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本と6ペンス

The writer should seek his reward in the pleasure of his work. ("The Moon and Sixpence" Somerset Maugham)

297. 魔の山 上下 (トーマス・マン)

 社会人になった。こうして自由に文章を綴ることも難しくなるだろう。文体をより凝縮させ、短い文で読者をぐっと引き込む術が求められる。新聞のコラムを見習いながら、研鑽を積んでいきたい。

 本との邂逅とは、とても微妙な問題だといえる。本は読者を非日常の世界へと誘うが、結局のところ読者は現実から脱けられない。読む時期によって本から受ける感銘が変化するのも、そのためであろう。

 さて、社会に果敢に挑もうという僕と、この世界史的大作との出会いは、はたして幸福なものであっただろうか。結論から言うと、そうではなかったかも知れない。

 『魔の山』のストーリーは、山の上にある療養施設で展開されている。患者たちは独特の雰囲気に浸り、時の経過を忘れて日々を楽しんでいる。

 高尚な形而上学、恋愛、そして健康。世俗のことを「下の世界」と呼んで軽蔑する彼らの関心事は、その三つだけ。主人公のハンス・カストルプは健康人として従弟を訪ねるが、なし崩し的に七カ年も逗留する。

 この小説は、主人公のカストルプが個性的な患者たちとの触れ合いを通じて成長していく「教養小説」だと言われる。ところが、僕はそこに違和感を抱いてしまう。

 おそらく彼らの生活が「社会」から隔てられていたからだろう。患者たちの喜怒哀楽には「根無し草」のような空虚さがある。その悩みがどれほど真剣なものであっても、いまいち迫力に欠ける。

 どうやら、僕の心は「社会」に向けて勇んでいるらしい。こういう時に読める本ではなかったかもしれない。いまの僕にとって、この小説を語るにはスタンダール『赤と黒』のこんなフレーズで十分なのである。

 「旅人にとって、山を登りつめ頂上で腰を下ろすことは最上の楽しみである。しかし、いつまでもそうして休んでいろと言われたら、彼は幸福でいられるだろうか?」


◆気に入ったフレーズ
「ここにいる連中は時間なんかなんとも思っていないんだ。まさかと思うだろうけれどね」20

「まったく健康な人間なんて、私はまだお目にかかったことがないのです」41

陶酔というものは、酔うこと自体が目的なので、さめることを欲せず、それを嫌悪する。473

「あなたは月日を浪費なさっていらっしゃって、それがどんなに恐ろしいことか、おわかりにはならないなですか」503

「ぼくたちは、おそらく、人生の厄介息子なのさ、単に、ね」691


下巻

「ぼくたちは実際かなり高度に隠遁して暮していますから、ここの上のぼくたちは、そう言えるでしょう」71

病気はきわめて人間的だ、なぜなら、人間であることは病気であることだから。241

死と病気に寄せるいっさいの関心は、生に寄せる関心の一種の表現にほかならない。300

「身を捨て身を亡ぼすのは、身を守るのよりも道徳的でしょう」440

「情熱とは人生を人生そのもののために生きることなんですもの」520

愛というものはもっとも敬虔な愛でも肉体を離れてはありえないし、どんなに肉欲的な愛であってと、そこには一片の敬虔さがあるからである。534

「生きているのは欲求することで、欲求するのは生きていることでしょう」573

懐疑というものは逆に愛の味わいを増し、愛に情熱の棘を与える。650

「抽象的な、純粋な、観念的な問題はまた同時に絶対的な問題でもあるのです、これこそ本当に真剣な問題なのです」754

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295. 大いなる遺産 上下 (ディケンズ)

貧しい鍛冶屋のジョーに養われて育った少年ピップは、クリスマス・イヴの夜、寂しい墓地で脱獄囚の男と出会う。脅されて足枷を切るヤスリと食物を家から盗んで与えるピップ。その恐ろしい記憶は彼の脳裏からいつまでも消えなかった。ある日彼は、謎の人物から莫大な遺産を相続することになりロンドンに赴く。優しかったジョーの記憶も、いつか過去のものとなっていくが…。


▽人間関係の妙
人生と人生が出会うことの面白さ、不思議さ。ときに悲劇をもたらし、ときに喜劇を生む、人と人との邂逅。小説家は、それらを巧みに組みたてることで物語を編んでいく。

そういう点で、ディケンズ(1812-70)は第一級の作家であると見ていい。彼が50歳に差し掛かろうという頃に書かれた『大いなる遺産』は、実に見事に設計されていた。「世界最高の小説百選」にも選出されている。

上巻で覚えきれないほど敷かれた伏線が、下巻ではことごとく、しかも少なからぬ驚きをともなって回収される。隠された過去や真実が徐々に明るみになっていく筋の面白さに、読者は本を手放せなくなる。

生命を吹き込んでいるかのように瑞々しい人物描写の数々も、この本の魅力のひとつだ。様々な型の人物が登場するが、見事に描き分けられている。もともと新聞記者だったディケンズの、人間一般への深い洞察が感じられる。

こういう本は、ストーリーを楽しんで読むのがいいだろう。教訓を汲み取ろうとして、力む必要はない。物語で登場する人生の諸相が、そのまま読者に多くのことを教えてくれる。


▽富貴と艱難
敢えて解釈すれば、これは主人公のピップが富貴と艱難を繰り返しながら、人生で大切なものを見つけていく物語だと言うことができるかもしれない。

「人間は艱難を共にできるが、富貴は共にできない」という、高杉晋作の言葉がある。逆境にある人は団結して敵を破ろうとするが、困難を乗り越えると私欲に走りはじめ、その結びつきは壊れてしまう。

「金の切れ目が縁の切れ目」という、これと反対の言葉もある。富み栄えていれば、人は自然と集まってくる。ところが逆境に陥ると、彼らはすっと姿を消してしまう。

どちらが正しい、という話ではない。二つの言葉に共通するのは、人生の浮沈こそが、その人にとって大切なものを教えてくれるという捉え方だ。

私たちにとって最も大切なものは、苦しいときも、喜ばしいときも、つねに私たちに寄り添ってくれている。蒸留と濾過をくりかえす実験のように、私たちを囲う環境がどう変わっても、「それ」は掌の中に残ってくれる。

この視点から物語を見ると、どうなるか。

惨めな幼少時代を送ったピップは、何者かから莫大な遺産の相続人に指名される。一躍、紳士としてロンドンに居を構えた彼だが、中盤の「逆転」を迎えてふたたび苦境へと立たされていく…。

転変する彼の周囲をぐるぐる回る、人びとの追従、信頼、嫉妬、誠実…。人間関係の諸相が目まぐるしく巡るなか、輝きを失わなかったもの。それこそが、主人公にとって一番かけがえのないものなのである。


▽ハッピーエンドの余韻
物語を考えるうえで、その幕切れについても言及しておきたい。

けっきょく彼に遺産は相続されず、かつて手放したもののうちに幸福が宿っていたことを知る。物語の終幕、気付けばピップは冒頭とおなじ素寒貧の状態に逆戻りしてしまっている。

ところが、物語の幕切れは不思議と明るい。静かな光がピップを照らし、ハッピーエンドのそれのような情景が浮かび上がる。

夕霧がはれかけていた。そして、はれわたる夕霧とともに、ひろびろと果てしなくひろがる静かな月明かりのうちには、彼女との二どの別離の陰影はすこしも見えなかった。

物質的な観点で言えば、「大いなる遺産」は、ピップになにひとつ恵まなかった。ヒロインとの別離とともに物語が終わるのも、この点で示唆的である。

一方、精神的な観点から見ると、ピップは物語を経てひとつ成長している。「大いなる遺産」こそ持たないが、彼は信頼のおける、大切なものを見出すことができた。

「すべてを手に入れながら、何が本当に大切なのか分からない状態」と、「何も持っていないが、自分にとって大切なものを自覚している状態」。はたして、どちらが「幸福」に値するだろう。

『大いなる遺産』がもたらす、ハッピーエンドの余韻。その裏には、そんな静かな価値判断が潜んでいるようにも思われる。


◆気に入ったフレーズ
「ぼくのことなんか、気にかけなくっていいんだよ、ジョー」
「ところが、わしはおまえのことを気にかけたんだよ、ピップ」102

子供は、小さな不正にしかさらされないかもしれない。だが、子供は小さいものであり、その世界も小さいものである。134

「嘘はどうして生まれたにせよ、やっぱり生まれちゃいけないものなんだ」。151

「おまえがずばぬけた物知りになるには、まずそのまえに平凡な物知りにならなくちゃならん」152

「もしおまえがまっすぐなことをやってえらい人間になれんのなら、曲がったことをやったからって、えらい人間になれるもんじゃけっしてない」153

およそ家庭を恥ずるということは、この上もなくみじめなことである。226

世界中のいっさいの欺瞞家も、自己欺瞞家にくらべたら、もののかずではない。477

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293. 百年の孤独 (ガルシア=マルケス)

蜃気楼の村マコンド。その草創、隆盛、衰退、ついには廃墟と化すまでのめくるめく百年を通じて、村の開拓者一族ブエンディア家の、一人からまた一人へと受け継がれる運命にあった底なしの孤独は、絶望と野望、苦悶と悦楽、現実と幻想、死と生、すなわち人間であることの葛藤をことごとく呑み尽くす…。20世紀が生んだ、物語の豊潤な奇蹟。


大勢の人に囲まれているのに、「孤独である」ということがあるだろうか。情熱に生き、誰かを想って死んでいった人に、「孤独」という形容は相応しいだろうか。

そんなことはない、と多くの人が思うだろう。この本を読むまえの僕も、そう思っていた。

ところが、一つの村を繁栄させ人びとから尊敬を集めた一族の物語が終わったとき、僕はそんな「孤独」があることを知った。それははかり知れないほど重く、どんな孤独よりも絶対的なものだった。


▽『百年の孤独』
著者はコロンビアの小説家、ガルシア=マルケス。1967年に出版されて大ベストセラーになり、ラテンアメリカ文学ブームの引き金を引いた。著者は1982年にノーベル賞を受賞し、本作は「世界傑作文学100選」に名を連ねる。

あらすじにもあるように、架空の村マコンドで盛衰したブエンディア一族が軸の物語だ。筋は七世代目にまでおよび、年数も百年より長い。

歴史の教科書のような文体が続き、叙述もときおり時系列から外れる。読みやすい本ではない。ただ、独特の世界観と、登場人物たちの強烈な個性だけが、匙を投げようとする僕の手を次のページへ、次のページへと誘った。

他の本を読む余裕もなく、四日ほど噛りつくように読みすすめた。いつもフレーズを抜粋してきた携帯のメモ帳も、今回は真っ白。これまで踏み入ったことのない世界観に、僕はただ浸っていたようだ。


▽孤独
外界の文明世界との摩擦を何度となく経験しながら、物語の舞台・マコンドは変容を繰り返す。そんななかで、ブエンディア家は一貫して村を代表する一族であり続けた。

多くの人が村にやって来、また、去った。いくつかの夢がそこで叶い、またいくつかの夢が敗れた。いくつかの愛は実り、それ以外は涙に濡れて死んだ。物語は愛憎や情熱にまみれ、そこで「孤独」は鳴りを潜めているようだった。

400ページにわたる人間ドラマ。世代が受け継ぎ、積み重ねてきた歴史。『百年の孤独』のほとんどの部分は、マコンドの歩みを実像として描き出している。

ところが、「孤独」は、そんな物語の最後に狂暴な顔を覗かせる。繁栄を喪った村から人びとは去り、ブエンディア家の最後の世代は近親相関の禁を破って子孫を絶やしてしまう。この急転直下が、物語の醍醐味だろう。

物語のラストでは、人びとの脈々とした営みがすべて予言されていたということが判明する。それは「実像」に見えたマコンドの歴史を一転、「虚像」化する。

人気のなくなった村で、建造物は自然に侵食されていく。ブエンディアの血筋も、人知れずひっそりと途絶える。マコンドと一族の歴史を記憶し語り継ぐものは一人もいなくなる。

こうして、「孤独」は完成する。何世代にもわたって繋がれてきた大きなストーリーは、最後の数ページで虚像化され、ゼロになる。

滅び去った蜃気楼の町、マコンド。結末を読んだわれわれは、もうその残り香を嗅ぐことさえ許されない。


▽過ぎ去った?何もなかった?
この物語は、結末において「なかったこと」になる。悪戦苦闘しながら読んできたストーリーが、最後にこの世界における重みを自ら消去してしまう。これは奇妙な感覚である。

何、過ぎ去った、と。間抜けな言葉だ。なんで過ぎ去るのだ。過ぎ去ったのと、何もないのとは、全く同じではないか。
ゲーテの『ファウスト』において、悪魔のメフィストフェレスはこう語った。

これは『百年の孤独』にもそのまま当てはまる。ブエンディアの一族は歴史を「過ぎ去った」。ところがそれは誰にも記憶されず、外部に何の影響も及ぼさず、「何もない」のと全く同じであった。

ブエンディア家は「孤独だった」わけではない。彼らの営みを語り継いでくれる人がいなくなったことで、遡及的に「孤独になった」のである。

人間が生きることとは、他者と生きることだと言われる。誰かに見られ、語り継がれることがなければ、その個人がいかに充実した生涯を生きたところで、「生きた」とは認定されない。

過ぎ去ったのと、何もないのとは、全く同じではないか。

悪魔の言葉に、断固として「否」と答えられる人はいないだろう。『百年の孤独』、それは「人間」という悲しい存在にしか綴れない物語である。

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289. 城 (カフカ)

測量士のKは深い雪の中に横たわる村に到着するが、仕事を依頼された城の伯爵家からは何の連絡もない。村での生活が始まると、村長に翻弄されたり、正体不明の助手をつけられたり、はては宿屋の酒場で働く女性と同棲する羽目に陥る。しかし、神秘的な"城"は外来者Kに対して永遠にその門を開こうとしない…。職業が人間の唯一の存在形式となった現代人の疎外された姿を抉り出す。


▽パノプティコン
パノプティコン、という建造物システムを知っているだろうか。刑務所向けに発案したもので、中心に一本の監視塔が立ち、その周囲を牢屋の棟がぐるりと囲っている。

看守は塔から囚人棟を覗いて監視する。そこからはすべての牢屋が見える。一方、囚人たちから中央塔の中は見えない。結果、「見られている」かは分からないが、「見られている」と感じる状態がつづくのである。

この物語の舞台も、そんな状態に近い。

村人たちは常に"城"の目を気にしながら生きている。彼らのうえに暴政が布かれているわけでも、理想的な統治が行われているわけでもない。ただ誰もが"城"を畏れ、それに従おうとしている。

その中でどんな役人がどのように働いているのか、誰にも分らない。分からないからこそ、村人は畏れている。「見られてる」かは分からないからこそ、彼らは「見られている」と感じながら生活している。

彼らは何かと"城"への恭順を示そうとする。「仕事」や「役職」を重視し、中央の意に沿わない者には村八分を食らわせて糾弾する。そういう命令が下されるわけでもなく、すべては村人の間で自発的に行われる。

支配者の意図が見えないのに、被支配者の方が懸命に「支配されようとする」。そんな奇妙な状態に、"異邦人"の主人公Kは馴染めない。読んでいる方も、なんとなく気味が悪いなと感じる。

ところが、やがて読者は悟る。村人とは私たちのことであると。


▽架空の視線と社会秩序
「世間の人たちは、一定の考えにとりつかれてしまうと、どんなに手管を弄したところで、もういつまでもその考えを変えることはできないものです」。

ミシェル・フーコーという学者によれば、パノプティコンにおけるようなメカニズムは私たちの間でも働いているという。

私たちが違法行為を犯さないことは、「見つかったら処罰される」という恐怖心と強く結びついている。私服警官がいるか、監視カメラが作動しているかは分からなくても、私たちはどこかで「見られている」と思いながら行動している。

難しい言い方をすれば、「監視者の視点が個々人に内在化されている」。神や権力者の「視線」を感じながら人びとが暮らすことは、社会秩序の維持にも一役買っている。それはパノプティコンや『城』で起こっていることと、まったく同じだ。


▽未完という終わり方
『城』は、未完の作品であるとされる。カフカは書きながら次第に行き詰り、放棄したらしい。それでもこうして出版されて読み継がれているのだから、尋常なことではない。

ページを繰りつつ、僕は自分なりに『城』のラストを考えていた。上に書いた「パノプティコン」的な考察に基づいたら、どのようなラストが面白いだろうか、と。

たとえば、「城の中には何もなかった」というラストもいいだろう。村人が畏れて従ってきた権力の中枢が、実は真空だった。なかなか皮肉が利いている。

しかし、いろいろ検討するにつれ、この物語に限って「未完」に如くはないように思われてきた。

カフカは『城』を途中で終えることで、村人やKはおろか、読者に対しても永遠に"城"の門を閉ざした。城の不気味さと人間社会の不条理は、それによって最も強烈なかたちで表現されたのかもしれない。


◆気に入ったフレーズ
「あなたは、何者でもいらっしゃらない。でも、お気の毒なことに、あなたは、やはり何者かでいらっしゃる。あなたは、つまり他国者なのです」104

「どこへいらっしゃろうと、当地ではあなたがいちばん事情を知らない人間だということをいつも忘れないで、よく用心してください」118

日常生活とは、職務とは別な日常生活とは、いったいなんであろうか。122

「あなたが考えていらっしゃるのは、ご自身の仕事のことだけだということが、ありありとわかりました」318

「あの子は、クラムと話をします。でも、はたしてほんとうのクラムなのでしょうか」366

お昼にちょっぴり疲れていたら、その日が幸福によどみなく経過しているということなのだ。542

世間の人たちは、一定の考えにとりつかれてしまうと、どんなに手管を弄したところで、もういつまでもその考えを変えることはできないものです。580

あなたは、なにほどかのことを習って身につけていらっしゃるわけね。でも、それでもってなにもすることができなければ、やっぱりまるっきしの無だわ。583

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287. リア王 (シェイクスピア)

老王リアは退位にあたり、三人の娘に領土を分配する決意を固め、三人のうちでもっとも孝心のあついものに最大の恩恵を与えることにした。二人の姉は巧みな甘言で父王を喜ばせるが、末娘コーディ―リアの真実率直な言葉にリアは激怒し、コーディーリアを勘当の身として二人の姉にすべての権力、財産を譲ってしまう。老王リアの悲劇はこのとき始まった。四大悲劇のうちのひとつ。

シェイクスピアによる四大悲劇、『リア王』はその最後の作である。王位を退くリアの悲劇を中心に、女の野心、男の裏切り、そして一部の家臣の忠誠などが渦巻く。まさに「大作」という表現が相応しい。


▽「悲劇」
「悲劇」の定義を調べると、主人公となる人物の行為が破滅的結果に帰着する筋を持つ物語とある。リア王はなぜ破滅的な結末を導いてしまったのか、それがこの作品を読み解くカギになりそうだ。

この物語の場合、その根源は娘たちの孝心を父が試した冒頭に見出すことができる。上の二人の姉は言葉巧みに父への愛を語るが、末娘コーディ―リアにはそれが出来なかった。

コーディ―リア 申し上げる事は何も。
リア 何も無い?
コーディ―リア はい、何も。
リア 無から生ずる物は無だけだぞ、もう一度言ってみろ。
コーディ―リア 不仕合せな生まれつきなのでございましょう、私には心の内を口に出す事が出来ませぬ。


そもそも娘の愛を測るということ自体が無粋というものだが、「言葉では足りない」という末娘の真心もリアは解することが出来なかった。娘の言葉を聞いて、王は前後を失うほどの怒りに駆られてしまう。

彼は怒りに身を任せ、コーディ―リアを勘当する。驚いたのは、一部始終を見ていた二人の姉である。気まぐれになった父の逆鱗に、いつ触れてもおかしくない。彼女たちはリアを陥れる計略を図り、物語は破局に向かいはじめる。


▽怒り
悲劇の要素はたくさんある。決して単純な物語ではない。手許を離れて斜面を転がる雪玉が大きくなっていくように、リア王がつき動かしたストーリーは周囲の野心や権謀によって加速していく。

ただし、重要なのは、悲劇のトリガーを引いたのがリア王の理不尽な「怒り」であったという点だ。王の怒りは彼自身の目を曇らせ、周囲の人々の頭にも靄をかけてしまった。それが物語のひとつの核心であることは、間違いないだろう。

老王の怒りは彼の心身を燃やしつくし、ついには命を奪ってしまう。怒りによってつき動かされ、その感情の死とともに終局を迎えた悲劇は、セネカのこんな言葉を僕に想起させた。

怒りは余りにも急激で狂暴であるから、自分で自分の行く手をふさいでしまう。
(『怒りについて』)


◆気に入ったフレーズ
「私には心の内を口に出すことが出来ませぬ」14

「弓は引絞られた、矢面に立つな」16

「万事、良かれしと務めて、その結果、良い事まで打毀してしまう事がのくあるものだ」57

「立腹には特権が附きものにございます」72

「人間、有るものに頼れば隙が生じる、失えば、かえってそれが強味になるものなのだ」135

「どん底などであるものか、自分から『これがどん底だ』と言っていられる間は」136

「人間、忍耐が肝腎、己れの都合でこの世を去る訳には行かない」179

「人間、外から付けた物を剥がしてしまえば、皆、貴様と同じ哀れな裸の二足獣に過ぎぬ」

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