こんにちは。
今回は「メディアと日本人」という本を読みました。
本の帯には「議論する前にまずはデータを見よう!」と書いてあります。
岩波新書30選の帯なので、たぶんその中に選ばれた本なのでしょう。
たしかに、インターネットが急速に発達した(している)現在、メディア環境について一度落ち着いて、整理して考えることは必要でしょう。
まぁデータを見ようというくらいですから、データを中心に本の議論が進んでいます。
本の構造を見ていきましょう。
1章
日本人はメディアをどう受け入れてきたか
2章
メディアの利用実態はどう変わったか
3章
メディアの「悪影響」を考える
4章
ネット世代のメンタリティー
終章
メディアの未来に向けて
こんな感じです。
1,2章で日本のメディア環境について概観したのち、メディアに関する様々な考え方・とらえ方を3,4章で検討しています。
そして終章でインターネットの伸長を視野に入れつつ「メディアの未来に向けて」という主張を述べています。
色々なデータもあって、考えさせられる面も大きい本だったように思います。
ここで内容をまとめることは難しいので(データをここで列挙してもあまり意味がないですしね)控えます。
読んで損はないと思います。さっきも言いましたが、現在のメディア環境について整理して考えるのは非常に大事です。一度読んでみることをお勧めします。
最後に、一番個人的に印象的な部分があったので挙げておきますね。
これは、本文じゃなくて「あとがき」の部分です。
主張のどの部分よりも印象的だったと思います。
「なお、本書を執筆するにあたって、メディアに関する知識や統計的数値の確認のため、しばしばインターネットを参照した。正直言ってネットの助けがなければ書けなかった。しかし、ネットがなければ、もっと早く書けた。ネットは、ありあまる知識を与えてくれる一方で、惜しみなく時間を奪う。」
「あとがき」の中にある「ぶっちゃけた話」という感じですね。
ただ、その「ぶっちゃけた話」の中に、今のインターネットの伸長についての筆者の考え方が端的にあらわされているだろうと思います。
こういうところも、本の面白さの一つだろうと思います。
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こんにちは。
今回はマックス・ウェーバー―の「職業としての学問」を読みました。
えぇと。
今回は無駄に長い時間をかけてよんでしまったので、あまり内容が頭に入らなかった…
無駄なことをしてしまいましたorz
集中して読む時間が取れなかったように思えます。
いやぁもう、反省反省。
また今度読み直します。
必要以上に何日もかけちゃうと密度が薄くなって駄目ですね。
とりあえず、反省の意と報告の意味を込めて一応記事だけは投稿。
次回はちゃんと集中して読みます。
うん。
では…

こんにちは。
今回は「悪について」というなんとも難しそうなタイトルの新書の紹介です。
本の内容は表紙の内側に書いてある概要からひっぱってみましょう。
残虐な事件が起こるたび、その〈悪〉をめぐる評論が喧しい。
しかし、〈悪〉を指弾する人々自身は、〈悪〉とはまったく無縁なのだろうか。そもそも人間にとって〈悪〉とはなんなのか。人間の欲望をとことん見据え、この問題に取り組んだのがカントだった。本書では、さまざまな文学作品や宗教書の事例を引きつつ、カント倫理学を〈悪〉の側面から読み解く。
はい。
本の内容は上にもあるように、カントの哲学を中心に展開してきます。
非常に厳格であるというイメージのカント哲学ですが、もし興味があるのなら原本を読む前にこの本を読んだ方がいいかもしれません。
うちの哲学の先生曰く、(本にもよるものの)やっぱり読解は難しい箇所が多いようです。
さてさて、ではこの本ではカント哲学を中心に、「悪について」の考察を深めていっています。
ここから先は内容の復習です。
重要だと、興味深いと思ったフレーズをいくつか引用しつつ、適当に展開を追っていきたいと思います。
ただし、初めに言っておきますが、これからの内容は本の内容の断片のかき集めですので、この記事だけを読むと飛躍している点が多いと思います。
この記事を読んで内容が分かることはまずない、ということだけ確認しておきます。
最後まで読んでみて、よく分からない、でも興味がある、という方は是非本を読んでみてください。
「(道徳的センスとは)それは、善とは何か、悪とは何かという問いを割り切ろうとしないセンスである。」
本の冒頭に書いてありますが、一貫して背骨となる主張です。
「カントがもっぱら矛先を向けたのは、外形的に適法的行為=義務に適った行為を完全に成し遂げながら、同時に自己愛という動機に支配されている人間である。彼らは、社会的に「賢い」からこそ、より危険なのであり、社会的に報われているからこそ、より悪いのである。」
つまり、(悪)というのは潜在的に一般の「善良な市民」でさえ犯しているものなのだと。
ここでの悪は決して社会からの逸脱に目を向けたものではないということです。
「幸福の追求がこれほどまでに強烈であるからこそ、道徳法則はそれに見合うほどの威力をもつ必要があり、ひっきょうその倫理学は厳格主義にならざるをえないのである。」
カントの厳格な倫理学を支えているものは、実は「われわれ人間が執拗に幸福を求めている」という事実であることを言っています。これは、「自己愛」についての文脈での一節。
「こうして、われわれは、善良であろうとすればするほど、他人を配慮すればするほど、嘘につぐ嘘の毎日を送らざるをえない。」
「嘘」に関する一節。
カントは真実を尊重し、嘘をつくことはいかなる場合も悪だと主張しましたが、人間の現実はそう甘くないですね。
人付き合いをしていくなかで、「厄介ごとに巻き込まれないウソ」「やさしいウソ」を含め、嘘をつかないなんて不可能です。
でも、実はこの違いから、本(カント)の主張は大きく展開していきます。
「道徳的な人とは、適法的行為とは何かを問い続ける人である。善良な市民が自分の生きている社会の掟にどっぷり漬かって生きているのに対して、その掟が適法的か否かたえず吟味している人である。」
冒頭にもあったものの、ここで道徳的というものの核心へ大きく踏み込みます。
これは「この世の掟との闘争」という章の一節。
「はるかに広範な、はるかに賢い、はるかに危険な、はるかに欺瞞的な悪性が「最も善い人間にも」宿っている。それは道徳的秩序を転倒して平然としている人々の群れの心情に存する。」
そして本の中身はかなり飛びますが、本のラストへ。
ここでやっと、「根本悪」という概念へ踏み込んでいきます。果たして、道徳的秩序の転倒とはなんでしょうか。
「カントの視線は、一点のごまかしをも見逃さない。われわれ人間が生きていくとは、転倒して生きていくことなのだ。転倒せずには生きていけないのだ。幸福を確保できるかぎりで、道徳的な善さを求めるのだ。」
ここに「根本悪」としての、人間が生きる上で根本的な転倒があります。
本はこう語っています。
「われわれが(自他の)幸福を求めようとするかぎり、必然的に陥る罠なのであり、あらゆる行為の「根っこ」なのである。」
ここから導出される事実は。
「あらゆる場面で外形的に善い行為(適法的行為)を実現する人のほとんどは道徳的に善いわけではないということである。」
人間はこうした状況にいます。
「われわれ人間は、「道徳的に善い行為をせよ!」と命じられているが、それを「斥けることもできず、とはいえ応えることもできない」という残酷な状況にいる。」
ここに、人間が置かれた特殊な環境が浮かび上がるわけです。つまり、理性の存在ですね。
そして本のラスト。
「皮肉なことに、われわれがみずから社会の掟に疑いを抱いた時にこそ、社会の掟を破ったときにこそ、いや社会の掟を呪ったときにこそ、われわれは最高善を全身で「要求する」のである。」
「理性的であるとは、こういう渇望を可能的に知っているということであり、道徳的であるとは、それを自覚しているということである。」
やっぱり飛び飛びなので分かりにくいですよね。
本にはいろいろな例が示されているので、もっと理解は容易ですし、論理ももっと丁寧に手順が踏まれています。ぜひ読んでみてください。
道徳の深さ、そして厳格なカント哲学に触れたい人にはぜひおすすめの本です。
さて、もう記事も長くなってしまいましたし、夜も遅いのでここで切り上げようと思います。
ありがとうございました。


では、マキアヴェリが作中で残した言葉について、いくつか列挙して終わりにしましょう。
「これにつけても覚えておきたいのは、民衆というのは頭を撫でるか、消してしまうか、そのどちらかにしなければならない。どいうのは、人はささいな侮辱には復讐しようとするが、大いなる侮辱にたいしては報復しえないのである。したがって、人に危害を加えるときは、復習のおそれがないように、やらなければならない。」
印象的ですね。
人に危害を加えざるを得ない場面というのは、絶対に起きてしまうという現実に即した言葉だと思います。
「ところで、残酷さがりっぱに使われた――悪についても、りっぱに、などの言葉遣いを許していただければ――、それは自分の立場を守る必要上、いっきょに残酷さを用いても、そののちそれに固執せず、できるかぎり臣下の利益になる方法に転換したばあいを言う。
一方、へたに使われたとは、最初に残酷さを小出しにして、時がたつにつれて、やめるどころかますます激しく行使するばあいをさす。(中略)第二のばあいは、国の維持はむりになろう。」
「要するに、加害行為は、一気にやってしまわなくてはいけない。
これに引きかえ、恩恵は、よりよく人に味わってもらうように、小出しにやらなくてはいけない。」
「結論として述べておきたいのは、ただ一つ、君主は民衆を味方につけなければならない。そうでなくては、逆境にあって対策の立てようがないということだ。」
「人間というものは、その本性から、恩恵を受けても、恩恵をほどこしても、やはり恩義を感じるものである。」
「したがって、賢明な君主は、つねにこうした武力を避けて、自国の軍隊に基礎をおく。」
傭兵軍、第三国からの援護軍は用いてはならないというマキアヴェリの主張より。以下二つの文もその、軍事力についての議論。
「つまり、他人の武器というものは、あなたの背中からずり落ちるか、重荷になるか、それともあなたが窮屈を我慢するか、いずれかになるものだ。」
「そこで、わたしの結論はこうなる。みずからの武力をもっていなければ、どんな君主国であっても安泰ではない。いやむしろ、ひとたび逆境ともなれば、自信を持って国を守っていく力がないから、なにごとにつけ運命まかせになる。」
また、最後の方にもこんな文がありますね。
「あなた自身とあなたの手腕にもとづく防衛のみがりっぱで、確実で、永続きするものである。」
「あまりに憐れみぶかくて、混乱をまねき、やがては殺戮や略奪をほしいままにする君主にくらべれば、冷酷な君主の方は、たまたま見せしめの残酷さを示すだけで、ずっと憐みぶかい人物になるからだ。後者のばあい、君主が処刑を言いわたすのは、ただ一部の個人だけ傷つければすむわけで、前者であれば、全領民を傷つけてしまう。」
憐み深さと冷酷さのどちらが君主にふさわしいか、という文脈で。
もちろん、数の論理だけではいけませんが、これは大事な指摘です。
組織の究極の目的を、「憐み深さ」のせいで忘れてはならないという忠告でしょう。
さらに、愛されるのと恐れられるのとではどちらがいいか、ということについても。
「愛されるより恐れられる方が、はるかに安全である。」
「というのは、一般に人間についてこういえるからである。そもそも人間は、むら気で、猫かぶりの偽善者で、身の危険をふりはらおうとし、欲得には目がないものだと。」
なにか嫌な思い出でもあるのでしょうか、と疑いたくなってしまいますが(笑)
ただ、そのつもりで用心するのは大事なことだと思います。
以下の文も、かなり印象的な文章です。
「民衆が愛するのは、彼らがかってにそうするのである。だが、恐れられるというのは、君主がわざとそうさせたのである。したがって、賢明な君主は、もともと自分の意思に基づくべきであって、他人の思惑などに依存してはならない。」
すごい説得力だと思いませんか。僕は結構この文に感動したんですけどねぇ。
あ、でも恨みをかうのは避けなければいけない、とも忠告してます。難しいところですね。
「なるべくならばよいことから離れずに、必要にせまられれば、悪に踏み込んでいくことも心得ておかなければいけない。」
君主は権謀術数であるべきか否かという文脈ですね。
「罠を見抜くという意味では、狐でなくてはならないし、狼どものどぎもを抜くという面では、ライオンでなければならない。」
そして最後に、マキアヴェリは運命についても言及します。
そこを引用して、この記事を終えましょう。
「運命は変化するものである。人が自己流のやり方にこだわれば、運命と人の行き方が合致するばあいは成功するが、しないばあいは、不幸な目を見る。」
「わたしが考える見解はこうである。
人は、慎重であるよりは、むしろ果断に進む方がよい。なぜなら、運命は女神だから、彼女を征服しようとすれば、打ちのめし、突きとばす必要がある。運命は、冷静な行き方をする人より、こんな人の言いなりになってくれる。
要するに、運命は女性に似て若者の友である。若者は、思慮を欠いて、あらあらしく、いたって大胆に女を支配するものだ。」
ここにきて言葉遊びですかといいたくなりますが(笑)
でも意外と情熱的な一面もあるんだなぁと思いました。
冷徹な目で人を考察しているわりには、ね、という意味でですが。
さて、こんなとこでしょうか。
ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。


こんにちは。
今回はマキアヴェリの代表作、『君主論』を読みましたので記事にします。
まず、マキアヴェリと『君主論』についてざっと紹介しましょう。
マキアヴェリ
1469年生まれ。フィレンツェの政治思想家。少年時代より独学で古典教養を身につける。外交・内政・軍事の官僚政治家となり国内外で活躍、様々な型の君主と身近に接する機会を持つ。
政変にともなって追放処分を受け、失意の日々に『君主論』を執筆、没後出版された。
危機的状況を踏まえた激しい内容から権謀術数にたけた非道な思想家と呼ばれたが、19世紀になって、同時代のレオナルド・ダ・ヴィンチ同様人間を冷徹な目で観察し科学的に認識した人物として高く評価される。1527年没。
『君主論』(wikipediaより)
歴史上の様々な君主および君主国を分析し、君主とはどうあるものか、君主として権力を獲得し、また保持し続けるにはどのような力量(徳、ヴィルトゥ)が必要かなどを論じている。その政治思想から現実主義の古典として位置づけられる。
まぁこんな感じでしょう。
皆さん知ってるでしょうけど、一応確認程度に引用しておきます。
受験の世界史や倫理でも頻出の人名ですね。丁度イタリア=ルネサンス期の人物です。
「ライオンの獰猛さと狐の狡猾さが君主には必要だと説く」なんていう感じで教えられたのではないでしょうか。
これだけ教えられると、どうも哲学書のようですが、実はそうとも言い切れません。
実際に読んでみると分かるのですが、マキアヴェリはかなり「科学的な」目線を以て君主というものを分析しています。
時代背景を一応確認しておきましょう。
マキアヴェリの時代、すなわち15世紀ですが、この時代はイタリアは多数の都市共和国が存在する分裂状態でした。
主な都市国家としては、ミラノ公国、ヴェネツィア共和国、ジェノヴァ共和国、フィレンツェ共和国、ローマ教皇領、両シチリア王国などが挙げられます。(ちなみに、イタリアが「イタリア」としての統一を果たすのは19世紀後半になります。)
当時のイタリアは、神聖ローマ帝国の支配の時代を経た後もその干渉に悩まされ続けており、またフランス王シャルル8世による北イタリア侵入(1494)、さらにイタリア戦争(1521-1559)によってフランス・神聖ローマ帝国両国による戦争の舞台となってしまいます。これによってイタリア=ルネッサンスは衰退し、ヨーロッパ各地へ広がっていくのですが、まぁそれは別の話ですね。
要するに、他の強国にいじめられていたわけですね。マキアヴェリの言葉を借りれば「おびただしい数の異邦の者どもの侵攻に苦しめられ」ていたわけです。
この本は、そんななか書かれました。
イタリアを統一するために、今、どんな君主が求められているのか。それを伝えるためにマキアヴェリが書いたものなのです。
さて、では内容に入っていきましょう。
先ほども言いましたが、マキアヴェリの『君主論』といえば「ライオンの獰猛さと狐の狡猾さ」という主張、権謀術数の君主像が有名ですが、これは単なる哲学書ではないのです。
マキアヴェリはルネッサンス期の人物だと言いました。ルネッサンス時代の特徴の一つとして、「人間中心の精神」が挙げられます。神からの脱却、脱魔術化、なんていう言葉もありますね。人間中心精神、そしてそこからの真理を探究する学問が、現代社会を支える諸科学の根本ともいえます。
そして、マキアヴェリもその例外ではありませんでした。
『君主論』の特徴として「政教分離」が挙げられますが、それだけでなくその徹底的な現実主義、そして論理性にもあります。僕が読んでいて一番意外だったのが、そこでした。思っていたよりもずっと現実的な本だったわけです。
もっと具体的に話しましょう。本は全体で26章で構成されています。
ここからは解説の部分から引用しましょう。
全体を四つにわけると、
(一)国の分類と、その征服と維持の手段(1~11章)
(二)攻撃と防衛に関する軍事的側面(12~14章)
(三)君主の資源(15~23章)
(四)イタリアの危機的状況を分析し、さらに危機を乗り切る君主の出現を待望(24~26章)となります。
解説では、こうした本の構成について、以下のようなコメントをしています。
「いずれの主題に取り組むときも、マキアヴェリの論証は、科学者のような運びである。たとえば、一つの論題を設定して、最初に対象物の分類にかかる。目的地をx地点として、そこに到達する手段a,b,c…と考えてというふうに。どの手段を選べば、どのような得失が待ち受けているか。まるで数式を解くようである。」
読めばわかると思いますが、本当に驚くほど整理されていました。
さて、で、この本を読んで役に立つのかといいますと、大いに役に立つと言えると思います。
マックス・ウェーバーの『職業としての政治』の解説では、この『君主論』を合わせて読むことを勧めていました。いずれも、政治を行うものはどうあるべきかという主題に沿ったものです。(もっとも、『君主論』の方は組織のトップに立つ人間という対象に絞られているようにも見えますが。)
この本には、「君主」とまではいかないものの、「組織のリーダー」として考えるべきことの要素が多く詰まっています。
マキアヴェリはこの本の至る所に、「人間とはどういう生き物か」「人間とはどういう風に考えがちなのか」ということを記述しています。
それらすべては、マキアヴェリの鋭い考察に基づいた「人間像」です。そしてその多くは現代にも通じる本質的なものだと思います。
組織のトップに立つ人には、一度目を通してみる必要があるでしょう。
さて、ではマキアヴェリが残したいくつかの印象的なフレーズを引用したいのですが、どうも記事が長くなってしまいました。
記事をもう一つ設けることにしましょう。


こんにちは。
今回は、社会学における巨魁と言われるマックス・ウェーバーの書いた「職業としての政治」を読んだので、紹介します。
大学で政治を学んでいると、この「マックス・ウェーバー」という人物名はよく聞かれる名前です。
wikipediaから適当に引用しておきますか。
すごく有名な人なので、知っておいて損はないと思います。
マックス・ヴェーバー(Max Weber、1864年4月21日 - 1920年6月14日)は、ドイツの社会学者・経済学者である。
社会学の黎明期の主要人物としてエミール・デュルケーム、ゲオルグ・ジンメル、カール・マルクスなどと並び称されることが多い。
主な著書としては、
「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」
「職業としての政治」
「職業としての学問」
などなどですね。
官僚制の概念や、支配の正統性の概念など、政治・社会学を学ぶ上で聞いたことのない人はいないと思います。
まぁ、今回はそんな感じの人の古典を読んでみたわけです。
感想としては、凄く勉強になりました。
今まで教科書などでよく「おいしいとこどり」で紹介されて、そうして理解していたウェーバーの考え方ですが、いざ古典に触れてみると本当に奥が深くて、面白かったです。
これから古典をどんどん読んでいこうと思っていたので、「古典にじかに(訳文ですが)触れる楽しさ」を味わえたのは大きいと思います。
薄い本で読みやすいので、ぜひ読んでみてほしいです。
特に、政治家はもちろん、公務員、ジャーナリストを目指す人には絶対に読んでほしいと思います。
政治に携わるためには、どういう覚悟と資質が必要なのか、一度この本を読んで考える必要があるでしょう。
最期の方にはマックス・ウェーバーの持つ政治への情熱、希望を感じることが出来ました。
情熱を傾けて偉大な功績を打ち立てた彼の息遣いを感じたい人は、ぜひ読んでみてください。
最後に、印象的なところを引用して終わりにします。
もうネタバレっぽいので、自分で読む人は見ないほうが良いかと(笑)
まぁこのブログは僕のメモという役割も兼ねているので、書いてしまいます。
『国家とは、ある一定の領域の内部で、正当な物理的暴力の独占を(実効的に)要求する人間共同体である。』
ウェーバーの考察は、「暴力の独占」としての国家、そして「権力の配分」としての政治を起点としています。これは鍵となる考え方でしょう。
権力の配分については、たとえば以下のような記述があります。
『政党間のすべての争いは本質的な目標をめぐる争いだけではなく、とりわけまた、官職任命権をめぐる争いでもある。』
官吏について
『官吏である以上、「憤りも偏見もなく」職務を執行すべきである。』
『生粋の官吏はその本来の職分からいって政治をなすべきではなく、「行政」を―しかも何よりも非党派的に―なすべきである。』
ジャーナリストについて
『また人生のありとあらゆる問題について即座に納得のゆく意見を述べ、しかもその際、断じて浅薄に流れず、とりわけ品位のない自己暴露にも、それに伴う無慈悲な結果にも陥らないということ、これも決して生やさしいことではない。』
『どんな人間であれば、歴史の歯車に手をかける資格があるのかという問題は、たしかに倫理的問題の領域に属している。』
『政治家にとっては、情熱―責任感―判断力の三つの資質がとくに重要であるといえよう。』
『すなわち精神を集中して冷静さを失わず、現実をあるがままに受けとめる能力、つまり事物と人間に対して距離を置いて見ることが必要である。』
この辺は、司馬遼太郎の坂本竜馬像に近いものを感じます。
『政治家にとって大切なのは将来と将来に対する責任である。』
政治とはなんなのかと。途中で、政治はなぜ特殊な倫理を求められるのかという問いが立てられます。
『手段としての権力と暴力性とに関係を持った者は悪魔の力と契約を結ぶものであること。』
『人間団体に、正当な暴力行使という特殊な手段が握られているという事実、これが政治に関するすべての倫理問題をまさに特殊なものたらしめた条件なのであろう。』
そして最後に、ウェーバーの考える政治とは、政治に携わるための資質とは
(以下はラストなので、できればスクロールせずに自分で読んでいただければいいと思いますが)
『政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。』
『現実の世の中がどんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても、「それにもかかわらず!」と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への「天職」を持つ。』

こんにちは。
前回、「これから金融の本を読みます」とか言ってドヤってましたけども。
結局司馬遼太郎です。はい。
だって難しいんだもん\(^o^)/
第一章を読んだところで挫折です。悔しい…
まぁ、また勉強しなおして再チャレンジですね。仕方ない。
切り替えていきましょう(笑)
今回読んだのは、やっぱり僕の大好きな司馬遼太郎さんの「人斬り以蔵」です。
「竜馬がゆく」「翔ぶが如く」のような長編ではなく、この本は短編集です。
収録されている短編は、
鬼謀の人
人斬り以蔵
割って、城を
おお、大砲
言い触らし団右衛門
大夫殿坂
美濃浪人
売ろう物語
となっています(紹介しても仕方ないと思いますが)。
小説は内容について特に言うことはないので、これくらい。
感想は。
短編集なので長編とはまた違った趣があり、大変面白かったです。
長編でも常々感じていたことですが、やっぱり司馬遼太郎は文章がうまいなぁと思いますね。
歴史というものを描写するうえで、これ以上ないというほど面白く書いているのではないかと思います。
もちろん、それは書き方の問題だけではないのですが。見方、とらえ方の問題でもありますね。
人というのはそれぞれ別の人生を歩いています。それはいつの時代も変わらない事実です。
そうしたなかで、出来るだけ上手に(適切に)他の人と交わろうとするのが人間という生き物だったわけです。
そして、司馬遼太郎はそれを歴史上の人物にもやっているように見えます。その「自分以外の人生」に対して適切な距離感を保ちつつも、できる限り肉薄しているようにも思えるのです。
まぁ別に専門家じゃないからそんなに語っても仕方ないんですが。
歴史上の人物に肉薄しながらも、巨視的にその人生をとらえられるのが歴史小説の面白みだと、解説にも書いてありました。その通りだと思います。
司馬遼太郎を読んだことがなくて、読んでみたいなぁと思う方がいたら、この本は結構読みやすいんじゃないかと思います。
でも、個人的には「燃えよ剣」(土方歳三)が好きかなぁやっぱり…凄いカッコいいですからね。
久しぶりに司馬遼太郎の本を読んだので、満足です。
さて、次は何を読もうかなと。
考え中ですが、今鞄の中にはマックス・ウェーバーの「職業としての政治」があるので、それを読んでしまうのかなと思います。薄いですしね。
では。

こんにちは。
今回はジョージ・オーウェルの書いた「一九八四年」という本を紹介します。
この作品自体は1949年に書かれたものですね。
内容について深く言及することは避けますが(読めばわかります)、大体どんな作品なのかをwikipediaからネタバレしない程度に載せておきます。
以下、wikipediaから引用
ディストピア(反ユートピア)小説の系譜を引く作品で、スターリン体制下のソ連を連想させる全体主義国家によって分割統治された近未来世界の恐怖を描いている。なお、著者などは言及していないが「1984年」という年号は、本作が執筆された1948年の4と8を入れ替えたアナグラムであるという説が一般的である。これによって、当時の世界情勢そのものへの危惧を暗に示したものとなっている。
→ただし、スターリン体制云々についてはあまり考えない方が小説は楽しめるかも。
1989年の時点で、『1984年』は65以上の言語に翻訳される成功を収めた。『1984年』という題名、作中の用語や「ニュースピーク」の数々、そして著者オーウェルの名前自体が、今日では政府によるプライバシーの喪失を語る際に非常に強く結びつくようになった。「オーウェリアン」(Orwellian、「オーウェル的世界」)という形容詞は、『1984年』などでオーウェルが描いた全体主義的・管理主義的な思想や傾向や社会を指すのに使われるようになった。
あー、これだけ書いてもよく分かりませんね。
裏に書いてあるあらすじを紹介します。
〈ビッグ・ブラザー〉率いる党が支配する全体主義的近未来。
ウィンストン・スミスは真理省記録局に勤務する党員で、歴史の改ざんが仕事だった。
彼は、完璧な屈従を強いる体制に以前より不満を抱いていた。
あるとき、奔放な美女ジュリアと恋に落ちたことを契機に、彼は伝説的な裏切り者が組織したと噂される反政府地下活動に惹かれるようになるが…
まぁこんな感じです。
興味があったら読んでください、ぜひ。
じゃあ感想。
この本は友人から借りて読みました。(普段あんまりそういうことはしないんですけど。)
うちの大学の教授が講義で言及していたので、ちょっと気になっていたこともあって、読んでみようと思ったわけです。
んで、実際読んでみてどうだったのかというと。
正直、読んでいてびっくりしました。
何がすごいって、この本は1948年にオーウェルが「一九八四年」を描いた作品である以上、当然作品の中身は仮想なわけじゃないですか。
でも、作品を読んでいればわかるんですけど、ものすごく緻密に世界が構成されています。
そこには全体主義だけでなく、歴史とはなんなのか、事実とは、真実とはなんなのか、そして人の認識とはなんなのかという根源的な問いを突き詰めて考えられたものが感じられました。
もう一つ印象に残ったことがあります。
これは今言った「作品にあるリアリティ」からくるものなのですが、作品に出てくる【全体主義の恐怖に支配された社会】というものが、これからも実現可能なものに見えてならないのです。
第二次世界大戦での連合国の勝利により、もしくは米ソ冷戦の終結により、「人類はファシズムを克服した」と言うのは簡単です。しかし、果たして本当にそうなのでしょうか?
「全体主義的だ」とか、「社会が全体主義に向かっている」なんていうフレーズは、今の時代に使ったらおそらく一笑に付されて終わりでしょう。
しかし、この本の舞台はどうもそれを感じさせない。
単なる「仮定の話」では済まされない何かを感じさせられました。
この辺は、前に紹介した「安心のファシズム」(岩波新書)と少なからず関係するものだと思われます。
全体主義は、今も息を潜めて私たちの生活の根底に潜んでいるかもしれません。
僕はそこまでフランクフルト学派などに詳しくないのですが、少なくとも「主体的に考えようと努力し続ける個人」がいる限り、世界が全体主義の恐怖で覆われることはないでしょうから、日頃からそのつもりで生活する必要があるんじゃないかなと改めて思い知らされました。
小説としては、展開が読みやすかったなどと生意気なことを多少思いましたが、でもそれ以上に受けた衝撃は大きい本でした。
もし興味がある方は、ぜひ読んでみてください。
さて、次回は中公新書の「金融が乗っ取る世界経済」を読もうかなと思います。
金融の話、結構ちんぷんかんぷんなので、とりあえずなんとかしたいんです(笑)
ではまた。
