
このブログを始めてもう2年が経ちました。
今年は131冊読み終えました。
昨年に加えると253冊、このブログで書評を書いたことになりますね。
今年は自分の仕事が終わった年でもあり、逆に新しいことを始める年でもありました。
一月には成人式の幹事をやり、夏にはずっと手伝ってきた母校の野球部とともに夏の大会を闘い終えたりと、正直に言って肩の荷が下りた年でありました。
そんな中でなんとか読書の時間だけは維持してこれだけの冊数を読みこなせたので、まぁ決して怠けていたわけではないんだろうなぁと思います。
九月からはイギリス・ロンドンへ留学に旅立ちました。
ここでは書けないようなことを含めて面白い経験をたくさんしています。
洋書を読んでいないことだけが問題ですね。
ほぼ毎日映画も見てるし、週に一度は新しい人と会ったりしているので英語に触れない日はほとんど無いのですが。
ただ、考えなければいけないのは以下の点でしょう。すなわち、同じ情報量をインプットするなら、日本語のほうが圧倒的に効率が良いということです。
「留学で目指すのはどのレベルか」という話にも繋がりますが、僕は決して今から英語の読解スキルを日本語のそれと並行するまでに高める必要は感じておりません。
日常会話や数時間の雑談で困ったことは今まで一度もない今の英語レベルで、あとは専攻について多少込み入った話題をしゃべることが出来るようになれば十分だと考えております。
これを向上心の欠如と考えるかどうかは読んでいる人次第です。
もちろん最低限は読む必要はあるでしょうから、次のセメスターに向けて政治学の基本的なテキストなどは読み進めようと思います。
留学でことさら勉強しようとは思いません。日本でもう大体のことは自分でやってきました。
僕は、いまのレベルで社会科学を勉強するなら、やはり日本が一番効率が良い場所だと考えています。
留学で求めるのは、漠然とはしていますが、新しい人や物に触れること。
これがきっと10年、20年後に活きてくると信じて、とにかく自分の世界を広げることです。
本を読み、人に会い、知らない場所へ赴く。
これが僕の頭の中で発酵する「素」として蓄積されていくわけです。
留学に来てまで机に向かって部屋に籠るつもりはありません。そういうことは日本でやります。
たとえば夜ふと思い当って、ポケットに£20を突っ込んで適当にパブに向かったり。
そこでたまたま会った人と、雑談をしたり、連絡をとったり、日本語や政治学を教えたり。
「日本でできないこと」というのはこういう類の挑戦です。
基本的にものぐさな性格ですが、なんとか積極的に外出しようと思います(引きこもりの所信表明みたいですが)。
さて、2014年はまた区切りになりそうな年です。
留学は五月の末に終わって、一か月ほどヨーロッパを放浪する予定です。
まだ具体的な予定はたててません。出来るだけたくさん回りたいなぁと思っています。
帰ってきたら就活です。
普通の学生と同じように春の就活が出来ないので不利な立場だと思いますが、まぁどこであろうと決まった就職先で頑張って働くだけでしょう。
就活ははっきり言えば期待しないほうが良いかなと思っています。
留学することにした根拠は薄弱ですし、大学生活でやってきたことと言えば二年ほど野球部の面倒を見たこととこのブログくらい。留学で日本語の作文技術が鈍っているようにも思われます。
僕は中長期での取り組みなら自信はありますが、一発勝負は自信がありません。
まぁ就活する前にこんな弱気でも仕方がないんですけどね。
たまに僕のことを評価してくださる人もいますが、一目見てそう判断してくれる人がどれほどいるか、という話です。だから原則的に、期待しません。
さて、院にでも行かない限り、僕の学生生活は一度幕を閉じるわけです。
色々と苦しみながら勉強したことが多かったですが、大学に入ってからは勉強が楽しくて仕方がなかった。
最後の最後で自分の思い通りに、自発的に学ぶことの方法や楽しさを発見することができました。僕は学生生活を通じて今後60年に活きつづけるような、大きな収穫を得ることができたというべきでしょう。本当にありがたいことだと思います。
どこで働くことになろうと、好きな本を読めて、図書館でメモをとりながら難しい本を読んだりすることができるなら、僕の人生は幸福だと言えそうです。
少しわがままを言うなら、その結果を仕事の場で活かすことができたらなぁ、という程度です。
自分の英語にも自信を持つことができたので、しようと思えば世界中を旅することもできます。
今こうして振り返ってみると、僕はすでに人生を豊かにする資本をたくさん掌中に収めているように思えてきます。
確かに人生の中の2014年というのは多少大きな年になるでしょう。
でも、それがどう転んでも、楽しく生きるだけの手腕を持っているはずなので特に怖がる必要もなさそうですね。
一年最後の更新としてはきわめて焦点のぼやけた記事になりました。
しかし、「文章とはそのまま意識の流れである」という言葉もあります。
特に推敲をすることも見直しもすることなく、このまま投稿します。
みなさん今年もどうぞよろしくお願いいたします。
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大学のレポートで提出したものです。
まぁプラトンの「国家」を読んで考えたことを2500字程度にまとめたものなんで、そんな大層なものではないんですが。
テスト対策に追われながら片手間で書いたものですが、後で読むとなかなか面白いこと言ってたなぁと思ったので、一応保存という感じで。
もう評価を貰ったわけですし、「このページからのパクリじゃないか!」とか言われても、別にこれは僕のブログなんで…きちんと説明すれば問題はないでしょう。
・プラトンの国家論と政治論
プラトンの「国家(上・下)」には、後年の政治哲学で議論されるような内容のエッセンスが非常に多く見られた。読んでみて「現代論じられているような哲学上の話題はほとんど古代ギリシアで出尽くしてしまっている」という主張も頷けると感じた。そこには、後年のジェンダーや政治体制、教育などに関する議論の原型ともみられる話が展開されていた。
そんな「国家」を題材として、今回はそこに書かれた「正義」の考え方から、現代の社会制度について考察したい。
正義と不正について、プラトンは「国家」の上巻でその議論を以下のように展開していた。物や人にはそれぞれが得意とする「徳」が備わっている。その「徳」にしたがってそれぞれが「自己本来の仕事に就いている」状態こそが、正義の実現した状態であると。そして、不正とはその反対に、「自己本来の分を超えて、他の領域に対して余計な口出しや手出しをすること」だと述べられていた。
最近、これと同じような議論を本で読んだことがあった。政治哲学の講義で話題のマイケル・サンデルによる「これからの正義の話をしよう」に、プラトンの弟子であるアリストテレスの政治哲学を紹介する箇所があったのである。サンデルはこれを「笛を配るにあたって探すべきなのは最も裕福な人や最も美しい人ではないし、全人格において最善の人ですらなく、笛を最もうまく吹く人だということだ」と表現している。その根本は、プラトンのいう「正義」とほとんど同じである。ふさわしい財や人を、社会のふさわしい箇所に配分し、その「徳」を発揮させる。それが、正義にまつわる議論が展開されて以来の政治と社会の最大の命題であった。
では、ここから自分の専門分野である政治や社会に関する議論を通じて、考察を深めていきたい。現代社会でモノや人を動かしているのは、大きく言えば二つのステージである。一つのステージは市場であり、そこでは効率性という論理でモノや人が動いている。もう一つのステージは政治であり、そこでは公平性という論理でモノや人が動いている。もちろん綺麗に二分されるわけではないが、理念的にはこのように類型化されている。そして、それぞれは互いに協調しながら、正義を実現しようとしていると考えられる。
具体的に見ていきたい。市場は突き詰めて考えると経済的効率性に基づいて、「能力のある者が勝つ」というシステムで動いている。能力があれば、お金がたくさん集まる。お金がたくさん集まれば、財をたくさん買うことができる。市場はそのようにして、最も優秀な人物に最も多くの財が集まるように動いていくとされている。たとえば、木工が得意な人は自分の製品でお金を儲ける。お金が儲かったら、木工が得意でない人から材木を買い集める。こうして木工が得意な人はたくさんの製品を作り、より金持ちになる。同時に、社会は今まで持っていた材木を、木工が得意な人によって最大限活用してもらったことになる。これが、「パイの最大化」とよく言われる、経済効率である。木工が下手な人には市場での需要は集まらず、木工が得意な人によってのみ材木が次々と加工されていく、というのである。
これはプラトンのいう正義の状態ではないか。木工が得意な人に材木が集まる社会は、その人が持つ「徳」を発揮させる社会であると考えることができる。優秀な人にどんどん仕事が舞い込んでいく市場経済のステージは、まさに適材適所の、正義に適った場であると考えることができよう。
では、なぜ政治は生活保障や累進課税制度などを通じて社会を公平化しようとするのだろうか。格差の是正をうたって金持ちから税金を集め、貧困層にそれを再配分するのは市場の原理とは正反対の行為であるように見える。極端に言えば、市場で勝ち残った優秀な人間から、敗れ去った無能な人間に財が移譲されるのである。これは正義に適わない行為なのではないかという疑問は、当然出てくるだろう。
政治のこうした営みは、経済学では「パイの分配」と言われる。市場の論理は社会の効率を最大化できても、格差の問題を解決することができない。政治学の教科書の言葉を借りれば、「ジャガーを乗りこなす人がいる一方で、自転車にも乗れない人がいるという状態に、経済学は答えを与えてくれない」という。格差是正を図る政治の営みを、プラトンの「国家」における正義論で正当化することはできないだろうか。
歴史的に、政治が財の再配分を手掛け始めたのは、資本主義社会が本格化して格差による社会問題が浮上し始めてからであった。資本家階級によって不当に搾取される労働者階級という構図が半ば固定化され、親が貧しければ子も一生工場で働かなくてはならないという半封建制のような社会が出現したのである。こうした問題によって発芽したのが社会主義の思想であり、それは部分的に「財の再配分」という形で資本主義国家にも応用されていった。
ここで、市場経済の原理が社会を支配していた時代を見ると、そこにプラトンの言う「不正」が生じていることがわかる。労働者階級がただ搾取の対象である時、彼らは自己の性向に関係なく単純労働に従事させられた。人によっては基礎教育すら修める前に働かされ、自分が何に向いているかなどを考える暇すらなく労働の現場で酷使されていた。この現状は「不正」に他ならない。すなわち、資本家階級は労働者の潜在的な能力や性向を無視して自分の意のままの労働に従事させることで、労働者の持つ分を侵していることになると考えられる。以上の論理から見れば、政府による過度の格差を是正する措置は「不正をただすため」に必要であることがわかる。
以上のことから、プラトンの正義観を軸に考えると市場は「正義」を積極的に実現するのに適したシステムであり、再配分を行う政府は「不正」を正すことで、「正義」を消極的にではあるが実現するシステムであると考えることができる。

こんばんは。
えー、現地時間で22時です。
僕はいま、ロンドンにいます。
来年の10月まで、ここの大学で勉強します。
今日寮についたのですが、個室で、なかなか快適で、勉強するにも遊ぶにも適した、素晴らしい環境です。ネットの環境も整っており、日本と同じように利用することが出来ます。
パリを経由してロンドンに到着したんですが、いや~、飛行機の中がきつかった…
ちなみにさっき更新した「秘伝の声」は、その移動時間で読み終えた本です。
本は日本から10冊前後持ってますが、せっかくの留学なので洋書を読み漁れたらな、と思っています。
洋書も読み終えたらこのブログで更新することにしましょう。
読み終えたら、ですけど。
まぁそんな感じですね。
ロンドン生活も満喫する一方で、やることはしっかりやりたいので、もしこのブログに目をかけてくださる人がいるようでしたら(多分いないけど)、今後ともよろしくお願いします。
まずはロンドンで本屋を見つけないと…
まぁ初日なんで、まだそんなレベルですよ。
今日は昼過ぎに寮に到着して、ひたすら町を歩き回りました。日用品店とかスーパーとか三食食べれそうなカフェとかあったので、ひとまず「生存圏」は確保できたのかな、と。
やっぱりまず死なない、飢えないことが第一ですからね。そこをクリアしたのは大きいと思います。
命の安全を担保できた以上、あとはいかに華々しく留学生活を送るか、が問題になります。
いや、華々しければ良いというわけでもないんですけど、適度に華のある生活は送りたい。送らないとせっかくロンドンに来たのに、大した成長も望めないわけです。体当たりでいろいろやってみる根性は、結局求められますね。
現在は、みなさんご存じのとおりパソコンの前に座ってこんなチンケなブログを更新しているわけですから、華がないなんてものじゃない。月見草にすらなれていません。苔です。苔。
こんな生活をしていたら、一人でご飯を食べる癖とか、独り言する癖とか、そういう要らないスキルばかり日本に持ち帰ることになってしまう。
いやまぁ生きてかえれりゃ最低限いいんですが、まぁねぇ…
そんな感じなんで、友人とかできたらロンドンの市街を回ったりしたいですね。明日とりあえず一人で回りますけど。
以上です。
また今度お会いしましょう。

ひさしぶりのですます調です。
こんにちは。
諸事情により更新が1/5になってしまいました。ブログを始めて一年がたちましたので、その振り返りを行います。
先ほど数えたのですが、去年一年で読んだ本は122冊。三日に一冊のペースですから、まぁまぁという感じでしょうか。もっと読む人ももちろんいるでしょうが、自分にとってはよく読んだ方だなと思います。
もちろん、本は読むスピードがすべてではありません。速く読んでも読みが浅ければその時間はまるまる無駄です。しかし、この一年間は(おそらく今年も)ある程度読む速度を意識して本をこなしていました。理由は以下の二つです。
①ダラダラと読み続けるのを防ぐ・短期間で集中した方が頭に入る
昨年のマックス・ウェーバーの「職業としての学問」などでは、読書の時間がとれず確か1週間ほどかかって読み終えたような気がします。まぁその結果友人から痛烈な批判を受けたわけですが、やはり読書には集中力が欠かせません。本のページ数や難易度にもよりますが、基本的に400ページくらいまでの文庫本だったら、2,3日で読み終える程度の集中力で読むのが最も頭に入るということが感覚的に分かりました。
もちろんじっくりゆっくり読むことを否定するわけではありません。ただ、僕の場合は「木を見て森を見ず」な結果に陥らないためにも、最低限のスピードを意識して読書をこなさざるを得なかったわけです。
②多少乱読気味でも良いから経験値を稼ぐ
優れた読解力を持つにはどうするか。他の試みでも同じことですが、自分のスキルを磨くためには二つのみちがあります。
まず一つは、良い経験を丁寧にする。
数学でいえば、「良問」を繰り返し100点を目指して取り組むことに近いです。野球でいえば、大舞台でヒットを打つことで大きな自信や経験を得ることなどにも相当します。
二つめは数をこなすことです。
数学でいえば、とにかく問題を解き漁る。野球でいえば、素振りを何百、何千本も繰り返すことです。
今年の読書では、とにかく後者を重視しました。
理由は、まず選ぶ本にそこまで難易度の高いものがなかったこと、そして読解が正しいかどうかの判定よりも、時間がどれくらいかかったかのほうが結果が目に見えて分かりやすいことです。
小説では、読んでからすこし自分で考えて、それから解説を読み、解説をもとにして自分の解釈を再構築するという作業を行いました。もちろん納得のいかない解説もいくつかありましたが、それでも色々な考え方を知るためには、あえて自分の思考を解説の視点から点検するのは大切だと思います。
乱読、というのは中身を一切捉えないことではありません。100%の読解を目指す必要はなくて、それをできるようになるために今は60%の読解で数をこなしている段階である、という意味です。
今年の読書はそんな感じでした。
ちなみに面白かった本を挙げると
・峠 (司馬遼太郎)
・テロルの決算 (沢木耕太郎)
・海と毒薬 (遠藤周作)
・地下室の手記 (ドストエフスキー)
・職業としての政治 (マックス・ウェーバー)
・成熟社会の経済学 (小野善康)
・燃えよ剣 (司馬遼太郎)
このへんでしょうか。
ちなみに今読んでいる新書がめちゃくちゃ面白いです。まぁ近いうちに紹介します。
さて、来年は今年以上に忙しくなる予定です。目標は6月までに75冊、ですね。3日に1冊を少し超えるペースです。
大学三年にもなるので、そろそろ新書小説に加えて古典専門書にも手を広げていきたいと思います。
最後になりましたが、2013年も当ブログをよろしくお願いいたします。


こんにちは。
今回は夏目漱石の夢十夜・草枕の二作が入った本を読み終えました。
やはり昔の作品でも、読んでみると面白いですね。
描写が非常に豊かで、語注を見ながら読むだけで勉強にもなります。
語彙が増えるということはそれだけ世界を表現する手段が多くなるということですし、もっと言えば理性で認識できる世界が広がるわけですから、文豪と呼ばれた人の本を読むだけで、自己を啓蒙できるかと思います。
さて、では二つの作品を読んでの感想をつらつら述べていきたいと思います。
まずは、夢十夜。
これは僕の知り合いでも好きな人が多かったです。
基本的には「こんな夢を見た。」から始まる短いシーンが10つづられています。
シーンとシーンは特に脈絡があるわけではありません。
解説には
「詩情豊かな想像の世界」
「小説における映像主義」
などという言葉が躍っているのですが、まさにそうした感じです。
漱石の美しい空想世界に触れ、それと同時に短いシーンに込められた発想の奥行きに思いを馳せる。
思索を巡らさせるという点では、非常に読者が主体的になれる作品かなと思いました。
僕は本を読むにはある程度のスピードの意識は必要だと思っています。一週間もかけて一冊を読むのは、結局「木を見て森を見ず」の結果に陥りがちです。ひどいときには木もまともに見られません。ある程度の高い集中力を持って本を読む、その証左、バロメーターとして本を読むスピードというものがあると思います。
しかし、この夢十夜はそうではないです。
4ページ前後で一つのシーンが終わる構成です。この作品に限っては、話の流れや自分の理解を気にすることなく、思う存分作品に浸るといいと思います。
百年待つ話(第一夜)は個人的に好きですね。きれいだなぁと活字を通して感じさせられました。あと、運慶の話も「明治の木にはとうてい仁王は埋まっていない」のあたりが、しゃれっ気があって気に入りました。
さて、続いては草枕。
こちらは温泉場に旅をする画家の話ですが、漱石の芸術的観念(あるいは文学に対する意識)が存分に語られていて、ストーリーだけでなく非常に興味深い作品でした。
非人情に美しさを求め、そして絵には表さなくとも心意気だけは芸術に対する悟りを得るような画家の姿を通じて、漱石の考える美しさとは何かというその輪郭を掴めた気がします。
汽車での別れの時、那美さんの顔に憐れが宿ったところで物語が終わるのが、やはり上手だなぁと感じました。
ちょっと好きな部分を抜き出して終わりにしようと思います。
冒頭の部分は有名ですよね。
山路を登りながら、こう考えた。
智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。
住みにくさが高じると、安い所へ引き越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟った時、詩が生れて、画ができる。
二行目を知ってる人は多いと思うのですが、個人的にはそんな中での三行目こそが、芸術とはどういうものかを論じる起点となっていて、重要だと思います。
続いて、憐れの論です。
しかし人間を離れないで人間以上の永久という感じを出すのは容易なことではない。(中略)色々に考えた末、しまいにようやくこれだと気が付いた。多くある情緒のうちで、憐れという字のあるのを忘れていた。憐れは神の知らぬ情で、しかも神にもっとも近き人間の情である。
また、もう一つ、「そうか」と思ったところがあります。
芸術としての文学の論です。
芥川龍之介が「筋のない小説」の意義を晩年に強調したと前回言いました。
wikipediaからの引用ですが、
「物語の面白さ」を主張する谷崎に対して、「物語の面白さ」が小説の質を決めないと反論し、戦後の物語批判的な文壇のメインストリームを予想する文学史上有名な論争を繰り広げる。この中で芥川は、「話らしい話の無い」純粋な小説の名手として志賀直哉を称揚した。
だそうです。
そもそも芥川は漱石の門人の一人であり、漱石自身も夢十夜などで映像主義的な美しさを追求する作品を残しています。
草枕には、その根底となるような箇所がありました。
「勉強じゃありません。ただ机の上へ、こう開けて、開いた所をいい加減に読んでるんです」
「それで面白いんですか」
「それで面白いんです」
(中略)
「画工だから、小説なんか初めからしまいまで読む必要はないんです。けれども、どこを読んでも面白いのです。あなたと話をするのも面白い。(中略)なんならあなたに惚れ込んでもいい。そうなるとなお面白い。しかしいくら惚れてもあなたと夫婦になる必要はないんです。惚れて夫婦になる必要があるうちは、小説を初めからしまいまで読む必要があるんです」
「すると不人情な惚れ方をするのが画工なんですか」
「不人情じゃありません。非人情な惚れ方をするんです。小説も非人情で読むから、筋なんかどうでもいいんです。こうして御籤を引くように、ぱっと開けて、開いたところを、漫然と読んでるのが面白いんです」
まぁここで読んでも何が何だか、という感じだと思いますが、非人情については作中でなんども言及されて、すこしずつ輪郭が見えてくるようになると思います。
文学史上の論争の一端に触れられた、そういう点でも、非常に面白い読書ができたなというのが今回の感想です。
