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本と6ペンス

The writer should seek his reward in the pleasure of his work. ("The Moon and Sixpence" Somerset Maugham)

14.マルクスの逆襲(三田誠広)

今回は集英社新書の「マルクスの逆襲」という本を紹介したいと思います。
はい。当然、タイトルが気になって一目ぼれで買った本です。

著者の三田誠広氏は、1948年生まれの作家の方です。早稲田大学の文学部卒だそうです。
1977年に「僕って何」という本で芥川賞を受賞しています。
まぁ別にあまり詳しくないんですけど、とりあえず作家さんの書かれた本ということで。

さて、今回はそんなに細かい背景やら予備知識を紹介する事もないので、さっそく本の内容に入りたいと思います。

感想としては、読みやすかったし、面白かったです。知識を説明するようなタイプの本ではなかったですしね。
内容は、決してマルクス思想の説明や宣伝ではありません。
作者の学生時代は1960年に盛んになり、1970年に過激化したマルクス主義を掲げる学生運動と丁度同じ期間でした。この本は、かつてそこまで若者を魅了したマルクスの思想の原点を振り返るとともに、日本のマルクス主義の盛衰の過程を話し、終章の「マルクスの逆襲」では、危機に瀕する国際経済の中で今後日本が進むべき道を、マルクス思想を現代に当てはめることで提示しています。

冷戦終結とともに、社会主義体制は間違ったものだった、という認識が一般に広くなされていますが、社会主義国家の失敗の原因は本当にマルクスの思想にあるのかを検討しています。
作者の主張で面白かったのは、日本はマルクス主義国だった、という部分です。
筆者は、日本にとって敗戦という過酷な出来事は革命と同じ効果を持ったと主張しています。(ちなみにここでの革命というのは、プロレタリア―トによる社会主義革命のことを指します。)財閥は解体され、預貯金の資産価値が限りなくゼロに近くなってしまったのです。
また、その後の日本の体制も、ファシズム時代から維持され続けた官僚機構主導による産業経済統制や、社会主義体制において理想の基盤となったコミュニティーとしての性格を持った会社や企業など、社会主義国家的な性格を持っていたといいます。
確かに、日本的社会主義、なんていう言葉もありますね。資本主義国の道を歩んだとされますが、実は日本の社会構造は理想的な社会主義形態であるなんていう説もあります。
そして筆者はその体制で日本が高度経済成長を現出したことを根拠に、日本の進むべき道として新自由主義をとることに反対する主張を導きます。

こんなところですか。
学生運動のあたりを筆者の実体験をもとに説明しているあたりも、あまり聞いたことがない話が多く、面白かったですね。
ただ、日本の今後に関しては、理想主義に近いものだったかなと思います。
まぁ新自由主義もたしかに理想に近いものなんですけど。
この辺はイデオロギーの問題ですよね。どっちも正しいんでしょう。理想通りにいけば。
結局こういうの対立において、そのイデオロギーの持つ価値というのは、どの考え方が採用されたか、その結果どうなったか、に限ると思うんです。

引用しましょうか。
実は規制というものには、それぞれに必ず意味や理由があるものなのだ。(中略)規制緩和は農業共同体を破壊し、地方を疲弊させ、都市部の労働賃金やアルバイト料を下げさせた。

新自由主義者の反論は、それは適切な規制を作らなかったからだ、というものでしょう。適正な賃金やコミュニティーを破壊しないような経済活動を進めるインセンティブをもたらすような規制を産業界にしけなかったのがいけなかった、という感じだと思います。
「新自由主義の復権」でも取り上げたように、新自由主義を市場原理主義、古典的自由主義と同じく政府を軽視するものだと考えるならば、それは決して正しくはありません。
しかし、政府の規制についてはどの程度まで施すのが新自由主義なのか、明確な線引きが無いので新自由主義は絶えずそういう批判にさらされるのです。
まぁこの辺はややこしいのでもういいでしょう。

しかしコミュニティの崩壊は、ソーシャル・キャピタルにも通じるものがありました。
読書を続ければわかりますが、本と本、知識と知識、というのは本当にあらゆるところで繋がっているのがわかります。
そろそろ読書が本当に楽しくなってきました。
さて、もうマルクスの逆襲については、このくらいにします。

今日は大晦日ですね、本当にいろいろなことが起こった2011年も、もう幕が下りるところです。
来年はどんな年になるんでしょうか。

世界は刻々と動き続けています。
良い一年にしていきましょう。いつでも時代を作るのは半分は運命、半分は僕たちです。その気概でいきましょう。

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13.文明の衝突と21世紀の日本(サミュエル・ハンチントン)

こんにちは。
今回はサミュエル・ハンチントンの「文明の衝突と21世紀の日本」を取り上げます。
内容は1993年にハンチントンが発表した「文明の衝突」の論文の抜粋と、それに関連して99年に発表された2つの論文が載っています。

まず、サミュエル・ハンチントンについて(僕もよく知らないので)wikipediaで調べてみましょう。

リアリズムを基調とした保守的な思想で知られる国際政治学の世界的権威である。彼はもともと近代化とそれに伴う社会変動や民主化の理論で政治理論家としての名声を築いた。しかしその名を一躍世界に広めたのは「フォーリン・アフェアーズ」誌に投稿した論文をもとにした著書『文明の衝突』である。
ハンティントンは、冷戦以後の世界を文明にアイデンティティを求める諸国家の対立として描いた。コソボ紛争やトルコのEU加盟などさまざまな国際的な事例を引きつつ、文明同士のブロック化が進む世界を分析した。この主張は世界各国で反響を呼び、彼の名を世界的なものにした。 なお彼は、ホワイトハウスの政治顧問としても活躍した経験をもち、アメリカのアイデンティティの混迷を描いた『分裂するアメリカ』などの著書もある。


では続いて、本の内容及び文明の衝突の内容について、素人ですがざっと振り返ってみたいと思います。
まず、ご存じのとおり1991年にソ連が崩壊、冷戦が集結しました。文明の衝突は、その2年後である1993年に書かれたものです。
さて、この時の国際政治の主要な関心事は今後どのような国際システムが生成されるか、という点でありました。
すなわち、米ソを中心とした2極体制から、アメリカを中心とした一極体制になるのか、もしくは他の体制になるのか、という点です。
まず、文明の衝突とよく対比される著作を紹介しましょう。
フランシス・フクヤマ氏により発表された「歴史の終わり」という論文です。
こちらは、冷戦の終結をもってしてイデオロギー対立は終焉するという主張をしています。民主体制とは政治体制の最終形態であり、「歴史とは世界が民主化していく過程である」というわけです。
厳密に言えば文明の衝突と決して対極に位置するわけではないのですが、まぁ「世界が均一化される」という性質の強い「歴史の終わり」は、確かに文明の衝突と対比させると分かりやすいかもしれません。

では、文明の衝突はどのような議論を展開しているのでしょうか。
文明の衝突は、世界は7つから8つの文明圏に分かれており、これから世界は多極化に向かうだろう、という主張をしています。そして、国際政治はアメリカの一極体制ではなく、一つの超大国といくつかの大国からなる「一極・多極システム」に向かっていると述べています。一極・多極システムとは、「主要な国際問題の解決には、一つの超大国の行動はもとより、書体国の協力が常に必要になる。しかし、一つの超大国は諸大国が連合して重要な問題への取り組みを求めても拒否することができる。」というシステムを指します。
そこで、この本では、その考えに基づいて国家の行動の仕方を論じているのです。

まぁあんまり詳しくいっても仕方ないのですが、まずなぜ文明がカギなのでしょうか。
それは文明の強さにあります。引用すると、帝国は興隆し、滅亡する。政府は移り変わる。しかし、文明は踏みとどまって「政治的、社会的、経済的、ひいてはイデオロギー的な激変をも生き延びる」。と。
実例でもいくつか挙げられています。イデオロギー的な結束があっても文化の差異から崩壊した旧ユーゴや、ぎゃくに文化的アイデンティティを共にするEUの統合が成功している(と主張しています)ことなどです。
まぁ詳しくは読むのが一番です。こんなド素人の要約読む時間があったら、読んでください。

あと面白かったのは日本の話ですね。
日本は文明を共有する国は存在しないため、文化的共通点を基調とした友好関係を築く、という一般の国に見られる政策はとらないそうです。そのため、20世紀初頭はイギリスと結び、第二次大戦中は枢軸国と結び、大戦後はアメリカと結ぶということができた、と言っています。
そこから、今後アメリカの凋落が続き、中国の台頭が起こった場合、日本が中国と結ぶ可能性は高いと唱えています。

まぁ内容についてはこれくらいでしょうか。
あっという間に読んでしまいました。面白かったのと、内容がかぶっている部分が一部あったのとで、さらさらーっと読み終わってしまいました。
個人的に思うところはいくつかあったのですが、それでもこの論文の果たした功績は大きいなと読んでいてわかりました。
それより、論文にじかに触れる、というのも貴重だなと思いましたね。
フランシス・フクヤマの歴史の終わりを読みたいなあと思いました。難しいだろうと思いますが、臆せずチャレンジしようかなと思います。


次回は、マルクスの逆襲(集英社新書)にしようかななんて思います。
ちなみに一万字論文がなかなか終わらなくて涙目です。まあ息抜き程度にまた更新します。

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論文:3.11と地方分権化社会

前期の1万字論文です。暇なときにでも読んでみていただければ。



3.11と地方分権化社会
Ⅰ.はじめに
 2011年3月11日、東日本の太平洋側を、M9.0という史上最大クラスの地震が襲った。東日本大震災である。死者は同年7月現在、1万5492人、行方不明者は7356人に上っている。この震災の特徴は、被害の大きさだけでなく、地震・津波・原発・風評被害といった災害の複合性にもある。それだけに同震災は、現在の日本が未解決のままでいる諸問題を克明に示すこととなった。
一方、日本の地方分権化の推進は1990年代初頭から注目されてきた課題である。しかし、日本では東京一極集中の構造が2011年現在でも改善されていない。東日本大震災は、そのような一極集中の国家体制の脆弱性を露呈する現象をいくつか引き起こしたとともに、復興を通じてその国家体制にとってかわる枠組みを創る可能性も提示した。
そこで、今回は東日本大震災及びその復興・再生における、地方分権化と関わりのある事柄に着目し、そのうえで3.11が日本の地方分権化に持つ意味について論じたいと思う。

Ⅱ.地方分権
1.地方分権とは何か
まず本題に入る前に、地方分権とは何かについて述べておく必要がある。
地方分権と一言に述べても、それは憲法が定める枠組みだけでなく、国家の役割や機能、市民の力量や役割などの多面的な検討を要するため、その内容の確定は容易でない。また、地方分権の実現によって市民が実際に幸せにならなければ意味をなさないので、決して机上の空論に陥ってはならない。地方分権を論じるときには、それらの点に特に注意をはらわなければならない。
ではそのうえで、現在注目されている地方分権とはどのような仕組みであるのか整理してみたいと思う。地方分権は、辞書の上では「統治の機能を地方団体が独立した分権として行使すること、および地域住民の自主的決定権や住民参加の権利」と定義され、中央集権が対義語として挙げられている。これについて、地方自治の形態の変化に注目してもっと分かり易く解釈していく。これまでの地方自治(ガバメント型)と、これからの地方自治(ガバナンス型)について、それぞれの特徴を挙げると次のようになる。
 これまでの地方自治(ガバメント型)
  ・政府は統治する主体、市民は統治される対象の上下関係(二項対立)
  ・政府=公共、市民=私的利益 (公私二分論)
  ・権力的、規制的手法が基本
  ・対立が社会的ロスとなる
  ・無関心、依存、お任せ民主主義を生む
 これからの地方自治(ガバナンス型)
  ・行政、市民、企業などの多様な主体が相互に協働関係を持ちながら活動する
  ・政府だけでなく、市民、企業も自治の担い手・当事者となる
  ・政府は、市民の公共性を活かすためにも仕事を組み立てなおす
  ・調整・合意形成・計画など非権力的・誘導・調整的な手法が重要
ここで注目するべきは、自己責任で地域を運営していく能力や団体(NPO・NGO)が市民に備わってきた以上、政府はそれを対等なものとして受け入れるべきであり、市民の声を近い位置で聞くことができる地方とも対等な関係を築く体制になるべきであるという主張が、これからの地方分権の考えの中に盛り込まれていることである。それには、「市民の主体性や地域の連携・協力を基本とした住民主体の社会システムの構築」という目的が反映されている。
 また、この論文の中でもう一つ、地方分権の性質として把握しておきたい内容がある。
 先に地方分権の対義語に「中央集権」が載っていることを記述した。日本において中央集権と言うのは、首都である東京への集権であり、それは東京一極集中とも結びつけることができる。つまり、もう一つの地方分権の性質というのは東京一極集中との対比された文脈の中での地方分権である。現在東京は政治だけでなく、経済、人口などのあらゆる機能が集中している。この場合、地方分権は首都一極集中に対して「政経分離」「機能分散」などのように、その解決策としての意味合いを持つことになる。
 地方分権の概念について、その広がりを述べると以上のようになる。なお、この論文では、市民と政府との協働関係よりも、その実現のために発展する地方自治体や、東京一極集中と対比的に注目される地方分権について、日本全体のスケールで着目したいと思う。

2.なぜ地方分権なのか
 では次に、地方分権化を推進するメリットについて説明したい。
 地方分権のメリットは、自治体政府が市民活動(福祉・環境・まちづくり等)を育てていけるようになることで、市民の暮らしが豊かになることを可能にする点である。それにより地方は自治体の自己決定・自己責任でそれぞれの創意工夫による個性ある社会を創造できるようになる。それだけでなく、政策の立案は中央政府だけでは限界があるため、地方政府に権限をうつし政策決定の過程により市民が近い位置で参加できるようにすることで、持続可能な発展を進めることも可能になる。また、地方政府が主導権を握ることは中央政府の発する法令や規則と地域の実情がずれる事態を解消することにもつながる。これは、地域間の多様性に対して中央政府が画一的な指導を行うことに限界が見えてきているという現状からみると、重要な効果であると考えられる。
 もう一つ、地方分権社会は中央政府が機能不全に陥った場合でも、地方政府が国家統治のバックアップの役割を果たしうる。これは東京一極集中の問題点として挙げられる、「災害やテロなどのリスクに対する脆弱性」を解消するものでもある。東京の首都機能が何らかの要因によって崩壊した場合、中央集権体制の国家ではそれだけで国家全体が崩壊してしまう。しかし、あらかじめある程度大きい権限を地方政府が行使していた場合、首都が崩壊したとしても他の地域では依然として統治や秩序を維持することが可能である。
 一般に、地方分権を推進するメリットについて考えるとき、以上のような議論が展開される。

3.日本の地方分権
 最後に、日本の地方分権化の動きとその現状について簡単に述べたい。
 日本はもともと強固な中央集権体制下において近代化を進めてきた。そのような体制のもとで近代化を目指した日本は、1960年代にはGNPの世界第二位を達成し、高度経済成長期を経て世界トップクラスの先進国へと成長した。しかし、このように日本が近代化を達成した後も、中央集権体制は依然として強いままであった。
 1990年代初頭、日本では公共事業における政治スキャンダルが多く摘発された。ここから、中央集権体制は政治腐敗の温床であるという認識が生まれ始めた。また、日本がポスト近代化時代を迎えたにあたり、地域間の多様性が見えてくるようにもなった。市民一人ひとりが自治に関わっていける体制を求める時代に突入したと言える。
 以上のような状況下で、現代の地方分権化は推進されてきた。2000年になると「地方分権一括法」が施行された。この改革の最大の成果は、「機関委任事務制度撤廃」という、自治体の首長が中央官省の下級機関でなくなることだった。2003年には「三位一体改革」が行われた。これは「国庫補助金改革」「税源移譲」「地方交付税改革」の三つの改革を行ったもので、国と自治体の財政関係の分権化を行ったものである。また、2010年には地方分権をさらに推進しようとする「地域主権戦略大綱」が策定されている。
 しかし、日本の地方分権はいまだ達成には程遠い。東京一極集中は依然として解消されておらず、地方は人口流出や財政難などの多くの課題を抱えている。また、実際的な状況だけでなく国民や政治家の意識も、まだ地方分権に対しては考えが不十分である。そのもっとも顕著な例として挙げられるのが、2011年の6月に東日本大震災の復興相を9日で交代した松本龍氏の一件である。国と地方を対等な関係と見ずに、垂直的な関係としてとらえていているような上から目線の松本氏の態度や発言は、明らかに地方分権社会の考え方とはそぐわないものであった。


Ⅲ.被災と地方分権
地方分権について把握したところで、本題である3.11と日本の地方分権化について議論したい。前述したように、3.11には二つの側面がある。まず、日本の持っていた課題を浮き彫りにした側面。そして3.11の復興再生を通じて日本全体の活性化を狙う、新たな可能性としての側面である。ここでは、3.11の被災ではっきりと示された日本の東京一極集中型構造の持つ脆弱性と地方の解消できない課題について反省し、現代日本における地方分権の必要性を再度認識したい。

1.首都圏の被災
まず、首都圏での被害の中でも特に東京一極集中の弊害を顕著に表出させたものを考え、そこから首都一極構造の国家の脆弱さを認識したいと思う。
先ほども述べたとおり、東京は政治の中心地であるだけでなく、経済などあらゆる分野の中心地でもある。東京には日本中のカネ、モノ、情報、そして人が集まっている。ただでさえ面積の狭い東京に、それだけのものが集まったらどうなるか。当然の帰結として、地価が大きく上昇する。日本では、そのような状態を長い間放置していた。しかし3月11日には、それが改善される必要があることを克明に示す事象がいくつか見られた。ここでは①帰宅難民の発生、②高層ビルの被害、③埋め立て地の液状化現象、④電力需給に関する問題、以上の4項目をとりあげる。
①帰宅難民の発生
 3月11日、東京には数万人に及ぶ帰宅難民が発生した。地震の直後から電車が全線ストップしたためだ。テレビや新聞には駅の前で足止めされる人々、公共施設で一夜を過ごす人々、歩いて帰宅しようとする人々などが報道され、東京の混乱が伝えられた。電車がストップしただけで、なぜこれほどまで多くの人を巻き込んだ混乱に発展したのだろうか。
 ここで注目したいのが、昼夜間人口比率(常住人口100人当たりの昼間人口)と言われる数値だ。東京の昼夜間人口比率は122.0と全国で最大である。この数値の大きさは、先ほど述べた東京の地価上昇と大きく関係している。東京にモノや情報が集中するため、企業の本社やオフィスは都心に集まっている。ところが、都心の地価は高いためそこで働く人々は職場の近くで住むことが難しい。結果として多くの人々は「職場は都心に、自宅は郊外(23区外や千葉、埼玉など他県)に」という生活をすることになる。東京の複雑な鉄道網は、そういった人々の生活形態と相互作用的な形で発展してきたのだ。
 以上のように、東京への度を越えた一極集中により人々は職場と自宅を離さなければならなくなり、東京自体が電車に大きく依存する地域になってしまったと言う事ができる。新宿駅は一日に平均346万人が利用するという。これは世界一の値だ。それだけ多くの人が一つの交通手段に依存することは、安全保障の観点から望ましいとは言えない。
②高層ビルの被害
 高層ビルが並ぶ都心の風景は、現在の“都会”のイメージには欠かせない存在である。新しい時代の豊かさ、便利さの象徴であった高層ビル。しかし人々のそうした考え方も、3月11日を境に大きく揺らいでいる。
 以下は朝日新聞の4月19日の夕刊、『新宿高層ビル、揺れ13分 長周期地震動、国の想定超す』の見出しの記事である。
『東日本大震災で震度5弱だった東京・新宿の超高層ビル(54階建て、高さ223メートル)が「長周期地震動」を受け、国の耐震基準の約13倍の約13分にわたって揺らされ続けたことが大手ゼネコンの調査でわかった。…(中略)…都心では東京タワーの先端が曲がった。東京湾岸の石油コンビナートでは油が入った施設が揺れ、摩擦熱で火災が起きたとみられている。これらは長周期地震動の影響を受けた可能性がある。…(中略)…日本建築学会によると、60メートル以上の超高層ビルは全国に約1100棟ある。うち数十~100棟は揺れが続くと天井が崩れたり、ビルが傾いたりする危険があり、補強が必要と指摘している。』
 高層ビルは最新技術が使われているから大丈夫、という先入観や、高い部屋からの景観の良さを理由に高層ビルに住まいやオフィスを置いたという人は多い。だが、実際のところ2000年よりも前に建てられた高層ビルでは長周期地震動対策が不十分なものが多いという。日本建築学会は耐震診断を実施したうえで、耐震工事を施すよう勧めている。
 また、高層ビルは単に耐震工事を施しただけでは解決しない、大きな弱点を持っている。それは電気である。被害にあって初めて、人々は電気に依存した生活のもろさを実感した。以下は、朝日新聞3月30日の朝刊の記事の引用である。
 『高層階の高齢世帯では、避難をあきらめたケースも多かった。35階建て棟の25階に住む岩佐秀三郎さん(74)、喜久さん(71)夫妻も部屋から出られなかった。1度下りたら上るのはしんどいし、中にいる方が安全だと思ったからだ。同マンションは震災後、計画停電の対象地域に入り、停電がある。キッチンや床暖房はガスだが、電気が止まると作動しない。普段が快適なだけに、非常時の厳しさを痛感させられた。秀三郎さんは「体験して初めて、電気がないと何もできないとわかった」と話す。』(『上るのはしんどい』、というのは、エレベーターが完全停止してしまったことによる。)
超高層ビルは、電気があって初めて便利なものである。しかし、高層ビルというのはそこまで安全なものと言えるのだろうか。もし、引用の記事のマンションで火災が起こった場合、この夫妻はどうなっていただろうか。これは、十分起こりうる事態である。地震などによる大規模な被害に、二次災害はつきものだ。一次災害で致命傷を負った高層ビルは、二次災害が起こってしまったらもう何の役にも立たないどころか、住人をかえって危険に晒しかねないのである。
 この超高層ビルの出現も、東京一極集中と大いに関係がある。地価が高く面積が狭い東京都が人口や会社の経営拠点などの集中に対応するためには、高層マンションを建設して一戸当たりの価格を安くするより他に手はなかったのである。しっかり地方分散ができていれば、東京は高層ビルの乱立という手段をとらずに済んだはずである。
③埋め立て地の液状化現象
 以下は3月25日、読売新聞夕刊の、『浦安 泥土を耐える』という見出しの記事である。
 『東京都に隣接する千葉県浦安市は、舞浜や新浦安など、市内の約4分の3を占める埋め立て地が液状化現象に見舞われた。25日午前の時点で市内4000世帯で断水。9600世帯で下水道の使用が制限され、約4000世帯でガスが止まっている。……』
 記事には東日本大震災が千葉県や茨城県にも深い爪痕を残したと書いている。これらの県での被害は、上で記述されているように液状化現象によるものが最も大きい。液状化現象もまた、東京一極集中のもたらした結末と言える。
東京の地価上昇によって、人口が千葉・茨城などの地価の安い近隣の県に移りはじめた。これに対応するため、両県では埋め立て地の建設が盛んにおこなわれ、その上に大規模な高層マンションやリゾート、建物を建てて資産価値の高い街づくりを行ってきた。東日本大震災では、改めてその弱点が露呈したと言える。千葉県と茨城県合わせた被害は、死亡者37名、避難者約4400人、全半壊約4000戸、断水9万戸に上った(2011.3.25)。同記事には、次のような記述がある。
『住民にとっては、資産価値の下落も気がかりだ。薬剤師、谷口悦子さん(56)は「子供が独立したら、今住むマンションを売って老後の資金にするつもりだった。でも、街にこんな被害が出ては……」と嘆いた。』
今回の被災を通じて、埋め立て地域の安全性は再び見直されるべきである。無理な人口の集中と無理な地域開発がこのような結末を招いたことを、しっかりと反省すべきだ。
④電力需給に関する問題
 電力需給に関する問題は東京一極集中の現状をわかりやすく示している。電力需給に関する問題というのは、2011年の夏に、原発停止に伴って電力供給量が需要に追い付かなくなるのでは、という懸念である。
 Yahoo! Japanの『電気予報』というページでは興味深いデータを得ることができる。
 九州電力、中部電力、関西電力、東北電力の最大電力供給量はそれぞれおおよそ1500万kw、2500万kw、2800万kw、1300kwであるのに対して、東京電力は最大で5400万kwまで供給できるという (2011.7.20)。電力使用量が90%を超えるたびに大きく報道される東京都の電力事情だが、他の地域ならとっくに最大電力供給量を超えているだろう。人口の偏りが、電力需給量のここまで著しい偏りをも創出した。また、この一つの地域からの過剰な電力の需要が東京電力に原発推進へと向かわせてしまったことも留意すべきである。各電力会社の原子炉保有台数を見てみると、九州6基、中部3基、関西11基、東北4基であるのに対して東京電力の保有台数は17基と突出している。地方への人口や産業の分散が適切にできていたならば、東京電力にここまで多くの原発を作らせ、担当させることもなかったし、一基ごとのチェックも入念にできたかもしれない。つまり、ここまでの原発被害を防げた可能性もあると言える。

2.東北の被災
 次に、東北地方が抱えていた問題や、被災の現状を把握するという視点からも地方分権化の推進の必要性を確認していこうと思う。ここで注目するのは、地方で特に進んでいた高齢化と生産年齢人口の流出という、人口問題である。
 地方における高齢化は、以前から注目されてきたこの国の課題だった。若い世代や生産年齢人口は都市に流出し、地方には高齢者が残ってしまう、という構図は長い間解決されないままであった。3月11日以降の被災地の報道を見ると、高齢者の映っている割合が異常に高いことに気づかされる。以下の引用は、3月15日の読売新聞、『福祉避難所の開設急務』の記事からの引用である。
 『東日本大震災で大きな被害を出した、岩手、宮城の沿岸部は、65歳以上の高齢化率が高い。介護が必要な高齢者も多く、避難所や介護施設などでの手厚いケアが欠かせない。市内の大半が水没した岩手県陸前高田市の高齢化率は33.5%、約一万人が行方不明になっている宮城県南三陸町も29.3%で、全国平均の22.7%を大きく上回る。高齢者施設で多数の死者を出すなど、多くの施設が被災した。避難所によっては、避難者の半数以上が高齢被災者だ。…(中略)…新潟大学危機管理室の田村圭子教授(災害福祉)は「高齢者の健康を守るためには、保健師や、介護福祉士ら福祉の専門家を避難所に大量投入することが必要」と指摘する。』
 高齢者の多い被災地で問題となるのは、一般の避難所にはおむつや流動食、薬などの生活物資や介護に詳しい人手が少ないため、そこで高齢者が中長期間生活することが難しいという事である。体力を消耗した高齢者が多くの作業を担うわけにはいかない。高齢者の多い地域、若い人や体力のある人が少ない地域では、物資運搬や高齢者のケアに滞りが生じてしまう。そしてその少しの滞りが、高齢者の命に関わるということも頭に入れなければならない。
 もうひとつ、以下は3月25日の読売新聞朝刊、『死者60歳以上が65%』という記事から引用した文章である。
 『東日本大震災で被害の大きかった岩手、宮城、福島、茨城、千葉の5県で年齢の分かっている死者2853人のうち、60歳以上が65.1%に上ったことが読売新聞のまとめでわかった。70歳以上でも全体の46.1%を占めた。津波で高齢者が逃げ遅れ、被害が拡大した可能性が指摘されている。…(中略)…震災被害に詳しい河田恵昭・関西大教授(防災論)の話「宮城県内の被災状況を見た。高齢者は健康体でも若者に比べて動きが遅く、津波などでの被害は逃げ遅れる事例が多い。データからは、高齢者に対して、行政による避難誘導のあり方を見直し、近所の若者による手助けが必要だという教訓が導き出される」』
 災害時に高齢者を救出・手助けするのは若者にしかできない。上記のように、今回の災害で高い割合の高齢被災者が出た原因には、単に高齢者が多かっただけでなく、若い人が少なかった点にも注目しなければならない。より多くの若者が被災地にいれば、被災した時に助かった高齢者も多かったはずである。地方における生産年齢人口の流出は、単に財源の問題であるだけでなく、緊急時に高齢者の生命の安全を保障できないという観点からも、大きな問題だと言える。


Ⅳ.3.11の復興と地方分権
 では、3.11で受けた大きな被害からの復興をめぐって、現在ではどのような議論がなされているのだろうか。
6月20日に成立した復興基本法の第二章第十条には
『政府は、被災地域の地方公共団体の申出により、区域を限って、規制の特例措置その他の特別措置を適用する制度(以下「復興特別区域制度」という)を活用し、地域における創意工夫を生かして行われる東日本大震災からの復興に向けた取り組みの推進を図るものとし、このために必要な復興特別区域制度について総合的に検討を加え、速やかに必要な法制上の措置を講ずるものとする。』
 とある。ここに、地域が中心となって指導していく被災地の復興の在り方が明文化されたといえる。また、6月26日の朝日新聞に掲載された復興構想会議の提言の要旨では、より具体的な議論が展開されている。
 『都市計画法、農業振興地域整備法、森林法にかかる手続きを市町村中心に行われるよう一本化し、土地利用の再編などを速やかに実現できるような仕組みが構築されねばならない』
 『復興の主体は、住民に最も身近で地域の特性を理解している市町村が基本となる。国はビジョン・理念、支援メニューを含む復興の全体方針を示す。県は、広域的行政課題に対応する役割を担う。』
 『保険・医療、介護・福祉・生活支援サービスが一体的に供給される地域包括ケアを中心に据えた体制整備を行う。これらの分野は雇用創出効果が高く、復興に向かう地域の基幹産業の一つに位置づけられる。』
 『地域の強みであった農林水産業、製造業、観光業の復興、再生可能なエネルギーなどの新産業の導入などが雇用復興のかぎとなる。』
 これらの提言では、地方が主導する復興という原則を確認しつつ、これから被災地域が復興するうえで基幹的となるであろう産業を見定め、重点を置こうとしている。
 また、被災地の復興を考えるうえでキーワードとなるのが、復興基本法の中でも記述されていた「特区」の手法である。これは、民間の資金・ノウハウを活用し、きめ細かい支援措置を行うことを目的に、地方分権的な規制・権限の特例、手続きの簡素化、経済的支援など必要な各種の支援措置を具体的に検討し、それを区域・期間を限定した上で一元的にかつ迅速に行えるように設定するものである。例としては、6月の後半に提言された水産業復興特区がある。これは、県から漁業権の免許を取得する際、漁協が民間の企業より優先されるという現状の仕組みについて被災地にのみ例外を与えるものであり、賛否はまだ分かれている。ちなみに阪神・淡路大震災の際も復興特区設置の要望はあったが、当時は一国二制度の状態になることを政府が嫌ったため、採用されなかった。
 復興特区を設置した場合、より特色のある地域づくりが可能になるであろうし、撤廃・緩和する規制によっては、中国の経済特区のような経済活動の活性化が観察できる可能性も十分にある。


Ⅴ.3.11と地方分権
 最後に、今まで調べてきたことに立脚し、3.11の復興と地方分権化について見解を述べていきたいと思う。
 まず、政治的な権限が地方へ譲渡される、地方分権について。こちらは今回の復興基本法や、復興を見つめる世論を観察する限り達成されるのも時間の問題だといってもよい。その根拠は、3.11に対する国の対処の失敗にある。今回の災害では、復興が首相の退陣をめぐった政局とともに展開された。それにより国が主導する復興は大きく立ち遅れ、被災地の市民はもちろん、国民全体が国の危機管理能力に疑問を持つこととなった。これは決して良いことではないが、国の指導が失敗しただけに、地方自治体が主導権を握った復興はより必要なものとして国民に支持されるだろうし、国もその形態を採るしかないだろう。また、松本復興相の威圧的な態度の是非が大々的に取り上げられたことも、人々の関心が寄せられている証拠である。国と地方が縦の関係である時代は終わったこと、これから両者は横の関係になるべきであることを、多くの国民がその報道で無意識のうちに感じ取っているはずだ。もちろん、復興特区こそ、日本が地方分権社会の在り方を考える際に最も重要な要素になりうることは言うまでもない。もし復興特区が成功を収めた場合、その地域は地方自治の見本として広く注目されるだろう。
 もう一つ、東京一極集中から脱却する、地方分権について。こちらも現在、その端緒を観察できる。3.11と連動して起こった原発事故が発覚した直後、放射性物質の流出や電力不足を懸念した外資系を中心に企業が本社機能を次々と大阪、神戸、名古屋、福岡などに移している。この「西日本シフト」を検討する動きはあらゆる企業の間で広まっており、東京一極集中を見直す大きな機会であると捉える財政界のリーダーも少なくないようだ。これには、被災当日に大きく報道された300万~400万人とも言われる「帰宅難民」に対する衝撃によるものも大きいだろう。しかし、そのような動きが単に「西日本シフト」では終わらず、本当にあらゆる地方への機能分散を実現させるかは、東北の復興がどこまでうまくいくのかがカギとなるはずだ。
 以上のように、自分は3.11を東京一極集中からの脱却、地方分権化社会の構築の転換点になり得ると捉えている。また、事実そのような動向があることもわかっている。最後に、自分なりに考えた、これからの日本の地方分権化の動きの見通しを述べてこの論文を終えたいと思う。
 3.11以後、東京一極集中は主に民間企業を中心に見直されるだろう。民間企業はおそらく放射性物質の流出や電力不足を避け、西日本の大都市に多く移動すると思われる。ここでふたたび、機能が一つの都市に集中しないように注意するべきである。まず、同じ地方で政治機能の中心と産業機能の中心は、必ず分けるようにする。これにより、一つの都市が打撃を受けた時に政経ともに打撃を受けることを防ぐことをできる。また、それぞれの都市で設置できるオフィスビル、本社機能などの数や、建物の高さ等々を制限する。これは、企業や本社機能が一つの都市に集中しすぎて人口・情報がそこへ集中しることを防ぎ、また、非常時に安全性を保障できないような高層ビルの建設や過剰な都市開発を防ぐことも目的としている。こうすることで地価の高騰は防がれ、都市と地方の経済活動の規模の格差、都市の景観の悪さの解消を進めることができる。
 一方、地方分権化に対して、3.11で大きな被害を出した東北地方はどのような働きを担うべきだろうか。東北地方は、復興特区制度を活かし、市民の声や地域の特色を前面にだした、魅力的な地域になることが求められる。もちろん経済的に成功することも大事であるが、東北地方はそれよりも、「地方自治体が主導となった街づくり」の見本として成功するのが好ましいと思われる。つまり、東北地方が日本における「地域主権の政治」の先進地域になるのである。東北地方が本当に上記のように住みやすい、魅力的な地域づくりに成功したとすれば、企業も参入してきて東北地方の経済も上向きになるだろう。それだけでなく、東北は関東から九州までの日本の他の地域から「地域主権の政治」のモデル、学ぶ対象として注目されることとなる。日本の地方分権化は復興特区が設置された東北地方が起点となり、そこから次々と広がっていく形になっていく。
 3.11では日本は致命傷に近い大打撃を受けた。だからこそ、日本は今直面している課題から目を逸らさずに立ち向かい、「新しい日本」となることが求められている。地方分権化社会を成熟させた日本が、「新しい日本」として力強く歩めるようになるまでのビジョンを、大学で政治を学ぶ者として、胸中に描いておきたいと思う。




Ⅵ.参考文献
 『いま、なぜ地方分権なのか』/西尾勝 新藤宗幸 (教育出版・2007)
 『ホーンブック 地方自治』/磯崎初仁 伊藤正次 金井利之(北樹出版・2007)
 『全図解 東京・名古屋・大阪 三大都市圏はこう変わる』/商業施設新聞編集部(東洋経済新聞社・2008)
 『報道写真集 東日本大震災 1か月の全記録』(共同通信社・2011)
 『電力各社の原発保有状況と予想される共済制度での負担額』
(http://www2.monex.co.jp/j/genpatsu_hoshoukin.pdf)
  『電気予報(Yahoo! Japan)』
(http://setsuden.yahoo.co.jp/tokyo/denkiyoho/)
  『読売新聞』
  『朝日新聞』
  『産経新聞』

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12.官僚制批判の論理と心理(野口雅弘)

こんにちは。
前回は適当にやりましたが、今回はデータが消えないように注意しつつやりたいですね。
扱う本は「官僚制批判の論理と心理」です。

官僚制の研究といえばマックス・ウェーバーが有名ですね。
では、基本的概念の官僚制についてざっと解説した後、本の内容に入っていきたいと思います。
参考図書は有斐閣の「政治学」です。

まず、官僚制とは何か。wikipediaから参照してみましょう。
官僚制は、比較的規模の大きい社会集団や組織における管理・支配のシステムである。一般に官僚制という場合は、「近代官僚制」のことを指す。
多くの政党・政治団体の他、私企業、労働組合、社会福祉団体、非政府組織(NGO)などの民間団体にも見られるヒエラルキー(位階、階層)構造を持ったシステムである。基本的な特徴としては、以下の点が挙げられる。
・形式的で恒常的な規則に基づいて運営される。
・上意下達の指揮命令系統を持つ。
・一定の資格を持った者を採用し、組織への貢献度に応じて地位、報償が与えられる。
・職務が専門的に分化され、各部門が協力して組織を運営していく分業の形態をとる。

まぁこんな感じ。特に言うこともありませんね。
ウェーバーはこの官僚制を最も合理的な統治形態と呼び、また研究を重ねました。

しかし、官僚制は合理的なようで非合理的な結果をもたらす場合が多いのです。
それが官僚制の逆機能とよばれる性質です。
平たく言えば、「お役所仕事」の弊害、というイメージで良いのではないでしょうか。

代表的には、
官僚は規則を強調されて動くため、規則にないからという理由で仕事を引き受けなかったり、適当にすませたりするなど、規則を守ることが自己目的化し信頼を損ねる「繁文縟礼」
官僚の専門性を高め、効率化を図るため官僚制全体としての目的と、下位組織の目的がずれたり、下位組織同士の対立が生じる「セクショナリズム」
そして、規則の強調が逆に、構成員に規則に抵触しない程度の職務怠慢を行おうとするインセンティブをもたらしてしまう「管理化」
ほかにも、自分たちだけが合理的であるという意識から批判を受け付けない「合理性の独占」や、選挙で選ばれたわけではない官僚が行政を行うことに対しては、「エージェンシー・スラッグ」などの欠点が挙げられます。

まぁ官僚制についてはこんなもんですかね。

そろそろ本の中身に入りましょう。
日本では行政に対する批判や不信が強いですが、その根本はどこにあるのでしょうか。
官僚制はなぜ批判にさらされるのでしょうか。
この「官僚制批判の論理と心理」は、そのような官僚制への批判の視点を、政治思想の観点から見直し、現在の官僚制批判を検証していく本となっています。

感想としては、大変面白かったです。
政治思想に軸足を置いているからか、理論的な話が多く、しかもそれがきちんと現実と整合性を保っているのが大変勉強になりました。

本の内容については、本の「結語」の部分に要点が書かれてあるので、そこを中心に解説しましょう。

1.官僚制に対する批判的情念は普遍的である
政治思想史的には、もともと「官僚制」という語自体が官僚制批判をするために生まれたものだと書かれています。
日本で官僚制批判が顕在化したのは1990年代からですが、それは決してそれまで官僚の欠点が無かったことを意味するわけではなく、その官僚制が果たす高いパフォーマンスのために目をつむっていただけである、と主張しています。

2.官僚制はデモクラシーの条件でもある
官僚による行政サービスや、官僚組織による国民の平等の扱いはデモクラシーの絶対条件だといっています。
つまり、官僚制による画一主義はデモクラシーを窒息させる、という主張はある意味で正しいですが、その主張が暴走しすぎるとデモクラシーの条件としての官僚制までも崩壊させかねない、という危険性を示しているのです。

3.正当性への問いは新自由主義によって絡め取られやすい
この本の一番面白いと感じた部分です。
官僚制に対する不満というのは慢性的にあるものであり、官僚組織の役割の縮小はその意味でそうした市民の不満に応えるものであります。
しかし、官僚制が形式的合理性によって判断していた領域は、誰にゆだねられるのでしょうか。
政治家が「政治主導」を掲げて担ってもいいのですが、それには絶えず「説明責任」という重荷がついて回ってきます。
新自由主義はその領域を市場の合理性に委ねてしまう、という発想なので、政治家にとってもやりやすく、市民にとっても不満の解消になりやすいという論理が働くのです。

4.ポスト「鉄の檻」状況において、強いリーダーシップへの要求には注意が必要である

官僚制と戦うカリスマ、という構図は国民から支持を受けやすいものです。(この場合、カリスマは新自由主義的な政策を志向する場合が多いです。)
その時も、先ほど言ったように、官僚制がデモクラシーの条件でもあることを忘れてはいけません。

5.ウェーバーの官僚制論は今日、新自由主義への防波堤として読むことができる

実際に本を読んでください。

今回は僕の好きな思想的な観点からの検証が多かったので、楽しく読むことができました。
官僚制について知りたい方、また、公務員になろうと思っている方、新自由主義について興味がある方、まぁ政治に興味ある人はぜひとも読んでほしいと思います。とても興味深い議論が展開されていますから。


さて、次回は集英社新書、サミュエル・ハンチントンの「文明の衝突と21世紀の日本」を読みたいなぁと思います。
年末年始、ゆっくりと本を楽しみたいものです。
では。

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11.安心のファシズム(斎藤貴男)

1時間かけて書いた文章が一気に消えて本当に悔しいので、今回は適当にやります。

第一次世界大戦ごに興隆し、イタリア・ドイツ・日本の軍部による国家統制を許したとされるファシズムの思想について、現代の日本でもそのファシズムが起こる可能性を検討しています。

世界史的な観点と倫理学的な観点からファシズムを説明した後、本の内容の検討に入るという、いままでに一番長い記事だったのですが…なんでいきなりデータ飛んだのかわかりません。「ページの有効期限が切れた」とかなんとか。しらねぇよと。
戦間期体制の話とかエーリッヒ・フロムの「自由からの逃走」の話とか面白かったんですけど。
涙目です。FC2ブログふざけんなと。

本はまぁまぁ面白かったです。
「ファシズムは、そよ風とともにやってくる」という言葉がありますが、ファシズムが潜在的に現代日本に蔓延する可能性は今だってあるのです。

終わります。まぁ気になったら読めばいいんじゃないですか。

次回は官僚制批判の論理と心理やります。

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10.ソーシャル・キャピタル入門(稲葉陽二)

こんにちは。
今回は中公新書のソーシャル・キャピタル入門についてやっていきます。
その題名通り、ソーシャル・キャピタル(社会関係資本)についての本です。

さて、ソーシャル・キャピタルとはなんでしょうか。
本の冒頭には端的にこう書かれています。
『人々の間の協調的な行動を促す「信頼」「互酬性の規範」「ネットワーク(絆)」をソーシャル・キャピタル、日本語で社会関係資本と呼んでいる。』
まぁ要するに、2011年の「今年の漢字」に選ばれた『絆』ですが、その絆とは具体的にどのようなもので、どのような効果を持つのかというテーマについて、この本は書かれているのです。

さて、具体的な解説は本を読んでいただくとして、ざっと内容を振り返ります。
まず筆者は社会関係資本の大きな特徴の一つに、外部性がある点を挙げます。ちなみに、外部性とは個人や企業などの経済主体の行動が市場を通じないで影響を与えるもの を指すものです。
たとえば、これは負の外部性といわれますが、市場に商品を供給する工場が、大気汚染物質を排出するような場合です。この場合、大気汚染はお金の交換とは無縁であり、市場とは直接かかわりを持ちません。しかし、大気汚染の進行は結果として人々の健康や酸性雨などを通じて市場のほかのアクターに影響を与えるのです。ちなみに、新自由主義的には、その場合政府が物質量をむやみに規制するのではなく、たとえば『汚染物質排出税』を設定することでその外部性を内部化することが求められるます。まぁこれはあんまり関係ないですね。

外部性の特徴を具体的に論じたあと、筆者はそのような社会関係資本の有用性を検証し、そしてそれを客観的に計測するための研究の試みを紹介しています。まぁこの辺はめんどくさいので説明を省きます。
そのあとは社会関係資本を破壊する代表的なものとして経済格差を代表例に挙げてその影響を考察したり、社会関係資本の悪い面について挙げておりますね。

まぁかなり適当ですが、本の内容はこんな感じです。
なんでこんな適当かというと、要は個人的にあんまり面白くなかったからなんですけど(笑)
でも、僕は読書は1週間に最低2冊の制限をつけてますので、そう考えると年間100冊ちょっとじゃないですか。だったら何冊かぐらいなら、多少面白くないなぁと思っても最後まで読みますよ。


さてさて、いくら面白く思わなかったからといっても、適当に終わるわけにはいきません。
なぜなら面白い面白くない関係なく、自分なりの意見や考えたことはあるはずだからです。
というわけで自分なりに考えたことをつらつらと喋って、記事を終えたいと思います。

まず。なんでこの本を面白く思わなかったのでしょうか。
それは何より、ソーシャル・キャピタルという概念の漠然さから、内容に強い説得性が感じられなかったからかと思われます。
出てきた統計や論理がなんとなく、「こじつけ」であるかのように感じたり、「何を当たり前のことを言ってるんだ」と思うことが多かったのです。
そういう点から、ソーシャル・キャピタルに関する研究はまだ真新しいものなのかと思われます。
なんか社会への絆を図るアンケートの文面への工夫についてなどが紹介されたりしていて、研究者の苦悩と努力がつづられているところが多かったです。
だから、何か新しいものを学んだ、という感覚はあまり得られないで終わってしまいました。

さてさて、それでも一応印象に残った部分があったので、そこを紹介して終わります。
それは最後の一文なんですが、
『今後は、教育、まちづくり、市民活動、情報化なども社会関係資本への影響を十分考慮して制度設計する必要がある。』
僕はここに「新しい研究対象」としての社会関係資本を見出すことができました。
社会関係資本とは何か、どういう影響を持つのかなどを正確に言い表すことはまだ出来ないかもしれません。
それでも市民社会の発達、NPOやNGOそしてボランティアなどの献身的活動など、至る所で僕らは「利害を超えた」「市場を通じてではない」人と人の繋がり、絆を感じ、目の当たりにしています。
社会関係資本の存在をそもそも否定することはできないのです。人間の行動すべては経済的利害では説明できません。社会関係資本は、きわめて曖昧な形をとりながらも、確かに存在しているのです。


本の最後の一文は、政治的アジェンダとして、そのうち社会関係資本が上がってくる可能性を示唆しているものとして僕の目には映ります。
確かに今はまだ社会関係資本の研究は始まったばかりで、そのプロセスは難航し、僕らのような素人にとって理解し難いものかもしれません。

しかし、どんな学問であっても、最初はそんなものではなかったのでしょうか。
もし社会関係資本に関する論理がこれから発展すれば、僕たちはそれを無視できなくなるほど重要なものになるかもしれません。
今はまだ「当たり前のこと」を理論化しなおす段階に止まっているように見える社会関係資本研究ですが、これからの発展と成功を密かに期待し、頭の隅に入れておこうかな、と思いました。
今年の漢字は「絆」です。
絆とは何か、その研究というのも、面白いといえば面白いかもしれません。

さて、この辺で終わります。
次回は岩波新書の「安心のファシズム」を扱います。
お疲れ様でした。

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9.ジャーナリズムの思想(原寿雄)

こんにちは。前回の次回予告を完全無視ですね、すみません。
今回は岩波新書の「ジャーナリズムの思想」を取り上げたいと思います。
この本はもともとジャーナリズムを学ぶゼミを履修するためのテストに向けて、読んだものでした。
ジャーナリストという仕事に求められる考え方や精神を学ぶ上で、大変参考になった本です。

内容を振り返ってみましょう。
そもそも、ジャーナリズムの役割というのはなんでしょうか。
一般的に、ジャーナリズムは時事的な事実の報道や論評を伝達する社会的な活動と定義されます。
しかし、ただそれだけではありません。

本の「はじめに」では、次のようにジャーナリズムの理念について言及しています。
『権力に対する番犬となり、社会正義の実現をはかる』
『民衆の「知る権利」に応え、地域から地球まで環境を監視する』
『広告を含めた日常生活の情報から、(中略)エンターテイメントの提供』


そして筆者はこう主張しています。
『ジャーナリズムはテーマの選択から視点、表現、取扱いの大きさまですべて主観的判断による選択作業なのに、その選択の基準になるジャーナリストの価値観を問題にすることなく、表面的な流れを批判していても核心に迫ることはできない』と。
ここで、ジャーナリズムの思想の検証が必要とされてくるのです。


さて、本の目次に沿ってざっと概観します。
第一章の「ジャーナリズムの倫理観」では、ジャーナリズムという職業について、公共性があるが故に求められるモラルの特徴を解説しています。
ジャーナリストは一般社会人よりも高い倫理観を要求されている、というのはよく言われます。マスメディアは公共性を持つ傍ら、商業性も持っている存在のため、職業意識が弱く商業性にばかり走ってしまうと、本来の理念を果たせなくなるからです。
しかし、ただ一般以上に倫理観が高いだけではいけません。
「人間の歴史の記録者」としてのジャーナリストが一般社会のモラルに反してでも独自の判断と行動を選択しなければならない状況についても解説されています。
第二章ではテレビの特性と思想についての解説がなされます。
「現在主義」、「映像主義」、「感性主義」というテレビの持つ3つの特徴に基づいて、ジャーナリズムの担い手としてのテレビの現状、課題などを紹介しています。
そして第三章以降では日本のジャーナリズムが抱える問題や、それに大きな影響を与えた「不偏不党」「政治的公平」の概念の再検討など、ジャーナリズムを取り巻く現状についての検証が行われています。

読んでみての感想ですが、これまでに読んできた新書の中でも特に面白かったし、勉強になったと思います。
マスコミというだけで拒絶反応を示すような人もいる現代社会において、この本でジャーナリズムの本来の役割・理念を一から考え直し、そしてそこから現代に生じている問題の根本的原因を探ることに、僕は大変新鮮な感覚を受けました。

さて、そんなこの本のキーワードとなっているのが、「信頼」という言葉でした。
詳しくは本を読んでほしいのですが、筆者は自由な言論・報道はマスメディアに対する社会の信頼の上に成り立っているもので、きわめてもろい構造であると指摘しています。
そして、そんな構造の中での「商売のため」「特ダネを狙った功名心から」にすぎない報道活動は、ジャーナリストに対する社会の深い信頼構築を阻害するものだと痛烈な批判を筆者は行っていました。
その意味では、信頼を損ねているとよく言われる現代のマスメディアの行く末は前途多難、と言うべきかもしれません。

最後に、印象深く感じた部分を紹介して記事を締めさせていだだきます。
「ハゲワシと少女」という写真でピューリッツァー賞を受賞したカメラマンが、「なぜ少女を助けなかったのか」という世界各国からの痛烈な批判の中で33歳の若さで自殺をした出来事に関しての一節です。
『報道陣が通常、市民モラルで仕事をなすべきなのは当然である。しかし、人間の歴史は記録者を必要とし、記録が人類社会の進歩に役立ってきた。そこに報道の昨日とジャーナリストの生きがいが求められ、時に非情な記者・カメラマンの存在が意義づけられてきた。』「記録者」たるジャーナリストは「当事者」を兼ねてはならないという「非当事者原則」にまつわる話です。
ジャーナリズムは、もともとその根本に巨大な葛藤を抱きながら、常に存在しているのです。

大変中身のある本です。是非読んでみてください。

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8.新自由主義の復権(八代尚宏) 後編

おはようございます。
ホントは一冊一記事が良かったんですけど、まぁそうも言ってられないんで、後編、ということでよろしくお願いします。

さて、いままでは新自由主義とは何かということを大学一年生レベルで解説してきました。
そろそろ本の内容に戻ろうと思います。

この本を章ごとに振り返りましょう。
まず
1.新自由主義の思想とは何か
2.資本主義の終焉?
の二章で市場原理主義だと誤解されがちな新自由主義の思想を解説しています。また、二章では金融危機のメカニズムを解説し、新自由主義的な解決策を示しています。
続いて、 3.市場主義は日本の伝統 で、「日本の伝統を破壊した」という新自由主義への批判に対して、日本経済史の中でも市場主義的な活動が行われていた事を明らかにし、批判をなし崩しにしています。
大体以上の1-3章までで、新自由主義に対する批判を片っ端から論破しています。

そして4.小泉改革で格差は拡大したか、5.小泉改革は「行きすぎだったか」 で小泉改革を新自由主義的に解説します。
6.社会保障改革、7.労働市場改革、8.新産業の可能性、終章.震災復興とTPP で、新自由主義的立場からこれからの日本の辿るべき道筋を示しています。

構成としては新自由主義を解説しつつ批判を論破、その後将来へのビジョンを示すという、文章としては相当丁寧な構成をしています。
ただ、後半は結構具体的な話まで掘り下げて詳しく解説をしているので、最後まで読むのは大変かもしれません。

筆者の一貫した主張は、政府の役割は市場機能の抑制でなく、その補完にあるといものです。
つまり、新自由主義や資本主義によって起こるとされる弊害のほとんどは、政府が適切な市場取引をさせるための制度を作らなかったことによる、という説明です。
まぁ新自由主義を唱える人が一般的によく使う議論です。
また筆者はその意味で、新自由主義と市場原理主義は違う、とも言っています。新自由主義は政府の役割を決して軽視しているのではなく、むしろ市場経済の補正を行う存在として重視しているのだと主張しています。

まぁあんまり色々言ってもしょうがないので(気になったら読んでください)。
この本だったか忘れましたが、新自由主義的な市場と政府の関係はサッカーの試合に例えられています。
プレーヤーが活発に動き回るフィールドが「市場」、そしてそこにルール違反や不正がないかをチェックする審判が「政府」です。
審判はプレーヤーが不正や良くないことを行わないようにするルールをきちんと作成し、それに基づいて最低限の規制を行います。新自由主義的な政府では、審判の介入は最低限なので、プレーヤーは活発にプレーをし、楽しい試合が展開されます。
しかし、審判(政府)があれもダメ、これもダメ、と規制を乱立させると試合の進行は滞るし、もし審判が片方のチームに有利になるようなルールを作れば、その試合はもう醍醐味もへったくれもなく、見れたものではなくなってしまいます。新自由主義が原因とされる失敗は、このように政府が適切な役割を担わないがために起こるものであり、決して新自由主義が悪いのではないと言われます。

さて。本の内容をざっと述べたところで、自分の思ったことを話したいと思います。
自分が一番感じたのは、「中途半端が一番良くない」ということです。
この本では、小泉改革の失敗の最大の原因は反対派に譲歩してイデオロギー的に相反する制度の成立をいくつか認めてしまったことや、そもそもプレーヤーである企業や社会の制度や空気が、新自由主義的な考え方にうまく適合出来ないことが理由として挙げられています。
それ以降でも、日本の将来のビジョンを示すときは基本的に官も民も新自由主義的な考え方に基づいて行動しているという前提で議論が進められていました。
政策は決して政府の一部が推進しようというだけでは効果を持ちません。
政府が一体となっても社会に受け入れられなければ効果は表れません。
この本の中で示された新自由主義に基づく素晴らしい方向性は、官民ともに新自由主義への理解を持っていることが不可欠なものでした。
政治主導の話ではないですが、経済体制というのは広い分野でのコンセンサスが出来て初めてうまく機能するのだろうと感じます。方針を打ち出す時に政府が主導権を握れないのは、改めて困った問題だなぁと思わされました。
あと、TPPの参加賛成の意見の記述があったので、それも面白かったですね、あまり見かけないので。

さて。無駄に長くなった新自由主義の復権も終わりました。

次は
ソーシャルキャピタル入門(中公新書)
安心のファシズム(岩波新書)
官僚制批判の論理と心理(中公新書)のどれかですかね。
お疲れ様でした。

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8.新自由主義の復権(八代尚宏) 中編

ゼミに関するレジュメを作ったらこんな時間に。(3時)まぁ大学生の特権ですね。実家生で学校まで片道2時間ですけどね。明日6時起床ですけどね。

さて、福祉国家の話まで進めたんでしたっけ。
国家が積極的介入を行う福祉国家は、1980年代まで多くみられました。
イギリスでは「ゆりかごから墓場まで」なんていうスローガンも生まれましたね。

しかし福祉国家もやがて凋落を迎えます。
福祉国家によって生じた問題とはなんでしょうか。
まず、福祉国家ではインフラ整備や社会保障制度を広く行政が担いましたが、その行政サービスの過度の拡大が政府の財政を圧迫し、財政赤字を悪化させました。
また、政府による介入・規制が増えたことで市場経済の活動が活発でなくなり、停滞しはじめました。
加えて、行政による公共事業は競争原理が働かない「保護された分野」であるため、効率的・真面目に働かないモラルハザード(倫理の欠如)の問題や、保護によって得をする利益団体と政治家、官僚の間で利権が絡み、一部の集団に恣意的に運用されてしまうというレントシーキングという問題にも発展しがちです。

そこで登場したのが小さな政府です。
代表的には、アメリカのレーガン大統領、イギリスのサッチャー首相、日本の中曽根康弘などの政治家が挙げられます。
この小さな政府というのは、前の福祉国家を大きな政府というのと対比させて使われています。
小さな政府は行き詰った福祉国家に対して、政府部門の簡素化・効率化を図りました。
具体的には、行政サービスの範囲を狭める民営化や、規制の撤廃などが挙げられます。
そこで重要となるのが、新自由主義という考え方なのです。
すなわち、市場の持つ自律性を再評価し、幅を広げすぎた行政サービスのうち、一定の範囲を市場経済にゆだねる、という形です。
もちろん、新自由主義にも欠点はあります。
低福祉低負担ですが、自己責任が大きく、格差を拡大させてしまうという点です。

さて、ここまで説明したうえで、もう一度wikipediaの説明を振り返りましょう。

市場原理主義の経済思想に基づき、低福祉、低負担、自己責任を基本として小さな政府を推進する。経済政策については、均衡財政、福祉・公共サービスなどの縮小、公営事業の民営化、経済の対外開放、規制緩和による競争促進、労働者保護廃止などを基本とする、市場原理を極力活用した資本主義経済体制が新自由主義である。

だいぶ分かるようになったのではないでしょうか。

では、そろそろ本の内容に入りたいのですが、残念ながらもう眠気が限界です。
2時間しか寝れなくても、まぁ寝ないよりましでしょう。
寝坊はしないと信じて。
次回は本の主張と内容をざっと述べた後、自分の感じたことを述べたいと思います。

続きます。

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8.新自由主義の復権(八代尚宏) 前編

さて、今回は中公新書の「新自由主義の復権」を紹介したいと思います。
本についていた帯には、次のような一節が書かれております。

「最も嫌われる経済思想」の逆襲 と。

要は、
「市場競争を煽って格差を拡大し、日本の伝統を破壊した」
「世界金融危機を引き起こした元凶」
と日本で批判される新自由主義の有用性を再検討し、そのうえで新自由主義に基づくビジョンを示す本ですね。

さて、では、新自由主義ってなんでしょうか。
まずはその解説から行いましょう。
まず、wikipediaから説明を引用します。

原理主義の経済思想に基づき、低福祉、低負担、自己責任を基本として小さな政府を推進する。
経済政策については、均衡財政、福祉・公共サービスなどの縮小、公営事業の民営化、経済の対外開放、規制緩和による競争促進、労働者保護廃止などを基本とする、市場原理を極力活用した資本主義経済体制が新自由主義である。

うーん、分かるような分からないような…という人が多いかも知れません。
まぁ政治を勉強する人で分からない人はいないと思いますが。
それくらいの基礎知識ですので、自分の復習も兼ねて、ざっと解説していきたいと思います。

国家の役割という観点から歴史的に新自由主義をとらえてみましょう。

こういった場合、まず原初状態として紹介されるのが、フランス革命から産業革命時代に多く成立した夜警国家でしょう。
近代国家、という枠組みが出来て間もない時代の話であり、その中で成立した市場主義や資本主義の影響の強い形態の国家が夜警国家です。
まぁ簡単に言えば「財の配分に関しては市場経済に全て任せれば上手くいくので、国家はこれに介入することを避ける」という、市場経済の自律性に強く依存した国家形態でした。
そのため夜警国家は自由放任的な形態を選択し警察(治安維持)と防衛のみに関わっていればよいとされ、かなり限定された役割しか担わなかったのです。
ちなみに夜警国家は、もともと「夜警しかやろうとしない」と皮肉られたことがきっかけとなって使われた言葉なんです。まぁどうでもいいですけど。
この時代の国家は、その役割の小ささから、最少国家、なんて言われたりもします。

さて、市場経済に任せっきりの国家が成立すると、どうなるでしょうか。
資本主義や市場経済では解決できない問題が浮上してきますね。
一般に「社会問題」と呼ばれる問題の浮上です。
具体的には、資本家階級と労働者階級のどうしようもない貧富の差、都市問題、公害の発生、インフラ整備の不足…などです。

そこで登場したのが福祉国家です。
市場に任せっきりにした結果生じた数々の問題は国家の介入によって解決されるべきだ、という発想です。(これを積極的国家観といいます。)
国家は良好な国民生活を助長し国民の福祉の向上を図るべきだ、という考え方により、広範な行政サービスを提供することを求められたのです。
その最たる例が社会主義です。社会主義では、市場経済を一切排除し、計画経済に基づいて、すべて国家主導で財を供給、配分することを目指しました。
また、社会主義にまで行かなくても、代表的な福祉国家的政策はケインズの経済理論に基づいたアメリカのF・ルーズベルト大統領によるニューディール政策です。
大規模な公共事業の導入によって世界恐慌のはじまる不況の時代を切り抜けました。

少し話が飛びますが、これと関連した正義論の話をしてみたいと思います。分かりやすいと思うので。
この頃の代表的正義論者はジョン・ロールズです。
市場主義、資本主義体制下では「(経済活動の)自由」こそが正義でした。
そのため、政府が高い税金を取って公共事業に費やしたり、貧しい人に再配分するのは正義に適っていない、という主張が強かったのです。
なぜなら、Aさんが持っている富は、それ相応の働きを行ったAさんへの報酬であり、富の再配分とはそういう意味でAさんの持つ「経済活動の自由」の一部を職のない貧しい人に譲り渡してしまうことと同義であったからです。
しかし、ロールズは思考実験の結果から、「正義の二原理」を提唱し、その主張は間違っていると示しました。基本的考え方は以下の通りです。
もしも、経済活動の自由が正義ならば、教育が受けられずにお釣りの計算ができない、家柄が貧しいために限られた職業にしか就くことができない、そんな人々が市場に溢れかえっている現状は正義に適っているのでしょうか。
すなわち、最低限健康で文化的な生活を営む権利をはく奪された彼らは、実質的には「経済活動の自由」を持っていないのだ、市場経済から排除されているのだ、と論じたのです。

この論はアメリカで「リベラリズム」として広く普及し、福祉国家型自由主義を論理的に正当化する役割を果たしました。
さて、これで夜警国家から福祉国家までの変遷の歴史がなんとなく分かったかと思います。

そしていよいよ新自由主義を推進する小さな政府について…と行きたかったのですが、残念ながら22時半現在、ゼミの本にまだ手を付けていないという極限状態なので、そろそろゼミの準備をしようかと思います。
本について触れる前に、かなり長くなってしまいました。すみませんw

続きます。

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7.世界を動かした21の演説(クリス・アボット)

さて、今夜から宮城県の方へボランティアに向かうのですが、荷物を作り終わって準備も完了したところで多少時間が余ったのでブログを更新させていただきます。
今回紹介するのは「世界を動かした21の演説」というハードカバーの本。あまり聞いたことはないかと思いますが、書店で見かけたときに一目ぼれして衝動買いしてしまった本です。
もともとのタイトルは“21 Speeches That Shaped Our World”です。うーん、まぁ「動かした」というよりは「形作った」、といった方が個人的にはしっくり来るんですがね。でも副題が“The People and Ideas That Changed the Way We Think”ですから、まぁそういう意味では「動かした」ですね。

さて、そんな一目ぼれで買ってしまった本。
率直な意見はといいますと、買ってよかったです
まぁ、つまらない本だったら紹介しませんからね。
内容をざっと言いますと、まぁ題名の通りです。
この本では、現代の世界で問題となっている、もしくは昔から問題となっていた様々な「問い」に対して21の演説が選ばれ、載っています。
テーマは人種差別やフェミニズムの問題に始まり、資本主義の抱える問題点や、戦争と平和、民主主義の行方、地球環境問題などなど、多岐にわたります。
いつだって世界は絶えず変化を続けてきました。そして現在、科学技術の力を借りてその変化はますます強力に、速度を増しています。
そんな世界の中で、いま、そもそも何が問題となっているのでしょうか。私たちは何に気を付けて生きていく必要があるのでしょうか。
この本は、そんな混沌とした「いま」を読み解くヒントを与えてくれます。

この本の特徴について2点ほど紹介したいと思います。
この本の構成は章ごとに1つのテーマが定められ、それぞれの分野に大きく影響を与えた、もしくは鋭い見解を加えた演説を紹介しています。
そこで、まず一つ目の特徴として、演説の前に書かれている、関連分野・演説の時代背景などについての解説が、非常に分かりやすいんです。
ただ単調な解説をしているのではありません。演説を中心とした解説なので非常に躍動感があり、ダイナミズムを感じられる解説がされています。
二つ目の特徴として、演説の選び方にあります。
この本で紹介される演説には、ブッシュやオバマ、キング牧師の演説も含まれますが、そういった有名どころだけではありません。死刑に処される前の死刑囚の演説、イギリスのある下院議員の悪名高い演説、さらにはテロに巻き込まれ息子を失った母親の悲痛なインタビューの内容までもが紹介されています。
有名でも何でもない、一見すれば時代に呑まれ淘汰されてしまうように思われるような演説ですが、作者はそれぞれの演説の中に、「いま」を切り取る上で重要となり得る視点が提起されているのを見抜き、そして取り上げているのです。

それだけに21の演説ではどれも、ハッとさせられるような鋭い指摘がなされています。
もちろん演説そのものは当時の聴衆に向けられたものに違いありませんが、しかしそれは同時に我々に対するメッセージでもあるとも感じられるのです。
演説は人によって語られ、書き取られ、翻訳され、活字となって僕の目に飛び込んで来ています。
そんな気の遠くなるような時間とプロセスを経た後でもなお、演者の主張は決して古びることなく、今も「生きた」ものとして僕達に反省を促すのです。
僕は言葉というのは本当に凄いものだなと感じずにはいられません。
はじめに言葉ありき、言葉は神と共にありき、言葉は神であった。
日本で言えば言霊、なんて言い回しも存在しますね。
そんな言葉の持つ力を改めて認識させられました。
本の冒頭のテーマも、「言葉の持つ力」についてでした。
そこには「演説だけが上手い」、となじられたある議員候補者の演説が載っています。
まぁ気になる方は買ってくださいw

とにかく、現代の世界を大局的、批判的にとらえるのに、大きな力になってくれる本です。
言葉が心に迫ってきます。
オススメですよー。


さてさて、今は集合場所行きの電車の中で更新しているわけです。
先程も言いましたが、僕はこれから宮城県にボランティアをしに行きます。
なんとか力になることができればいいな、と願うばかりです。
そんなわけですが、勿論移動時間はあるわけなので本は持っていきます。
「新自由主義の復権」(中公新書)、「水戦争」(角川SSC新書)、そして司馬遼太郎の「燃えよ剣」(新潮文庫)。
一つ目はもう半分越えてるんで多分読み終わるでしょう。
二つ目は火曜のゼミで使うので読まなきゃいけません。
三つ目は久しぶりの小説ですから、とても期待に胸が膨らんでいます。でも多分無理かな?

まぁそんな感じです。
できるだけ早く、読み終わり次第更新するつもりです。

それでは、良き週末を。

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6.これからの「正義」の話をしよう(マイケル・サンデル)

さて、今回は僕の好きな分野である『政治哲学』の本です。
ハーバード大学のマイケル・サンデル教授の「これからの「正義」の話をしよう」。
彼の「正義(justice)」という講義はハーバード史上空前の履修者数がいるようです。すごいですね。

とはいっても、この本の中でサンデル氏の思想が展開される部分はあまりありません。
「これこれこういう状況の時、何が正義にかなっているのだろう?」
というそれぞれの議題設定に対し、これまでの著名な思想家の発想を当てはめて解説し、検証していくという形式になっています。そして最後にやっと、コミュニタリアン(共同体主義者)としての彼の考え方が展開されるのです。

僕は答えの出ない問いというのが大好物です。
1人を殺せば5人が助かる状況があったとき、あなたはその1人を殺すべきか?
金持ちに高い税金を課し、貧しい人々に再分配するのは公正なことだろうか?
前の世代が犯した過ちについて、私たちに償いの義務はあるのだろうか?
僕にとってこうしたテーマについて論じるのは、本当に楽しくて魅力的なことなのです。僕だけでしょうか。そんなことないですよねw

まぁでも確かに内容は難しいです。
こんな抽象論に理論もくそもないだろう、と思う方も多いかと思いますが、これまでに多くの賢人が知恵を絞り、正義の理論を生み出してきました。
僕は大学受験で倫理を選択していたので、復習になるなーくらいの気持ちで読めたのですが、気を抜いているとロールズのあたりで挫折してしまう人が多いようです。
でも、本当に面白いので、ぜひ読んでほしいなと思います。
人間がよく生きていくために、何が必要か。正義は時代を反映して刻々と変化するものでもあります。
そしてその答えのない問いを問い続けるのは、決して無駄なことではありません。
サンデルの言葉を借りましょう。
「現代世界を覆う無数の困難の奥には、つねにこうした哲学・倫理の問題が潜んでいる。この問題にむきあうことなしには、よい社会をつくり、そこで生きることはできない。」
正義にはどうしても判断がかかわってきます。最終的にあることが正義にかかわっているか否かを判断するのは、結局あなた自身なのです。

サンデルの共同体主義について少し振り返ってみましょう。「正義論の名著」/中山元を参考にします。
リベラリズムとリバタリアニズムは「わたしの責任はわたしが引き受けたものだけにある」という主張が基盤となっています。
つまり、個人が所属する共同体とのかかわり、負荷から独立した存在として人間をとらえています。
ところが、サンデルはそこういった考え方が価値観の多様性に大きく寄与していることを認めつつも、その点について批判をしています。
人間は自分の家族や都市、国家の過去の様々な負債、正当な期待を受け継がずに自らを語ることは不可能であると主張しているのです。
これをサンデルは「連帯の責任」と形容しており、この責任の存在は否定できないと主張しています。
具体的には「戦争責任」や「母親の介護をする家族」などに見られます。

そして、サンデルは社会の在り方について以下のような提言をしています。
現代の民主的社会に生きる人にとって、道徳的・宗教的な問題に対して意見が一致しないのは当然である。
だから、「公共的な理性が求める意味で中立」であることは賢い選択かもしれない。
しかし世の中には中立でいることが不可能な問題も多数存在する。そしてこれらの問題は回避することなく、積極的にとりくむべきだ、と。
「公正な社会は、ただ効用を最大化したり選択の自由を保障したりするだけでは達成できない。公正な社会を達成するためには、善き生活の意味をわれわれがともに考え、避けられない不一致を受け入れられる公共の文化をつくりださねばならない」(『リベラリズムと正義の限界』)
具体例としては妊娠中絶の問題などが挙げられています。

僕は彼の考え方が非常にしっくりきます。
自分の所属する共同体が負っている責任は、自分のものでもあると感じています。
自分の体をどうしようが自分の勝手だ、自分より前の先祖がやってきたことなんか自分とは何の関係もない、という考え方よりも、よっぽど無理のない考え方だと思います。
自由だけでは人は生きていけません。そもそも、共同体の中で他者と交わる過程で成立していくのが、自己なのではないでしょうか。

ただ、公共の文化云々については若干理想的すぎるかなとも思います。
中立の立場を選択するのは決して安易に選んだわけではないと思います。
「公共性を持つがゆえに、国家が片方の考え方に傾斜するのを嫌う」という発想は、ある程度健全さも持った考え方ではないでしょうか。
それに完全な民主主義国家ならばいいかもしれませんが、今の日本(おそらく世界の多くの国でも)このような「公共の文化」を作るための議論をしたとしても、結局採用されるのは「利権を握る強者」「多数派」のそれではないのでしょうか。
僕は正義を説く人々の考え方、姿勢は大変好きです。
それでも僕は「正義が勝つのではなく、勝ったほうが正義」という考え方の上に生きています。
正義という聞こえの良さを利用して、自分の考え方を押し付けたり、自分に有利なような風潮を作ろうとする輩はいつの時代もいるものです。
正義という概念の裏側には、そんな危うさも潜んでいると僕は警戒しています。

あなたはどう思われますか。
ぜひ読んでみて思うところを聞かせてください。

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5.グローバリゼーションとは何か(伊豫谷登士翁)

さて、勉強の合間に今回は平凡社新書の「グローバリゼーションとは何か」について話してみます。

突然ですが、グローバリゼーションとはなんでしょうか?
これは僕のゼミの教授に教わったことですが、簡単に定義すると
グローバリゼーションとは、
「科学技術の飛躍的発展にともない、前の時代よりも人、モノ、金、情報、サービスなどがより速く、より大量に、そして多くの場合より安価に国境を越えて相互に移動しあう現象プロセス」と定義されます。
もちろんこれが全てではありません。
そもそも、グローバリゼーションという現象自体が存在するのかということまで、未だ議論されつくされていないのです。
グローバリゼーションと一口に言っても、それは決して簡単な問題ではないのです。

筆者は僕たちの思考そのものが、ナショナルな様式にどっぷり浸かっているという指摘をしています。
そのうえでグローバリゼーション研究について、ナショナルな思考回路を脱構築し、枠組みを再構築する試みであると主張しています。

読んでの感想ですが、目からウロコというのはこういうことを言うのかな、という感じです。
普段何気なく使う「グローバリゼーション」という単語だからこそ、読んでいてその奥深さに驚嘆させられました。
ナショナルな思考回路から抜け出す、というのは一種のパラダイム・シフトだと思いますね。
一国の政策が遥か彼方の国家の雇用状況に影響を及ぼすような時代だというのは皆さんも経験的に、なんとなくお分かりになるとは思います。国際社会のアクター同士の相互作用はますます深まるばかりです。
しかし、世界全体という単位でみると、これからどのようなことが起ころうとしているのでしょうか。
「国民国家の多孔化」「ウェストファリア体制の崩壊」なんてよく言われるグローバリゼーションですが、それってつまりどういうことなんでしょうか。

この本はそんな根本的な疑問の解決の糸口となりえます。
『領域性に基づいた近代国家による世界秩序の解体』という表現が印象的でした。
内容についてそこまで詳しく述べても仕方ないので、以上にします。
グローバリゼーションという現代社会を代表するといっても過言ではないような現象について、興味がある方は是非読んでみてください。国際ニュースを新しい目線で眺められるかもしれません。

ちなみに、同じグローバリゼーションでもヘゲモニー国家としてのアメリカの側面を強調した本が藤原帰一の「デモクラシーの帝国」になるのでしょうか。
まぁまた今度紹介する機会があるかと思います。

あと、新書の本を批判的に読むってかなり難しいですね。
自分がそれをできるようになるのはまだ先かなー…なんて思います。

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4.TPP亡国論(中野剛志)

さて、今回紹介するのは集英社新書の「TPP亡国論」です。
この作者は京都大学の中野剛志助教授です。
テレビの番組でTPPを解説するゲストとして出演し、マジギレしたことで有名ですね。
あの動画を見て以来、「TPPってなんだろう」という漠然とした疑問が頭にこびりついて仕方がなかったのです。
自分は特に中身を知らないまま、今後日本の将来数年を左右するよな決断がなされようとしているのが気持ち悪かったので、この本を読むことにしました。
まぁそういう意味では、僕は著者の中野氏の思惑通りに行動した形になりますね。

この本で得たものは、内容もさることながら、「知らないままでいる」ことの危険を認識させられたことが大きいです。
皆さんはTPPとはどんな協定か知っていますか?
これを結べば日本のどこに、どのような影響がでるか予測できますか?
これまで日本は自由貿易の実現に向けてどのような取り組みをしていたのか知っていますか?
マス・メディアは「平成の開国」とプラスイメージの報道が中心でありますが、その内実について正確に検証しようとする報道があまりされておりません。
べつに「マスメディアの陰謀」などということを言いたいわけではありませんが、私たちは情報化社会の中で、いつの間にか不足している情報も"もう十分"と満足してしまっている可能性もあります。
自分が持つ不確かなところ、曖昧なところを鋭く反省し、追求していく。
情報が飽和している社会だからこそ、「思考停止」することなくそうした積極的態度をとることが求められるのではないでしょうか。

これは学者という身分である中野氏だからできた取り組みかもしれません。
しかし、私たちだって本を読み新聞を読みインターネットとつながることが求められる時代なのでしょう。
知らない、ということ自体が罪であり、そして本人に返ってくる、そんな時代に突入したのを実感させられました。
知的好奇心を持ち、それに素直に生きていきたいものです。

内容はもう実際に読んだほうが早いです。
読みやすいのであっという間に読めますよ。主張がダイナミックに展開されているので、楽しく読めます。
TPPって何?という方も、ぜひ読んでみてください。

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3.中東民衆革命の真実(田原牧)

今回は集英社新書の「中東の民衆革命の真実」を取り上げます。

2010年の暮れから2011年にかけて、中東の多くの国々で民衆革命がおこり、独裁政権を倒していきました。
ことの発端はチュニジアで起こった民衆運動により政権が崩壊したことに始まります。
「ジャスミン革命」という名で知られるこの革命は、エジプト、シリア、リビア、イエメンなどの中東諸国に次々と波及していきました。
2011年の世界史的出来事と言えば、日本の東日本大震災に伴う原発事故と、この中東民衆革命ではないでしょうか。
この本はその中東民衆革命のうち、ムバラク政権を倒したエジプトで起こった革命について、現地レポートという形式で語っています。

感想としては、読みやすかったです。
新書なんですが、描写に躍動感が感じられ、すらすらと引き込まれるように読めました。
現地レポートというわけで、自分がまだ知らない「中東民衆革命」の姿を知ることができたのが一番大きかったですね。
たとえば、
革命で重要な要素とされているfacebookやtwitterなどのSNSの果たした具体的な役割。
革命の成功で熱くなっている国民ばかりなのかと思いきや、実は世代間での考え方の違いや字が読めない人が参加できていないという現実。
そして革命を成し遂げたものの、その後の青写真についてはまだ曖昧であり、民主主義に過度の期待を寄せているような、エジプト全体での不安定さ。
そういったいくつかの事実を現地の体験の中で正確に位置づけています。
一見して華々しく見えるかもしれない「革命」の裏に隠されている、数々の現実的問題。
それらを克明に綴った、数少ない本だと思います。


さて、最後にこの本の内容を僕がどう使っていくつもりか、お話します。
えー、端的に言えばゼミ論です。
前期と後期に僕のゼミでは1万字の論文が課されるわけでありますが、その題材にしようというのです。
前期のタイトルは「3.11と地方分権化社会」。
東日本大震災で観察された首都圏での被害をもとに、首都一極集中からの脱却の必要性及び可能性を述べたものです。
後期のタイトルは「中東の民衆革命におけるグローバリゼーションの様相」とかそんな感じですかね。
グローバリゼーションの実態を追求するとともに、東日本大震災と並んで今年の大きな出来事であった中東民衆革命におけるその様相を観察したいと思います。
まぁたぶん難しすぎるんでどうなるか分からないですまだ。

ちなみにグローバリゼーションに関係した本だと
「論争グローバリゼーション」(D.ヘルド)、「デモクラシーの帝国」(藤原帰一)、「グローバリゼーションとは何か」(伊豫谷登士翁)あたりですね。今度紹介すると思います。
長年覇権国であるアメリカに有利なものだとよく言われるグローバリゼーションの動きですが、
ウィキリークスや、親米政権を倒したエジプト革命など、加速し肥大化したグローバリゼーションがアメリカに不利益をもたららす場面が最近観察され始めています。グローバリゼーションとはなんなのか。実はそれは大変奥の深い物語なんですね。
まぁこの本については、このへんで。

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2.「政治主導」の落とし穴(清水克彦)

早稲田大学出身のジャーナリストの方の本ですね。平凡社新書です。
2011年の新しい本なので、比較的新しい情報が書かれてありました。
東日本大震災で政局がぐちゃぐちゃになっていた面もあったので、その辺の動向を整理するには非常に分かりやすい本でした。
政権を奪取したものの、なぜ民主党政権は迷走を見せたのか。
「政治主導」というキーワードから、そのメカニズムを説明しています。
政治主導の中心をあくまで総理大臣に置き、その地盤強化をする意味合いで議員立法の活性化を支持しています。

議員立法の必要性を今までいまいち理解できていなかったのですが、そこが理解できた点が良かったですね。(即応性、目に見える立法過程など)
民主主義が成立するには成熟した市民社会の活動が不可欠だとよく言われます。
同じような論理構造でこの本の概要を述べるとすれば、さしづめ「専門性を持った官僚に対して政治主導を成立させるには、議員立法の活性化が不可欠だ」という感じになるんでしょうか。
政治主導の風土を作っていくべき、とも言えるのでしょう。
やっぱり政治の空間では風土というのが大事なんじゃないかなと思いますね。
「政治主導」をマニフェストに掲げて取り組んだところで、一朝一夕には上手くいかないでしょうね。
そもそも、この本を読むまでは政治主導に何の価値があるのか、なんとなくとしか認識できていませんでした。まぁ今でも言うほどはっきりしてるわけじゃないんですが。

しかし現状として、政治家が主導権を握れていないという認識はまだ僕の中ではあります。たぶん多くの国民の方々もそうなんでしょう。
いつかそれを打ち破ってくれる日が来るといいですね。
もちろん、少しずつ、日本の市民社会も成長はしてると思います。でも最後は利権に絡んだ問題が大きなハードルになってきそうですね。
国民に対する主張で、印象に残った一節を引用させていただきます。
「政治やメディアの報道をさげすんで笑うだけの人々が増えれば、それは必ず日々の生活へと跳ね返ってくる。」
意識を変える必要があるのは議員だけじゃないんですね。


ちなみに、僕は日本の政治状況については少し弱いです。日本の政治について書かれた本としてのお勧めは
・戦後政治の崩壊 /山口二郎 (岩波新書)
です。

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1.罪と罰(ドストエフスキー)

さて、最初に取り上げる作品は「罪と罰」です。
実はこのブログは大学一年の後期に始めたのですが、しばらく前期に読んだ本を取り上げるのであっさりやっていこうと思います。

大学受験で楽しく世界史を勉強していた僕は、大学に入ったら世界の歴史文学を読みたいと思っていました。
その最初の作品が、ドストエフスキーの「罪と罰」です。
ほかにも読んだのですが、一番自分が感銘を受けた本なのでとりあえず最初に紹介させていただきます。

本を読んだ後主人公の名前なんて覚えていないのが普通なのですが、この本だけは忘れません。
主人公は「ラスコーリニコフ」。優秀な頭脳を持った学生です。
あらすじはwikipediaから引用させていただきましょう。

「伝説の英雄のような人類の指導者となるべき選ばれし者は、より大局的な正義を為すためならば、既存の法や規範をも超越する資格を持つ」という独自の理論を持つ青年・ラスコーリニコフは、経済的困窮から志半ばにして法学の道を断念し、荒んだ日々を送っていた。
彼は、偶然、阿漕な高利貸しの老婆・アリョーナの話を耳にして以来、もし、自らに、その資格があるのならば、「選ばれし者」として正義の鉄槌を下すべきではないかとの思索を巡らし始め、ある日、遂に、アリョーナの殺害に及ぶ。
しかし、予定外に遭遇したアリョーナの妹・リザヴェータをも巻き添えにしてしまい、その後の彼を待っていたのは、想像を絶する苦悩と葛藤の日々、そして、老姉妹殺害犯を追う敏腕予審判事・ポルフィーリィとの間で繰り広げられる壮絶な心理戦・頭脳戦であった。(wikipediaより)

要は、「自分は英雄になる価値のある人間だ」と思い込んだ青年が、殺人の罪に対して怯える惨めな自分を発見してしまって…という物語です。
もちろんそれだけでは語り尽くせないのですが、自分はその側面が一番心に残りました。まぁそれは後ほど。

さて、この本を読んだ率直な感想を申し上げますと、
長いです。
ロシア文学をほかにも(カラマーゾフの兄弟、アンナ・カレーニナなど)いろいろ読んでいて分かったのですが、あっちの本は人々の雑談や本筋に関係のない部分までかなり詳細に描写します。
重要人物なのかと思って頭に入れた人物がその後全然登場してこなかった、なんてことが多くありました。

でも、話自体は大変面白いです。
ドストエフスキーが文豪と称される所以を身を以て理解できますよ。
極限の精神状態に追い詰められる主人公を中心に、ミステリーの要素もあれば恋物語の要素もあり…これほど多くの要素が絡んだ物語を一つの作品に仕上げてしまっているのには驚かされます。
とにかく時間があるときにじっくり読むのがお勧めです。自分もまた読みたいなあと思います。


さて、僕はこの「罪と罰」に何を見出したか。それについて述べていきたいと思います。
僕の心に響いたのは、「自分には世界を牽引するような力がある」と信じた青年の、あまりにも惨めな姿でした。
大学に入ってたくさん勉強して、そして優秀な人間になる。
そんな気持ちを抱いて僕は大学に入りました。
大きなことを動かしたい。そういった自己に対する過剰な意識もあったと思います。政治を学ぼうと考えたのも、そういった意識によるとことが大きかったのは否めないのです。
自分は特別だ、自分は立派な人間になるんだ、なれるんだ。
そういう自意識は若い人間にとってはよく抱かれるものであり、そしてもしかすると不可欠なものであるかもしれません。

しかし、英雄になりそびれ、自らの過ちにただ怯える惨めな主人公の姿は、そうした僕の自意識に反省の念を投げかけさせました。
暴走する若者の自意識は、一歩間違えればとんでもない結末を導きかねないということを。
かつて徳川家康は「自らの器を知れ」と言いました。
自ら「器」を定めることで、人間そのものが縮こまってしまう人は沢山居ます。
しかしここで言う「器を知れ」というのは、「常に自らの器を見極め続けろ」ということなのではないでしょうか。
「自らの器」というものを無視する、度を過ぎた行動は破滅を導く可能性だってあると。
それは妥協と言ってしまえばそれまでですが、自己実現の追求の一種の姿ととらえることだってできるでしょう。

1人殺せばただの殺人犯だが、1000人殺せば英雄である。

政治的決定を下す立場に立てば、1000人規模の命に関わる決断を迫られることだってあるかもしれません。
そこで問われるのは「器」なのでしょう。
もちろん「器」は生き方次第でいくらでも広げることはできると思います。
でも、今この時点で、はたして1000人を殺す器が僕にあるのでしょうか。
暴走しがちな若者特有のの自意識を飼い馴らすためにも、そう自らに問いただしてみるのも、やっぱり大人になる上で大切かもしれません。

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当ブログの内容について

はじめまして
今日からブログを始めますniksa1020といいます。
初めにですね、簡潔にこのブログについて説明をさせていただきます。

このブログは「自己満書店」というタイトルです。
このタイトルに沿ってブログの内容を説明させていただきます。

まず「書店」というのは、
…まぁ本を紹介するブログだからです。
それだけです。
本を紹介するっていうのに適当な単語が見つからなくてですね。
「レビュー」とかもいろいろあったんでしょうけれども、なんかブログタイトルとしてしっくりこなかったので。
「書店」としました。うん。書店。
まぁ書店にそこまでツッコまれても困りますね。僕も納得してないんで。
とにかく本を紹介するためのブログなんだということが分かってくださればそれで結構です。

で、次に「自己満」というのは。
これはあくまでこのブログは自己満であるということです。
このブログはあくまで本の内容をそこそこに述べて、自分の意見をつらつら述べるだけです。
だから自己満です。閲覧してくださる方は、そのつもりで見ていただければ幸いです。決して私の主張を押し付けるためのブログではありません。
ただ、議論をすることは自分の大好物なので、反駁その他あればぜひコメントお願いします。

このブログについては以上です。
以下は少し自分の話をさせていただきます。

私は大学で政治学を学ぶ者です。
日頃twitter、サークル、ゼミなどで活動してますが、とにかく今の自分の知識の少なさや理解の浅さでは到底社会に出ていけないことを痛感しました。
そこで、昔から好きだった読書を、大学に入ってから特に意識してするようになりました。
このブログはその読書をより自分のためのものにしよう、という思いから設立しました。
タイトルの自己満というのはそこから来ます。
どこまでも自分のための利益を追求した、私の、私による、私のためのブログです(笑)。
〈ねらい〉
・ブログの更新をモチベーションの一部にして、読書の習慣を強化する
・読んだ本を一度振り返り、内容を自分のものにする
・自分の意見を持ち主体的読書を行う癖をつける
・本で得たものを表現する自分の文章力、アウトプットの力を強化する
・読んだ本を紹介する
などなど。

まぁ気楽にかつ真剣に、続けていけたらいいなと思います。
最近の若者は勉強してないとかよく言われますが、自分の周りには積極的に勉強に励んでいる人がたくさんいます。
自分もとにかく本を読んで教養をつけ、今の時代を切り開いていける人間になりたいものです。

ブログと私については以上です。ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。
そして、よろしくお願いします。

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