こんにちは。
今回はBOOK・OFFで105円で出会った本、「河童・或阿呆の一生」を紹介します。
これは芥川晩年の作品集です。
本の裏表紙にはこうあります。
芥川最晩年の諸作は死を覚悟し、予感しつつ書かれた病的な精神の風景画であり、芸術的完成への欲求と人を戦慄させる鬼気が漲っている。
入っている六篇は以下の通り。
大導寺信輔の半生
玄鶴山房
蜃気楼
河童
或阿呆の一生
歯車
或阿呆の一生と歯車は、芥川の死後発表されたそうです。
全体の感想ですが、とにかく鬼気が漲りすぎだろ、という。
読んでいて全体的な雰囲気というかなんというか、隅から隅まで張りつめたような、ふさぎこんだような感じに陥ります。いや、文学ってすごいなの一言で片づけてもいいんですけど。
作品を読んでいた時の閉塞感という点では、ドストエフスキー読んでいた時のような感覚でした。
生きた時代、環境、そして筆者自身の性質で文章の雰囲気はこうも重苦しいものになるのか、と思わされますね。
いや、単に、ものすごい古本だったから、ページが日に焼けてたり、旧字体の漢字が多かったという要因もあったとは思いますが。
個人的には、どれも味わうには難易度が高いと思ったのですが、強いて言うならば解説の中で「晩年の作品の中で最も本格的な構成を持っている」と評された「玄鶴山房」は何回か読み解いていくとおもしろそうだなぁと思いました。
「歯車」
「或阿呆の一生」
ははっきり言って心象風景の鋭さと場面の展開に圧倒されるばかりでした。
(解説には、「晩年の彼は[筋のない小説]の意義を強調したおもむきがある」とありました。)
この二篇を読んでみて、芥川の言わんとするところ、表現せんとするところが掴めた方は、僕よりも読解力が勝っている、ということでいいのでしょうか。
芥川は「羅生門」「蜘蛛の糸」などで、比較的読みやすいイメージを勝手に持っていたんですけどね。
文学作品を鑑賞したければ、もっといろんな本を読み込まなきゃだめですね。
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こんにちは。
今回は「成熟社会の経済学」という本を読みました。
経済学ですが、今年の夏休みに「経済学をやろう!」と思い立って、ジュンク堂で「マンキュー入門経済学」なる本を買い、ノートを取りながらつらつらと勉強しました。
するとやっぱり新聞の経済面も、こうした経済学が絡む本も、理解が全然違うのです。
やはり勉強はするもんだなぁと思いました。大学の講義にはあまり行かないんですけど、自分でこうやって世界を切り開いていく感じがとても楽しいなと。
さて、余談はさておき。
成熟社会の経済学、もちろん成熟社会とは現代日本のことをさすのですが、この社会では既存の経済学では考えていなかった事態が起こっています。
著者は、これまでの経済学の原則の中に、以下の二つがあったといいます。
①そもそも人々の欲望は究極的にはお金に向かわず、物やサービスだけに向かう。
②物やサービスを生産し供給すれば、その供給価値が購買力(需要)となる。
現代ではこれが崩れたため、今政府が行っている政策がなかなか効果を示さないのだ、と言っています。
発展途上の段階では、既存の経済学で十分いいと言います。
つまり、「足りないもの」が明確に分かっているから、生産性・効率性の追求をしていくだけで成長を遂げられると。
しかし、成熟社会では生産性は非常に高く、それゆえに労働力は削減され、失業が増える一方です。
それで物をたくさん作っても、人々は物を買わない時代に突入しているため、売れないという事態が続いています。
この本は、そんな既存の経済学では答えの出せない「成熟社会」が抱える長期不況をいかに脱するべきか、を説いた本です。
端的にいえば、それは需要を創出することです。
外需ではありません。内需です。
しかも、いわゆる「モード」のようなものではありません。
金もうけのための需要ではなく、自分たちの生活を豊かにするための需要を作っていくことです。
以下に引用をいくつか貼っておきます。
本そのものは非常に論理的に進められています。最後の章ではきちんと国際化の進む経済のなかで、内需を重視する根拠を述べています。
ここですべてを紹介するのは無理なので、興味があったら読んでください。
経済学のある程度の素養があれば、非常におもしろい本だと思います。
自分は、勉強した内容を応用するとこういう発想に至るのか、という点がいくつかあり、驚かされました。
もっと生活を楽しむにはどうすべきか、そういう方向で頭を働かせれば、余った労働力や生産力が活用されて無駄が減る。これこそが成熟社会に生きる人びとにとって必要な知恵なのです。
これらをぜいたくだ、不要不急だと言っているのは、生活を楽しく豊かにしようという知的興味が萎えている証拠です。
長期不況は人びとのお金への執着が衰えないために起こります。
円高なら、外国製品も海外旅行も安くなりますから、どんどん使って楽しむことができます。それなのに、自分では使わず人にあげるのも嫌だと言ってお金を握りしめ、円高と失業を生んでいる。それでも足らずに、もっとお金を稼ごうとがんばる。これが日本の円高不況の姿です。
日本人は、これまで一生懸命がんばって、遊びを控えて、物やサービスをもっと効率的に作ろうという努力ばかりしてきた。成熟社会では、それがかえってあだになる。遊び心こそが重要なのです。


こんにちは。
今回は岩田靖夫氏の「いま哲学とはなにか」という本を読みました。
図書館で見た感じ、これまでの哲学の流れを大雑把にさらっている印象だったので借りたものです。
主に出てきた哲学者は
ソクラテス
プラトン
アリストテレス
スピノザ
デカルト
ハイデガー
レヴィナス
ロールズ
この辺ですかね。
哲学というのはその時代の主流だった考え方を背景として知っていないと、その人の思想の何が革新的ですごいのかを理解できないので、こういう古典から順序立てて話していく感じはよかったと思います。
もちろん、これは教科書ではないのですが。
本の各章はこうなっています。
序章
哲学のはじめ
1章
人はいかに生きるべきか
2章
人はいかなる共同体をつくるべきか
3章
究極根拠への問い
4章
他者という謎
終章
差別と戦争と復讐のかなたへ
たまに話が(新書の割に)深くなると、ついていけない箇所がありましたが、基本的にわかりやすかった(ほう)だと思います。
個人的にはデカルトの「コギトー・エルゴ―・スム(われ思う、ゆえにわれあり)」の発想についての理解が深まったので良かったと思います。
あと、終章では世界大での格差について、「さもしい人」と同じような発想をしていたのが印象的でした。
まぁ配分の正義についてはロールズの原則が主流というか常識になっちゃっている気がするので、当然と言えば当然なんですけどね。
ただまぁ最後の方は少しユートピア的かなぁと思ってしまいました。(著者も認めていましたが。)
多少現実的な問題があるとしても、最後の「ソクラテスの信条」の部分は面白かったので引用します。
丸腰で生きる。これが世界平和への道である。(中略)誰かが始めなければ、どこからも始まらない。誰かが始めてくれることを待っていても、決して始まらない。すなわち、自分自身が丸腰になって生きることから始めなければ、すべては始まらない。
しかしこれは危険なことではないか。(中略)
だから、身を守らない、と覚悟を決める。そのような生き方を示して、人類の導きの星となったのがソクラテスである。ソクラテスは不正な裁判で死刑の宣告を受け、仲間の努力によって脱獄できたにもかかわらず、「不正に不正を報いてはならぬ」と言って、刑死した。(中略)すなわち、かれは、加害行為を根絶するために、一切の復習を放棄したのである。
(中略)
自分を守るために、他者を殺さない。復讐しない。不正を加えられても、不正を返さない。どのようなときでも、どのような他者にも、善意を贈りつづける。それは、他者に対して限りない畏敬の念を持つ、ということである。(中略)そこを目指して努力するのでなければ、どのような工夫をこらしても、それは、戦争の可能性の危うい隠蔽にすぎない。
さて、「悪について」という本では人間生きている限り絶えず不正を犯すのだから、それを顧みなければならないという主張がありました。そんな「正義」と「日常の必要悪」の間で悩み続ける人間こそが、道徳的な人だと。
どうでしょうか。
今の引用を読んで、「だってしょうがないじゃないか」と思った方はいますか?
そうです、仕方ないのです。
でも、正義は上の引用に疑いようのない形で掲げられています。多くの命を救うためだろうがなんだろうが、武力を持つことは戦争の可能性の隠蔽なのです。確かにそうでしょう。正義は現実に、われわれの理性に対して、これを告発しています。
武器を持つなというのではないのです。
ただ、私たちは悩まなければならないのです。
正義と、必要悪に挟まれる自分の境涯を、生き続ける限り。
それが正義に対する真摯な態度であるし、私たちが善き人になる最初の一歩だと思います。

目の前にコップがあり、そこに水が半分入っている。人は、「このコップには半分も水が入っている」と考えることも、「このコップには半分しか水が入っていない」と考えることもできるという。人をとりまく環境はいかようにも考えられる、ということを示す有名な小話だ。
「夜と霧」の舞台は、人類史で最も過酷な環境の一つであるに違いないだろう。被収容者たちは悪夢よりも悲惨と思われる現実によって精神的・肉体的に打ちのめされ、将校の指の動きひとつで生死が決されるほどに軽んじられた。
彼らは、幸せの在り処や生きる意味すら霞むような霧の中で、明けるかどうかも分からない収容所生活の闇に怯えながら、ひたすら解放と言う名の朝を待ち続けた。まさに「夜と霧」のなかである。そんな生活を続けていくうち、多くは苦痛と保身のために人間性を忘れたという。
ところが、そうした環境にあってなお精神の自由を表明し、毅然とした姿勢を貫くひとにぎりの人間を見て、著者であるフランクルは「人間の内面は外的な運命より強靭なのだ」という確信を抱いた。
人間の身上には、自分の意志ではどうしようもない運命が降りかかってくる。しかし、それは人間が無力であることを必ずしも意味しない。運命はコップと水を用意することはできても、それを目にした人の思考や行動までは縛れない。精神の自由とは、悲惨な現実にあってもなお人間の尊厳を守る最後の砦だった。
収容所の夜が明け、霧が晴れてから約70年。運命は依然として巨大な力で人間を弄び続ける。日本では自殺が3万件を超え、これは交通事故死の6.5倍の件数であるという。多くの人がそれぞれの運命に振り回され、疲弊し、自らが持っているはずの尊厳まで見失ってしまっているようだ。
「夜と霧」は、運命にどんな苦境を強いられていても、人間は敗北していないと言う。生存率5パーセントと目された環境でも、尊厳を持って苦しみ続けた人がいたという事実が、運命に翻弄されながら生きる人を力強く支える。目の前にあるコップ半分の水という現実に打ちひしがれて手も足も出ないときでさえ、人は「まだ半分も水がある」と言う自由と力を持つのだと。
こんにちは。
今回は2004年と少し古い(?)新書ですが、「アメリカ外交とは何か」を紹介したいと思います。
ブッシュ政権以来より一層盛んにアメリカの普遍主義外交が批判されるようになりましたが、現代のアメリカ外交はなぜこのような経路をたどってしまったのかをアメリカ外交史を検証することで解明しています。
面白かったのは、アメリカが普遍主義を打ち出したのはモンロー宣言の時までさかのぼることが出来るという点でした。
アメリカ普遍主義が急速に注目を集めたのは最近(と言っても僕が生まれたのが20年前なのですが)のブッシュ政権以降という印象があるかと思いますが、実は最初からだった、というわけです。
ブッシュ政権以来さらに注目(批判)されたのは、その普遍主義が単独主義化したためでしょう。
一つの世界を目指したウィルソンの演説を明らかに意識しながら、ブッシュは演説を行っています。しかしウィルソンはアメリカ単独主義ではなく(むしろ国際連盟をめぐってアメリカで孤立)、一方でブッシュは国際法に反するような戦争を開始しました。この違いに注目すれば、ブッシュ政権で語られた普遍主義は単独主義の方便であるという主張も理解できるでしょう。
さて、アメリカが普遍主義、すなわち自由と民主主義を掲げる必要があったのはモンロー宣言の時以来です。
これは当時の世界情勢下で、アメリカがどのようにアイデンティティを獲得していくかという文脈で一層理解されるでしょう。
当時のヨーロッパはまだ絶対主義が残る地域でした。(ウィーン条約での正統主義に顕著)
そんなヨーロッパに対して、アメリカは「自由と民主主義、共和政」であるというところにアイデンティティを求めざるを得なかったのです。
つまり、アメリカが普遍主義を打ち出して世界と対峙するのは、なにもアメリカが好き好んで選んだ道というよりは、歴史的な背景に裏打ちされたある種の伝統であると。
この部分は非常に興味深かったです。
アメリカ外交史というか、アメリカ史をおさらいするように読みました。
図書館で新書を借りるのはお金がかからなくていいですね。線は引けませんけど。
ではまた。

今度は野村克也の書いた「野村ノート」という本です。
野球だけでなく、組織として、トップとして求められるものを多く書いています。
名将と呼ばれる野球の監督は、野球の考え方だけでなく人の指導の仕方も非常に優れています、こうした点は参考になると思います。
監督は「気づかせ屋」でなくてはならない、の章では
監督の役目というとすぐにチームづくりとなるが、チームをつくるにはまずひとりひとりの選手をつくらなくてはならない。そういった意味では、監督の最初の仕事とは人づくりである
とあります。
監督業というのは、こうやって人をつくり、何かを気づかせ、そしてそれが組織に反映されるのを待つしかない。成長が無ければ、やはり人間の根本の部分に欠点があるわけだから、もう一度人間教育を繰り返す。結局この繰り返しでしかない。
野村氏の言う監督業とは何か、いかにいくつかメモ代わりに引用を挙げておきます。
指揮官、リーダーについて
①リーダーいかんによって組織全体はどうにでも変わる。
②リーダーはその職場の気流にならなくてはならない。
(自分が率いる人間を巻き込むことができるかどうか。ひとりひとりに仕事の意義を感じさせ、興奮させる。)
③リーダーの職務とは、「壊す・創る・守る」。
(旧価値の破壊・新価値の創造・既存事業の維持)
宮本の打順について
(当初は8番だった)
しかしただ8番を打たせているだけでは育たない。そこで彼には「いずれおまえは2番を打つ。そのために勉強しろ」とうるさくいった。(中略)こうした二番打者としての役目を意識させて打席に臨ませた。
監督と選手の要求とは常に相反するものである。
たとえば監督の要求とは、
①自主性をもってほしい(これがなくなるとチームは必ず滅びる)。
②何のための試合なのか、その目的、目標を明確に持ってほしい。
③監督が何をしてほしがっているか知ってほしい。
④野球が仕事なのか、それとも勝つことが仕事なのか、自覚してほしい(もちろん後者が正解である)。
⑤ファンが何を要求し、何に感動するのか考えてもらいたい。
一方、選手側の要求とは、
①自分の能力を評価してほしい。
②自分に何をきたしているか教えてほしい。
③結果がだめだったとき、その過程を知ってほしい。
④ライバルに比べて自分の評価が低いのはなぜか教えてほしい。
⑤自分がいった意見に対し、よいか悪いか、悪いのであれば、何がどう不十分なのか教えてほしい。

こんにちは。
今回は新潮新書の新刊、「さもしい人間」を紹介します。
著者の伊藤恭彦氏は現代政治哲学を専攻している人です。丁度今ブームとなっているマイケル・サンデル氏の「正義論」の分野ともかぶっています。
非常にユーモアに富んだ人だと思います。読みやすいので、興味があったら読まれることをお勧めします。
さて、現代の人間は「さもしい」という点からこの本の考察は出発します。
世界中で一握りの人間がほとんどの豊かさを享受していると言われる現代。
わたしたちは世界の裏側で過酷な環境破壊や飢餓などが起こっていると知りながらも、なにもなすことが出来ないまま、自分の生活を守るために仕方なく自己利益の追求に追われています。
安い品物を買う一方で、その背景にある貧困地域で起こる搾取の背景を微かに感じ、どこかモヤモヤした感情を抱いている。普段からこんな事を考える人は結構いるのではないでしょうか。もしくは、時折こうした事実を見せつけられるたびに、普段の自分の生活を振り返り、(自分に非があるわけではないと思いつつも)自責の念を抱いてしまうという人もいるでしょう。
この本では、なぜ私たちはこうした「さもしさ」を感じなければならないのか、そしてそれを消すにはどうすればよいか、という考察が綴られています。
私たちが抱く「さもしさ」の感情の原点を、本の中では以下のように分析しています。
自己責任を伴う自由な行動が本当に価値あるものとして認められるためには、不運に対処する社会条件がなくてはならない。この条件がないから、かりに本人の努力によって勝ち取った「分」であっても「さもしい」ように見えてしまうのだ。「さもしさ」を考えるとは、他者と一緒に生きる社会の基本条件を考えることである。
つまり、私たちの自己利益の追求は「正義にかなったルールの下で戦っています」と胸を張って言える状態で行われてはじめて「さもしくない」ものとなるのです。
「正義」については、以下のような記述があります。
正義に関連した切実な課題は、自由な選択とは言えない「運」の作用によって、ある人がきわめて厳しい状況に置かれている場合、それをどこまで是正するのかにある。
私たちがアフリカの飢餓に気を使う、うしろめたさを感じる理由は、私たちがたまたま「運」によって日本に生まれたためです。
つまり、私たちはアフリカに生まれていれば飢餓に苦しんでいたかもしれない、その潜在的可能性にNOと言えないところに鍵は隠されています。
これは、今日の生活保障などの問題にも発展します。
たまたま重病を患って会社をクビになった(市場経済から脱落)人に向かって、「お前の運が悪いんだ」「運も含めて自己責任だ」ということが出来ますか?
明日は我が身、という言葉がありますが、何が起こるかわからない市場ゲームでのセーフティネット、これは社会の正義のために必要なのです。
市場競争とスポーツ等の競争の違いが本の中で挙げられています。
1.市場社会での競争は参加してもいいし、参加しなくてもいい競争ではない。
2.市場での敗者の敗北の程度は決まっていない。
失敗してしまった人々にいかにチャンスを与えるか、そこが上の引用にある「社会の基本条件」であります。
不慮の災害に苦しむ人々、世界的な不況のあおりで仕事を失った人々、病に苦しむ人々、親が貧しくて進学をあきらめる若者、無縁状態の中で生きる展望を失ったお年寄り……。これらの人々すべてを、個人の力で助けることはできない。だが、苦しむ人々の涙をいやす制度をつくることはできる。そんな制度づくりに背を向けたら、私たちは本当に「さもしい」人間に成り下がってしまう。
そして著者はグローバル化の進む時代に合っての「正義」の地球大での発展についてこう考えています。
お互いに「さもしい」と言って非難しあうのではなく「公平な状態」に向けお互いの公憤をすり合わせる努力が必要だろう。
私たちはみな、程度の差はあれ「不正義が起こっている」現実に憤りを感じる能力を持っています。(本の中では「理性の事実」というカント哲学の概念が引用されていました。)
こうした憤りを互いに集結し、社会の制度設計への努力を、一国内ではもちろん、国境を越えてなすべきだと主張しています。
私たちは「正義」についての話を続けなくてはならない。そして、それをお話に終わらせるのではなく、地球社会の不幸を緩和したり、除去したりする仕組み(制度)づくりに向かわなくてはならない。その意味で正義の話は、とても政治的な話なのである。

こんにちは。
今回は「13歳は二度あるか」という本を読んだので記事を書きます。
作者の吉本隆明氏は1924年生まれの思想家で、今年の3月、亡くなられました。
有名な作家である、よしもとばなな氏の父親である人です。
僕は今年で20歳なのですが、なんで「13歳は二度あるか」なんていう本を買ったのかといいますと。
自己啓発です。
なんとなく夏休みの生活が怠惰な感じがしたので、多少やさしくても今という時間の大切さを思い出させてくれるような本を求めたためです。
この本は中学生向けに書かれた本ですが、やさしすぎる、というほどでもないので気になったらタイトルで敬遠することなく買ってみてもいいと思います。
でも、内容は社会と個人についての自覚が芽生え始める中学生くらいの人が読むべきだと思いました。
もちろん残念ながら、書かれているようなことを理解できないような人は、現代の高校生・大学生にもいると思いますが。
社会の成り立ちや個人の位置づけなど、いろいろな面から切り取っています。
知り合いに中学生がいたら(もしくはそれくらいの精神年齢の人がいたら)、ぜひ勧めてみましょう。

こんにちは。
今日は父に勧められて読んだ「反ポピュリズム論」を読み終えたので、記事を書きたいと思います。
僕の渡邉恒雄氏に関する知識としては、「ネベツネ」などと呼ばれている政界・経済界のドンであるという以上のものはあまりなく、まぁバッサリ言ってしまえばあまりいい印象は持ってないです(笑)
ただ、具体的にこの人の著作を読むのは初めてなので、そういうイメージからはいったん離れなければいけません。
読んでみた印象は、やはり著者である渡邉恒雄氏はなんだかんだと言われながらも相当な言論人なんだな、と感じさせられました。
文章は読みやすく、そしてなにより学問的な裏打ちに富んでおり、面白いです。
「政治はなぜ衰弱したか」、そして今後の歩むべき道とは。
政治が浮足立っているいま、著者の論考は目を通しておく価値があるのではないでしょうか。
著者は政治の衰退の原因の答えを大衆迎合、つまりポピュリズムに求めています。
現代日本は衆愚の時代であるとして警鐘を鳴らされ続けています。
さて、大衆迎合の起点を著者は小泉政権に求めています。
ワンフレーズ・ポリティクスを駆使した政治活動が、同政権以後加速度的に用いられるようになっていくとしています。
(また、小泉政権のもう一つの失敗は新自由主義的改革であるとしています。
デフレ克服より「改革」を優先させたがために、日本経済は報われることのない痛みを背負うことになったと主張しています)
そしてその大衆迎合の流れに乗っかったのが民主党政権、具体的には鳩山・菅政権であると言っています。
「コンクリートから人へ」「民主革命」「政治主導」といった実態の伴わないフレーズばかりを盛んに喧伝し、さらには自分たちには政治運営の実力がないにもかかわらず官僚バッシングの風潮を作り上げてしまったと。
そして著者はこの流れの中でまさに彗星のごとく現れた一種のヒーローの登場に警戒を促しています。
橋下徹です。
特に、維新の会に注目が集まるタイミングが悪い、と著者は考えているようです。
既成政党の政治に対する不満のはけ口が特定の政治家に求心力を持たせる現象は、ヒトラーの例を見てもわかるとおり、政治的にはきわめて不健全な結果をもたらすことは歴史が証明している。
以上の引用のように、維新の会浮上の経過を見て著者がある種の危機感を募らせていることは明白です。
しかし、著者は大衆迎合は否定しても、政治的な指導力とは区別をしています。
この辺からは、だいぶ理論的な話に入っていきます。
もちろん、政治家は人気がないほうがいいというわけではない。政治的人気には、必要な部分もあるが、同時に危険な部分もある。そういう二面性を十分意識しなけらばならないと言いたいのだ。
橋下氏には期待を寄せている面もあるようです。
政治の領域が肥大化する現在、政治家が行政を運営していくには二つの方針しかないと著者は言います。
1協力的な官僚を集める
2「匿名への情熱」を持つブレーンで周りを固める
橋下氏は明確に反官僚を打ち出している以上、2番の道を選ばざるをえないだろうと著者は言います。
私は橋下氏に対して、(中略)すり寄ってくる政党や勢力の真贋を見極め、政策本位の勢力結集に努めることを心より忠言したい。それがきちんとできれば、おのずと「ハシズム」などといったヒトラーに擬した警戒論は自然消滅するに違いない。二一世紀日本の歴史的リーダーになる可能性もないとは言えない。
また、ポピュリズムの理論的考察では、政治学を学ぶ者として非常に興味深い指摘がされています。
それは、デモクラシーの理論の中で「強いリーダーシップ」は説明されていないという点です。
社会契約論からウェーバーの権力の権威化理論までも、体系的な理論の中でこれは説明ができないとしています。
そこには民主主義的なリーダーシップの理論が欠如しており、実際上はワシントンからチャーチルに至るまで、民主的な英雄的指導者の具体例を見ていながら、それをデモクラシー理論の中に体系づけることができないままでいる
そして著者は大衆迎合と政治的人気を混同したことが、現在の日本の政治を決定的に悪くしたと言っています。
具体的には小選挙区制(派閥の解消による政治家の育成の不足・利益誘導的な政策をしなければ通過できない)と、マニフェスト至上主義(机上の空論)であると。
そしてそこからマスメディアの役割・危険性へと話は進んでいきます。
さて、長くなりましたがこんな感じです。
現代の日本の政治状況を色々な面からみることが出来ます。面白いので興味があったらぜひ読んでみてください。


つづきまして。
「野球のメンタルトレーニング」という本を読みました。
僕は高校野球の選手にアドバイスをする機会に恵まれているので、それに活きないかな、と思って読んだものです。
どの道でも、一流である人というのは共通して強い意志や集中力、メンタルの力を持っているとよく言われています。
もちろん読んだ当初は選手たちに伝えようと思って読んだのですが、意外と野球以外にも当てはまることが多かったです。
まぁあれこれ言っても仕方ないので、ライン引いたところだけメモ代わりに打ち込んで終わりにします。
眠いですし。
【第二章・適切な目標の設定】
人間が目標をコントロールするのであって、目標に振り回されるようになってはならない
優れた選手は一瞬一瞬に到達目標を持っている
消極的な願望というのは、逃げているのと同じである
(本当の勝利者について)彼らが偉大なのは、たとえ失敗してもそれが自分の人格のせいではなく、単に結果が悪かったにすぎないということを知っているのである。
【第三章・さまざまな期待への対処法】
他人のためにプレーするんじゃなくて、自分のためにプレーすればいい
期待があまりに低いと、それなりに自分の枠組みを築いてしまって、それ以上努力したり力を発揮しようとしなくなる
【第四章・目標への没頭】
自分が本当に望んでいることは何なのか
(スーパースターについて)彼らは、野球で成功を収めるために必要なことには全身全霊をこめて没頭できるという点で他を圧倒しているのである
【第五章・野球選手の責任感】
自分の行動はコントロールできるものだと信じている選手は、自分のプレーは努力によって作り上げられたものであることをよく知っており、自らの責任は何としてでも果たそうとする
【第六章・目標に取り組む態度】
自分のプレーや人生にとってマイナスになるような態度をとり続けてはならない
勝利をつかむには、それにふさわしい態度を日頃から作り上げていくのが重要である
【第七章・ゆるぎない自信を身につける方法】
小さくても確実に目標を達成していくことが確かな自信を生む
自分をダメなやつだと感じるのは、あくまで自分なのだ
恐怖心をコントロールする間をもつ必要がある
現実は自分が想像していたよりも悪くない、ということがわからなければならない
(不安や恐怖心があったら)それを頭から否定するのではなく、まずその恐怖心をじっと見つめてみることである
地味な練習が、いわゆる「自信の土台」となる
【第九章・緻密な準備が勝利を制する】
優れた選手は、日頃から野球に対して完璧な準備をする習慣が身についているので、どんな大試合でも同じように準備をし、いつも通りのプレーをすることができる
【第十一章・集中力は成功へのキーワード】
雑念を取り去ることばかりに集中してしまって、肝心なプレーそのものに注意が払えなくなってしまう
グラウンドで自分が本当に何をしなければならないのか
集中すべき対象は具体的
【第十二章・セルフコントロールの技術】
自分のコントロール範囲にあることとそうでないことをよく区別していなければ、せっかくの集中力もあらぬ方向に向けられてしまう
プレッシャーは直面している状況や環境が生み出しているのではなく、自分の心が作り出しているものだ
【第十四章・勝利への戦略】
多くの人はしなければならないことを知っているが、実際にそれを行動に移す人だけが勝者となる

こんにちは。
今回は、大学のゼミの課題図書である「夜と霧」を読みました。
世界で読み継がれる名作といわれていますね。
僕がこの本を知ったのは受験の倫理だと思います。…いや、世界史だったかもしれません。
第二次世界大戦中、ナチス・ドイツ下で断行されたホロコースト。
この本は、そんな中で強制収容所に収容された作者の経験をもとに綴られた作品です。
「言語を絶する感動」と評され、「アンネの日記」に並ぶロングセラーであるとwikipediaに書いてあります。
心理学者であるフランクルが、その科学的な観点も踏まえつつ、収容所の日常と収容者の精神について分析してます。
本は心理学者の筆者の観察に基づき、3段階に分かれています。
まず、施設に収容される段階、つぎに収容所生活の間の段階、最後に収容所から出所する段階。
ブログを更新しておいてなんですが、本の中の様々なエピソード、そして想像を絶する極限状態の描写に、読者である僕は言葉に詰まってしまいます。
悪夢の方がまだましだ、と思ってしまうような過酷な現実が展開された収容所。
そんな中にあってもなお、一握りの人間は精神の自由を失わずにいれました。
様々なエピソードがありましたが、僕はこの部分が一番印象的です。
勇敢で、プライドを保ち、無私の精神を持ち続けたか、あるいは熾烈を極めた保身のための戦いのなかに人間性を忘れ、あの被収容者の心理を地で行く群れの一匹となりはてたか、苦渋に満ちた状況と厳しい運命がもたらした、おのれの真価を発揮する機会を生かしたか、あるいは生かさなかったか。
(中略)
収容所にあっても完全な内なる自由を表明し、苦悩があってこそ可能な真価の実現へと飛躍できたのは、ほんのわずかな人々だけだったかもしれない。けれども、それがたったひとりだったとしても、人間の内面は外的な運命より強靭なのだということを証明してあまりある。
詳しい感想はもう少し読み込んでからにしようと思いますが、人間とは何か、生きるとは何か、ということについて極限状態を体験することで答えの一端を掴んだ作者が残そうとしたものを賢明に読み取ることこそ、我々に求められるのではないかと感じました。
人間とは、人間とはなにかをつねに決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし同時に、ガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ。

こんにちは。
約一か月、何を読んでいたのかというと。
司馬遼太郎の「胡蝶の夢」。
えぇ。
もう長かったですよ。
長かった。
もちろん四冊なので「翔ぶが如く」などに比べたら短いんですけど。
なんというか読むのに難渋した本でした。
あらすじを第一巻の裏表紙より。
黒船来航で沸き立つ幕末。
それまでの漢方医学一辺倒から、にわかに蘭学が求められるようになった時代を背景に、江戸幕府という巨大組織の中で浮上していった奥医師の蘭学者、松本良順。悪魔のような記憶力とひきかえに、生まれついてのはみ出し者として短い一生を閉じるほかなかった彼の弟子、島倉伊之助。
変革の時代に、蘭学という鋭いメスで身分社会の掟を覆していった男たち。
という。
何が難渋したかといいますと、
主人公格の人間が三人ばかりいるんですよ。
良順、伊之助、そして途中から出てくる関寛斎。
他にも蘭学者がたっくさん。
彼らは長崎で蘭学を共に研鑽し、やがて日本中に散らばって活動をするようになります。
「胡蝶の夢」は、そんな蘭学者たちの生き様を描いた本ですから、物語が追いにくく、そして主題がつかみにくくて当然かもしれません。
ただ、苦労して読了後にあとがきを読んだとき、自分の中ですっきり納得できました。
司馬遼太郎にとって、「胡蝶の夢」とはどんな作品なのか。
引用してみます。
『胡蝶の夢』を書くについての筆者のおもわくのひとつは、江戸身分社会というものを一個のいきものとして作者自身が肉眼で見たいということであった。
ここでやっとわかりました。
あぁ、「胡蝶の夢」の主人公は伊之助でも良順でもなく、「身分社会といういきもの」だったのだと。
さらに。
末期には幕府機関の重要な部分が“蘭学化”することによって身分社会は大きくくずれるし、さらに皮肉なことに蘭学を学んだ者が、卑賤の境涯から身分社会において異数の栄達をした。
一つの秩序(身分社会)が崩壊するとき、それを崩壊させる外的な要因が内部にくりこまれ、伝統秩序のなかで白熱するという物理的な現象が、人間の社会にもおこりうつらしいということも、作者は風景として見たかった。
司馬遼太郎の作品の中には、時折、「あとがき」で種明かしをされることがあります。
この「胡蝶の夢」はそのなかの一つだと感じました。
将軍の脈をはかる(じかに触る)という、身分社会の中である特殊な立場にあった“医師”たちがなぜ題材として選ばれたのか。
なぜ単に医師として有能な良順だけでなく、医師としては無能に近かった語学の天才・伊之助を重要な人物として扱ったのか。
すべて「あとがき」を読んですっきりしました。
読むのに一か月かかり、なかなか難しい本でしたが、あとがきまで読み終えると、数学の難しい証明問題を解き終えたような感覚が残ります。
最後に、あとがきに面白い箇所があったので、そこを引用して終わりにします。
人は、その才質や技能というほんのわずかな突起物にひきずられて、思わぬ世間歩きをさせられてしまう。
追記
母の実家である長岡へ昨日行ってきました。
帰りに「河井継之助記念館」を訪ねました。
ガトリング砲のレプリカや司馬遼太郎の直筆の原稿、継之助の手紙等が展示され、さらにボランティアの方が丁寧に解説をしてくださいました。
大変面白かったので、「峠」を読んだ方は是非行かれることをお勧めします。
