カトリックの洗礼を受けている遠藤周作の作品は、神(とりわけキリスト教)という主題から見た日本人の姿が描かれていることが多い。この「白い人」と「黄色い人」の二つの作品は、遠藤周作の初期作品である。
「白い人」では拷問をする主人公と拷問される神学生という二人の西洋人を中心に展開させ、神を憎むか、神のために生きるかのどちらかの道しか歩めずにいるキリスト教世界の人々の生き様を浮き彫りにしている。
二つ目の「黄色い人」では、常に徒労感を抱き続けた結果自ら動くことをやめた日本人青年を、時に西洋人の破戒僧の目を通じて描写することで、日本人の持つ「神に対して無感覚でいられることの一種の倖せ」という特性を描いている。神に対して無感覚であるからこそ、罪を重ねることに対しても無感覚でいられる、という発想は遠藤周作の後作にあたる『海と毒薬』に繋がるものである。
彼等日本人は神なしにすべてをすまされるのだ。教会も罪の苦しみも、救済の願望も、私たち白人が人間の条件と考えた悉くに無関心、無感覚に、あいまいなままで生きられるのだった。これはどうしたことなのだ。これはどうしたことなのだ。(「黄色い人」)
日本人にとって神とはなんなのか。そして神に無感覚な日本人とは、いったいどういう存在なのか。
もちろんこれは日本人のすべての特徴を説明するわけではない。もしかすると、合理的な説明というのは一切できないかもしれない。
しかし一神教の信者から見た日本人の姿、そして作品の中で動き続ける日本人の心、相対立するような構造を持つ二つの対象をともに描写しきった点に、遠藤周作の小説の面白さが潜んでいるのではないか。
けれども金色の粗毛のはえたその甲は、たしかに白人の手であり、神を信ずるか、憎むか、どちらかを選ばねばならぬ種族の掌だった。私は黄色い種族にはなれずこの肌の色だけは変えることはできなかった。
神をめぐる立場において、作品の中で距離は近くてもどこか捻じれた位置に立たされてしまう人々。その微妙な機微を、登場人物の思考に寄り添いながら味わっていくのもまた面白い。
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続いて遠藤周作の「海と毒薬」。
遠藤周作は、父に勧められた「沈黙」を昔読んだきりだった。
「日本人とはいかなる生き物か」
そんな主題に基づいて書かれたとされる作品。ここでは外国人捕虜の生体解剖事件という事件を通じて、それを解き明かそうとしている。
あらすじを書いても仕方ないので感想を。
倫理に関わる、自分の好きなジャンルの小説なのであっという間に読み終えていた。
この本で強烈に印象に残るのは、決して解剖シーンなどの凄惨な部分ではない。
ごく普通の人がこうも簡単に「事件」に関わってしまうのか、という部分である。
権威主義とか、責任をとらない構造だとか、そう言う日本人精神の分析はこれまで数多行われてきた。しかし、この本はもっと素朴に、私たち「一般人」も簡単に小説の中のような悲惨な「悪」に足を突っ込んでしまうということを伝える。
先に「悪について」という新書を紹介したことがある。
その中では「悪」をする人としない人の明確な区別とは存在しないし、そもそも不法行為を行っていない人でさえも、「正義」と違うような行為をとらなければ生きていくことはできないということが主張された。
人間が道徳的であるためには、自分が常に「悪」へ踏み込む危険性があることを自覚し、さらにことあるごとに「仕方がなかった」などと言い訳をせずに「道徳にかなわぬ行為を行った」という事実を直視し、悩み続ける必要がある、という内容もあった。
この「海と毒薬」の中で描かれた人々も、どこにでもいる普通の日本人だった。それがこのような凄惨な事件、行為に走らせた構造は非常に複雑である。
「海と毒薬」を通じてタブーとなりかけた解剖事件を直視し、後世まで「悩み続ける種」を投げかける作品を描いた遠藤周作。こうした態度こそが、真に「道徳的な態度」と呼べるのだろう。
今回は「後期ドストエフスキーの作品を読み解くカギ」と呼ばれる「地下室の手記」。
社会主義や科学などの根底を流れる理性を人間の持つ至上の特徴と位置付ける世の中に対して、人間の非合理性及び理性に対する懐疑を20年あまり地下室で過ごしてきた主人公の手記という形式で綴った物語である。
序盤に以下のような一節がある。
誓って言うが、諸君、あまりに意識しすぎるのは、病気である。正真正銘の完全な病気である。
この物語の主人公は不幸にして「あまりに意識しすぎる」性質の人間だったらしい。
そうした「意識のしすぎる」「頭でものを考えすぎる」主人公が、自分の頭脳の中で肥大化した思考に振り回され、結果として自らを不幸の道へ突き進ませる姿を通して、果たして人間が持つ理性とは何者であるのか、社会一般でいわれるほど手放しで称えられるべきものなのかを突き詰めている。
内容は、こう言ってはなんだが主人公に共感できる部分が多かった。
もちろん自分は実生活に支障が出るほどではない(はず)だが、ひねくれていると言われることの多い自分にとって、自らの神経をすり減らしていると知りつつも思考の泥沼から抜け出せずにいる主人公の姿は非常に生々しく映った。
小説の中には、時として自分の「利益」に反する行動をとる人間の性質をこう解いている。
人間のしてきたことといえば、ただひとつ、人間がたえず自分に向って、自分は人間であって、たんなるピンではないぞ、と証明しつづけてきたことに尽きるようにも思えるからだ。
もし1000人中999人が「こちらの方が得だ、楽だ、利益が出る」という決断をしたとき、僕は果たして同じく「合理的な思考」に基づいて同じ判断を導き出すだろうか、というのは永遠の疑問だ。
そこには「自分は特別な存在でありたい」という思考と、「実利はこっちだ」という判断のせめぎあいとなるだろう。その結果、もしかすると普通の人では考えられぬ結論に至るかもしれない。
これは良いとも言わないし悪いとも言わない。しかし、万人が万人とも「理性」によって「合理的に」動くようになったとすれば、それはもしかすると「人類の敗北」かもしれないのではないか。
今回は岩波新書の「渋沢栄一」。
一通り読んだものの、読み物としての面白さを特に感じるには至らなかった。
渋沢栄一が近代日本の、とりわけ「民間」の力を活性化させる仕組みの礎を築いた点についてはよく理解できた。
てっとり早く、確かな教養を知ることができるのは新書の強みでもあるし、同時に弱みでもある。
時間に余裕のある大学生としての自分が読む本では無かったかな、という印象が残る。もちろん、渋沢栄一について知りたい、もしくはなにかしらでまとめたい、という人は読むといいだろう。データや引用を中心に多角的に分析していると感じる。

今回は沢木耕太郎の「テロルの決算」。
沢木耕太郎は父から勧められた作家だった。文章が大変巧いとのことで、分厚い本をもらったものの、まず作風が好みに合うか知りたかったので文庫でこの本を買い、読んでみることにした。
読んでみたところ、まさに圧巻、という感じを覚えた。
とにかく文章がうまい。ノンフィクションの作品として、すべて客観的事実を並べたものになっている。筆者の意見に直接触れることはないが、その客観的事実がそれを私たちに伝える。ジャーナリストが目指す「もっとも説得力のある文章」の書き方だ。
そして構成もまたうまい。特にラストシーンでの若い男(筆者だろう)と医師の会話で、作品の主人公の一人である山口二矢の内面に最後にぐっと迫ることになるのだが、非常に印象的な締めくくり方である。
また、浅沼稲次郎と山口二矢の人生の対比、そしてその二人が交錯するまでの運命のいたずらをここまで克明に描く、その取材力も尋常ではない。
自分がこれまで読んできた小説の中で、最も面白いと思った作品の一つになったと思う。
あらすじは以下の通り。
ひたすら歩むことでようやく辿り着いた晴れの舞台で、61歳の野党政治家は、生き急ぎ死に急ぎ閃光のように駆け抜けた17歳のテロリストと、激しく交錯する。社会党委員長の浅沼稲次郎と右翼の少年山口二矢。1960年、政治の季節に邂逅する二人のその一瞬を描くノンフィクションの金字塔。
さて、自分の感じたことを少し述べて、今回は終わりにしたい。
あらすじにもあるように、17歳の青年山口二矢と61歳の浅沼稲次郎は対照的ともいえる二人である。その二人が、交錯することで起こった浅沼稲次郎刺殺事件。この小説の醍醐味は、この対照的、正反対な二人が小説の中で全く別々の人生を辿りながら、途中から一気に距離が近づいていくところにある。
思想も、生き様も、全く正反対の人間。普通なら一生顔を合わせることがなかった二人の主人公が、一瞬にしてぶつかり、そして片方は刺殺され、片方は鑑別所で自ら命を断つ。その様子を一つの作品の中に収めたのがこの本である。
あとがきには以下のようにある。
五年前であったら、これは山口二矢だけの、透明なガラス細工のような物語になっていただろう。少なくとも、浅沼稲次郎の、低いくぐもった声が私に届くことはなかったに違いない。そして、これが五年後であったなら、二矢の声はついに私に聴き取りがたいものになっていたかもしれないのだ。五年前でも五年後でもない今、『テロルの決算』は山口二矢と浅沼稲次郎の物語として、どうにか完成した。
一点に向かって錐のように行動に走っていった青年山口二矢と、人間機関車と呼ばれるほどに活動的に運動を展開する一方で政治の文脈の中で利用され、すり減らされた浅沼稲次郎。この二人を同時に描くのは至難の業であると言えよう。
また、この作品の特異なところは山口二矢が黒幕のいない自立したテロリストであり、その精神性の高さを証明することで同時に、刺された側の浅沼稲次郎の栄光をも証明しようとしたところであろう。それについてはラストで象徴的な場面がある。客観的事実を積み重ねただけであるのに、これほど壮大な物語を紡ぎだすのは大変なことである。
もちろん、テロ、人殺しについては議論されるべき余地はあるだろうが、この本はあくまで客観的事実のみを綴ったものだ。どちらが正しく、どちらが悪いといったことは一切表現されていない。
それでもこの、事実が生んだ事実の物語は、読者に何かを迫ってくる。そこに、人間社会が織りなす運命の面白さ、それを記録する小説の面白さの基があるのだろう。


今回は「ジャーナリズムの可能性」。著者は「ジャーナリズムの思想」と同じである。
ジャーナリズムの思想はジャーナリストの倫理が時に世間一般のそれと衝突することがある、ということを述べていた。この本ではより積極的に、権力の監視や戦争を防ぐために、ジャーナリズムは何ができるかに焦点を当てている。
この人の本は読みやすいと感じる。一つ一つの話題に対して実例を挙げ、それぞれ理論的な解説を試みる。ジャーナリズムが本来あるべき姿、そしてそこから乖離してしまっている現状を徹底的に突き詰めて考えている著者の「ジャーナリズムに対するプロフェッショナリズム」を感じることが出来る。
引用しつつ、内容を振り返りたい。
大連立工作は、日本の政治の貧困と、プロフェッショナルな職業意識が未確立である日本のジャーナリズムの歪んだ姿を反映している。p14
筆者はこの本を執筆するきっかけの一つとして、渡邉恒雄氏の大連立工作を挙げている。オブザーバーであるジャーナリストとしての在り方に関わる重大な問題だと指摘している。
この前渡邉恒雄氏の著作を読んだが、彼には日本に対する理想というものが確固として存在している(少なくとも筋の通ったものはある)ように思える。だがしかし、それで権力に取り入ってしまうようではジャーナリストとしての魂を売ったも同然、と考えるのもわかる。
ジャーナリストが政治に介入すべきか否かについて、少なくとも本書は断固反対の立場である。
ジャーナリストにありがちな冷笑主義では、理屈にならない発言で人を欺き、非理の政策・法案を強引に押し通す小泉首相のような権力者に対抗し得ない。p33
イラク戦争における自衛隊派遣の答弁で、小泉首相の目くらましを徹底的に追求できなかったメディアの責任についてである。
「ジャーナリストにありがちな冷笑主義」というフレーズが印象的。
取材アクセスが難しくなるばかりの軍事問題、安全保障関連情報に、どう肉薄して「知る権利」を実現させるか、新聞も放送も旧来の惰性を払拭する必要に迫られている。p55
ジャーナリズムの弱い分野というのはどうしても存在する。それは軍事に限ったことではない。
それをどう克服するのか。「旧来の惰性を払拭」することが出来るだろうか。そして、どうやって。
これまでジャーナリズムは裁判を神聖視する傾向が強く、監視しようという批判的な姿勢が弱すぎた。
…裁判員時代を迎えても、冤罪の疑いを持ったら、事実に基づく問題提起の報道をジャーナリズムはためらってはならない。
ジャーナリズムと裁判にまつわる話。裁判員制度ではメディアによる偏向報道に対する規制がより強まると予想されるが(裁判員への影響を考えて)、それを恐れてはならないという主張。
「法律上は自由だが実際は不自由」という、この深刻なギャップが埋まらない限り、表現の自由は確立できない。(中略)しかも法的な規制は目に見えやすいが、社会的・政治的な圧力はそれと気づかれないうちに醸成される。p79
ジャーナリズムに対する規制は多くこうした形式をとる。
「編集の自由」はジャーナリズム側の弁解用に常用される。それは、トラブルを避ける経営上の安全運転の自由に過ぎない。p81
これは朝日新聞とNHKが喧嘩した番組編集と政治圧力にまつわる事件について。「編集の自由」に潜む論理を喝破している。
いつの時代も公序良俗違反の摘発が、表現規制のさきがけになってきた歴史を忘れることはできない。p102
ジャーナリズムは権力とどこまで戦えるか、という文脈。
世論を無視してジャーナリズムは成り立たない。世論に迎合していてはジャーナリズムになり得ない。(中略)しかも、ジャーナリズムが独善的な指導者意識を捨て去り、生活者の目線で社会を一体化すればするほど、世論に同化してしまう。p120
世論とジャーナリズムの皮肉な関係が浮かび上がる。
光親子殺害事件では、被害者遺族の死刑を求める強い声にマスコミの大勢が同調し、判決も世論に逆らえなかったのでは、と感じた。この傾向が進めば裁判は、西部劇のような大衆的リンチに逆戻りしてしまいかねない。
光親子殺害事件は今もなお報道の在り方を問い直す材料となっている。
「国民と共に立ち上がるのは危険だ」という事実こそ、ジャーナリズムにとって最大の歴史的教訓ではなかったのか、そう思えてならない。p136
朝日新聞が戦後発表した宣言に対するもの。
戦争にジャーナリズムは毅然と対峙できるのだろうか。多くの場合、それは国民との対立ともなる。
日本のジャーナリストは平和憲法下という世界的に見て特別な環境にいたから、大勢としてこの程度の戦争批判を保持し得たのではないか。とすれば憲法状況が変われば、どこまで戦争批判の姿勢を持ち続けられるだろうか。p150
平和憲法を抜きにして日本の戦争に対するジャーナリズムを語ることはできないという。
国籍のあるジャーナリズムが、自国中心のエスノセントリズムに陥るのは、今なお世界共通の問題である。p151
戦争とジャーナリズムの究極のところは、ジャーナリスト個人の覚悟に求められる。
ペンを取るか生活を取るかは、ジャーナリズムとしての覚悟の問題に帰する。p166
民主主義は多数決の原理で運営される。これに対して表現の自由は、「たった一人の異端の自由を保障するもの」であり、多数決原理と衝突する。p172
そのためには、ジャーナリズムは「いい子」であることを求められていない。
権力を監視する番犬として、鋭い牙をもたねばならないとする。
よりよい社会を目指す、という理念がないものをジャーナリズムとは呼ばない。p194
筆者の強い決意が伝わってくる文章であった。
この理念が悪い方に表出すると、渡邉恒雄のようになる、と言いたいのであろうか。
ジャーナリズムでもなんでも、「道を究めようとする」人の姿勢や文章は洗練され、迷いがなく、それでいて心に衝撃を与えてくれる。
単にジャーナリズムの可能性に触れるだけでない。
この本を読むことで、普段「覚悟」の二文字を我々がどれだけ胸に刻んで生きているのか、それを問い返さずにはいられなくなる。


論語に続いて読んだのが、この大学・中庸。岩波文庫では二つの経典を一冊にまとめてある。
一般に、四書の学習の仕方は論語よりもまず先に大学を読むらしい。そういう意味では読む順番を間違えてしまったかなと思う。
大学・中庸は論語よりもそれぞれの主題に即した話が書かれていた。簡単に言えば、論語よりも一貫した印象であった。したがって経典の主張するところもわかりやすかったように思える。
ちなみに大学の主眼は「天下国家の政治もその根本は一身の修養である」ということ、所謂「修身斉家治国平天下」である。一方で中庸の主眼は「人間の本性とは何か、そして『誠』の哲学」についてだった。
大学
大学の道は、明徳を明らかにするに在り、民を親しましむるに在り、至善に止まるに在り。
――大学で学問の総仕上げとして学ぶべきことは、輝かしい徳を身につけてそれを(世界に向けてさらに)輝かせることであり、(そうした実践を通して)民衆が親しみ睦みあうようにすることであり、こうしていつも最高善の境地に踏み止まることである。
小人閑居して不善を為す。
――つまらない凡人は、一人で人目につかぬところにいると、悪事をはたらく。
朱子の「大学章句」からの引用。
君子は一人でいるときこそ、善い所を見せようとする。
中庸
天の命ずるをこれ性という。性に率うをこれ道という。
――天が、その命令として(万物のそれぞれに)割り付けて与えたものが、それぞれの本性である。その本性のあるがままに従っていくのが、(人として当然踏み行うべき)道である。
この辺はアリストテレスの善の観念に似ていると感じる。
それぞれの持つもちまえを発揮させることが、共同体の善なんだと。
己を正しくして人に求めざれば、則ち怨みなし。
――ただ自分自身を正しくして、他人に求めることをしなければ、心に怨みを持つこともない。
君子は自分の境涯に即した行動をとる、という文脈で。
本当にこうあるのならば、それはそれで寂しいものだと思うのは僕だけなのか。
人一たびしてこれを能くすれば、己はこれを百たびす。人十たびしてこれを能くすれば、己はこれを千たびす。果たして此の道を能くすれば、愚なりと雖も必ず明らかに、柔なりとも雖も必ず強からん。
――他人が一の力でできるとしたら、自分はそれに百倍の力をそそぎ、他人が十の力でできるとしたら、自分は千の力を出す。もしほんとうにそうしたやり方が出来たなら、たとい愚かなものでも必ず賢明になり、たとい軟弱なものでもかならずしっかりした強者になるであろう。
誠を実現するためには、努力して本当の善を選び出す必要があると。
その努力とは、上に書いてあるようなものなのだろう。これが出来れば、確かに相当な人間になれだろうが、持続することのなんと大変なことか。
詩に云う、「潜みて伏するも、亦孔だこれ昭かなり」と。故に君子は内に省みて疚しからず、志に悪むことなし。君子の及ぶべからざる所の者は、其れ唯だ人の見ざる所か。
――『詩経』には、「深くもぐって隠れていても、やはりきっとあらわれる」とうたわれている。だから、君子は(外を飾るよりも内心を修め)内に省みてやましい所を持たず、心に恥じることもない。凡人には及びもつかない君子の長所は、ほかでもない、他人にはうかがえないところ、その深い内心の境地にこそあるであろう。
君子は行動を起こすまでもなく人から尊敬され、言葉を出すまでもなく人から信用される、と続く。
自ら省みてやましい所を持たない、というのは大変だろうが、それを目指して生きてみるのも面白いだろう。
さて次回は孟子、と言いたいところだが、少し疲れたので違う系統の新書を読もうかと思う(というかもう読んでいる)。
原寿雄の「ジャーナリズムの可能性」だ。
「ジャーナリズムの思想」に次ぐ著作。
おそらく今日中には読み終わると思われる。
では。


今回読んだのは大学図書館から借りた「論語」。借りた本自体も非常に古い。16年前までに遡れる貸出履歴のスタンプが、歴史を感じさせる。
古代中国の大古典である四書(論語、中庸、大学、孟子)のなかの一つである。
本の表紙にある通り、人間として守るべき、行うべきことを簡潔に書かれている一冊である。
この精神は2000年以上の時を経て今日まで、中国はもちろん日本でも生活の一つの規範として脈々と受け継がれている。
論語はあまり体系化されていない。
孔子の弟子が多く出て来て、人物評や受け答えなど様々な形式の小話が連なっている。
もちろん今回読んですべてを理解できるわけではないと思うが、断片的と思われる数々の話を読んでいくうちに、やがてパズルのピースの集合体のように孔子の思想の輪郭を見せてくる。徐々に全体像を表す思想背景を感じながら、読み進めていくのが面白い。
気に入ったフレーズ等を引用していく。
ちなみにtwitterのniksa1020bというアカウントでこうしたフレーズは流すようにしている。気になったらぜひ。
子の曰わく、人の己を知らざることを患えず、人を知らざることを患う。
――先生が言われた、「人が自分を知ってくれないことを気にかけないで、人を知らないことを気に掛けることだ」。
人に知られたいという欲望は自分はひときわ強いので、気を付けたい。
子の曰わく、学んで思わざれば則ち罔し。思うて学ばざれば則ち危うし。
――先生が言われた、「学んでも考えなければ、ものごとははっきりしない。考えても学ばなければ、独断に陥って危険である」。
学問を志す者が肝に銘じるべき言葉。
義を見てせざるは、勇なきなり。
――行うべきことを前にしながら行わないのは、臆病者である。
これは有名。
仁者は仁を安んじ、知者は仁を利とす。
――仁の人は仁に落ち着いているし、智の人は仁を利用する。(深浅の差はあるが、どちらも守りどころがあって動かない。)
子の曰わく、朝に道を聞きては、夕べに死すとも可なり。
――先生が言われた、「朝(正しい真実の)道が聞けたら、その晩に死んでもよろしいね。」
これも有名。
君子の天下に於けるや、適も無く、莫も無し。義にこれ与に比しむ。
――君子が天下のことに対するには、逆らうこともなければ、愛着することもない。主観を去って、ただ正義に親しんでいく。
古者、言をこれ出ださざるは、躬の逮ばざるを恥じてなり。
――昔の人が言葉を軽々しく口にしなかったのは、実践がそれに追いつけないことを恥じたからだ。
人の生くる直し。これを罔いて生くるは、幸いにして免るるなり。
――人が生きているのはまっすぐだからだ。それをゆがめて生きているのは、まぐれで助かっているだけだ。
まっすぐ生きていきたいものだ。
三軍も帥を奪うべきなり。匹夫も志を奪うべからざるなり。
――大群でも、その総大将を奪い取ることはできるが、一人の男でも、その志しを奪い取ることはできない。
人間への賛美に聞こえる。
(政治とは)近き者喜び遠きもの来たる。
――近くの人々は悦び、遠くの人々はそれを聞いてやってくるように。
過ちて改めざる、是れを過ちという。
――過ちをしても改めない、これを本当の過ちというのだ。
シンプルだが実にわかりやすい言葉。
君子に三変あり。これを望めば厳然たり、これに即(つ)けば温なり、其の言を聴けば激し。
――君子に三種の変化がある。離れて見るとおごそかで、そばによるとおだやかで、そのことばを聞くと厳しい。自分はどうだろうか。
さて、次回は大学・中庸。
とりあえず四書を集中して読んでみたいと思う。

66.マンキュー入門経済学 (グレゴリー・マンキュー)
夏休みに経済学をやろうと思い立ち、それで手をつけたのがこの本だった。
入門経済学なのでマクロとミクロの両方の基礎的な部分について、わかりやすく記述がなされていた。
ノートを取りながら読んでいたので、少し時間がかかったが、こうして自分の知っている領域を拓いていくのはつくづく面白い。
経済学系の新書や新聞の経済面の理解の程度も段違いになった。
余裕があれば、マクロ・ミクロもいつか読んでみたいと思う。

今回は中公新書の「〈戦争責任〉とは何か」。
と言ってもテーマは日本の戦争責任に関して、というわけでもない。
おもに「戦争責任をきちんと清算した」、と評価を受けられる傾向のあるドイツについて議論をしている。
日本とドイツ、戦争責任の取り方の何がちがったのか。
そんな素朴な疑問から始まるこの本は、次第にドイツが戦争に対して向き合う姿勢の裏に隠されたカラクリを暴いていくことになる。
本は3つの構成からなる。
DEトリック
ABCトリック
ABCDEトリック(上記二つの集大成)
その内容をここで話してしまうと、
DEトリックとは、ナチス時代のドイツには一部の【悪いドイツ人】と一般の【善いドイツ人】がいたという分類がされているということ。
国防軍と親衛隊などのナチ機構を分断して考えて、悪いこと(虐殺などの戦争犯罪)はすべてナチスがやった、善いドイツ人は知らなかった、関与していない、とするもの。
「ドイツの名においてナチスがやったこと」
「ナチスの犯罪」
などという言説がよく見られる。ドイツ人は意識・無意識的にナチスと自分たちのドイツを異質なものと考える傾向がある。戦争の責任については、ドイツ一般国民がやったことも全てナチスと一緒に清算してしまった。
日本との戦後処理の違いに注目すると、ナチスドイツはヒトラー中心のナチスをすっぱり処分してしまった(ヒトラーは自殺)。対して日本の天皇は、歴史的に代々現人神として人々の尊敬を集めてきた家系である。戦後間接統治に
利用した、日本人の反感を恐れたなど、様々な要因があったが、結局第二次世界大戦の精神的な核となった存在は、ドイツでは消滅し、日本では残り続けた。
ABCトリックとは、戦争責任のC(人道に対する罪)に対する注目が大きすぎるため、戦後40年ほど経つまで、AおよびB(侵略行為における戦争犯罪)にあたる行為を直視してこなかった、というもの。
ホロコーストは史上類を見ない規模での人道に反する行為である。
しかし、ドイツ人は戦争とホロコーストを同一視しがちである。
日本の抱えるような従軍慰安婦や虐殺の事実などはドイツも同じく抱えているのに、ドイツの社会はそれと向き合えないでいる。現に「国防軍の犯罪展」がドイツで設置されようとしたときに、大きな波紋を呼んだ。
最後のABCDEトリックでは、ヴァイツゼッカーの演説に潜むこれらのトリックを解明している。
歴史的に名高い演説だが、それは同時にドイツ人の責任をある種決定的に見えづらくするものでもあった。
また、「生きるための嘘」という概念も最後に考慮に入れられている。ドイツ人たちははじめ、Cの犯罪(ホロコースト)と向き合った。その際、同時にABの犯罪と向き合うには罪が重すぎたのだ、と。確かにそうだろう。
戦後70年近くが経とうとしている。
戦争に対する歴史的な認識も、こうした様々な要因によって変わっていくのだろう。戦争に近かった世代にはあまりに重すぎて取りこぼした事実も、将来世代の人々なら掬って目をそむけずに見つめることが出来るかもしれない。
それは日本も同じである。ドイツと同じようなトリックがどこに隠れていても不思議ではない。
戦争の歴史を見るとき、肝に銘じる必要があるだろう。


今回から、ですます調をやめようかなと思います。面倒なので(笑)
今回読んだのは岩波新書の「反骨のジャーナリスト」。
2002年に刊行されたもので、図書館から借りたものであるが、本が浮き彫りにしようとしたジャーナリストの精神、そして現在のジャーナリズムに対する警鐘は、10年経った今でも、いや今でこそ、より切迫したものとして読み取られる。
権力や時代の風潮にペンで挑み続けた10人のジャーナリストを列伝のような形式で紹介していくこの本。紹介されたのは以下の人々である。
陸羯南
横山源之助
平塚らいてう
大杉榮
宮武外骨
桐生悠々
尾崎秀実
鈴木東民
むのたけじ
斎藤茂男
どの人物も、襲いかかる不遇に屈することなく、ペンで時代を切り開いていった。
まえがきに書いてあるように、時代に迎合せず、いかに生きるべきか、その勇気を先人に学ぶことのできる本になっているだろう。
「独立不羈」の四文字に現れるこれらジャーナリストの精神の根底を流れる潮流。
きっ、と時代と権力を睨み付け、弱者や道理を守り、身を焼くようにして送られた彼らの生涯に、その厳しさに、人間の精神性の尊さ(それは「夜と霧」の中で目の当たりにしたものと同じ種類のものである)を、歴史と民主主義を守護しようとする覚悟を感じることが出来た。感銘を受ける、とはまさにこのことかと思う。
一人一人の紹介はそこまで長くなく、読みやすい。ジャーナリストを志す人がいるのなら、お勧めしたい。
以下に印象的な部分を引用。
いずれもジャーナリストとして生きるという決意に支えられた、厳しい精神性を発露させている点に注目されたい。
独立的記者は党派の代りに道理をその主人と為し、時ありてか輿論を代表せずして寧ろ之をかい誘(教え導くこと)するの職分を有す。(陸羯南)
私共は我がうちなる潜める天才の為めに我を犠牲にせねばならぬ。所謂無我にならねばならぬ。無我とは自己拡大の極致である。(平塚らいてう)
言いたいことを、出放題に言っていれば、愉快に相違ない。だが、言わねばならないことを言うのは、愉快ではなくて、苦痛である。(桐生悠々)
大きく眼を開いてこの時代を見よ……これこそわたしにたいする最大の供養である。(尾崎秀実)
民主主義を招来するために、戦争に反対し、起訴され、職を奪われ、強制疎開させられ、餓死一歩手前まで追いつめられたぼくの一生は、弱者の一生だった。現在の社会では正義を守ろうとする者は強者にはなれない。(鈴木東民)
わが身をペンで刺しつらぬいていない文章は、なにが書かれていようと、どのように書かれていようと、ヒマつぶし以外には役に立たない。(むのたけじ)
ひとの話に耳をすませて、書くことによって、自分の知識と感性がゆたかにさせられる。そのエネルギーに依拠して、民主主義をひろげ、人権を拡大し、戦争をふせぐ力をつくりだす。(著者)


こんにちは。
今回は夏目漱石の夢十夜・草枕の二作が入った本を読み終えました。
やはり昔の作品でも、読んでみると面白いですね。
描写が非常に豊かで、語注を見ながら読むだけで勉強にもなります。
語彙が増えるということはそれだけ世界を表現する手段が多くなるということですし、もっと言えば理性で認識できる世界が広がるわけですから、文豪と呼ばれた人の本を読むだけで、自己を啓蒙できるかと思います。
さて、では二つの作品を読んでの感想をつらつら述べていきたいと思います。
まずは、夢十夜。
これは僕の知り合いでも好きな人が多かったです。
基本的には「こんな夢を見た。」から始まる短いシーンが10つづられています。
シーンとシーンは特に脈絡があるわけではありません。
解説には
「詩情豊かな想像の世界」
「小説における映像主義」
などという言葉が躍っているのですが、まさにそうした感じです。
漱石の美しい空想世界に触れ、それと同時に短いシーンに込められた発想の奥行きに思いを馳せる。
思索を巡らさせるという点では、非常に読者が主体的になれる作品かなと思いました。
僕は本を読むにはある程度のスピードの意識は必要だと思っています。一週間もかけて一冊を読むのは、結局「木を見て森を見ず」の結果に陥りがちです。ひどいときには木もまともに見られません。ある程度の高い集中力を持って本を読む、その証左、バロメーターとして本を読むスピードというものがあると思います。
しかし、この夢十夜はそうではないです。
4ページ前後で一つのシーンが終わる構成です。この作品に限っては、話の流れや自分の理解を気にすることなく、思う存分作品に浸るといいと思います。
百年待つ話(第一夜)は個人的に好きですね。きれいだなぁと活字を通して感じさせられました。あと、運慶の話も「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」のあたりが、しゃれっ気があって気に入りました。
さて、続いては草枕。
こちらは温泉場に旅をする画家の話ですが、漱石の芸術的観念(あるいは文学に対する意識)が存分に語られていて、ストーリーだけでなく非常に興味深い作品でした。
非人情に美しさを求め、そして絵には表さなくとも心意気だけは芸術に対する悟りを得るような画家の姿を通じて、漱石の考える美しさとは何かというその輪郭を掴めた気がします。
汽車での別れの時、那美さんの顔に憐れが宿ったところで物語が終わるのが、やはり上手だなぁと感じました。
ちょっと好きな部分を抜き出して終わりにしようと思います。
冒頭の部分は有名ですよね。
山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画ができる。
二行目を知ってる人は多いと思うのですが、個人的にはそんな中での三行目こそが、芸術とはどういうものかを論じる起点となっていて、重要だと思います。
続いて、憐れの論です。
しかし人間を離れないで人間以上の永久という感じを出すのは容易なことではない。(中略)色々に考えた末、しまいにようやくこれだと気が付いた。多くある情緒のうちで、憐れという字のあるのを忘れていた。憐れは神の知らぬ情で、しかも神にもっとも近き人間の情である。
また、もう一つ、「そうか」と思ったところがあります。
芸術としての文学の論です。
芥川龍之介が「筋のない小説」の意義を晩年に強調したと前回言いました。
wikipediaからの引用ですが、
「物語の面白さ」を主張する谷崎に対して、「物語の面白さ」が小説の質を決めないと反論し、戦後の物語批判的な文壇のメインストリームを予想する文学史上有名な論争を繰り広げる。この中で芥川は、「話らしい話の無い」純粋な小説の名手として志賀直哉を称揚した。
だそうです。
そもそも芥川は漱石の門人の一人であり、漱石自身も夢十夜などで映像主義的な美しさを追求する作品を残しています。
草枕には、その根底となるような箇所がありました。
「勉強じゃありません。ただ机の上へ、こう開けて、開いた所をいい加減に読んでるんです」
「それで面白いんですか」
「それで面白いんです」
(中略)
「画工だから、小説なんか初めからしまいまで読む必要はないんです。けれども、どこを読んでも面白いのです。あなたと話をするのも面白い。(中略)なんならあなたに惚れ込んでもいい。そうなるとなお面白い。しかしいくら惚れてもあなたと夫婦になる必要はないんです。惚れて夫婦になる必要があるうちは、小説を初めからしまいまで読む必要があるんです」
「すると不人情な惚れ方をするのが画工なんですか」
「不人情じゃありません。非人情な惚れ方をするんです。小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいいんです。こうして御籤を引くように、ぱっと開けて、開いたところを、漫然と読んでるのが面白いんです」
まぁここで読んでも何が何だか、という感じだと思いますが、非人情については作中でなんども言及されて、すこしずつ輪郭が見えてくるようになると思います。
文学史上の論争の一端に触れられた、そういう点でも、非常に面白い読書ができたなというのが今回の感想です。
