
要点
・官邸主導の政治をめぐる現状
・マスメディアの問題点
・「正論の言いっぱなし」による弊害とは
憲法改正、集団的自衛権、秘密保護法、靖国参拝、アベノミクス、対中・対米外交…。新聞は、それらをどのように報じた(報じなかった)のか。主要紙は「読売・産経・日経」vs「朝日・毎日・東京」という構図で分断され、相反する主張や論調が日々飛び交う中で、私たちは何を信じrばいいのか?
第二次安倍政権についての著作、ふたつめ。小泉政権以来の「ワンフレーズ・ポリティクス」や「YES/NOへの争点単純化」という風潮に、ジャーナリストたちもよほど堪えているらしい。昨日読んだ「安倍政権の罠」もそうだが、新聞やテレビの報道では不十分だからと、現政権を俯瞰するような書籍が眼につくようになった。
▽後手後手に回るマスメディア
新聞やテレビの第一義的な使命は「いま何が起きているか」を正確に報じることである。しかし、そこには「紙面の大きさ」や「番組の尺」という大きな制約がある。
マスメディアが膨大な情報を「漏らさず」その中に詰め込もうとすると、必然的にその中身は浅く、簡略なものになっていく。政治家の端的なワンフレーズや、分かりやすい二項対立の構図に食いつくようになる。その過程で、多様な見解や解決の可能性は蓋をされてしまう。
こうした傾向は今に始まったことではないのだが、強力な「官邸主導」の体制を築き上げた安倍政権を迎えていよいよ顕著になりつつある。
国家安全保障局が設置され特定秘密保護法が成立したかと思えば、96条の改憲論議が持ち上がり、いつのまにか武器輸出三原則は変容。TPP交渉、首相の外遊、アベノミクスと経済、原発およびエネルギー計画などを注視している間に、今度は集団的自衛権の行使容認が閣議決定。落ち着いたと思ったら、すぐ内閣改造…。
次々と政治課題に手を出す安倍政権を前に、マスメディアは完全に後手後手に回っている。そうして苦しい状況の中で種々の政策を論じているうちに、いつのまにか「賛成か反対」という単純な構図が横行し始めたようだ。
とにかく、せわしない。せわしないだけでなく、政権が着手している課題は、そのスピードとは不釣り合いなほどに重大なものばかりだ。昨日も書いたが、「国家百年の計を来月までに作り上げる」勢いの、まるで革命政府のそれのような忙しさなのである。
著者のようなジャーナリストたちが「本」という媒体を選択して執筆しはじめているのも、半ば必然的だろう。書籍なら紙面や番組のような制約は存在せず、複雑な事情はもちろん、社の方針より踏み込んだことだって書ける。もちろん、それは現在のマスメディアに十分な報道ができていないことの裏返しでもあるのだが。
▽新聞の課題
あえて厳しいとらえ方をすれば、「正しいことを訴えてきた」という言い訳はもはや通じず、紙面づくりを根本的に考え直す時期にさしかかっている。
筆者は、「朝日・毎日・東京」と「読売・産経・日経」という対立軸に分断されている新聞界の現状をこう批判している。忙殺される中で、新聞社はつい各々の「正論」をぶちあげてはい終わり、という態度をとりがちになっている。
正論は、基本的に現実と相容れないものだ。今日では、「正論の言いっぱなし」から現実を引っ張っていく力は生まれない。その創造性のなさが、新聞の「言論を引っ張る力」を低下させている。
たしかに、新聞ごとに多様な意見を打ち出すことは重要なことだ。だが、反対意見をきちんと紙面や社説に反映させない限り、それは「成熟した紙面」になり得ない。
新聞社は「多くの読者は一紙しか読んでいない」という事実をもっと重く受け止めるべきだろう。新聞の偏りは、読者の偏りになる。そのことに、もっと責任を感じていい。
最近の新聞は、社論に合わない意見や情報を黙殺しているように見える。
原発推進を支持する新聞は、放射性廃棄物について触れない。特定秘密保護法に断固反対した新聞は、日本の機密保全体制に本当に不足がないのかを十分検証していない。ヘイトスピーチも、新聞によって触れたり、触れなかったり。最近では、朝日新聞が池上彰氏のコラム掲載を拒んだこともあった。
なんとも情けないではないか。都合の悪い情報や社論と相容れない意見を載せてこその、「世論の公器」ではなかったのか。「異論の余地がある」ということを知っているか知らないか、それだけで、受け手の世界は全く違うというのに。
読者は説得をされたくて新聞を購読しているのではない。現在を考えるための材料が欲しくて、購読しているのである。各社が独自の論を持つことは大いに結構だが、最近の新聞はその点で傲慢というか、独善的になっているかもしれない。
▽「正論の言いっぱなし」の弊害
最近の新聞からは、「反対論」が見えにくいことが多い。社説などで文章の技術上の、申し訳程度の「譲歩」があるくらいだ。「この考え方が正しいのだ、絶対だ」と激しく主張し、異論を認める姿勢は一切見せない。まさに正論の「言いっぱなし」である。
こうした新聞の態度が、日本全体の言論の質を下げてしまうのではないか。少々唐突だが、ここで「マネジメント」の分野で有名なドラッカーの言葉を引用してみよう。
反対論がない場合には、決断を下してはならない。
社論にとって不都合な事実や意見が紙面になければ、読者の手元に「社会を考える」ための情報は揃わない。そして、「反対論のない紙面」しか知らない国民は、いつまでたっても自ら決断を下せるようにならないのである。
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234.不敵のジャーナリスト 筑紫哲也の流儀と思想 (佐高信)

新聞、雑誌、テレビ、それぞれに新境地を拓いた稀代のジャーナリスト。ぶれない軸をもって巨大な権力と闘い抜いたその実像を、政治記者の原点を綴った未刊行の自筆メモや知人、家族の証言など多様な角度から描き出す。憲法や安全保障など国家の根幹をめぐる議論が沸騰し、拡大する格差など社会不安を背景に、社会が危険な熱を帯びる時代の、必読の書である。
筑紫哲也の書いた「若き友人たちへ」という本がある。数時間で読み終えて、なかなか感銘を受けたのを覚えている。権力と戦うジャーナリストはどこか「尖っている」イメージを持たれがちだが、筑紫の文体からは「まるさ」しか感じられなかった。そう言えば、同じく「優しい筆致」をもった司馬遼太郎も新聞記者出身であった。ふと思う、尖ってばかりのジャーナリストでは大成しないのかなぁ、と。
本書は、そんな「まるい」ジャーナリストである筑紫哲也の生きざまについて旧知の評論家が書いたものである。「現代の必読書」とか紹介されているが、そんな大仰なものでもないだろう。それなら「若き友人たちへ」や、司馬遼太郎の「21世紀に生きるきみたちへ」を買った方がよい。筑紫哲也という人が好きなら、興味があるなら、読めばいい。それだけだ。
少し心理的な距離を置いて読む必要がある本だ。著者の思い入れが強すぎて、偏っている感じがある。構成もしっかりしているとは言い難いし、ときどき結論が読み取れないこともある。
ただ、これが本書の味わいを深めてもいる。簡単にいえば、この本は故人を偲ぶ本である。よく知る友を思うとき、私たちは別に論理や構成を意識して思い出したりしない。「こんなこともあったな、そういえば、ああいうこともあったな…」と、そのつど泡のように浮かんでは消える心的景色に浸るのがせいぜいである。この本では、そういう著者の想いが素直に出ている。
▽筑紫哲也というひと
著者の数々の思い出や証言から、少しずつ筑紫哲也というひとの輪郭が浮かび上がってきた。おおらかで幅広い交友関係を持ち、批判にも耳を傾ける姿勢、反論してくる人とも友達になってしまう「人たらし」、その様は「闘わない戦後民主主義の象徴」とまで揶揄された。
著者は最後に、筑紫が「一字一会」という企画で「無」という字を挙げたとを書いていたが、これは彼の本質に迫るエピソードだろう。喧々諤々、多様な主義主張が交錯する言論界で大きな存在感を維持し続けるには、並ならぬ器量が必要だ。筑紫哲也は「無」だったから、ひとつの主義に偏重することがなかったからこそ、そんな世界を泳ぎ切ることができた。
友人の幅に偏りをつくらない。広く文化を愉しむ。反論を揉み潰さずに、きちんと取り上げる。こうしたことをするには、彼自身がキャラクターを埋没させて「無」にならなければいけないのである。世の中にはたくさんの「鋭い意見」があるが、それらが公正に闘うには丸い闘技場がなくてはならない。そんな空間となったのが、筑紫だったのだろう。
▽「竜馬がゆく」の姿勢
激烈な議論を避け、不党不偏の姿勢を貫き、柔らかな物腰を崩さず、幅広い交友関係を持つ。そんな著者の筑紫哲也像は「竜馬がゆく」の坂本竜馬を彷彿とさせた。烈しい情熱を持ちながら、それをおくびにも出さない。ただ、周りから軽んぜられることもない。「柔よく剛を制す」というが、それを地でいくような人。なかなかいるものではない。
もちろん竜馬と筑紫が被るといえば言い過ぎだろうが、少なくとも「理想のジャーナリスト」像として考える分には、良いのではないか。ときに「なまぬるい」と言われながらも、自分の姿勢を崩さないこと。これが「不敵のジャーナリスト」としてのしたたかさを生む。
不屈というより不敵なユーモアが抵抗には欠かせぬものだからである。
柔らかな笑顔と、親しみやすい丸みを帯びた性格。筑紫はそれを武器にすることで、長いあいだ権力と渡り合うことができたのだろうと推察する。
◆気に入ったフレーズ
新聞記者というのは読んで字の如く、新しいことを聞いて記す者です。
金や名誉や地位は、あるにこしたことはないが、それを目的にして他のもっと大事なものを失うのは馬鹿げている。
世間に通じるものは、もっと日常の部分、つまり文化なのです。文化に目配りがない硬派やリベラリズムの試みは、読者に届かない。
不屈というより不敵なユーモアが抵抗には欠かせぬものだからである。


平和を壊すのも平和を保つのも軍隊であるという逆説のなかで、私たちはいかにして判断し、行動すべきなのか?戦争の条件を考え抜くことで、逆説的に平和の条件に至る道を模索した、もっともリアルで読みやすい、国際政治学の入門書。
ロンドンを訪ねてきた両親に持ってきてもらった新書であるが、さっそく読み終えた。
著者の藤原帰一氏は東大の国際政治学者で、僕は彼の著書のうち「デモクラシーの帝国」を読んだことがある(ブログを開く前だったので、記事にはしていない)。機会があったらまた読みたい。
この本は事例をもとに一般化した問いを提示し、議論を進めていくという構成になっている。学問の体系的な学習にはならないが、一般の人でも興味深さを感じながら読み進められる。まさに「新書」と分類するにふさわしい内容となっている。
国際政治学の究極の目的の一つは「平和の実現」である。
二千年を超える人類史を踏まえて、どういった場合に紛争が起こるのか、どうすれば紛争を回避することが出来るのかを考える。あらゆる緊張関係に対して、人々が正しく行動することが出来れば、戦争はきっと回避することが出来る。ではその「正しい行動」とは何か。どうすればいいのか。ほとんどの国際政治学者は、そうした問題意識をもって研究を重ねている。
この本は確かに国際政治に興味を持ち始めた読者にぴったりだろう。では多少なりともその学問を齧った人には物足りないのかと言えば、そういうわけでもない。
この本は知識を享受するタイプというよりは、読者の思考法を鍛えることに重点を置いているからだ。著者もそのことについて明確に述べている。
本書では答えの出ない問いを通して国際関係について考えるという方法をとることにした。どちらを選んでも綺麗な答えにはならないという厳しいジレンマをそのまま提起して、読者を宙ぶらりんの状態に置こうという企みである。
何度も書かれているわけではないが、構成や語り口からにじみ出てくる、この本で最も強調されている点は、安易な原則論や原理に流されては国際政治の問題は解決できないということである。
現実は入り組んでいて、宙ぶらりんで、割り切れない。特に軍事、経済、制度、国内世論、歴史、など様々な要素が重層的に絡み合った国際政治のステージではなおさらである。藤原帰一はこの本を通じて、読者に「割り切れない状態に耐えること」を学ばせようとしたと考えられる。
何かの原則論にしがみつくことは簡単である。
○○さえすれば、○○さえいなければ、世の中はもっと良くなるという言説は止まることを知らずに溢れつづけ、今日でも社会に氾濫している。国際政治の問題に対処するための第一段階は、その偏見を捨てて現実をそのまま認識する努力を怠らないということである。これが出来ないと、安易な排他主義やナショナリズム、美辞麗句に飾られた不必要な軍事侵攻などに巻き込まれることになる。
意識しないで自分の信じている「正しさ」を突き放して見直すができなければ、国際政治を考えることはできない。
ジレンマや矛盾に満たされた、割り切れない現状に耐えるということ。
人間は絶えず納得のいかない状況下に置かれていることを認め、常に満足することなく、早合点をすることなく、考え続けること。
国際政治だけにとどまらず、「現実的」と呼ばれる方針や態度はこうした生地を通じて醸成されるのである。
現在、日本の新たな外交方針として「積極的平和主義」というものが打ち出されている。
「国際社会の緊密化が進む現在、自国の安全を守るためには、より積極的に世界の平和に貢献しなければいけない」という主張自体に疑問を差し挟むこともできるが、ASEAN各国を回り、ODAなど協力体制を積極的に打ち出している方針を見ると、一概に悪いとも思えない。
ただし、従来よりも積極的に動くためには優れた現実感覚と外交技術、戦略が必要になってくるのは確かだろう。このことを肝に銘じる必要がある。積極的平和主義が何かの偏見を基に進められた場合、日本が悲惨な結末に巻き込まれるのは火を見るよりも明らかである。
暴力が国際政治の現実であることは否定できない。暴力に頼ることなく戦争を回避することもきわめて難しい。だが、その現実のなかには常に複数の選択が潜んでいることも見逃してはならない。
積極策に転じた日本のトップは、国際関係の中を上手く渡ることが出来るだろうか。
◆気に入ったフレーズ
・意識しないで自分の信じている「正しさ」を突き放して見直すができなければ、国際政治を考えることはできない。
・国内政治と国際政治を截然と区別する議論の前提には、国民の安全はその国民を統治する国家の責任だという判断が置かれている。
・現代戦争の多くは「保護する責任」なしには説明できないからである。
・一九七○年代危機の後における国際政治の展開は、特定の国家の軍事力や経済力だけに頼らなくても、国際公共財の供給を支えることが可能であることを示している。
・国内における国家と社会の信頼と、国際関係における各国政府の信頼と、そのどちらを優先すべきか、というジレンマがここに生まれる。
・問題は、民主主義という制度を前提とし、その制度のなかで国民の政治行動を慰撫しながら、国際関係の不安定を招くような選択をどのように回避するかという点にある。
・私たちは、文化が多様であるという現実を受け入れ、それと同時に、それぞれの文化の壁を越えた、普遍性の領域があるという判断を抱えて生きている。
・多数派の非暴力と少数派の暴力という対照は、少数派は民主政治における自己実現を期待できないという制度的な特徴に根ざしたものだといえるだろう。
・ナショナリズムほど鮮やかに組織的な自己欺瞞に成果を収めた政治イデオロギーは存在しない。
・たとえば、戦争をどう考えるか。…そこには平和を壊すのも平和を保つのも軍隊であるという、国際政治のもっとも根本的な逆説が孕まれているからだ。
・暴力が国際政治の現実であることは否定できない。暴力に頼ることなく戦争を回避することもきわめて難しい。だが、その現実のなかには常に複数の選択が潜んでいることも見逃してはならない。


参院選が近くなってきた。自民党は憲法改正の発議要件を2/3から1/2に下げるという96条の改正を争点にすると息巻いていたが、果たしてそうなるだろうか。現状を見る限り、アベノミクスの先行きが一番の争点にならざるをえないのではないか、と推察している。
96条の改正については、立憲主義という思想的には到底受け入れることのできないものであるし、自民党の改憲案には「憲法が権力を縛る」という法の支配に対する理解を無視した条文が散見される。仮にも憲法の改正を志してきた政党であるのならばもう少し憲法についての勉強をしたらどうか。もし勉強した結果、それでも憲法を自民案のようにすべきだと考えているのであれば、国民は自民党に2/3以上の議席を与えることはできない。「一と二分の一政党制」を続けることになるのではないか。
この本は2000年に書かれたものである。憲法学の専門家である筆者が「個人と国家」の関係について述べている。ヨーロッパの教訓から日本の古来の法意識、そして世界大戦後に生まれた日本国憲法。戦後日本で何十年も繰り返されてきた「改憲」という議論を深く理解するためには、歴史的経緯も含めて俯瞰しなければならないだろう。
筆者の議論は結構細かい。自分で論理立てて説明をした後、必ずと言っていいほど憲法に関する出来事や判例を持ち出してくる。もちろん説得力は増すのだが、それゆえに論理の流れが追いにくいのも事実である。政教分離や司法権と主権国家の相対化の兼ね合い、ジェンダーの問題から日本国憲法の成立の背景まで、その議論は多岐に及んだ。
ただ、改憲という議論について筆者はこういうことを言っていた。問題を冷静に見る上で大事な点だと思うので、ここで紹介しておく。
改憲にという問題、目的意識については、それを二つに分ける必要がある。
一つ目は、立法運動・裁判の働きかけこそが大事である領域がほとんどであること。憲法は国家を縛るルールであるため、実際に人々の生活を変えるのは憲法以外の個別具体的な法律や条例、政策である。憲法に女性の権利拡大をうたったところで、それを現実に反映するような立法しなくては、現実は全く変わらない。
憲法を替えれば、それだけで社会が良くなるというのは幻想である。憲法は強い力を持つが、人々の生活を大胆に改善するような性質のものではない。そういうものは他の法律の領域であり、いちいち些末な議論の為に憲法改正まで迫るのは、時間の浪費というのに近くなってしまう。
二つ目は、それでもなお憲法を替えなくては前に進めない領域も確かにあるということ。憲法9条の問題が代表的だ。それらをもし変えるのであれば、争点を絞ったうえで、突き詰めた議論が不可欠であろう。しかし、そういう点から見ても、いままで国民や国会議員が、そうした突き詰めた議論をしてきただろうか。憲法は国家運営のルールであるから、改正の中身の如何によってはそれこそ国家の首を絞めかねない。
96条に関連していえば、議会で2/3の賛成を得ろ、というのは「それだけのコンセンサスを形成しろ」という要求を含意している。発議要件が1/2では政権与党は簡単に発議できてしまう。しかし、2/3ともなれば与野党の間で超党的な妥協・合意形成が不可欠となるので、慎重な議論を避けて通れないのである。そういう意味でも、「憲法を変えやすくするための発議要件の緩和」は法治国家に対する反逆である、という表現は正鵠を得ている。
さて、個人と国家について、どこかで書いておきたいと思う。
広いテーマなので、一度書くことで自分の考えも整理してみたいというのが正直なところだ。
機会があったらまた更新することにする。


ライトノベルのような感じのタイトルだが、アメリカ銃社会を題材とした新書である。
「銃に恋して 武装するアメリカ市民」。筆者は共同通信社の元特派員、現在は外信部デスクだという。銃社会を通じてアメリカの実態を描こうとする新書であった。
筆者が取材を通じて市民、企業、政治家など様々な人たちからの声が書かれており、しかもそれらを通じて一般化された結論を提示していた。新書には最初から最後まで理論や事例一辺倒のものなどがあるが、僕はこの本のように事例と理論を程よく盛り込んでいるものが一番面白いように思う。まぁ人それぞれだと思うが。
この本は事例を踏まえてイメージをつけながら、アメリカ銃社会というものを大きくとらえさせてくれる。良い新書だったと思う。
銃社会アメリカを構成する大きな要点は以下の二つ。
・建国の理念、伝統
こちらは理念的な話である。
アメリカは銃を使って原住民と戦い、食料を得て、開拓を進めてきた。そして武装した市民たちがイギリスと戦い、独立を勝ち取った。
自由の国アメリカはその成り立ちからして革命国家であり、その理念を多くの国民は誇っている。
「自由と民主主義は、時として武力によって勝ち取るべき」
という教訓は、アメリカ人のDNAに組み込まれて脈々と受け継がれているという。ジョン・ロックなどの社会契約論者が唱えた「革命権・抵抗権」が精神的なバックボーンとなっているのだろう。
「銃のない社会に生きる価値はない」という主張も多くみられた。銃を持って、政府権力に抵抗する権利は民主主義の根幹をなすと。
そうした精神を象徴したのが米国憲法修正第二条だ。
「規律ある民兵は自由な国家の安全保障にとって必要であるから、国民が武器を保持する権利は侵してはならない」
しかし、本を読む限りアメリカの民主主義は銃に支配されつつある、という皮肉な状態でもある。
・実際的な安全確保の問題
アメリカは二億丁を超える銃火器が出回る国だという。乱射事件もいつ起こるか分からず、人々は潜在的な銃口の存在におびえながら暮らしている。
「乱射の現場に必ず立ち会うことができるのは、犯人と被害者だ」という図式は、単純だが的を射た主張だ。
自らを被害者としないためには、銃を持つしかない。個人単位では「銃を持つ」ということは最善の選択肢である。この点が、問題の根深い点だろう。筆者も以下のように結論付ける。
こうした特殊性を考慮すれば、「銃のない社会を」という理想を、そのまま今のアメリカに受け入れろというのは、酷な要求であることが分かる。
日本からみて、アメリカのように銃を携帯しているのは異常にも思える。
しかし、アメリカにはアメリカの事情がある。
アメリカでは銃規制法案が通過せず、オバマ大統領が「アメリカの恥ずべき日だ」と話したという。
マックス・ウェーバーは近代国家の特徴を「国家による暴力の独占」だと表現した。自己の独立を志すアメリカでは民間人が武装している。アメリカは近代国家以前の段階なのか、それとも近代国家を超越した段階なのか。
銃社会の様相について、もう少し調べる必要がありそうだ。
