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本と6ペンス

The writer should seek his reward in the pleasure of his work. ("The Moon and Sixpence" Somerset Maugham)

281. エミール (ルソー) 【フレーズ集】

【上巻】

第一編
だれでも知ってることで一冊の書物をうずめるようなことはしたくない。

人は子どもというものをしらない。

よい方法を中途半端に採用するよりは、いままでの方法にそのまま従っていたほうがいい。

万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる。

植物は栽培によってつくられ、人間は教育によってつくられる。

教育はその人の運命が両親の地位と一致しているかぎりにおいて有効なものとなる。

人生のよいこと悪いことにもっともよく耐えられる者こそ、もっともよく教育された者だとわたしは考える。

死をふせぐことよりも、生きさせることが必要なのだ。生きること、それは呼吸することではない。活動することだ。

子どもは命令するか、命令されなければならない。

世界でいちばん有能な先生によってよりも、分別のある平凡な父親にとってこそ、子どもは立派に教育される。

人間をつくるには、自分が父親であるか、それとも人間以上の者でなければならない。

子どもはときに老人にこびることもあるが、けっして老人を愛することはない。

ふつうの人間のほかには教育する必要はない。

肉体は弱ければ弱いほど命令する。強ければ強いほど服従する。

人間の教育は誕生とともにはじまる。話をするまえに、人の言うことを聞きわけるまえに、人間はすでに学びはじめている。


子どもにつけさせてもいいただ一つの習慣は、どんな習慣にもなじまないということだ。

子どもの最初の泣き声は願いである。気をつけていないと、それはやがて命令になる。

抑揚は話の生命である。

子どもは権力などふるうべきではない。

観念よりも多くのことばを知っているというのは、考えられるよりも多くのことがしゃべれるというのは、ひじょうに大きな不都合である。

かれは生きている。しかし、自分が生きていることを知らない。



第二編
けがをしたばあい、苦しみをあたえるのは、その傷であるよりも、むしろ恐れなのだ。

子どもを苦しめないためにあらゆるもので武装しようとして、かれのまわりに寄せ集めるおびただしい道具についてはなんと言ったらいいのか。

一日に百回ころんでもいい。それだけはやく起きあがることを学ぶことになる。

人間よ、人間らしくあれ。それがあなたがたの第一の義務だ。

肉体の痛みと良心の悩みとを除けば、わたしたちの不幸はすべて想像から生まれる。

苦しんでいるがいい、死ぬか、なおるかするがいい。しかし、なによりも、最後の瞬間まで生きるのだ。

自分の意志どおりにことを行うことができるのは、なにかするのに自分の手に他人の手をつぎたす必要のない人だけだ。そこで、あらゆるよいもののなかで、いちばんよいものは権力ではなく、自由であるということになる。

涙に負けてなにかをあたえることは、子どもにさらに涙を流させることになる。

大きな幸福を知るためには小さな苦しみを経験しなければならない。

子どもを不幸にするいちばん確実な方法は、いつでもなんでも手に入れられるようにしてやることだ。

子どもには特有のものの見方、考え方、感じ方がある。そのかわりにわたしたちの流儀を押しつけることくらい無分別なことはない。

熱心な教師たちよ、単純であれ、慎重であれ、ひかえめであれ。

悪い教育をあたえることにならないように、よい教育をできるだけおそくあたえるがいい。

子どもにはけっして罰を罰としてくわえてはならないこと、それはいつもかれらの悪い行動の自然の結果としてあたえられなければならない。

人は子どもに美徳を教えているようにみえながら、あらゆる不徳を好ませるようにしている。

子どもの状態を尊重するがいい。そして、よいことであれ、悪いことであれ、早急に判断をくだしてはならない。

あなたはまず腕白小僧を育てあげなければ、賢い人間を育てあげることにけっして成功しないだろう。

見かけはあくまで自由に見える隷属状態ほど完全な隷属状態はない。



三編
欲望をへらせばいい。そうすれば力がふえたのと同じことになる。

かれは学問を学びとるのではなく、それをつくりださなければならない。

子どもに学問を教えることが問題なのではなく、学問を愛する趣味をあたえ、この趣味がもっと発達したときに学問をまなぶための方法を教えることが問題なのだ。

学問的な空気は学問を殺す。

あなたがたは、子どもが小さいときは従順であることを望んでいる。それは、大きくなって、信じやすく、だまされやすい人間になることを望んでいることになる。

困るのは、理解しないことではなく、理解したと考えることだ。

まだ感じていない利害にたいしてどうして情熱をもつことができよう。

人間がつくったものはすべて人間がぶちこわすことができる。

王冠を失ってもそんなものを必要とせずにいられる者は王者よりも高い地位にあることになる。

必要のために働かなくてもいい。名誉のために働くのだ。



【中巻】
人生は短い。わずかな時しか生きられないからというよりも、そのわずかな時のあいだにも、わたしたちは人生を楽しむ時をほとんどもたないからだ。

わたしたちは、いわば、二回この世に生まれる。一回目は存在するために、二回目は生きるために。

自分自身に対する愛は、いつでもよいもので、いつでも正しい秩序にかなっている。

人間を本質的に善良にするのは、多くの欲望をもたないこと、そして自分をあまり他人にくらべてみないことだ。

判断をしたあとではじめて人は恋をする。

顔を赤らめる者はすでに罪を犯しているのだ。

なんにも必要としない者がなにものかを愛することができるとは考えられない。

家柄も健康も富もあてにしないように教えるがいい。

有名になるのは悪人だけだ。善良な人間は、忘れられているか、笑いものにされている。

天性が明らかにされるのはつまらないことによってなのだ。

すべてを語る者はわずかしか語っていない。

臆見が勝利を占めるのはなによりも宗教の問題においてなのだ。

抽象的な観念は人間のもっとも大きな誤りの源だ。

自由がなければほんとうの意思はないのだ。

すこしばかりの苦しみにも耐えられない者は、多くの苦しみをうけることを覚悟しなければならない。

理解されなければされないほど、ますますわたしは神を尊敬する。

理性はわたしたちをだますことがあまりにも多い。

正義にたいするもっとも大きな報賞は正義を行なっていると感じることなのだ。

ほんとうのことを言い、よいことをするのだ。

欲望は知識から生じる。

愛しているひとを正確に、あるがままに見たとすれば、地上には恋などというものはなくなるだろう。

教養のある人は容易にかれの持ち物を公開しない。かれには語るべきことがありすぎるし、自分に言えることのほかにもまだ多くのことが言えることがわかっている。だからかれは口をつぐんでいる。

ほんとうの礼儀とは人々に好意を示すことにある。

幸福になるのは、幸福らしく見せかけるよりはるかにやさしいことなのだ。


【下巻】
人々の意見というものは、男性にとっては美徳を葬る墓場になるのだが、女性にとっては美徳の光栄の座になるのだ。

顔は流行とともにかわるものではないし、形はいつでも同じなのだから、よく似合うことがわかったものは、いつまでも似合うのだ。46

わたしたちは人に喜ばれる才能をあまりにも技術的なことにしている。53

感激がなければ本当の恋愛はない。99

運命がどうであろうと、人格的な関係によってこそ、結婚は幸福にもなり不幸にもなる。124

良心はいちばん賢明な哲学者だ。149

美しい妻が天使でないかぎり、その夫は男のなかでいちばん不幸な男だ。152

人生は短い、と人々は言っているが、わたしの見るところでは、人々は人生を短くしようと努力しているのだ。155

かれは自分のいのちを半分やっても、彼女がなにか一言話してくれる気になれば、と思う。167

だれでもみんな、愛する者のうちに、自分が尊重している美点を愛している。215

「エミール、幸福にならなければならない。これはあらゆる感覚をもつ存在の目的なのだ」248

「しなければならないことがわからないあいだは、なにもしないでいるというのが賢いやりかただ」249

「勇気がなければ幸福は得られないし、戦いなしには美徳はありえない。」255

「美徳は、その本性からすれば弱いが、その意志によって強い存在だけにあたえられているのだ」255

「人間であれ。きみの心をきみにあたえられた条件の限界に閉じこめるのだ」259

幸福感は人間を圧倒する。人間はそれに耐えられるほど強くない。339

「夫婦になってからも恋人同士でいることだ」342

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281. エミール 上中下 (ルソー)

ルソー一流の自然礼賛、人為排斥の哲学を教育論として展開した書。ある教師がエミールという一人の平凡な人間を、誕生から結婚まで、自然という偉大な教師の指示に従って、いかに導いてゆくかを小説の形式で述べてゆく。

エミール、それは世界でいちばん幸福な男の子の名前である。ジャン=ジャック・ルソーに導かれ、良心の声に耳を傾けることを学び、自然とともに心身を育み、ソフィーという最上の伴侶と結婚する。

教育とは、己のすべてを注ぎ込む営みである。ルソーはそれを、この『エミール』において行った。本書には、学問、政治、宗教、愛、結婚にいたるまで、彼の思想の一切が盛り込まれている。

ルソーは架空の男の子を、彼の信念にしたがって導いていく。そう、この本は絵空事である。しかし、これほど美しく、よく考えられ、幸福に満ちた絵空事があるだろうか。

「エミール、幸福にならなければならない。これはあらゆる感覚をもつ存在の目的なのだ」
エミールに向けられた師の声、その優しい響きは読者にも届く。ひとりの人間を愛するように書物を愛することができるとするなら、『エミール』は読者にそうさせる稀有な本の一つである。


▽ルソーの教育方針
書評の中で、『エミール』に綴られたルソーの思想を一切説明しないのはアンフェアだろう。手短に、そのもっとも核となる部分だけを取り上げる。

万物をつくる者の手をはなれるときすべてはよいものであるが、人間の手にうつるとすべてが悪くなる。

これがルソーの掲げる根本原理だ。社会、しきたり、政府などの「反自然」が、善いものであった「自然」や「人間」までもを堕落させた。それは『人間不平等起原論』『社会契約論』でも明らかにされている。

彼の教育は消極的だ。教育によって子供に「自然的でないもの」が植え込まれることを恐れながら、子どもを導いている。自然こそが偉大な教師である。ルソーの役割は、人間のつまらぬ知恵にそれを邪魔させないことにあった。

理屈を捏ねるよりも、良心の声に従うこと。書物から知識を得るよりも、自分の五感と頭で学問をすること。付け焼刃の礼節を弁えるより、単純に相手へ好意を伝えること…。本著で展開される思想は、すべて上の一節に帰着する。


▽人間を愛すること
ルソーがこれほどの大著を書いたのも、彼が人間の根底に横たわる善性を深く信じていたからである。彼の筆致には信念が宿り、人間への大きな愛情を感じさせる。

この本は自然を愛でる本であり、「ありのまま」の人間を讃え、人間の幸せを祝福する本である。人間は美しい。素晴らしい。善良である。そのルソーの迷いのなさが、とても眩しかった。

この本から受けた感銘をどう表現すべきか。人間への愛で満たされた本に、読了後しばらく呆然とさせられた。

考えがまとまらず筆が進まないので、哲学者イマヌエル・カントの逸話に助けを求めたい。

厳格な哲学者で規則正しさを好むカントは、毎日同じ時間に散歩に出ることで有名だった。ところが、ある日、彼はなかなか出てこない。何かあったのか、と周囲は騒ぎだす。

実はカントが出てこなかったのは、この『エミール』を読みふけっていたからだった。ここまでなら単なる面白い話なのだが、その後にカントの綴った言葉が素晴らしい。

「無学の愚民を軽蔑した時代もあったが、わたしの誤りをルソーが正してくれた。目をくらます優越感は消えうせ、わたしは人間を尊敬することを学ぶ」

『エミール』、それは人間を愛し、尊敬し、信じぬいた思想家のすべて。それは単なる教育論を超えて、人を愛することを私たちに伝えているのである。

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271.永遠平和のために (カント)

世界の恒久的平和はいかにしてもたらされるべきか。カント(1724-1804)は、常備軍の全廃、諸国家の民主化、国際連合の創設などの具体的提起を行い、さらに人類の最高善=永遠平和の実現が決して空論にとどまらぬ根拠を明らかにして、人間ひとりひとりに平和への努力を厳粛に義務付ける。あらためて熟読されるべき平和論の古典。


当たり前のように、2015年が来た。僕が学生でいられるのも4月まで。自分のことを棚に上げてものを書き散らすことも、それまでしか許されない。

「一年の計は元旦にあり」と言ったか。ギリギリ学生である僕は、「一年の計」よりもむしろ「世界の平和」を考えることにする。「少年老い易く学成り難し」。自分の計画など、そのうち勝手にたってしまうだろう。


▽カントという哲学者
「汝の意志の格率が、つねに同時に普遍的立法の原理として妥当するように行為せよ」。
この一節で知られるカントは、非常に厳格な哲学を打ち立てた。どこか「道徳原理主義者」という感じすら与える。

非常に几帳面で、規則正しい生活を送っていたらしい。近所の人びとは毎日同じ時刻に散歩に出かけるカントの姿を見て、時計のズレを直していたという逸話もある。そんな彼の性格は、哲学にも色濃く反映されている。

彼は、「道徳はいかなる状況でも同じ行動を人に要求する」とした。「誤魔化し」の介在を許さず、方便で使い分けられる道徳を否定し、内実の伴わない正義を糾弾した。

彼によれば、行動とは、その効果でなく、その行動自体で評価されなければならない。「良かれと思って」ついた嘘も、嘘自体が道徳に反する行為であることに変わりなく、いかなる理由があっても肯定されるべきではないという。

本著は、そんなカントが71歳に達したころに著したものだ。彼が目指したのは「永遠」の「平和」。晩年を迎えてもなお、究極的な問いと格闘し続けたのだ。


▽カントの永遠平和
彼が想定する「平和」も、厳密で偽りのないものだ。それは単に戦争がないだけでなく、戦争に繋がる「火種」も存在しない状態を指している。言わば、彼はここで戦争への「根治療法」を試みているのである。

具体的には、第一章で「将来の戦争の種を密かに留保した平和条約」や「常備軍」、「国家同士の信義を失わせる行為」などの廃絶を訴える。また続く第二章で、より積極的な施策として「諸国家の共和政化」や「国際連合の創設」などを提案している。

さらにカントは補論を付け加え、そこで自身の主張と「永遠の平和」が机上の空論でないことを説明している。自然が平和と相容れないものではないことを示したあと、彼は言う。「あとは人類の努力次第である」、と。

平和状態は、創設されなければならない。

ここに、カントの思想の核心がある。永遠平和は決して実現不可能ではない。ただし、人間はそのために能動的に働き、努力を続けなければならないと、彼は説く。

これについて、いろいろな批判を述べることは可能であろう。そもそも道徳が本当に無条件で命令するものなのか、それが本当に万人に通じる普遍性を持っているのか、私たちには分からない。もしかすると、現代においてカントの思想は古臭いものなのかもしれない。

それでも、彼の言葉には依然として独特の「重み」がある。「平和」を考えるとき、私たちはこの一冊をどうしても読まなければいけない。「永遠平和のために」と銘打たれたこの本は、「平和のために、まだ何か出来るはずだ」と考える姿勢を、私たちに教えてくれるのである。


◆気に入ったフレーズ
国家は、国家それ自身以外のなにものにも支配されたり、処理されたりしてはならない人間社会である。

戦争のさなかでも敵の志操に対するなんらかの信頼がなお残っているはずで、そうでなければ、平和を締結することも不可能であろう。

平和状態は、創設されなければならない。

自由とは、それによって他人に不法を行わない行為の可能性である。

戦争をすべきかどうかを決定するために、国民の賛同が必要となる場合に、国民は戦争のあらゆる苦難を自分自身に背負いこむのを覚悟しなければならないから、こうした割りに合わない賭け事をはじめることにきわめて慎重になる。

諸民族は、隣りあっているだけですでに互いに害しあっている。

道徳は、無条件で命令する諸法則の総体である。

道徳はすでにそれ自体として、客観的な意味における実践である。

道徳的な悪はみずからの意図において、自分自身と矛盾し、自己破壊を生じ、かくして善の原理に、たとえそれが遅々とした歩みでも、ついには場所を明ける。

正義はただ公けに知られるものとしてのみ、考えられることができる。

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270.方丈記 (鴨長明)

人の世の無常を感じ出家遁世した長明。しかし方丈の草庵でも安住できない。この苦渋にみちた著者の内面が、和漢混淆・対句仕立ての格調ある文章によって表現され、古来人々の愛読する古典となった。

大晦日に、筆をとる。2014年の書き納めである。

俯瞰してみれば、留学からの帰国や秋の就職活動などがあったものの、上手く進んでこれた一年だった。その2014年もいよいよ暮れようとしている。

円満に年末を迎えたかったところであるが、生まれて初めてインフルエンザに罹ってしまった。数日間、ずっと家で臥せっている。どうやら「帳尻合わせ」というのは、本当にあるものらしい。


▽ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず
日本三大随筆に数えられる方丈記の冒頭は、無駄がなく、それでいて核心を突いた美文だ。世の無常さを流れゆく川に託す感性は、どこか日本人の心の琴線に触れてくる。

特に、大晦日という日は、人をそんな感傷に浸らせる。今年もいろいろあったなぁ、というぼんやりした感慨がふと口から出たとき、「ゆく河の流れは絶えずして」の言葉は私たちの心に寄り添ってくる。

どれほど思い出を大切にしても、どれほど強く一瞬を噛みしめても、私たちは立ち止まることを許されない。立ち止まって振り返りたくなる12月31日にこそ、私たちはそれを意識する。

2014年が流れ行けば、2015年が流れ来る。来年も、きっと色々なことが起こる。きっと私たちも苦しみ、思案にくれ、喜びに触れながら過ごしていくことだろう。

浮き世の思い出を、どうしても忘れられない。辛いことに溢れた社会から抜け出たはずなのに、どこか心が報われない。方丈記に綴られた鴨長明の思い煩いは、きわめて普遍的なものであった。私たちと同じような悩みを、昔の人も抱いていたのである。

もうすぐ「来年」がやってくる。辛いことも楽しいことも沢山乗せて、これからの地球を回していく。

誰もが期待と不安を抱きつつ、「2015」へと眼差しを向ける。その先に見えるものが、楽しく明るいものでありますように。何より、そんな自分でいられますように。

絶えることのない流れを感じながら、そんなことを誓ってみる大晦日。「方丈記」から時間への感性を読み取ることは、そんな日にこそ相応しい。


◆気に入ったフレーズ
ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。

朝に死に、夕に生るるならひ、ただ水の泡にぞ似たりける。

人のいとなみ皆おろかなるなかに、宝を費やし、心を悩ます事は、すぐれてあぢきなくぞ侍る。

勢いあるものは貪欲深く、独身なるものは人に軽めらる。財あれば恐れ多く、貧しければ、うらみ切也。

世にしたがへば、身苦し。したがはねば、狂せるに似たり。

程狭しといへども、夜臥す床あり、昼居る座あり。一身を宿すに不足なし。

魚は水にあかず。魚にあらざれば、その心を知らず。鳥は林を願ふ。鳥にあらざれば其の心を知らず。閑居の気味も又同じ。住まずして誰かさとらむ。

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267.人間不平等起原論 (ルソー)

かつて人間は不平等のほとんど存在せぬ自然状態にあったが、歴史的な進歩という頽落の過程をへてついには「徳なき名誉、知恵なき理性、幸福なき快楽」だけをもつ存在に堕する。それが専制社会における人間の悲惨なのだ、とルソーは論じ、同時代の社会と文化を痛烈に批判した。いまも現代人に根元的な思索を促してやまなぬ書。

「人びとの間における不平等の起原はなんであるか、そしてそれは自然法によって容認されるか」というテーマに対するルソーの論文である。もともと懸賞のために書かれたもので、その時は落選の憂き目にあったらしい。

「社会の発展こそが、不平等を作り出し、固定化したのだ」という彼の論旨は、当時では斬新だったのだろう。ヴォルテールは彼にあてた手紙で「人類に文句をつけた著作」と皮肉っている。慧眼な彼のことだから、おそらくこの論文のすごさはどこかで感じていたのだろうが、とにかくこの論文、はじめはあまり歓迎されなかった。

それがいまでは世界中で翻訳され、製本されているのだから、面白い。ルソーの皮肉はヴォルテールのそれより数枚上である。


▽ルソーの考える「自然状態」
ここで書かれているのは、人間の不平等が生まれる前の状態、すなわち「自然状態」のあり方についての考察が主である。

ルソーの考える「自然状態」とは、非常に平和な状態である。あらゆる悪徳や不平等は存在せず(なぜなら未開人はそうした考え方自体を持たないからである)、自己保存だけを目的に過ごしている。善悪の発想もなく、他者に危害を加えることなど、想像だにしない。

私は心が平和で、身体が健康である自由な存在の惨めさとは、いったいどんな種類のものか説明してもらいたいと思う。
ルソーは、そんな「自然状態」を決して悪いものだと考えていない。そこでは人間は互いに没交渉であるが、それぞれ幸福に暮らしているのである。


▽人間の発展と没落
そこからルソーが描き出していくのは、一般的に言う「歴史の発展」、そして彼の言う「人間の堕落」である。彼は、両者が不可分のものとして考えた。

たとえば、共同生活を始めることで、人々は他者を評価しはじめる。彼らは尊敬されることを学び、そうされないことを「侮辱」だと感じる。

また、社会が高度に発達しはじめると、「より巧みな者」「より強い者」「より美しい者」が得をし始める。だけではなく、次第に彼らはその構図を固定化するようになる。

さらに、鉄の鋳造や貨幣、農耕の技術が発展すると、「些細な不平等」は「大きな結果の不平等」へと変貌する。それは世代を超えて引き継がれ、より強固になっていく。

こうした過程については、ルソーの総括をそのまま引用した方が分かり良いだろう。

これらのさまざまな変革のなかに不平等の進歩をたどってみると、われわれは、法律と所有権との設立がその第一期であり、為政者の職の設定が第二期で、最後の第三期は合法的な権力から専制的権力への変化であったことを見出すであろう。
富者と貧者との状態が第一の時期によって容認され、強者と弱者との状態が第二の時期によって容認され、そして第三の時期によっては主人と奴隷との状態が容認されるのである。


ルソーの基本的な発想は、「人間社会の発展が生み出したものは、強い者に有利なように働く」というものであった。技術も、知識も、貨幣も、権力も、法律も、みんな強い者が恣意的に作り上げ、運用した。それらは、つつましい幸福が続く自然状態では必要ないものだった。

一切のわれわれの自然の傾向を変化させ、悪化させるものが、もっぱら社会の精神であり、また社会が生みだす不平等である。


▽強烈な悲観
自然状態から離れ、人間社会が発展するほど不平等は強固に人々を縛っていく。「社会の発展=人間の堕落」という、逃れ難い呪縛。ルソーが導きだした結論は、あまりに悲惨だ。

その文脈では、「専制政治」すらも、人類史が導き出した一つの答えであった。不平等の固定化を強者が図った結果、永遠に続く支配と服従が保障されてしまったのである。

われわれが文明化されたのは、いずれにしても良かったのですが、そうならないほうが、われわれにとって確かにいっそう良かったでしょう。

しかし、ここで彼が抱いたそのような強烈な悲観は、やがて革命によって覆される。「アンシャン・レジーム」に対して人類が挑戦を突き付けたとき、ルソーは「社会契約論」を執筆し、それを思想的に支える役割を担った。この「人間不平等起原論」が書かれてから7年後のことだ。

おそらく、彼は本稿を書いているうちに、人間と社会に絶望したことだろう。しかし、彼はそれを乗り越えて「社会契約論」を生み出し、革命思想の確立にまでこぎ着けた。ここに、ルソーの偉いところがある。

決して絶望してはならない。絶望したら、絶望のうちより始めよ。
イギリスの政治家、エドマンド・バークの言葉を思い出す。そんな胆力が、ルソーにはあった。だからこそ、彼は偉大な思想家の一人として、今日も多くの人々に記憶されているのではないか。


◆気に入ったフレーズ
第一部
人間悟性は情念に多くのものを負っており、情念もまた、人間悟性に多くのものを負うている。

死とその恐怖についての知識は、人間が動物的な状態から遠ざかるときに最初に獲得したものの一つなのである。

私は心が平和で、身体が健康である自由な存在の惨めさとは、いったいどんな種類のものか説明してもらいたいと思う。

もし自然が人間に理性の支柱として憐みの情を与えなかったとしたら、人間はそのすべての徳性をもってしても、怪物にすぎなかったであろう。

人間を孤立させるものは哲学である。

人々を区別する差異のうちで、いくつかのものは、自然的な差異として通っているが、それらが単に習慣と社会の中で人々が採用するさまざまな生活様式との産物であることは見やすいことである。


第二部
ある土地に囲いをして「これはおれのものだ」と宣言することを思いつき、それをそのまま信ずるほどおめでたい人々を見つけた最初の者が、政治社会(国家)の真の創立者であった。

人々がお互いに評価しあうことをはじめ、尊敬という観念が彼らの精神のなかに形成されるやいなや、だれもが尊敬をうける権利を主張した。

一人の人間が他の人間の援助を必要とするやいなや、またただひとりのために二人分の貯えをもつことが有効であると気づくやいなや、平等は消えうせ、私有が導入され、労働が必要となった。

人類を堕落させたのは、詩人からみれば金と銀とであるが、哲学者からみれば鉄と小麦とである。

腐敗も変質もすることがなく、常に正確にその目的に従って運営されるような政府は、必要もないのに設立されたようなものである。

だれも法網をくぐったりせず、為政者の職を濫用することもないような国は、為政者をも法律をも必要としないだろう。

未開人は自分自身のなかで生きている。社会に生きる人は、常に自分の外にあり、他人の意見の中でしか生きられない。

一切のわれわれの自然の傾向を変化させ、悪化させるものが、もっぱら社会の精神であり、また社会が生みだす不平等である。

私は、人類に文句をつけたあなたの新しい著作を受けとりました。(ヴォルテール)

われわれが文明化されたのは、いずれにしても良かったのですが、そうならないほうが、われわれにとって確かにいっそう良かったでしょう。


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