
「文化資本」という概念を用いて、教育を分析した一冊。支配階級のもつ文化が学校システムにおいて収益をあげ、支配階級の子どもが高い学歴を得て、高い階級へと再び再生産されることを明らかにしている。
※この記事はレポートを下地に書かれています。先日成績発表があったので、「もう『剽窃』とは言われないだろう」と判断し、投稿することにしました。
▽文化資本
「文化資本」という言葉がある。それはお金やモノといった形式をとらないが、親から子へと確かに引き継がれる。咄嗟の振る舞いや言葉遣い、生活習慣などがそれにあたる。
たとえば、本をよく読む親のもとで育った子と、そうでない子では、どちらが「高学歴」になりやすいか。親とクラシックのコンサートに足を運ぶ子と、流行りのJポップが家で流れている子では、どちらが「育ちがよい」と言われるだろうか。
それらは食事時に交わされる会話のような、些細な場面での違いにすぎない。ところが、その無意識な行動や習慣の積み重ね(「ハビトゥス」)は、子どもに少なからぬ影響を与える。
家庭が「上流」の文化と親しんでいれば、子もその文化に馴染むことができる。さらに、そうした子は学校でも高い評価を受けやすい。教育とは社会の「上流」による知識・文化の押し付け(「象徴的暴力」)に他ならないからだ。
家庭の中の「ハビトゥス」と「教育機関」という二つの経路が手を取り合うことで、「上流」の子どもは「上流」としての地位を獲得しやすくなっている。この非公式な階級の再生産を可視化することが、本著のテーマだった。
▽個人的近しさ
社会理論に関する授業のレポートは、いくつかの候補からひとりの理論家を選ぶ形式だった。僕は迷わず「文化資本」の議論で有名なブルデューを選択した。その理論に、なにか身に迫ってくるものを感じたからだ。
ざっくり言えば、僕はかなり恵まれた家に生まれた。祖父も父も立派な人で、本をよく読んでいた。教育熱心な親ではなかったが、彼らの知的な雰囲気そのものに、どこか惹かれるところがあった。
「薫陶を受けた」とまではいかなくとも、僕は彼らの背中を見て育った。活字への抵抗もなく、昔から本が好きだった。優等生の多い学校に進み、文武両道は「当然のもの」として要求された。高い教育を受け、大学に進み、留学もした。
そうして僕は22歳に差し掛かった。多くのことが自分の裁量に委ねられつつあるのを感じながら人生を振り返ると、「文化資本」という言葉が不意に背中から斬りかかってくるような気がした。
どこまでが文化資本によって「与えられた」人生で、どこからは自分で「獲得した」人生なのか。僕の悩みはそこにあった。そうして手に取ったのがこの本だった。今思えば、レポートを書いたときも、結局自分のことばかり考えていた気がする。
以下からは、レポート本文を用いつつ進めていく。序盤は上に書いた概述の確認になる。
▽文化資本と再生産
自分が最も関心を抱いた「文化資本」についての議論は、『再生産』の最後で以下のようにまとめられている。
学校制度は、文化資本の収益性を確かなものにし、この資本の伝達を正統化するのであるが、そうした機能を果たしていることを包み隠しながら、これらを行う。
学校教育において想定される「ハビトゥス」と家庭における「ハビトゥス」との距離が、学生の学歴社会での成功しやすさに影響を及ぼし、結果として学歴上位層=高所得者層の再生産に繋がっている。
重要なのは、学校制度が再生産を支えているという指摘と、そのことが「社会に気付かれていない」もしくは「気付かれていても、依然として支持されている」ということである。
学校は、民主主義イデオロギーを引き合いにだす社会では、他のなににも増して、また唯一納得しうるかたちで既成秩序の再生産に寄与することができる。
学校による「教育的働きかけ」はひとつの「象徴的暴力」であり、そこには「文化的恣意」が忍び込む隙があるとブルデューは論じている。再生産の構造は、そうして教育制度を相対化したときに浮かび上がってきたものに他ならない。
たとえば、ヘッセによる小説『車輪の下』は、こうした教育の現場における「ハビトゥス」の壁の存在を浮き彫りにした作品の一つだと解釈できる。
主人公・ハンスは頭脳明晰で、過酷な試験勉強の甲斐あって神学校に進むが、ついに馴染めずに退学してしまう。これは彼の馴染んでいたハビトゥスと、優等生ばかりの神学校内でのハビトゥスが乖離していたために起こったと言えよう。
たとえば、ハンスの出身地は田舎であり、彼自身も座学より自然と戯れることを好んだ「自然児」であった。また、ハンスが父子家庭の出であるのに対して、神学校に通う子どもの多くが恵まれた家庭環境にいたこともほのめかされている。
こうした些細なハビトゥスの差異が、試験以外のかたちで主人公に圧力をかけ続けていたことが読み取れる。ハンスは頭こそ良かったが、「文化資本」に恵まれなかったと言えそうだ。…
▽「文化資本」と現代日本(「英語の習熟」という観点から)
こうした議論を経て、僕はレポートにおいて「英語の習熟」という観点から「文化資本」の概念を応用することにした。以下がその大まかな本文になる。
…では、この議論を今日に適用するとどうなるか。『再生産』ではラテン語とギリシア語の習得がひとつの基準に据えられていたが、日本においてこれは「英語の習得」が一つの例として想定できる。
グローバリゼーションが進展し国境が相対化する中で、「英語が喋れるか喋れないか」は人々の間に新たな線引きを設けつつある。「英語が使えるか使えないかで年収に差が出る」という統計が方々から示され、昇進の条件としてTOEICの点数を掲げる日本企業も出てきた。
いまや「英語を使いこなす」というハビトゥスは、それを身につけた個人に並々でない恩恵を与える。筆者も留学から帰った途端に、就活サイトから「あなたはグローバル人材ですから、専用の履歴書を送ってください」と電話がかかってきたのを覚えている。
英語を使いこなせれば大学入試のハードルも少なからず下がるし、就職活動もかなり楽になる。母国語同然に喋れるようなら、海外での就職なども視野に入ってくる。今日、英語を使いこなせる能力が個人にとって大きな「資本」であることは、言を俟たないだろう。
同時に、「英語力は個人の努力によって獲得できる」という言説が罷り通っていることにも留意すべきである。
実際のところ、受験英語を頭に叩き込み、英会話学校に通い詰めただけの人が、留学生や帰国子女を超える英語力を身につけるのは難しい。そこに截然たる英語力の差があるのは概ね事実だろう。
現代日本の上位層が自らの地位を「再生産」しようとするなら、子どもを大学にいれて留学させるのが一番手っ取り早い。一、二年間を英語圏で生活しただけで、彼らは「グローバル人材」という箔がついた状態で帰国してくる。親が海外で働く帰国子女であれば、選択肢はますます広がるだろう。
これらは果たして「個人の努力」で補えるものなのか、どうか。…
こんな風にして、現代に「文化資本」の視点を応用した。もちろん、浮き彫りになった「再生産」の構造は容易に崩せないだろう。「そもそも崩すべきか」、「崩すことは可能なのか」という点でも、議論は分かれそうだ。
少なくとも、レポートという機会を掴まえて考察したことで、僕は自分自身を社会(理論)の中に位置づけられたと感じている。ブルデューの『再生産』、気軽に読める本ではないが、たくさんのことを考えることができる一冊だった。
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※この記事はレポートを下地に書かれています。先日成績発表があったので、「もう『剽窃』とは言われないだろう」と判断し、投稿することにしました。
▽文化資本
「文化資本」という言葉がある。それはお金やモノといった形式をとらないが、親から子へと確かに引き継がれる。咄嗟の振る舞いや言葉遣い、生活習慣などがそれにあたる。
たとえば、本をよく読む親のもとで育った子と、そうでない子では、どちらが「高学歴」になりやすいか。親とクラシックのコンサートに足を運ぶ子と、流行りのJポップが家で流れている子では、どちらが「育ちがよい」と言われるだろうか。
それらは食事時に交わされる会話のような、些細な場面での違いにすぎない。ところが、その無意識な行動や習慣の積み重ね(「ハビトゥス」)は、子どもに少なからぬ影響を与える。
家庭が「上流」の文化と親しんでいれば、子もその文化に馴染むことができる。さらに、そうした子は学校でも高い評価を受けやすい。教育とは社会の「上流」による知識・文化の押し付け(「象徴的暴力」)に他ならないからだ。
家庭の中の「ハビトゥス」と「教育機関」という二つの経路が手を取り合うことで、「上流」の子どもは「上流」としての地位を獲得しやすくなっている。この非公式な階級の再生産を可視化することが、本著のテーマだった。
▽個人的近しさ
社会理論に関する授業のレポートは、いくつかの候補からひとりの理論家を選ぶ形式だった。僕は迷わず「文化資本」の議論で有名なブルデューを選択した。その理論に、なにか身に迫ってくるものを感じたからだ。
ざっくり言えば、僕はかなり恵まれた家に生まれた。祖父も父も立派な人で、本をよく読んでいた。教育熱心な親ではなかったが、彼らの知的な雰囲気そのものに、どこか惹かれるところがあった。
「薫陶を受けた」とまではいかなくとも、僕は彼らの背中を見て育った。活字への抵抗もなく、昔から本が好きだった。優等生の多い学校に進み、文武両道は「当然のもの」として要求された。高い教育を受け、大学に進み、留学もした。
そうして僕は22歳に差し掛かった。多くのことが自分の裁量に委ねられつつあるのを感じながら人生を振り返ると、「文化資本」という言葉が不意に背中から斬りかかってくるような気がした。
どこまでが文化資本によって「与えられた」人生で、どこからは自分で「獲得した」人生なのか。僕の悩みはそこにあった。そうして手に取ったのがこの本だった。今思えば、レポートを書いたときも、結局自分のことばかり考えていた気がする。
以下からは、レポート本文を用いつつ進めていく。序盤は上に書いた概述の確認になる。
▽文化資本と再生産
自分が最も関心を抱いた「文化資本」についての議論は、『再生産』の最後で以下のようにまとめられている。
学校制度は、文化資本の収益性を確かなものにし、この資本の伝達を正統化するのであるが、そうした機能を果たしていることを包み隠しながら、これらを行う。
学校教育において想定される「ハビトゥス」と家庭における「ハビトゥス」との距離が、学生の学歴社会での成功しやすさに影響を及ぼし、結果として学歴上位層=高所得者層の再生産に繋がっている。
重要なのは、学校制度が再生産を支えているという指摘と、そのことが「社会に気付かれていない」もしくは「気付かれていても、依然として支持されている」ということである。
学校は、民主主義イデオロギーを引き合いにだす社会では、他のなににも増して、また唯一納得しうるかたちで既成秩序の再生産に寄与することができる。
学校による「教育的働きかけ」はひとつの「象徴的暴力」であり、そこには「文化的恣意」が忍び込む隙があるとブルデューは論じている。再生産の構造は、そうして教育制度を相対化したときに浮かび上がってきたものに他ならない。
たとえば、ヘッセによる小説『車輪の下』は、こうした教育の現場における「ハビトゥス」の壁の存在を浮き彫りにした作品の一つだと解釈できる。
主人公・ハンスは頭脳明晰で、過酷な試験勉強の甲斐あって神学校に進むが、ついに馴染めずに退学してしまう。これは彼の馴染んでいたハビトゥスと、優等生ばかりの神学校内でのハビトゥスが乖離していたために起こったと言えよう。
たとえば、ハンスの出身地は田舎であり、彼自身も座学より自然と戯れることを好んだ「自然児」であった。また、ハンスが父子家庭の出であるのに対して、神学校に通う子どもの多くが恵まれた家庭環境にいたこともほのめかされている。
こうした些細なハビトゥスの差異が、試験以外のかたちで主人公に圧力をかけ続けていたことが読み取れる。ハンスは頭こそ良かったが、「文化資本」に恵まれなかったと言えそうだ。…
▽「文化資本」と現代日本(「英語の習熟」という観点から)
こうした議論を経て、僕はレポートにおいて「英語の習熟」という観点から「文化資本」の概念を応用することにした。以下がその大まかな本文になる。
…では、この議論を今日に適用するとどうなるか。『再生産』ではラテン語とギリシア語の習得がひとつの基準に据えられていたが、日本においてこれは「英語の習得」が一つの例として想定できる。
グローバリゼーションが進展し国境が相対化する中で、「英語が喋れるか喋れないか」は人々の間に新たな線引きを設けつつある。「英語が使えるか使えないかで年収に差が出る」という統計が方々から示され、昇進の条件としてTOEICの点数を掲げる日本企業も出てきた。
いまや「英語を使いこなす」というハビトゥスは、それを身につけた個人に並々でない恩恵を与える。筆者も留学から帰った途端に、就活サイトから「あなたはグローバル人材ですから、専用の履歴書を送ってください」と電話がかかってきたのを覚えている。
英語を使いこなせれば大学入試のハードルも少なからず下がるし、就職活動もかなり楽になる。母国語同然に喋れるようなら、海外での就職なども視野に入ってくる。今日、英語を使いこなせる能力が個人にとって大きな「資本」であることは、言を俟たないだろう。
同時に、「英語力は個人の努力によって獲得できる」という言説が罷り通っていることにも留意すべきである。
実際のところ、受験英語を頭に叩き込み、英会話学校に通い詰めただけの人が、留学生や帰国子女を超える英語力を身につけるのは難しい。そこに截然たる英語力の差があるのは概ね事実だろう。
現代日本の上位層が自らの地位を「再生産」しようとするなら、子どもを大学にいれて留学させるのが一番手っ取り早い。一、二年間を英語圏で生活しただけで、彼らは「グローバル人材」という箔がついた状態で帰国してくる。親が海外で働く帰国子女であれば、選択肢はますます広がるだろう。
これらは果たして「個人の努力」で補えるものなのか、どうか。…
こんな風にして、現代に「文化資本」の視点を応用した。もちろん、浮き彫りになった「再生産」の構造は容易に崩せないだろう。「そもそも崩すべきか」、「崩すことは可能なのか」という点でも、議論は分かれそうだ。
少なくとも、レポートという機会を掴まえて考察したことで、僕は自分自身を社会(理論)の中に位置づけられたと感じている。ブルデューの『再生産』、気軽に読める本ではないが、たくさんのことを考えることができる一冊だった。
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