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本と6ペンス

The writer should seek his reward in the pleasure of his work. ("The Moon and Sixpence" Somerset Maugham)

21.梟の城(司馬遼太郎)

こんばんは。
3日ぶりの更新。テストも終わったことだしがっつり本読めてうれしいですね。
今回の本は司馬遼太郎の「梟の城」。
伊賀の忍者の話です。

あらすじを以下に紹介します。
織田信長にとって一族を惨殺された怨念と、忍者としての生きがいをかけて豊臣秀吉をねらう伊賀者、葛籠重蔵。その相弟子で、忍者の道を捨てて仕官をし、伊賀を売り、重蔵をとらえることに出世の方途をもとめる風間五平。戦国末期の権力争いを背景に、二人の伊賀者の対照的な生きざまあを通して、かげろうのごとき忍者の実像を活写し、歴史小説に新しい時代を画した直木賞受賞作品。
「燃えよ剣」で武士として描かれた土方は、一度仕えた主には生涯を捧げて仕えつづけるというスタンスでした。剣術を含めた自分自身が徳川家を守るための「剣」となったのです。
対して、「梟の城」で描かれる葛籠は、忍術も主もすべて、自分を生きながらえさせるための道具に過ぎないというスタンスでした。
両者において共通するのは仕事は絶対に裏切らないこと、そして自らの信じる美しさを仕事を通じて実現させようとすることでした。


さて、では感想。
まず、忍者の生きざまというのを、あくまで物語の範囲でですが、知ることができてよかったかなと思います。
雇われ主に伊賀で名高い忍者の名を教えろと言われた時の五平(たしか)が、「能力のある忍者は名前を知られることはない。だから名高い忍者などというものはなく、聞いたこともないような名前の忍者こそ有能な忍者である」という趣旨の返答をしたことが印象的でした。
次に、これは二つの作品を読んでの印象ですが、どちらも仕事に生きる男を引き立たせる要素として、女が出てくるなぁということです。
仕事に命を捧げる男。そしてその帰りを待つ、もしくは仕事から自分と一緒に逃げてもらいたいと願う女。かなりお決まりな感じの構図ですが、読者を本に引き込ませる要素の一つとなっています。
あとまぁ戦闘の描写はうまいなぁと。これ燃えよ剣でも書きましたっけ。忍者の戦いは暗闇の中で、スピーディーに行わるのですが、それを臨場感たっぷりに綴っているのはさすがだと思います。



さて、司馬遼太郎のブームみたいなのが来てるのでこのまま他の作品を読むのかなと思います。
今日買ったのは「風神の門」という本です。霧隠才蔵という忍者が主人公で、大阪城に幽閉された豊臣家のために奮迅の働きをしたと書いてあります。こちらは忍者でありながら、倫理観は武士のそれに近そうですね。楽しみです。

では。

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20.燃えよ剣 上・下(司馬遼太郎)

こんにちは。
今回読んだのはは司馬遼太郎の「燃えよ剣」。

司馬遼太郎といえば歴史小説で有名な作家ですが、この燃えよ剣の主人公は土方歳三。

この本では、
もともと多摩の田舎出身の百姓の子である土方が、生来の喧嘩と組織づくりの才能を発揮し、鉄の組織である新選組を立ち上げ大出世するところから、
薩長に敗れ敗走しながらもなお生涯にわたって戦い続け、函館五稜郭で最期を遂げるところまで、
土方歳三という男の生き様を克明に綴ったものとなっています。

以下はなんとなく感想。
剣に生き、剣に死んでゆく彼の生涯は、小説の読者である僕にに深い感動と憧れを抱かせるものでした。
面白くて仕方なくてあっという間に読んでしまったんですが、いくつか印象に残ったことをつら、つらと書いて終わります。

まず司馬遼太郎の文章の魅力です。
歯切れがいいからなのかわかりませんが、読み始めたら読者を離さないものが感じられます。
特に戦っているときの小気味よい、躍動感と緊迫感を適度に含んだ文章には、かつてないほどの臨場感を味わせてもらえました。

つぎに土方歳三という人間の魅力です。
剣に生き、剣に死ぬと先ほど言いましたが、彼の生涯は美しさを追求するものでした。
己の信じる美を究める、そこに彼の生きる目的が置かれていたのです。解説で司馬遼太郎は男の理想を小説に綴っていたんだという内容が書かれていましたが、確かに、彼の生き方は美しすぎるほど美しかったと感じます。
もちろん史実とは異なることもあるのでしょう。僕は大学受験は世界史の方だったので日本史にはそこまで明るくないのですが(もちろんそれでも問題なく読めました)、史実と多少異なったとしても、この小説の主人公・土方歳三の生きざまに酔うのは大変心地よいものだと思います。
彼の人生には重みがあります。単に自己満足的に美しさを追求しているわけではありません。
切り伏せてきた相手、そして戦に、病に、死んでいった自分の仲間の死さえも背負い、土方は最後まで戦います。
彼が戦ったのはただ美しさのためであり、時流が完全に薩長側に動いていようと、最期の一人になるまで幕府のために戦い続けました。深い感動を感じずにはいられません。

そして人生を生きることでの大事なことをいくつも知ることができました。
たとえば、時流というものの大きさを知ることができました。時流に乗った人は実力の何倍もの力を発揮するが、逆境になると途端に弱くなってしまう。
もちろん土方は時流に逆らい続けたことでその生涯がより美しく見えるということもありますが、逆に言えば時流が土方を殺したといっても過言ではありません。
他にも、登場人物がみな心に美しい信念のようなものを抱えていたのですが、それを垣間見ることができたのもこの小説で得たものの一つだと思います。
また、「器」についても考えさせられました。
近藤が自らの器に合わぬような政治談議や国家論に夢中になると、土方はいつもそれをたしなめ、「俺たちはただ相手を斬っていくだけだ」と自らに言い聞かせています。
どちらが正しいとはわかりません。政治に生き、政治に死んだ人だってもちろんたくさんいます。
ただ、器を知ることはやはり大切かもしれません。近藤が自らの器を見誤って足元をすくわれる、なんていう場面もありました。

とにかく、大変得るものの大きい、そして大変面白い小説でした。
正直、読み終わるのが惜しいくらいです。
ぜひ読んでみてください。

最後に。
土方は剣に生き、剣に死んでいくことを選びました。
幕末という日本が大転換を迎える時期に、最期まで自らの力だけを恃み、そしてそれで世を切り開いていった土方の姿がとてもまぶしく思われました。
でも、現代社会だって、ものすごい速さで変化しています。
もしかすると今は大変平和かもしれませんし、反対に激動の時代かもしれません。それは歴史が評価してくれます。
問題はそんな混沌とした世界で、何を恃みに生きていくか、ということです。
一本筋でいかないのが世の中の常かもしれません。
一本筋でいくことはとても厳しい道のりかもしれません。でも、最後には自分の能力以外にあてにできるモノなんてないんじゃないかと思います。
世の中をどうやって切り開いて進んでいくかは、いろんな道があります。
僕も何かで世の中を切って生きていけたらどんなにいいだろう、と思うことがたまにあるのです。なんとなくですけどね。

はい、この話はもうおしまいです。

さて、司馬遼太郎が自分の中でマイブームになってしまって新書もろくに集中できないので、また司馬遼太郎を読もうと思います。
まぁマイブーム来てる間にたくさん読んじゃったほうが良いですしね。読書は一期一会だとはよく言ったものです。
今は「梟の城」という本を読んでいます。
こっちは伊賀の忍びの者の話ですが、土方とは美的価値観が逆です。
生き残るためにはどんな主人だろうと従う。
必要とあらばすぐに裏切る。
それが忍びの者の価値観です。
ただ、自分の実力だけを恃むところは全く一緒ですけどね。
二人の忍びの者がどういうドラマをもたらすのか、今から楽しみです。


それでは。

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19.変身(カフカ)

こんにちは。今回はカフカの書いたドイツ文学の傑作のひとつ、「変身」について書いてみます。
有名な本です。内容は知っている方も多いんじゃないでしょうか。

主人公グレーゴルはある日目を覚ますと、自分の体が虫に変わっているのを発見します。
本では、ずっと両親と妹の3人の家族を経済的に支えてきた彼の変身が起こった後の生活について綴られたものです。

正直言ってこの本がどういう意図で書かれたのかを読み取ることは容易ではないと思います。
短い小説ですが、様々な要素が入っているために多様な解釈が可能だからです。
まぁ専門家でも解釈に苦心するくらいですから、僕なりに思ったことを一つ書くだけにしておきましょう。

もっとも印象的だったのは、家族の変化です。
それまで主人公に頼り切っていた家族が、彼の不幸な変身によってもはや頼ることができなくなるのですが、それを契機に家族がだんだんと活き活きするようになっていました。ラストシーンを迎えるころには、これまでと逆に主人公が家族の重荷へと変容しており、そこに人間の怖さが描かれているような感じがしました。
途中まで「お兄さん」と呼んでいた妹が、最後には「これ」呼ばわりするほどですからね。

それまで家族のために働き続けてきた憐れな主人公。彼の不幸な運命にもいろいろと思うことはあるのですが、どうにも難しいのと面倒なのとで、全部書くのは控え、ただ一つだけ、書きたいと思います。
「人間は考える葦である」という言葉のように、思考や精神活動というものは人間を規定するものとしてよく重視されますが、主人公も基本的には人間的な思考能力というのは最後まで失われていませんでした。
それにも関わらず、主人公の死は人間としての死として描かれていなかったのです。
これは、主人公は変身によって社会との繋がりを著しく損なわれてしまったことが原因なのかなと思います。
考えることができても、社会から尊重されなければ人として生きていけない。
そんな真理を作品から感じさせられました。

この本は読む人によって解釈は異なると思います。だから、何人かで読んで議論するのが面白いんではないかと思いますね。ただ、カフカが認めるように、読むに堪えないストーリーでもあります。考えるのが好きな人は読んでみてはいかがでしょう。
作品になんとなく流れる奇妙な雰囲気。それを感じさせるのは、根本的には人間存在そのものの奇妙さからきているのかもしれません。


さて、次回はなにをやるかわかりません。ただちょっと新書は疲れたなーと思うので、引き続き小説を読むかもしれません。

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18.不幸な国の幸福論(加賀乙彦)

こんにちは。テストでバタバタして更新が滞っております。

今回は集英社新書の「不幸な国の幸福論」です。
加賀乙彦さんというのは1929年生まれの方ですね。東大医学部を出ている精神医学の先生だったんでしょうか。なんか多才なのでプロフィールが紹介しずらいですね。

まぁこの本は日本という国の不幸が増幅しているメカニズムにはじまり、著者の人生観などについて語られております。
正直なところ、読むタイミング間違えたかなって感じです。決して面白くなかったわけじゃないんですが、僕はもともと幸せになることとかあんまり好きじゃないので、特に印象に残る話が無かったように感じられました。
まぁあと、幸せについて本を出すってなかなかだと思いますね。
まぁ確かに「世間で言われる勝ち組」ってのがそんなに幸せだとは思いませんよ。でもそれを追いかけている人を不幸な人間だと決めるのもどうかと思うんですけどね。本人がそれで幸せならそれでいいんじゃないですか。まぁ、確かにそれで価値観が崩壊した場合は取り返しのつかないくらいの虚無感に襲われるんでしょうけど。
幸せについて定義するのはナンセンスですけど、~~は不幸だ なんて議論もやっぱり決めつけに過ぎない気がしますね。
まぁ長く生きていればある程度確信が持てるんでしょうが。

決して面白くないとは言いませんが、少なくとも今の僕には必要性の低い本だったかなと思います。
自分が幸福だと思い込んでる人や不幸だと思い込んでる人は読んでください。
世の中なんて意味のないもので溢れてますからね。それに意味を見つけるのは自分自身なんですよ。
幸福を説く本、なんてのは大体怪しいんですけどね、この本はだいぶまともな方かななんて思いました。

生意気ですね(笑)
眠いんです。



さて、次回は別の新書か、カフカの「変身」をやりたいと思います。
おやすみなさい。

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17.若きウェルテルの悩み(ゲーテ)

こんばんは。
今回は久しぶりに小説にいきたいと思います。
さくっと読みたいなぁということで買ったのがこの「若きウェルテルの悩み」でした。
ページ数は大体200ページちょっと。さくっと読めますね。
小説はあんまりネタバレしてはまずいので、まぁ一般に紹介されるあらすじ程度の話をしようかなと思います。

まず、作者のゲーテについて調べておきましょう。
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe、1749年8月28日 - 1832年3月22日)はドイツの詩人、劇作家、小説家、哲学者、自然科学者、政治家、法律家。ドイツを代表する文豪であり、小説『若きウェルテルの悩み』『ヴィルヘルム・マイスターの修行時代』、叙事詩『ヘルマンとドロテーア』、詩劇『ファウスト』など広い分野で重要な作品を残した。(wikipediaより)
どうでもいいですけど、wikipediaって便利ですよね。まぁ情報が完全にあっている保証はありませんが、ちょっと気になることを調べるにはこれで十分かなあとか思います。
とにかく、書いてある通りドイツを代表する文豪家です。「ファウスト」と「若きウェルテルの悩み」は聞いたことがある人が多いんじゃないでしょうか。

さてさて、内容ですが、こちらは本の背表紙から。
ゲーテ自身の絶望的な恋の体験を作品化した書簡体小説で、ウェルテルの名が、恋する純情多感な青年の代名詞となっている古典的名作である。許婚者のいる美貌の女性ロッテを恋したウェルテルは、遂げられぬ恋であることを知って苦悩の果てに自殺する……。多くの人々が通過する青春の危機を心理的に深く追求し、人間の生き方そのものを描いた点で時代の制約をこえる普遍性を持つ。

感想ですが、読んでいると、とにかく胸が詰まる思いがしてきました。
この小説のウェルテルは本当に純粋です。大変優秀であるんですが、それでも世の中で「本当に大切なものは何か」というのを常に見極めようとしている人間でした。
もちろん世の中にウェルテルのような人はあまり多くないでしょう。しかし、心のどこかに、ウェルテルと通じた部分は必ずあると思います。ウェルテルが恋に落ち、相手であるロッテに溺れていく場面はもちろんですが、それだけでなく、小説のなかのところどころに、僕たちの心の純粋な部分をくすぐるところがありました。僕が一番気に入ったのは、この点ですね。普段常識人、一般人として生きていくうえで潜在化させている僕らの心の大事な部分を、この本はくすぐり、刺激を与え、再び機能させてくれるように思えてならないのです。毎日過ごしている過程で埃を被ってしまった純粋な気持ちが、ウェルテルという一人の登場人物によって代弁されるのです。
この本は若いうちに読んでおくといいなと思います。もちろん、大人になってから読んでもいいかも知れません。
ただ、いつかまた読み返すとき、「俺はこんなものに心を動かされていたのか」と思ってしまうのでしょうか。それだけが不安ですけど。まぁ、今後の生き方次第ですよね。
純粋さというのは貴重ですが、大変な劇薬でもあります。一歩間違えればウェルテルの物語のように悲惨(だと思うのが普通でしょう)な結末を導きかねないと思います。矛盾をはらんだこの世の中は、そうした純粋さとあまりにも相反したもので溢れているからです。
でも、純粋であることはどこまでも価値のあることだと思います。
自分の気持ちを偽ることが日常的になっている人は少なくないと思います。世の中を生きている限り、それは仕方のないことです。でも、心の中にあるその価値ある空間を捨ててはいけないのでしょう。そんな気がします。
もしもとても世の中や人生に疲れたとき、一度自分に素直になりたいと考えたとき、「若きウェルテルの悩み」は手を差し伸べてくれるはずです。

最後に、この本の冒頭の冒頭を引用して終わりにします。いつか「ファウスト」も読みたいなと思います。

哀れなウェルテルの身の上についてさがせるだけのものは熱心にさがしあつめ、ここにこうしてお目にかけてみる。諸君はきっとそれを私に感謝してくれるであろう。諸君はウェルテルの精神と心根とに簡単と愛情とを惜しまれぬであろう。ウェルテルの運命には涙をこばまれぬであろう。
また、ちょうどウェルテルと同じように胸に悶えを持つやさしい心の人がおられるならば、ウェルテルの悩みを顧みて自らを慰め、そうしてこの小さな書物を心の友とされるがよい。もし運命のめぐり合わせや、あるいは自分の落度から、親しい友を見つけられずにいるのなら。

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16.若き友人たちへ―筑紫哲也ラスト・メッセージ(筑紫哲也)

こんにちは。昼間更新したばっかりですが、まぁ読み終わったんで更新します。

さて、今回の本はジャーナリストの筑紫哲也さんの本です。
まぁ正確には筑紫哲也さんが書いたわけではないのですが。
筑紫哲也さんは2008年に亡くなりましたが、体調が悪くなる前に2回だけ雑誌に連載した「若き友人への手紙」という原稿と、その後ろに早稲田大学・立命館大学での講義の中身を補正付きで掲載したのがこの本なのです。

筑紫哲也さんの来歴を紹介しておきます。(本背表紙から)

筑紫哲也
1935年生まれ。早稲田大学政経学部卒業後、朝日新聞社入社。政治部記者、ワシントン支局を経て「朝日ジャーナル」編集長。89年に退社し、その後、ニュースキャスターに転じる。長らく「筑紫哲也NEWS23」で親しまれる。(中略)2008年、逝去。

もちろんいろいろな意見があるでしょうが、日本のジャーナリズムを背負ってきた第一人者の方であるのは確かでしょう。


内容についてですが、大変面白かったです。
ジャーナリストを志す人だけでなく、日本人ならみんなに読んでほしいと思ってしまう本です。
まぁそもそもブログの更新がこんなに早くなったのも、この250ページ弱の本を2時間ちょっとで読み終わってしまったからですけど。それくらい面白いです。

筆者は、ジャーナリストという仕事の本質を「お節介」であるとしたうえで、その「お節介」な気持ちから若き友人たち、つまり若い日本人たちである私たちに様々なことを語りかけてきます。
「お節介」といいながらも、長年ジャーナリストとして働いてきた筆者らしく、広く・確かな知見から、これからの日本が直面するであろう問題を論じています。
そこからは、本当にこの国を憂いている筆者の「愛国心」というのが伝わってきます。
決して変な意味での愛国心ではありません。同じ日本人という「若き友人たち」に対して、親身になってその将来を考えてくれていると感じられるのです。

これは良い本に出会ったな、と思いました。
筑紫哲也さんが亡くなってからもう3,4年経っていますが、完全にこの本の内容が古びてしまう前に、ぜひ一人でも多くの方に読んでほしいと思いますね。

さて、次回は何にするかわかりません。
正直少し新書読み疲れたかなーなんて思います。
小説を読むかもしれません。まぁ楽しく読めればそれでいいですよね。ではでは。

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15.〈私〉時代のデモクラシー(宇野重規)

お久しぶりです。
更新が遅くなったのはいろいろわけがありまして。
まぁ1/1から4日まで台湾に旅行に行って、そのあと帰ってからは論文に時間を搾取されてたからなんですけど。
昨日更新するつもりが、体調不良で一日中寝込んでしまっていました。


さて、今回は岩波新書の「〈私〉時代のデモクラシー」を扱います。
内容的にはデモクラシーについて、社会学的な見地から論じていますね。
社会学をやっている人なんかは非常に読んでいて面白いのではないでしょうか。

現代という時代はどういう時代でしょうか。
よく言われるのが、「個人化」という風潮ですね。
価値観が多様化し、いかなる指標や価値観も、絶対的と考えるのは難しくなってしましました。
もちろんそれは人間の自由が拡大したと考えることもできますが、それは同時に現代社会に生きる人々を大きな不幸へと導いてしまっている、という考え方は、誰でも聞いたことがあると思います。
自分とはなんなのか、何のために生まれたのか…なんていう、封建制が根付いていたり、生涯にわたって仕事を与えられ続けている社会では考える必要のない、答えのない私自身への問いを続けていかなければいけなくなったのです。
もちろん「私とは何か」という問いに対する答えはそう簡単に導き出せません。現代社会において「自己」という存在はあまりにも不確かで、とらえどころのない存在になってしまします。

筆者はそんな危機をはらんだ「個人化」に対して有効な手立てを打てるのは「社会」しかない、と主張しています。
社会とは何か。これも難しい問いですが、筆者はドラッガーの考え方を引用し、「社会とは人々に役割を与え、リスペクトを配分するものである」と説いています。
そのうえで、筆者は現代の社会に必要なものを論じています。それが、デモクラシーです。
現代社会における大きな問題は、個人化が進んだために不満や問題までも私事化され、社会の共通問題として顕在化しにくくなっているということです。
筆者は格差の問題を例として取り上げています。
格差が拡大していると言われれば、一人ひとり思い当たる節があるのですが、そこには絶えず「個人的事情」が付きまとってしまうのです。
だから、格差是正のために社会的な力を団結しようとすると、いったい誰が自分と同じ問題を抱えているのか、誰と団結すればいいのか分からなくなり、とたんに方向性が失われてしまう、と主張しています。

では、そうした社会を立て直すデモクラシーとはなんでしょうか。
筆者はこう主張しています。
「もはやデモクラシーとは単なる多数者支配ではなく、自分らしくありたいと思う、一人ひとりの個人の異なった声と向き合うことなのです。」と。
個人化の進んだ現代で、「民意」などというものは存在しないと言えるでしょう。
もはやデモクラシーは民意をただ実行するだけのものではありません。
絶えず自己批判を続けることのできる社会を構築し、他者とともに議論し続けるための場を作り続けること、何が私たちの共同の意思なのかを、相互の議論を通じて一歩一歩確認していく過程こそが、デモクラシーに他ならないというのです。

政治のような公的領域と私たちの私的領域は確かに区別される必要があります。しかし、両者を完全に隔離してしますと、とたんに社会は機能不全となるのです。
公的領域と私的領域が交わる中間的な領域がいま、求められているのです。

まぁこんな感じですか。
ぶっちゃけ結構日数使って読んでしまったので、本の内容をしっかり伝えられたか自信がありません。

さてさて、大学はもうすぐテストです。僕の単位の安全保障のために、やむなく更新が滞る場合があるかもしれませんが、ご容赦ください。
次回は、「若き友人たちへ」というジャーナリストの筑紫哲也さんの本を扱ってみたいと思います。それでは。

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