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本と6ペンス

The writer should seek his reward in the pleasure of his work. ("The Moon and Sixpence" Somerset Maugham)

292. 再生産 (ブルデュー)

「文化資本」という概念を用いて、教育を分析した一冊。支配階級のもつ文化が学校システムにおいて収益をあげ、支配階級の子どもが高い学歴を得て、高い階級へと再び再生産されることを明らかにしている。

※この記事はレポートを下地に書かれています。先日成績発表があったので、「もう『剽窃』とは言われないだろう」と判断し、投稿することにしました。


▽文化資本
「文化資本」という言葉がある。それはお金やモノといった形式をとらないが、親から子へと確かに引き継がれる。咄嗟の振る舞いや言葉遣い、生活習慣などがそれにあたる。

たとえば、本をよく読む親のもとで育った子と、そうでない子では、どちらが「高学歴」になりやすいか。親とクラシックのコンサートに足を運ぶ子と、流行りのJポップが家で流れている子では、どちらが「育ちがよい」と言われるだろうか。

それらは食事時に交わされる会話のような、些細な場面での違いにすぎない。ところが、その無意識な行動や習慣の積み重ね(「ハビトゥス」)は、子どもに少なからぬ影響を与える。

家庭が「上流」の文化と親しんでいれば、子もその文化に馴染むことができる。さらに、そうした子は学校でも高い評価を受けやすい。教育とは社会の「上流」による知識・文化の押し付け(「象徴的暴力」)に他ならないからだ。

家庭の中の「ハビトゥス」と「教育機関」という二つの経路が手を取り合うことで、「上流」の子どもは「上流」としての地位を獲得しやすくなっている。この非公式な階級の再生産を可視化することが、本著のテーマだった。


▽個人的近しさ
社会理論に関する授業のレポートは、いくつかの候補からひとりの理論家を選ぶ形式だった。僕は迷わず「文化資本」の議論で有名なブルデューを選択した。その理論に、なにか身に迫ってくるものを感じたからだ。

ざっくり言えば、僕はかなり恵まれた家に生まれた。祖父も父も立派な人で、本をよく読んでいた。教育熱心な親ではなかったが、彼らの知的な雰囲気そのものに、どこか惹かれるところがあった。

「薫陶を受けた」とまではいかなくとも、僕は彼らの背中を見て育った。活字への抵抗もなく、昔から本が好きだった。優等生の多い学校に進み、文武両道は「当然のもの」として要求された。高い教育を受け、大学に進み、留学もした。

そうして僕は22歳に差し掛かった。多くのことが自分の裁量に委ねられつつあるのを感じながら人生を振り返ると、「文化資本」という言葉が不意に背中から斬りかかってくるような気がした。

どこまでが文化資本によって「与えられた」人生で、どこからは自分で「獲得した」人生なのか。僕の悩みはそこにあった。そうして手に取ったのがこの本だった。今思えば、レポートを書いたときも、結局自分のことばかり考えていた気がする。

以下からは、レポート本文を用いつつ進めていく。序盤は上に書いた概述の確認になる。


▽文化資本と再生産
自分が最も関心を抱いた「文化資本」についての議論は、『再生産』の最後で以下のようにまとめられている。

学校制度は、文化資本の収益性を確かなものにし、この資本の伝達を正統化するのであるが、そうした機能を果たしていることを包み隠しながら、これらを行う。

学校教育において想定される「ハビトゥス」と家庭における「ハビトゥス」との距離が、学生の学歴社会での成功しやすさに影響を及ぼし、結果として学歴上位層=高所得者層の再生産に繋がっている。

重要なのは、学校制度が再生産を支えているという指摘と、そのことが「社会に気付かれていない」もしくは「気付かれていても、依然として支持されている」ということである。

学校は、民主主義イデオロギーを引き合いにだす社会では、他のなににも増して、また唯一納得しうるかたちで既成秩序の再生産に寄与することができる。

学校による「教育的働きかけ」はひとつの「象徴的暴力」であり、そこには「文化的恣意」が忍び込む隙があるとブルデューは論じている。再生産の構造は、そうして教育制度を相対化したときに浮かび上がってきたものに他ならない。

たとえば、ヘッセによる小説『車輪の下』は、こうした教育の現場における「ハビトゥス」の壁の存在を浮き彫りにした作品の一つだと解釈できる。

主人公・ハンスは頭脳明晰で、過酷な試験勉強の甲斐あって神学校に進むが、ついに馴染めずに退学してしまう。これは彼の馴染んでいたハビトゥスと、優等生ばかりの神学校内でのハビトゥスが乖離していたために起こったと言えよう。

たとえば、ハンスの出身地は田舎であり、彼自身も座学より自然と戯れることを好んだ「自然児」であった。また、ハンスが父子家庭の出であるのに対して、神学校に通う子どもの多くが恵まれた家庭環境にいたこともほのめかされている。

こうした些細なハビトゥスの差異が、試験以外のかたちで主人公に圧力をかけ続けていたことが読み取れる。ハンスは頭こそ良かったが、「文化資本」に恵まれなかったと言えそうだ。…


▽「文化資本」と現代日本(「英語の習熟」という観点から)
こうした議論を経て、僕はレポートにおいて「英語の習熟」という観点から「文化資本」の概念を応用することにした。以下がその大まかな本文になる。

…では、この議論を今日に適用するとどうなるか。『再生産』ではラテン語とギリシア語の習得がひとつの基準に据えられていたが、日本においてこれは「英語の習得」が一つの例として想定できる。

グローバリゼーションが進展し国境が相対化する中で、「英語が喋れるか喋れないか」は人々の間に新たな線引きを設けつつある。「英語が使えるか使えないかで年収に差が出る」という統計が方々から示され、昇進の条件としてTOEICの点数を掲げる日本企業も出てきた。

いまや「英語を使いこなす」というハビトゥスは、それを身につけた個人に並々でない恩恵を与える。筆者も留学から帰った途端に、就活サイトから「あなたはグローバル人材ですから、専用の履歴書を送ってください」と電話がかかってきたのを覚えている。

英語を使いこなせれば大学入試のハードルも少なからず下がるし、就職活動もかなり楽になる。母国語同然に喋れるようなら、海外での就職なども視野に入ってくる。今日、英語を使いこなせる能力が個人にとって大きな「資本」であることは、言を俟たないだろう。

同時に、「英語力は個人の努力によって獲得できる」という言説が罷り通っていることにも留意すべきである。

実際のところ、受験英語を頭に叩き込み、英会話学校に通い詰めただけの人が、留学生や帰国子女を超える英語力を身につけるのは難しい。そこに截然たる英語力の差があるのは概ね事実だろう。

現代日本の上位層が自らの地位を「再生産」しようとするなら、子どもを大学にいれて留学させるのが一番手っ取り早い。一、二年間を英語圏で生活しただけで、彼らは「グローバル人材」という箔がついた状態で帰国してくる。親が海外で働く帰国子女であれば、選択肢はますます広がるだろう。

これらは果たして「個人の努力」で補えるものなのか、どうか。…

こんな風にして、現代に「文化資本」の視点を応用した。もちろん、浮き彫りになった「再生産」の構造は容易に崩せないだろう。「そもそも崩すべきか」、「崩すことは可能なのか」という点でも、議論は分かれそうだ。

少なくとも、レポートという機会を掴まえて考察したことで、僕は自分自身を社会(理論)の中に位置づけられたと感じている。ブルデューの『再生産』、気軽に読める本ではないが、たくさんのことを考えることができる一冊だった。


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292. 再生産 (ブルデュー) フレーズ集

◆気に入ったフレーズ
本書のテクストのあらゆる読み方のうち、たぶん最悪のものは道徳的な読み方だろう。

およそ教育的働きかけは、恣意的な力による文化的恣意の押しつけとして、客観的には、ひとつの象徴的暴力をなすものである。(1)

一社会組織のなかで行われているさまざまな教育的働きかけは調和的に協働しながら、「社会」全体の共有財産と考えられる一個の文化資本の再生産にあずかっている。(1.3.2)

教育的働きかけが教育的権威なしに行われるという考え方は論理的に矛盾していて、社会学的には成り立たない。(2)

教育的働きかけは、ある貨幣が通用するといった意味で「通用する」のである。

教育的コミュニケーションの関係は、伝達されるものを指示しながら、自ら伝達するものの正統性をつくりだそうとする。(2.2.1)

ある教育機関の教えこむ恣意が、この期間に権威を委任した集団または階級の文化的恣意を直接に再生産すればするほど、この機関は自らの正統性について主張したり、弁明する必要がなくなる。(2.3.1.3)

文化資本とは、種々の家族的教育的働きかけによって伝達されてくるもろもろの財のことで、文化資本のその価値は、支配的教育的働きかけの押しつける文化的恣意と、それぞれの集団または階級のなかで家族的教育的働きかけを通して教えこまれる文化的恣意との距離によって決まってくる。(2.3.2.1)

自分の教養について思いを凝らす者はすでに教養ある者であり、自分の教育の諸原理はなにかを問うているつもりの者のもろもろの問いは、以前として自分の教育を前提としている。

文化資本と教育的コミュニケーション

複雑な構造を解読し操る能力は、ある程度まで、家族から伝達される言語の複雑性のいかんにかかっている。

学生が、「教師のためにつくられた存在」にほかならぬ「あるべき存在」を実現するまでにならないと、たとえ過誤であれ悪意であれ、つねに非が全面的に学生に帰せられるのだ。

「ブルジョアのことばと民衆のことば」146

言語活動と文化への関係、これは学校システムと教養人的伝統の自律性のもっとも完ぺきな表現とみえる、行為または言表の様式におけること細かな差異の無限の総和である。157

フランスの教育システムは、特権階級が独占しているかぎり正統として承認し押しつけがちな文化への関係を習得する条件を独占していて、その基礎の上に一個の文化への関係を永続させ、これを聖別している。159

学校は、社会構造が変わってもつねに、学校を支配的階級へと結びつける諸関係のシステムのなかで相同的な位置を占めていたのであった。161

儒教的伝統があれほど完ぺきに教養人の理想を押しつけるのに成功したのは、古今の学校制度のなかで科挙制度ほどすべてをあげて選別機能へと一体化したものもなかったからである。169

所与の一個人にとって将来の就学の可能性は、もっぱら、それがかれの属する階級または階層の客観的、集合的な将来をなしているかどうかによって、大きくもなれば小さくもなる。180

「あれは自分たちと関わりのないことだ」181

学校はもろもろの能力の産出と証明の技術的機能と、権力の保持、聖別の社会的機能とを同時に手中にしている。191

学校は、民主主義イデオロギーを引き合いにだす社会では、他のなににも増して、また唯一納得しうるかたちで既成秩序の再生産に寄与することができる。192

学校は、自らの果たしている機能をおおい隠すのに、最高度に成功している。192

限られた数の個人の統制された選別を通じ、社会の安定性を保証し、それによって、階級関係の保存に力を貸すこともある。192

場としてのハビトゥスについての適切な理論のみが、社会秩序の正統化の機能の行使の社会的諸条件を完全に明らかにすることができる。223

学校制度は、文化資本の収益性を確かなものにし、この資本の伝達を正統化するのであるが、そうした機能を果たしていることを包み隠しながら、これらを行う。229

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290. プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 (ウェーバー)

営利の追求を敵視するピューリタニズムの経済倫理が実は近代資本主義の生誕に大きく貢献したのだという歴史の逆説を究明した画期的な論考。マックス・ウェーバー(1864-1920)が生涯を賭けた広大な比較宗教社会学的研究の出発点をを画す。


あらゆる「逆説」は、面白さと発見の源泉である。「こうだろう」という常識をくつがえす痛快さは、人を学問に駆り立てる。壮大な「逆説」を論理的に描きだした本は、多少難解でも多くの読者を惹きつけるものだ。

『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、まさにそんな本であろう。営利を敵視し禁欲を志向したプロテスタンティズムが、結果として「カネがカネを呼ぶ」資本主義の土台を築いたという。途方もない「逆説」である。

100年前の書物であるがその面白さは色褪せず、肥大化した資本主義の「歯車」と化しつつある現代人に多くのことを考えさせてくれる。一読の価値がある論考であろう。


▽予定説による逆転
免罪符を発行するなど、腐敗したカトリック教会への反動として起こった宗教改革。そこで生まれたプロテスタントの教義は、「救済」のいっさいを神に委ねるものであった。つまり、予定説である。

予定説とは「その人が救われるか救われないかは、すでに神によって決められている」というもの。何をしようと、救われる者は救われるし、そうでない者は救われない。教会といえども、人間を救済し助けることはできない。

予定説によって人々が教えられたのは、人間は永遠の昔から定められた運命に向かって、一人で孤独に歩まなければならないということだった。

では、はじめから運命が定められた人間は、どのように救いを求めればよいのか。ウェーバーは、ここでひとつの逆転現象を描き出す。

「現世でよいことをするから、来世で救われる」という従来の論理は、神の独立した絶対性とは相容れない。著者によれば、予定説を信奉する人々は「救われる人間は、現世でもそれに相応しい生き方をする」と考えたという。

プロテスタントの人びとは、救いを求めて信仰することをやめた。かわりに、「救われている」という確証を得るために世俗を生きることにした。勤勉さや禁欲主義は、「神に愛されている」徴候として人々の目に映りはじめた。これによる変化を、ウェーバーは「生活態度の合理化」と表現している。


▽天職
職業という語には、神から与えられた使命であるという観念が含まれるのである。

ウェーバーはここで、「天職」という、やや古色蒼然とした概念を重視する。プロテスタントたちは「自分は救われる人間である」という確証を得るために、各々の世俗的な仕事に大きな力を注ぎだした。

この世で「天から与えられた仕事」を全うすること。「私悪すなわち公益」の市場経済で、職業を通じて社会を支えること。これらは「神の栄光を高める行為」として考えられた。

こうした文脈で、それまで決して正当化されてこなかった富は「後ろめたいもの」から「救われていることのしるし」へと昇華したのだった。

「宗教は必ずや勤労と節約をもたらすのであり、この二つは必ずや富をもたらさずにいない」


▽精神のない専門家、魂のない享楽的な人間
勝利を手にした資本主義は、かつては禁欲のもたらした機械的な土台の上に安らいでいたものだったが、今ではこの支柱を必要としていない。

ウェーバーの観察はここに止まらない。彼は、最終的に近代の資本主義から「精神」が失われ、システムのみが独立していることを指摘する。

先ほど、僕は「天職」という言葉について「古色蒼然」という単語を用いた。今日、「天職」という言葉はなかなか使われない。それは、人びとの「仕事」から、少しずつ「神」や「天」への哲学や精神が失われている徴候かも知れない。

ウェーバーは本著の中で「鉄の檻」という言葉を用いた。鉄の檻は人間の手によってつくられるが、人間をそこから解放することを許さない。今日なお肥り続ける資本主義も、それに近い。

精神なきシステムが、世界を覆っていく。終章で著者が危惧していたのは、まさにそこであった。

数日前の毎日新聞コラム「水説」を思い出す。今日の金融市場を支配しているのは、「アルゴリズム」を組み込んだコンピュータであると述べた中村秀明氏は、「長期的な視野に立って投資を続けること」こそが人間に出来ることだと結んでいた。

拡大する「非人間性」を前に、屈してはならない。さもなくば、私たちの精神世界はあっという間に破壊されつくしてしまうだろう。20世紀初頭にウェーバーの慧眼が捉えた問題は、依然として克服されるべき課題として残っている。

「精神のない専門家、魂のない享楽的な人間。この無にひとしい人は、自分が人間性のかつてない最高の段階に到達したのだと、自惚れるだろう」



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290. プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 フレーズ集

このように経済的に発達した地方が、宗教改革を受容しやすい素質をそなえていたのは、どういう理由によるのだろうか。11

資本主義の「倫理」の最高善は、あらゆる無邪気な享楽を厳しく退けてひたすら金を儲けることにある。54

正当な利潤を組織的かつ合理的に、職業として追い求めようとする心構えを、ここでは「資本主義の精神」と名づけておきたい。87

この答えが意味するのは、人間が存在するのは仕事のためであって、人間のために仕事があるのではないということである。98

かつて資本主義は、興隆しつつあった近代的な国家権力と手を結ぶことで、昔ながらの中世の経済的な規制の形式を破砕することができたのだった。101

人生の究極の問題にたいして合理主義の原理に基づいた姿勢をとることによって、資本主義の精神が生まれたと考えるべきだということになる。115

職業という語には、神から与えられた使命であるという観念が含まれるのである。121

世俗的な職業に従事しながらその義務をはたすことが、道徳的な実践活動そのものとして、最高のものと高く評価されたことだけは、無条件に新しいことなのである。142

予定説によって人々が教えられたのは、人間は永遠の昔から定められた運命に向かって、一人で孤独に歩まなければならないということだった。210

世界におけるカルヴァン派の信徒の社会的な労働は、ひたすら「神の名誉を高めるため」に行われるのである。223

(救われているという)自己確信を獲得するための優れた手段として、職業労働に休みなく従事することが教え込まれたのである。241

カルヴァン派の信徒はつねに、自分が選ばれているか、それとも神に見捨てられているかという二者択一の問いの前に立ちながら、みずからをたえず吟味しつづけることで、救いを作りだすことができるのである。251

禁欲の目的はたんなる欲望の抑圧ではなく、覚醒し、自己を意識した明朗な生を送れるようにすることにある。273

信徒の倫理的な生活を組織的かつ合理的に構築することこそが、禁欲的なプロテスタンティズムのもたらした産物であった。294

現世の徹底的な脱呪術化のために、もはや内面的に世俗内で禁欲するほかには道が残されていなかった。377

禁欲はもはや自分が救われていることを確信したいと望むすべての信徒に要求された行為だった。386

現世のうちで来世を目指して行われる生活態度の合理化こそが、禁欲的なプロテスタンティズムの天職概念を作り出した。387

労働の意欲に欠けているということは、恩寵の地位が失われていることを示す兆候なのである。411

富が危険なものとみなされるのは、怠惰な休息や罪深い生活の享受の誘惑となる場合だけなのである。419

職業の義務を遂行することによって富を獲得することは、道徳的に許されているだけでなく、まさに命じられているのである。420

プロテスタンティズムの職業倫理は、禁欲的な生活をもっとも真剣に信奉する信徒たちを、資本主義的な営利生活に奉仕させる結果となったのである。427

財産が大きいほど、神の栄誉のためにこの財産を維持し、休む間もなく働いて、この財産を増やさねばならないという責任感が、ますます重くなるのである。458

禁欲の精神が求めたのは、所有者に苦行を強いることではなく、必要で、実際に有用なものごとのために所有物を利用することだった。462

「宗教は必ずや勤労と節約をもたらすのであり、この二つは必ずや富をもたらさずにいない」475

近代の労働者の特徴は、労働を「天から与えられた職業」と考えることであり、近代の実業家の特徴は、営利を「天から与えられた職業」と考えることである。486

何らかの「業績」をあげるために何らかのことを「放棄」するのは、どうしても避けられないことなのだ。491

禁欲が世界を作り直し、世俗の内部で働きかけようとしているうちに、これまでの歴史においてかつて例がないほどに、世俗の外的な事物が人間にますます強い力を及ぼすようにかり、ついに人間はこれから逃れることができなくなったのである。492

勝利を手にした資本主義は、かつては禁欲のもたらした機械的な土台の上に安らいでいたものだったが、今ではこの支柱を必要としていない。493

「職業の義務」という思想が、かつての宗教的な進行の内容の名残を示す幽霊として、わたしたちの生活のあちこちをさまよっている。493

「精神のない専門家、魂のない享楽的な人間。この無にひとしい人は、自分が人間性のかつてない最高の段階に到達したのだと、自惚れるだろう」494

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288. 春にして君を離れ (アガサ・クリスティー)

優しい夫、よき子供に恵まれ、女は理想の家庭を築き上げたことに満ち足りていた。が、娘の病気見舞いを終えてバグダッドからイギリスへ帰る途中で出会った友人との会話から、それまでの親子関係、夫婦の愛情に疑問を抱きはじめる…。女の愛の迷いを冷たく見据え、繊細かつ流麗に描いたロマンチック・サスペンス。

この主人公は、僕の一番苦手なタイプだ。思考や認識に「バイアス」がかかるのは仕方ないとしても、そのことにあまりにも無自覚でいる。考えの矛先を、決して自分自身に向けようとしない。

ジョーン・スカダモア。彼女の眼は見えているが何も正しく捉えず、耳は聞こえているが何ひとつ届かない。彼女が認識するのは、「かくあれかし」という彼女の内面と合致するものだけで、他の一切は捻じ曲げられる。

人間や社会は、いつも細やかな「サイン」を送りながら生活している。自分のことを相対化できないと、それらを虚心に見つめられず、その意味するところも正確に掬い取れない。


▽「かわいそうな・リトル・ジョーン」
あぁ、「プア・リトル・ジョーン」、主人公の独白ほど僕にとって腹立たしいものはなかった。なぜあれほど多くのことを見落とすのか、自分は嫌われ、疎まれているのだと、なぜその可能性を見ようとしないのか!

幸福、人生、喜び…。ジョーンは彼女の固定観念に基づいてそれら設計し、周囲に押し付けていた。口では綺麗事を並べたてながら、やっていることは強権政治。しかも本人も無自覚だから、なお性質が悪い。

自分にとっては「不幸な境遇」に、静かな満足を覚える人もいる。自分の価値観だけが全てでないということを認識するのは、誰にとっても愉快ではない。一部の人にはそれがどうしても受け付けられない。

彼女もそうだ。知ろうとしない。自分が社会の中でとるに足らない存在であるということを。自分の掲げる「成功」や「現実主義」は、体面への配慮でしかないことを。その「幸福」が、周囲に苦痛を与えていることを。


▽真実に対して
わからなかったのだ、何一つ! はっきりいって、知りたくなかったのだ。
旅の途中で独りきりになったとき、彼女はそれまで蓋をしてきた現実を見つめはじめる。一時は思い乱れ、打ちひしがれたような気分になる。

ところがロンドンに戻った彼女は、暗い考えを「気の迷い」として捨て去ってしまう。容器の中身はあまりに恐ろしく、酷い腐臭を発していた。だから彼女は蓋を閉めた、ほとんど本能的に。

その蓋を、夫はさらにきつく締める。君には直視できない、君は気づかなくていいのだ、と。彼女は真実を永遠に失った。しかし、それでいい。夫の判断は賢明だったと思う。

ところが主人公と同様の心当たりがあるらしい解説者は、この夫の態度を詰る。なぜジョーンに真実を突き付けないのか、これは彼の責任でもある、と。

しかし、それは違うだろうと思う。真実は人を傷つける以上、それを知るには覚悟がいる。「不都合な真実を認めることができるか」というのは、機会ではなく、本人の能力如何にかかっているのではないか。

夫に責があるなら、それは彼女と結婚したことだ。彼女の「蓋」に触れることなく夫婦生活を営んだ彼は、その点でも立派に責任を果たしていると思われるが、それは所謂「男の論理」かもしれない。


▽「孤独のススメ」
僕は真実が見えているなどと思いあがるつもりもない。ただ、自分に不快な現実や、不都合な真実が世の中に存在することへの覚悟はしているつもりである。

子どもの頃から、ときどき一人で考え事をする癖があった。そうすると「自分」が分からなくなり、足元の地面が崩れていくような感覚に陥る。昔はそれが怖かったが、そこから「自分を作り上げる」という心構えをしてからは、平気になった。

「孤独のススメ」という曲がある。有名な曲ではない。B'zのボーカル・稲葉浩志が、ソロのアーティストとして歌っている。

たまにはひとりで
深い海を潜っていってみてよ
新しい言葉を
息も絶え絶えに手に入れてごらん


もし真実の中を生きたいと思うのなら、息も絶え絶えになって、ひとりぼっちになってみるといい。自分に対して嘘をつき通すことは、誰にもできないのだから。


◆気に入ったフレーズ
「あなたはどうなのよ? やりたいことは残らずやってきたんじゃないの?」29

男と違って、女の考え方には安定性があり、ずっと現実的だ…51

「人生は真剣に生きるためにあるので、いい加減なごまかしでお茶を濁してはいけないのです。なかんずく、自己満足に陥ってはなりません」137

「自分の望む仕事につけない男、自分の天職につけない男は、男であって男でないと。ぼくは確言する」190

わからなかったのだ、何一つ! はっきりいって、知りたくなかったのだ。266

けれども彼は自分の言葉の虚しさに気づいていたのだった。
君はひとりぼっちだ。これからもおそらく。しかし、ああ、どうか、きみがそれに気づかずにすむように。326

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