
要点
・わたしたちの胃袋に強烈な一撃を食らわせる本
・なぜ旅に出ていったか
・私たちは何も知らない、ということ
人は今、何をどう食べているのか、どれほど食えないのか…。飽食の国に苛立ち、異境へと旅立った著者は、噛み、しゃぶる音をたぐり、紛争と飢餓線上の風景に入り込み、ダッカの残飯からチェルノブイリの放射能汚染スープまで、食って、食って、食いまくる。人びととの苛烈な「食」の交わりなしには果しえなかった、ルポルタージュの豊潤にして劇的な革命。現代の「食」の黙示録。
元共同通信社特派員である著者が、「食」という人間の根本的営みをもとに世界を見て回り、切りとる。「もの食う人びと」は、そんなルポルタージュだ。東南アジア、中欧、アフリカ、ロシア、そして韓国。「食」をめぐる旅の記録は、我々の知らない世界を鮮明に描き出している。
読書メーターで感想を見かけ、本屋に入った。手に取る。巻頭では色鮮やかな数枚の写真が、多様な「食」の現場を捉えている。本文を読むまえから、読者に想像力を働かさせる工夫だろうか。面白そうだ、迷うことなく購入した。
▽なぜ「飽食の国」を出るのか
ジャーナリストは「人の不幸でメシを食う職業」と言われる。
差別、貧困、犯罪、不正、戦争…そうしたものの陰で泣く人びとの声と向きあい、世界に発信する。そういう意味では、「飽食の国」である日本から旅立った著者の行動は、ジャーナリストの本能に由来するものだろう。
あとがきには、こう書かれている。
私はたくさんの悲劇を尻目に旅をつづけ、悲劇から悲劇へと渡り歩いた果てに、いま平然と生きてあるという自責に似たなにかの感情が抜けない。
「飽食」が常態と化した日本にたいする違和感が、旅への大きな原動力となったのだろう。悲劇から悲劇へ、ジャーナリストはそれを目撃しに行くことを使命だと考えている。
目を覆いたくなるような、巨大で歪なゲンジツ。戦うためには、まず、それを直視しなければいけない。ジャーナリスト特有の考え方かもしれない。
▽「食」に軸を据えた意味
ビニールハウスふうの無菌、無風空間から世界を眺めているのがついに嫌になったのである。
筆者は、この旅についてこう述べている。共同通信社で世界各国からあがってくる情報を取りまとめ、編集する。彼の仕事はもちろん重要だったはずだが、恐らくそれだけは見えてこないものがあったのだろう。
私たちは新聞やテレビを見ただけで、世界が分かった気になっている。多くのデータや数値が、さも重要なものであるかのようにディスプレイに映し出される。怒りに燃えた民衆の表情が、紙面にはりだされる。指導者同士の政治的駆け引きが、分かりやすい図で表現されている。それだけで、私たちはなんの躊躇いもなく世界を語れる。
そのじつ、私たちは何も知らない。爆撃音がどのように人間の心をかき乱すのかを知らない。痩せ衰え、ただ死を待つばかりの少女の眼は輝いているのか、知らない。安い賃金で、遠い豊かな国の人びとが飼うペットのために缶詰を作っている人の気持ちを、考えたことがない。
著者はそこに勇猛果敢に切り込んだ。
世界は情報ではない。世界は世界である。
人間は数字や図式で説明されるものではなく、聞き手が全身全霊で感じるものである。著者が「食う」という原始的な営みに注目したことは、データとの「にらめっこ」状態から脱するうえでも、少なからぬ意義を持っただろう。それは「生身の人間と対峙する」という著者なりの所信表明だったに違いない。
この本、少々ショッキングであると言われる。そうだろう、「飽食の国」でなんの疑いもなく肥え太らされている私たちの腹に、強烈なパンチを食らわせてくる。
世界は広く、残酷だ。こんな表現では不十分なほど、そうなのである。
おそらく百万の言葉を費やしたとしても、私たちはついに世界を表現することはできないだろう。
夕飯は少なめだったはずなのに、身体が重い。この本によって「食らわされた」現実が、頭のなかに拭いがたい何かを残した。
消化不良。おそらく死ぬまで消化されることはないだろう。
◆気に入ったフレーズ
ただ一つだけ、私は自身に課した。噛み、しゃぶる音をたぐり、もの食う風景に分け入って、人びとと同じものを、できるだけいっしょに食べ、かつ飲むこと。
「食」ほどすてきな快楽はなく、しかし、容易に差別の端緒になる営みもない。
メンツをかけた米国主導の軍事行動が、国連平和維持活動の名を借りて、すべてに優先している。平穏な食はここにない。
奇食に見えて、しかし、奇食など世界には一つとしてない。
高邁に世界を語るのでなく、五感を頼りに「食う」という人間の絶対必要圏に潜りこんだら、いったいどんな眺望が開けてくるのか。それをスケッチしたのが、この本なのだと思う。
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「おのれッ!上野介――」
上野介の額が割れ、江戸城内松の廊下に血が飛び散る。浅野内匠頭の手には、刀が握られていた。指南役として仰いでいた上野介の執拗な嫌がらせによってたまっていた憎悪が、ついに理性を突き破ってしまったのだ。
しかしその瞬間、赤穂五万三千石は音もなく崩れる。国許に届いた報せは、内匠頭の即日切腹。処罰に納得がいかない赤穂浪士達は、内匠頭の無念を晴らすために立ち上がった。
司馬遼太郎の歴史小説をほぼ読み終えてしまったので、現在新しい歴史小説家を模索中だ。しばらくは吉川英治を漁っていこうかなと思う。
▽歴史小説から得るもの
歴史小説を読むときに、いつも念頭に置くのはデカルトのこの一節である。
歴史上の記憶すべき出来事は精神を奮い立たせ、思慮をもって読めば判断力を養う助けとなる。
読者が歴史小説から得るものを、端的に表している。特に赤穂浪士による「忠臣蔵」が今なお燦然と光を放ち続けているのは、ひとえに彼らの生き様が読み手の精神を強く揺さぶるためだ。
▽美意識
"血も、雪も、刃も、眸も、すべてが、さむらいの道にみがきあげられてきた人道最高の道徳の華だった。"
一般的な物語では、登場人物が作用反作用を繰り返すことでクライマックスへと導かれていく。その作用のベースとなるのは、誤解や謎、怒り、打算などだ。
この忠臣蔵の登場人物たちを貫いているのは「武士道」という美意識、倫理観である。47人の赤穂浪士はもちろん、上野介方の武士たちもみな美意識に殉じるために胸を張って生き、胸を張って死んでいく。義士としての念願を果たす側も、臍を噛む側もみな美しい。その輝きが、時代を越えて人びとの生きる道を照らしている。
物語を振り返ってみる。
家臣を怒らせたのは、内匠頭の切腹に対して上野介は恩赦という「喧嘩両成敗」の原則に反する措置だ。この裁断によって、上野介は赤穂義士の主の仇となる。
しかし、考えてみれば家臣を実に路頭に迷わせたのは、内匠頭その人の行動にある。小説の後半に語られるが、主の倫理は一個人の倫理とは重ならない。主は自らの義憤よりも、家臣たちの幸福を第一に考えて動かねばならない。そういう前提の下で、家臣は主についていく。内匠頭が自らの誇りのために斬りかかったことは、その前提に対する裏切りでもあった。現代的に言えば、社会契約を破ったことになる。
内匠頭の逸った気持ちのために、扶持を失い、路頭に迷った赤穂浪士たち。それでも亡き主のために残りの人生の享楽を棄て、仇討を成し遂げようという者だけが残り、上野介の屋敷に討ち入った。それが47人(46という説もある)。濁りのない、蒸留の過程で取り出された結晶のように純粋になった集団が、歴史にその美を刻んだのである。
▽臥薪嘗胆
"今日まで内蔵助から離れずにいる連中は、皆、死を楽しんでいることだ。怖ろしいことじゃないか。これ以上の強敵はあるまい。"
復讐のためにあらゆる苦しみを耐えることをさす、臥薪嘗胆という故事成語がある。この物語の型はまさに、臥薪嘗胆を乗り越えたサクセスストーリーである。
万が一にも仕損じれば、死んだ主の顔に泥を塗ることになる。吉良方も復讐を警戒して手練れの武士を屋敷の警護につけている。だんだん深刻になっていく困窮が、彼らをじりじりと焦らせもする。彼らの眼前にあった困難は並ではない。
加えて、忠臣蔵と一般的なサクセスストーリーの最大の違いは、成功が現世的な幸福・利益を意味しないという点である。
彼らの成功はすなわち、国法を破ることを意味していた。自らを路頭に迷わせた主の仇討のために彼らは家族と離れ、資金難と屈辱の中に身を置き、そして念願を果たした暁に、腹を切って死ぬ。武士道という美意識に殉ずるために、彼らはこの割に合わない役割を嬉々として引き受ける。
安逸な生活ならいくらでも出来るのに、あえて厳しい、死へと続く道を選ぶ。この選択に全く理解を及ぼすことができない人には、命をつかうことはできないであろう。命は使うものである。命を永らえるためだけの人間になってはならない。
"朽ちない生命となるか、一片の枯れ葉にすぎない生命で消えるか。人、思い思い、その選ぶがままに極めるしかない。"
▽時代背景
"彼らは、雪にかがやく、人間の姿を見、正しく、犬以上のものである人間を発見した。"
吉川英治は、当時の五代将軍綱吉による「生類憐みの令」を引くことで、物語の奥行きを加えている。
政令によって「お犬様」は街中を大きな顔で闊歩するようになり、人間は畜生以下に成り下がった。この現状が、人々に「人間とは何だったのか」という問いを投げかけていたという。
著者は人間が自信を無くした時代に起こった「忠臣蔵」を、単なる仇討の物語に終始させていない。
人間には動物にはない倫理観と美意識があり、時にそのために命を投げ打つこともできることを、彼らの姿を通じて強調するのである。
一個の生命体である人間の内部には、生活の論理と倫理の二つが横たわっている。時に人間は、倫理によって前者を犠牲にすることさえできる。これが人間の持つ「内面の自由」であり、人間を貴い存在にさせているものである。
▽サムライというもの
サムライを描いた小説の中で僕が一番好きなのは、河井継之助を描いた司馬遼太郎の「峠」である。
そのあとがきで、司馬はこう語っている。
明治後のカッコワルイ日本人が、ときに自分のカッコワルさに自己嫌悪をもつとき、かつての同じ日本人がサムライというものをうみだしたことを思いなおして、かろうじて自信を回復するのもそれであろう。私はこの「峠」において、侍とはなにかということを考えてみたかった。
生きている限り、人は自らのちっぽけさに悩まずにはいられない。世の中にはあまりにも多く、人間より強いものが生み出されてしまった。
単なる金持ちや社会的強者だけではない。社会学の領域を繙けば、一人の人の価値を低める"大衆"や"都市"の現出、形式と合理性の支配によって人間性を排除する"鉄の檻"など、人間をすり減らしていく概念が次々と出てくる。豊かな日本のブラック企業は従業員を"替えがきくもの"として使いこなし、その地球の裏側では匿名のまま死んでいく多くの命がある。
こんな情けない人間の時代だからこそ、人びとはその心にサムライを必要とする。
かつて美意識に殉じ、あらゆる困難を克服したサムライがいたという事実、それに気付くだけで、人は何よりも偉大になり、どんな束縛からも自由な存在へと昇華できる。カッコワルイ人間の精神を奮い立たせ、胸を張らせてくれる。だからこそ、忠臣蔵をはじめとするサムライの物語は、今日も語り継がれていくのである。
◆気に入ったフレーズ
・赤穂武士は、赤蓼武士じゃ、そうありたいのう。
・白い刃は、水玉をちらして、三十五年の生と、永劫の死との間を、通りぬけた。
・正道を踏むとは、その立場に揺ぎや誤魔化しのないことを云うのだ。
・至難なのは、目的の達成ではない。見通し難い人間の心のうごきだ。
・今日まで内蔵助から離れずにいる連中は、皆、死を楽しんでいることだ。怖ろしいことじゃないか。これ以上の強敵はあるまい。
・血も、雪も、刃も、眸も、すべてが、さむらいの道にみがきあげられてきた人道最高の道徳の華だった。
・笑わせておく所にも武門の大義がござります。
・彼らは、雪にかがやく、人間の姿を見、正しく、犬以上のものである人間を発見した。
・意義と、生きがいを摑んでこそ、生きのよろこびは、その人間に無上に楽しいにちがいない。
・朽ちない生命となるか、一片の枯れ葉にすぎない生命で消えるか。人、思い思い、その選ぶがままに極めるしかない。
・どっちでもいい、向いた方へ、衝き抜いて生きてゆかなければ嘘だぞ。


「ドグラ・マグラ」は、昭和10年1500枚の書き下ろし作品として出版され、読書界の大きな話題を呼んだが、常人の頭では考えられぬ、余りに奇抜な内容のため、毀誉褒貶が相半ばし、今日にいたるも変わらない。
〈これを書くために生きてきた〉と著者みずから語り、10年余りの歳月をかけた推敲によって完成された内容は、著者の思想、知識を集大成する。これを読む者は一度は精神に異常をきたすと伝えられる、一大奇書。
日本三大奇書の一つに数えられる「ドグラ・マグラ」。
膨大な情報と、何が正しく何が間違っているのか判別できないまま進んでいく物語の構成とで、読み切るのは至難の業だという。
この作品を読むだけでも大変だというのに、これからその書評・感想を書かなければいけない。
探偵小説というものは要するに脳髄のスポーツだからね。
作中の一節が、今自分がやろうとしていることを端的に表している。
どれもそうだが、このブログに載せる書評とは、僕の知性の挑戦である。
さて、格好をつけてみたものの、正直何を書いていいか皆目見当がつかない。
それはこの小説に「要旨」というものが無いからだろう。
要するに何なんだ、ということは「要するに値する事実」が存在していて初めて成立する質問である。ドグラ・マグラには確かなものはほとんどない。すべて正しいかもしれないし、すべて間違っているかもしれない。
デカルトが「われ思う、ゆえにわれあり」という言葉を残し、それをベースに近代の合理主義ひいては科学が発展してきた。
この小説の主人公は精神病の患者である。ストーリーテラーが精神に異常をきたしており、自分が誰なのか物語の最初から判別できないでいる。「われ」すら分からない彼が伝える物語は、科学に対する挑戦であると言えなくもないのではないか。
ただし、これは厳密にそう言えるか分からない。言葉尻だけを捕まえれば面白く表現できたが、デカルトの言葉の正確な意味じたい、僕は把握できている自信がない。
胡蝶の夢、という話もある。
wikipediaから引用。荘子による説話である。
以前のこと、わたし荘周は夢の中で胡蝶となった。喜々として胡蝶になりきっていた。自分でも楽しくて心ゆくばかりにひらひらと舞っていた。荘周であることは全く念頭になかった。はっと目が覚めると、これはしたり、荘周ではないか。ところで、荘周である私が夢の中で胡蝶となったのか、自分は実は胡蝶であって、いま夢を見て荘周となっているのか、いずれが本当か私にはわからない。荘周と胡蝶とには確かに、形の上では区別があるはずだ。しかし主体としての自分には変わりは無く、これが物の変化というものである。
「自分」に対する疑いの目を向ける、もしくは「自分」が分からないという点でこれもドグラ・マグラに共通するものがある。
ドグラ・マグラを読んでいて感じさせる不気味さ、訳のわからなさは、主人公およびストーリーテラーの「自分」が空白なまま物語が進んでいくことにある。
これはこの小説を読むまでに一般の人には想像もできない感覚だろう。
人は「己が誰なのか」という命題をほったらかしにして、善悪や正誤の判断をつけることは可能なのか。仮にそれが出来るとして、どういう風に思考していくのか。
社会は全ての人間に「自分」というものが備わっている前提で成立している。そこを覆したドグラ・マグラが今なお読み継がれているという事実は、その着眼点がいかに革命的なものであるかの証左となっているだろう。
さて、結局何が言いたいんだ、という書評になってしまった。
自分としては「自分が誰だかわからない」という条件に着目してこの作品を見てみたつもりなのだが、どうだろうか。
ちなみに著者の夢野久作はこの作品についてこう言い残している。
「この本を5回読んだら5回とも違った感想を得られるだろう」


角川文庫の「北斗の人」という作品。今日は一日暇だったので、読み終えてしまった。
北辰一刀流を開き、日本史上最大級の剣術道場を開いた千葉周作の青春を描いた物語である。
北辰一刀流と聞いて、歴史の好きな人なら清河八郎や、坂本龍馬などの名前を思い浮かべるであろう。千葉周作は、幕末の風雲児を多数生み出した道場の祖である。
物語の最後で、著者はこう評している。
周作というのは剣法から摩訶不思議の言葉をとりのぞき、いわば近代的な体育力学の場であたらしい体系をひらいた人物である。この点、日本人の物の考え方を変えた文化史上の人物であるということで、筆者も楽しんで書いてきた。
この小説の中で光るのが、千葉周作の合理的思考である。彼はその一級の思考をもとに「剣術」というものを自分で再構成し、「晦渋な秘儀に堕した兵法に反逆」する。
「固陋な世界を卓越した実力者が腕に物を言わせて切り開いていく」というストーリーは痛快小説の鉄板であるが、周作の活躍はまさにそれである。いや、一介の馬医者の次男から剣の腕ひとつで立身し、諸国を回り、あらゆる道場を打ち破り、最後には門人5000人とも言われる道場を打ち立ててしまうのだから、むしろ出来すぎていると言いたくなるだろう。
自らの実力で世界と渡り合っていく主人公の活躍は見ていてとても心地よく、司馬遼太郎もさぞかし書いていて楽しかっただろうと思わされる。
道を究め、天下に名を轟かせようという若者を描いた小説であるだけに、心に残る言葉がいくつもあった。600ページ超の小説なので決して短くはないはずだが、これを一日で読めたのは、千葉周作の姿に自分の心の琴線に触れるものがあったためであろう。以下に気に入ったフレーズを貼っていって、この記事は終わりにしたい。
・「一生はみじかいのだ、自分のうまれつきを伸ばさぬ法があるか」
周作は剣術で名を立てることのできなかった父から、剣の道で一流になるよう熱望されていた。
これはその父の言葉であるが、身を立てるための覚悟として肝に銘じておくべき言葉だろう。
・「女がその美貌をまもるように、男はその精神の格調をまもらねばならない」
非常に分かりやすく、美しい考え方に見える。これを頭の隅に置くだけで、人によっては行動が変わるかもしれない。
・権威に対する恐れを知ったとき、若者はもはや若者ではなくなるだろう。
技術を究めるには、まずは権威にひれ伏して全てを吸収する必要がある。しかし、本当に大物になるためにはどこかで反逆しなければならない。
いわゆる守破離であろう。千葉周作はこれをして、そして天下に名を轟かせた。
・「もともと志を樹て志を展べるということは、桑に梅を接木をするようなものだ。尋常でない構想と、天地の摂理をもはらいのけねばならぬ勇猛心が要る」
守破離と同じようなことを説く主人公の父の台詞。
・技術には伸びざかりというものがある。
・人間は、生身の自分と世間の風聞で作られた自分との二通りの人格を持って生きつづけてゆく。その二つがあまりにもかけはなれた人間というのは、よほどのろくでなしか、よほどの傑物か、どちらかだろう。
・人の世の事はたいてい左右いずれともきめがたいことが多い。そのとき当人にかわって、覚悟の決定をうながしてくれる存在のあるなしで、人の幸不幸のわかれることが多い。
人間の洞察に長けた著者ならではの表現。
・「思いを遂げるのよ、男の子だから」
何となく気に入ったフレーズ。
艶めかしい男女のことと志という二つの要因がそろって、青春と呼ぶにふさわしい場面になっている。
・人を屈せしめる根源は要は気魄のようであった。
・策謀というものは、九割までの本当の上に立ち、それを利用してめぐらさねばならぬものだ
・道中、愛嬌をうしなわぬこと
諸国を一人で廻った時の周作の心得だった。
知らない世界に飛び込むとき、人は馬鹿にみられて可愛がられるより仕方がない。これは自分がいまイギリスで痛感していることと通じるものである。
・技というのは日進月歩すべきものだ
・周作は剣を、宗教•哲学といった雲の上から地上の力学にひきずりおろした、といっていい。
・「天は頭上にある。それがしも畏れます。しかし兵法は人事だ。古人を畏れていては物事の進歩はない」
周作の考える、技術について。彼がいかに革新的な発想をしていたかが印象付けらえるフレーズ。
・「口を閉じ、腹中の言葉を釀醞させ、血肉のなかで溶かしきらねばならない。兵法者の言葉というのは、舌であらわすのではなく、心気力で表すものだ。」
寡黙な周作であったが、そのぶん心の中は繊細で豊かな感情の持ち主だったという。
最後。
生きているあいだに必要なのは自分一人だけさ」(千葉周作)
かっこいい!
以上です。

司馬遼太郎による新選組を題材とした短編集、「新選組血風録」である。
幕末の動乱期、土方歳三によって「節義の集団」として生まれた新選組。そこではどのような人間模様が展開されたのか。15の短編を通じてそれを鮮やかに描き出している。
司馬遼太郎が新選組を題材にした小説は、この本の他には土方歳三を書いた「燃えよ剣」だけであるという。だが、司馬は自らの「好きな作品」として両作とも挙げている。
時勢の大転換期にあって、卓越した剣の実力を持ちながら幕府に与した新選組。若い集団であったために、そこでは激しい感情のぶつかり合いや、時代の潮流との葛藤があった。そうした障害を乗り越えながら、彼らはサムライとして日本史に名を残す。司馬はそうした貫徹された美意識に強い魅力を感じたのだろう。
血なまぐさい事件と、その背後でうごめく若い感情。
この本に載っている短編はどれも、そんなものが垣間見えるものだった。それぞれに葛藤を抱えながら、彼らは自身の青春をひたむきに、命懸けで活動していた。
小気味よい戦闘の描写、隊士一人ひとりの性格に寄り添った見事な心理描写、優れた剣客たちの目覚ましい活躍、そして人間関係の機微を仄かに匂わせる後味。
どの短編も非常に完成度の高いものであることがわかる。この一冊を読むだけで、人気作家としての司馬遼太郎のすごさを感じられる。
若者が志とその実力を頼りにして集まり、「日本史で最初の近代的な組織」として形をなした新選組。
彼らの活躍を読んでいると、自分もたまらず走り出したくなるような衝動に駆られる。体中の血液が沸騰するかのような心地で読んでいるうちに、600ページを超えるこの本も一日と経たずに繰り終えてしまっていた。