みて実感させられる、読んでいて非常に苦しい小説である。
「ぼくら留学生はすぐに長い世紀に渡るヨーロッパの大河の中に立たされてしまうんだ。……川そのものの本質と日本人の自分とを対決させなければ、この国に来た意味がなくなってしまうと思ったんだ。田中さん。あんたはどうします。河を無視して帰国しますか。」
主人公の田中に対して、言い放たれる言葉である。
かつて丸山真男が「日本の学問はタコつぼ型である」と言ったのを思い出す。西洋にはある「学問の根」を持たず、それぞれ木の枝のように派生していったもののみを輸入してきた日本の学問体系を表現しているのである。
そんな環境にいる日本人が目の当たりにする「河」が、留学生に対して重いプレッシャーを与えるようだ。
そうして主人公は少しずつパリの街に居ながら、路頭に迷い始める。
選ぶということが全てを決定するのではない。人生におけるすべての人間関係と同じように、我々は自分が選んだ者によって苦しまされたり、相手との対立で自分を少しずつ発見していくものだ。
本物を前に、自らの外国文学者という存在のあり方を見つめなおし、そして精神は擦り減っていく様が描写される。
自分はあの中で、おどおどと悦んだり怒ったりするのだろう。しかし、俺に、この消すことのできぬ朱色はあるだろうか。決して亡びることのない朱の一点がほしい。
そして決意に辿り着いたそのとき、田中は喀血をして皮肉にも留学生活に終止符を打たねばならなくなるのである。巨大な河に挑んだ留学生がやっとの思いで文明の本質をちらと見た瞬間、体がその重さに耐えきれなくなる。なんとも救われない話だ。
留学生が挑み、挫折するその重たい壁を、三人の異なる時代の「留学生」たちを通じて描き切ったまさに力作だと思う。

今回は沢木耕太郎の「壇」。
「火中の宅」を執筆して世を去った作家・壇一雄の妻が語り手となる形式で、「作家の妻」として生きた時代を描き出したものとなっている。
解説には「四人称」による表現という画期的な試みについて述べられていたが、確かにこの本の特殊なところは徹底して壇ヨソ子視点から綴られているという点だろう。妻目線から見た夫、というのはなかなか新鮮だった。それが「作家」となると、なおのことだろう。
愛人を作り、さらにその関係を小説によって克明に描いた壇に、妻はどのような感情を抱き、そして看取ることをしたのか。愛の痛み、と紹介文にあったが、まさに痛みを乗り越えた語り手の胸中に、心を動かされた。
あなたにとって私とは何だったのか。私にとってあなたはすべてであったけれど。だが、それも、答えは必要としない。
普通の目から見れば多少歪にも映る、そんな愛の物語である。
今回は沢木耕太郎の「血の味」。同氏の初の書き下ろし作品である。
中学三年の冬、私は人を殺した。
という冒頭から、するすると物語に入りこませ、そしてあっという間に読み終わってしまう、巧みな作品だった。
普通の少年の迷走する感情が殺意に変わり、そしてそれが行き着いた先は…というドラマティックな展開である。
まだ2作しか読んでいないが、つくづく文章の上手い人だなと感じる。
ここから先はネタバレあり。
あとがきには「テロルの決算」にある筆者の後記と「血の味」をリンクさせて捉えている読み方をしていたので、それにしたがって解釈しなおしたい。
作者、沢木耕太郎の大きな特徴の一つが「最高の瞬間への渇望」である。(テロルの決算では、山口二矢の最高の瞬間である刺殺以降の人生を宿命的に存在しえないもののように否定している。)
では、その「最高の瞬間」は本書の中でどう作用しているだろうか。
まず、夢中になった陸上の走り幅跳びで、主人公は最高の瞬間を知り、それ以後跳べなくなったという事実がある。
主人公は「最高の瞬間」を経験したがゆえに跳ぶことが怖くなったのであり、そしてその反面、「最高の瞬間」を求める激しい感情を内に抱かせることになるのであると解釈する。
その感情の行き場が殺意であったと解釈するのが妥当ではないか。その意思は主人公の理性を超え、そして暴走する。
なぜ殺意であると言い切れるか。それは殺し損ねた男に再び会ったとき、抵抗の意思を見せなかった男を殺さなかったところにある。彼にとってはその状況での殺人は「最高の瞬間」ではなかったからだ。
そして彷徨う狂気はついに終着点を見つける。それがかつて「最高の瞬間」(もしくはそれに準ずるもの、ところ)にいた父親であった。
結局父親のくすぶりを息子は清算し、そして息子はそれを受け継ぐようにくすぶりながら生きる。
死ぬ間際の父親に抱かれた少年は、ついに「最高の瞬間」に巡り合うことはできないと悟ったのであろうか。
そうして物語は幕を閉じるのである。
もちろんほかにも多くの登場人物がいた。ただ、それぞれに言及してはきりがないし、読みたい本はまだまだある。
このあたりで評論家ごっこに終止符を打ちたい。
今回は三島由紀夫の「仮面の告白」。
同氏の初の書き下ろし長編であり、文学的出発点である。戦後文学の代表作とも言われるものだ。
青年が普通に持っているはずの異性に対する様々な欲望を抱けぬ作者の自画像的な主人公を綴り、それを通じて「内なる魔物」との闘いを描いている。
全て主人公一人の内面の中で起こっている葛藤を、克明に浮き彫りにさせることで読者を圧倒する作品である。
欲望をもって愛することを欲すること、欲望をもつということを欲すること、普通の人には推し量ることしかできぬそうした感情を生々しく読み取ることができた。
ところどころに散りばめられた三島由紀夫の哲学も、重々しい文章にあってさらに深みを感じさせた。読む歳によって受ける印象が全然違う本というのは、こういう本を指すのだろう。機会があればまた読みたいと思わせる一冊だった。
今回は大学のパソコンで更新してみる。
読んだ本は三島由紀夫の「永すぎた春」。
三島由紀夫といえばこれまで「金閣寺」しか読んだことがなかったので、三島文学と聞くとかなり難解なイメージを持っていた。しかし、あらすじに興味を持って借りたこの作品は自分の先入観を差し引いても非常に読みやすく、面白かった。
あらすじを紹介。法学部の大学生である郁雄と、大学前の古本屋の娘百子は婚約を果たすが、結婚の条件として一年三ヶ月後に控えた郁雄の卒業まで待つことが強いられて…という話。
解説にもあるように、一般には周囲の反対が強いことで、また、周囲の目をさえぎろうとすることで愛というものは燃え上がるものであると言われる。対してこの小説は「周囲がその愛を理解し、さらには祝福してくれると、敵を失った情熱は、愛そのものを倦怠させてしまう」(解説)という状況で揺れ動く婚約者同士の愛情をつづったものであった。「永すぎた婚約期間中の二人の危機」をスリリングに描いている。
最初は互いの愛を確かめ、値踏みするような行動に出てはすれ違うような脆い関係から、周囲の人間との思いがけぬトラブル等を乗り越えて二人の関係や精神は着実に成長していく。そして読者は何度も冷や汗をかきながら、物語の行く末を見守るのである。
手元にある幸福に気づかない、満足できない二人の主人公が物語を経てどう変わっていくのか。推理小説やサスペンスなどでは全然ないのに、そのような緊迫感を味わえかつ、暖かい気持ちで主人公たちの幸せを見守ることができる作品だった。
図書館で三島由紀夫の最初の書き下ろし長編である「仮面の告白」を借りてみた。
これから少し、敬遠気味だった三島由紀夫の作品群を巡っていきたい。
今回読んだのはドストエフスキーの「永遠の夫」。
タイトルだけ見れば涙を誘う純文学のように思われるだろうが、そんなことはない。
この作品で描かれるのは「永遠に夫であり続けた男」ではなく、「妻が次々に愛人を替えていくのに、永遠に“夫”という地位にしがみつくしか能がなかった男」である。この主題の置き方が、ドストエフスキーらしくて自分の好みだ。
物語は主人公であるヴェリチャーニノフと、うだつのあがらない「永遠の夫」、トルソーツキーを中心に展開していく。ヴェリチャーニノフは亡きトルソーツキーの妻の愛人であった、という三角関係だ。
お互いの腹を探り合いながらの会話は緊迫感が読者にも伝わって、どんどん物語にのめりこんでしまう。自分を夢中にさせてくれる、非常に面白い小説だった。
ドストエフスキーの作品に出てくるロシア人は、概して台詞が長くて考えすぎている、というのは自分の先輩のことばだが、そんな彼の著作の雰囲気が好きな人はきっとのめりこむことが出来るだろう。
代表作と比べると少し圧される気もあるが、表紙の裏に書いてある通り、名編であることには変わりないと言えよう。

「侍」は、支倉常長をモデルとした侍がお役目達成の為に世界を旅し、そこで交錯する様々な人間を通じてキリスト教と人生の意味を問いただした作品である。遠藤周作の代表作の一つに数えられる。
侍は政治の渦に知らぬ間に巻き込まれ、宣教師べラスコとともに東日本における布教の自由の認可と引きかえに貿易の利益の享受を認めてもらうための親書を抱き、広大な世界へ足を踏み入れさせられることとなる。道中では、目的達成の為に侍はキリシタンになることを迫られ、仕方なく形式だけの洗礼を受ける。しかし旅の目的は故国の鎖国政策によって頓挫し、結局日本に帰った侍はキリシタンとして処刑を受ける。
遠藤周作の作品の大きな主題である「信仰(キリスト教)と人間」に肉薄した長編であると言えるだろう。作品の中ではキリスト教と人間の業の中で苦しみ、葛藤する人々が多く登場した。それらを宣教師べラスコ、そして侍の二人の主人公との交差を通じて描きだし、西洋人東洋人を問わず、信仰を抱く普遍的な意義について挑戦している作品であった。
純粋に読み物としても面白い作品だった。ただ、以下の内容箇所に見られるような遠藤周作の考えるキリスト教の存在の構図について、真面目に考えてみるのも面白いだろう。
侍は自分が見たのは、あまたの土地、あまたの国、あまたの町ではなく、結局は人間のどうにもならぬ宿業だと思った。そしてその人間の宿業の上にあのやせこけた醜い男が手足を釘づけにされて首を垂れていた。
日本、メキシコ、スペイン、ローマと多くの国をわたってきた侍は、結局どこの国でも醜い人間の争いが起こることを身に染みて経験した。端的にはそれが“政”である。
それまでキリストに対してはある種反感に近い、不思議な感情を抱いていた侍。しかし7年に及ぶ長旅を経て日本に戻り、その苦労が政の渦で単なる徒労に終わったことを知り、最終的には「キリスト教徒として」処刑されることとなる。以下にその悲劇を用意することとなった“政”に対する台詞を引用する。
「世界は広うございました。しかし、私には、もう人間が信じられのうなりました。」
侍と共に旅をした西九助の言葉である。
人はいつも嘘にまみれ、駆け引きや争いに巻き込まれて生きる。冒頭と最後に象徴的に出てきた、宣教師のべラスコの「いずれ誰一人お前の信仰を笑わなくなる日が来る」という言葉もまた、嘘であった。
加えて人間は最終的には一人きりである。それをもっとも極端に示したのが主人公である侍の人生だろう。
人生に宿命的につきまとう悲しさを背負った存在として、「侍」の多くの登場人物はキリストを仰いでいるのである。
「泣く者はおのれと共に泣く人を探します。歎く者はおのれの歎きに耳を傾けてくれる人を探します。世界がいかに変わろうとも、泣く者、歎く者は、いつもあの方を求めます。」
元修道士のこの言葉に、作者の考えるキリスト教の本質が見える。
…彼の言うことは間違っていなかった。侍は自分が訪れたすべての土地、すべての村、すべての家で、両手を拡げ、首垂れているあの痩せた醜い男の像を見た。
こうした文章を読むことで、なぜ世界の多くの人々がキリスト教に救いを求めるのか、自分も分かるような気がしてくる。
自分はキリスト教の信者ではないが、この小説はキリスト教を信じるとはどういうことなのか、特にそれは洋の東西を問わず普遍的にどのような価値を持つのかを深い感動と共に教えてくれたものだった。
そういう意味では視野が一気に広がったと言えるかもしれない。宗教と人生、無宗教をかたる多くの日本人が無感覚な領域に対して、小説を足掛かりに踏み込むのも面白いだろう。
