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本と6ペンス

The writer should seek his reward in the pleasure of his work. ("The Moon and Sixpence" Somerset Maugham)

51.野球林 (大悟法久志)



こんにちは。お久しぶりです。

いまは司馬遼太郎の「胡蝶の夢」という作品を読んでいるのですが、それと並行して一冊の素晴らしい本に出会ったので紹介します。

大学の教授のツテで手に入れた「野球林」という本です。
教授は僕が高校野球関係者なのを知って、わざわざ郵便で送ってくださいました。

大悟法久志さんは柳ヶ浦、明豊の監督を歴任され、40年もの間高校野球部を指導してきた名監督です。
春夏合わせて甲子園に9回出場しています。


「野球林」は指導者向けの本です。
もちろん現役のプレーヤーが見ても参考になる点は多々あると思います。
テーマはあくまで「野球」ですが、「人を教える、育てる」という点から様々なアドバイスやヒントが詰まっています。

高校野球が好きな人や、野球の指導者(めったにいないと思いますが)は是非読んでみるといいと思います。

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50.現代社会の理論 (見田宗介)

二日続いて。
今回は岩波新書の「現代社会の理論」を読みました。
岩波新書の番号では465番、第一刷が1996年とだいぶ古い本ですね。
でも、中身は現代にも通ずるものがあるいい本だと思います。
「消費社会・情報化社会」に着目しつつ、現代社会の病理についてその解決策を探っています。
まえがきの部分を引用すると、
現代社会の全体理論は、この情報化/消費化社会のシステムの基本的な構造とダイナミズムと、矛盾とその克服の基本的な方向を、一貫した統合的な理論の展開として、太い線で把握するものでなければならないだろう。
とあります。


現代社会の特徴のひとつ、消費社会。
モードやデザイン・広告によって消費のアクセルが踏まれることで、経済的繁栄のアクセルも踏み続けるシステムであると筆者は述べています。
そして、筆者はその消費社会を資本主義が進化した一種の形式としてとらえています。
ここで肝要の点は、資本主義という一つのシステムが、必ずしも軍事需要に依存するということなしに、決定的な恐慌を回避し繁栄を持続する形式を見出したということ…
経済を動かす要素のうち、需要に着目し創出するという点ではケインズ的発想を受け継いだシステムであるともいうことができるのです。

さらに、情報化がその消費社会を補完します。
つまり、デザインというアイデア等は無限に生成できるので、消費社会の内部に無限の領域・伸びしろを創出することに成功したのです。
この美しさと魅力性とをめぐる熾烈な競争が、〈情報化/消費化社会〉の、固有の「楽しさ」「華やかさ」「魅力性」を増殖し展開しつづける

筆者は現代社会、とりわけ情報化/消費化社会は以上のように発展したと考えています。


しかし、そこで二つの問題が浮上しています。
アイデアの無限性と資源の有限性・環境との軋轢
一般的に消費社会とは以下のようにとらえられます。
大量生産 → 大量消費
しかし、筆者はこれを以下のように書き換えます。
大量搾取 → 大量生産 → 大量消費 → 大量廃棄
ここで見えてくるのが、その始点と末端で「有限性」を持つ環境によって限界を定められている消費社会の姿です。

そして、二つ目の問題。
以上のような不都合な足かせを外部化させる現代社会;諸地域に転嫁することによる貧困問題
つまり、消費社会は自らに不都合な両端(大量搾取・大量廃棄)を途上国に転嫁している、という議論です。
世界システム論的な考え方でとらえていいと思います。世界を「中心‐半中心‐周辺」に分けて考えるものです。
それは南北問題(もう死語であると筆者は主張していますが)だけでなく、北の貧困、先進国内での格差にまで広がっていると筆者は考えています。

以上の議論を経て、筆者はこうした現状に対する打開のカギを、「情報化」に求めています。
情報のもつ3つの様相が解決をもたらしてくれる、というのです。
①対外部的な帰結を認識する情報
たとえば、国際機関におけるモニタリングや貧困を取り扱ったジャーナリズム。
②全社会的システムを設計する情報
たとえば、社会的費用という概念の設定。
③資源収奪でない方向にも人間の幸福をもっていき、幸福の無限空間を開く情報
これは本から引用しましょう。
目にみえないもの、みえにくいものに対する視力を獲得することが必要なのだけれども、それはこのように、測定し交換し換算しえないものへの視力、つまり〈かけがえのないもの〉についての視力を含まねばならないだろう。
白日のように経験されているものでありながら名を与えられることのないものの領域に向かって、情報というコンセプト自体が自分を踏み抜いてゆくほかはないだろう。

ここで、筆者は現代社会の新たな展開の可能性について示唆しているのです。


現実的かどうか、というのが議論の俎上に乗るかと思います。
僕はこの本が目指していることは案外達成されるのではないかな、と期待しています。
実際この本の内容という「情報」それ自体が筆者の目指す現代社会の変容への一つのムーブメントであるとも言えるのですから。
また、「脱物質的価値観」という語が存在するように、少しずつではありますが、物質的な、それこそ大量収奪的な繁栄に対して冷静な目を向ける時代や世代が到来しつつあるのかな、と肌で感じている次第です。

最後に、おもしろいなと思った箇所を紹介します。

(貧困について)
貧困は、金銭をもたないことにあるのではない。金銭を必要とする生活の形式の中で、金銭をもたないことにある。

貨幣をはじめから必要としない世界の「貧困」を語るのは、空を飛ぶ鳥も野に咲く百合も収入がないから「貧困」だということと同じくらいに、意味のない尺度である。

(冷戦について)
「冷戦の勝利」ということについて、理論的にも思想的にも、肝要なただ一つの点は、それが軍事力の優位による勝利ではなかったことである。

けれどもこの優位(自由な世界の勝利)は、相対的な優位にすぎない。



最後に、現代社会と現代人について、紹介して終わります。

現代の、情報化/消費化社会という巨大な歴史の実験が、大衆的な規模で実証していることは、人間はどんなものでも欲望することができるし、人間が見出す幸福の形態には限りがないということである。

ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。

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49.峠 上中下 (司馬遼太郎)②


河井継之助というのは確かに尋常ではない人物でした。
しかし、結果として何の功績も残してはいない、というのが普通の見方であると思います。

日本を引っ張るにふさわしいほどの器量の英雄を持ってしまったがために転落した、とも言える長岡藩の運命。
政治というのは結果がものを言う世界です。結果でいえば、継之助は長岡藩を敗走させてしまいます。
難しいのは、だからと言って継之助は時勢を読むことのできない能無し政治家だった、と断言することができないのです。
継之助にとっては「勝てない」ことは重々承知の上での開戦でした。
小説の場面で、幕府が勝つと息巻いていた軍人に対して、継之助は「(幕府が)勝って、どうするのです」という言葉を投げかけて相手を詰まらせています。
当代に活躍した英雄たちと同じく、継之助は現実的かつ開明的な思考をもっていたように描写されているのです。
僕はいつも人の「器」について考えさせられます。僕はこの考え方は嫌いですし、そんなもので人の一生が左右されるなどあってはならないと思うのですが、どうも器量とかそういうものが悪戯を働くことが、歴史にはあるようです。
ここが興味深いところですね。

河井継之助と他の成功者の間に、なんの差異があったのか。
運命論者はその間に運命の線引きを置くでしょう。
他の考え方もあります。
これがあとがきにも書いてある「幕末の武士道」の力です。
つまり、現実主義であった継之助も、武装中立が不可能になった瞬間に「武士道」へと向かっていくことになったという説明です。
「どう行動すれば人は美しいのか」
河井継之助は彼の思考からできる限りのことをして戦い万策尽きた果てに、それまでの現実主義に立脚したものを全て棄て、武士道に死んでいったというのです。

ここで意外なのが司馬遼太郎がこれに対して好ましいような態度をとっていることです。
もともと司馬遼太郎は合理主義的であり、精神主義を否定する側の人であるはずなのですが。これははっきりわかりません。

幕末期に完成した武士という人間像は、日本人がうみだした、多少奇形であるにしてもその結晶のみごとさにおいて人間の芸術品とまでにいえるように思える。

司馬遼太郎がなぜ河井継之助を書こうとしたのか、そのことについてはあとがきの以下の文で分かるかもしれません。

明治後のカッコワルイ日本人が、ときに自分のカッコワルさに自己嫌悪をもつとき、かつての同じ日本人がサムライというものをうみだしたことを思いなおして、かろうじて自信を回復するのもそれであろう。私はこの「峠」において、侍とはなにかということを考えてみたかった。

少なくとも世の中をカッコワルく生きる僕には、この作品は司馬遼太郎からのエールの一つなのではと思っています。


最後に、気に入ったフレーズをいくつかならべて終わりです。


「いっておくが青くささのない人間はだめだ。枯れて物わかりがよくなった人間が幾千万おっても、いまの世はどどうにもならぬ」(河井継之助)

「武士だから、心がけるのだ。大小をさしてから威張りをしているだけでは、武士は時勢の敗北者になる。いずれそうなる」(同)

「おれは、知識という石ころを、心中の炎でもって溶かしているのだ」(同)

人間は、互いに肥料(こやし)であるにすぎぬ。肥料に惚れてしまってはどうにもならぬ。

みなが一つの思想に傾斜している。酔っぱらっている。一緒に酔っぱらえばこれほど楽なことはないが、自分だけが酔わず、醒めつづけているとなれば、これは命がけのことだ。



長々と読んでくださり、ありがとうございました。

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49.峠 上中下 (司馬遼太郎)①

こんにちは。お久しぶりです。

大学のテストなど予定が詰まっていたため、ブログの更新が遅れました。申し訳ありません。
忙しくなっても一日一時間程度は読書の時間を確保しておきたいなぁと思うわけですが。
とりあえず夏休みなので、これからは読む速度もあがるかなと。


今回読んだのは司馬遼太郎の「峠」という作品です。
主人公は幕末の長岡藩士・河井継之助。

皆さんは長岡って聞いてピンときますか?
新潟県の真ん中にある長岡市のことです。花火が有名ですね。
ちなみにこれは余談ですが、僕の母が長岡出身です。

さて、幕末期に日本中を巻き込んだ大動乱の中、小さな藩のなかの一つであった長岡藩。
この長岡藩は河井継之助という一人の天才の出現により、数奇な運命をたどることとなります。
この小説は、継之助と長岡藩の運命をつづったものとなっています。

河井継之助の名は聞いたことがある人はいるでしょうか。
正直な話、僕はこの本で読むまでは名前を聞いたことがある程度で、どこの人で何をした人なのかはさっぱり知りませんでした。
ネタバレが嫌な人は見ない方がいいかもしれませんが、「峠」という作品について、下にwikipediaからの引用を貼っておきます。


『峠』(とうげ)は、司馬遼太郎の長編小説。1966年(昭和41年)11月から1968年(昭和43年)5月まで『毎日新聞』に連載され、連載終了の1968年に新潮社上下巻で初版刊行された。新潮文庫や新装版で多数重版されている。
それまでほとんど無名に近かった幕末から戊辰戦争時の越後長岡藩家老・河井継之助の名を、一躍世間に広めることとなった歴史小説である。近代的合理主義を持ち、時代を見据える先見性と実行性を有しながらも、「藩」や「武士」という束縛から自己を解放するまでには至らず、最後には武士として、長岡藩の家臣として、新政府軍に対抗する道を選んだ英雄の悲劇を描く。


これもまた余談ですが、長岡の人にとって河井継之助の評価は様々なようです。でも、僕の祖父は継之助が好きだったようで、父が「河井継之助の本をもらって読みなさいと勧められた」と言っていました。読まなかったらしいですけど(笑)


この長編は司馬遼太郎が好きな人が読むとツボにはまると思います。
僕はすごく好きな話でした。
当代の優秀な人々をして「これは大変な人物である」と言わしめた継之助は、日本を引っ張っていくべき人材であると目されていました。しかし、彼はその才覚を持ちながらも最後まで長岡藩の独立という夢を追い続けます。懸命に時勢に抗おうとした継之助ですが、それでもぎりぎりのところでその試みが頓挫してしまい…という話です。

上巻では継之助が江戸や各地へ「世界の動き・ものごとの原理」を知るための修行へと進む姿を描いています。
中巻では継之助の意志がいよいよ固まり始め、「長岡藩は激動の世にあって武装独立を図る」という目標のもと、家老に就いて強力に改革を推進していく姿を描いています。
下巻では継之助の夢がかろうじのところで破れてから戦火の渦に長岡藩が巻き込まれ、そこでの彼と藩の奮闘と最期を描いています。

下巻の「小千谷談判」の章ほど涙を誘う章はありません。
長岡藩の武装独立達成に近いだけの国力を養うことに成功した継之助ですが、武装独立にはどうしても西軍(官軍)と東軍(会津藩など)の納得が必要でした。
小千谷談判とは、官軍と継之助の談判です。しかし時勢に乗った官軍は若い大将の器量の狭さもあり継之助の嘆願に耳を貸しませんでした。そこからの継之助と長岡藩が悲惨な運命をたどってしまうのです。
(山県や黒田がそこにいれば、長岡藩は戦争をせずに済んだという説もあります。新政府内でも継之助を帰らせたことは「官軍の大きな失敗であった」という反省がなされていたようです。)

司馬遼太郎もここについてはいくつかの引用を挙げてその悲劇を伝えています。

(筆者が新潟へ赴き、老人に道案内を頼んだ場面で)
「長岡から継之助がやってきたというのも、こういう暑い日だったらしい」
と、老人は突如いった。旅の者が慈眼寺をたずねるというので、おそらくは継之助に関心のある者だろうと私のことを推測したに違いない。(中略)
「西軍はね」
老人は官軍のことをそういう。
「長岡の継之助のいうことをあたまからきかなかった。……長岡の継之助はね」
と、言葉をとぎらせた。つぎになにをいうのかと期待したが、なにもいわなかった。慈眼寺は町のなかにある。もうその山門の前にきていた。老人はその風雨に白寂びた山門を見あげながら、「悲しかっただろうよ」と、さっきの言葉のつづきを言い、そのまま下駄の歯音もたてずに行ってしまった。


(筆者の長岡滞留中の場面で)
夕食をした場所で、踊りの上手な婦人が、継之助についての歌と踊りがありますから私が踊ってあげましょう、といって剣舞のような支度をし、座敷のすみで踊ってくれた。その歌の一説に、
西軍きかず わが願い
無念やるなし、継之助
ということばがあった。踊っている婦人が、そのくだりにくるりと目をみはったまま薄く涙を光らせたのを、私はこの稿を書きつつおもいだしている。継之助の恨みは、この北越の野になお息づいてのこっているのであろう。


司馬遼太郎は継之助の父、代右衛門の口を借りて、こう言っています。
「かわいそうに。あいつの夢がやぶれた」
(中略)
「きわどい夢をみていたのだよ」
「どういう?」(継之助の妻・おすが)
「日本中が京都か江戸かにわかれて戦争をしようというときに、あいつは長岡藩だけはどっちにも属せずに割拠(武装独立)しようと思っていたのだ」
武装独立をした上で、この信濃川沿いの七万四千石の地に継之助の考える理想国家をつくりあげようとしていた。
「きわどい夢というのは、日本中が大火事になっているときに、こんな小藩だけが自分勝手な国を作れるかどうか。そのきわどさに継之助は自分の夢をかけていたのだ」
「官軍の軍監が、ひどい仕打ちをしたそうでございますね」
「軍監がわるいんじゃない」
と、代右衛門はいった。
「あれが、時勢だ。時勢の大波が猛りくるって藩境にせまっているのだ。その猛りが、人間のかたちをとって岩村という軍監の態度になったのだ。岩村の怒号は人間ののどから出たのではない。時勢の咆哮だ。」


なんか引用が多くて申し訳ないです。
でもこの場面は僕が今まで出会った中でも特に心を打たれた場面なので、残さず書かせてもらいます。

もうひとつ。
これは戦が始まってからの場面です。

河原を見おろすと、老人が孫の死体を洗っていた。継之助は河原まで降り、
――これは、爺の孫か
と問い、さらに家の様子をきくと、住む家もうしない、息子とその嫁は行方も知れぬという。
「許してくれ」
と、継之助は言い、言っただけでなく陣笠のひもを解き、笠を草の上において頭をさげた。
「おれが家老になったのは、こういうつもりではなかった」
継之助の本音であっただろう。
(中略)
老人は、その不幸に呆然としているふうであった。
この陣笠の武士が何者であるかも知らず、知ろうともせず、会釈もせず、返事すらせず、川面を見つめていた。継之助が去ったあとも、その姿勢を変えようとはしなかった。
(あれが、民だ)
と、継之助は馬上にもどって思った。あの愚昧さ、あの不幸に対してなすところもない無力さが民というものである。それを守り済(すく)うのが継之助の学んだ学問であり、その学問の真髄を得るがために青春の歳月のすべてをついやして諸国を遍歴した。その意外な結末が、この戦場の風景であった。

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