
ビルマ英軍収容所に強制労働の日々を送った歴史家の鋭利な筆はたえず読者を驚かせ、微苦笑させつつ西欧という怪物の正体を暴露してゆく。激しい怒りとユーモアの見事な結合がここにある。この強烈な事実のもつ説得力の前に、私たちの西欧観は再出発を余儀なくさせられるだろう。
読書の醍醐味の一つは、自分が決して体験しないであろうことを知ることにある。この点、ビルマで終戦を迎え現地の収容所に入れられた著者の記録は、読んでいて飽きのこないものであった。
終戦直後、かつての敵に囚われているという状況と、東南アジアの収容所という舞台がマッチして実に奇妙な感じをうける。そこでは価値観の差異だけでなく、人間普遍の「おかしみ」のようなものも露わになっている。
あらすじや前書きでは「イギリス人の黒い一面」が強調されているが、それにこだわって読む必要はない。近現代史を一瞥すれば、イギリス人が後ろ暗いのは自明である。読者はひとりの捕虜の体験や感性を堪能できれば、それで充分だ。
「佐藤優が選ぶ中公新書」という帯がついた著作は、前作の『教養主義の没落』に続き二冊目だ。いまのところハズレがない。おすすめである。
▽「人間はどんなことにでも慣れられる存在だ」
シベリアの監獄にいたことがあるドストエフスキーは、当時を振り返った『死の家の記録』で上のように書いている。どんなに絶望に近い状況でも、人間は人間らしく暮らすことができる。この本は、さしずめ日本版『死の家の記録』ということになろうか。
捕虜となった日本兵は、言わばイギリス人に生殺与奪を握られた存在である。それなのに、彼らは作業をサボタージュしたり、物資を拝借したり、自分たちで芝居を開いたり、イギリス人や現地人をコケにして笑い合ったりしている。
著者の軽快な語り口に、読者は思わず苦笑いさせられる。人間とはなんと逞しい生き物か。プロパガンダに裏切られ、敗戦を喫し、敵にその身を委ねさせられてもなお、彼らの批判精神はいっそう強く鍛え上げられた観がある。
収容所だろうが刑務所だろうが、そこに人間がいる限り「人間味」の片鱗は必ず光を放つ。東南アジアで捕虜になった人の身にも、面白おかしいことはたくさん起こる。このことが、読者をどこか愉快な気持ちにさせる。
▽この本から何を学ぶか
この本は反戦のために書かれた本でもないし、ヨーロッパ人批判の本でもない。たしかに副題には「西欧ヒューマニズムの限界」とあるが、彼らのホンネとタテマエが見透かされるようになった現代に、そうした視点はたいして重要でない。
今日の読者がこの本から学べることは、「自分とは違う存在を面白がること」の精神だと言えそうである。
高慢だが計算の苦手なイギリス人、意気地のないインド人、堅物だが純朴なグルカ人…。彼らに対する著者の視点は、自分たちと違う感覚を持って行動する人間を単純に面白がるものであった。
インド人と同じだというのに反撥するのは、人種的な意味ではない。「日本の女の人はもっと白く美しい。おれの女房はこんなに真っ黒じゃない」という無邪気なことからきているのである。
差別を廃することとは、差異を無視し、強いて均一にすることではない。差異を「あるもの」として捉え、その一種の諦観を前提にして触れ合い、観察しあうことである。諧謔に富みながらどこか冷めている著者の筆致は、この点参考になる。
収容所生活をくぐり抜けた筆者のように、異文化を背景とする相手を「私たちと違う」と考えることは、今後ますます重要になってくるだろう。妙に理想主義的になって「相手も私と同じ人間」などと考えることのほうが、よっぽど危ないような気がするのである。
◆気に入ったフレーズ
かれらはむりに威張っているのではない。東洋人に対するかれらの絶対的な優越感は、まったく自然なもので、努力しているのではない。
残虐性の度合いや強弱などというものは、一般的な標尺のあるものではない。それは文化や社会構造の型の問題で、文化や道徳の高さなどという価値の問題ではない。
英軍はあくまでも冷静で、「逆上」することなく冷酷に落ちつき払ってそれをおこなったのである。
「われわれはわれわれの祖国の行動を正しいと思って戦った。君たちも自分の国を正しいと思って戦ったのだろう」
大東亜戦争のお題目であった「アジア民族の統一」という理想を、兵隊たちは皮膚感覚としては持ちえなかったのである。
インド人と同じだというのに反撥するのは、人種的な意味ではない。「日本の女の人はもっと白く美しい。おれの女房はこんなに真っ黒じゃない」という無邪気なことからきているのである。
外貌を気にするのはどの人種でも同じである。しかし私たちの気にしかたにはどこか異常なところがある。
読書の醍醐味の一つは、自分が決して体験しないであろうことを知ることにある。この点、ビルマで終戦を迎え現地の収容所に入れられた著者の記録は、読んでいて飽きのこないものであった。
終戦直後、かつての敵に囚われているという状況と、東南アジアの収容所という舞台がマッチして実に奇妙な感じをうける。そこでは価値観の差異だけでなく、人間普遍の「おかしみ」のようなものも露わになっている。
あらすじや前書きでは「イギリス人の黒い一面」が強調されているが、それにこだわって読む必要はない。近現代史を一瞥すれば、イギリス人が後ろ暗いのは自明である。読者はひとりの捕虜の体験や感性を堪能できれば、それで充分だ。
「佐藤優が選ぶ中公新書」という帯がついた著作は、前作の『教養主義の没落』に続き二冊目だ。いまのところハズレがない。おすすめである。
▽「人間はどんなことにでも慣れられる存在だ」
シベリアの監獄にいたことがあるドストエフスキーは、当時を振り返った『死の家の記録』で上のように書いている。どんなに絶望に近い状況でも、人間は人間らしく暮らすことができる。この本は、さしずめ日本版『死の家の記録』ということになろうか。
捕虜となった日本兵は、言わばイギリス人に生殺与奪を握られた存在である。それなのに、彼らは作業をサボタージュしたり、物資を拝借したり、自分たちで芝居を開いたり、イギリス人や現地人をコケにして笑い合ったりしている。
著者の軽快な語り口に、読者は思わず苦笑いさせられる。人間とはなんと逞しい生き物か。プロパガンダに裏切られ、敗戦を喫し、敵にその身を委ねさせられてもなお、彼らの批判精神はいっそう強く鍛え上げられた観がある。
収容所だろうが刑務所だろうが、そこに人間がいる限り「人間味」の片鱗は必ず光を放つ。東南アジアで捕虜になった人の身にも、面白おかしいことはたくさん起こる。このことが、読者をどこか愉快な気持ちにさせる。
▽この本から何を学ぶか
この本は反戦のために書かれた本でもないし、ヨーロッパ人批判の本でもない。たしかに副題には「西欧ヒューマニズムの限界」とあるが、彼らのホンネとタテマエが見透かされるようになった現代に、そうした視点はたいして重要でない。
今日の読者がこの本から学べることは、「自分とは違う存在を面白がること」の精神だと言えそうである。
高慢だが計算の苦手なイギリス人、意気地のないインド人、堅物だが純朴なグルカ人…。彼らに対する著者の視点は、自分たちと違う感覚を持って行動する人間を単純に面白がるものであった。
インド人と同じだというのに反撥するのは、人種的な意味ではない。「日本の女の人はもっと白く美しい。おれの女房はこんなに真っ黒じゃない」という無邪気なことからきているのである。
差別を廃することとは、差異を無視し、強いて均一にすることではない。差異を「あるもの」として捉え、その一種の諦観を前提にして触れ合い、観察しあうことである。諧謔に富みながらどこか冷めている著者の筆致は、この点参考になる。
収容所生活をくぐり抜けた筆者のように、異文化を背景とする相手を「私たちと違う」と考えることは、今後ますます重要になってくるだろう。妙に理想主義的になって「相手も私と同じ人間」などと考えることのほうが、よっぽど危ないような気がするのである。
◆気に入ったフレーズ
かれらはむりに威張っているのではない。東洋人に対するかれらの絶対的な優越感は、まったく自然なもので、努力しているのではない。
残虐性の度合いや強弱などというものは、一般的な標尺のあるものではない。それは文化や社会構造の型の問題で、文化や道徳の高さなどという価値の問題ではない。
英軍はあくまでも冷静で、「逆上」することなく冷酷に落ちつき払ってそれをおこなったのである。
「われわれはわれわれの祖国の行動を正しいと思って戦った。君たちも自分の国を正しいと思って戦ったのだろう」
大東亜戦争のお題目であった「アジア民族の統一」という理想を、兵隊たちは皮膚感覚としては持ちえなかったのである。
インド人と同じだというのに反撥するのは、人種的な意味ではない。「日本の女の人はもっと白く美しい。おれの女房はこんなに真っ黒じゃない」という無邪気なことからきているのである。
外貌を気にするのはどの人種でも同じである。しかし私たちの気にしかたにはどこか異常なところがある。
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